甲斐武田家戦国史

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甲斐武田家の歴史
  12世紀後半の平安時代末期から16世紀末の戦国時代にいたるおよそ500年間、 武田氏が君臨した甲斐国は、『古事記』には「こちごちの山の賀比」とあり、 大宝2年(702年)の『文武紀』には「歌斐国献梓弓五百張」と記されているように、 古くは、柯斐、歌斐、加比、賀比、介賓などの文字が使われ、いずれも字音をかりて「かひ」と読んでいた。
文献のいずれもが、山間地であることを意味しているところから、山峡の国の『峽』が、 『甲斐』になったものと考えられる。
武田氏は甲斐源氏の嫡流である。いうまでもなく源氏は9世紀の半ば、人皇第56代である清和天皇の皇孫、経基が朝廷から「源姓」を賜って臣籍にくだり、 清和源氏の初祖となった。
この源経基より5代目、源頼義の第三男源義光(新羅三郎)が甲斐源氏の始祖となる(源経基-源満仲-源頼信-源頼義-源義光)。
源義光は後三年の役(1087年)で兄の源義家(八幡太郎)を援け、羽後国の清原一族を討伐した功により甲斐の国守に任じられたのが始まりで、 以後、甲斐源氏は代代甲斐の守護職として治国の任にあたる一方、鎌倉、室町両幕府を支援して大きな功績をあげてきた。
特に、平家追討、源家嫡流の源頼朝を擁立しての初の武家政権確立(鎌倉幕府)では、一族をあげて活躍した。 このことは『吾妻鑑』などにくわしく記されている。
甲斐武田氏の発祥地は、甲斐国北巨勢郡武田村といわれているが、 常陸国武田郷とする説もある。 武田氏が甲斐に土着したのは、源義清源清光父子のときである。 源義清について、『尊卑分脈』に甲斐国市河荘に配流されたとあることから、甲斐への下向は配流というかたちであったことが知られる。 しかし、いつ、どこから、どのような理由で配流されたかについては、諸説あって一定しなかったが、 甲斐源氏の故郷は常陸国那珂郡武田郷であることが明らかにされた(志田諄一氏の研究)。 すなわち、常陸国に進出した源義光は、嫡男源義業を佐竹郷に、 次男源義清を武田郷に配して勢力の扶植を図った。 しかし、源義清は常陸国大掾氏の一族吉田氏ら在地勢力の反発をうけ、源義清の嫡男源清光は濫行のゆえをもって朝廷に告発された。 その結果、ついに源義清・源清光父子は甲斐国に配流されたのだという。 源義光の常陸進出には確証もあり、源義清の母を常陸の住人鹿島清幹の女とする系図もあり、 源義光父子と常陸との関係を裏付けている。 甲斐源氏が勃興した時は、源平争乱の時代にあたっていた。治承4年(1180年)以仁王の令旨を 奉じた武田信義は嫡男一條忠頼、弟の安田義定ら一族を率いて挙兵。 富士川の戦いでは奇襲をもって平家軍を敗走させ、その功で武田信義は駿河守護に、安田義定は遠江守護に任ぜられた。 この段階では、甲斐源氏は源頼朝とほぼ同等の立場に立つ独自の勢力で、 むしろ戦いの主導権は甲斐源氏が握っていたといっても過言ではない情勢であった。 その後も木曽義仲追討・平家討滅などに転戦し、武功をあげた。 武田信義には一條忠頼板垣兼信逸見有義武田信光らの子があった。 しかし、源頼朝からその威勢を忌まれ、一條忠頼・板垣兼信・逸見有義らは次々と殺されたり、失脚したり、 行方不明になったことで、武田の嫡流は武田信義の五男武田信光が継ぎ、 源頼朝から甲斐国守護職を与えられ、以後、この系統が甲斐源氏の嫡流となったのであった。
前述のように、 甲斐武田氏の祖といわれている源信義(源義光-源義清-源清光-源信義)にいたり、以仁王の令旨に応えて甲斐源氏を率い挙兵、 源義仲(木曽義仲)および源頼朝に兵を送って戦功を挙げているが、 源頼朝は源信義の嫡男源忠頼(一條忠頼)を嫌い殺害し、 甲斐源氏の家督を源信義の四男源信光(石和信光)に継がせ、 甲斐守護を安堵させた。
