武田家の戦友(家老衆/譜代衆)
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萩原(荻原)常陸守昌勝
1461年〜1535年。萩原(荻原)昌勝は武田信虎の弓矢の指南役で、晴信の12歳の頃、70余歳で亡くなっている。
駒井高白斎政武
1481年〜1561年。武田信虎の重臣。武田晴信の参謀。
『高白斎記』という日記を記した。1498年から1553年(天文22年)までの55年間の武田氏を中心とした記録である。『甲陽日記』ともいい、諏訪頼重、高遠頼継、小笠原長時、村上義清らに対する武田晴信(信玄)の軍事行動が、微細なところまで記されている信頼度の高い史料である。『妙法寺記』とともに、武田晴信(信玄)研究の根本史料となっている。
駒井右京亮昌直
1511年〜1582年、右京進、昌時。駒井政武の長男。
飫富兵部少輔虎昌
1504年〜1565年、飫富源内長能。南巨摩郡中富町一帯を領する。飫富虎昌は、合戦では常に先鋒を引き受け、信濃侵攻では村上義清や小笠原長時を苦しめ、その剛勇ぶりは、敵、味方から、「甲山の猛虎」と恐れられた。天文17年(1548年)、村上義清を助けるため、上杉憲政は8000の軍勢を率いて飫富虎昌の守備する内山城を攻めたが、虎昌は800の城兵を指揮して奇襲作戦を展開し、上杉軍を右往左往させたという。
飫富昌時
1524年〜1567年、古屋昌時。飫富虎昌の長男。
飫富三郎兵衛尉昌景
1530年〜1575年、源四郎、山縣昌景。
飫富昌満
1546年〜1575年、山縣昌満。飫富昌景の長男。
飫富信継
1549年〜1575年、山縣信継。飫富昌景の次男。
飫富昌純
1554年〜1575年、山縣昌純。飫富昌景の3男。
飫富左兵衛昌次
1560年〜1575年、山縣昌次。飫富昌景の4男。
飫富昌忠
1560年〜1575年、新宮昌忠。飫富昌景の5男。新宮家嗣。
跡部信秋
1520年〜1575年、祖慶。
跡部信業
1546年〜1617年、和田信業。跡部信秋の長男。和田業繁嗣。和田業繁が武田家に仕えたときに養子に入ったとされる。
跡部業保
1575年〜1615年。跡部信業の長男。
跡部大炊助勝資
1547年〜1582年、勝次。跡部信秋の次男。
跡部昌勝
1570年〜1610年。跡部勝資の長男。
跡部勝忠
1503年〜1575年。
跡部右衛門重政
1523年〜1575年。跡部勝忠の長男。
跡部昌忠
1528年〜1565年。跡部勝忠の次男。
跡部昌秀
1509年〜1565年。
跡部昌長
1529年〜1565年。跡部昌秀の長男。
加津野昌世
1513年〜1565年。
小幡上総入道日浄
1471年〜1519年。
小幡山城守虎盛
1505年〜1561年、孫十郎、日意、山城入道。武田信虎、武田晴信の2代に仕えた重臣。武田信虎にいたく気に入られ、一字を与えられて虎盛と名乗った。
合戦では自ら斬り込み八面六臂に暴れ回り、「鬼虎」の異名で恐れられた。生涯で36度の合戦に出陣し、36枚の感状を授かったという。全身に40以上の傷を持つ、歴戦の勇者である。川中島合戦直前に病没した。
小幡豊後守昌盛
1534年〜1582年。小幡虎盛の長男。武田晴信の家臣として信濃海津城の守備に就く。49歳で病没した。
小幡昌忠
1558年〜1582年。小幡昌盛の長男。
小幡在直
1568年〜1620年。小幡昌盛の次男。
小幡勘兵衛景憲
1572年〜1663年、熊千代、孫七郎、小幡道牛。小幡昌盛の3男。
小幡光盛
1541年〜1575年。小幡虎盛の次男。
原加賀守昌俊
1488年〜1549年、国房、胤元。一条庄高畠郷を領する。陣馬奉行という要職をつとめる。陣馬奉行とは、合戦場において布陣する際、地の利、水の利など地形をよく見極めて、味方が有利に戦える場所を選定する役目のことである。作戦計画がいかに良くても、陣取り次第によっては苦境に追い込まれてしまう可能性も高い。したがって、陣馬奉行の能力如何によって戦いの結果にも大きな影響を与えるだけに、その責任はきわめて重いものであった。
