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穴山安治(小助)が独断と偏見で選ぶ甲斐の虎百将

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天文元年(1532年)小倉合戦で勝利した武田信虎はほぼ甲斐国を統一する。
武田晴信は「甲斐の虎」と恐れられているわけだが、 武田信虎、そして武田晴信を支えた武将たちを私は「甲斐の虎」と呼んでいる。
ここではそんな「甲斐の虎」たちを紹介する。 天文元年(1532年)当時の年齢も合わせて紹介。
不定期に更新していきます。「なぜあの武将がいないっ!?」などの情報があればどしどし掲示板へお願いいたします。
また選抜していますので、落選していく武将もいると思います。
諸角虎城
1460〜1540年(73歳)
諸角直政の長男。源重実の流れを汲み、浦野氏や木田氏、吉野氏を一族に持つ。山本勘助も吉野氏の流れを受けている。諸角虎城(諸角虎成)はまだ謎の多い武将で、実は板垣信方諸角虎登らの兄弟という説もあり、今後の研究によりさらに明らかになることを期待している。
青木義虎
1460〜1537年(73歳)
青木安遠の長男。武川衆の一翼を担う。一條信長の流れを受け、一條氏、武川氏、東條氏らを一族に持つ。青木信種青木信定の父であり、孫の青木信立山寺信明青木満懸らは武田晴信に仕え活躍している。弟の柳沢信興ら柳沢一族をも束ね、柳沢貞興柳沢信房柳沢信景らも武田晴信に仕えている。また折井昌勝らも一族としてともに活躍している。
荻原昌勝
1461〜1535年(72歳)
荻原慶忠の長男。山梨郡荻原村を領する。巨勢氏、倉科氏、山宮氏、古屋氏、小原氏らを一族に持つ。武田信昌から一字「昌」を拝領。武田信昌武田信縄武田信虎と三代にわたって仕え、武田信虎の傅役をつとめ、弓矢の指南役もつとめる。若き武田信虎に合戦を教授。「相図の小旗」「相図の物見」などの戦法を創始。「智略の師」と武田信虎をふくめ多くの家臣たちに尊敬されている。
小幡盛次
1471〜1519年(すでに死去)
小幡定高の次男。永正9年(1512年)から武田信虎に出仕し、荻原昌勝の相備えとして、いきなり足軽隊将の重職に登用される。「小幡日浄」としても知られ、永正12年(1515年)の大井合戦で敗走し、永正15年(1518年)には今井信是の反乱の鎮圧に向かうが討死する。
大井信達
1474〜1552年(59歳)
大井信包の長男。上野城、富田城を居城とする。今川氏親に与し度度武田信虎と戦い武田氏を苦しめた。永正14年(1517年)に武田信虎と和睦し娘(瑞雲院殿)を正室に差し出し降伏するも再び反旗を翻す。しかし亨禄4年(1531年)の武田信虎との戦いで嫡男大井信業を失い完全に臣従する。文化人としても知られ「歌道執心の法師」と評されている。
松尾信賢
1478〜1538年(55歳)
武田信昌の四男。武田信虎の叔父。山梨郡松尾郷を領す。弟諸角虎定とともに甥武田信虎に忠節を尽くし、重臣として仕えた。娘(松尾殿)が武田信虎に嫁いでいる。松尾殿が生んだ五男武田信是松尾信賢の跡を継がせている。
諸角虎定
1480〜1561年(53歳)
武田信昌の六男。武田信虎の叔父。武田信縄に仕えた諸角虎城の名跡を継ぎ諸角氏を名のる。養父諸角虎城とともに武田信虎の重臣として仕え、諸角虎定は先を読む力に長け、武勇は飫富虎昌の『赤備え』と並び賞賛されるほどであったという。永禄4年(1561年)川中島合戦で討死。
多田常昌
1480〜1540年(53歳)
武田信昌から「昌」の字を賜るほどの重臣。武田信虎に仕え諏訪氏との戦いで戦功をあげる。諏訪方面の抑えとして抜擢され築城された先達城主をつとめる。長男に多田満頼がおり、孫には多田昌治多田昌頼多田昌俊らがいる。
米倉重純
1480〜1540年(53歳)
武田信昌の重臣。武田信昌武田信縄武田信虎の三代に仕える。次男米倉重継は天文21年(1552年)の信州苅屋原合戦に新兵器として鉄砲玉除け(鉄砲や矢を防ぐ竹の盾)の竹束を工夫。竹束というのは青竹を束ねて楯をつくり、その表面に油を塗ったもので敵の放つ矢や鉄砲弾を防いだ。これに車輪をつけたものが車竹束という装甲車のことで、古代中国の三国時代にも登場しており、 中国の兵法書に精通していたことを物語っている。