源信光は、承久の乱の勲功によって安芸守護に補任された。 鎌倉末期になって、武田信宗のとき(武田信義-武田信光-武田信政-武田信時-武田時綱-武田信宗)銀山城を築き、 在地に勢力を扶植していった。 南北朝時代のはじめ、北條氏に従って笠置を攻めたりしたが、 中先代の乱に北條時行に加わって大打撃を受け、 やがて箱根竹之下の合戦以後は足利尊氏に属して各地に戦功を挙げ、 陸奥・伊豆・駿河・若狭・安芸・薩摩などに所領を広げて同族を配置いている。 甲斐源氏の嫡流は武田信武へとつづき(武田信政-武田信時-武田時綱-武田信宗-武田信武)、 南北朝の内乱で足利方に属してたことで安芸守護職に任じられ、 まもなく後醍醐方に転じた一族の石和政義(武田信政-石和政綱-石和信家-石和貞信-石和政義)に代わって甲斐守護職も獲得した。 南北朝争乱の時代にあって、武田信武は安芸国人を率い、足利尊氏に属して各地を転戦。 さらに、足利尊氏と弟足利直義が対立した観応の擾乱(1350年)にも一貫して足利尊氏に属した。 そして、足利直義嗣の足利直冬の一党に呼応する北條氏・毛利氏・寺原氏らを討つため、 武田信武は六男武田氏信を安芸国に下向させて激闘を展開させた。 延文4年(1359年)に、父武田信武は没したが、甲斐国守護職は武田信武の嫡男武田信成が継ぎ、 安芸国守護職は武田信武の六男武田氏信が継承して、ここに甲斐と安芸の両武田氏が分立。 武田信武の次男武田信明(大井信明)から甲斐大井氏が出るなどその勢力はさらに多くなっていく。 以後、武田氏信は安芸国の足利直冬党と戦いを繰り返したが、戦況は思うように展開しなかったため、 責任を追求され安芸守護職を改替されてしまった。 とはいえ、安芸武田氏はその後も銀山城に拠って、安芸中央部に根強い勢力を保持した。 武田氏信の跡を継いだ武田信在は、明徳3年(1392年)の相国寺供養に際して足利義満に供奉したことが知られる。 しかし、安芸国守護には、細川頼元渋川満頼ら足利一門が補任され、 武田信在は本拠の佐東郡守護に任じられた。 これは郡守護というべき存在で、以後、安芸武田氏が安芸一国守護職に補任されることはなかった。 永享2年(1430年)のころ、武田信繁が(武田氏信-武田信在-武田信守-武田信繁)、佐東・山県・安南の三郡守護職の地位にあったことが知られ、 銀山城を中心に、温科・香川・戸板・壬生などの国人層を家臣化して、一定の勢力を堅持していた。 そして、周防・長門の有力大名大内氏への抑え役としての機能を果たしていた。
室町時代の甲斐武田氏では、武田信満のころ(武田信武-武田信成-武田信春-武田信満)に一波乱があった。 武田信満は娘を関東管領上杉禅秀へ嫁がせていた関係から、 上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に反逆したいわゆる、上杉禅秀の乱において、 上杉禅秀側に加わったことによって、鎌倉府の軍勢に攻められ、 武田信満は自害してしまった。 足利持氏は甲斐源氏の流れをくむ逸見有直を甲斐守護としたが、 室町幕府がこれを認めなかったため、武田信満の次男武田信長の長男武田伊豆千代丸が守護となった。 しかし、幼主武田伊豆千代丸の命を聞かない守護代跡部氏の動きなどもあって、 甲斐国は動揺をつづけていたのであった。
のちに、武田信満の長男武田信重が甲斐守護として入国し、 武田信重は一族であり国人領主として勢力をはっていた逸見有直を討って甲斐国の安定化に成功し、 以降、武田信縄(武田信重-武田信守-武田信昌-武田信縄)へとつづき、 武田信縄の嫡男武田信直にいたる。 武田信直はのちに武田信虎と改名。 甲斐武田氏がそれまで本拠としていた石和館から、本拠を躑躅ヶ崎へ移したのは実に武田信虎のときであった。 以降、躑躅ヶ崎館は、武田晴信、そして武田晴信の四男武田勝頼(諏訪勝頼)にいたるまでの、 3代、約60年間、甲斐武田氏領国支配の中心となった。
武田氏の支流で、武田信武の後裔信繁の子信栄が足利義教の命によって、一色氏を討伐。その功により若狭国をたまわり、守護職として戦国時代末期まで続いている。
安芸武田家の歴史
