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小助の部屋/滋野一党/甲斐武田氏(親族衆/一門衆/家老衆/譜代衆/外様衆)

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[源氏/甲斐源氏/親族衆/一門衆/家老衆/譜代衆]
多田淡路守満頼馬場伊豆守虎貞原加賀守昌俊原隼人佑昌胤津金美濃守胤時 
逸見信親飫富兵部少輔虎昌    
甘利備前守虎泰甘利左衛門丞昌忠板垣駿河守信方諸角玄蕃允虎登飯田但馬守虎春小宮山丹後守昌友
武田左京太夫信虎武田大膳大夫晴信    
武田太郎義信武田次郎信親武田三郎信之武田三郎信清  
武田左馬助信繁武田左馬助信豊武田刑部少輔信廉武田右衛門大夫信龍武田彦次郎信次 
勝沼安芸守信友勝沼丹波守信元油川刑部少輔信恵岩手治部省輔縄美松尾次郎信賢諸角豊後守虎定
穴山甲斐守信綱穴山伊豆守信友穴山玄蕃頭信君曽根出羽守政利曽根三河守昌長 
今井左馬助信甫今井尾張守信是今井安芸守信元荻原常陸介昌勝荻原豊前守昌明 
栗原兵庫助信真栗原左衛門佐昌清    
大井上野介信達落合遠江守弘吉山縣河内守虎清初鹿伝右衛門高利岩崎筑後守信為駒井高白斎政武
教来石民部少輔信房秋山新左衛門信任秋山伯耆守虎繁跡部伊賀守信秋伴野刑部少輔貞慶長坂筑後守虎房
南部肥後守満秀横田備中守高松    
加賀美信濃守虎光今福浄閑斎友清米倉丹後守重継浅利伊予守虎在加津野孫四郎昌忠青沼助兵衛忠吉
上原備中守昌辰萩原備中守虎重芦田下野守信守相木能登守昌朝山本勘助晴幸内藤相模守虎資
[平氏/親族衆/家老衆/譜代衆]
土屋右衛門尉昌遠原美濃守虎胤原大隅守康景   
小山田越中守信有小山田出羽守信有小山田弥三郎信有小山田右衛門尉信茂小幡山城守虎盛小幡豊後守昌盛
[家老衆/譜代衆/外様衆]
工藤下総守虎豊工藤源左衛門尉祐長日向大和守昌時加藤駿河守虎景小林尾張守道光小林和泉守昌喜
三枝土佐守虎吉三枝勘解由左衛門尉昌貞    
温井常陸介景宗春日源五郎虎綱楠浦刑部少輔昌勝   
安間三右衛門弘家金丸筑前守虎義金丸平八郎昌次井上新左衛門市河信房山縣三郎右衛門尉昌景

多田淡路守満頼1501〜1563年

多田昌澄、昌利、三八、三八郎ともいう。 多田常昌の長男。足軽大将。甲陽五名臣の一人に数えられる。
多田常昌武田信昌から「昌」の字を賜るほどの重臣。 武田信虎の代になっても重臣として仕えた。諏訪方面の抑えとして多田常昌を抜擢。先達城主をつとめた。 多田常昌の長男多田満頼武田信虎に仕え重用された。
源頼綱の長男多田明国からはじまる多田氏。多田明国から多田行国多田頼盛へとつづく。 武田信虎の代では多田満頼が仕えた。
『甲陽軍鑑』によるが美濃国出身ともいわれる。『多田系図』には多田満頼を通称三八郎とし、初名を多田昌澄、のちに多田昌利と名のったと記されている。 戦功数29度の証文をえて、身に27ヶ所の傷があったという。 武田信虎でさえ舌を巻きその才能を絶賛したというほどの足軽隊将。 特に高度な指揮能力を要する夜襲戦においては右に出る者がないと称賛され、 国内外にその名を轟かせていた。武田晴信の代になっても全幅の信頼をうけ、 板垣信方原虎胤ら強者とともに信濃制圧に貢献。 『甲陽軍鑑』では武田信虎が「武田家中で弓矢巧者、武辺に覚えの武将をあげれば、侍隊将では板垣信方甘利虎泰飫富虎昌上原昌辰原昌俊諸角虎定の6人、 足軽隊将では横田高松多田満頼原虎胤小幡虎盛の4人がいる」と10人の名をあげて今川義元に自慢したと記している。 また、「武田晴信公、御家老、軍法工夫の衆、侍隊将に8人、足軽隊将に7人、このほか7人」とあり、小身衆として横田高松多田満頼原虎胤小幡虎盛山本勘助米倉重継加藤虎景」と記している。 武田晴信の代になって多田満頼横田高松原虎胤小幡虎盛山本勘助とともに「甲陽の五名臣」にあげられたとしている。
『甲陽軍鑑』には天文9年(1540年)2月に甲州八ヶ岳山麓の小荒間(北巨摩郡長坂町小泉)で合戦があったと記されており、 村上義清麾下の清野氏、高梨氏、井上氏、隅田氏らが2500余の軍勢で佐久郡から甲信国境を越えて侵入し、 八ヶ岳山麓の小荒間まで進攻してきて近郷に放火するなど乱暴を働いたという。 多田満頼がみごとな夜襲戦の采配をふるって計略によって敵を迎撃し、甲州軍随一の武功を立てたと記されている。多田満頼が40歳のときである。 しかしこの小荒間合戦は『甲陽軍鑑』だけの記述で、他の史書『高白斎記』『王代記』などには全く記されていない。
上田原合戦や戸石城攻めにも従軍する。 虚空蔵山城(上田市上塩尻)の守将をつとめていたとき、「火車鬼」という地獄の妖怪(仏典因果経の説く妖婆)を退治をしたという逸話も残る。 『甲斐国志』によれば「虚空蔵山を根城に付近一帯を荒しまわっていた女賊を地獄の火車鬼と異名して恐れていたのを成敗したことから、多田満頼の妖怪退治の伝説が生まれた」と記している。 『裏見寒話』の「鬼の湯」伝説にも多田満頼の妖怪退治話が出てくる。
永禄4年(1561年)9月、『武隠草語』によると川中島合戦には多田昌治の嫡男多田昌勝(多田新蔵)が跡目を継ぎ、淡路守も継承されて称し足軽隊を率いたという。多田満頼にとっては孫にあたる。 多田満頼は永禄6年(1563年)12月、病死。享年63歳。法名は宗樊。
多田満頼には長男多田三八郎昌治(多田新八郎正春)、 次男多田八右衛門昌頼、三男多田治部右衛門昌俊(多田満俊)がいる。 多田昌治には長男多田新蔵昌勝(多田正勝)がおり、多田昌勝には長男多田三八郎昌吉(多田正吉)がいる。 多田昌吉には長男多田正長、次男多田正次、三男多田正重がいる。 多田正長には長男多田正信多田正次には長男多田正行、次男多田正親、三男多田正豊がいる。 多田昌俊には長男多田昌綱(多田久蔵)、次男多田昌繁(多田角助)がいる。
多田昌治(多田正治)は、天正3年(1575年)長篠合戦で討死した。 赤地に唐織の錦の下帯をつけた多田昌勝(多田新蔵)も長篠合戦で奮戦むなしく織田軍に捕らわれてしまい、 『常山紀談』によれば、生け捕りにされても名を名のらず「さらば雑人の手にかけん。名のある武士ならば腹を切らせる」といわれてはじめて名を名のったという。 織田信長に「淡路(多田昌治)に多田新蔵多田久蔵兄弟ありと聞くが、いずれぞ」と問われ、 「新蔵なり」と答えたので、織田信長が「立派な勇者である。助けてとらすぞ。悪源太も捕らわれの身となったこともあり恥ではない。われに奉公せよ」と言って縄をとかせたところ、 多田昌勝(多田新蔵)は「生け捕りは恥辱。即刻首を刎ねるべし」と、立ち上がるなり突然かたわらの槍を奪いとって周囲にいた数人をあっという間に突き倒したため、 長谷川藤五郎に斬り殺された。織田信長は「惜しい士を失したもの」ともらしたという。
多田昌勝(多田新蔵)の弟多田昌綱(多田久蔵)や従弟多田昌繁(多田角助)たちは、武田勝頼に従い天目山下、田野で壮絶な戦死をとげたという。

馬場伊豆守虎貞1490〜1529年

武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
大永2年(1522年)10月に平賀源心斎(大井成頼)村上義清の支援をえて 甲斐国若神子へ侵入してきたときに、 馬場虎貞は迎え撃ち、村上義清らを敗走させている。 「武田信虎の家臣に猛将馬場虎貞あり」と轟かせた。ところが、 亨禄2年(1529年)に武田信虎が一族加賀美虎光を討ったのを諌めたために 斬首された。大永元年(1521年)に今川氏親軍を撃破して以来、自信過剰から勇を誇り強引なまでに戦を繰り返す武田信虎を見兼ねて、 馬場虎貞山縣虎清が57ヶ条の書き上げをもって強諫したわけだが、 これにより武田信虎の逆鱗に触れ誅され、馬場氏は断絶してしまった。 忠誠の士であったにもかかわらず、ひとたび意に逆らえば斬首をまぬがれない。 これでは君臣一体の感情など生まれるはずもなく、のちにクーデターによって武田信虎は追放される。
馬場氏は武田氏と祖を同じくする。 木曽家村の三男馬場家景からはじまり、 戦国時代には馬場駿河守信明馬場遠江守信保馬場民部守房と活躍がみられ、 馬場守房武田信守武田信昌に仕え、馬場虎貞武田信虎に仕えた。 馬場虎貞が諌死してのち、天文15年(1546年)に教来石信房が名跡を嗣ぎ再興された。 武田氏重臣の家柄で、特に馬場信房(馬場美濃守)の名がよく知られている。 馬場信明に関しては、武田信重の娘婿として、馬場氏を継いだといわれ、もとは教来石氏を称していたという。 源頼光の子孫源仲政がはじめて馬場を名のったとする説もある。 『寛政重修諸家譜』では「嚢祖下野守仲政はじめて馬場と号す。其後裔甲斐国教来石にうつり住し、 地名をもって家号とし、代々武田家につかへ、駿河守信明がとき武田信重が婿となり、馬場にあらたむ。 その男遠江守信保、その男美濃守信房にいたり、武田の一族につらなり、花菱の紋をうくといふ」とある。 『甲斐国志』では「木曽義仲の後裔讃岐守家教の男讃岐守家村、その三男常陸介家景、始めて馬場を以って氏となす。 本州の馬場氏も蓋し是と同祖なりしにや」としている。
いずれにしても武田氏と同じ源氏の庶流であり、馬場氏は一條氏の流れをくむ教来石氏をはじめ武川衆と強い結びつきがあったことは確かであろう。

原加賀守昌俊1488〜1549年

原国房、胤元、胤之ともいう。
原胤範の長男。武田信虎の重臣。
一條庄高畠郷(山梨郡高畑)を領する。 木曽家仲の長男に木曽家教がおり、木曽家教の次男原家定からはじまるといわれている。 土岐光行の流れをくむともされているが、いずれにしても武田氏と同族である。 原氏の氏姓は『甲斐国志』にも記されているように甲州には古くからある家名で、 『一蓮寺過去帳』に南北朝時代の応安7年(1374年)12月に「持阿、原氏」とあり、また室町中期の長禄2年(1456年)12月にも「原右衛門四郎」とあるなど甲斐の旧族である。 原昌俊は騎馬90騎を率いる隊将であり、陣馬奉行という要職をつとめる。 智謀の武将たちも数多い武田家中にあって「きれ者」といわれていたという。 陣馬奉行とは、合戦場において布陣する際、地の利、水の利など地形をよく見極めて、 味方が有利に戦える場所を選定する役目のことである。 作戦計画がいかに良くても、陣取り次第によっては苦境に追い込まれてしまう可能性も高い。 したがって、陣馬奉行の能力いかんによって戦いの結果にも大きな影響を与えるだけに、 その責任はきわめて重いものであった。 築城の際の築城予定地の見定めも陣場奉行の重大な任務であり『甲陽軍鑑』末書にも「城取り(築城)」のことが、 城攻め、合戦、築城の技術などの理論を中心に記されている。
天文7年(1538年)7月18日に小笠原氏・諏訪氏(同盟関係のため誤記といわれている)が信濃から甲斐へ侵攻した際には、 宇津谷において原昌俊が小笠原・諏訪勢を撃破したことが『甲斐国志』『武田三代記』などに記されている。
『身延山過去帳』に原昌俊は天文18年(1549年)5月1日に没したと記されている。
原昌俊には長男原昌隼人佑昌胤がおり、 原昌胤には長男原昌隼人栄、次男原昌澄、三男原半兵衛昌貞、四男原宗一郎昌弘がいる。 原昌栄には長男原隼人助貞胤(原惣十郎)がいる。 原昌澄には原右近昌信がいる。 原昌貞には長男原出羽守之昌、次男原半兵衛正明、三男原主馬昌直がいる。 原正明には長男原半兵衛正純(原正盛)、次男原隼之丞正泰がいる。 原昌直には長男原正嗣、次男原法政、三男原作十郎正吉がいる。

原隼人佑昌胤1526〜1575年

原隼人佐、昌勝、勝朝、朝原ともいう。
原昌俊の長男。陣馬奉行。譜代家老衆。両職。
武田信虎の重臣。妻は勝沼信友の娘。天文18年(1549年)に家督を継ぐ。 隼人佑となり、騎馬120騎と近習50騎をあわせて預かる侍隊将となる。 原昌胤は父と同じく陣取りの名手と名高く、武田晴信原昌胤を召して 「その方の父、加賀守は信虎公より我らまで、度々の忠節忠功ある家老なり。 その父の名を汚すことなく忠勤に励め」と言ったという話が伝えられている。
弘治元年(1555年)11月に甲府東光寺宛に単独署名の禁制を与えていることから、甲府東光寺付近を知行地としていたとされる。 武田晴信の期待どおり、原昌胤も陣馬奉行として卓越した才能を発揮した。 その信頼は非常に厚く、「陣取りのことは隼人に任せよ」と言わしめたとされる。 陣馬奉行は、常に本陣の隣に陣を張り、重大な役目を果たすために、 直接戦闘に参加することは少なかった。 『甲陽軍鑑』にも「原隼人は敵の国ふかく御働きのときは、ひとしお後備になされ候。仔細は陣取りの場所、見合すこと、御家中の諸大将にすぐれたり。 他国にて山中などに道知れざる所をも、この原隼人にては一見して見分けること、武田家中に此人一人なり」と絶賛。 原昌胤の地利、地形を見る鋭い才能を称えている。 陣場奉行は合戦が終われば、その片づけをするのも仕事の一つであった。陣場奉行はすべて地味な役割であり、 文字どおり「縁の下の力持ち」であった。 『甲斐国志』には原昌俊の妻は逸見氏の出であったとしており、若くして世を去り甲州上條法城寺に葬られたのだが、 蘇り原昌胤を生んだと記している。
跡部勝資とともに西上野衆にたいする奏者取次役をつとめ、永禄初年(1558年)から西上野の国衆や寺社への取次を示す文書や、 永禄10年(1567年)の下郷起請文での西上野衆差出の宛名として原昌胤の名がある。 永禄9年(1566年)頃からは他地域宛の竜朱印状の奉者としても多見されている。 天正3年(1575年)2月まで多くの竜朱印状の奉者をつとめている。 しかし、天正3年(1575年)5月、長篠合戦では、120騎を率いて織田方へ突撃し、つるべ射ちの銃弾を浴び、 壮絶な戦死を遂げた。
法名は朝原。墓は長篠竹広村(新城市竹広)にある。蓮朝寺に位牌がある。 跡を継いだ嫡男原昌栄であったが、天正8年(1580年)10月、上野膳城の攻防戦で戦死。 四男原昌弘は元亀3年(1572年)に死去している。
原昌胤には長男原隼人昌栄、次男原昌澄、三男原半兵衛昌貞、四男原宗一郎昌弘がいる。 原昌栄には長男原隼人助貞胤(原惣十郎)がいる。 原昌澄には原右近昌信がいる。 原昌貞には長男原出羽守之昌、次男原半兵衛正明、三男原主馬昌直がいる。 原正明には長男原半兵衛正純(原正盛)、次男原隼之丞正泰がいる。 原昌直には長男原正嗣、次男原法政、三男原作十郎正吉がいる。 原昌貞は武田氏滅亡後は真田昌幸に仕えている。
原貞胤は越前少将松平忠直の使番になり、大阪冬の陣が和睦になって後、 武田の旧臣で旧友であった真田幸村(真田信繁)のもとへ招待され色々馳走になった。 真田幸村(真田信繁)は小鼓を取り出し、嫡男真田大助に曲舞を2、3番舞わせ、 後に茶をてんじて持成した。真田幸村(真田信繁)は、 「今度討ち死すべきところ、計らず御和睦になり今日まで存命し、2度お目にかかれたのは嬉しいことです。 不肖ですが、一方の大将を承ったこと、今生の思い出、死後の面目と存じます。 御和睦も一時のこと、やがてまた戦いがはじまるでしょう。信賀(幸村)父子も、 一両年中には討ち死と思い定めております。ごらん下さい。床に飾っておく鹿の角打った兜は、 真田重代の宝ですが、父の安房守から信賀に伝えられました。 最とおぼしめして、一遍の御回向をお願いします。君の為に討ち死するのは武士の習ですが、 忰大助は、これぞと思う事にもあわず、一生浪人で、年15歳になるが早いか、 戦場の苔と埋もれること、誠に不憫でございます。」と涙ぐんだ。 原貞胤も涙を流し、「ああ、武夫ほどはかないものはない。戦場に赴く身は、 誰が先後を定めましょう。必ず冥途でお会いしましょう。」と語りあった。 その後、真田幸村(真田信繁)は白河原毛のたくましい馬に、 六文銭を金で摺り出した鞍を置いて引き出し、ゆらりと乗って5、6度静かに乗り回し、 「もし重ねて合戦があったなら、御城は破却せられたことゆえ、必ず平場の合戦となりましょう。 天王寺表へ乗り出し、東方の大軍に渡り合い、この馬の息のつづくほどは戦って、討ち死すべしと存じ、秘蔵しております。」と言って、 馬からおり、これが今生の暇乞いとまた盃を指し、夜半に及んで立ち別れた。 はたして翌年5月7日、その兜を着け、その馬に乗って討ち死したという。(『武林雑話』『旧伝集』)