青木信種
1480〜1541年(53歳)
青木義虎の長男。韮崎の白山城主。武田信縄武田信虎武田晴信に仕える。長男青木信立や孫の青木信時横手信国青木信久青木信俊青木信実曲淵信次青木信秀らをよく束ね、各地を転戦する。武川衆の一翼を担い、教来石氏らと並んで諏訪地方への抑えをつとめた。天文10年(1541年)10月20日死去した。
土屋昌遠
1480〜1540年(53歳)
 
駒井高白斎
1481〜1561年(52歳)
岩崎政時の次男。武田信虎の軍師であり側近であり右筆でもある。要害山城(積翠寺丸山城)主。 武田信虎武田晴信の参謀として代代仕える。『高白斎記(甲陽日記)』の作者でもある。政治に長け、外交官としても活躍。さらに伊那侵攻戦などにも活躍し、武将としても武田家を支えている。
今井信元
1484〜1575年(49歳)
今井信慶の次男。兄今井信是とともに度度武田信虎に反抗をしていた。亨禄4年(1531年)に兄今井信是が戦死するが抵抗を続ける。しかし天文元年(1532年)9月に本拠地の獅子吼城(北杜市)を開城。武田信虎の軍門に降ってからは武田氏に忠誠している。
曽根昌長
1483〜1540年(50歳)
武田信昌の重臣として「昌」の一字を賜る。武田信昌武田信縄武田信虎の三代に仕える。武田信虎の代になっても重臣として仕え奉行衆に名を連ねる。武田信虎の甲斐統一のため、甲斐各地を転戦し武田信虎を支えた。長男曽根縄長武田晴信の蟇目役をつとめている。
古屋満忠
1485〜1548年(48歳)
倉科信則の次男。武田信虎に従い甲斐各地を転戦。
今井信甫
1485〜1575年(48歳)
今井信乂の次男。永正12年(1515年)に兄今井信房が討死し、家督を継承。武田信虎に仕え奉行なども務め活躍。曽根信利曽根政利父子が『羽州』と称されていたのに並び、『相州』と称され、武田氏を代表する重臣にまで名を連ねている。
布施信慶
1485〜1540年(48歳)
布施信経の長男。武田信虎に従い甲斐各地を転戦。
楠浦昌勝
1485〜1540年(48歳)
楠浦昌胤の長男。
今井信隣
1486〜1575年(47歳)
今井信慶の三男。兄今井信是とともに度度武田信虎に反抗をしていた。亨禄4年(1531年)に兄今井信是が戦死するが抵抗を続ける。しかし天文元年(1532年)9月に本拠地の獅子吼城(北杜市)を開城。武田信虎の軍門に降ってからは武田氏に忠誠している。
横田高松
1488〜1550年(45歳)
南部光行の流れを汲む武田氏と同じ一族。先手先手と手を打ってつねに味方陣営を勝利に導く敵の先手を打つ戦術に優れた戦上手。合戦巧者であり智謀の将として名高い。多田満頼原虎胤小幡虎盛山本勘助らと並んで「甲陽の五名臣」の一人に数えられる。横田重晟跡部重政らも横田高松を補佐しともに活躍した。
原昌俊
1488〜1549年(45歳)
陣馬奉行という要職をつとめる。智謀の武将たちも数多い武田家中にあって「きれ者」と称される。陣馬奉行の能力いかんによって戦いの結果にも大きな影響を与えるというきわめて責任の重い要職。武田晴信原昌俊の長男原昌胤に「その方の父原昌俊は忠節忠功ある家老。その父の名を汚すことなく忠勤に励め」と話したほどの武将。
今井虎甫
1489〜1575年(44歳)
今井信乂の三男。兄今井信甫を補佐し、武田信虎に従い甲斐各地で転戦。
板垣信方
1489〜1548年(44歳)
政治機構の最高機関であった「職(しき)」を甘利虎泰とともに補任。天文16年(1547年)の碓氷峠合戦(笛吹峠合戦)で上杉憲政軍を一方的に撃破した板垣信方の采配ぶりは、「板垣の陣立てに竜神三段の構えあり」とまで賞賛されたほどだった。天文17年(1548年)の上田原の合戦で武田晴信を安全圏に逃すために戦死。
馬場虎貞
1490〜1529年(すでに死去)
大永2年(1522年)10月に平賀源心斎(大井成頼)村上義清の支援をえて甲斐国若神子へ侵入してきたときに、 迎え撃ち、村上義清らを敗走させたことで「武田信虎の家臣に猛将馬場虎貞あり」と轟かせる。ところが、亨禄2年(1529年)に武田信虎が一族加賀美虎光を討ったのを諌めたために斬首された。