  鎌倉時代から南北朝、さらに室町時代にかけての安芸守護については、明確に判明していないが、 建久6年(1195年)から建保5年(1217年)ごろまで、宗孝親が安芸守護だったことが知られている。 そして、承久3年(1221年)の承久の乱後、武田信光が安芸守護に補任された。 以後、安芸武田氏からは武田信時武田信宗が守護として確認され (武田信光-武田信政-武田信時-武田信宗-武田信武)、 建武の新政のなった建武元年(1234年)、武田信武が安芸守護に補任された。 しかし、鎌倉から室町時代、さらに戦国時代にかかての安芸守護は一貫して武田氏が在任したわけではない。 また、武田氏は甲斐国が本拠であったため、安芸には代官(守護代)を送って、在地支配を行っていたことが知られている。 これは、当時における在地支配の一般的なスタイルであり、武田氏が直接安芸国に下ったのは武田信武の代であった。 とはいえ、中世における武田氏の動向は甲斐はもとより、京都、若狭、安芸におよんでいて、その実態を明らかにすることは単純にはいかない。 さらに、安芸武田氏の場合、戦国末期に滅亡したことで、家伝文書が失われ、その系譜に関しても不明な点が多いのである。
いずれにしても、安芸国守護となった武田氏は佐東、安南郡方面において中小武士や在国官人を家臣化し、荘園・国衙領を押領して支配の基礎を固め、 鎌倉末期の武田信宗のとき銀山城を築き安芸における拠点とした。 鎌倉末期の動乱に際して、武田氏ははじめ北條氏に従って笠置攻めに加わっている。 建武の新政がなったのちに起った中先代の乱には、北條時行軍に加わって大打撃を受けたが、やがて足利尊氏に属した。 足利尊氏が後醍醐天皇に叛して上洛すると、武田信宗の嫡男で安芸守護の任にあった武田信武は、 安芸国内の武士をまとめて上洛しようとした。 これを熊谷蓮覚らの安芸宮方が矢野城に籠城して阻止しようとしたが、武田軍はこれを破り上洛を果たした。 以後、京都周辺を転戦したが、奥州から上洛してきた北畠顕家軍に敗れた足利尊氏が九州に奔ったのち、 武田信武の動向は知られなくなる。 九州で体制を立て直した足利尊氏は、ふたたび京都を奪回するため上洛軍を発した。 楠木正成を討ち、新田義貞を敗走させた足利尊氏は京都を制圧し、 光明天皇をたて幕府を開いた。 これを北朝といい、一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開き、以後、南北朝争乱の時代となる。 武田信武は安芸国人を率い、足利尊氏に属して各地を転戦し、足利尊氏から安芸守護の地位を安堵された。
南北朝の争乱は北朝の優勢に推移するかと思われたが、やがて、足利尊氏と弟足利直義の対立から 「観応の擾乱(1350年)」が起ると武田信武は一貫して足利尊氏に属した。 そして、足利直義の養子足利直冬党に呼応する北條氏・毛利氏・寺原氏らを討つため、 武田信武の六男武田氏信を安芸に下向させて激闘を展開させた。 しかし、武田氏信は苦戦が続き、安芸国内は動揺が続いた。 そのような中の延文4年(1359年)、武田信武が没し、甲斐国守護職は嫡男の武田信成、 安芸国守護職は六男の武田氏信がそれぞれ継承して、ここに甲斐と安芸の両武田氏に分立した。 以後、武田氏信は安芸の足利直冬党と戦いを繰り返したが、戦況は思うように展開しなかった。 そのため、武田氏信は責任を追求され安芸守護職を改替されてしまった。 そのあとは、周防・長門・石見の守護大内氏が安芸に勢力を振るい、応安4年(1471年)には、今川了俊が安芸・備後守護職を兼帯した。 とはいえ、武田氏は銀山城に拠って、安芸中央部に根強い勢力を保持していた。
武田氏信のあとを継いだ武田信在は、明徳3年(1392年)の相国寺供養に際して足利義満に供奉したことが知られる。 しかし、安芸国守護には、細川頼元渋川満頼らが補任され、 武田信在は本拠の佐東郡守護に任じられた。 これは郡守護というべき存在で、以後、安芸武田氏は安芸一国守護職に補任されることはなかった。 応永の乱(1399年)後、安芸守護には山名満氏が補任されたが、安芸国人は一揆を結んでこれに対抗した。 一揆のなかに武田氏の名はみえないが、安芸武田氏の一族をはじめ、熊谷氏、温科氏、香川氏、山県氏ら武田氏と関係の深い諸氏が加わっていることから、 安芸武田氏も一揆方に与していたことは疑いない。 その後、安芸武田氏は幕府(守護方)に帰順した。 そして、新たに山県郡守護を与えられ、さらに、永享2年(1430年)のころ武田信繁が、 佐東.山県・安南の三郡守護職の地位にあったことが知られる。 武田氏は安芸国の中枢部にあたる分郡守護に任じて、周防・長門の有力大名大内氏への抑え役としての機能を果たしたのである。