原隼人佑昌胤
1526年〜1575年、原隼人佐、昌勝。天文18年(1549年)に家督を継ぐ。武田晴信は昌胤を召して「その方の父、加賀守は信虎公より我らまで、度々の忠節忠功ある家老なり。その父の名を汚すことなく忠勤に励め」と言ったという話が伝えられている。晴信の期待どおり、昌胤も陣馬奉行として卓越した才能を発揮した。その信頼は非常に厚く、「陣取りのことは隼人に任せよ」と言わしめたとされる。陣馬奉行は、常に本陣の隣に陣を張り、重大な役目を果たすために、直接戦闘に参加することは少なかった。しかし、長篠合戦では、120騎を率いて織田方へ突撃し、つるべ打ちの銃弾を浴び、壮絶な戦死を遂げた。
原昌栄
1546年〜1600年。原昌胤の長男。
原隼人助貞胤
1566年〜1630年。原昌栄の長男。越前少将松平忠直の使番に原貞胤という者があり、武田の旧臣で幸村と旧友であった。大阪冬の陣が和睦になって後、真田方へ原を招待して色々馳走した。幸村は小鼓を取り出し、子の大助に曲舞を2、3番舞わせ、後に茶をてんじて持成した。幸村は、「今度討ち死すべきところ、計らず御和睦になり今日まで存命し、2度お目にかかれたのは嬉しいことです。不肖ですが、一方の大将を承ったこと、今生の思い出、死後の面目と存じます。御和睦も一時のこと、やがてまた戦いがはじまるでしょう。信賀(幸村)父子も、一両年中には討ち死と思い定めております。ごらん下さい。床に飾っておく鹿の角打った兜は、真田重代の宝ですが、父の安房守から信賀に伝えられました。最とおぼしめして、一遍の御回向をお願いします。君の為に討ち死するのは武士の習ですが、忰大助は、これぞと思う事にもあわず、一生浪人で、年15歳になるが早いか、戦場の苔と埋もれること、誠に不憫でございます。」と涙ぐんだ。早とも涙を流し、「ああ、武夫ほどはかないものはない。戦場に赴く身は、誰が先後を定めましょう。必ず冥途でお会いしましょう。」と語りあった。
その後、幸村は白河原毛のたくましい馬に、六文銭を金で摺り出した鞍を置いて引き出し、ゆらりと乗って5、6度静かに乗り回し、「もし重ねて合戦があったなら、御城は破却せられたことゆえ、必ず平場の合戦となりましょう。天王寺表へ乗り出し、東方の大軍に渡り合い、この馬の息のつづくほどは戦って、討ち死すべしと存じ、秘蔵しております。」と言って、馬からおり、これが今生の暇乞いとまた盃を指し、夜半に及んで立ち別れた。はたして翌年5月7日、その兜を着け、その馬に乗って討ち死したという。(『武林雑話』、『旧伝集』)
上原伊賀守昌辰
1514年〜1552年、小山田昌辰、備中守。昌辰自身は1552年に死去したといういわれが一般的であるわけだが、文献によれば上原氏が小山田氏を名乗るのは1553年のこととされる。上原昌辰は飯富虎昌の家臣として信濃侵攻で活躍する。上原昌辰は城を守ることにかけては優れた武将であり、武田信虎にも信頼され、信濃侵攻の頃の武田家では上原昌辰が慣例的に守将になっていた。飯富虎昌が信州内山城主を務めたとき小山田性を名乗り、その後武田晴信の命によって上原昌辰が飯富虎昌の跡を襲って小山田氏を名乗ったとされる。高遠城の攻防戦で、弟上原昌貞とともに戦死したとされる。
小山田備中守昌行
1538年〜1582年、上原昌行、備中守。小山田昌辰(上原昌辰)の嫡男。武田家が戸石崩れの際、地蔵峠で討死したとされる。また高遠の合戦で討死したともされるが…いずれにしてもちょっとね。どうやって茂誠が生れたんだってことになっちゃうからね。
小山田壱岐守茂誠
1567年〜1642年、六左衛門。小山田昌行の子。真田昌幸の娘(村松)婿。
配流地の真田幸村が心を許した義兄。その姓が示すとおり、甲斐武田の臣・小山田氏の一族である。