津金美濃守胤時1511〜1575年

津金胤秀の長男。
津金村(山梨県北杜市須玉町下津金)、信州佐久郡川上を所領とする。
諏訪神社(山梨県北杜市須玉町下津金)は古宮城跡として知られており、津金衆の城があったという。
永正13年(1516年)に父津金胤秀が死去し家督を継承。
津金胤時原昌胤(原隼人)の配下として長篠合戦に参陣し、65歳で討死している。 次男津金胤久(津金修理亮)が跡を継ぎ、武田氏滅亡後は徳川義直に仕えている。
津金氏は、『寛政重修諸家譜』では源義光の流れから佐竹昌義(佐竹信濃守)の子孫である津金対馬守のときに津金姓を名のったという説もあるが、 『甲斐国志』によれば源義業の流れを汲み、佐竹胤義(津金薩摩守)が文明18年(1486年)に幼い長男津金胤秀を連れて常陸国から甲斐国へ移り、 武田信昌に仕え、下津金の地に古宮城を築城し津金を姓としたという。 いずれにしても、甲斐源氏の流れを汲む佐竹氏が祖であることは確かであり、津金胤秀は武田氏に仕え活躍している。 甲斐津金氏は、武田氏に仕え、「津金衆」の名で知られている。 津金衆は、祖を同じくする氏族が通婚などによって結束を固めた血族集団であって、 佐竹胤義の長男津金胤秀をはじめ、 比志氏、小池氏、箕輪氏、村山氏、八巻氏、清水氏、井出氏、鷹見沢氏、川上(河上)氏らに分かれた一族のことを示している。 津金一族は戦国時代には甲斐から信濃へ通ずる佐久往還の防衛を担っていたという。 武川衆や九一色衆などとともに国境警備などにあたり、平沢峠を越える平沢口と、十文字峠を越える佐久口がその警護範囲という。
武田家滅亡後は、はじめ北條氏直に誘われているが、 津金胤久は津金一族を引具して徳川家康に臣従し本領を安堵される。 小尾氏とともに妻子を徳川家康に人質として差し出している。 津金衆は徳川家康が新府中城にあって、若神子に陣した北條氏直と対陣したとき、 下津金の要害から津金胤久らは夜襲により江草の砦を陥し、穂坂口、川上口を開く。 国境の下津金は天然の要害にかこまれており、山城や砦、関門や烽火台が縦横に迷路となっており、 その防備体制を突破することはなかなか困難なことであった。 さらに、敵方の侵入が困難なばかりでなく、伏兵として夜襲の任務も担っていた。 津金衆は、土着のいわゆる在地性を活かした武士団であって、 東国の戦国大名は国境警備にはこのような衆を活用していたと思われ、それぞれの衆もその個性をもって戦国大名に仕えていたことが知られる。 天正10年(1582年)9月、徳川家康津金胤久小尾祐光兄弟に対して、改めて旧領を安堵。 新知行も恩賞として与えている。 このように津金氏は徳川家康に仕えて北條氏の侵攻をくい止め、以後徳川氏の旗本となっている。
津金氏は尾張国名古屋、武蔵国江戸、信濃国佐久郡に分散している。 津金胤秀(津金美濃守)には長男津金胤時がいる。 津金胤時には長男小尾監物丞祐光(津金胤重)、次男津金胤久、三男津金久次(跡部十郎左衛門)、四男津金久清がおり、 津金胤久は大阪冬の陣と夏の陣において徳川家について戦い、それ以降尾張に移住(年齢的には津金胤久自身が合戦に出陣したとは考えられないが)。 尾張津金氏の祖とされている。
一方、信濃津金氏と甲斐津金氏との直接の関連は明らかではないが、 信濃国原村の津金家に残る宗門帳によると、祖先は甲斐国より移住したと記されており、 信濃津金氏は甲斐津金氏から出たことは確かなようだ。 津金胤時の四男津金久清(津金主税)が海ノ口の鷹見沢(高見沢)氏に養子に入っており、 また、小尾祐光(津金胤重)は佐久郡川上より津金氏に婿として入ったという。 津金久清(津金主税)が津金姓をつづけて名のったのかは不明。
武田氏滅亡後は、津金氏は徳川家康に仕えており、江戸に移り住んで幕府御家人や旗本となったものが 江戸津金氏となったという。
甲斐津金氏の菩提寺は百体石仏で有名な海岸寺(須玉町上津金/臨済宗)で、源義光が開基したと伝えられている。 津金胤秀は下津金に東泉院(曹洞宗)を開いており、津金胤秀の墓はこの東泉院にある。 津金胤秀の法名は東泉院殿本室常源大居士。 『甲斐国志』によれば津金胤時が永禄8年(1565年)に創建したと記されている。 津金胤時の法名は法諱道蓮意久居士。津金胤久の法名は陽州院津厳全居士という。東泉院の寺紋は武田菱。 尾張津金氏に縁のある含笑寺と梅屋寺は、両寺とも曹洞宗。 一方、東京四ッ谷にある全勝寺は津金胤久の長男津金胤卜の菩提寺になっている。
津金胤時の長男津金祐光は小尾氏を名のっており、 小尾祐光には長男小尾正秀、次男小尾正重がおり、小尾正秀からは小尾重正小尾正直とつづいている。 津金胤時の次男津金胤久には、長男津金胤卜、次男津金種親津金信久がいる。
高根町小池に領した小池信胤(小池筑前守)も津金衆のなかでは頭目として活躍しており、 天正10年(1582年)6月には徳川家康の命で信州表の計策に走り廻り、恩賞を受けている。 天正10年(1582年)9月には、津金胤久(津金修理亮)小尾監物丞祐光(小尾堅監)小池信胤は3人連名で 徳川家康の朱印状を受けている。 この文書のなかに津金衆に付属する「境目之者共…」に対しても恩賞を宛行われるべきことが定められてある。 この境目の者は、つまり国境警備を担っていた津金衆のこととうかがわれる。

逸見信親1498〜1560年

辺見信親ともいう。
諏訪頼満娘婿。若神子城(大城)主。逸見氏は、北巨摩郡須玉町若神子を本拠とする。寛徳2年(1045年)に生まれた源義光が甲斐守として逸見荘に土着したとされてきた。 しかし、近年では源義光が土着した可能性は低いとしている。いずれにしても清和源氏が逸見荘へ土着し、のちに甲斐武田氏を輩出したことは確かだ。 当時、なぜ国府であった八代郡国衙に着任しなかったのかは、律令制の官牧が北巨摩の地を中心に発達していたことから、あえて官牧を支配するために逸見荘に土着し、若神子に居城をかまえたとされている。 逸見氏は逸見荘、熱那荘、多摩荘を領していたというが、確実な文献上ではその存在そのものが確認できない。
はじめて逸見荘に土着した清和源氏は、源義光の次男源義清で、源義光の長男源義業は常陸国吉田郡の吉田清幹の娘と婚姻をむすび、常陸佐竹氏の祖となっている。 源義業(佐竹義業)から源昌義(佐竹昌義)へとつづく。 一方、次男源義清も常陸国勝田郡武田郷を領して武田義清(武田冠者)と称していた。甲斐へ進出後に武田姓を名のったとする説もあるが、はじめて武田姓を称したのはこの源義清であり、 それに従えば甲斐国へ配流される以前にすでに武田姓を称していたことになる。 源義清(武田義清)の長男源清光は天永元年(1110年)に常陸国勝田郡武田郷で生まれ、天承元年(1131年)に21歳で父源義清(武田義清)とともに甲斐国へ配流された。 源義清(武田義清)には次男源師光(方原師光)もいるとされている。 源清光は仁安3年(1168年)に59歳で没しているが、甲斐源氏の基盤を築いた人物として名高い。 常陸国から配流された当初は、源義清(武田義清)源清光父子は武田姓を名のっていたと思われる。 源清光が「逸見冠者と号す」とあることからも、逸見荘を領したことにより武田清光から逸見清光へと名を改めたと思われる。 源義清(武田義清)源清光(武田清光)父子が逸見武田氏の祖ということになる。 源清光(武田清光)には常陸国在国中の大治3年(1128年)に長男源光長が生まれており、源義清(武田義清)源清光(武田清光)源光長(武田光長)三代が甲斐国へ配流されて逸見荘に土着したことになる。
源清光(武田清光)源光長(武田光長)らを以後逸見姓で統一する。 逸見清光には長男逸見光長、次男武田信義のほか、安田義定加賀美遠光平井清隆河内義長奈胡義行浅利義成曽根玄尊(曾根厳尊)八代信清らがいる。 次男武田信義が武田姓を名のっていることから、次男に旧姓をそのまま継承させたかあるいは確実な史料では確認できないが武田荘(韮崎市)を領したかということになる。 いずれにしても、あくまでこの当時は本家は逸見武田氏つまり逸見氏が本家である。家督は長男逸見光長(逸見上総守)に継承されている。 逸見清光の頃には現在の清光寺(北杜市長坂町大八田)に居館を築き、詰め城として谷戸城(北杜市大泉村谷戸)を築城していたという(谷戸城は『吾妻鏡』では逸見山城)。 逸見光長は逸見郷(清光館や谷戸城)を継承し、甲斐源氏の総領職もいったんは逸見光長が継承したとされるが、その後甲斐源氏の総領職は次男武田信義に移行していく。 『尊卑分脈』によれば逸見光長以後、逸見基義逸見惟義逸見義重逸見久義とつづく。 その後は美濃国や摂津国へ転出し、大桑氏を称したりもしている。 逸見氏は戦国時代まで甲斐で根強い勢力を維持していたが、逸見氏直系の一族逸見光長の系統は甲斐国ではほとんど残っていないとされる。
逸見清光の五男平井清隆は、石橋山合戦で平家方として参戦し討死した平井郷内名田畠(笛吹市石沢町平井の地)を地盤とした豪族平井冠者で知られる平井氏に入婿。 平井清隆が入婿後にも平井義直(平井冠者)が伊豆国の新田忠俊(新田次郎)と戦って討死した記録(『源平盛衰記』より)や、承久の乱で平井高行(平井太郎)の名がみえ、平井清頼の名が鎌倉御家人として多見している(『吾妻鏡』より)。
平井清隆には長男秋山隆義(秋山太郎)、次男二宮隆頼(二宮二郎)がいる(『尊卑分脈』より)。
逸見清光の六男河内義長は、河内郷(笛吹川とその支流の平等川に挟まれた低地)を領し、治承4年(1180年)10月の駿河出兵のなかにその名が確認できる。 元暦2年(1185年)5月には対馬国守護人としてみえる。源頼朝の命により国外追放された対馬守源親光の跡をうけて入国したとみられる。 その後も鎌倉御家人として供奉などの記録が多見できる(『吾妻鏡』より)。河内義長には長男河内義信(河内筑後守)がいる。 承久の乱では河内次郎が参戦している記録が残る。
逸見清光の八男奈胡義行(奈古義行)は、『吾妻鏡』には八條院蔵人奈胡十郎として登場する。 奈胡は南湖とも南胡とも記され、巨摩郡南湖・浅原(南アルプス市甲西町)地域を中心とした奈胡荘を所領とした。 奈胡義行には長男奈胡義継(奈胡蔵人)がいる。奈胡義継には次男奈胡信継(奈胡弥太郎)がおり、奈胡信継は米倉氏の祖となる。 奈胡義継の三男奈胡行信(奈胡三郎)は花輪氏の祖となっている。花輪行信(奈胡行信)の孫の代花輪為頼浅原八郎と称し、浅原氏の祖となったという。花輪為頼(浅原為頼)は強弓大力の侍で悪逆人として成敗されたともいう。

飫富兵部少輔虎昌1504〜1565年

飯富虎昌、飯富兵部、飫富源内ともいう。
飫富昌義の長男。「武田の赤備え騎馬軍団」の首領。 巨摩郡飯富郷(南巨摩郡中富町飯富)一帯を領する。
武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
飫富源四郎昌義の長男として永正元年(1504年)に生まれる(永正11年(1514年)生まれ説あり)。
飫富虎昌は、合戦では常に先鋒を引き受け、信濃侵攻では村上義清小笠原長時を苦しめ、 その剛勇ぶりは、敵、味方から、「甲山の猛虎」と恐れられた。
そんな飫富虎昌であるが、亨禄4年(1531年)1月21日には、 甲斐国人栗原信真大井信業今井信是らとともに反旗を翻し、 武田信虎と戦っている。いわゆる御岳合戦である。しかしこの合戦で武田信虎に大敗している。
飫富は「おぶ」と読む。 千葉県に飯富と書き「おぶ」と読んだ旧郷名があったほか『万葉集』に飯富の海と書いて「おぶのうみ」と読む歌もあることから、 飯富と書いて「おぶ」と読むこともされている。 『一蓮寺過去帳』の延徳4年(1492年)の条に「八幡飯富内」とあり、また永正12年(1515年)には飯富道悦飯富源四郎が討死したともある。 『甲斐国志』では飯富を「おふ」としており、『北越軍記』には飫富兵部と書いて「あきとみ」と読んでいる。
天文5年(1536年)6月、花倉の乱において、北条氏綱が駿河に侵攻すると、今川軍の援軍として参戦し、飫富虎昌北條氏綱軍を撃破する。 天文5年(1536年)11月に武田信虎の信濃佐久郡に従軍し、村上義清と戦う。 殿を担った初陣の武田晴信に従っていたのが飫富虎昌の赤備え軍団であって、武田晴信飫富虎昌は兵を引返して、 油断していた平賀源心斎(大井成頼)の守る海ノ口城を攻撃し、これを落すことに成功。 この功に対して、武田信虎武田晴信をほめることはせず逆に「抜けがけの巧妙は武田の恥じである」と叱責したという。 当然、飫富虎昌武田信虎の勘気にふれたことはいうまでもない。 天文7年(1538年)にも、佐久郡で村上義清と戦い、飫富虎昌が首級97を討ちとるという軍功をあげる活躍もあって、数で勝る村上勢を撃破する。 小笠原長棟が甲州へ攻め込み、韮崎においてこれを迎え撃ったときも飫富虎昌の率いる赤備え隊が第一陣をつとめ、 甘利虎泰隊、小山田信有隊、板垣信方隊らがつづき、小笠原勢を追い散らしたという。 小笠原軍は2700余の戦死者を出して撤退。 天文8年(1539年)にも信濃佐久郡への出陣に従い、北信の豪族村上義清の居城である葛尾城まで攻め入り村上軍と戦ったという。
天文9年(1540年)の武田信虎の信濃佐久郡への侵攻戦では、佐久地方の守備隊長として重要な役割を果たす。 北信方面の備えをゆだねられた飫富虎昌は、小諸城を重要拠点として佐久地方の守備にあたった。 天文17年(1548年)、村上義清を助けるため、上杉憲政は8000の軍勢を率いて飫富虎昌の守備する内山城を攻めたが、 飫富虎昌は800の城兵を指揮して奇襲作戦を展開し、上杉軍を右往左往させたという。 『千曲之真砂』は「飫富虎昌隊の勢いたるや、あたかも猛虎が羊群に突入したるがごとく、全軍巨大な火の玉に見えたり」と勇猛ぶりをつづっている。 「飫富の赤備え」と称された軍勢は、騎馬武者から兵卒にいたるまで一人残らず武具、差し物、馬具の全てを赤一色に統一されていた。 合戦場で卑怯、卑劣な振舞いをさせないために敵味方にも目立つようにしたといわれているが、 赤一色の飫富隊の突撃はまるで火の玉が飛ぶような勢いを見せ、敵は戦う前から「赤備え」の攻めてくるのを見て戦意を失ったという。 武田氏が滅亡した後、徳川家康飫富虎昌の武勇にあやかれと井伊直政(井伊万千代)飫富虎昌が名のっていた官途の兵部少輔に叙し、 武田旧臣を配属させることで赤備えを踏襲させ、関ヶ原合戦で活躍した「井伊の赤備え」の前身とさせたという。 武田晴信は嫡男武田義信の傅役に飫富虎昌を命じている。後継者の教育係に任じられたことは武門にとってこれ以上ない名誉である。
永禄8年(1565年)10月、武田義信は東光寺に幽閉され、 飫富虎昌ら義信衆80余人が処刑または追放される「義信謀反事件」が起こる。 『甲陽軍鑑』には永禄7年(1564年)7月としているが、武田義信は永禄8年(1565年)6月の甲州二ノ宮造立帳に参千疋の寄進をしており、 永禄8年(1565年)6月の時点までは武田義信が公式活動していたとしている。 『甲斐国志』には「永禄8年(1565年)乙丑年、陰謀の発覚ありて幽せらる。永禄10年(1567年)10月19日深室に逝す。年30」とあり、 武田晴信が西上野の武将小幡源五郎に送った10月23日付けの書状『尊経閣小幡文書』に「飫富兵部少輔(飫富虎昌)所行くを以て、武田晴信武田義信の間を相妨ぐべき陰謀露見し候の条、則ち生害を加へ候、父子の間のことは元来別条なく候、心安かるべく候」とあり、 陰謀の罪を飫富虎昌だけに被せている。 しかし、飫富虎昌武田晴信の信濃経略や長尾景虎(上杉謙信)との度重なる抗争に反対することが多く、 また飫富虎昌自身が武田家で大きな勢力を誇っていたため、 「義信謀反事件」を契機として武田晴信自らが粛清に及んだという説もある。 飫富虎昌と同じく南巨摩の領主穴山信君の弟穴山信邦も連座して切腹していることから、 親今川派の国人の反発という面も有している。
巨摩郡飯富郷(南巨摩郡中富町飯富)には、現在も兵部平とよばれる平坦地が残っている。 墓所は山梨県甲斐市亀沢(中巨摩郡敷島町)の天沢寺。天沢寺が飫富氏歴代の菩提寺という。

甘利備前守虎泰1498〜1548年

甘利虎康、信益ともいう。
甘利宗信の長男。 武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
武田家最高の政治機構とされた「職(しき)」の任にあった。軍将として侍隊将の一角を担い、板垣信方飫富虎昌上原昌辰らとともに合戦では常に先陣を務めた 剛の者として知られている。 『甲斐国志』は山梨県窪八幡普賢寺の天文9年(1540年)の記「当郷の御代官甘利備前守虎泰云々」とあることや、 天文12年(1543年)4月2日の西郡鷹尾寺(増穂町)に自署の禁制を与えている花押が甘利虎泰であることを記している。 これらのことから、西郡鷹尾寺(増穂町)付近の地域の領主が甘利氏であったことが分かる。 甘利氏は一條忠頼の長男一條行忠(甘利行忠)が一條氏の兼領地である甘利庄を分割相続することになり、甘利氏姓を起こしたことにはじまるとされている。 甘利行忠から甘利行義甘利頼高甘利頼行(甘利高行)へとつづき、 戦国時代には甘利宗信甘利虎泰へとつづいている。また、甘利氏からは支族として上條氏、下條氏、東條氏などが輩出されている。 甘利庄は韮崎市内、釜無川沿岸にある韮崎市旭町、大草町、竜岡町地区一帯にまたがる広範囲な地域で、 韮崎市旭町上條北割にある日蓮宗の甘利山大輪寺という古刹があり、 土塁跡が東西100間、南北200間もあった甘利氏の居城跡とされている。 今でもこの地域には北門、大庭、矢立、的場、大堀などの小字名が遺っており、強大な勢力を誇った甘利氏を偲ばせる居館居城の存在を裏づけている。
板垣信方とともに「両職」の地位にあった屈指の宿老であるが、板垣信方が若き武田晴信の心の師であるとすれば、 甘利虎泰は「軍配の師」であるといえよう。 『甲陽軍鑑』には甘利虎泰を「荻原常陸(荻原昌勝)に劣らぬ剛の武者」とあり、武田信虎の軍師として知られる荻原昌勝に勝るとも劣らない軍略家であったと評している。 特に用兵、戦場での指揮は実にあざやかだったとの定評があり、 戦場にあっては「猛り狂う野牛を野に放つごとく」とあり、陣所に備えていれば「甘利虎泰、平生の采配ぶりは、まことに見るべきものありて」と山本勘助が感嘆したとあり、『甲陽軍鑑』など諸記録には彼の戦巧者としての賛辞があふれている。 若き武田晴信も用兵、駆け引きの多くを彼から学んだことであろう。 天文17年(1548年)の上田原の合戦が、甘利虎泰最後の雄姿であった。 甘利虎泰板垣信方ら老将たちが、地の利や周囲の状況から「強攻めは味方に不利」と進言していたにもかかわらず、 武田晴信は若気の至り、自身過剰、自己のプライドから、甘利虎泰らの提言に耳を貸さず、攻撃を命令。 有能な軍将を失う結果を肝に銘じることとなり、以後武田晴信は、不敗の名将に成長していく。
甘利虎泰には長男甘利与十郎信益、次男甘利左衛門丞昌忠(甘利藤蔵)、三男甘利郷左衛門信康がおり、 甘利昌忠には長男甘利晴光(甘利次郎四郎利重)がおり、 甘利信康には長男甘利次郎三郎信恒、次男甘利采女正信景、三男甘利三右衛門信次、 四男甘利信昌(甘利左衛門尉)がいる。 甘利信恒には長男甘利次郎三郎信頼がおり、甘利信景には長男甘利彦五郎信祐がいる。
甘利信益は天文11年(1542年)の諏訪攻めで討死していたため、 甘利昌忠が天文17年(1548年)に家督を継承。 甘利信康は永禄10年(1567年)に事故死した甘利昌忠の跡を継いで侍隊将として長篠合戦に参戦したが、 討死してしまった。甘利信康は小荷駄隊将をつとめたという。