永享12年(1440年)、大和永享の乱に出陣していた武田信栄は、 将軍足利義教から一色義貫討伐を命じられた。 このとき、土岐持頼も足利義教によって殺害されている。 一色氏を討った武田信栄は、足利義教から恩賞として一色氏の遺領のうち若狭守護職と尾張国智多郡を与えられ、 分郡守護に甘んじていた武田氏は、一国守護職を得たのである。 武田信栄のあとは弟の武田信賢が継ぎ、嘉吉元年(1441年)に起った嘉吉の乱に活躍し、着々と若狭の領国支配体制を確立していった。 一方、安芸では大内氏との対立が深まった。武田氏に社領を侵食される厳島神主家が大内氏と結んで、武田氏に対して抵抗してきた。 一方、瀬戸内海の支配や対外貿易をめぐって大内氏と対立関係にあった細川氏が武田氏支援の姿勢を強めてきた。 かくして、武田氏と大内氏の対立は中央政界とも直結するものとなったのである。 ついに文安4年(1447年)、安芸において武田、大内両氏が戦闘におよんだ。 ついで、長禄元年(1457年)、大内軍は武田氏の本拠である銀山城に押し寄せてきた。 武田氏は幕府の命を受けた毛利氏、吉川氏の支援を得て、どうにか落城をまぬがれることができた。 このように武田氏は大内氏と対峙を続けたが、銀山城において武田軍を指揮していたのは武田信賢の父武田信繁であった。 当時、武田信賢は若狭の領国支配の確立に忙しく、安芸では武田信繁が分国守護代として経営にあたっていた。 そして、武田信繁が死去してのちは武田信賢の弟武田元綱がその地位を継承した。 応仁の乱(1467年)には、大内氏との対立関係から東軍細川方に属し、武田信賢は赤松政則らとともにその中核をなした。 武田信賢は弟の武田国信武田元綱らを率いて、京都で市街戦を展開した。 武田軍は東軍に属して奮戦したものの、おおむね敗戦がつづいたようだ。 やがて、武田元綱が大内方の毛利氏・福原氏らの勧誘を受け、大内方に転向した。 それと前後して武田信賢が死去し、弟の武田国信があとを継いだ。 武田国信は動揺した武田家の家督をぐと、よく勢力をまとめて危機を乗り越えた。 武田元綱が大内氏方に奔ったのは、安芸銀山城にあって父から受け継いだ安芸分国守護代的地位から脱却して、 惣領家からの分離独立を図った。 しかし、安芸の武田氏勢力は東軍に属しており、思うように独立できなかった武田元綱は大内氏に摺り拠っていったのであろう。 その後、武田元綱は兄武田国信と和解し、安芸分国の経営を任されたものの、分国守護職は兄武田国信が掌握していた。 武田国信が没したあとは嫡男武田元信が継ぎ、若狭守護職、安芸分国守護職を受け継いだ。 一方、安芸の武田元綱のあとは武田元繁が継承した。 明応2年(1493年)、管領細川政元が将軍足利義材を追放するという政変が起った。 この政変に際して、武田元信は細川方に与した。 京を逐われた足利義材は神保氏を頼って越中に逃れ、さらに大内義興を頼って山口に下向して将軍職回復への協力を訴えた。 その間、武田元信は足利義材に協力するとの噂が流れ、細川氏からその進退を疑われた。 他方、安芸では大内氏が侵攻し、さらに温科国親が武田氏に背いた。 温科氏の叛乱は熊谷膳直が討ち取ったが、大内氏との関係は悪化していた。 永正5年(1508年)、大内義興は足利義尹(足利義材)を奉じて上洛軍を起し、この陣に武田元繁も従った。 一方、京の武田元信はこれに応じるという噂もあったが、幕府軍との密接な関係を維持した。 これ以後、武田元信の子孫は若狭国を本拠とするようになり、安芸分郡の経営は武田元繁の系統があたり、 安芸武田氏は若狭と安芸に完全に分立したのであった。 その後、大内義興は足利義尹を将軍職に復位させ、京都に駐在して得意絶頂期を迎えた。 そのようなおり、上洛軍に参じていた厳島神主興親が病死したことで、その後継をめぐって一族間に内訌が起った。 国元の神領衆も東西に分かれて抗争を続けたため、大内義興は武田元繁を帰国させてこれを鎮圧しようとした。 永正12年(1515年)、帰国した武田元繁は大内義興から与えられた妻を離別し、反大内の態度を示し、 神領衆東方に与して佐西郡の己斐城を包囲した。 