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海尻城合戦
map-海尻城- 天文5年(1536年)11月の佐久郡での戦い(海ノ口城合戦)は、 1ヶ月以上の持久戦となりながらも総退却と、武田軍にとっては事実上の敗北であった。 しかしながら、殿(しんがり)をつとめた武田晴信(当時15)による奇襲攻撃で、海ノ口城を攻略できたことは、 武田晴信(当時15)自身の初陣を劇的に飾っただけでなく、武田軍の逆転勝利という大きな戦果ともなった。 天文6年(1537年)正月に武田晴信(当時16)は甲斐国へ凱旋帰国したが、 その後も海尻城や海ノ口城などをめぐって甲信国境では村上氏と武田氏の間で激しい戦が度度行われた。

天文6年(1537年)2月10日、武田信虎(43)は長女定恵院殿(17)を駿河守護今川義元(18)に嫁がせ、 甲駿同盟を成立させた。 花倉の乱(1536年)以降、武田氏と今川氏との関係は深くなってきていたが、 この婚姻によってよりいっそう硬い同盟関係が結ばれることとなった。 この甲駿同盟に激怒した北條氏綱(50)は、2月26日に駿河国へ出兵し、興津近辺に放火を行った。 武田信虎(43)は今川義元(18)を救援するために富士須走口に出陣し北條氏と激突した(須走口合戦)。
武田氏の家臣のなかには今川氏との婚姻同盟に賛成しないものも多かった。 当然、これまで今川氏との戦いで身内を失ってきた家臣たちも多く、彼らにとっては今川氏は仇敵。 工藤虎豊(42)、内藤虎資(42)ら武田信虎(43)の重臣たちを筆頭に、 小幡氏、原氏、多田氏、横田氏らが、 武田家臣の前島氏の一族の成敗や、今川氏との婚姻同盟などについて直諫した。 これまで今川氏と激戦を繰り広げてきた家臣たちにとってはこの今川氏との婚姻同盟はやりきれない思いであった。 しかも重臣たちが諌めては何人も武田信虎に斬られている。 「何かというと家臣たちを手討になされる」これ以上重臣たちを斬り捨てたり追放してはらないと直諌した。ところが 武田信虎(43)の勘気にふれ、工藤虎豊(42)は誅殺されてしまった。 「殿っ!!殿っ!!お、おやめくださ―いっ!!」ともに直諌していた内藤虎資(42)も止めきれず、 「弱卒どもめが―っ!!」と武田信虎(43)に斬られてしまった。
工藤氏の一族は国外へ追放され、工藤氏は北條氏を頼った。 武田信虎(43)は甲斐国のよりいっそうの団結をはかるつもりであったが、 苛烈で独断専横の多い武田信虎(43)に家臣たちの不満が蓄積されていったことは言うまでもない。 これが後に武田家中に深刻な内紛をもたらすことになる。

武田信虎(43)は信濃国佐久郡への侵攻をつづけた。 村上氏と武田氏の甲信国境付近での小競り合いはつづいていたが、
天文7年(1538年)2月18日、甲斐国八ヶ岳山麓の小荒間(山梨県北杜市長坂町小荒間)で合戦(小荒間合戦)がおこった。 村上義清(35)に与した清野氏、高梨氏、井上氏、隅田氏らが3,500余の軍勢で北信濃国から南下し、佐久郡に陣を張り、甲信国境を越えて侵入した。 八ヶ岳山麓の小荒間まで進攻してきた村上勢は、近郷に放火するなど乱暴を働いた。
武田信虎(44)は嫡男武田晴信(17)、飫富虎昌(34)を向わせた。 諏訪方面の抑えとして先達城に在城していた多田満頼(37)も合流させた。 ところが村上勢は、地理に疎く、残雪のために進みあぐね、小荒間で陣を張ったまま軍議を重ね夜を迎えていた。 前線を偵察した多田満頼(37)は、村上勢の停滞ぶりを察知し、夜襲策を武田晴信(17)に言上。 武田晴信(17)は多田満頼(37)の意見を採用し、20時頃に夜戦を決行した。 油断もあったか村上勢は夜襲に対応できず、あっという間に大混乱に陥った。這這の体で逃げ惑う村上勢。 武田勢は村上勢を敗走に追い込み、首級172もあげる大勝利をおさめ、2月19日0時に勝鬨をあげた。
小荒間から信濃国へ撤退した村上義清(35)だが、海尻城で兵をたて直した。 戦いはひきつづき行われたが、追撃の手をゆるめることのない武田軍は甲信国境を越えて圧していく。 飫富虎昌(34)が首級97を討ちとるという軍功をあげる活躍もあって、数で勝る村上勢を撃破した。