加賀美虎光
1490〜1529年(すでに死去)
加賀美光清の流れを汲み、甲斐国巨摩郡加賀美庄を領す。於曽氏、伴野氏、阿刀部氏などを一族に持つ。馬場虎貞らと並び豪傑と名高い。武田信虎の重臣として重んじられたが、勘気に触れ斬首されてしまった。
跡部昌虎
1490〜1541年(43歳)
跡部利勝の長男。武田信虎の重臣。長男跡部昌直、次男跡部昌辰らを率いて甲斐各地を転戦。
南部宗秀
1490〜1549年(43歳)
南部定秀の長男。甲斐国南部城主。一戸氏、八戸氏、三戸氏、新田氏、金沢氏、北氏、石川氏、野沢氏、南氏、石亀氏、毛馬内氏、堤氏、大光寺氏、久慈氏、大浦氏、七戸氏、四戸氏、金田一氏、櫛引氏、足沢氏、九戸氏、小軽米氏、江刺氏、波木井氏などを一族に持つ。大永3年(1523年)に小山城主穴山信永を破り小山城代となる。天文17年(1548年)に乱行により甲斐から追放され会津で死去。長男南部満秀は河西姓を名のり武田晴信に仕えている。
石原守繁
1490〜1550年(43歳)
石原守種の長男。
飯田虎春
1490〜1550年(43歳)
名門逸見氏の一族。荻原昌勝加藤虎景とならび武田信虎に信頼されるほどの実力者で、幼少の武田晴信に弓馬を指南している。
小林昌喜
1490〜1550年(43歳)
小林道光の長男。
萩原虎重
1490〜1541年(43歳)
萩原昌重の長男。
日向昌時
1491〜1590年(42歳)
日向昌吉の長男。
三枝守綱
1491〜1564年(42歳)
石原守種の次男。
金丸虎嗣
1491〜1550年(42歳)
一色藤次の長男。
加藤虎景
1492〜1566年(41歳)
長坂昌房
1493〜1531年(すでに死去)
長坂頼信の長男。武田信昌武田信虎の重臣。甲斐逸見筋長坂郷を領す。妻が武田晴信の乳母となっている。
武田信虎
1494〜1574年(39歳)
「甲斐に猛虎・武田入道あり」と恐れられた。永正5年(1508年)10月4日に坊ヶ峯合戦で叔父油川信恵を討って、わずか14歳で家督を相続。大永元年(1521年)11月23日、今川氏親の重臣福島正成が駿河から甲斐へ乱入すると、上條河原合戦で福島正成を討ち辛くも勝利。天文元年(1532年)に今井信元を降伏させ甲斐を統一。
上原虎満
1494〜1579年(39歳)
信濃佐久郡平賀の出であることからも、長男上原昌辰とともに信濃佐久侵攻戦で大きな活躍をしている。長男上原昌辰武田信虎から絶大な信頼を受け、武田の守将として名を馳せている。上原虎満上原吉勝の長男上原虎種やその子たち上原種吉上原種長上原種知らをまとめあげ、上原一族を統率している。
工藤虎豊
1495〜1537年(38歳)
工藤祐包の長男。
勝沼信友
1495〜1535年(38歳)
武田信縄の次男。武田信虎の弟。郡内小山田氏を監視する重要な任務にあたった。一族と骨肉の家督争いを制し、若くして当主となった武田信虎のただ一人の弟して最も信頼された。天文4年(1535年)6月5日に武田信虎の命により今川氏との戦いのため甲駿国境に出陣し、今川氏と北條氏の連合軍と戦い戦死。
山縣虎清
1495〜1529年(38歳)
山縣信喬の次男。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。亨禄2年(1529年)に武田信虎が一族加賀美虎光を討ったのを諌めたために斬首された。
諸角虎登
1495〜1564年(38歳)
武田信虎の叔父諸角虎定には嗣子がいなかったため、養嗣子となり諸角氏を名のった。板垣信方の弟。兄板垣信方に劣らぬ猛将として知られ、弟板垣信経とともに板垣信方を補佐し信濃侵攻戦で各地を転戦。兄板垣信方死後は板垣信方にかわって上原城城代をつとめる。
内藤虎資
1495〜1537年(38歳)
内藤昌盈の長男。武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。天文6年(1537年)に武田信虎の駿河出兵について直諫したことで、工藤虎豊とともに誅殺されたという。
大井信常
1496〜1551年(38歳)
