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海ノ口城合戦
map-海ノ口城- 天文5年(1536年)11月21日、武田信虎(42)は信濃国佐久郡に出陣した。 信濃国佐久郡は村上義清(32)の勢力下に置かれていた。 武田信虎のねらいは海尻城。 海尻(長野県南佐久郡南牧村海尻)は、これまでも武田氏と村上氏の間で何度も合戦の場となっていた。

躑躅ヶ崎館を発した武田信虎(42)は、一條小山城、飯田城、塩崎を通り韮崎城へ入った。 武田信虎(42)をはじめ、武田軍には、初陣となる三男武田晴信(15)のほか、軍師加藤虎景(44)、陣場奉行原昌俊(48)、板垣信方(47)、板垣信憲(25)、内藤虎資(41)、青沼昌世(36)、飯田虎春(46)、飯田有信(26)らが従軍。 さらに逸見路を進み、韮崎城、駒井城、若神子城、箕輪城、旭山城と駐屯し、兵を整え八ヶ岳へ進軍した。 武川衆の面面、自元寺城からは教来石信保(41)、教来石信房(21)、教来石信頼(19)、 中山城からは小沢昌光(28)、 星山城からは青木信種(56)、青木信立(36)、山寺信明(31)、青木満懸(29)、青木信定(51)、柳沢貞興(51)、柳沢信房(31)、柳沢信景(29)、落合昌貞(21)、青木昌基(19)、曲淵吉景(19)らも合流し、 諏訪氏への抑え信濃国の先達城からは佐久郡に詳しい上原虎満(42)、上原昌辰(22)、上原昌成(21)、上原昌貞(19)、上原盛昌(16)ら上原一族をはじめ、 日向昌時(45)、日向虎忠(25)、日向秀泰(21)、日向虎顕(16)、広瀬景昌(18)、鯰江頼母(57)らも馳せ参じた。 ほかにも甘利山城からは甘利虎泰(38)、甘利信益(18)、曽雌虎忠(31)、白山城からは工藤虎豊(41)、工藤祐元(21)、工藤昌英(19)、工藤祐久(39)、長坂城からは長坂虎房(23)、 獅子吼城からは今井信甫(51)、今井信良(25)、今井虎甫(47)、今井虎意(39)、今井貞恵(36)、今井信昌(33)、矢戸虎守(29)らが合流。 津金衆の面面も、中尾城からは江草信恒(30)、源太ヶ城からは津金胤時(25)らも加わった。 平沢峠をへて、甲斐国清里から信濃国野辺山へと佐久往還(甲州往還)路を北上し、信濃国佐久郡へ入ったときには8,000の兵を率いていた。

一方、武田軍来襲の急報を受けて、村上勢は海尻城の城代をつとめる重臣出浦国則(56)の号令で戦に備えた。 海尻城には城代出浦国則(56)のほか、出浦国則(56)の長男出浦清種(34)、井上清忠(39)らが在城していた。 海尻城に在城していた井上清忠(39)は海尻城の支城(出城)である海ノ口城へ急行し、入城して軍備を整えた。
出浦氏も井上氏も、村上氏とは同族で、出浦氏は信濃国埴科郡上平出浦(長野県埴科郡坂城町上平)を、井上氏は信濃国高井郡井上(長野県須坂市井上)をそれぞれ本領としていた。 井上清忠(39)の長男井上清政(19)は本拠の井上城に在城していたが、 一族の井上清之(32)、井上正継(22)らも井上清忠(39)とともに海尻城にあって、海ノ口城へ従軍した。
佐久郡では雁峰城から滋野氏の一族小田切幸長(26)、湯原城からは同じく滋野氏の一族依田長繁(16)、田口城からは田口長慶(56)、田口長能(36)、 平賀城から平賀源心斎(大井成頼)(47)、平賀政勝(27)、平賀元徳(23)、平賀元貞(22)、平賀元成(20)、 八反田城から上原種正(36)、上原種吉(16)、深堀城からは上原吉勝(56)、 岩村田城から大井貞隆(22)、大井政継(25)、和名宗安(21)、内山城から大井貞清(16)らが援軍として参陣。 総勢6,800の兵が海尻城に入城した。
佐久郡北部の諸将は同じく佐久郡北部の伴野氏に備え、海ノ口城へは出陣せずに城の守備についていた。 伴野氏は武田氏と結んでいたため、北と南から挟み撃ちされる可能性もあったからだ。 佐久衆の求めもあって、村上義清(32)は援軍として、小諸城から布下雅朝(31)、楽巌寺城から楽巌寺雅方(44)、 埴科郡からも重臣楽巌寺満氏(室賀光氏)(32)らを急遽、援軍として出陣させていた。