同氏には出羽守信有、越前守信茂と続く郡内小山田氏と、備中守昌辰から備中守昌行と続く石田小山田氏の二系統があり、
茂誠は「後の備中」と称され高遠の合戦で討ち死にした石田小山田昌行(上原昌辰の子)の子。
天正10年(1582年)昌幸と戸石城に籠り、武田家滅亡後は昌幸長女の村松殿(宝寿院)を娶り真田の重臣となった。
幸村同腹の姉の夫である。関ヶ原では信幸に従っていた模様で、戦後、真田家で信幸を当主とする新体制が確立すると、茂誠も家老として同家に留まった。
九度山に蟄居した旧主であり、舅の昌幸に対しては立場上、表立って接触を図ることはできなかったが、
折をみて日用品や食料などを手紙を添えて差し入れていた。また、義弟である幸村にとっては気の置けない人物であったらしく、九度山にある時も、また大阪城に入った後も、幾度となく茂誠に対して近況を記した書簡を送っている。
幸村は「歯も抜け、髭などもほとんど白くなり、身体も弱くなって」と蟄居中の弱音を漏らし、「何とかもう一度お目にかかりたい」と気取りのない心情を吐露している。
虚飾のない「戦国武将」真田幸村の人柄・心情を最もよく知っていたのは、他ならぬ茂誠であったのかもしれない。
元和元年(1615年)3月、一時講和の成った大阪城で、幸村は茂誠に対して書状を発した。「定めのない浮世、明日の事も知れません。我々の事はこの世に無い者と思ってください」知られている限り、これが幸村の絶筆である。
小山田主膳之知
1587年〜1660年。小山田茂誠の子。母は真田昌幸の娘(村松)。
小山田辰行
1540年〜1615年。小山田昌辰(上原昌辰)の次男。他にも、小山田藤介、小山田浅右衛門(上原兵庫)など兄弟がいたとされる。
上原大学介昌貞
1515年〜1552年、小山田昌貞。小山田昌辰(上原昌辰)の弟。他にも、上原盛昌、上原彌助など弟がいたとされる。
山縣河内守虎清
1490年〜1530年、虎貞。
内藤虎賢
1495年〜1530年。
馬場伊豆守虎貞
1495年〜1530年。
土屋昌遠
1511年〜1560年。
土屋備前守直規
1531年〜1575年。
工藤下総守虎豊
1490年〜1530年。虎豊は武田信虎の勘気に触れて誅されてしまった。
工藤長門守昌祐
1520年〜1582年、憲七郎。工藤虎豊の長男。父虎豊が武田信虎の勘気に触れて誅されたため、弟昌豊とともに甲州を出奔。
工藤源左衛門祐久
1550年〜1600年、昌豊。工藤昌祐の長男。
工藤藤九郎
1570年〜1600年。工藤祐久の長男。
工藤源左衛門尉昌豊
1522年〜1575年、工藤祐長、内藤修理亮昌豊、修理正。工藤虎豊の次男として生まれる。工藤下総守虎豊はかつて武田信虎の勘気に触れて誅殺された。このため彼の一家は、一時甲斐から出奔していたが、武田晴信が信虎を追放して当主になると早速呼び戻された。晴信から信虎の粗暴な行為を謝罪され、流浪の身をねぎられて金子や所領まで与えられれば、昌豊の感激はいかほどか察せられるであろう。個人の力量が全ての価値基準だった戦国の世に、多くの功名に輝きながら武田晴信から一通の感状も受け取っていない武将がいる。それが昌豊である。「合戦は大将の軍配によってこそ勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さいこと」だからという。これは昌豊の度量を示す人となりを説く際に、必ず引かれる逸話であるが、それまでの晴信と昌豊の信頼関係からすれば、感状などといった手形は必要なかったともいえよう。武田家中で、優れた主君に仕える幸福を誰よりも感謝していたのは、恐らく彼であったろう。それ故、晴信によって活躍の場を得た昌豊は、晴信の死とともに消える運命だったのかもしれない。長篠合戦での戦死はまるで自殺のようであったという。
工藤昌秀
1542年〜1572年、内藤昌秀。工藤昌豊の長男として生まれる。