大井信達の次男。父大井信達や兄大井信業とともに武田信虎に敵対していたが、兄大井信業死後は甥大井信為を補佐し、武田信虎に仕えた。大井信為死後家督を継承しているが父大井信達より早く死去している。長男大井信舜、次男吉田信家、三男大井信禀らも武田晴信に仕え武田家を支えている。
油川信守
1496〜1550年(37歳)
油川信恵の次男。父油川信恵と兄油川信貞武田信虎に討たれてからは忠誠を誓い、信濃侵攻戦などに従軍し、各地を転戦し活躍。娘(油川殿)は武田晴信に嫁ぎ、武田盛信(仁科盛信)を生んでいる。
今井虎意
1497〜1548年(36歳)
今井信是の長男。亨禄4年(1531年)、父今井信是とともに武田信虎に反旗を翻し、天文2年(1532年)、巨摩郡小倉の浦城に籠るが、武田信虎に攻められ降伏。本拠地の獅子吼城を開城し、武田信虎の軍門に降ってからは忠誠を誓い、重臣として仕えた。
於曽信経
1497〜1550年(36歳)
板垣信斉の三男。
岩手信友
1497〜1550年(36歳)
岩手縄美油川信恵とともに武田信虎に背き坊ヶ峯合戦で討死すると、武田信虎に忠誠を近い旗奉行衆としてに仕えた。
甘利虎泰
1498〜1548年(35歳)
板垣信方とともに武田家最高の政治機構とされた「職(しき)」の任にあった。「荻原昌勝に劣らぬ剛の武者」と称され、戦場にあっては「猛り狂う野牛を野に放つごとく」と称され、陣所に備えていれば「甘利虎泰、平生の采配ぶりは、まことに見るべきものありて」と山本勘助が感嘆したという。天文17年(1548年)の上田原の合戦で戦死。
曽根信利
1498〜1540年(35歳)
曽根信友の長男。下曽根信利ともいう。信濃侵攻戦で各地を転戦し活躍。下曽根氏のなかでも曽根信利曽根政利父子は武田信虎武田晴信からの信頼も厚く、足軽大将として旗本武者奉行もつとめる。
今井貞恵
1500〜1548年(33歳)
今井信是の次男。油川信恵から一字「恵」を賜る。亨禄4年(1531年)、父今井信是とともに武田信虎に反旗を翻し、天文2年(1532年)、巨摩郡小倉の浦城に籠るが、武田信虎に攻められ降伏。本拠地の獅子吼城を開城し、武田信虎の軍門に降ってからは忠誠を誓い、重臣として仕えた。
跡部信秋
1500〜1560年(33歳)
跡部信長の長男。跡部信秋には、長男跡部信業、次男跡部大炊助勝資(跡部尾張守)がいる。 弟の跡部行忠跡部勝忠跡部行次跡部昌忠跡部昌秀跡部昌長ら跡部一族を束ね重く用いられる。跡部勝資武田晴信に仕え、武田家朱印状の奉者をつとめたほどの重臣となり、武田勝頼の近侍をつとめている。
岩崎勝秀
1500〜1550年(33歳)
岩崎信為の長男。駒井高白斎の甥。長禄元年(1457年)に跡部景家との小河原合戦で敗北し、岩崎一族は滅亡したともいわれている。岩崎信為武田信虎に仕え、勝沼信友とともに小山田氏や北條氏への抑えの役割を担う。長男岩崎政長や次男岩崎勝盛らを束ね各地を転戦。
青沼昌世
1500〜1560年(33歳)
 
多田満頼
1501〜1563年(32歳)
戦功数29度の証文をえて、身に27ヶ所の傷があったという武田信虎でさえ舌を巻きその才能を絶賛したというほどの足軽隊将。高度な指揮能力を要する夜襲戦においては右に出る者がないと称賛され、国内外にその名を轟かせる。天文9年(1540年)2月の甲州八ヶ岳山麓での小荒間合戦で村上義清軍を迎撃し戦功をたてる。
武藤信堯
1502〜1553年(31歳)
大井信達の三男。大井六兄弟の一人。大井虎昌大井虎成大井常昭ら弟たちとともに大井信業大井信常ら兄たちを補佐し、武田氏に仕えてからは重臣として活躍。
曽根縄長
1503〜1531年(30歳)
曽根昌長の長男。曽根経家を嗣ぐ。下曽根縄長ともいう。武田信縄から一字「縄」を賜る。武田信虎に仕え、今川氏や北條氏、村上氏と戦い甲斐各地を転戦し活躍した。大永元年(1521年)に武田晴信が生まれると、蟇目役に抜擢され、見事につとめたという。
今井信昌
1503〜1575年(30歳)
今井信隣の長男。武田信虎武田晴信に仕え、旗本武者奉行をつとめる。
栗原信友
1504〜1575年(29歳)