11月23日には武田信虎(42)率いる8,000の軍勢が海ノ口に陣をしいた。 いよいよ武田軍による海尻城攻めが開始された。 総大将武田信虎(42)、軍師加藤虎景(44)、陣場奉行原昌俊(48)は本陣に残り、 海尻城攻城の先陣をつとめたのは地の利に明るい上原虎満(42)。二陣は板垣信方(47)、三陣は甘利虎泰(38)がつとめ、5,000の兵が海尻城へ進軍した。 本陣の備え以外の2,500余の兵を率いて海ノ口城へ向かったのは長坂虎房(23)であった。 武田晴信(15)の乳母が長坂虎房(23)の母であることから、長坂虎房(23)は武田晴信(15)の乳兄であり、 一門衆に名を連ね、海ノ口城攻めの一軍の将として大抜擢となった。長坂隊には剛将日向昌時(45)や日向虎忠(25)、また智将工藤虎豊(41)ら脇をかため、 万全の体制での攻城となった。
「こんな小城なぞ、踏みつぶしてしまえっ!!」
総大将武田信虎(42)の鼓舞に武田軍は「おお―っ!!」と力が入った。「いざ出陣じゃっ!!」「皆のものっ!!遅れをとるな―っ!!進め―っ!!」と、 上原虎満(42)や板垣信方(47)ら将の合図で先発隊が出撃。「われにつづけ―っ!!」と長坂虎房(23)隊も進撃した。

しかし、11月も暮れ頃になってくると寒さは半端なのもではない。 海ノ口城は小城であるため多くの兵は籠ることができない。籠るは井上清忠(39)と援軍で馳せ参じた平賀源心斎(大井成頼)(47)ら500余人の兵であったが、後方の海尻城に詰めていた6,000以上の兵が打って出たために、武田軍の攻城は難航をきわめた。 さらに大吹雪で武田軍はますます攻めにくくなった。 なかでも、剛将平賀源心斎(大井成頼)(47)が海ノ口城に入城してからは全く武田軍の攻撃が歯が立たない状態になっていた。
「われと思わん者はかかってくるがよいっ!!」
平賀源心斎(47)の挑発に、「うぬ…。誰もあのクソ坊主を討ちとれんのかっ!!」と武田信虎(42)は地団駄を踏んで悔しがった。

智将上原虎満率いる5,000の兵は海尻城を包囲し、板垣信方(47)や甘利虎泰(38)ら歴戦の勇将が善戦していたが、 村上勢の出浦清種(34)や楽巌寺満氏(室賀光氏)(32)ら5,000の兵にしだいに圧され、 海ノ口の本陣に後退を余儀なくされた。 また、数で圧倒的に勝っている長坂虎房(23)隊も剛将平賀源心斎(大井成頼)(47)に迎撃され、海ノ口城を攻めあぐねていた。
武田軍が攻城しはじめてから一向に落城の気配はなく34日が経過し、年の暮れも迫ってきていて、年末年始を陣所ですごさなければならないかもしれない武田軍の士気は完全に落ちてしまっていた。
8,000人余いた兵もすでに7,000人を下回るほどまで減ってきており、このまま強行しても到底落城することはできないと判断した軍師加藤虎景(44)は、 部将たちとも相談し、ひとまず甲斐国へ帰り、来春また攻めるべきだと武田信虎(42)に引きあげをすすめた。 すぐに引きあげたとしても年末年始を家族とすごせるかどうかはギリギリなところだった。
「殿、この雪のなかでは残念ながら勝ち目はありません。いたずらに兵の士気を損じるだけです。」と軍師の加藤虎景(44)が進言すると、 武田信虎(42)は無念そうな表情で苦渋の決断をした。「くぅ…。致し方ない。明日引きあげることにいたそう。」
と、そのときだった。嫡男武田晴信(15)が出てきて、殿(しんがり)を所望した。
「な…何だとっ!?」