甘利左衛門丞昌忠1534〜1565年

甘利晴正、晴吉、左衛門、左衛門尉、藤蔵ともいう。
甘利虎泰の次男。
駒井高白斎の『高白斎記』には、天文17年(1548年)甘利虎泰戦死の三日後、武田晴信の命により 甘利昌忠が家督を継承。騎馬150騎の侍隊将となり、武田の部将最年少だったという。 『甲斐国志』には甘利昌忠は天文16年(1547年)の碓氷峠合戦(笛吹峠合戦)ですでに初陣し活躍していたことを記している。 天文19年(1550年)9月には甘利昌忠は左衛門尉に叙任されている。 甘利昌忠には長男甘利晴光(甘利次郎四郎利重)がいる。 武田晴信に信頼された甘利昌忠が若くして死去してしまったため、その死を嘆いた武田晴信がその長男甘利次郎四郎利重に「晴」の一字を与え、甘利晴光と名のらせたともいわれているが、 将軍足利義晴から賜った偏諱を臣下に与えることは常識的にありえない。しかしながら、いかに武田晴信甘利昌忠をかわいがっていたが分かる逸話といえる。

板垣駿河守信方1489〜1548年

板垣信形ともいう。
板垣信斉の長男。
板垣郷を領する。板垣郷は甲府市善光寺町、東光寺町、里垣などを中心とした一帯で、定額山善光寺の裏手に板垣山という山林も残っている。 板垣信方は『甲陽軍鑑』『信濃史料信陽雑志』『千曲之真砂』などには「信形」と記されているが、 鎮目寺の棟札や、天文9年(1540年)3月年紀塩山向嶽寺文書、天文10年(1541年)武田八幡宮宝殿造営の棟札などには「信方」と記されている。
『甲斐国志』将帥の部に「武田家に職(しき)という治国の主吏なり。この時代は板垣・甘利を両職とす。」とある。 板垣信方は、政治機構の最高機関であった「職(しき)」を甘利虎泰とともに補任されている。 名将と讃えられる武田晴信も、若い頃から秀でていたわけではない。詩歌に興じ、合戦では猪突に走るなど、失敗を何度も経験している。 そのとき常に側にあって武田晴信を諌めてきたのが板垣信方であった。 武田晴信による父武田信虎の引退事件を無血のうちに実現できたのも、背景に親子二代に仕えてきた板垣信方の尽力があった。 若き武田晴信の人格形成に彼が与えた影響は、きわめて大きかったのである。 天正10年(1541年)、山本勘助武田晴信に推挙し、仕官時には身なりを整えてやり、100貫の予定だった山本勘助の知行を200貫加増させて300貫にさせるきっかけをつくったともいう。 碓氷峠合戦(笛吹峠合戦)で上杉憲政軍を一方的に撃破した板垣信方の采配ぶりは、 「板垣の陣立てに竜神三段の構えあり」とまで賞賛されたほどだった。 その板垣信方も、天文17年(1548年)の上田原の合戦で武田晴信を安全圏に逃すために戦死する。最後のご奉公であった。 板垣信斉には、長男板垣信方のほか、次男板垣虎登(諸角虎登)、三男板垣伯耆守信経(於曽信経)らがいる。 板垣信斉の娘は荻原昌勝の長男荻原昌忠に嫁いでいる。 板垣信方とは異腹妹にあたり、荻原昌明荻原昌信荻原信基らを生んでいる。 荻原昌勝死後は、荻原昌明ら兄弟は板垣信方の配下に属した。
於曽信経には長男於曽信安(於曽左京)がおり、板垣信方死後は板垣氏の名跡を継いでいる。
於曽氏は、三枝氏から分かれた於曽三枝氏が古代から甲斐於曽を領していたが、 応保2年(1162年)におきた熊野権現社領八代荘をめぐる国司と熊野社との争いに連座して於曽三枝氏は弱体化する。 そこに入ってきたのが甲斐源氏の加賀美遠光の七男於曽光経、八男於曽光俊で、於曽氏を称したという。 現在の塩山駅付近に屋敷(於曽館)を構えたと伝えられており、於曽光経於曽光俊兄弟で於曽郷を二分支配していたという(『角川日本地名大辞典』により)。 『塩山市文化財』によれば、於曽館を黒川金山衆の役宅ではないかとしており、 この館の周囲には金山の管理者である金山衆が多く住居を構え、金製法の作業場があったという。 萩原山は大菩薩嶺の別名であり、武田信成の長男武田信春が最後に逃れた柳沢の堡があるといわれる柳沢峠と同じく、 黒川金山周辺地域であり、塩山地域とのつながりが深かったと思われる。 武田晴信の代には、於曽信安於曽信方於曽信泰らが活躍し、於曽殿と称したという。

諸角玄蕃允虎登1495〜1564年

板垣直方、板垣虎登、室住虎登、室角虎登、助七郎、御蔵、諸角玄蕃允ともいう。
板垣信斉の次男。
武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
武田信虎の叔父で、嫡男のなかった諸角虎定の養嗣子に入り、 諸角姓を名のった。 兄板垣信方を補佐し、信濃侵攻戦で活躍。 兄板垣信方死後は兄にかわって上原城城代をつとめた。
諸角虎登には長男諸角助五郎昌守(諸角助四郎)、次男諸角彦大夫重政(本田重政)がいる。 諸角重政には長男諸角刑部頼重(本田刑部)がいる。
諸角昌守は使番をへて侍大将となるが、元亀元年(1570年)に原盛胤(原甚四郎)と喧嘩をしたため改易されている。 取り上げられてしまった知行や同心衆50騎は一條信龍に付された。

飯田但馬守虎春1490〜1550年

飯田昌有の長男。逸見氏一族。
武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
荻原昌勝加藤虎景とならび武田信虎に信頼されるほどの実力者で、 幼少の武田晴信に弓馬を指南したといわれている。
逸見貞有の次男逸見貞長からつづく系統で、戦国期には飯田直次、飯田右馬有次飯田右馬昌有(飯田昌在)飯田虎春へとつづく。 飯田虎春には長男飯田市右衛門有信がいる。 法名は宝樹寺殿天桂円公大居士と伝わっているが、甲府市法輪寺(宝樹寺)に伝わる1200年頃の甲斐源氏逸見有義と同じ法名であるとされている。

小宮山丹後守昌友1519〜1572年

小宮山虎高、米山昌友、小見山昌友、小美山昌友ともいう。
小宮山昌清の長男。
譜代家老。武田晴信の重臣。
小宮山昌友は、武田信虎に侍隊将として仕え、 佐久進攻では飫富虎昌上原昌辰とともに大きな活躍をしている。 永禄年間は諏訪城代となり、南信濃の守備隊長をつとめている。高島城代や松井田城代をつとめたこともある。 武田晴信小宮山昌友に岩村田を与えている。 元亀3年(1572年)、武田晴信上洛戦の途次で遠江国二俣城攻めのとき、教来石信房(馬場信房)と先陣を争って 城内になだれ込み、突破口を開いているが戦死。墓は岩村田の竜雲寺にある。
逸見信直の次男小宮山中務少輔信安からはじまる小宮山氏は、 小宮山近江守守氏の長男小宮山近江守氏継がおり、 小宮山氏継には長男小宮山和泉守氏元、次男小宮山六郎氏久がいる。 小宮山氏久の次男小宮山昌久には長男小宮山虎泰、次男小宮山虎景がおり、 小宮山虎泰武田信虎に重んじられ、「虎」の一字を賜った。 小宮山氏久の長男小宮山備前守昌清武田信虎の重臣として用いられた。 小宮山昌清には長男小宮山昌友、次男小宮山民部昌照、三男小宮山内膳正友信、四男小宮山土佐守忠房がいる。 小宮山昌友には長男小宮山数馬友晴(小宮山内膳正頼貞)、次男小宮山又七郎昌親、三男小宮山四郎左衛門忠道(小宮山内膳忠通)がいる。 小宮山忠道には長男小宮山六郎右衛門宣正、次男小宮山四郎左衛門久次がいる。 小宮山宣正には長男小宮山宣重がいる。 小宮山友信には長男小宮山義次がいる。
また小宮山氏は信州佐久郡の岩村田の豪族ともいわれており、鎌倉時代から岩村田を支配した目代(在庁官人)の家柄ともいわれており、 のちに岩村田を追われた小宮山氏が武田信昌を頼って武田氏に属したともいわれている。
勘気の身となっていた小宮山友晴(小宮山友信)は天正10年(1582年)、天目山麓の田野へ馳せ参じ武田勝頼の許しを乞い、 武田勝頼とともに織田軍と戦っている。 幕末水戸藩の儒者藤田東湖小宮山友晴の忠誠に感じて『正気の歌』のなかで「幽囚の身にあっても常に君を忘れずその身、主家とともに天目山に殉ず」と詠み、真の武士の亀鑑と称賛している。 小宮山友晴武田勝頼の遺児である次男勝千代(当時7歳)を伴って逃れ、真田昌幸を頼る。 その後は真田昌幸に仕え、関ヶ原敗戦後、真田昌幸真田幸村父子に伴い紀州へ従う。

武田左京太夫信虎1494〜1574年

武田信直、五郎、陸奥守、左京、無人斎、道有、道因ともいう。「甲斐に猛虎・武田入道あり」と恐れられた。
武田信縄の嫡男。甲斐国(山梨県)の守護。甲斐武田氏第18代当主。
明応3年(1494年)1月6日甲斐川田館に生まれる。 母は岩下氏の娘。 正室は大井信達の娘。側室は多数。
正室(大井氏)との間に、今川義元へ嫁いだ定恵院武田晴信武田信繁武田信廉穴山信友へ嫁いだ南松院(穴山信君の母)、諏訪頼重へ嫁いだ娘(禰々)らがいる。
武田信虎は永正4年(1507年)2月14日に父武田信縄が没すると、叔父油川信恵との家督争いに勇猛果敢に戦い、 永正5年(1508年)10月4日に坊ヶ峯合戦で油川信恵を討って、わずか14歳で家督を相続した。
大永元年(1521年)11月23日、今川氏親の重臣福島正成が駿河から甲斐へ乱入し、 上條河原で戦いとなった。武田信虎福島正成を討ち、辛くも勝利。 さらに大永4年(1524年)2月11日には都留郡猿橋で北條氏綱と対陣。 3月30日には武蔵秩父で関東管領上杉憲房と対陣。7月20日にも扇谷上杉氏上杉朝興救援のために武蔵岩槻に出陣し上杉憲房と対陣。 大永5年(1525年)にも講和していた北條氏綱と再び対決し津久井城を攻めた。 さらに大永6年(1526年)7月30日にも富士梨ノ木平に出陣し北條氏綱と戦い大勝している。 大永7年(1527年)6月3日にも伴野貞慶を救援するために信濃佐久へ出陣し、大井氏と対陣し和睦して帰還。 亨禄元年(1528年)8月30日には諏訪頼満諏訪頼隆父子と神戸・境川で戦い大敗。 亨禄2年(1529年)には一族加賀美四郎を討ち、諌言した重臣馬場虎貞内藤虎賢山縣虎清工藤虎豊らを斬首している。 亨禄4年(1531年)には甲斐国人の栗原信真飫富虎昌大井信業今井信是今井信元らが次次と反旗を翻し、さらに諏訪頼満が援軍として敵陣に参じていたが、 武田信虎は次次と諸氏を撃ち破っていった。 天文元年(1532年)にも浦城で籠る今井信元を降伏させている。 天文4年(1535年)には今川氏を攻めるべく駿河へ侵攻し、今川氏を救援するために出陣してきた北條氏と都留郡山中で戦い、 大敗を喫した。この戦では弟勝沼信友が戦死したほか、小山田氏も多数の戦死者を出した。 天文5年(1536年)の今川氏輝急死による花倉の乱では、玄広恵探(今川義元)に味方した甲斐国人前島一族を成敗。 11月には信濃佐久郡へ出陣し、村上義清と戦う。海ノ口城城代平賀源心斎に迎撃され退去。 殿をつとめた武田晴信平賀源心斎を討ち勝ち戦となった。 また天文6年(1537年)の甲駿同盟以降は、それに激怒した北條氏との戦いに明け暮れることになる。 彼の生涯は戦いの連続であったが、その結果、分裂状態だった国内状況を克服して領国支配を成し遂げ、武田氏を戦国大名にまでのし上げたのである。 また、本拠を石和館から甲斐の中心である府中へ移したのも武田信虎の功績であった。戦闘には勇敢で、常に陣頭に立って戦ったが、独断専行も多かったらしい。 しかも連年にわたる戦闘は無理を重ねたもので、その代償は大きかった。 戦闘回数が増えればそれだけ家臣や領民に負担を強いることとなり、いつしか人々の心が武田信虎から離れてしまったのである。 それに気づかなかったことが、あっけなくクーデターに敗れた原因であろう。 天文10年(1541年)6月14日、武田信虎は息子武田晴信と一部の重臣たちが仕組んだ無血のクーデターにより、娘婿の今川義元のもとに追放される。 これ以後武田信虎は30余年放浪するが、二度と甲斐の地を踏むことはなかったという。 この間、不敗の名将に成長した武田晴信を、どんな気持ちで見ていたのだろうか。 だが、武田信虎が人望を失ってたことで、武田晴信は父追放という汚名をかぶることなく覇業に踏み出せた。 皮肉にも、これで武田家は益々発展していくのである。
天正2年(1574年)3月27日に、死去。
武田信虎には永正14年(1517年)生まれの次男竹松がいたとされるが、 大永3年(1523年)、7歳で夭折している。
武田信虎には三男武田晴信以外に、四男武田尹春(武田犬千代芳巌)がいるが、亨禄2年(1529年)に夭折している。

武田大膳大夫晴信1521〜1573年

太郎、勝千代、太郎勝千代、左京大夫、大膳、信濃守、法性院徳栄軒信玄大僧正、武田信玄ともいう。「信玄」は幼年期の師岐秀元伯禅師より与えられた道号。傑僧として誉れ高い快川紹喜(大通智勝国師)が諡った「磯山」という法号もある。
武田信虎の嫡男(三男)。母は一族の大井信達の娘。妻は三條公頼の娘(三條殿)、上杉朝興の娘(川越殿)、諏訪頼重の娘(諏訪殿)、油川信友の娘(油川殿)、
大永元年(1521年)11月3日戌の刻、要害山城で生まれる。 天文2年(1533年)に扇谷上杉氏上杉朝興の娘を娶るが、天文3年(1534年)に上杉朝興の娘は懐胎するも母子ともに死去してしまう。 鬼鹿毛事件も天文2年(1533年)に起きており、武田信虎は家督を次男武田信繁に与えるとまで言い放ったといわれている。 さらに天文3年(1534年)には新年恒例の賀宴の席上で武田信虎は次男武田信繁に「盃をとらす」という事件があった。 それでも武田信虎武田晴信に家督を継承しようとしていたことがうかがえるのは、 天文5年(1536年)3月に武田晴信の元服のさいに、足利義晴の一字を賜り「晴信」と名のったこと。 そして今川義元の斡旋によって公家の転法輪三條公頼の娘を娶っていることである。 嫡男として認めていなければ、「晴信」という元服名も、三條公頼の娘が降嫁することもなかったであろう。
天文11年(1542年)に諏訪頼重を討ち、諏訪頼重の娘(14歳)を側室として娶る。 天文5年(1536年)11月の信濃佐久郡遠征に16歳で初陣を飾って以来、 天正元年(1573年)の三河野田城生涯最後の戦いまで通算72戦している。その戦績は49勝3敗20引分けである。これは驚くべき勝率といえるだろう。 武田晴信というと、精強な騎馬軍団を操り、完膚なきまでに敵軍を粉砕するイメージがある。 実際に武田晴信の軍配さばきは『孫子』の兵法を会得していただけであって超一流だっただろう。また、 彼の家臣に飫富昌景馬場信房など名将が多くいたことも確かである。しかし、意外にも大部分の合戦は、兵馬が激しくもみ合うような大会戦や攻城戦ではなかった。 まず、戦いの前に敵将の家来の切り崩しや分断などの謀略があり、勝算を確信してから実際の戦闘に及んでいるのだ。 情報収集や調略によって「戦わずして勝つ」状況を作り出すことに重点が置かれたのである。 これこそが本来の『孫子』の兵法の極意であった。 さらに重要なのは、戦いに勝っても相手を滅亡させるのではなく、養子縁組や家臣団に編入するなどして、家名の存続を許していることである。 こうした戦略は、武田晴信自身の卓越した交渉能力と、その命を確実に実行できる家臣がいなければならない。山本勘助真田幸隆など、 武田晴信はその任に堪える人材に事欠かなかったのだ。
武田晴信は、記録にあるだけで、6人お妻妾を迎えている。前述した諏訪頼重の娘との間には、後に武田家を継ぐ武田勝頼を含め、7男7女をもうけている。

武田次郎信親1541〜1582年

武田龍宝、竜宝、聖道、武田勝重、海野勝重、海野信親、海野龍芳ともいう。
武田晴信の次男。武田幸義嗣。海野幸義の娘婿。
天文10年(1541年)に武田晴信の次男として生まれる。母は三條殿。 弘治2年(1556年)に天然痘に罹って失明している。 天正10年(1582年)3月、武田氏滅亡の際に、織田信長軍に処刑されたとも自害したとも伝えられる。 武田信親の墓所は、聖道小路と入明寺(甲府市)の二ヶ所に残されている。
武田信親には長男武田道快信道(武田顕了)がいる。武田信道には長男武田信正、次男武田信重がいる。 武田信正には長男武田虎之助信興がいる。
武田能登守信道(武田信道)は大久保長安事件に巻き込まれて伊豆大島に流され、そこで生涯を終えている。 伊豆大島に武田信道墓所と屋敷跡が残る。武田信道武田信音ともいわれており、 馬場信盛の娘婿とされている。天正10年(1582年)4月3日、 海野居館において夫婦ともに自害したともされている。