栗原信真の長男。「速攻の栗原」と称される栗原昌清の兄。武田信虎から一字「信」の字を賜る。布施氏、下條氏らを一族に持つ。栗原政長栗原忠重栗原清次栗原忠正栗原忠次ら栗原一党を束ね、武田晴信武田勝頼からも一目を置かれた。甥栗原詮冬に家督を譲っている。
曽根虎長
1504〜1560年(29歳)
曽根昌長の次男。「曽根三虎(曽根兄弟)」の一人。兄曽根縄長を嗣ぐ。武田信虎から一字「虎」を賜る。兄曽根縄長死後は曽根一党を束ね武田信虎に従い甲斐各地を転戦。今川氏や北條氏との戦いで活躍。信濃侵攻戦でも活躍。
飫富虎昌
1504〜1565年(29歳)
「武田の赤備え騎馬軍団」の首領。合戦では常に先鋒を引き受け、信濃侵攻では村上義清小笠原長時を苦しめ、剛勇ぶりは、敵、味方から、「甲山の猛虎」と恐れられる。「飫富の赤備え」と称された軍勢は合戦場で卑怯なことをさせないために目立たせたものだが、赤一色の飫富隊は、戦う前から敵の戦意を失わせるほど恐れられていたという。
大井虎昌
1504〜1560年(29歳)
大井信達の四男。
大井虎成
1505〜1561年(28歳)
大井信達の五男。
古屋昌満
1505〜1548年(28歳)
古屋満忠の長男。倉科氏、山宮氏、小原氏を一族に持つ。武田信虎に従い信濃各地を転戦。長男古屋昌安武田晴信に仕えた。弟の小原満長小原光継らも兄古屋昌満を補佐し活躍した。
栗原昌清
1505〜1552年(28歳)
栗原信真の次男。「速攻の栗原」と称されるほどの戦上手。上原昌辰小宮山昌友とともに「昌」の字を賜っており、武田信虎時代を支えた主要武将。天文12年(1543年)、小田井原合戦で戦功をあげ、天文19年(1550年)には、上原昌辰とともに地蔵峠合戦に出陣し総崩れ寸前の味方の危機を救う。常田合戦で奮戦するもこのときの負傷した傷がもとで没する。
曽根虎盛
1505〜1565年(28歳)
曽根昌長の三男。「曽根三虎(曽根兄弟)」の一人。兄曽根虎長と同じく武田信虎から一字「虎」を賜る。長兄曽根縄長死後は次兄曽根虎長を補佐し、武田信虎に従い甲斐各地を転戦。今川氏や北條氏との戦いで活躍。しかし永禄7年(1564年)に長坂勝繁らと談合し、武田義信の逆心を招いたとして、切腹させらている。
曽雌虎忠
1505〜1560年(28歳)
甘利宗信の次男。兄甘利虎泰にかわって甘利の地を守衛。武田信虎から一字「虎」を賜る。兄甘利虎泰を補佐し甲斐各地を転戦し、武田信虎を支えている。佐久侵攻戦や北信侵攻戦に従軍している。
小幡虎盛
1505〜1561年(28歳)
小幡盛次の長男。永正15年(1518年)、父小幡盛次死後に家督を継承。武田信虎に「虎」の一字を賜った。合戦では自ら斬り込み八面六臂に暴れまわり、「武田の鬼虎」と称され怖れられた。大永元年(1521年)11月の飯田河原合戦では足軽隊を指揮し、先陣を争い敵陣を撹乱。弟小幡貞長小幡虎昌小幡貞盛小幡光盛らを束ね、有力武将首をあげる手柄を立てている。
初鹿野高利
1505〜1548年(28歳)
初鹿野(初鹿)氏は、武田信時の三男初鹿時平からはじまる。天文17年(1548年)、初鹿野高利は上田原合戦で討死。
江草信恒
1506〜1582年(27歳)
江草信広の次男。武田信虎武田晴信に仕える。長男江草恒興とともに武田晴信に従い信濃各地を転戦。
穴山信友
1506〜1560年(27歳)
穴山信綱の長男。従兄穴山友勝を嗣ぐ。天文6年(1537年)に、武田信虎の次女南松院殿と婚姻。この婚姻関係により穴山氏は一門衆として、庶流のなかで唯一、最後まで「武田」苗字を使用。 軍事、外交にわたって多くの活躍をみせ、武田晴信に代がかわってからも、武田晴信の義兄として、武田信繁に並ぶほどの役割を担い名実ともに武田氏の重鎮となる。
浅利虎在
1506〜1564年(27歳)
武田信虎の重臣。逸見氏の流れを汲み、八代郡浅利郷を領し、浅川氏、八代氏などを一族に持つ。浅利虎在武田信縄の娘婿であったことから、武田信虎の義弟として重く用いられた。
秋山信任
1507〜1548年(26歳)
秋山光任の長男。加賀美氏、小笠原氏、常葉氏、下山氏、山田氏らを一族に持つ。父秋山光任油川信恵に与し武田信虎と戦っていたが、油川信恵が討たれた後は武田信虎に従った。秋山信任は「信」の字を賜り武田信虎の重臣となる。弟の秋山忠国秋山光英秋山光明秋山光清秋山光次ら秋山一族を束ね各地を転戦した。