武田信虎(42)は笑いながら応えた。「不名誉なことを申すな。敵が追撃してこないと予想し申しておるのであろうが、それでも殿は大役なのだ。 もし敵が追撃をしかけてきたときに防ぎそこなえば、たちまち全軍が総崩れになってしまう。まだ経験の浅いその方ごときにつとまる役ではない。殿とは戦い慣れた部将でなければならん。 それにその方は惣領であるぞ。たとえ申しつけられたとしても断るべきではないかっ!!」
しかし武田晴信(15)は引き下がらなかった。「それはそうでございましょうが、なにとぞ、殿軍をつとめさせてくださいませっ!!」

12月27日、武田信虎(42)は城の包囲をとき軍を返した。この吹雪では敵も追ってはこないだろうと、武田晴信(15)の懇願を仕方なく許し、 武田晴信(15)に殿軍として300余の兵を預けた。武田晴信(15)は手勢300余の兵を率いて甲信国境で待機し防備をかためた。敵が追撃してこようがこまいが殿のつとめでもあったからだ。
武田晴信(15)は1人あたり3人前の食事を配り、刀のはばきや足袋、具足などをそのままつけさせたままにさせた。また馬から鞍をおろさずに飼い葉をかわせていた。

「明日は暗いうちに出立する。寒いゆえ酒を飲んでおけ。ただし酔わない程度にするがよい。」 と、武田晴信(15)は自身で兵たちにふれまわった。3食をたらふく食べて酒を飲んだ300人は、焼いた石を懐に抱いて夜を明かし、まだ暗い早朝4時には出立した。

一方、海尻城や海ノ口城では、「ふははっ!!信虎めが引きあげていくわっ!!武田は総退却じゃっ!!勝鬨をあげぃっ!!」と 出浦国則(56)は高笑いし、 「えいっ!!えいっ!!おぉぉ―っ!!」と兵たちは一様に喜び鬨の声をあげた。そして海ノ口城の500の兵も、海尻城の6,000余の兵も、武田軍を追撃することなく、早早に陣をといて退却をはじめた。 この吹雪で攻城を維持することができずに武田軍が総退却したことは、村上方にとってみればは最も望んでいたことであり、 そのために必死に籠城し耐えていたのだ。 村上氏にとっては武田軍が引いてさえくれればそれでよかった。 というのも、武田軍が退却した理由の1つ、年の暮れが迫っていることは村上軍にとっても同じことだったからだ。
当時、戦っていた兵たちの多くは、戦うことが本業ではなく、農村で暮らし耕作を本業とする者ばかり。 戦が起これば、領主が百姓たちを動員して戦う百姓即兵が当たり前の時代だった。 そんな事情もあって、信濃国北部から援軍として馳せ参じていた村上氏の将たちは大急ぎで郷へ帰らなければならなかったわけだ。
武田軍が引きあげた12月27日のうちに、井上清忠(39)は海尻城へ退き、 守将として平賀源心斎(大井成頼)(47)を海ノ口城に配置し、800余人を海尻城と海ノ口城に残しただけで、 それ以外は皆村へ帰っていった。平賀源心斎(大井成頼)(47)も本拠の平賀城へ翌12月28日に帰る予定だった。 海ノ口城は警戒もほとんど行っておらず、勝利に酔いしれ宴会を催し、ぐっすりと寝込んでしまっていた。

