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序章
世は戦国時代。甲斐国(現在の山梨県)をほぼ平定した武田氏は、 天文5年(1536年)11月、信濃国(現在の長野県)佐久郡へ出兵した。 天文5年(1536年)の武田氏の君主は
武田信虎
(42)という人物だ。
天文5年(1536年)6月8日に駿河国(現在の静岡県)の君主
今川氏輝
(23)が急死したことによって起こった
今川氏輝
(23)の弟たち
今川良真(玄広恵探)
(20)と
今川義元(梅岳承芳)
(17)の家督争い
花倉の乱
で、
武田信虎
(42)は
今川義元
(17)を推し、
今川義元
(17)とともに
今川良真
(20)を撃破していた。 さらに、
今川良真
(20)方の副将格
福島正成
(44)に味方した甲斐国人
前島氏虎
(21)ら前島一族を成敗した。 前島氏は武田氏の奉行衆のなかでも有力な一族ではあったが、
武田信虎
(42)は甲斐国での武田氏の結束をより強いものにしようとし、 反抗的な立場を示す奉行衆を追放したり成敗したりした。そのため奉行衆のなかには国外へ出奔するものも続出していた。 武田氏を出奔した有力奉行衆の多くは相模国(現在の神奈川県)の北條氏を頼り、登用されていた。
この
花倉の乱
によってそれまで長く争いの絶えなかった武田氏と今川氏は結果的に同盟関係を築くことになった。 逆に、今川氏と堅い同盟関係にあり、武田氏と争っていた相模国の北條氏は黙っていなかった。 武田氏と今川氏の同盟に激怒した北條氏の君主
北條氏綱
(49)は駿河国へ侵攻した。
武田信虎
(42)は
今川義元
(17)軍の援軍として参戦し、駿河国の御殿場近辺で北條軍と衝突した。 この
御殿場合戦
では、先陣をつとめた
飫富虎昌
(32)の突撃により、武田軍は
北條氏綱
(49)軍を撃破した。
武田氏は 天文4年(1535年)9月17日にこれまで長く敵対していた
諏訪頼満
(当時55)と甲信国境(諏訪郡堺川)で会し、諏訪上社の宝鈴を鳴らして和睦を果たしていたが、 これまで諏訪氏だけでなく、信濃国の村上氏や、上野国(現在の群馬県)の山内上杉氏とも敵対し、 駿河国の今川氏と相模国の北條氏の同盟軍にも度度攻められ、近隣で唯一の同盟者は武蔵国(現在の東京都)の扇谷上杉氏だけであったため、 諏訪氏と和睦を果たしただけでなく、今川氏と同盟を結べたことは甲斐国平定に大きな意味をもたらした。
武田信虎
(42)の長男と次男は幼くして夭折していたため、三男
武田晴信
(15)が嫡男として成長していた。 天文2年(1533年)に武田氏は同盟者であった扇谷上杉氏の君主
上杉朝興
(当時45)の娘
扇谷殿
(当時11)を
武田晴信
(当時12)の妻に迎えたが、 翌天文3年(1534年)に
扇谷殿
(享年12)は懐胎しながらも母子ともに死去してしまっていた。
そこで、新たに武田氏と今川氏が同盟したことにより、公家と強いつながりのある今川氏の新君主
今川義元
(17)の斡旋によって、
武田晴信
(15)は公家の
三條公頼
(36)の娘
三條殿
(15)を娶ることとなり、今川氏との同盟はさらに堅いものとなった。
一方で、今川氏と北條氏の関係は完全に悪化した。もともと北條氏は本姓を伊勢氏といって、備中国を本拠にしていた。
伊勢盛時
が妹婿の
今川義忠
に招かれるかたちで駿河国を警護するようになったのだが、
今川義忠
(当時40)が文明8年(1476年)に戦死した後に起こった家督相続争いにおいて、相続争いをまとめた功によって、
伊勢盛時
(当時20)は駿河国の興国寺城主に迎えられ、今川氏の幼い君主
今川氏親
(当時3)をよく援けていた。 駿河国から相模国へと勢力を広げていくにしたがって、はじめは今川氏に従属していた伊勢氏も次第に独立性を高めていき、 大永3年(1523年)6月12日~9月13日頃、
伊勢盛時
の長男
伊勢氏綱
(当時36)の代で北條氏を称するようになっていた。 伊勢氏から北條氏への改姓は、鎌倉幕府を支配した執権北條氏の影響力を利用しようとしたためで、
北條氏綱
が称した官途である名左京大夫や、
北條氏康
から称した受領名の相模守も、鎌倉北條氏で歴代の執権が称してきたものを踏襲したものだった。 鎌倉北條氏では当主が左京大夫を、隠居した際に相模守を称するのが通例だった。
北條氏綱
は京都との接触を最低限にとどめ、関東管領職の継承と関東公方を君主とした関東独立国家を最大の目的としていたのだ。 そんな北條氏も、