曽根虎吉
1507〜1582年(26歳)
曽根昌長の四男。「曽根三虎(曽根兄弟)」の一人。兄曽根虎長と同じく武田信虎から一字「虎」を賜る。長兄曽根縄長死後は次兄曽根虎長に従い武田晴信の信濃侵攻戦などに従軍し戦功をあげる。
小幡虎昌
1507〜1575年(26歳)
小幡盛次の三男。父小幡盛次死後は、兄小幡虎盛をよく補佐し、武田信虎武田晴信に仕え各地を転戦。
矢戸虎守
1507〜1560年(26歳)
矢戸信守の長男。永正6年(1509年)に父矢戸信守諏訪頼満に攻められ討死してからは武田信虎に臣従。
小山田虎親
1508〜1541年(25歳)
小山田信有の長男。武田信虎から一字「虎」を賜る。天文10年(1541年)、33歳という若さで亡くなったため、弟小山田信有が家督を継いだ。
小沢昌光
1508〜1549年(25歳)
山高信方から分かれた小沢氏。武川衆の一翼を担う。山高氏、島原氏、白須氏、牧原氏らを一族に持つ。小沢貞利小沢昌長ら一族を束ね各地を転戦した。
荻原昌明
1509〜1581年(24歳)
荻原昌忠の長男。祖父荻原昌勝を嗣ぐ。祖父荻原昌勝死後は、弟荻原昌信荻原信基たちとともに叔父板垣信方の配下に属す。武田晴信の代になると、横目付衆や武田晴信の館番役、甲斐各街道の普請奉行をつとめる。合戦時は目付衆、近習とともに旗本馬廻として武田晴信の護衛にあたっている。永禄7年(1564年)に武田義信逆臣を暴く。
小原満長
1510〜1548年(23歳)
古屋満忠の長男。弟小原光継とともに武田信虎武田晴信に仕える。武田晴信に従い信濃各地を転戦。長男小原広勝、次男小原忠次らは武田勝頼に仕え天目山で奮戦した。
津金胤時
1511〜1575年(22歳)
津金胤秀の長男。長男小尾祐光や次男津金胤久、三男津金久次、四男津金久清ら津金一党を束ね、武田信虎武田晴信に仕え各地を転戦する。小尾氏や比志氏、小池氏、跡部氏、箕輪氏、村山氏、八巻氏、清水氏、井出氏、鷹見沢氏、河上氏などの一族を統率している。
駒井昌直
1511〜1595年(22歳)
駒井高白斎の長男。父駒井高白斎に従い伊那地方を転戦。また政治や外交にも活躍した。長男駒井親直や次男駒井昌時らとともに武田晴信武田勝頼の二代に仕えた。
今井信良
1511〜1575年(22歳)
今井信甫の長男。武田信虎武田晴信に仕える。父今井信甫を補佐し、武田晴信に従い信濃各地を転戦。
今井信員
1511〜1575年(22歳)
今井信元の長男。亨禄4年(1531年)に父今井信元とともに武田信虎に抵抗をしつづける。しかし抵抗しきれず天文元年(1532年)9月に本拠地の獅子吼城(北杜市)を開城。武田信虎の軍門に降ってからは武田氏に忠誠している。
板垣信憲
1511〜1552年(22歳)
板垣信方の長男。
長坂虎房
1513〜1582年(20歳)
長坂昌房の長男。母は武田晴信の乳母であったことから武田晴信の乳兄弟として育つ。武田晴信にとっては兄のような存在。板垣信方の配下として信濃侵攻戦に従軍。佐久郡侵攻、諏訪侵攻で戦功を重ね、諏訪郡代も務めている。外交官としても活躍しており、武田勝頼にも重く用いられた。
今福浄閑斎
1513〜1582年(20歳)
上原昌辰
1514〜1552年(19歳)
上原虎満の長男。板垣信方飫富虎昌の副将として、ともに信濃佐久侵攻戦に従軍している。城を守ることにかけては優れた武将であり、武田信虎から絶大的な信頼を受け、武田の守将として名を馳せた。上原昌成上原昌貞上原盛昌ら弟たちも天文年間の合戦では大いに活躍している。
諸角昌守
1515〜1575年(18歳)
諸角虎登の長男。父諸角虎登とともに武田信虎武田晴信に仕え、板垣信方の配下として信濃侵攻戦で大いに活躍する。
落合昌貞
1515〜1582年(18歳)
内藤虎資の長男。
教来石信房
1515〜1575年(18歳)
教来石信保の長男。教来石郷を本貫とし、「武川衆十二騎」の一旗頭として武田信虎の代から武田氏に仕える。一條長広の長男教来石広政からはじまる武田氏の一族。天文15年(1546年)には武田晴信によって50騎の侍大将に抜擢され、馬場虎貞の名跡を嗣ぎ、馬場信春と名のった。教来石昌房教来石氏勝教来石信義教来石房勝教来石昌松教来石信忠ら子どもたちや一族を束ねた。