城兵がまだぐっすりと寝静まっている早朝に、「いまだっ!!突撃―っ!!」という声がかすかに聞こえたかと思った瞬間、平賀源心斎(大井成頼)(47)は飛び起き、酔いは一気にさめた。 「まさかっ!?」という嫌な予感は的中。 「敵襲―っ!!敵襲―っ!!」「た…た…武田軍が―っ!!」「ぐわ―っ!!」と城内は一気に混乱に陥ってしまっていた。
甲信国境を早朝4時に出立した武田晴信(15)の軍勢は、甲斐国へ向かわず、海ノ口城へ引き返してきていたのだった。 「正月の準備をするために、ほとんどの兵が村に帰ったはずだ。城中は留守居の兵しか残っておるまい。」という武田晴信(15)の確信もずばり的中し、 警備の全くなされていない城を急襲。脇門から入った300余人の武田軍は、大手門を強引に開けると、どっと攻め込んだ。 海ノ口城には200余人残っていたのだが、あっというまに50…60…70人と討ちとられ、一気に本城は武田軍に占拠されてしまった。 武田信虎(42)の8,000の軍勢が引き返してきたと思った村上軍の戦意は全くなく、女や子どもを連れて急いで逃げまどった。 武田晴信(15)は兵を分けて城の外の民家にも放火させ、さらにあちこちに散らばっていた兵を20…30人と討ちとっていった。
敗色濃厚な村上軍のなかで、唯一武田軍を迎撃していたのが剛勇平賀源心斎(大井成頼)(47)であった。 度重なる合戦で敵からは鬼神と恐れられ、その力は70人力とまで評判された実力は本物だった。 平賀源心斎(大井成頼)(47)が振りかざす130cmの大刀が、次次と武田軍の兵をなぎ倒していった。

「こ、この雪のなか、夜討ちをかけてくるとはっ…!!」と、戦況に呆れながらも、最後の力を振り絞る平賀源心斎(47)たった1人に、次第に武田軍が圧されていた。 そこへ、「平賀殿とお見受けいたすっ!!われは教来石信房と申すっ!!」「わしは小幡盛景と申すなりっ!!」と2人の若武者が躍りでた。 「こざかしいわっ!!弱卒どもめが―っ!!」と平賀源心斎(47)も応戦したが、 教来石信房(21)は一歩も引かず力戦。平賀源心斎(47)の脇腹に小幡盛景(23)の刀が突き刺さり、 教来石信房(21)の刀が平賀源心斎(47)の首をとらえた。奮戦むなしく、平賀源心斎(47)は息絶えた。

「か…勝ったぞっ!!鬨の声をあげろ―っ!!」
武田晴信(15)の初陣はたいへんな手柄となったが、殿軍による城攻めであったため城を維持することはできず、 武田晴信(15)は平賀源心斎(47)の首をもって甲斐国へ帰った。 そこで「首級を届けるだけなら使者を使わせれば充分ではないか。城を陥としながらみすみす城を捨てて帰ってくるとはよくよく臆病者よ。」と武田信虎(42)に罵られてしまった。



海ノ口城
海ノ口城〒384-1302 長野県南佐久郡南牧村海ノ口

jyoukaku-海ノ口城- 海野口城、海の口城、鳥井城(烏井城)ともいう。読み方は現在は「うみのくち」というが、「うんのくち」が正しい。 海尻城の支城(出城)であり、海尻城の見張り台の役割を担った。種子島の鉄砲が掘り出されたこともあり、城砦があったことは間違いない。 背後の岩場(屏風岩)を利用した大堀切(空堀)は斜度も深さもあり、水の手が南方の谷間にある。 230u(70坪)ほどの本丸をもつ要害堅固の城として名高いが、小規模な砦という表現が適切といえよう。
標高1,346mという鉄道の駅としては全国一高い野辺山から北へ3つ目の駅、佐久海ノ口駅で降りて約1kmのところに海ノ口城跡がある。標高1,357(1,250)m、比高250(210)m、広さ300m×50mの城山。 天文年間(1532〜1555年)には武田晴信の信濃侵攻における中継拠点として使用された。 海野口城ともいうように、信濃国小県郡海野への入口を示す城ということが分かる。 山梨県から国道141号線を北上し長野県に入ると、佐久海ノ口駅から100mほど北上したところに案内板があり、標識の案内に従って20〜30分ほど登ると鳥井峠に出る。 この鳥井峠からすぐに海ノ口城へ登ることができる。鳥井峠上にあるために鳥井城ともいわれる。 別道としては大芝峠からも尾根伝いで入ることができるはずだが、現在は道なき道となっており侵入は困難となっている。