武田三郎信之1543〜1590年

武田信栄、武田豊信、長南豊信、庁南豊信、土佐守、大蔵、兵部大輔、西保三郎ともいう。
武田晴信の三男。武田清信嗣。
天文12年(1543年)に武田晴信の三男として生まれる。天文21年(1552年)に10歳で夭折したとする説もあるが、 天文21年(1552年)に武田信濃守清信(庁南信清)を嗣いだともされている。 小田原征伐に遅参したため責められ自害。
長南武田氏(庁南武田氏)の第四代武田信濃守清信に嗣子がなかったため、武田晴信の三男武田信之(武田信栄)を養子として迎え、 のちに武田豊信と改めている。
天正18年(1590年)7月、武田信之豊臣秀吉の小田原城攻めに際して、庁南城に拠って、 徳川家康家臣の本多忠勝に攻められて自害。
府馬清『房総武田氏の興亡』や、系図『家督遺言状』などによるもので、根拠とする史料の信憑性は低い。
武田信之には長男武田氏信がいる。 武田氏信には長男武田成信がいる。
武田信長が康正2年(1456年)正月に下総国市川合戦後に上総へ入部。古河公方足利成氏が下総を掌握し、 さらに上総への進出を図っていた過程で、武田信長が上総入部を実現している(杉山一弥『室町期上総武田氏の興起の基底』により)。 ただ、建武2年(1335年)9月に小笠原貞宗に「武田孫五郎長高跡」である上総国姉崎荘の地が与えられていることや(『小笠原家文書』により)、 観応2年(1351年)7月に「武田七郎三郎資嗣」が上総国市原八幡宮別当職を打ち渡していることなどが指摘されており、 すでに南北朝時代から上総には武田氏がいたという事例もあることから、 武田信長の子孫がこれらの武田氏に入嗣したという可能性も含めて注目すべき指摘となっている。
寛正元年(1460年)10月に将軍足利義政武田信長に宛てた御内書があり、 古河公方足利成氏の征伐要請をしている。 同時に同内容の御内書が関東や奥羽の諸大名にも出されていることから、この段階での上総国における武田信長の基盤確立が確認できる。 庁南武田氏と真里谷武田氏への分立していく経過が明確ではないが、 文明3年(1471年)9月の庁南武田氏武田上総守道信宛ての将軍足利義政の御内書(『続群書類従』23下により)の内容から、 庁南武田氏が古河公方から離反しており、一方の真里谷武田氏は古河公方に従属し続けたのではないかとされている。
寛正3年(1462年)12月に武田三河守清嗣の名が確認されている(『菅生荘飯富宮梵鐘銘』により)。 また、文正元年(1466年)6月には武田上総守道信の名が確認されている(『将軍義政御内書案』により)。武田清嗣は仮名を八郎五郎で、長じて三河守を称し、 出家して三河入道道鑑ともいい、武田信興と名のったとする史料もある。武田清嗣(武田信興)が真里谷武田氏の祖とされている。 永正8年(1511年)6月に死去している。また武田道信(庁南上総守道信)が庁南武田氏(長南武田氏)の祖とされており、文明13年(1481年)3月に死去している。
真里谷武田氏と庁南武田氏は、戦国時代には、下総佐倉城の千葉氏や、生実城の小弓公方足利義明、安房館山城の里見氏、大多喜城の正木氏をはじめ、 東金城の酒井氏、万喜城の土岐氏らと和戦を繰り返しながら戦国期を乗り切っている。 しかし、永禄7年(1564年)正月に安房里見氏とともに出陣し第二次国府台合戦で北條氏に大敗北し、北條氏に臣従することになる。
天正18年(1590年)には豊臣秀吉に攻められ、庁南武田氏の武田信之(武田晴信の三男)は自害。 真里谷武田氏の武田勝房は下野国へ逃亡し那須家を頼っている。

武田三郎信清1543〜1590年

武田大勝、安田信清、安田三郎、安田玄龍、安田信国、武田大膳ともいう。
武田晴信の七男。海野城主。 武田氏滅亡時高野山に脱出。
安田氏は、逸見清光の四男武田義定(安田義定)(一説には三男)が、安田郷を領したことにはじまる。 安田義定は長承3年(1134年)に逸見清光の四男として生まれる。 曽覚定光大禅定門、宗覚ともいう。 八幡(山梨市)、下井尻、塩後(甲州市)にいたる山梨郡八幡庄安田郷下井尻村の領主となり、東郡(笛吹川以東、加納庄、八幡庄、安田郷)を領した。 『吾妻鏡』によれば、治承4年(1180年)8月25日に甲斐国へ攻め込んできた平家軍を迎え撃ったのが、安田義定工藤景光市川行房らであった。 このとき安田義定は47歳。 安田義定は兄武田信義に勝るとも劣らない活躍をしたことにより、治承4年(1180年)10月末には源頼朝から遠江国守護職を与えられたという(『吾妻鏡』より)。 守護職を与えられたという点で実態に関しては疑問も多いが、いずれにしても養和元年(1181年)に遠江国の浅羽や相良などの庄を与えられ領していたことは確かなようで、 遠江国の実質的統治が確認されている。 寿永2年(1183年)8月には従五位下遠江守に任ぜられ大内裏守護にも任じられるほどの実力をもっており、源義経の副将的存在として活躍した。 安田義定の嫡男安田義資は越後守に任ぜられ鎌倉に出仕。保元3年(1158年)に本貫地安田郷内に阿弥陀堂を建立、元暦元年(1184年)には藤木に菩提所として法光寺(甲州市塩山藤木)を創建している。 ところが建久4年(1193年)11月に安田義資梶原景時の讒言によって自害させられる事件(永福寺事件)が起こり、安田義定も地頭職(浅羽庄)を没収され翌年には自害。
安田義定安田義資父子処断後の安田氏の所領は、加藤次景廉に与えられたという。 安田義資の嫡男安田義治(安田三郎)は甲斐国を逃れ、肥後国益城郡味木庄で知行を得ている。味木庄を領したことにより味木氏を称したともいう(『甲斐国志』より)。

武田左馬助信繁1525〜1561年

吉田信繁、左馬、次郎、典厩(古典厩)ともいう。
武田信虎の五男。
母は一族の大井信達の娘。武田晴信にとって唯一の同母弟にあたる。
武田信虎に寵愛され、武田信虎武田信繁に家督を継承しようとしていた。 父武田信虎は長男武田晴信を嫌い、次男武田信繁に家督を譲ろうとしたとされているが、 偏愛だけが理由ではなかったかもしれない。 もし、武田信繁が国主となっていても、兄武田晴信とは違った一流の戦国大名が生まれていただろう。 それだけ父武田信虎武田信繁の力量を感じていたかもしれない。 天文10年(1541年)に兄武田晴信が父武田信虎を追放するわけだが、この追放劇は、武田信虎武田信繁に家督を継承しようとしていたことも一つの要因であったろう。 父武田信虎と兄武田晴信の対立の一因を担いながらも、その後は弟としての立場をわきまえ忠節を誓い、家臣団にも武田晴信への忠誠を誓うよう命じ、 兄武田晴信を補佐し、兄武田晴信に劣らず文武両道に優れ、副当主格としてその功は大きなものだった。 天文19年(1550年)から活躍がみられ、天文20年(1551年)2月1日に武田氏庶流の吉田氏の名跡(吉田成春嗣)を継ぐ。 天文20年(1551年)7月には北信濃侵攻にあたり先陣の総大将をつとめた。 永禄元年(1558年)4月には次男武田信豊(武田長老)に主家への奉公の心得などを説いた「異見九十九箇条(信玄家法)」を与えている。 兄武田晴信からの信頼は厚く、武田晴信に代わってしばしば全軍の総大将をつとめることもあり、 「副将」と俗称されるほどであった。長尾景虎織田信長らの諸将からも「武田家の真の副大将」と褒め称えられている。 永禄4年(1561年)9月10日の川中島合戦において37歳で討死。 本陣が長尾勢に奇襲を受けていたときに果敢に奮戦し、「我が隊は全軍討死覚悟に援軍ご無用、戦勝を企図されよ」と言い残し、群がる長尾勢に突撃すると武田晴信を窮地から救う働きをし、勇戦虚しく壮絶に討死した。法名は宗言院殿角山祖月居士。墓所は典厩寺。 武田信繁の死は、敵味方問わず惜しまれたという。 武田信繁の長男武田右近太夫信頼(武田三郎)は望月氏の名跡を継ぎ、望月信頼と名のったが、 永禄4年(1561年)川中島合戦で父武田信繁とともに壮絶な戦死をとげた。 次男武田左馬助信豊は嫡男として父武田信繁の死後に家督を継いでいる。 三男武田左衛門尉信永(望月太郎義勝)は、兄武田右近太夫信頼(望月信頼)の死後、望月氏を継ぐ。 望月遠江守信昌(望月信雅)の娘婿となり望月信昌(望月信雅)の養嗣として、 武田親類衆として60騎を預かる。天正3年(1575年)5月の長篠合戦で戦死している。 望月太郎と称した後に義勝、後に信永といい、左衛門尉を称したことが明らかとされている。 武田信永には嫡男武田信音がいる。
また、かの有名な真田幸村の本名真田信繁といい、真田昌幸武田信繁にあやかって名づけたものという。 いかに家臣団にも敬愛された名将だったかがうかがえる。

武田左馬助信豊1547〜1582年

武田左馬助、長老、六郎次郎、相模守、典厩(後典厩)、信元ともいう。
武田信繁の次男。母は養周院。深志城主。高遠城主。大島城主。
天文16年(1547年)生まれ(天文18年(1549年)説もある)で、永禄4年(1561年)の川中島合戦で父兄が戦死したことで、 家督を継ぐ。 父武田信繁と同じく左馬助を称したことで典厩と称されたことで、父武田信繁を古典厩ということもある。 元亀3年(1572年)に武田晴信から朱竹刀、差物を与えられ、 また天正2年(1574年)には武田勝頼から銀の采配団扇を与えられている。 二俣城攻略戦や三方ヶ原合戦で活躍するが、猪突の癖があり、武田晴信に苦言を呈されたという。 叔父武田晴信死後は、従兄武田勝頼を補佐し、 武田勝頼に代わってしばしば全軍の総大将をつとめ、父武田信繁と同様に「副将」と俗称された。 また、将軍足利氏や越後上杉氏、関東諸勢力などとの外交を幅広く担った。
天正3年(1575年)の長篠合戦では武田勝頼を守って生き延びる。 天正10年(1582年)2月に離反した木曽氏追討にあたるが失敗し、 つづく3月には織田氏の侵攻に敗走し、小諸城へ籠り織田軍を迎えようとしたが、城代下曽根覚雲斎(下曽根浄喜)に裏切られ、 追いつめられた武田信豊は妻子とともに自刃。法名は英叟智雄大禅定門。 武田信豊には長男武田法輝(武田次郎)がいたが、ともに自害した。 次男武田雅楽(武田次郎)は生き延びている。

武田刑部少輔信廉1528〜1582年

武田逍遥軒、逍遙軒、信綱、孫六、孫六郎、信基、刑部、信連ともいう。
武田信虎の六男。 武田晴信の弟として武田信繁とともに重要な位置を占め親族衆を80騎率いる。 武田氏滅亡のときには一門衆のなかでも最長老の立場となっていた。 亨禄元年(1528年)生まれ(天文元年(1532年)説もある)で、母は瑞雲院殿大井氏という。
武田信廉は甲府の東部方面の守衛の任を担い、桜井を所領としていたという。 桜井(甲府市桜井町)の逍遙院は武田信廉の屋敷跡に建立された菩提寺で、武田信廉を開基としている。 騎馬80騎を率いる以外にも、謀反の咎で武田晴信に滅ぼされた同族勝沼氏の同心衆たちを配下とし、 勝沼氏がそれまで担っていた小山田氏や北條氏への抑えの役割を代わって担うことになる。 武田信廉の名は、天文17年(1548年)から発給文書のなかにみられる。 諏訪高島城に在城。 元亀元年(1570年)には工藤昌豊(内藤昌豊)に代わって信濃深志城代をつとめ、 元亀2年(1571年)には武田勝頼に代わって信濃高遠城主をつとめた。 兄武田晴信が病死してからは、武田逍遥軒信綱と号す。 天正3年(1575年)には600の兵と、伊那衆を合わせて4600の軍勢を率いて出陣。土屋右衛門尉らと戦線の中央突破隊を指揮。
天正9年(1581年)、南信濃防衛体制強化として、娘婿であった武田盛信(仁科盛信)が高遠城に入り、 武田信廉は伊那の飯田城、大島城に在城し守備する。 しかし天正10年(1582年)1月飯田城から大島城へ後退。 2月の織田信忠侵攻にあたって飯田城が陥落したという報せを受けると、ほとんど抵抗をみせずに大島城を放棄して甲斐へ撤退してしまい、 3月7日(3月24日)に甲斐府中立石の鮎川原(相川から塚原町)において織田信忠に捕まり、斬られた。 享年54歳(51歳という説もある)。法名は逍遥院殿海天綱公庵主。
絵画に巧みであり、父武田信虎の画像や母瑞雲院殿の画像など、いくつかの作品を残す。 また容貌が兄武田晴信によく似ていたため、影武者を演じたり、 武田晴信死後は武田晴信に扮してしばらく生存を装い、北條氏政の使者板部岡江雪斎を欺いたという。 武田信廉には長男武田平太郎信澄、次男武田麟岳がいる。 3人の娘は、武田盛信(仁科盛信)武田信俊(河窪信俊)小笠原信嶺に嫁いでいる。

武田右衛門大夫信龍1539〜1582年

武田信竜、上野介、一條信龍、一条信龍、一条信竜、右衛門ともいう。
武田信虎の十一男。一條時信嗣。市川上野城主。駿府田中城代。
鎌倉期以来の名門一族一條時信の名跡を継承した武田信龍は、武田晴信の異母弟。 武田信龍(一條信龍)の知行地は巨摩郡市川庄(市川三郷町)、青柳郷(増穂町)など。市川上野城を居城とした。 甲斐の南方警備の任を担当し、親族衆として200騎を保持。
一條氏は、武田信義の長男一條忠頼(一條次郎)が一條小山(甲府市舞鶴城)に居館を設けて住したことにはじまる。 一條忠頼木曽義仲討伐の合戦で甲斐源氏を代表する功績をあげたが、強すぎたことを源頼朝に忌まれる結果となって謀殺される。 その一條氏を武田信龍が復旧。 『甲斐国志』に「武田信虎の男、一條の家蹟を継ぎ氏号とする。古府中に邸跡があり、城墟は八代郡上野村(西八代郡三珠町上野)なり」と記されている。
武田信龍は川中島合戦の頃から活躍。天文22年(1553年)川中島合戦が初陣とされている。
武田信龍の陣旗は「白地に裾赤」であったという。 騎馬100騎を預かる侍隊将の地位にあり、永禄10年(1567年)以降は武田の副大将格として兄武田晴信を補佐。 永禄10年(1567年)10月19日、武田義信が幽閉先の寺院で自刃したことにより、武田晴信は家臣団の団結を強固にする一方で、 帷幄の中心に血縁を据えるために武田信龍を身近に置いたとされる。 『甲陽軍鑑』に「七人の軍将にさしついで武名あり。七将は希代の英雄、後人の亀鑑、補弼の良臣」と記され、 山縣昌景教来石信房(馬場信房)らと同じく武断派家臣の代表であり、かなり気骨のある武将であったという。 山縣昌景をして「伊達男にして花麗を好む性質」と洒落者でなかなかに風流を解する文化人でもあったという。 武田晴信に従って各地を転戦し、武田晴信の駿河侵攻後には、田中城代をつとめる。 大和の松永久秀や摂津石山本願寺との交渉にあたり、武田勝頼の代になると田中城代を嫡男武田信就と交替し、 甥武田信光(武田信友の次男)とともに駿府城代をつとめる。 元亀2年(1571年)5月、武田晴信が将軍足利義昭の側近岡周防守織田信長討伐を働きかけた書状の添状として武田信龍書状がみえる。 長篠合戦のときには、『甲陽軍鑑』によれば「馬場美濃守(馬場信房)の率いる700の部隊もあらかた負傷して退き、または討死して残るは80余人ばかり。 馬場美濃守自身は軽傷も負ってなく、他の同心や被官たちに早く退けと勧めるが、さすがに武勇の武田勢、馬場美濃守を残して退く者はいない。 穴山隊は戦闘を交えることなく退く。一條右衛門(武田信龍)殿、馬場美濃守の近くに馬を乗り寄せているところへ、一條配下の同心が近づき、 合戦馴れのした利口な武者ゆえ、馬場信房に向かって、下知(命令)をされるようにという。 馬場美濃守それを聞いて命令するとすれば退くよりあるまいが、と退却をはじめた。しかし御旗本組(武田勝頼)が退くまでは馬場信房隊も退かず、 武田勝頼公の大の字の御小旗が敵のうしろをみせたのを見届けてから馬場美濃守も退いた。 武田信龍(一條信龍)も他の軍も退きなされた」とあり、敗色濃厚な設楽原の戦場に残って味方が退くのを確認するまで動かなかったという豪胆さのある武将であったことが分かる。 天正4年(1576年)4月、市川での草間の開発地を地侍に与えた武田信龍判物のほか、 天正8年(1580年)9月に武田勝頼から青柳郷で起立した新宿に対して、3ヶ月間の諸役免除を受けているものがみられる。 はじめは右衛門大夫と称していたが天正8年(1580年)に上野介に改め、右衛門大夫を武田信就に継承している。 天正10年(1582年)2月末、織田信長の甲州攻めにより徳川家康の進攻を受け、 甲斐の自領に後退、市川陣地(西八代郡市川大門町)に踏みとどまり、最期まで甲州乱入の徳川家康軍を相手に反抗。 3月21日(3月10日)に上野城で武田信就(一條上野介)とともに徳川軍を迎え撃つが、多勢に無勢、捕らえられ徳川家康に処刑される。 『信長公記』には「三位中将織田信忠卿、上の諏訪より甲府に至って御入国。一條蔵人私宅に御陣を居えさせられ、武田勝頼一門、親類、家老の者尋ね探してことごとく御成敗。 生害の衆、一條右衛門太輔(武田信龍)云云」とある。
『甲斐国志』には武田信龍の墓は市川の善福寺(市川大門町覚王山善福寺)にあると記されているがすでに廃寺となっており、牌子も焼失しているという。 武田氏滅亡後に、一條衆70名が徳川氏に従ったと徳川家康への起請文にみることができる。
武田信龍には長男武田右衛門大夫信就(一條右衛門大輔)、次男武田久次郎信貞がいる。

武田彦次郎信次1543〜*1600年

武田信虎の十四男(十男の説あり)。伊達藩和淵武田氏の祖。
仙台伊達史料『伊達世臣家譜』巻の九の、召出の部(武田家譜)に記載されている和淵武田氏の家祖という。 伊達藩の和淵武田氏は、伊達政宗の時代に伊達氏に召抱えられた召出衆の一氏で、 和淵(宮城県桃生郡河南町和淵)に35貫文の知行地をたまわっていたという。 伊達藩作成の家譜によれば、天正2年(1574年)、武田信虎の死後に奥州会津へ下向し、後に米沢へ移住。 伊達政宗に仕えることとなったという。
武田信虎が追放されて以降に生まれたようで、会津へ下向するまでどのような生涯だったかは分かっていない。 当然のことながら『甲陽軍鑑』『甲斐国志』など武田史料には名前を見ることがなく、甲斐武田氏に仕えた形跡は見られない。 父武田信虎が死去した頃には、すでに兄武田晴信も他界しており、甥武田勝頼が跡を継いでいた。 武田信虎死後に…という史料からすれば、おそらく甲斐武田氏に仕えていたのではなく、武田信虎とすごしてきたのではないかと予測される。
武田信次には、長男武田重次(佐々右衛門)、次男武田信方(武田新蔵人)、三男武田貞成(武田大学)がおり、 いずれも伊達政宗に仕え子孫繁栄して現在にいたるという。

勝沼安芸守信友1495〜1535年

武田信友、五郎、次郎五郎、左衛門大輔、左衛門大夫、左衛門太輔、勝沼殿ともいう。
武田信縄の次男。
勝沼(甲州市勝沼)に居館を構え、郡内小山田氏を監視する重要な任務にあたった。 一族と骨肉の家督争いを制し、若くして当主となった武田信虎のただ一人の弟して最も信頼された。
天文4年(1535年)6月5日に武田信虎は今川氏との戦いのため甲駿国境に軍勢を送る。 今川氏輝武田信虎と戦う一方で相模の北條氏に救援を要請する。 8月16日に北條氏綱は、北條氏康北條為昌北條長綱ら子どもたちを引き連れ、 今川氏救援のために甲斐都留郡に1万の軍勢で出陣。 8月22日に勝沼信友は小山田氏とともに都留郡山中で北條勢と戦い、大敗し討死。 小山田氏も多数の戦死者を出した。
大勝した北條氏だったが、武田氏と同盟を結んでいた扇谷上杉朝興が相模に侵攻していたので退却。
勝沼信友には長男勝沼丹波守信元、次男勝沼信厚(加藤信原)がいる。 勝沼信厚には長男勝沼信就がいる。