工藤修理種次
1547年〜1600年、内藤種次。工藤昌豊の次男として生まれる。武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
工藤種昌
1567年〜1620年、内藤種昌。工藤種次の長男として生まれる。
原胤房
1457年〜1500年。千葉一族の上総原家臣。
原能登守友胤
1477年〜1514年。原胤房の長男。千葉一族の上総原家臣。
原美濃守虎胤
1497年〜1564年、虎種、清岩。原友胤の長男。甲斐源氏の庶流出身者が多い武田家臣の中で、彼は千葉一族の上総原氏の末裔であるとされる。
甲斐武田家は上総の真里谷武田家とも深い関わりをしていたことも、虎胤が下総原家から甲斐武田家に流れてきたことに関係があるかもしれない。
虎胤は1515年18歳のとき、武田信虎を頼って流れてきたという。「鬼美濃」という異名が示すように、38度の合戦で全身に受けた疵は53ヶ所を数えたという猛将である。
だが、彼は残忍な猪武者ではなかった。傷ついた敵将を敵陣まで送り届けて労るなど、情けも持ち合わせていた。戦闘が集団戦に突入しつつある時代にもかかわらず、「いくさ」に美学を持って臨んでいたのかもしれない。
原大隅守康景
1524年〜1575年、十郎兵衛、虎義、横田康景。原虎胤の長男。横田高松嗣。
原光景
1544年〜1635年、横田光景。原康景の長男。
原勝重
1527年〜1575年。原虎胤の次男。
原盛胤
1530年〜1575年。原虎胤の3男。
原胤清
1483年〜1557年。原胤房の次男とされる。千葉一族の上総原家臣。兄原友胤嗣。
下総原氏は千葉家の庶流で代々家老をつとめてきた。小弓城を足利義明に奪われるが、相模北條家の協力で奪還した。千葉親胤暗殺の実行者といわれている。
原胤貞
1507年〜1566年。原胤清の長男。生実城主。善政を行い声望を高めた。里見配下の正木時茂と争い、しばしば領内への侵攻を受けた。
原胤栄
1536年〜1590年。原胤貞の長男。臼井城主。筆頭家老として実権を握る。実質上、千葉家の執政者として相模北條家からの命令により行動していた。
原胤親
1537年〜1590年。原胤貞の次男。
原親幹
1540年〜1600年。原胤貞の3男。
原邦房
1560年〜1620年。原親幹の長男。
原胤道
1510年〜1570年。原胤清の次男。
原胤成
1547年〜1600年。原胤道の長男。
原胤信
1587年〜1623年。原胤成の長男。
三枝丹波守守綱
1491年〜1564年。石原守種の次男。三枝家の名跡を継ぐ。
三枝土佐守虎吉
1511年〜1584年。三枝守綱の長男。
三枝勘解由左衛門尉守友
1539年〜1577年、宗四郎。虎吉守綱の長男。
三枝守吉
1560年〜1630年。虎吉守友の長男。
三枝新十郎守直
1542年〜1561年。虎吉守綱の次男。
三枝守義
1545年〜1625年。虎吉守綱の3男。
三枝昌吉
1549年〜1624年。虎吉守綱の4男。
多田淡路守満頼
1501年〜1563年、三八、昌澄、昌利。
多田治部右衛門昌頼
1534年〜1582年、新蔵、久蔵。多田満頼の長男。
多田昌綱
1567年〜1605年。
横田備中守高松
1488年〜1550年、俊昌。
横田重郎兵衛綱松
1525年〜1575年、忠重。横田高松の長男。
横田尹松
1548年〜1575年。横田綱松の長男。
才間河内守
1483年〜1548年。
米倉丹後守重継
1519年〜1575年、重純。足軽大将。天文21年(1552年)に信州苅屋原合戦に鉄砲玉除けの竹束を工夫したことで有名である。天正3年(1574年)長篠合戦にて討死した。
米倉彦三郎忠継
1544年〜1575年。
加藤駿河守虎景
1492年〜1560年。加藤虎景は御旗本武者奉行である。武田晴信の弓矢の指南役。
加藤駿河守景忠