仁治2年(1241年)3月、幕府の公式記録『吾妻鏡』によれば、海野幸氏は甲斐国守護であった武田信光と、上野国三原荘(群馬県吾妻郡嬬恋村三原)と信濃国長倉保(軽井沢付近)の境について争論し、 幕府の裁定によって海野幸氏が勝訴しており、すでにこの時期に海野一族が上野国に進出して三原荘を領有していたこと、そして甲斐国武田氏と争うほどの一族であったことが注目されている。 海野郷の周辺はもとより、遠くは西上州(吾妻郡)、東は小諸、東南は佐久地方、西は四賀村付近まで広がり、この時期の海野氏の支配地域は、海野氏連合体全体で江戸時代の石高に換算すると、5万石〜7万石程度と推定される。
佐久郡は、海野氏の勢力がおよばなくなるにつれて、大井氏や伴野氏が勢力を強めていくが、小田切氏、香坂氏、春日氏、望月氏、根井氏など戦国期に入っても佐久郡を領土とした海野氏の一族は多くいた。

天文5年(1536年)の海ノ口城合戦については、『甲陽軍鑑』の品第18に 「天文五年丙申十一月廿一日、信虎公甲府を打立、信州へ御働の時、信虎公まきほぐし給う。信州海野口という城を三十四日まきつれ共、大雪故、信虎勢彼城を責落すことならずして、 同十二月廿六日に甲府へ信虎公御馬入給ふ。子息晴信公しんがりとありて、跡にさがり、甲府へはゆかずして、本の海野口へもどり、其勢三百ばかりにて御父信虎八千の人数にて叶はざる城を、のっとり給ふ。」 と、記されている。 しかし史料として証するものがなく、武田晴信の元服(初陣)を飾りたてたつくり話という説が定説となっている。 『千曲之真砂』には武田晴信がのちに石地蔵を大門峠に立てたと記されていたり、 『武将感状記』には海ノ口の急襲は武田信虎の家臣小田盛景(小幡盛景)の策で、元服の武田晴信に花を持たせたのだとも記されているが、どれも根拠はない。
また、平賀源心斎(大井成頼)が城主として表記されるが、正しくはない。平賀大井氏は佐久郡平賀(長野県佐久市平賀)を領する小豪族で、平賀源心斎は平賀城主。 村上義清の命により前線に出陣していたとされる。 文安年間(1444〜1448年)から宝徳年間(1449〜1451年)の頃から平賀氏が海ノ口城に在城したともいわれるが何ら史料も確証も見当たらない。 文安3年(1446年)に大井氏に攻められ平賀氏は没落したともされている。

『甲陽軍鑑』でしかこの武田晴信初陣の逸話はなされておらず史実性を疑われているが、全く否定する確証もないため、賛否は両論となっている。 『戦国合戦大事典(柴辻俊六)』『日本城郭大系(8)』『武田三代軍記』『人物叢書 武田信玄(奥野高広)』『定本 武田信玄(磯貝正義)』『武田信玄のすべて(坂本徳一)』『武田信玄 知られざる実像(小和田哲夫)』 『別冊歴史読本 武田信玄の生涯/図解 信玄一代記』『千曲之真砂』『寛政重修諸家譜』『武将感状記』『信州の城と古戦場』 『戦史ドキュメント 川中島の戦い(平山優)』『風林火山・信玄の戦いと武田二十四将(戦国群像シリーズ)』『歴史読本(1987年5月号)』『別冊歴史読本 武田信玄の生涯』などが参考文献として詳しい。 また「南牧村教育委員会の現地案内板」にも詳細がある。

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