勝沼丹波守信元1526〜1560年

武田信元、武田信光ともいう。
勝沼信友の長男。
武田晴信出陣中には留守居役をも担当していた重臣。
永禄3年(1560年)、長尾景虎関東侵攻の際に、長尾景虎の調略により謀反を企てた。 前年より目付けによって察知されており、捜査により謀反の証拠となる文章が発見され、 11月3日、武田晴信に捕えられ成敗されたわけだが、250騎を率いる武田一族が宿敵長尾景虎に内通し、 武蔵秩父谷の藤田康邦(藤田右衛門)を引き入れようとした事件は武田家中を驚愕させた。 これは甲陽軍鑑によるもので、信憑性が低いともされている。
勝沼信元には長男勝沼信定、次男勝沼丹後守信景(加藤左衛門信真)がいる。 次男勝沼信景には長男勝沼千久利丸がいる。
勝沼信元には娘として勝沼の大善寺へ入寺した理慶尼がいる。

油川刑部少輔信恵1476〜1508年

湯河信恵、武田信恵、彦八郎ともいう。
武田信昌の次男。武田信虎の叔父。
山梨郡油川(甲府市中道町上曽根)を領する。勝山城城主。
母は郡内地方の領主小山田信長の娘。 父武田信昌は次男油川信恵を寵愛し、家督(甲斐守護職)を油川信恵に継がせようとしていたため、 病弱な兄武田信縄に取って代わろうと家督争いが起こっていた。 窪八幡宮(山梨市)の別当である普賢寺の住職の記した年代記『王代記』には、 明応元年(1492年)に「兄弟相論」とみえており、武田信昌武田信縄に家督を譲ったことを不満として 反抗している。 都留郡勝山村の御室浅間神社の別当の寺僧らが書き継いだとされている『勝山記』には明応2年(1493年)に「惣領度度合戦負たまふ」とあり、 当初は武田信縄方が不利であったという。父武田信昌が次男油川信恵方に与したことや、 弟岩手縄美をはじめ一族や都留郡内領主の小山田氏らの有力国人らが油川信恵方に味方していたことが背景としてあるようだ。 明応3年(1494年)には「合戦武田彦八郎殿負たまふ」とあり、 明応7年(1498年)には「武田親子、この年和睦したまふ」とあって、断続的に続いていた合戦も小休止している。 文亀元年(1501年)9月18日、伊勢盛時(伊勢宗瑞)が伊豆より甲斐国へ侵攻してきたことで、 兄武田信縄と和解し伊勢盛時をともに撃退。 危機が去った後は再び兄との争いを繰り返した。 永正2年(1505年)には父武田信昌の病没により兄武田信縄と和解。兄武田信縄が家督を継いだ。 しかし永正4年(1507年)2月14日、兄武田信縄が家督継承後わずか2年で死去すると、 武田信縄の嫡男武田信虎と家督を争い対立。 永正5年(1508年)10月4日、油川信恵は17歳になっていた長男油川弥九郎信貞、 次男油川清九郎(油川刑部信守)、三男油川珍宝丸(油川信友)を引き連れ、弟岩手縄美とともに挙兵。 小山田信長小山田信隆父子も油川信恵に呼応し、武田信虎と坊ヶ嶺(笛吹市境川村)で戦う。 「油川氏の乱」といわれるこの家督争いは、国内の国人層を二分し、甲斐国を一気に戦国時代に突入させた。 しかし、甥武田信虎との家督争いに敗れた油川信恵は、滅亡に追い込まれた。 油川信恵と長男油川信貞は勝山城で討死。
油川信恵には長男油川信貞、次男油川清九郎信守(油川刑部信守)、三男油川源左衛門信友(油川加賀守)、四男油川左馬介顕重らがいる。 父油川信恵と兄油川信貞の死により家督を継承することとなった次男油川信守武田信虎に忠誠を誓い、 信濃侵攻戦などに従軍し、活躍をみせる。 油川信守の長男油川彦三郎信連(金田一彦三郎)は、永禄4年(1561年)9月川中島合戦で戦死している。 油川信守の娘は武田晴信に嫁ぎ、側室となった。のちに武田盛信(仁科盛信)於菊殿(上杉景勝夫人)を生んでいる。 油川信守武田晴信の一門衆として忠誠を誓い仕えた。
三男油川信友には長男油川信吉(油川彦次郎)油川信吉には長男油川信次(油川五郎太夫)がある。 油川信吉は従兄油川信連とともに川中島合戦で討死。 油川信次は長篠合戦で討死している。 四男油川顕重には長男油川顕則がいる。 また、油川氏の名跡は、油川信次のあとを、 武田盛信(仁科盛信)の四男武田信貞(油川源兵衛勝松)が継ぎ、 武田信貞には長男武田信忠(油川市郎兵衛信成)がおり、 武田信忠から武田信似(油川市十郎)へと継がれていく。

岩手治部省輔縄美1477〜1508年

武田縄美、縄実、縄真、岩手四郎ともいう。
武田信昌の三男。武田信虎の叔父。
文明9年(1477年)に武田信昌の三男として生まれた岩手縄美は、幼名を四郎といい、ついで治部少輔を称し、 万力筋の岩手郷(山梨市)を分封され岩手氏を称す。甲斐岩手氏の祖になっている。
永正4年(1507年)2月14日、兄武田信縄が家督継承後わずか2年で死去すると、 兄油川信恵武田信虎に対して挙兵。岩手縄美油川信恵に与して甥武田信虎と戦うが 大敗。永正5年(1508年)坊ヶ峯合戦で討死した。
その後は岩手縄美の長男岩手信友(武田信行)武田信虎に服属し、 岩手信友の長男岩手胤秀武田信虎に仕えた。 岩手氏は武田晴信の代になってからも、忠節を尽くし、旗奉行衆として仕えた。 岩手縄美の次男岩手能登守信盛(武田信勝)は旗奉行衆として活躍し、 長男岩手右衛門大夫信景、次男岩手助九郎信真、三男岩手一信、四男岩手信政らがいる。 岩手信景の長男岩手助市郎信重(岩手玄道斎)武田晴信に仕えている(『甲斐国志』により)。 永禄5年(1565年)に岩手郷内に岩手信盛が信盛院を建立し、寺領10貫文を寄進している(『信盛院文書』により)。

松尾次郎信賢1478〜1538年

武田信昌の四男。武田信虎の叔父。
山梨郡松尾郷(甲州市塩山)を領す。
永正4年(1507年)2月14日に起こった兄油川信恵と甥武田信虎の内紛に、 松尾信賢がどう関わっていたかは不明だが、 武田信虎が勝利してからは、松尾信賢は甥武田信虎に服従。 弟諸角虎定とともに武田信虎に忠節を尽くし、重臣として仕えた。
松尾信賢は娘(松尾殿)を武田信虎に嫁がせ側室とした。松尾殿が生んだ子として 武田信虎の五男武田信是がおり、嗣子のいなかった松尾信賢の跡を継がせている。 武田信是(松尾信是)にも嫡男がなかったため、 武田信虎の七男武田信実(河窪兵庫頭信実)の長男武田信俊(河窪新十郎)が松尾氏を継いだ。 武田信俊には長男武田信雄(松尾源十郎)、次男武田信種、三男武田信次、四男武田信通がいる。 武田信雄には長男武田信貞武田信安がいる。

諸角豊後守虎定1480〜1561年

室住虎定、室角虎定、両角虎定、諸角定信、諸角昌清、武田昌清、諸角昌友、虎光、重之ともいう。
武田信昌の六男。武田信虎の叔父。 武田信縄の弟。50騎持ち侍大将。
源満政からはじまる木田重長(木田三郎)の流れをくむ諸角政遠(諸角次郎太夫)が戦国時代に名を残す。 諸角政遠の長男諸角惣兵衛直政、さらに諸角直政の長男諸角信濃守虎城(諸角七郎)へと継がれていく。 諏訪氏に仕え諸角姓に改めたともいわれている。戦国期になり諸角虎城武田信縄に仕えたことにより、 諸角虎城の名跡を武田信縄の弟諸角虎定が継ぐ。 諸角虎城諸角虎定武田信虎の重臣として武田氏に仕えた。 諸角虎定は先を読む力に長けていたといわれており、『甲陽軍鑑』でもその活躍が描かれている。 諸角虎定の武勇は、飫富虎昌の『赤備え』と並び賞賛されるほどであったという。 板垣信方とともに信濃侵攻戦に参戦。諏訪攻めでは板垣信方の弟諸角虎登と従軍している。 その後も板垣信方駒井高白斎を補佐しながら信濃各地を転戦。伊那侵攻戦がはじまると、伊那郡大島城に在城して、美濃国の抑えの役割を担う。 また、北信濃柏鉢城の守備なども務めている。
諸角虎定は永禄4年(1561年)川中島合戦では、81歳の老骨に鞭打って工藤昌豊とともに旗本陣の右翼を担った。 武田晴信の弟武田信繁が討死したことに激怒し、僅かな手勢をまとめて上杉軍の新発田重家、新津ら諸将の陣に踊り込み、 激しく戦ったが討死したという。 一旦は上杉方に首を取られるが、与力の成瀬正一石黒五郎兵衛(石黒将監)が取り戻した。 法名を智賢義勇居士(典厩寺位牌)、または慈照寺殿昌良清禅定門(竜王町慈照寺)とする。 山梨県甲斐市竜王(旧中巨摩郡竜王町)に開基となり有富山慈照寺を創建している。 武田晴信諸角虎定の遺骨に回向料と寺領寄進を添えて慈照寺(竜王町)へ届けている。
諸角虎定には嫡子がいなかったため、板垣信斉(板垣善満)の次男板垣虎登が養嗣子に入っている。

穴山甲斐守信綱1480〜1521年

武田信綱、武田八郎、穴山八郎ともいう。
穴山信懸の次男。
大永元年(1521年)2月から今川氏親の重臣で遠江土方城城主福島正成が駿河から甲斐へ乱入。 穴山信綱も今川氏に属し武田信虎と対立。 11月23日、上條河原(河原合戦)で武田信虎と戦い、原虎胤の攻勢により福島正成勢は敗走。 穴山信綱は討死。 穴山信綱には兄穴山清五郎信永がおり、兄穴山信永は父穴山信懸を暗殺。 穴山信永には嫡男穴山友勝がいる。 穴山信綱には弟穴山信堯穴山信風穴山基信らがいる。 穴山信懸の四男穴山信風は河原合戦後に武田信虎に服従。 穴山信風には嫡男穴山信豊がいる。

穴山伊豆守信友1506〜1560年

武田信友、穴山信良、彦六郎ともいう。
穴山信綱の嫡男。従兄穴山友勝嗣。
永正3年(1506年)生まれ(永正11年(1514年)という説もある)で、従兄穴山友勝から家督を継承する。 天文6年(1537年)に、武田信虎の次女南松院殿と婚姻。 天文10年(1541年)には嫡男穴山信君が生まれる。 武田信虎があえて国内の穴山氏に嫁がせたのは、いかに武田氏にとって庶流穴山氏が有力な存在であったかがうかがえる。 また天文4年(1535年)に弟勝沼信友が戦死していたため、信頼できる有力一門を生み出す必要もあったとみられる。 この婚姻関係により穴山氏は一門衆として、庶流のなかで唯一、最後まで「武田」苗字を使用した。 穴山信友は軍事、外交にわたって多くの活躍をみせ、 武田晴信に代がかわってからも、武田晴信の義兄として、武田信繁に並ぶほどの役割を担い、名実ともに武田氏の重鎮であった。 さらに穴山信友は武田晴信の次女見性院殿を嫡男穴山信君の妻に迎え、さらなる婚姻関係を重ねている。 永禄元年(1558年)に隠居。 永禄3年(1560年)5月15日に55歳(47歳説もある)で死去。 穴山信友には長男穴山信君のほか、次男穴山彦八郎信邦、三男穴山彦九郎信光(穴山小左衛門源覚)らがいる。 穴山信邦は永禄8年(1565年)の「義信謀反事件」において飫富虎昌と連座して切腹している。 穴山信光には長男穴山小助安治(穴山雲洞軒)がおり、穴山安治は長男穴山岩千代(穴山新兵衛)とともに大阪の陣で真田幸村(真田信繁)に従い討死。

穴山玄蕃頭信君1541〜1582年

穴山左衛門大夫、陸奥守、勝千代、彦六郎、梅雪斎、不白ともいう。
穴山信友の嫡男。武田晴信の甥にあたる。
武田晴信の次女見性院殿を娶り、武田氏一門として軍事、外交にわたって多くの活躍をみせる。 200騎を率いる侍大将として、川中島合戦、三方ヶ原合戦、長篠合戦などに従軍。 主に本陣の備えを堅めた。 永禄11年(1568年)からの駿河侵攻では興津城を与えられ、 天正3年(1575年)長篠合戦後は戦死した山縣昌景のあとをうけて駿河江尻城を与えられた。 駿河江尻城の城下町建設や甲斐と駿河の流通機構の整備、また商人を集住させるなど商業政策をすすめるなどの諸政策にはみごとな手腕をみせており、 天正7年(1579年)には江尻城の城郭を改築するなど内政手腕を発揮。 武田氏の駿河支配を中心的に担い、「駿河の代官」とまで称され、領民に慕われるほどの善政を施していた。 天正8年(1580年)に剃髪し穴山梅雪斎不白と号した。 穴山信君の嫡男穴山信治(穴山勝千代)武田勝頼の娘を娶る予定になっていたが、 武田信豊の嫡男武田雅楽(武田次郎)に嫁いでしまったため、 武田信君夫婦は相当強い不満を持ったという。 そのこともあってか、天正10年(1582年)、遠江高天神城が落城し、武田氏が危胎に瀕すると、 武田勝頼を見限り、武田家名存続を条件に、いちはやく織田信長徳川家康に従属している。 血縁も近かった一族穴山信君の裏切りは武田氏にとってははかりしれない衝撃であった。 強固な結束を誇った武田家臣団が雪崩のように次次と戦線離脱していき、武田氏が滅亡したのは、 武田信君の寝返りが原因といわれても仕方がなかった。 穴山信君は武田氏滅亡後は織田信長に所領を安堵だれ、徳川家康とともに安土へ伺候。 帰途に和泉国堺をおとずれたときにに本能寺の変がおこり、山城国宇治田原において土民の襲撃によって殺害され無残な死に方をしてしまい、裏切りの末路が一揆によって殺されたとあってはさらに不評買ったわけだが、 皮肉にも、一門衆のなかでは武田氏滅亡後に唯一存続を果たし、(穴山氏への養嗣子によってではあるが)武田氏の名跡さえも継承することになる。 穴山信君の嫡男穴山信治は天正15年(1587年)6月に16歳で病死。
武田晴信の次女見性院殿は、夫穴山信君死後は尼となり、徳川家康から500石の捨て扶持をもらい、 80歳まで生きて元和8年(1622年)5月9日に死去している。
穴山信治の死によって穴山氏とともに武田氏の家名は跡を絶つこととなり、 徳川家康は側室下山殿(秋山夫人)に生ませた万千代(徳川信吉)を成人をまって武田信吉と名のらせ水戸25万石藩主とする。

曽根出羽守政利1518〜1583年

下曽根政利、信恒、源六郎、羽州、覚雲軒、岳雲軒、浄喜、覚雲斎、中務大輔、信秀、信辰ともいう。
曽根信利の長男。
佐久郡常田の鷺林城などの城代を歴任。
天文9年(1540年)に父曽根中務大輔信利(下曽根信白)が死去し、家督を継ぐ。 武田晴信の重臣として仕える。 今井信甫が『相州』と称されていたのに並び、『羽州』と称され、武田氏を代表する重臣にまで名を連ねていた。 下曽根氏のなかでも曽根政利武田晴信からの信頼を厚く受け足軽大将として旗本武者奉行もつとめる。 武田勝頼の代になり、小諸城代をつとめるが、武田氏の衰退のなかで、 織田信長徳川家康に内応。 武田信繁の次男武田信豊が小諸城に籠り織田軍を迎え撃とうとしているときに武田信豊を謀殺。 滅亡寸前の武田氏に止めを刺した。
曽根氏は、逸見清光の七男曽根玄尊(曽根源尊/曾根厳尊)が曾根郷(八代郡中道町)を領したことからはじまる。 『新撰姓氏録』には曽根連曽根宿禰などの記述があり、在庁官人として甲斐古族の1つであったことがうかがえる。
『平家物語』『吾妻鏡』などにも多見しており、建久6年(1195年)には曽根太郎が鎌倉御家人として記録されており、 曽根玄尊は出家して曽根禅師として記録されている。
曽根遠頼(曽根太郎)曽根長頼曽根長光曽根為頼曽根為高曽根為光曽根為綱へとつづき、室町時代では曽根丹波守長正曽根源左衛門長元へとつづいている。 武田信重の五男曽根中務大輔賢信(下曽根賢範)が嗣ぎ、 曽根賢信の嫡男曽根信興から、曽根信友(曽根信雄)曽根信利曽根政利へとつづく。 曽根政利には長男曽根弥左衛門政基(下曾根楽雲軒)、次男曽根信辰(下曽根源六郎)、三男曽根政秋(下曽根源七信秀)がいる。 曽根政秋には長男曽根信正がおり、一族曽根信照の養嗣となる。曽根信正には長男曽根信由がいる。 曽根信興の次男曽根信文には長男曽根信照がいる。 また、曽根賢信の次男曽根下野守経家(曽根逆修)には嫡子がなかったため、 曽根昌長の長男曽根三河守縄長が養嗣に入る。 曽根賢信の三男曽根出羽守勝家には長男曽根孫四郎昌長(曽根大学助)がおり、 曽根昌長には長男曽根三河守縄長、次男曽根中務大輔虎長(曽根掃部)、三男曽根周防守虎盛(曽根九郎左衛門尉昌清)、四男三男曽根定次がいる。 曽根虎長には長男曽根孫助虎吉、次男曽根孫次郎勝長がいる。 曽根勝長には長男曽根内匠助昌世(曽根下野守)がいる。 曽根定次には長男曽根上野守長次がいる。 曽根長次には長男曽根河内守長忠(曽根七郎兵衛)がおり、上野石倉城城代をつとめる。 次男曽根与左衛門家次(曽根与市之助)とともに武田氏滅亡時に運命をともにした。 曽根長忠には長男曽根忠次曽根忠次には長男曽根吉勝、次男曽根吉正、三男曽根吉久がおり、 曽根家次には長男曽根吉次がいる。

曽根三河守昌長1483〜1540年

曾根昌長、孫四郎、大学助ともいう。
曽根勝家の長男。
曽根昌長武田信昌の重臣として「昌」の一字を賜る。永正3年(1506年)の棟札銘(『戦国遺文』により)に名が残る。 武田信昌武田信縄武田信虎の三代に仕える。 武田信虎の代になっても重臣として仕え、奉行衆に名を連ねた。
曽根出羽守勝家曽根中務大輔賢信の三男。曽根賢信には長男曽根信興、次男曽根下野守経家(曽根逆修)、三男曽根勝家がいる。 曽根昌長には長男曽根三河守縄長、次男曽根中務大輔虎長(曽根掃部)、三男曽根周防守虎盛(曽根九郎左衛門昌清)、四男曽根孫助虎吉、五男曽根定次がいる。 曽根縄長曽根経家の養嗣に入っている。 曽根虎盛は永禄7年(1564年)に長坂勝繁らと談合し、武田義信の逆心を招いたとして、切腹させらている。 曽根虎長には長男曽根孫次郎勝長がいる。 曽根勝長には長男曽根内匠助昌世(曽根下野守)がいる。 曽根定次には長男曽根上野守長次がいる。 曽根長次には長男曽根河内守長忠(曽根七郎兵衛)がおり、上野石倉城城代をつとめる。 次男曽根与左衛門家次(曽根与市之助)とともに武田氏滅亡時に運命をともにした。 曽根長忠には長男曽根忠次曽根忠次には長男曽根吉勝、次男曽根吉正、三男曽根吉久がおり、 曽根家次には長男曽根吉次がいる。
曽根昌世は若くして武田晴信の奥近習として出仕し、騎馬15騎、足軽30人を預かる武将に出世。 はじめ右近助と称し、のちに内匠助と称している。 軍目付として活躍し、のちに駿河興国寺城の守衛にあたったが、武田氏滅亡後は徳川家康に招かれ、 武田旧臣の徳川帰順に際しては起請文奉行の大役に任命されている。