このまま武田勢が村上勢を圧していくかとも思われたが、
5月に入ると、村上氏と武田氏の戦いの脇を刺すように、小笠原長棟が甲斐国へ侵入し、韮崎まで攻め込んだ。 武田勢は韮崎において小笠原勢を迎撃した(韮崎合戦)。 飫富虎昌(34)の率いる赤備え隊が第一陣をつとめ、甘利虎泰(40)隊、小山田信有(19)隊、板垣信方(49)隊らがつづき、 小笠原勢を追い散らした。小幡虎盛(33)が三度の一番槍の功名をあげるなどの活躍もあり、小笠原軍は2,700余人という多大な戦死者を出して撤退した。
北條氏との戦いもつづいており、5月16日、北條氏綱(51)が都留郡吉田新宿に侵攻(吉田新宿合戦)した。 武田軍は、甲相国境付近に知行をもち北條氏への抑えとして最前線を守備していた加藤虎景(46)が迎え撃った。 武田信虎(44)も進軍。さらに小山田氏の重臣小林昌喜(48)が参陣した。

武田勢と北條勢の睨みあいがしばらくつづいたが、長期戦を避け北條氏綱(51)は和議を結び退却。 武田信虎(44)は板垣信方(49)に佐久郡攻めを再開させた。
天文7年(1538年)12月、板垣信方(49)率いる5,000余人の武田軍が海尻城を攻城した(第一回海尻城合戦)。
海尻城を守るのは天文5年(1536年)11月の海ノ口城合戦武田信虎を撃退した出浦清種(35)。 そして副将格井上清忠(41)、軍師に薬師寺清三(38)らが海尻城をかためていた。
武田軍は、 12月20日、板垣信方(49)が板垣山城から躑躅ヶ崎館に入り徴兵。軍を整えると副将格上原昌辰(24)をつけ湯村山城、塩崎、韮崎と兵を進め、駒井城に入城した。 軍師として駒井昌直(27)を軍に加え、若神子城、箕輪城、旭山城と進軍。平沢峠をへて甲斐国清里から信濃国野辺山へと佐久往還(甲州往還)路を北上し、信濃国佐久郡へ入った。 長坂虎房(25)、日向昌時(47)、日向虎忠(27)、日向秀泰(23)、日向虎顕(18)、 小宮山虎泰(46)、小宮山虎景(26)、小宮山昌清(39)、小宮山昌友(19)、 上原虎満(44)、上原昌成(23)、上原昌貞(21)、上原盛昌(18)、才間昌兼(55)、 教来石信保(43)、教来石信房(23)、教来石信頼(21)、小沢昌光(26)らが従軍し、 信濃国佐久郡に入ったときには5,000余人の兵を従えていした。
12月22日、海ノ口、海尻近辺で村上勢と武田勢は衝突。 正月前ということもあってやはりこの時期は兵が集まりにくい。村上氏からの援軍が埴科郡から佐久郡へ向かっていたが、 海尻城には1,000足らずの兵がようやく集まっていた。 海尻城から海ノ口城に急行していた井上清忠(41)の軍勢300余人と、海尻城から躍り出た出浦清種(36)の軍勢700余人が武田軍を迎撃。 人数は少ないながらも、城内から出て小競り合いをしてはすぐさま城内へ退いてと武田軍を翻弄した。
特に井上清忠(41)は度重なる戦で常に先陣をつとめてきた歴戦の勇士なだけに、武田軍の攻撃を迎撃しよく守った。 しかしいくら善戦していてもたかだか1,000余人での籠城戦。 村上義清(35)からの援軍が到着するまで耐えることは難しい。 そんななか、板垣信方(49)からの使者で軍師の駒井昌直(27)が海尻城を訪れ、和睦を申し出た。 軍師をつとめる薬師寺清三(38)はこの和睦に反対したが、 このままいたずらに戦を長引かせても落城は必至。 それぞれ本国で正月を迎えるためにはこの武田氏からの和睦の申し出は何ともありがたいものだった。 出浦清種(36)には選択の余地がなかった。