花倉の乱
をきっかけに、ついに今川氏と決別することになった。
駿河国の今川氏と堅い同盟を結ぶことで、相模国の北條氏との小競りあいはつづいたが、
武田信虎
(42)が目を向けたのは信濃国だった。 甲斐国の石高はおよそ23万石。一方、信濃国は41万石と甲斐国のおよそ2倍ちかくあった。 信濃国には南信の諏訪氏や守護大名の小笠原氏、西信の木曽氏、北信の村上氏、東信の
海野氏(滋野氏)
などがそれぞれ勢力を張っていたが、 小豪族がひしめきあっているにすぎず、強力な統一勢力のいない信濃は特定の氏族によって平定される気配は全くなかった。 そこで
武田信虎
(42)によって決行されたのが信濃国佐久郡への侵攻だったのだ。
信濃国佐久郡は、村上氏の傘下にあった。 村上氏は埴科郡の坂城を本拠としていたが、応仁2年(1468年)の
海野氏(滋野氏)
との合戦
海野大乱
で
海野氏(滋野氏)
を撃破してからは小県郡から佐久郡へ領土を拡大していった。 村上氏の圧迫に耐えることができず、
海野氏(滋野氏)
の一族である
望月氏
が村上氏に降伏し、 文明16年(1484年)2月27日には
村上政清
(当時44)、
村上政国
(当時21)父子が大井城を攻略。 260年という長く信濃国佐久郡を治めてきた佐久郡の名門大井氏の君主
大井政則
(当時79)は村上氏の軍門に降った。 それ以降、信濃国佐久郡の諸氏は村上氏に従っていた。
この武田氏による信濃国佐久郡への侵攻が
武田晴信
(15)にとっての初陣となったわけだが、村上氏と武田氏との戦いはこれがはじめてではない。
永正16年(1519年)9月、
武田信虎
(当時25)は信濃国佐久郡平賀城を攻めた(
平賀合戦
)。 これは大井氏と領土争いをしていた伴野氏が武田氏に援軍を要請したことがきっかけだった。
村上顕国
(当時36)、
村上義清
(当時16)父子が大井氏ら佐久衆の求めに応じ葛尾城から出陣。
村上義清
(当時16)の初陣とされ、村上勢は8,000の兵を率いて小諸城に着陣した。 小諸城主
小諸光政
(当時39)、
小諸光成
(当時19)父子が城外に出て
村上顕国
(当時36)、
村上義清
(当時16)父子を出迎えた。 多勢の出現を知り、
武田信虎
(当時25)は平賀周辺に火を放って帰国している。
大永2年(1522年)8月にも
武田信虎
(当時28)は佐久郡に侵攻し、大井城を攻撃した。
村上義清
(当時19)は、大井城主
大井忠重
(当時42)の要請を受けて葛尾城から出陣。 大井原で戦い(
大井原合戦
)、
武田信虎
(当時28)は250余もの首級を討ちとられてしまい、敗走した。
10月には、
村上義清
(当時19)が勢いにのって
平賀源心斎(大井成頼)
(当時33)の求めに応じ、 逆に甲斐国若神子へ出兵した(
若神子合戦
)。 滋野氏の一族
望月氏
の君主
望月昌頼
(当時30)も
村上義清
(当時19)軍に従軍した。 しかしこのときは
武田信虎
(当時28)の重臣
馬場虎貞
(当時32)軍が迎撃。若き大将
村上義清
(当時19)は敗走した。
大永7年(1527年)には信濃国佐久郡で大井氏と伴野氏が激戦。 6月3日、
武田信虎
(当時43)が
伴野貞慶
(当時23)を救援するため信濃国佐久郡へ出陣(
伴野合戦
)。 大井氏らと対陣し、和睦を成立させると
武田信虎
(当時33)は善光寺に参詣して帰還。
村上義清
(当時24)と直接戦うことはなかった。
享禄元年(1528年)8月には神戸・堺川で戦が行われ(
神戸合戦・堺川合戦
)、
武田信虎
(当時34)は
諏訪頼満
(当時48)に敗れた。 この合戦では、武田氏の重臣
飫富虎昌
(当時24)らが諏訪方に味方していた。
甲斐国全土には冷害、干ばつ、水害の天変地異がつづいており、農耕を専業とする農兵とその家族の大半が飢餓にあえぎ、餓死する者も多く出ていた。 飢えに苦しむ農兵の暮らしを無視して戦場に狩り出す
武田信虎
は、 北は信濃国の諏訪氏や村上氏、また南は駿河国の今川氏、相模国の北條氏と、とにかく戦に明け暮れる毎日。 味方の死傷者を多数出し、武器や武具、軍馬の消耗も増えるばかりとなっていた。
そんな甲斐国内は安定することなく、享禄元年(1528年)8月に行われた
神戸合戦・堺川合戦
では重臣
飫富虎昌
(当時24)が諏訪氏に味方するなどの反乱が起こったわけだ。
武田信虎
(当時34)は信濃諏訪郡富士見に兵を進め、先達城を修築し入城。これに対して
諏訪頼満
(当時48)も兵を率いて出陣。 8月20日、