武田元繁の離叛に接した大内義興は、毛利興元吉川元経に命じて、 武田方の有田氏が拠る有田城を攻略させた。以後、武田元繁は大内方の毛利・吉川勢との対峙を続けた。 永正14年(1517年)、武田元繁は有田城を奪回しようとして、今田城に拠って攻撃に転じた。 武田軍の動きを知った猿懸城の毛利元就はただちに有田城救援に出陣し、 吉川氏らとともに武田軍と激戦を展開した。 そして、10月22日の中井手の合戦で、武田方の勇将熊谷元直が戦死し、 ついで、武田元繁も又内川畔で流れ矢にあたって落馬したところを毛利元就の家臣井上左衛門尉に討たれてあえなく戦死した。 この戦いは毛利元就の初陣としても有名なもので、武田氏は武田元繁の戦死によってその勢力は急激に衰退していくことになる。 武田元繁のあとは武田光和が継ぎ、大内氏と対峙した。 大永4年(1524年)、大内義興は嫡男大内義隆とともに3万余の兵を率いて、 武田光和の拠る銀山城に押し寄せた。武田氏の危機を知った尼子経久は銀山城を救援するため、 ただちに安芸に急行した。 この尼子軍のなかには、武田光繁を討ち取った毛利元就も従軍していた。尼子軍の出撃によって、 大内氏も銀山城を落すことができず兵を引き上げていった。 武田光和は厳島神主家の後継者争いで大内氏と対立した友田上野介を支援するなど、 武将として秀でたところもあったが、斜陽武田氏を復活するまでには至らなかった。 武田光和は熊谷信直の妹を室に迎えていたが、女は2年後に実家に逃げ帰り再婚してしまった。 これが原因で熊谷氏は武田氏から離反して毛利氏に走り、武田氏の衰退を一層早めた。 武田光和は熊谷氏の本城を攻めたが、熊谷氏の守備は堅くついに兵をひきあげた。 その後、ふたたび熊谷氏を攻めようとした矢先に33歳の若さで病死してしまった。 天文3年(1535年)のことで、熊谷氏の離反、当主光和の早世により、安芸武田氏の衰運は決定的となった。 武田氏家中では武田光和の後継をめぐって、重臣らが会議を開いた。 光和には子がなかったため、若狭武田氏から武田信実を迎えることになっていた。 会議で老臣の香川光景が武田信実を立てて、毛利方と和を結び、家を安泰たらしめたのちに武田元繁・武田光和の弔い合戦を行おうと意見を述べた。 これに対して、品川左京亮らが、ただちに弔い合戦をすべしとの意見を出し、会議は紛糾した。 武田光和の後継には武田信実が迎えられたものの、重臣間には亀裂が走り、品川一党は香川氏らの拠る八木城を攻撃した。 しかし、攻めあぐんでいる所へ、平賀氏、熊谷氏らはが香川氏に味方するとの報に接した品川一党は退陣した。 この状況をみた武田氏家臣らから、銀山城を逃れ去るものが続出した。事態の急変に接した武田信実も銀山城を捨てて若狭に奔った。 天文9年(1540年)、尼子晴久が毛利元就を討つため安芸に出陣すると聞いた武田信実は、 尼子晴久に銀山城再興を願いでた。尼子晴久もこれを承諾し牛尾遠江守に兵2000騎を与え、 武田信実とともに銀山城に帰城させた。 安芸に討ちいった尼子晴久は郡山城を攻め立てたが、攻略できないばかりか翌天文10年(1541年)、 大内氏の救援軍の出現と毛利方の反撃で、敗戦を喫した尼子晴久は出雲に退却していった。 ここに銀山城は孤立化し、武田信実は再び城を捨てて出雲に逃れ、多くの城兵も逃れ去った。 しかし、銀山城にはなお300余騎の兵が立て籠り、城を枕に討死を決していた。 ところが、香川氏らは毛利氏と和睦を進め、ついに銀山城は開城となった。 ここにいたって、承久の乱以来、安芸に勢力を維持してきた武田氏はまったく終焉を迎えたのである。
戦国時代の末期、毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊が知られる。 安国寺恵瓊は武田信重の子(武田元繁-武田光広-武田信重)といわれ、武田氏が滅亡したとき、東福寺末寺であった安芸安国寺に逃れ、 竺雲恵心の法弟となった。 竺雲恵心は毛利氏の外交僧としても活躍したが、安国寺恵瓊はそのあとを受けて、当代きっての外交僧となった。 毛利氏が豊臣政権下の大名になると、安国寺恵瓊も豊臣秀吉に直仕するようになり伊予6万石の大名となった。 一方で、安芸安国寺の住持。また東福寺退耕庵庵主、東福寺224世、そして南禅寺住持の公帖を受け、 禅僧としての最高位に達した。関ヶ原の戦では石田三成方に属し、戦後京都六条河原で斬られた。 安国寺恵瓊は織田信長の最期を予言したことで有名だが、 みずからの最期は関ヶ原合戦に石田三成に与して、京都で斬られた。 慧眼の持ち主であった安国寺恵瓊だったが、自分の末路までは見通せなかったようだ。