12月29日、武田氏と村上氏の間で和睦がなされ、武田軍は退却していった。
策士の多い武田軍だけあって、出浦清種(36)は念のために本領の埴科郡上平の出浦城へは帰郷せずにしばらく海尻城に在城し、無念ながら海尻城で年を越した。 正月2日、出浦清種(36)は正月をすぎてまでも武田軍が攻め込んでくるとは思わず、これで郷に帰れると安堵の気持ちとなった。 留守を井上清忠(41)に任せ、本領に郷っていった。海尻城には井上清忠(41)以下300余人が在城した。
ところが、天文8年(1539年)正月3日、突如板垣信方(50)率いる武田軍が海尻城に攻城してきた。 「突撃―っ!!」と聞こえるやいなや城はあっという間に包囲され、「進め―っ!!」「わ―っ!!」「おぉ―っ!!」と武田勢が城内に雪崩れ込んだ。 村上勢は大混乱に陥り、「ぎゃ―…」「ぐふぅ…」村上勢の今際の声が響き渡った。「殿、もはやこの城はこらえきれません…お逃げを…。」

井上清忠(42)は悔しがり「ぬぅ…どこまで汚いやつらだっ!!」と地団駄を踏んだ。 井上清忠(41)の脳裏には、2年前の戦での、退却していった武田軍が奇襲をかけてきて城を落とされたという苦い記憶が蘇った。 しかしもう後の祭り。思い出したのが遅すぎた。

なかなか落とせずにいた板垣信方(50)は、軍師駒井昌直(28)、上原昌辰(25)と示しあわせ、 いったん和睦し甲斐国へ郷ると見せかけて、敵を油断させると反転して再攻撃をしかけるという智略をもって城を陥れた。
海尻城では正月の準備、餅つきをしながら祝宴を催していて、海尻城兵は酔いしれていたために戦意はなく、 井上清忠(42)は板垣信方(50)に城を明け渡した。
板垣信方(50)は、本郭を上原昌辰(25)に、二の郭を日向昌時(日向虎頭)(48)に、三の郭を長坂虎房(26)に守らせ、 甲斐国へ凱旋帰郷した。

佐久郡侵攻を飫富虎昌に進めさせ、村上義清と度度合戦となったが、一進一退で、決定打となる勝敗はつかずにいた。

天文8年(1539年)12月、 いつにない大雪がつづき、これでは敵は現れないだろうと武田信虎上原昌辰(25)、 長坂虎房(26)、日向昌時(日向虎頭)(48)らを海尻城に残し、甲斐国へ帰った。 海ノ口城合戦のとき同様に、百姓即兵の時代では正月ともなると戦どころではなく、正月の準備に入る。 上原昌辰(25)は馬を城内へ引き入れ、正月の準備に入った。 文明年間(1469〜1487年)の頃から村上氏の勢力下で暮らしてきた地侍たちのなかには、当然武田氏に逆意を持っているものも少なくない。 村上氏の勢力下に置かれて数10年は平穏な暮らしをしてこれたわけだが、 武田氏の軍勢に踏み荒らされた田畑をみつめる地侍や民衆たちの嘆きは相当なものだったろう。
この海尻を領しているのはかつて伴野氏に仕えた井出橘氏。 伴野氏は武田氏に与し、武田氏の佐久郡侵攻を援けているが、それは大井氏や村上氏らから領地をとり返すという目的があったからだ。 しかし村上氏の傘下でしばらく平穏に暮らしていた井出橘氏などの豪族にとっては、 旧主の伴野氏が武田氏に与そうとも関係なかった。 合戦のたびに踏み荒らされる田畑を見て、武田氏を憎む気持ちの方が強い。 上原昌辰(25)しか立て籠もっていないと知った井出橘氏を中心とした地侍たちは村上義清(36)に報せるとともに、 海尻城を包囲した。 急報を受け進軍してきたのは村上氏の重臣楽巌寺満氏(36)率いる3,000余の一軍で、 地侍たち一揆衆とともに攻城をはじめた。 さすがの守将上原昌辰も、堪えきれずに三の郭、二の郭と攻め込まれ、長坂虎房隊や日向昌時隊は敗走。 隙をかいくぐって甲斐国へ早馬を走らせた。上原昌辰は何とか本郭に籠って籠城をつづけていた。 楽巌寺満氏(36)も村上氏の家臣のなかでは歴戦の勇士ではあったが、 上原昌辰(25)の守りは堅く、攻めあぐねていた。 上原昌辰(25)は隙をついて早馬を走らせ、甲斐国へ急行させた。援軍の要請であった。

この一報を受けた武田晴信(18)は、たとえ一騎だけでも敵勢に突撃してやろうと士気を高め、 先陣を担い、7,000の兵を率いて海尻城の救援に向かった。 正月を実家で迎えることができずに落ち込んでいる兵たちを奮いあがらせた。 12月晦日(31日)には甲斐国からの援軍武田晴信(18)が到着。12時頃には地侍たち一揆衆たちや村上氏の雑兵たち913人を討ちとり、 首帳に記録をさせ、勝鬨をあげて海尻城の防備を堅めた。
2月はじめに甲斐国へ帰陣となった。