武田信虎
(当時34)は
諏訪頼満
(当時48)、
諏訪頼隆
(当時31)父子と甲信国境の朝方の神戸で戦い(
神戸合戦
)、武田軍は諏訪勢を撃破した。 8月22日、
武田信虎
(当時34)は
金刺昌春
(当時38)を擁して信濃国諏訪へ侵攻。
金刺昌春
(当時38)は金刺諏訪大祝家の君主で、山吹城主でもあったが、永正15年(1518年)と大永5年(1525年)に、
諏訪頼満
(当時45)に攻められ、没落してしまっていた。大永5年(1525年)4月1日に、
武田信虎
(当時29)を頼り、 屋敷を与えられ匿われていた。
金刺昌春
(当時38)にとっても諏訪下社の大祝への復帰は念願であった。
8月26日、
武田信虎
(当時34)は
諏訪頼満
(当時48)、
諏訪頼隆
(当時31)父子と青柳で対陣。 8月30日、境川での戦い(
境川合戦
)では
武田信虎
(当時34)は敗れ、重臣
萩原昌重
(当時58)らが討死し、200騎が討とられた。 諏訪勢でも重臣
千野昌貞
(当時23)らが討死するなど、両者ともに相当の打撃となった。
武田信虎
(当時34)は
飫富虎昌
(当時24)の反乱や甲斐国内の不安定さを考慮し徳政令を出したが、事態はすぐには収拾できず、 亨禄2年(1529年)に自信過剰から勇を誇り強引なまでに戦を繰り返す
武田信虎
(当時35)を見兼ねて、 57ヶ条の書き上げをもって強諫した重臣
馬場虎貞
(当時39歳)や
山縣虎清
(当時34)、
加賀美虎光
(当時39歳)らが
武田信虎
(当時35)の逆鱗に触れ 誅されてしまった。
亨禄4年(1531年)1月21日、
武田信虎
(当時37)は、 反旗を翻し御嶽に籠る甲斐国人
飫富虎昌
(当時27)、
栗原信真
(当時47)、
大井信業
(当時37)、
今井信是
(当時54)、
今井信元
(当時47)らと戦う(
御岳合戦
)。
逸見信親
(当時33)を通して諏訪上社の大祝
諏訪頼満
(当時51)が反武田軍の援軍として参陣。
諏訪頼満
(当時51)は
武田信虎
(当時37)が
金刺昌春
(当時38)をはじめとし手塚氏、武居氏、小泉氏、鳶木氏ら諏訪下社牢人衆を集めて籠もっていた笹尾塁を攻略(
笹尾合戦
)し、さらに軍を進めた。 諏訪氏や甲斐国人反乱衆が武田軍を圧しはじめると甲斐国内は大きく乱れた(
国中大乱
)。
2月2日、
武田信虎
(当時37)は反旗を翻した
大井信業
(当時37)、
今井信是
(当時54)らと戦い、
大井信業
(当時37)、
今井信是
(当時54)らを討死させる。 つづいて3月3日には、
武田信虎
(当時37)は、
栗原信真
(当時47)を討死させ800余人を討ちとって形勢を逆転させた。
4月12日、
武田信虎
(当時37)は
諏訪頼満
(当時51)、
今井信元
(当時47)、
飫富虎昌
(当時27)、
栗原信友
(当時27)らと韮崎市河原辺で戦い(
韮崎塩川河原合戦
)大勝した。
諏訪頼満
(当時51)の軍勢は1,000人近い死傷者を出して退去した。
栗原信真
(当時47)の長男
栗原信友
(当時27)もこの合戦の大敗により降伏した。
天文元年(1532年)9月、諏訪氏の援助を得て再び
今井信元
(当時48)が反旗を翻し、巨摩郡小倉(北杜市須玉町)の浦城に籠った。
武田信虎
(当時38)は
今井信元
(当時48)を攻め(
小倉合戦
)て降伏させた。 これにより甲斐国内統一をほぼ完了させた
武田信虎
(当時38)は、隣国の駿河国、相模国、信濃国との攻防にさらに勢力を傾けていった。
天文4年(1535年)6月5日に
武田信虎
(当時41)は今川氏との戦いのため甲駿国境に軍勢を送った。 8月、万沢口(南巨摩郡南部町富沢)で
万沢口合戦
が起こった。
8月16日には
北條氏綱
(当時48)、
北條氏康
(当時20)父子が、今川氏救援のために甲斐都留郡に出陣。 8月22日に
武田信虎
(当時41)は都留郡山中で北條勢と今川勢の連合軍と戦い(
山中合戦
)大敗。
武田信虎
(当時41)の弟
勝沼信友
(当時38)が討死し、小山田氏も多数の戦死者を出した。
武田信虎
(当時41)にとって、諏訪氏や今川氏・北條氏連合軍との戦いは、悩みのたねであった。
このように長く争ってきた諏訪氏や今川氏と同盟できたことで、 天文5年(1536年)11月、
武田信虎
(42)による信濃国佐久郡への本格的な侵攻がはじまった。
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