若狭武田家の歴史
  永享12年(1440年)、大和永享の乱に出陣していた武田信栄は(武田氏信-武田信在-武田信守-武田信繁-武田信栄)、 将軍足利義教から一色義貫討伐を命じられた。 一色氏を討った武田信栄は、足利義教から恩賞として一色氏の遺領のうち若狭守護職と尾張国智多郡を与えられ、 分郡守護に甘んじていた安芸武田氏は、一国守護職を得たのである。 武田信栄のあとは弟の武田信賢が継ぎ、嘉吉元年(1441年)に起った嘉吉の乱に活躍し、 着々と若狭の領国支配体制を確立していった。 一方、安芸国では大内氏との対立が深まっていた。安芸武田氏は管領細川氏の支援を得て大内氏と対抗し、 文安4年(1447年)、長禄元年(1457年)と大内氏との戦いを繰り返した。 長禄元年のときは、本拠である銀山城まで大内軍が攻め寄せたが、幕府の命を受けた毛利氏、吉川氏の支援を得て、 どうにか落城をまぬがれることができた。 このように安芸武田氏は大内氏と対峙を続けたが、銀山城において武田軍を指揮していたのは武田信賢の父武田信繁であった。 当時、武田信賢は若狭の領国支配の確立に忙しく、安芸では父武田信繁が分国守護代として経営にあたっていた。 そして、武田信繁が死去してのちは武田信賢の武田元綱がその地位を継承した。 応仁の乱(1467年)には、大内氏との対立関係から東軍細川方に属し、武田信賢は赤松政則らとともにその中核をなした。 武田信賢は弟の武田国信、武田元綱らを率いて、京都で市街戦を展開した。 やがて、安芸武田氏を束ねていた武田元綱が大内方の毛利氏・福原氏らの勧誘を受け、大内方に転向してしまった。 それと前後して武田信賢が死去し、弟の武田国信が若狭武田氏のあとを継いでいた。 武田国信は動揺した武田家の家督を継ぐと、よく勢力をまとめて危機を乗り越えた。 武田元綱が大内氏方に奔ったのは、安芸分国守護代的地位から脱却して、惣領家からの分離独立を図ったわけだが、 思うように独立できなかった武田元綱は大内氏に摺り拠っていったのであろう。 その後、若狭武田氏の武田国信は安芸武田氏の武田元綱と和解し、分国守護職は武田国信が掌握することとなった。 この時点では武田国信が若狭武田氏、安芸武田氏の両守護を兼ねるかたちとなった。 武田国信が没したあとは嫡男の武田元信が継ぎ、若狭守護職、安芸分国守護職を受け継いだ。 一方、安芸の武田元綱のあとは嫡男武田元繁が継承していた。 明応2年(1493年)、管領細川政元が将軍足利義材(足利義尹)を追放するという政変が起った。 この政変に際して、武田元信は細川方に与したが、足利義材が越中に逃れ、さらに大内義興を頼って山口に下向して将軍職回復への協力を訴えた。 その間、武田元信は足利義材に協力するとの噂が流れ、細川氏からその進退を疑われた。 他方、安芸では大内氏が侵攻し、さらに温科国親が安芸武田氏に背いた。 温科氏の叛乱は熊谷膳直が討ち取ったが、大内氏との関係はさらに悪化した。 永正5年(1508年)、大内義興は足利義尹(足利義材)を奉じて上洛軍を起し、 これに武田元綱の嫡男武田元繁も従った。 一方、細川方に与していた京の武田元信はこれに応じるという噂もあったが、幕府軍との密接な関係を維持した。 これ以後、武田元信の子孫は若狭国を本拠とするようになり、安芸分郡の経営は再び武田元繁の系統があたるようになる。 こうして、安芸武田氏は若狭と安芸に完全に分立したのであった。 甲斐武田氏から安芸武田氏が分立し、さらに安芸武田氏から若狭武田氏が分立したといえよう。 そして、若狭武田氏の祖は武田信繁の次男武田信賢ともされるが、武田信賢の兄武田信栄が将軍足利義教の命によって 永享12年5月、一色義貫を討伐した功により若狭国を賜り守護職を得たのがはじめとすべきであり、 若狭武田氏の祖は、武田信栄であろう。 