相木昌朝
1516〜1590年(17歳)
相木常林の長男。源為公の流れを汲み、伊那氏、林氏、芳美氏、依田氏、手塚氏、諏訪氏、飯沼氏、芦田氏、平尾氏、片桐氏、大島氏などを一族に持つ。大井氏家臣であった相木氏であったが、村上氏の佐久侵攻により大井氏から離反。村上氏への反発から武田信虎に仕え佐久侵攻戦で地の利を活かし数多くの戦功をあげている。
青木昌基
1517〜1582年(16歳)
内藤虎資の次男。
本田重政
1517〜1575年(16歳)
諸角虎登の次男。父諸角虎登とともに武田信虎武田晴信に仕え、板垣信方の配下として信濃侵攻戦で大いに活躍する。
甘利信益
1518〜1542年(15歳)
甘利虎泰の長男。父甘利虎泰を補佐し信濃侵攻戦で各地を転戦。しかし諏訪侵攻戦で討死。
曽根政利
1518〜1583年(15歳)
曽根信利の長男。今井信甫が『相州』と称されていたのに並び、曽根政利は『羽州』と称され、武田氏を代表する重臣にまで名を連ねて、足軽大将として旗本武者奉行もつとめる。武田勝頼の代になり小諸城代をつとめるが、武田氏の衰退のなかで織田信長徳川家康に内通し、武田信繁の次男武田信豊を謀殺。滅亡寸前の武田氏に止めを刺した。
小山田信有
1519〜1552年(14歳)
小山田信有の次男。天文10年(1541年)に兄小山田虎親が死去し家督を継承。弟小山田信義とともに武田晴信に仕え、武蔵口、駿河方面の防衛の任にあたる一方で関東の北條氏に備える重要な任務をつとめる。天文16年(1547年)、志賀城攻めで戦功をあげ、天文17年(1548年)、上田原合戦では劣勢のなかで奮戦。天文21年(1552年)、常田合戦で討死。
小宮山昌友
1519〜1572年(14歳)
佐久進攻で飫富虎昌上原昌辰とともに活躍。永禄年間は諏訪城代となり、南信濃の守備隊長をつとめている。高島城代や松井田城代もつとめている。武田晴信から岩村田を与えられている。元亀3年(1572年)、武田晴信上洛戦の途次で遠江国二俣城攻めのとき、教来石信房(馬場信房)と先陣を争って城内になだれ込み、突破口を開くが戦死。
米倉重継
1519〜1575年(14歳)
米倉重純の次男。奈胡義行の流れを汲み、甲斐国巨摩郡武川筋米倉郷を領す。武田信虎20人衆徒歩若党の1人にあげられ、甘利虎泰の同心頭となり、合戦で数数の功名をあげ名を馳せた。武田晴信旗本5人衆にも加えられ、7人の足軽隊将のうちの1人となる。天文21年(1552年)の信州苅屋原合戦に新兵器の竹束を考案したことで一躍有名となった。
武田晴信
1521〜1573年(12歳)
武田信虎の嫡男(三男)。足利義晴の一字を賜り「晴信」と名のる。天文5年(1536年)11月の信濃佐久郡遠征に16歳で初陣を飾って以来、天正元年(1573年)の三河野田城生涯最後の戦いまで通算72戦している。その戦績は49勝3敗20引分けで、驚くべき勝率を誇り、織田信長徳川家康をも恐れさせた武将。

多田昌治
1521〜1575年(12歳)
多田満頼の長男として弟多田昌頼多田昌俊ら多田一党をよく束ね、信濃侵攻戦で各地を転戦。天正3年(1575年)長篠合戦で討死。長男多田昌勝は天正10年(1582年)に織田信長に捕らえられるが仕官を断り自害。多田昌俊の長男多田昌綱は、武田勝頼に従い天目山下、田野で壮絶に戦死。
油川信連
1521〜1561年(12歳)
油川信守の長男。武田晴信に忠誠を誓い勝沼信元武田信廉とともに北條氏への抑えとして勝山城を守った。信濃侵攻戦でも各地を転戦し活躍。永禄4年(1561年)9月川中島合戦で壮絶に戦死。妹(油川殿)が武田晴信に嫁いでおり五男武田盛信(仁科盛信)を生んでいる。武田盛信の四男武田信貞が油川氏を継承。
今井信俊
1521〜1595年(12歳)
今井信昌の長男。使番12人衆から足軽大将となり、駿河田中城代となるなど戦功があったが、武田滅亡後は徳川家康に召されて帰属し、文禄4年(1595年)に75歳で没した。
原康景
1524〜1575年(9歳)
原虎胤の長男。中間頭横目付20人頭をつとめる。横田高松の養嗣となり横田康景(横田綱松)と名のる。武田晴信武田勝頼に仕え、原重胤(勝重)原親胤原盛胤(原昌胤)ら弟たちを束ね、清水城代をつとめた。