今井左馬助信甫1485〜1575年

左馬助、相州ともいう。勝沼今井氏。今井信乂の次男。 武田信虎の重臣。
今井大蔵大輔信乂の長男今井右衛門佐信房は、 永正12年(1515年)、武田信虎大井信達攻めに出陣するが討死。 今井信房の弟今井信甫が家督を継承。 武田信虎に仕え奉行なども務め活躍。 曽根信利曽根政利父子が『羽州』と称されていたのに並び、『相州』と称され、武田氏を代表する重臣にまで名を連ねていた。
今井信甫の長男今井安芸守信良武田信虎武田晴信と仕え活躍を見せた。 今井信乂には三男今井虎甫もおり、兄今井信甫とともに武田信虎に仕え、甲斐国統一に貢献した。 今井虎甫武田信虎に厚い信頼を受け、「虎」の一字を賜った股肱の臣であった。
今井氏は、武田信満の五男今井左馬助信景(今井孫六)が、山梨郡上今井に住して今井を称したのにはじまるという。 今井信景今井信経へとつづき、今井信経の長男今井信乂から今井信房へつづき、今井信甫へと継がれている。 今井信景には次男今井信和、三男今井信幸がいる。 今井信経には次男今井信慶、三男今井弥次郎がいる。

今井尾張守信是1477〜1532年

浦信是、兵庫助、今井備州ともいう。浦城主。 今井信慶の長男。
今井信経の次男今井信慶は巨摩郡江草郷(北巨摩郡須玉町)の浦城を本拠として浦殿と呼ばれた。 今井信慶の長男今井信是は弟の今井信元とともに武田信虎にたびたび反抗していた。
永正6年(1509年)、小尾弥十郎と対立し、今井信是は本拠地の江草城を小尾弥十郎に攻め落とされる(『高白斎記』により)。 諏訪頼満にも攻められ、今井信是の弟今井信隣(今井平三郎)、矢戸信守(谷戸源三郎)らが戦死している(『一蓮寺過去帳』『円光院本武田系図』により)。 永正12年(1515年)、武田信虎大井信達攻めに出陣。 今井信是は栗原氏らとともに大井信達に加担して武田信虎に対抗した。 甲斐統一を目指す武田信虎にしてみれば、この大井一党の反抗を制圧するかしないかが最大の正念場となったのである。 永正15年(1518年)には今井信是武田信虎の侵攻を迎撃し、小幡日浄を討ちとっている。 永正16年(1519年)もひきつづき今井信是武田信虎に抵抗を示し、 永正17年(1520年)5月には栗原信真栗原信友父子の謀反に同調し板垣信方ら武田勢と戦う。 6月の今諏訪合戦で武田信虎に敗れ和睦。
享禄3年(1530年)、武田信虎が北條氏との対立を有利に進めようとして扇谷上杉朝興と結んだことに反発し、 武田信虎への反抗的姿勢をいっそう強める。 今井信是にしてみれば、落ち目の扇谷上杉氏と結ぶ武田信虎の政策に不満を感じていたようで、 亨禄4年(1531年)1月、武田氏に反旗を翻し、飫富虎昌とともに甲斐を出奔し御岳に籠もり、 大井信業や栗原氏らが加担すると、さらに、諏訪碧雲斎頼満にも援軍を求めたため大規模な争乱に発展。 諏訪頼満武田信虎が下社牢人衆を集めて籠もっていた笹尾塁を攻略し、さらに軍を進めた。 しかし、2月2日の合戦で大井信業今井信是らが戦死。 さらに3月3日の韮崎河原辺合戦では栗原信真ら800余人が戦死し反武田信虎軍は壊滅的打撃を被った。 なおも今井信元は抵抗をつづけたが、 天文元年(1532年)9月に本拠地の獅子吼城(北杜市)を開城、ついに武田信虎の軍門に降った。 そのときの様子が『妙法寺記』にも詳細に記されている。 今井氏の武田氏への抵抗はこれが最後となった。 以後、今井宗家も武田氏の家臣に列らなり、武田信虎による甲斐国内統一が完成したのであった。 今井信是の長男今井虎意武田信虎に仕え重臣となる。今井信是には次男今井貞恵もおり、やはり武田信虎に仕えている。

今井安芸守信元1484〜1575年

今井信本、浦信本、浦信元ともいう。獅子吼城主。 今井信慶次男。 大井信達の娘婿。武田信虎とは義兄弟。
亨禄4年(1531年)に武田氏に反旗を翻し、飫富虎昌大井信業、栗原氏、諏訪氏らとともに 武田氏と戦っていた今井氏であったが、2月2日には兄今井信是が討死。 3月3日には韮崎河原辺合戦では栗原信真ら800余人が戦死。 4月12日、諏訪頼満らとともに塩川河原に出陣し武田信虎と戦うが大敗。 天文2年(1532年)9月にも、反旗を翻し、巨摩郡小倉の浦城に籠るが、 武田信虎に攻められ降伏。本拠地の獅子吼城を開城、ついに武田信虎の軍門に降った。 今井信元の長男は今井信員で、今井信員には長男今井昌義、次男今井清冬らがいる。 今井信慶の三男今井信隣(今井山城守)、四男谷戸信守(矢戸源三郎)らは永正6年(1509年)の今井合戦で討死している。 今井信隣の長男今井伊勢守信昌は旗本武者奉行を務めた。 今井信昌の長男今井信俊(今井昌茂)は、使番12人衆から足軽大将となり、 今井信俊の名は永禄10年(1567年)、甲斐・信濃・上野の諸将士が武田晴信に起請文を提出し、 生島足島神社に納めた「永禄起請文」のなかにも見えている。 その後、今井信俊は駿河田中城代となるなど戦功があったが、 武田滅亡後は徳川家康に召されて帰属し、文禄4年(1595年)に75歳で没した。 今井信俊の長男今井昌俊(高尾昌俊)は、武田晴信武田勝頼に仕え、武田氏没落後は父今井信俊とともに徳川家康に仕えた。 高尾伊賀守武田勝頼に殉死したことで高尾家の後継者が絶えたため、 今井昌俊徳川家康に請うて、高尾伊賀守の養子となり今井氏を高尾氏と改めたという。 その後は、今井昌俊徳川家康に仕えて長久手合戦にも出陣し武功をあらわしたが天正12年(1584年)、38歳で没したという。 今井昌俊の長男今井嘉文は、文禄2年(1593年)、徳川家康に仕え、慶長2年(1597年)には徳川秀忠の小姓となり、 慶長5年(1600年)には信州上田城攻めに供奉したが、のちに勘気を蒙った。 慶長19年(1614年)には大坂冬の陣に松平周防守康重に属して戦功をあげ、 元和2年(1616年)に召し返され、夏の陣にも功を立てた。 戦後、甲州八代郡内の本領を与えられ、以降、高尾氏を称して徳川旗本となった。

荻原常陸介昌勝1461〜1535年

荻原政勝、忠明、常陸守ともいう。
荻原慶忠の長男。
武田信満の五男今井信景がおり、今井信景の四男荻原慶忠が甲武国境の荻原郷に拠って氏姓を起こしたことにはじまるという。 荻原慶忠から荻原昌勝とつづく。 山梨郡荻原村(山梨県三富町上荻原)を領する。 『荻原系図』によると今井信景から今井信経今井信慶荻原慶忠とつづくともしている。 しかしこの系図に従うと荻原慶忠今井信是今井信元今井信隣と兄弟ということになり、 すでに荻原昌勝と同年代の生まれであることから考えにくい。
武田信虎の重臣。武田信虎の軍師。妻は飫富道悦の娘。
荻原備中守慶忠の長男として寛正2年(1461年)に生まれる。 飫富虎昌の叔父(叔母婿)にあたる。 武田信昌から一字「昌」を拝領。 武田信昌武田信縄武田信虎と三代にわたって仕え、 武田信虎の傅役をつとめ、弓矢の指南役もつとめる。若き武田信虎に合戦を教授。 「相図の小旗」「相図の物見」などの戦法を創始。「智略の師」と武田信虎をふくめ多くの家臣たちに尊敬されていた。
武田信虎時代の侍隊将8人の1人にあげられている。『大泉寺古記』に荻原昌勝の武勇伝が記されている。 また、武田信虎元服後は、武田信虎の軍師として、甲斐国統一への緒戦に従軍し、数数の戦功をあげている。 大永元年(1521年)11月23日、駿河国今川氏親の将福島兵庫正成が 1万5000の兵で甲斐府中近くまで攻めてきた(飯田河原合戦)のを2000の手勢で撃ち破り、 福島正成を討ちとる。 合図の小旗を考え出し、台地にかがり火をたいて、人形を擬装兵として敵の目をくらますなど、 「相図の小旗」「相図の物見」などの戦法により、武田氏大勝利に導いたという。 軍師は加藤虎景荻原昌勝から受け継ぐ。 武田晴信の将来性を見抜き、幼い武田晴信に多くの合戦を語る。 武田晴信の政治力を支えた帝王学(孔孟の教えなど)を伝授した学問の師が岐秀玄伯(岐秀玄伯は信玄の号を贈った人物)であり、 武力の師が荻原昌勝とされている。 武田信繁を擁立しようとした武田信虎を諌めたが、 天文4年(1535年)、75歳で死去。天真院功厳元忠居士。恵林寺に石碑がある。
荻原昌勝には長男荻原昌忠(荻原忠明)がおり、荻原昌忠は若くして亡くなっていたため、 荻原昌忠の長男荻原昌明が家督を継承した。 荻原昌忠には長男荻原昌明のほか、次男荻原備前守昌信(荻原与惣左衛門昌信)、三男荻原兵部丞信基(荻原九郎次郎昌基)がいる。 荻原昌明荻原昌信荻原信基ら兄弟の母は、板垣信方の異腹妹であたため、 荻原昌勝死後は、叔父板垣信方の配下に属し戦地を転戦。 荻原昌信荻原信基は天文14年(1545年)、小笠原氏、木曽氏の連合軍との戦いで討死している。

荻原豊前守昌明1509〜1581年

板垣昌明、弥右衛門、正明、勝明、兵部丞ともいう。
荻原昌忠の長男。祖父荻原昌勝を嗣ぐ。
武田信虎に仕える。祖父荻原昌勝死後は、叔父板垣信方の配下に属す。 武田晴信の代になると、横目付衆や武田晴信の館番役、甲斐各街道の普請奉行をつとめる。 合戦時は目付衆、近習とともに旗本馬廻として武田晴信の護衛にあたる。 天文11年(1542年)には叔父板垣信方について諏訪侵攻に従軍。 諏訪頼重を討ちとる。 天文16年(1547年)8月11日には、志賀城攻めで、笠原清繁を討ちとる。 苅屋原城攻めでも太田弥助家臣11人の首を討ちとり、感状を賜った。 上田原合戦では、叔父板垣信方を補佐し、楽岩寺勢、布下勢との戦いでは、危険性を諌めたりしている。 永禄7年(1564年)7月には目付坂本武兵衛(坂本豊兵衛)とともに横目として飫富虎昌長坂源五郎曽根虎盛らの密談を監視。 天正9年(1581年)10月8日、72歳で死去。
荻原昌明には長男荻原弥右衛門昌之、次男荻原民部定久、三男荻原図書長久、四男荻原定昌(山縣定昌)がおり、 飫富昌景(山縣昌景)とともに逆心を暴き、武田義信に切腹へと追い込む。 荻原定昌は山縣氏に養嗣入し山縣姓を名のった。 荻原昌之には長男荻原甚之丞昌友、次男荻原玄蕃允重吉がいる。 荻原重吉から荻原重昌荻原昌吉荻原昌種荻原十助種重へとつづく。 荻原種重には長男荻原左兵衛守重、次男荻原五左衛門重秀(荻原近江守重秀)がおり、 荻原重秀徳川綱吉に仕え勘定奉行をつとめた。

栗原兵庫助信真1484〜1531年

巨海信真、栗原兵庫、兵部、信実、次郎ともいう。
栗原信尊(巨海信尊)の長男。
武田信虎が扇谷上杉朝興と結んだことに反発し、亨禄4年(1531年)1月21日、 飫富虎昌と語らい武田氏に反旗を翻し甲斐府中を攻める。 諏訪頼満に援軍を要請して、御岳に籠り、武田信虎と戦う。 4月12日にも、諏訪頼満今井信元らとともに塩川河原に出陣し、 武田信虎と戦うが大敗。討死した。
栗原氏は、武田氏の一族。武田信虎が甲斐統一を果たすまで笛吹川中流地域に大きな勢力をもっていた豪族である。 その祖は、武田信成の次男栗原十郎武統(栗原七郎)が甲斐東部の栗原郷を領したことによるという。 栗原武統の長男巨海信通から巨海信明巨海信遠巨海信友、巨海信重へとつづき強大な勢力圏を築いていく。 巨海信友には長男巨海信重、次男巨海法性、三男巨海三名がいるが、嫡子はおらず、 巨海信遠の次男栗原信続(巨海信続)から栗原信尊(巨海信尊)栗原信真(巨海信真)栗原信友(栗原信友)へとつづき、 武田惣領職の名にかけて甲斐一国の統一を果たそうとした武田信虎の前に大きく立ちはだかり、最後まで抵抗を示したのが 栗原信尊栗原信真父子である。 栗原信尊には長男栗原信真、次男栗原昌種(栗原惣二郎)がおり、 栗原昌種武田信昌から「昌」の一字の偏諱を拝領している。永正元年(1504年)に名が残る(『戦国遺文(広厳院文書)』により)。
栗原信尊栗原信真父子は武田信虎油川信恵の争いに加担し、 永正4年(1507年)、次男栗原昌種武田信虎に討ちとられている。
武田信虎はこの栗原一族を押さえ込むのには、相当手を焼いたことが諸書から見られる。 栗原信真には長男栗原伊豆守信友がおり、亨禄4年(1531年)に父栗原信真が討たれてからは武田氏に降伏。 甥の栗原詮冬を養嗣子とし家督を譲り隠居しているが、 永禄11年(1567年)頃の武田勝頼栗原信友宛ての書状の文面から、武田勝頼が丁寧な用語を持ってしたためている点を考え合わせると、武田家中では相当な重鎮であったことがうかがえる。

栗原左衛門佐昌清1505〜1552年

栗原是孝ともいう。 栗原信真の次男。
栗原信真の次男栗原左衛門佐昌清は200騎のを擁する侍大将として、信濃進攻戦に参加。 「速攻の栗原」と称されるほどの戦上手であったという。 上原昌辰小宮山昌友とともに「昌」の字を賜っており、武田信虎時代を支えた主要武将であったと考えられている。
天文12年(1543年)、小田井原合戦で戦功をあげる。 天文19年(1550年)には、上原昌辰とともに地蔵峠合戦に出陣し、苦戦していた小山田勢を救援するため、 横合いから敵陣へ突入して総崩れ寸前の味方の危機を救ったという。 常田合戦で奮戦するもこのときの負傷した傷がもとで天文21年(1552年)4月に没する。 全身に矢弾を受ける重傷を負っており、常田合戦から一ヶ月後に死去したという。 『古戦録』では栗原是孝とされている。 栗原昌清の長男栗原左衛門尉詮冬(栗原左兵衛尉)武田晴信に仕え重臣として活躍。 武田晴信から左衛門尉に任じられ、栗原詮冬は、叔父栗原信友から家督を継ぎ、 100騎の侍隊将となる。白地に黒の枠を染め抜いたかたちを旗印としていたという。
栗原詮冬の長男栗原左衛門尉信盛は、武田氏滅亡後は、二君に仕えるのを潔しとせず、 帰農して旧領地に留まり、その子孫が現存する。また武田二十四将図には恵林寺本にだけ栗原信盛が描かれており、 笛吹川沿いの栗原筋に本拠地を構えた栗原氏を地元出身ということで恵林寺本に栗原信盛を登場させているのも納得ができる。 栗原詮冬の次男栗原日向守昌治は武田氏滅亡後は、徳川家康に仕え、子孫は旗本になっている。

大井上野介信達1474〜1552年

大井次郎、上野守、高雲斎宗芸、大井入道宗芸ともいう。 大井信包の長男。
西郡(甲府盆地西部)を領し、上野城、富田城を居城とする。武田晴信の祖父にあたる。
大井氏は甲斐源氏で武田信武の次男大井信明を祖とする。大井信明大井春明大井信家大井信房大井信包とつづき、 大井信達を迎える。 甲斐国では、武田信縄武田信昌油川信恵の家督(甲斐守護職)をめぐって内訌が起こっており、 連動して国人同士の対立が発生。『王代記』によれば延徳2年(1590年)には大井氏は穴山氏と対立。 穴山大井合戦が行われた。大井信達はこのとき17歳。元服し、初陣であったと考えられる。 甲斐南部の河内地方を治める穴山氏などの有力国人は、駿河国の今川氏と結んで勢力を維持。 大井信達今川氏親に属すようになる。『勝山記』『一蓮寺過去帳』』などによれば、 永正12年(1515年)には今川氏親の支援をえて武田信虎に反旗を翻す。 武田信虎に富田城(南アルプス市旧甲西町)を包囲されるが、 今川氏親の救援を得て大敗させている。武田信虎を恵林寺に追い込み窮地に立たせるほどだった。 永正13年(1516年)には今川氏親の甲斐侵攻に与す。しかし、吉田(富士吉田市)をはじめ各地で今川勢が撤退し、 永正14年(1517年)正月にはついに武田信虎今川氏親の和睦がなされ、 大井信達武田信虎と和睦する。 大井信達は娘(瑞雲院殿)を(人質として)武田信虎の正室に差し出し、降伏。臣従した。 永正16年(1519年)には瑞雲院殿は長女を出産。 永正17年(1520年)には、東郡を領する娘婿今井信元や栗原氏と結び、再び武田信虎に背く。 しかし大井氏、今井氏、栗原氏などの連合軍は各地で撃破され、 大井信達は今諏訪の合戦で敗れている。 永正17年(1520年)に甲斐府中一蓮寺で催された和歌会の記録では「大井入道宗芸」と記されており、 武田信虎から隠居と出家を命じられたと考えられている。 家督は大井信達の長男大井信業(大井次郎左衛門)が継ぐが、亨禄4年(1531年)2月2日、 今井尾張守とともに武田氏に反旗を翻し、武田信虎と戦うが大敗。討死した。 大井信業の遺児大井信為(大井次郎)も天文18年(1549年)に死去し、 大井信達の次男大井信常(大井上野介)が家督を継承。
大井信達は文化人として知られ、 永正3年(1506年)には飛鳥井雅康から「八代集秀逸」を与えられている。 隠居後はしばしば和歌会を主催し、『為和集』によれば冷泉為和から「歌道執心の法師」と評されている。
大井信達には長男大井信業、次男大井信常、三男大井左衛門尉信堯(大井三郎左衛門尉)、四男大井虎昌(大井監物)、五男大井虎成、六男大井三河守常昭(大井甚右衛門信路)がいる。 家督を継承した次男大井信常には、長男大井式部信舜(大井新三郎)、次男大井信家(吉田八郎九郎)、三男大井信禀(大井新太郎)がいる。 大井信舜には長男大井信通、次男大井昌業、三男大井正栄がいる。 大井信堯は武藤氏を継いで武藤信堯と名のっていたが、長男大井与次郎(大井竹千代)がわずか12歳で病死してしまった。 跡継ぎが跡絶えてしまったことで、武田晴信真田昌幸を入れて武藤昌幸と名のらせている。 大井虎昌には長男大井昌次がおり、大井昌次には長男大井昌義(大井監物)、次男大井昌守(大井正守)がいる。 大井昌義は長男大井昌輝がおり、武田氏滅亡後は徳川家康に仕えている。 大井虎成には長男大井信興がいる。大井常昭には長男大井備前守光貞、次男大井久右衛門光広(大井光廣)がいる。 真田昌幸(武藤昌幸)が兄たちの死により真田姓に復すとき、大井常昭大井光貞父子は武藤姓を武田晴信の命で襲っている。 大井光貞には長男大井掃部頭光幸がいる。
大井信達の娘瑞雲院殿(大井夫人)は、嫡男武田晴信、次男武田信繁、三男武田信廉らを生む。