海尻城
海尻城〒384-1301 長野県南佐久郡南牧村海尻

jyoukaku-海尻城- 愛宕山城と日向山城を総称して海尻城ともいう。 伴野氏の家臣井出以季(井出長門守)が築城したもので、天文初年頃(1532〜1540年)に村上義清が改築している。
国道141号線に、「海尻城址」と記された交差点があり、交差点のすぐ脇の医王院の境内から登山道がある。
八ヶ岳東麓の突出した尾根の最先端に築かれた平山城(比高40m)で、北八ヶ岳から流れる大月川の深い谷に構築されている。 北に大月川、東に千曲川を眼下にし、南には西から流れる新田川が、さらに湯川、高石川が千曲川に流入している。 山城の頂上を愛宕山ともいい、本郭となっている。二の郭、三の郭があり、西側背面は大堀切、日向山に守られている。 城の南側は日向前といい、北側を日陰窪といわれている。 佐久郡の最南端に位置し、佐久郡の南を抑えるには格好の位置を占めていた。
江戸末期には「(築城時の地固めのために六方に埋めるとされる)真言秘密の丸い石」や「(城の鬼門に埋め北側を守護するとされる)多聞天像」「(城の鬼門に埋め東側を守護するとされる)持国天像」などの金銅が出土している。 右図の東の郭(本郭から40mほど下ったところ)は海尻集落の中心部(殿岡地区)で、ここに二の郭があったともされているが今となっては定かではない。 また医王院(日陰窪医王院)から諏訪神社が三の郭ともされているが、海ノ口城と郭の構造を同じと考えられることからも、右図が有力視されている。 二の郭と三の郭を根小屋(寝小屋)城、内小屋城と称することもある。 水の手は医王院と諏訪神社境内にあったとされる。
支城(出城)に日向山城のほか、丸山城、小丸山城、海ノ口城などをもつ。 千曲川からは東方に位置し、海ノ口城から2kmほど西方の山に大遠火という地名が残っており、 尾根を登ると標高1303mあたり(海尻城からはちょうど真東)で遠見に到着できる。 ここは遠望がきき烽火台が配置された。海ノ口西山城、西山城、丸山城、小丸山城、海ノ口烽火台などともいわれ、 海ノ口城まで烽火台としてのびている。

平安時代の仁和4年(888年)5月8日に八ヶ岳が水蒸気爆発により崩れ、天狗岳で崩壊した泥流が大月川の谷に流れ出した。 このとき佐久郡の村村を圧し流し、海ノ口と海尻の間に湖ができたという。 寛弘8年(1011年)8月3日に南の深山が決壊したことで大峡谷ができて、湖は干潟となって平地となったとされている。

戦国期には坂城村上氏の領土となり、村上氏の家臣出浦国則出浦清種父子、薬師寺清三(薬師寺右近之進)らが守将としておかれた。 海尻城は武田氏と村上氏の間で奪った奪われたの攻防がつづき、 天文8年(1539年)1月16日に武田氏の家臣板垣信方が智略をもって攻略し、 本郭を上原昌辰(上原伊賀守)が守り、二の郭を日向昌時(日向大和守)、三の郭を長坂国清(長坂左衛門)が守った。 本郭は板垣信方飫富虎昌甘利虎泰上原昌辰の4人でくじ引きをして決まったともいわれているが、 上原昌辰は城を守ることに優れた将であり、慣例的に守将となっていたことからも、くじ引きという逸話は疑わしい。
天文8年(1539年)12月に村上氏の家臣楽巌寺満氏(室賀光氏)が地侍一揆(井出氏)とともに攻め寄せ、 二の郭まで陥れたが本郭の上原昌辰はわずかな兵力でよく耐え、城を守りとおした。 武田軍の援軍到着により村上勢は敗退した。
『武臣列伝(真田昌幸の条)』の「天文15年(1546年)12月に村上義清の家臣須田親満らが5,000の兵で海尻城を囲み、城代真田幸隆は多勢に無勢であると降伏し城を明け渡した。真田幸隆は10余人の兵で更科郡へ逃れようとしたがあまりの雪の深さに進むことができず、その晩に海尻城へ戻り二の郭に放火するや門衛を討ち入城。村上勢を城から追い返し海尻城を奪還した。」 という内容から、天文15年(1546年)以降に主戦場が北佐久郡、小県郡へと移っていったとされているが、 真田幸隆が海尻城の城代もしくは城主になったという話は史実的に考えにくく、さらにここで出てくる更科郡への逃亡も不自然。武田氏の家臣として海尻城に在城しているのなら逃れる先は眼と鼻の先の甲信国境を越えて甲斐国のはず。 しかもすでにこの年代には佐久郡北部から小県郡へ主戦場が移っていることから、海尻城とは考えにくい。