古屋昌安
1525〜1575年(8歳)
古屋昌満の長男。武田晴信に従い信濃各地を転戦。
栗原詮冬
1525〜1575年(8歳)
栗原昌清の長男。武田晴信から左衛門尉に任じられ、叔父栗原信友から家督を継ぐと100騎の侍隊将として各地を転戦。白地に黒の枠を染め抜いたかたちを旗印に栗原一党を束ね、大いに活躍。長男栗原信盛が恵林寺の武田二十四将に選ばれている。
武田信繁
1525〜1561年(8歳)
武田信虎の五男。父武田信虎に寵愛される。兄武田晴信を補佐し、兄武田晴信に劣らず文武両道に優れ、副当主格としてその功は大きなものだった。天文20年(1551年)2月1日に武田氏庶流の吉田氏の名跡(吉田成春嗣)を継ぐ。天文20年(1551年)7月には北信濃侵攻にあたり先陣の総大将をつとめた。
勝沼信元
1526〜1560年(7歳)
勝沼信友の長男。武田晴信の従弟。武田晴信出陣中に留守居役を担当していた重臣。永禄3年(1560年)、長尾景虎関東侵攻の際に、長尾景虎の調略により謀反を企てる。武田晴信に捕えられ成敗された。
原昌胤
1526〜1575年(7歳)
原昌俊の長男。陣取りの名手と名高く陣馬奉行として卓越した才能を発揮。武田晴信からの信頼は非常に厚く「陣取りのことは隼人に任せよ」と言わしめた。「原昌胤は敵国深く攻め込む際も後備にて優れた陣取りを行い、他国にて山中など道知らぬ所でさえも一目で見分けること、武田家中にこの人一人」と絶賛されている。
秋山信友
1527〜1575年(6歳)
秋山信任の長男。駒井高白斎の家臣として各地を転戦し頭角をあらわす。わずか21歳ながら、天文16年(1547年)には平定間もない伊那地方の郡代にまで任じられ、重要拠点とされていた高遠城の守衛にあたっている。三方ヶ原合戦では徳川家康に「さても秋山信友、武田の猛牛に似たる恐ろしき男ぞ」と云わしめたという。
武田信廉
1528〜1582年(5歳)
武田信虎の六男。甲府の東部方面の守衛の任を担い、桜井を所領する。永禄3年(1560年)に武田晴信に滅ぼされた同族勝沼氏の同心衆たちを配下とし、勝沼氏がそれまで担っていた小山田氏や北條氏への抑えの役割を代わって担う。天正10年(1582年)に織田軍に攻められるとほとんど抵抗をみせずに甲斐へ撤退し、織田信忠に捕まり斬られた。
荻原昌之
1529〜1600年(4歳)
荻原昌明の長男。父荻原昌明に従い板垣信方の配下として信濃侵攻戦で各地を転戦。
小原広勝
1531〜1582年(2歳)
小原満長の長男。
早川幸豊
1533〜1571年(まだ生まれていない)
武田信光の九男早川信平からはじまる早川氏。一條氏、馬淵氏、山田氏、一宮氏、上條氏、円井垣氏らを一族に持つ。戦国期に早川幸豊武田晴信に仕え各地を転戦している。
小幡昌盛
1534〜1582年(まだ生まれていない)
小幡虎盛の長男。天文17年(1548年)、15歳で初陣。塩尻峠合戦で父小幡虎盛とともに得意とする夜襲で敵陣を急襲し功名をあげる。連戦につぐ連戦で「鬼虎のうしろに小鬼あり」「末頼もしき若武者よ」と評され原虎胤からも将来を期待される。従兄小幡信広小幡家長らを束ね海津城代をつとめた。
小原忠次
1534〜1582年(まだ生まれていない)
小原満長の次男。
甘利昌忠
1534〜1565年(まだ生まれていない)
天文17年(1548年)、父甘利虎泰戦死の3日後に、武田晴信の命により家督を継承。天文16年(1547年)の碓氷峠合戦(笛吹峠合戦)ですでに初陣し、弟甘利信康ら甘利一党を束ね信濃侵攻戦や上野進攻戦で各地を転戦し活躍。
一條信龍
1539〜1582年(まだ生まれていない)
武田信虎の十一男。名門一族一條時信の名跡を継承。天文22年(1553年)川中島合戦が初陣。山縣昌景をして「伊達男にして花麗を好む性質」と洒落者でなかなかに風流を解する文化人でもあった。天正10年(1582年)2月、徳川家康の進攻を市川陣地に踏みとどまり、最期まで徳川家康軍を相手に反抗し戦死。

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