落合遠江守弘吉1494〜1557年

落合信盛の次男。
清和源氏大井氏族。甲斐国巨摩郡落合(山梨県中巨摩郡甲西町落合)に拠って落合姓に改める。 また信濃国佐久郡落合村(長野県佐久市)に拠ったことによるともされている。
弘治3年(1557年)2月、武田氏と長尾氏のあいだでおこなわれた川中島合戦において、 落合弘吉(落合遠江守)落合弘昌(落合三郎左衛門尉)の内応によって、武田氏は葛山城を攻略した。 善光寺抑えとして堅固をほこった葛山城城主は落合治吉(落合備中守)落合弘吉にとって落合治吉は甥にあたり、一族を裏切り武田氏に内通したわけだが、 落合氏と武田氏は祖を同じくする。 大井信明の次男北條大和守信丁の長男落合上総介信弘からはじまる落合氏。 そもそも同族同士の戦いであった。
積雪で越後からの出兵がない2月に教来石信房ら6000余の兵が包囲。 援将の吉窪城主小田切駿河守幸長らが籠る葛山城の守備は堅く なかなか落ちなかったが、水の便が悪い山城であることを利用し、水路を断ち、その上放火するなど、 2月15日には落城した。城主落合治吉以下ことごとく討死。 これにより武田氏は善光寺平を手中にし、戸隠方面への通路も抑え、越後長尾氏との戦いの主導権を握った。 落合氏は武田氏に従い緒戦に参加している。 8月にはそれを誇示するかのように将軍足利義輝に対して、信濃守護職就任を要請している。
落合氏の家系は源平時代の武将中原兼遠の子落合兼行を祖とするともいわれている。 落合兼行源義仲に従った1人。また滋野氏の末裔ともいわれている。
承久の乱後に新補地頭として水内郡に移り、 葛山城に拠って一族とともに葛山衆(同族集団)を形成した落合氏もあったといわれており、いずれにしても、 はじめは村上義清に属し、村上義清没落後は長尾景虎に属して、 武田晴信の北信侵攻に抵抗。 弘治3年(1557年)、真田幸隆の調略で一門の離反を招き、その後の武田軍の猛攻によって城は落城、 葛山城主落合治吉も戦死。
20世紀になって長野市の松参寺に供養塔が設けられた。
のちに一族落合兵助真田幸村の大阪入城に従い大阪夏の陣で討死した。

山縣河内守虎清1495〜1529年

山縣信清、山縣昌常ともいう。
山縣信喬の次男。
武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
山縣兵庫頭信喬(武田主計)の次男として明応4年(1495年)に生まれる。 亨禄2年(1529年)に武田信虎が一族加賀美四郎を討ったのを諌めたために 斬首された。忠誠の士であったにもかかわらず、ひとたび意に逆らえば斬首をまぬがれない。 これでは君臣一体の感情など生まれるはずもなく、のちにクーデターによって武田信虎は追放される。
甲斐山縣氏は、 源頼綱の三男山縣国直からはじまり、山縣公頼へとつづく。 武田信武の四男山縣薩摩守公信山縣公頼を嗣ぎ甲斐守護代となる。 山縣公信からは山縣兵部少輔武明山縣兵庫頭満信山縣兵庫頭持信山縣政信山縣民部少輔尚信(山縣招雲斎道鑑)山縣信喬へとつづく。
山縣虎清には長男山縣昌直がおり、父山縣虎清が諌死してのち、宇喜多直家に仕えている。 山縣昌直山縣昌家山縣惣兵衛昌則山縣三右衛門正章とつづく。
安芸武田氏にも分布している山縣氏は、山縣就照山縣元政山縣時則山縣信春山縣光政らがいる。

初鹿伝右衛門高利1505〜1548年

初鹿野高利、初鹿根高利、初仮高利、波加利高利、初雁高利、初鹿野伝右衛門、初鹿根伝右衛門、傳右衛門、傳右衛、氏貞ともいう。
初鹿(初鹿野)氏は、武田信時の三男初鹿時平からはじまる。 天文17年(1548年)、初鹿高利は上田原合戦で討死。
初鹿高利の長男初鹿源五郎忠次は天文3年(1534年)に生まれる。原虎胤の娘婿でもある。 足軽隊将として武田義信の補佐役を務めた。 関東攻めでは、表が香車、裏が金という『成金』をあしらった陣羽織を着て評判となる。 永禄3年(1560年)、小田原の北條氏康武田晴信に救援を求めてきたとき、 初鹿忠次は援軍の将に任命され小田原を援けている。
しかし、初鹿忠次は永禄4年(1561年)の川中島合戦で激戦のすえ討死。
武田晴信初鹿忠次の死を惜しみ、加藤信邦の末子に初鹿氏の名跡を継がせている。 初鹿忠次を嗣いだのは加藤信邦の六男加藤弥五郎昌久(初鹿伝右衛門尉信昌)であり、 加藤昌久初鹿高利の娘を妻として初鹿氏の血流をつないだという。 加藤昌久には長男加藤伝四郎信吉(初鹿勘解由)がいる。 加藤信吉には長男加藤昌次加藤昌重がおり、それぞれに初鹿氏が受け継がれていった。 武田晴信初鹿忠次の妻(原虎胤の娘)を加藤昌久と再婚させようとしたが、二夫にまみえずと断られたという。

岩崎筑後守信為1480〜1530年

駒井信為ともいう。
岩崎政時の長男。武田信虎の重臣。
武田信虎に仕え政治に長けたという。
岩崎氏は武田信政の七男岩崎信盛からはじまる。 一説には、武田信光の八男一宮信隆が岩崎氏を名のったことにはじまるともいう。 いずれにしても武田信光の三男武田信政の七男岩崎信盛に継承されている。 『甲斐国志』による「生山系図」によると甲斐源氏の棟梁職を現す御旗、盾無鎧を8代にわたって相伝し、 岩崎直信(岩崎政宏)のときに、武田信重に相伝したという。 岩崎信盛岩崎信村岩崎政安岩崎政連岩崎信商岩崎政章岩崎政貞岩崎政宏岩崎信秀岩崎政方岩崎政時岩崎信為とつづく。 長禄元年(1457年)12月28日、武田氏一門の吉田氏らが守護代跡部景家と小河原で戦い(小河原合戦)敗北しているが、 岩崎氏も攻められ一族が全滅したと『一蓮寺過去帳』に記されている。 長禄元年(1457年)の武田信昌跡部景家との戦いに巻き込まれたようで、 このとき一門がほとんど滅んだという。 岩崎信秀の代の頃と思われ、岩崎氏の勢力が衰えていったことは確かなようで、岩崎政方岩崎政時と命脈をつなぎ、 岩崎信為を迎えたという。
岩崎信為の弟が駒井高白斎政武である。
岩崎信為には長男岩崎勝秀(岩崎勝英)がおり、岩崎勝秀には長男岩崎政長(岩崎昌長)、次男岩崎勝盛がいる。 岩崎政長には長男岩崎政保、次男岩崎長成がおり、岩崎長成には長男岩崎長治がいる。 岩崎勝盛には長男岩崎勝正岩崎勝正には長男岩崎勝重がいる。

駒井高白斎政武1481〜1561年

岩崎政武、駒井昌頼、駒井政頼ともいう。
岩崎政時の次男。武田信虎の重臣。
武田信虎の軍師、側近、祐筆(右筆)。要害山城(積水寺城)主。 武田信虎武田晴信の参謀として代代仕える。
駒井高白斎は明応7年(1498年)から天文22年(1553年)までの55年間の武田氏を中心とした記録を『高白斎記』という日記により記す。 『甲陽日記』ともいい、諏訪頼重高遠頼継小笠原長時村上義清らに対する武田晴信の軍事行動が、 微細なところまで記されている信頼度の高い史料である。 『妙法寺記』とともに、武田晴信研究の根本史料となっている。
駒井高白斎は『高白斎記』において「駒井昌頼」の名で記され、 大永元年(1521年)8月10日、駒井昌頼(駒井高白斎政武)が積翠寺要害山城の城代を命じられたとある。 このことからも、駒井高白斎武田信虎に重く用いられ、積翠寺(積水寺もしくは石水寺とも)郷を領していた。 さらに武田晴信の代になり、 天文16年(1547年)には、甲州法度次第の起草を行い武田晴信に提出。天文19年(1550年)には深志城の鍬立て(築城工事)を着工するなど、政治に長けた家臣として武田家を支えた。
また外交の多くを担い、天文19年(1550年)には今川義元との同盟協議の使者として駿河へ派遣されている。 内政や外交だけにとどまらず、気象予報などにも精通していたという。 信濃進攻戦においても、諏訪方面への進軍では大将を務め、伊那福与城、藤沢城攻めなどでは 駒井高白斎の寄騎(与力)秋山信友に一番乗りの戦功を挙げさせるなど、活躍をみせる。 秋山信友に敵将藤沢頼親を捕縛させることで大手柄を立てさせ、秋山信友が騎馬50騎の侍大将へ任じられるきっかけをつくった。 秋山信友はさらに木曽福島城攻めで戦功を挙げ、伊那郡代に抜擢され、相備えと合わせ250騎もちの大将となる。
天文17年(1548年)、諏訪上原城代(留守居役)を務めていた駒井高白斎のもとへ、 上田原合戦の敗報が届き、負傷した武田晴信が戦場に20日間あまり留まっていることを心配し、今井相模守と相談のうえ、武田晴信の母(大井夫人)に事情を話し 、戦場を去るよう説得してもらったという。 駒井高白斎の妻は石和に恵法寺を開山した恵月院日真尼駒井高白斎の娘は原昌俊の妻という。 駒井氏は岩崎氏からわかれた氏族であり、巨摩郡駒井郷(山梨県韮崎市)を本拠とする。 駒井高白斎には長男駒井右京亮昌直(駒井右京進政直)がおり、駒井昌直には長男駒井親直、次男駒井昌時がいる。 駒井親直には長男駒井親昌駒井昌時には長男駒井丹後守昌利がいる。 駒井昌直は伊豆深沢城将をつとめていたが、武田勝頼死後は徳川家康配下の榊原康政に出仕。

教来石民部少輔信房1515〜1575年

馬場信房、教来石景政、信春、信勝、氏勝、氏房、信武、信政、政光、玄蕃、美濃守、民部大輔ともいう。法名は乾叟白元居士(乾叟自元居士)。
教来石信保の長男。譜代家老衆、深志城代、牧之島城(牧野嶋)城代。
教来石(山梨県北杜市白州町)を本貫とし、武川衆の一人として武田信虎の代から武田氏に仕える。 教来石郷は北巨摩郡の白州町に現在でも地名が残る。教来石氏は「武川衆十二騎」の一旗頭であり、 一條長広の長男教来石広政からはじまる武田氏の一族である。
『甲斐国志』に「智勇つねに諸将に冠たり」とあるように、一国一城の太守となっても人後に落ちぬ真の名将と称された教来石信房は、 山縣昌景工藤昌豊(内藤昌豊)春日虎綱とならび、武田四名臣(武田四天王)の一人に数えられる。 天文元年(1532年)、反旗を翻した今井信元武田信虎が攻めたときに従軍し初陣をかざる。 天文5年(1536年)には信濃攻めで功をあげしだいに頭角をあらわしていく。 『名将言行禄』によると天文9年(1540年)から諏訪へ潜入し、諏訪明神祝と誼を通じ、居住まで許され、3年間にまでわたって諏訪郡の地形や内情を精査し、攻めるべき数数の要所を武田晴信へ進言したという。 天文10年(1541年)の武田信虎追放には、板垣信方の指揮に従い武田晴信に与し、無血クーデターの立役者でもあった。 諏訪、佐久方面での合戦に戦功をあげ、 天文15年(1546年)には武田晴信によって50騎の侍大将に抜擢され、馬場虎貞の名跡を嗣ぐ。 謀者として合戦に貢献した教来石信房は「武略のための虚言は正当な戦術であって、平時につく嘘とは区別すべきだ」と語っている。 卓越した智謀により武田晴信に重用された教来石信房は、生涯40余度の合戦に従軍して傷一つ負ったことがない猛将でもあった。 小山田信茂がその秘訣を尋ねたところ、教来石信房は「よく陣する者は戦わず、よく戦う者は死なず、敵よりも先ず味方の状況を把握すべきだ」と語っている。 智略と武勇を兼備した教来石信房はつねに「戦場常在」の四字を戦陣訓としてかかげ、自戒の言葉にしていたという。
天文19年(1550年)に深志城代となり筑摩郡を支配。 天文22年(1553年)には村上義清の居城葛尾城の攻略戦に参陣。 天文23年(1554年)2月には梶間(静岡県富士市)へ従軍し北條軍を撃破。 天文23年(1554年)6月には長尾景虎軍による川中島清野宿への侵入を阻止し、 永禄2年(1559年)からは120騎をもつ譜代家老衆に列し、 まさに百戦錬磨の将というべく、武田晴信のおこなった合戦に必ずといっていいほど戦功をあげてきた。 川中島合戦では山本勘助とともに「きつつき戦法」を提案するなど、智略にも優れ、「一国太守の器量人」と評されたほど。 永禄4年(1561年)川中島合戦では、妻女山攻撃の別働隊に属し春日虎綱の副将を務める。 先鋒として崩れた長尾勢を追撃。殿軍の甘粕景持を3度にわたって追撃した。 川中島合戦をはじめとする三方ヶ原合戦、長篠合戦の三大合戦といわれる戦に参戦し、「参謀総長」として軍陣を指揮し、 その手並みのあざやかさは敵味方の区別なく賞賛の的となった。 永禄5年(1562年)には武田晴信の命で信濃牧野島城を築城。築城の名人としても名高い。 深志城や三河古宮城、遠江諏訪原城などの設計も手がけたという。 信濃牧野島城主をつとめ650騎を率いる一方で、飛騨先方衆、越中先方衆をも束ねている。 越後の上杉軍を監視する役目を担うとともに、越中方面、飛騨方面への御先衆をつとめた。 越中椎名氏と飛騨江馬氏を相備とし、わずかな配下の兵を城に残し、武田晴信のともをつとめつづけた。 永禄8年(1565年)からは武田晴信の許しをえて美濃守を称する。 「鬼美濃」と称された猛将原虎胤にあやかったもの。 永禄10年(1567年)の下ノ郷起請文には馬場信春と記されていることから、名前を「信春」と改めている。 永禄11年(1568年)12月、駿河侵攻の際には、武田軍の先鋒として今川氏真の江尻城を落とす。 駿河城に陣を進め、武田晴信が「宝を運び出せ」と今川氏の宝物を収奪するように指示すると、 「敵の財宝を奪いとるなど、貪欲な武将と後世の物笑いとなろうぞ」と猛反対し、 雑兵が奪いとった宝をすべて館に投げ返し、館もろとも焼き払ったという。君命に背く行為ながら、武田晴信教来石信房の器量に恐れ入り、 深く己を恥じたという。 永禄12年(1569年)、武田晴信北條氏康と戦ったときには、 先陣をつとめ、膠着した戦況を打破するために「きつつき戦法」を提案し、 永禄12年(1569年)1月、興津河原合戦において松田憲秀の軍勢を圧倒し、 10月に小田原城を包囲したときには松田屋敷を焼討ち。 真田昌幸が一番槍で突進した三増峠合戦では、 山縣昌景勢が到着するまで北條勢の猛攻をしのぎ、三増峠の戦勝を導いている。 元亀元年(1570年)、武田晴信は攻略した江尻城や徳一色城の改築を教来石信房に命じる。 奉行として工事を指揮し、駿河支配、遠江支配の拠点となる堅固な城塞を構築した。 元亀3年(1573年)10月3日、青崩峠を越えて犬居城に宿陣。 先鋒の武田勝頼に従い只来城を攻略。二俣城攻城戦では城兵の銃火にさらされ苦戦を強いられるが、 山縣昌景とかたらい二俣城の水の手を断つ作戦を考案。 12月19日、天竜川の上流から筏を流し、櫓を倒壊させる。 飲料水を断たれた城兵はたちまち降伏し、二俣城を陥落させる。 12月22日には、左翼に布陣して徳川勢と対峙し劣勢となっていた小山田信茂を援け、盛り返し勝利する。 勇壮かつ忠節な徳川の将兵(三河武士)に着目し、武田晴信徳川家康と同盟しなかったことを悔やんだともいわれている。 三方ヶ原合戦では第ニ陣に属し、先陣をつとめた山縣昌景工藤昌豊(内藤昌豊)の猛攻によって崩れた徳川勢の側面に攻撃をしかけ、 逃げる徳川家康を浜松城まで追撃する活躍も見せた。 天正元年(1573年)4月に武田晴信が帰国途中に信濃駒場で病没すると、 天正元年(1573年)9月に徳川家康が長篠城を落とし、 武田勝頼は天正2年(1574年)1月に美濃明智城、高天神城を攻略。 連戦連勝の勢いにのった武田勝頼は天正3年(1575年)4月に三河へ進軍。5月には長篠城を包囲した。 織田信長、徳川家康連合軍は長篠城の救援に到来。 設楽原へ布陣したその圧倒的に多勢の兵と、三重に張り巡らされた馬防柵を見て、教来石信房は不利を悟る。
戦うこと40年、時の流れと老いには勝てなかった。しかも若い世代には優れた人材がなく、 彼が小幡虎盛山本勘助から学んだ戦略、戦術、築城術のノウハウを語り伝える者もすでにいなかった。 武田晴信を失った武田氏の難問が長老として彼の双肩に重くのしかかっていたであろう。 武田勝頼が家督を継承すると同時に、武田氏の暗い行末を見とおしていたかもしれない。 「ひとまず陣を退いて対策を立てるべきではないか」「織田徳川連合軍との正面きっての決戦を避けて、長篠城だけを集中的に攻撃したあと、 手を返すように軍を退いて敵方の追撃を信濃にまで誘い込んで一気に撃滅する作戦はいかがか」と幾多の作戦を進言するも、 長坂釣閑斎武田勝頼の側近たちには受け入れられず、 天正3年(1575年)5月の長篠合戦に、反戦派の筆頭として終始「戦うことの不利このうえなし」と主張しつづけていたが、 聞き入られなかった時点で自分がもはや武田氏に必要とされていないことを悟ったであろう。 5月21日の朝、右翼先鋒をつとめていた教来石信房は果敢に織田軍へ突撃したが、 激しい銃撃によって手勢を700余人にまで減らされてしまう。 武田勝頼本隊も総崩れとなったため、教来石信房は殿をつとめ、 敗走する武田勝頼が無事に逃げ延びるのを確認してから、敵陣に突撃。 佐久間勢、明智勢を撃破し、馬防柵を三柵まで破ったが、各将戦死の悲報が伝わるなか、 「われは馬場美濃守信春という者なりっ!!討って高名にせよっ!!」と名のりをあげ、 刀に手もかけずに泰然自若と敵に首をさずけたという。 61歳の生涯を終える。 『柏崎物語』のなかに「美濃守(教来石信房)、月毛の馬に乗って槍を持ち、出沢口の手前の高所に立ち、われは馬場美濃守なり。討って功名とせよ、といえども近寄る者とてなし。 徳川家臣川井三十郎(河井三十郎)、槍を持ちて向かう。美濃守(教来石信房)、素手にて穂先をつかみ、われとわが胸に刺し、介錯せよと叫べど誰も首打つ者なし。 美濃守(教来石信房)は一生兎の毛ほどの手傷も負わずなり」と記されている。 織田方の史料でも、その勇将ぶりは称賛され「馬場信房の働き、比類なし」と残る。墓は自元寺(白州町白須)にある。
教来石氏は、一條長広の長男教来石広政からはじまり、教来石政次教来石政久教来石政長教来石政房教来石政忠教来石房政教来石遠江守信明教来石美濃守信保へとつづく。 教来石信房には長男教来石遠江守昌房、次男教来石氏勝(教来石信盛)、三男教来石信義、四男教来石房勝、五男教来石昌松、六男教来石信忠がいる。 教来石昌房には長男教来石氏房、次男教来石信勝、三男教来石信武、四男教来石信政、五男教来石政光がいる。 教来石房勝には長男教来石房家がいる。 教来石信保には次男教来石信頼がおり、兄教来石信房を補佐した。 教来石信頼からは教来石民部信久教来石信久教来石右衛門信成教来石信正へとつづく。