なお、天文7年(1538年)12月に武田軍が海尻城を攻撃したときの板垣信方の智略とは、 海尻城を落とすことができず、正月を迎えることになり停戦をし武田軍は退却したが、板垣信方は約束を破り、途中から引き返して攻城を再開。 海尻城では正月の準備、餅つきをしながら祝宴を催していて、海尻城兵は酔いしれていたために落城したという。
この戦は天文8年(1539年)12月もしくは天文9年(1540年)12月とされる史料が多いが、 楽巌寺満氏が一揆衆とともに海尻城を攻めたのが天文8年(1539年)12月であるため、さらに天文9年(1540年)5月には佐久郡北部、天文10年(1541年)には小県郡にも武田氏は勢力を拡大していたことからすると、 天文7年(1538年)12月から天文8年(1539年)1月にかけてのことと思われる。

現在でも、正月に海尻に在住している多くの井出氏の子孫は、門松を外に飾らず家の中に飾ったり、 三が日にお餅を食べずにうどんなどを食べ、4日からお雑煮にして食べるなどの逸話がある。 ただし、井出氏は、武田氏に属し、天文12年(1543年)と天文17年(1548年)に武田氏から加増を受けており、 天文8年(1539年)正月に武田氏に騙されて城を落とされたことを現在まで根にもっているとは考えにくい。
井出氏は伴野氏の重臣として甲信国境を領し守っていたが、村上氏や大井氏と長い領土争いのなかでしだいに圧され、 武田氏を度度頼っていた。 武田氏の佐久郡侵攻に対して、常に抵抗していた大井氏や村上氏とは裏腹に、伴野氏は武田氏に味方し漁夫の利を得ようというスタンスを崩さなかった。 井出氏は天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると北條氏に属した。幕藩体制下でも生き延び、上田藩主仙石秀久からも、 慶長9年(1604年)、慶長15年(1610年)に知行地を宛がわれたと記録されている。
海尻城は関ヶ原合戦(1600年)前後に廃城になったといわれている。
かつて伴野氏に仕えた井出氏であるが、正確には井出橘氏。伴野氏は鎌倉時代に一時没していたが、南北朝時代には旧領をほぼ回復し、 佐久郡にあっては北の大井氏、南の伴野氏といわれるように、南佐久郡は伴野氏が勢力下に置いていた。 井出橘氏も伴野氏の傘下にあって海尻城を築城するにいたる。橘広房から出た井出氏は、井出以重井出以政井出以経井出以長井出以隆井出以材井出以季とつづく。井出以季の代に海尻城を築城。 井出以基井出以盛井出以量井出以継井出諸光へとさらにつづいていく。 戦国時代には、井出知季井出知輿井出知次とつづき、村上氏、武田氏、北條氏と主家をかえていった。 井出知次の代で天文12年(1543年)と天文17年(1548年)に武田氏から加増を受けている。

『甲陽軍鑑』『甲陽軍鑑大成』『甲陽軍鑑 名将』『信州の城と古戦場』『日本城郭大系(8)』『武臣列伝(真田昌幸の条)』 『千曲真砂』『戦国合戦大事典(海尻城の合戦)』『日本紀略』『南佐久郡誌』『常山紀談』『甲州安見記』 『妙法寺記』『王代記』『諏訪神使御頭之日記』『姓氏家系大辞典(1)』『系図纂要(14下)』『公卿緒家系図』『宮廷公家系図集欄』『国史大系(60下) 尊卑分脈』『大日本史料』 『公卿人名大事典』『佐久市志 歴史編(2-P.474)』『図説・佐久の歴史(上P.70)』『角川日本姓氏歴史人物大辞典(20)』『信濃史料(11)』 『国史大系(別1)公卿補任索引(吉川弘文館)』『寛政重修諸家譜(続群書類従完成会)』『佐久の人物と姓氏』『長野県歴史人物大事(郷土出版社)典』『郷土歴史人物事典 長野(第一法規)』 『南佐久郡誌 古代・中世編(長野県南佐久郡誌刊行会)』『南牧村誌(南牧村誌編纂委員会)』『海尻城沿革考(井出英作)』『定本 佐久の城(郷土出版社)』 『図解山城探訪(9) 佐久南部資料編(長野日報社)』『新編信濃史料叢書(9)』『南佐久郡の古文書金石文(南佐久郡教育会)』『南佐久郡古城址調査(歴史図書社)』 などが史料として詳しい。

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