ちなみに、若狭武田氏は武田元明まで続いたが、武田信栄を初代として武田元明を9代に数えている (武田元信-武田元光-武田信豊-武田義統-武田元明)。 文亀2年(1502年)、武田元信は幕府相伴衆となったものの、度重なる出兵で土一揆が勃発し、 一族が討たれるなど領国経営は苦しい状態にあった。 さらに一色氏の残党が暗躍するなどしたため、永正3年(1506年)、細川氏の応援を得て一色義有が支配する丹後へ侵攻した。 戦いは長期化し、翌年(1507年)には管領細川政元自身が軍を率いて若狭・丹後へ向かったが、 結果は武田軍の敗北となった。 その翌年(1508年)、「永正の政変」が起り、細川政元は養子細川澄元を擁する香西元長らに殺されてしまった。 その後、永正14年(1517年)になると丹後軍が若狭に侵攻。 武田元信は朝倉氏の支援を得て丹後に進撃し、丹後の一部を占領することに成功した。 武田元信は若狭の領国支配に苦労しながらも、文芸面での活躍も知られる。 三条西実隆甘露寺親長飛鳥井兄弟ら当代一流の文化人と親交を重ね、和歌、連歌、古典籍に通じていた。 そして、晩年の大永元年(1521年)10月には守護大名として異例の従三位にのぼっている。
武田元信のあとを継いだ武田元光の代になると、時代は確実に戦国の様相を濃くし、 若狭国内では丹後との緊張に加え、重臣間の軋轢も表面化してきた。 武田元光は後瀬山に新たな城を築き、守護館を山麓に移すなどして、油断のならない時代に対応している。 室町時代の守護は在京して将軍に奉仕するのが原則で、武田氏も在京することが多かった。 しかし、応仁の乱以後、幕府内部では権力闘争が繰り返され、武田元光は京から領国に下向し、以後、在国が常態化した。 そして、武田元光が築いた後瀬山城と守護館が、滅亡まで若狭武田氏の拠点となった。 管領細川氏の内訌に際して武田元光は細川高国に味方し、大永6年(1526年)末、京に出兵した。 翌年(1527年)、三好勝長柳本賢治らの軍と京都西郊で戦い、 大敗した細川高国、武田元光らは近江へ落去した。 この敗北は若狭国のもとにも波及し、丹後の海賊らが若狭の浦々を襲撃したが、国人衆の活躍でことなきをえている。 天文4年(1535年)武田元光は出家し、嫡男武田信豊に家督を譲ろうとしたが、 武田元光の次男武田信重(武田信孝)を擁立する勢力があり、にわかに波乱含みとなった。 さらに、これまで武田元光を軍事的に支えてきた粟屋党が離反し、 天文7年(1538年)には武田氏との間で武力衝突が起った。 武田元光は幕府の支援を得て内紛常態を克服、天文8年(1539年)、ようやく嫡男武田信豊の家督継承を実現した。 家督となった武田信豊は細川晴元に味方して、天文11年3月、三好長慶と河内太平寺に戦ったが、 武田氏の軍事力の中心をなす粟屋党の面々を多数失う敗戦となった。 武田信豊は武将としての素質に関しては疑問を残すが、文化面では武家故実の筆写をよくし、 連歌師宗養や吉田兼右らが若狭へ下向している。 天文21年(1552年)には、三好長慶に京を逐われた細川晴元を庇護し、連歌興行を行って細川晴元を慰めている。 同23年(1554年)、細川晴元を支援して逸見昌経や粟屋氏ら大飯郡の武士たちを丹後・丹波へ派遣し、 細川晴元方の丹波勢とともに三好党の松永長頼と戦っている。 その後、武田信豊の隱居をめぐって被官人の間で争いが起こり、 武田信豊を支持する小浜新保山城主の武田信高が没したため、家督を嫡男武田義統に讓った。 しかし、それで円満解決とはならず、武田義統と不和となった武田信豊は六角氏を頼って近江に逃げるという事態になった。 永禄元年(1558年)、武田信豊は若狭への帰国を果たすため、武田義統軍と戦うなど親子での争いが続いた。 この内紛は、武田信豊・武田義統をそれぞれ支援する家臣間の対立が背景にあり、被官人の分裂を深め、武田氏は家臣統制力を失っていったのである。 そして永禄4年(1561年)、国吉城主栗屋勝久と砕導山城主逸見昌経勢の反乱が起こった。 武田義統は朝倉氏に支援を求め、逸見氏・粟屋氏らの連合軍に立ち向かい、叛乱を制圧したものの、逸見氏、粟屋氏を討伐するまでにはいたらなかった。 