1522年〜1575年、昌頼、昌忠。加藤虎景の長男。
加藤信景
1542年〜1575年。加藤景忠の長男。
加藤信邦
1528年〜1575年。加藤虎景の次男。
教来石民部少輔信房
1515年〜1575年、景政、信勝、氏勝、氏房、信武、信政、政光、玄蕃、民部大輔、馬場美濃守信春、法名乾叟白元居士。教来石遠江守房政(信保)の長男。1546年に馬場虎貞嗣。
教来石昌房
1534年〜1575年、信春。教来石信房の長男。
教来石信義
1554年〜1600年。教来石昌房の長男。
教来石房勝
1535年〜1575年。教来石信房の次男。
教来石房家
1555年〜1575年。教来石房勝の長男。
教来石昌松
1538年〜1590年。教来石信房の3男。
教来石信頼
1517年〜1575年。教来石房政(信保)の次男。
教来石信久
1537年〜1575年。教来石信頼の長男。
教来石信成
1537年〜1575年。教来石信久の長男。
日向大和守昌時
1491年〜1590年。日向大和守は武田信虎に仕え、長命にて天正壬午の年まで生き長らえている。
小宮山丹後守昌友
1519年〜1564年、昌清。武田晴信の重臣。侍大将として永禄年間は諏訪城代となり、松井田城を守ったこともある。。
小宮山数馬友晴
1542年〜1615年。天目山麓から武田勝頼の遺児である次男の勝千代(当時7歳)を伴って逃れ、真田昌幸を頼ったとされる。
その後は真田昌幸に仕え、関ヶ原敗戦後、真田昌幸、真田幸村父子に伴い紀州へ従った。
長坂釣閑斎虎房
1524年〜1582年、光堅、左衛門、左衛門尉、金吾入道。
長坂源五郎勝繁
1537年〜1565年。長坂虎房の長男。
春日源五郎虎綱
1527年〜1578年、昌宣、晴昌、晴久、源助、高坂(香坂)弾正忠昌信。石和の豪農、春日大隅守の長男。高坂(香坂)筑前守嗣。
春日源五郎昌澄
1547年〜1575年。春日虎綱の長男。
春日昌貞
1552年〜1583年。春日虎綱の次男。武田家滅亡後は真田家とともに行動をとる。真田家が越後上杉家から相模北條家に離反する際、昌貞も越後上杉家を離反し相模北條家につく手はずであったが、上杉景勝に見破られ首をはねられた。
このことが北條氏直の士気を下げ、相模北條家は大軍をみすみす撤退させたという。
春日又八郎助宣
1529年〜1575年。春日大隅守の次男。
春日惣二郎元忠
1559年〜1608年、惣次郎。春日虎綱の甥。『甲陽軍鑑』を叔父春日虎綱から書き継いだ。
青木信種
1510年〜1575年。
青木信立
1530年〜1590年、信親。青木信種の長男。
青木時信
1550年〜1590年。青木信立の長男。
青木信実
1552年〜1590年。青木信立の次男。
市川梅隠斎昌房
1520年〜1565年。
市川宮内亮国貞
1540年〜1575年。
鮎川勝繁
1507年〜1565年。
楠蒲虎常
1509年〜1565年。
今福浄閑斎友清
1513年〜1575年、浄閑斎入道。
今福友実
1533年〜1575年。今福友清の長男。
今福友直
1553年〜1620年。今福友実の長男。
今福昌常
1537年〜1575年。今福友清の次男。
今福丹波守友久
1539年〜1575年。今福友清の3男。
今福昌和
1543年〜1582年。今福友清の4男。
初鹿野伝右衛門高利
1480年〜1548年、傳右衛門、傳右衛。
初鹿野信昌
1505年〜1575年。初鹿野伝右衛門の長男とされる。
初鹿野信吉
1525年〜1565年。初鹿野信昌の長男。
初鹿野昌次
1545年〜1624年。初鹿野信吉の長男。関東攻めで表が香車、裏が金という『成金』をあしらった陣羽織を着て評判となる。
武田滅亡後は徳川家に仕えた。
初鹿野昌重
1547年〜1582年。初鹿野信吉の次男。
初鹿野源五郎忠次
1534年〜1561年。初鹿野信昌の次男。武田義信の補佐役。
初鹿野昌久
1537年〜1575年。初鹿野信昌の3男。