その後も粟屋氏、逸見氏らの反抗は続き、 永禄9年(1566年)、逸見氏は粟屋勝久と連携して武田義統の嫡男武田元明を擁立し、 高浜と三方という東西で叛乱を起こした。 武田義統は再び朝倉氏に援軍を頼み粟屋氏を包囲すると、自らは逸見氏に立ち向かい、これを打ち破っている。 武田義統は政治力はともかくとして、武将としての素質はなかなか優れた人物であったようだ。 しかし、落日の若狭武田氏を建て直すことはできなかった。 永禄10年(1567年)4月、武田義統は父武田信豊に先立って死去し、嫡男の武田元明が家督を継いだ。 武田元明の代になると家臣の多くは武田元明を軽視し、守護とは名ばかりに過ぎない存在であった。 翌11年(1568年)、越前朝倉氏が若狭に侵攻し、武田元明は越前へ拉致された。 以後、若狭中心部は朝倉氏の支配に入ったが、被官人の一部は織田信長に通じ、 元亀元年(1570年)、織田信長が朝倉氏攻撃のため若狭へ下向すると、多くの被官人はこれに従った。 天正元年(1573年)、朝倉義景が滅亡した後、若狭は丹羽長秀に与えられた。 武田元明も一乗谷から若狭へ帰国し、粟屋勝久らかつての被官人の嘆願により織田信長から赦免され、神宮寺に蟄居したとされる。 とはいえ、その後も若狭被官人を束ねる地位にあったと考えられる。 天正9年(1581年)、逸見昌経没後、彼の所領大飯郡のうち三千石を与えられた。 翌天正10年(1582)6月、本能寺の変で織田信長が殺されたとき、勢力挽回を目論んで明智光秀に加担し兵を起こした。 丹羽長秀の佐和山城を攻め落としたものの、山崎の合戦で明智光秀が羽柴秀吉軍に敗れると、丹羽長秀に海津に呼び出され自害を強いられた。 武田元明にとって抗らうすべもなく、ここに若狭武田氏は滅亡した。 武田元明の室は京極高吉の娘で、その美貌に目を付けた羽柴秀吉が武田元明の室を手に入れるため、 武田元明を自害させたともいう。のちに、武田元明の室は豊臣秀吉の側室となり、松丸殿を名乗っている。
甲斐国
甲斐国(かいのくに)は四方を山岳が連なり、郡郷が山岳に囲まれ点在しています。 甲斐は、古くは、峡、柯斐、歌斐、加比、賀比、介賓などの文字が使われ、 いずれも字音をかりて「かひ」と読んでいました。 なかでも、峡(かい)は、山峡という意味であると『倭名抄』にあるように、 国名の由来が合点できます。 四方連衡の山岳地帯は、いたるところに高嶺と険しい渓谷をつくります。

甲斐武田家の家紋
  甲斐武田氏の家紋は有名な『割菱』。 武田氏特有の家紋であることから、『武田菱』という呼ばれ方も有名。 このほかにも『花菱』も用いられていました。 この花菱の多くは、裏紋または控え紋として用いるのですが、 女性などはやさしさを表わすために花菱を多用したということです。 しかし、この花菱も菱形を花の文様に転化させたもので、根本的には割菱と変わりません。 甲斐武田氏はいずれにしても『菱』紋で代表されています。
武田氏の紋のいわれは様様に伝わっていますが、 菱それ自身は、正倉院の御物の裂にもあるように、かなり古くから用いられたことは間違いなく、 甲斐武田氏がこれを紋として用いたとされる証拠が残っています。 塩山市にある菅田神社の「楯無の鎧」にこの紋がつけられており、 この鎧は平安時代につくられたものとみられますが、 これに割菱も花菱もともについていて、これが家紋とは断定できませんが、 武田氏の重宝につけられていることは重要な意味があるといえるでしょう。 この時代から、菱文様は武田氏と密着していたことが想像できます。 これについて『見聞諸家紋』には、 「この鎧は住吉神社の神託で、武田氏が拝領したもの。それに菱文様がついているのだから、これは家紋とみてよいだろう。」というもの。 この割菱は、おそらくは武田の「田」の字を文様化したものとされ、武田の「武」を形にしたと考えられています。 武は猛ともおきかえられ、鋭く鋭角にして、武(猛)をかたちにしたのだろうという。 やさしく花形にするほか、支流や庶流は、部分的に少し変えて用いていたことから、 武田氏の一族一門が増えれば増えるほど、菱紋の種類も増えていったとされている。