秋山新左衛門信任1507〜1548年

秋山光任の長男。
秋山氏は、加賀美遠光の次男秋山光朝からはじまる。 秋山光朝が巨摩郡秋山(中巨摩郡甲西町)を領して秋山氏を名のった。 秋山光朝の次男常葉光季常葉光季の次男常葉光家常葉時信常葉時綱常葉光信常葉光助へとつづき、 常葉光助の次男常葉光房が秋山姓に戻り、秋山光建秋山光盛秋山光方秋山光季秋山為光秋山光利秋山信利秋山信房秋山光任へとつづく。
また秋山光朝は大番制度により源氏と平氏が京都御所を交代で守衛の任にあたっていたときに平氏一門と馴染みを通じ、 小松内府といわれた平重盛(平清盛の嫡男)の娘を娶っていた。 そのことを源頼朝に忌避され殺害されてしまう。母方の小松姓を名のって世を忍んでいたともいわれ、 いずれにしても世に秋山姓が復されたのは後のことである。
戦国期になり、永正4年(1507年)には、秋山光任油川信恵に与し武田信虎と敵対するが、 油川信恵が討たれた後は武田信虎に従った。 以後は秋山光任秋山信任武田信虎の重臣として仕え、 秋山信任自身も「信」の字を賜っていおり、長男秋山信友も「虎」の字を賜ったほどであった。 武田信虎武田晴信に追放されて以降も、武田晴信に仕えた。
秋山信任には長男秋山伯耆守信友、次男秋山平十郎信藤(秋山伯耆守光家)がいる。 秋山信藤には長男秋山平十郎信時、次男秋山政時、三男秋山越前守虎康(秋山虎泰)がいる。 秋山虎康には長男秋山平左衛門昌秀秋山昌秀には秋山修理亮正重がいる。 秋山光任の次男秋山紀伊守忠国(秋山光国)は兄秋山信任とともに武田信虎に仕えた。 秋山光任には長男秋山光英(秋山光秀)、次男秋山光明、三男秋山光清、四男秋山紀伊守光次(秋山光継)がおり、それぞれ武田晴信に仕えている。
秋山光次武田勝頼の竜朱印状奏者であり、永禄5年(1562年)武田勝頼が高遠城を守るときに付属された侍隊将8人の1人。天正10年(1582年)3月武田氏滅亡のとき天目山田野で殉死した。

秋山伯耆守虎繁1527〜1575年

秋山信友、秋山晴近、穐山晴近ともいう。
『甲陽軍鑑』では秋山信友として登場するが、史実と違うので作為的に名を変えて記されたとする見方が近年の通説で、 実在した人物としては秋山虎繁が正しいようである。
秋山信任の長男。駒井高白斎家臣。享禄2年(1531年)生ともいわれている。
「晴近」とする書もあるが、武田晴信の「晴」は将軍足利義晴から賜った偏諱であり、これを臣下に与えることは常識的に有りえない。 秋山信友は伊那春近郷を与えられていたことと、春近衆の頭領となっていたことが混同されたとされている。
天文11年(1542年)、甲信国境で起こった瀬沢合戦で、秋山信友は居並ぶ武将たちを驚嘆させる働きを示す。 武田晴信から感状と恩地18貫文を賜ったと『甲陽軍鑑』に記されている。 上原城の奪還、高遠頼継との安国寺合戦、伊那地方での藤沢頼親の福与城攻略戦などに次次と戦果をあげ、 天文15年(1546年)には秋山信友は伯耆守に任じられ、騎馬50騎の侍隊将となっている。 これら一連の戦いに秋山信友が出陣し活躍していたことは事実で、わずか21歳ながら、 天文16年(1547年)には平定間もない伊那地方の郡代にまで任じられ、重要拠点とされていた高遠城の守衛にあたっている。 武田晴信が東信濃から北信濃方面へ兵を進めることができた蔭には伊那地方をがっちりと固めていた秋山信友の存在があったからといえる。 弘治2年(1556年)、武田晴信は伊那谷の守衛拠点を前進させ、飯田城を拠点とし秋山信友に守将を任じている。 相備えとして200騎が加えられている。 永禄4年(1561年)の川中島合戦では、秋山信友は飯田城にあって、美濃の斎藤氏や織田氏を牽制する役目にあり出陣はしていない。 武田晴信の六女於松殿織田信長の嫡男織田信忠(奇妙丸)との婚約が整い、 織田方からの結納品に対する返礼の使者として秋山信友が選ばれ、織田信長方諸将の居並ぶ前で堂堂と武田晴信名代の大役を果たし、 何ら臆することなく振舞った豪胆ぶりが、たちまち織田家中に広まり、一躍猛将秋山信友はその株をあげている。 元亀3年(1572年)、山縣昌景隊が先発隊として甲府を出発し、伊那高遠城の守将秋山信友も合流。 山縣隊は下伊那から奥三河へ侵攻。秋山信友隊は別働隊となって伊那谷を南下し東美濃へ侵攻。 織田の支城岩村城を攻略する。岩村城の城主は「女城主」といわれた遠山景任(遠山内匠助)の未亡人であり、 織田信長の伯母にあたる遠山殿であった。 遠山氏は織田家から妻に迎えることで織田信長に与することとなり、さらに織田信長の末子織田勝長(御坊丸)を養子としておりさらに織田色が強まっていた。 元亀2年(1571年)に遠山景任が病死してから織田勝長の後見人として遠山殿が城主となっていた。 秋山信友は岩村城を攻め落とすと、強引に未亡人遠山殿を娶る。 伊那衆を城番として置き、山縣昌景隊のあとを追って浜松西北部の三方ヶ原で合流すると、浜松城から迎撃に出てきていた徳川家康軍と合戦に及ぶ。 秋山信友山縣昌景の精鋭部隊の急追を受けた徳川家康は命からがら浜松城へ逃げ戻ったといわれており、 「さても秋山信友、武田の猛牛に似たる恐ろしき男ぞ」と云わしめたという。 天正3年(1575年)5月、長篠合戦の大敗により岩村城は孤立状態となってしまい織田信長織田信忠に攻められる。 天正3年(1575年)11月21日、降伏した秋山信友は長良川原で磔にされた。 岩村城攻防戦は相当な激戦だったことが織田方の史料『信長公記』巻8に記されており、織田軍は河尻秀隆(河尻与兵衛)毛利河内守浅野左近ら2万の軍勢で岩村城を襲っている。 秋山信友を守将として大島為元(大島讃岐守)座光寺貞房(座光寺三郎左衛門)など伊那衆を中心に、 甲斐と信濃先方衆約500の兵が対抗。 『甲州安見記』によれば、11月21日に落城し、女城主遠山殿とともに岐阜長良川河原で極刑に処され、享年は49歳とされている。

跡部伊賀守信秋1500〜1560年

跡部祐慶、祖慶ともいう。
跡部信長の長男。 跡部氏は、小笠原長秀の次男跡部駿河守政家(跡部入道明海)跡部清家を嗣ぎ、甲斐守護代に君臨。 寛正6年(1465年)6月に、跡部政家の長男跡部上野介景家(跡部守隆)が武田信守の死をきっかけに謀反し、 武田氏は諏訪氏の力をかりてなんとか跡部氏を鎮圧している。 その後跡部氏は、小笠原持長の五男跡部左馬宗長(跡部政豊)が嗣ぎ、甲斐跡部氏の祖となる。 跡部宗長跡部上野介宗勝跡部上野介信長跡部信秋へとつづく。 跡部信秋には、長男跡部信業、次男跡部大炊助勝資(跡部尾張守)がいる。 跡部勝資武田晴信武田勝頼に仕える。武田家朱印状の奉者をつとめたほどの重臣。武田勝頼の近侍をつとめていたこともあり、佞臣と評される。織田信長の信濃侵攻戦では、300騎持の譜代家老として織田軍、徳川軍を相手に奮戦。武田氏滅亡の際は武田勝頼に殉じ、諏訪で討死した。 『甲陽軍鑑』では悪人に描かれているが、忠臣であった。 跡部信業には長男跡部業保がいる。 跡部信業和田業繁が武田家に仕えたときに養子に入ったとされ、和田業繁を嗣ぎ和田信業と称した。 跡部勝資には長男跡部又七郎昌勝(跡部昌出)、次男跡部信濃守源昌がいる。 跡部信長には次男跡部越中守行忠(跡部泰忠)がおり、跡部行忠には長男跡部九郎右衛門勝忠(跡部美作守)、次男跡部行次(跡部幸次)がいる。 跡部勝忠には長男跡部藤五郎昌忠、次男跡部藤次郎昌秀(跡部民部)、三男跡部又次郎昌長(跡部雅楽)がいる。 跡部宗長には次男跡部次郎右衛門長与がおり、跡部長与には長男跡部次郎右衛門昌副、次男跡部越中守昌之(跡部正之)がいる。 跡部宗長の三男跡部惣左衛門利勝には長男跡部管次郎昌虎がおり、武田信虎の重臣として仕えた。 跡部昌虎には長男跡部昌直、次男跡部昌辰がいる。

伴野刑部少輔貞慶1504〜1559年

伴野貞元、刑部、友野貞慶ともいう。
伴野光信の次男。永正元年(1504年)生まれ(文明3年(1471年)の生まれともいう)。
佐久地方には古くから北に大井氏、南に伴野氏がそれぞれ支配勢力を張っていた。『吾妻鏡』に大井庄と伴野庄という地名が出ているほどで、時の政権から荘園と呼ばれた地域を任される地頭の職にあって、しだいに武力も強めていったと思われる。 いずれも小笠原氏(甲斐源氏)の血を引いた同族だったが、絶えず勢力争いを繰り広げ、この抗争が佐久の地盤をいつまでも固められない結果をまねき、村上氏や武田氏などの侵略をたやすくしたといえる。
文明11年(1479年)8月、伴野康政大井政朝の間で激しい合戦が起こり、 伴野氏は大井政朝を生け捕りにするほどの大勝をはくしたが、 大永7年(1527年)になると、佐久の諸豪とそりがあわなくなって身の危険を感じた伴野貞慶は、 武田信虎に頼み込んで出兵を仰いだりしている。 6月3日、武田信虎伴野貞慶を救援するため信濃佐久へ出陣(伴野合戦)。 大井氏らと対陣し、和睦を成立させると武田信虎は善光寺に参詣して帰還した(『勝山記』により)。 伴野氏は野沢城から前山城へ居城を移動させており、 大永元年(1521年)には前山城の支城として荒山城に伴野貞慶伴野貞秀が在城した記録が残る(『貞祥寺開山歴代伝文』により)。 武田信虎は永正年間(1504〜1520年)に村上頼平と佐久郡をめぐって度度争っていた。 天文15年(1546年)に武田晴信が北佐久内山城を攻めたときには前山城を前線基地として提供しており、 村上氏に従う豪族が多い佐久にあって武田氏に従っていた。 そのため、天文17年(1548年)には村上義清に攻められ村上氏に降伏。 天文18年(1549年)には真田幸隆の工作に応じて蘆田氏(依田新左衛門)のほか伴野氏らも一部が武田方に降るが、 天文19年(1550年)には武田晴信に攻められて数百人を討取られるといった始末で、伴野一族は武田氏と村上氏の争奪戦に挟まれ、 もみくちゃにされてしまった。
天正10年(1582年)11月、徳川家康の命をうけた芦田信蕃に攻められ、城主伴野信守は討死。 その後一族の伴野貞長が再起をはかろうと攻めたともいわれる。

長坂筑後守虎房1513〜1582年

長坂長閑斎、国清、長閑、頼弘、光堅、釣閑斎光堅、佐衛門尉、左衛門、左衛門尉、金吾入道ともいう。
長坂国清(長坂昌房)の長男。武田信虎武田晴信の重臣。武田勝頼の傅役を務める。
佐久郡根岸の日向城(根岸日向城)、小谷の大網城などの城代、諏訪郡代を歴任。
長坂氏は、甲斐源氏を祖とする小笠原氏の庶流にあたる。父長坂国清(長坂昌房)武田信昌武田信虎の重臣。 母は武田晴信の乳母であったことから武田晴信の乳兄弟。 武田晴信にとっては兄のような存在だったといわれる。 甲斐逸見筋長坂郷(山梨県北巨摩郡長坂町長坂)を領する。 板垣信方の配下として信濃侵攻戦に従軍。 天文9年(1540年)には武田信虎の佐久郡侵攻に参戦し、反撃に出た村上義清と戦っている。 長坂虎房日向昌時は残念ながら敗走しているが、上原昌辰が海尻城を死守。 天文11年(1542年)には諏訪侵攻に従軍し、諏方蓮芳を討ちとり、足軽隊将に抜擢され、50騎、足軽45人保持となる。 その後も佐久侵攻戦では、佐久郡日向城代を任されるなど戦功をあげていく。 天文17年(1548年)には板垣信方の戦死もあり、諏訪郡代に任命されて名実ともに武田晴信の重臣となった。
天文17年(1548年)7月10日、諏訪西方衆が小笠原長時らの煽動によって叛乱を起こしたとき、 長坂虎房千野靭負尉守矢頼真らとともに上原城に籠もり、 武田晴信に援軍を要請。 諏訪西方衆に呼応して小笠原長時は塩尻峠に布陣。武田晴信7月11日に躑躅ヶ崎館を出陣したが、 遅速行軍で相手を油断させ、18日に上原城に入城。長坂虎房も加わりその夜のうちに密かに軍勢を塩尻峠に展開させ、 翌早朝に一斉攻撃をかけ、奇襲に対応できずに小笠原軍は1000名が戦死して敗退したという。 8月11日に長坂虎房は上原城代に就任。 長坂虎房は天文18年(1549年)1月には諏訪の抑えとして新たに築城された茶臼山城(高嶋城)に移っている。 弘治2年(1557年)には大網城の城代を務め、長尾景虎の抑えの役割を担っている。
長坂虎房は外交官としての顔ももっており、駒井高白斎と並び、他国への外交官として名が残っている。 武田勝頼が高遠城主となる口上を武田義信へ伝える使者にもなっている。 侍大将となり武田晴信死後は武田勝頼の側近をつとめる。『甲陽軍鑑』から佞臣と評されることも多い。 『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)9月10日、川中島合戦で長尾景虎が乗り放した放生月という名馬を拾い、 乗り回しては「さすがの謙信も馬を捨てた」と嘲笑ったという。 武田晴信は「馬はくたびれたら捨てるものだ。笑うとは愚かなやつよ。」と逆に罵られてしまったという。 このように『甲陽軍鑑』には度度、跡部勝資と並び悪く描かれている。 また、天正3年(1575年)5月21日、長篠合戦では跡部勝資とともに、武田勝頼に進撃をすすめ、 敗戦を招いたともいわれている。ところが長篠滞陣中の武田勝頼から駿河まできていた長坂虎房宛の書状が現存し、 長坂虎房は長篠には参陣していないことが明らかになっており、『甲陽軍鑑』の虚でしかない。 『甲陽軍鑑』は春日虎綱が関わったともいわれており、 春日虎綱長坂虎房の仲が悪かったことも大きく影響しているのかもしれない。 天正6年(1578年)、長尾景虎の跡目争いで長尾景勝北條氏秀が合戦をしたさい、 長尾景勝武田勝頼に援助を求めて送ってきた2万両のうち、跡部勝資と5000両ずつをくすねて家中から指弾されたが 平然としていたというのも『甲陽軍鑑』による。 天正10年(1582年)3月、天目山行には武田勝頼の一行から脱走して、甲府の屋敷に隠れていたところを見つかり、 織田信長に殺されたともいわれているが、近年では最後まで武田勝頼に従い殉死したとする説が有力。 長坂虎房の長男長坂源五郎昌国武田義信の小姓。 永禄7年(1564年)7月15日夜、武田義信がお盆の灯籠見物という名目で飫富虎昌の屋敷を訪ねたとき、 そのともをしたという。その訪問が目付の坂本武兵衛、横目付荻原昌明に見つかり、 反逆行為の相談をしていたという疑いで成敗されたともいわれているが、永禄9年(1566年)閏8月付で 金丸昌次(土屋昌続)宛の起請文を提出していることから、長坂昌国は成敗されなかったとされている。 義信事件に連座し誅されたのは、長坂昌国ではなく長坂虎房の従弟長坂清四郎勝繁の方であるとされる。 長坂虎房には駿河国高橋城攻めで戦死した山崎彦右衛門内藤又六田野幸十郎大木又蔵ら同心がいるとされている。 長坂虎房には長男長坂昌国のほか、次男長坂和泉守昌常(今福新右衛門)今福浄閑斎の養子となっている。 三男長坂英信は長篠合戦で討死。 長坂昌常(今福昌常)には長男長坂新右衛門昌信(今福昌信)がいる。 (長坂国清)長坂昌房の弟長坂勝房には長男長坂勝繁がおり、武田義信の配下であったが、義信事件に連座し誅された。 長坂昌常(今福昌常)は武田家御鑓奉行3人衆の1人にかぞえられ、騎馬15騎、足軽10人を持となった。 天正10年(1582年)3月には徳川家康に仕えたという。10月には徳川氏への起請文に武田親族士隊将同心45人(42人とも)に名がある。

南部肥後守満秀1510〜1575年

河西満秀、河西肥後守ともいう。
南部宗秀の長男。南部城主。小山城主。
甲斐国巨摩郡鏡中條(南アルプス市、旧中巨摩郡若草町)を領す。河西氏は甲斐の豪族であり、源姓を称する。家系は清和源氏の一流である河内源氏の傍系とされており、 甲斐国巨摩郡を発祥としていることからも、武田氏庶流とされている。甲斐源氏の流れで南部氏の後胤にあたる。 桓武平氏葛西氏流ともいわれている。他にも讃岐国や伊勢国でも河西氏は豪族が分布している。
南部下野守宗秀は、南部定秀の長男。武田氏の家臣であり、甲斐国南部城主という。 鎌倉時代の武将南部光行の十二代目の後裔を称し、 武田信虎武田晴信に仕えている。 大永3年(1523年)には小山城主の穴山信永を破り、小山城代となっている。 天文17年(1548年)には、乱行を理由に甲斐国を追放され陸奥国会津まで流浪し、そこで餓死したという。 『甲陽軍鑑』によると、南部宗秀は家臣石井藤三郎を成敗しようとするも取り逃がしてしまい、 山本勘助の助けで石井藤三郎を捕える。 しかし自身の失態を棚に上げて手傷を負った山本勘助を非難し、それが武田晴信の不興を買うこととなり、追放となった。
長男南部満秀(河西満秀)は父の汚名に憚ったか改姓し河西を称す。
天正3年(1575年)長篠合戦で戦死している。

横田備中守高松1488〜1550年

横田俊昌ともいう。
横田氏は、南部守行の六男横田五郎行長からはじまる武田氏一族。
伊勢国出身ともいわれる。 甘利虎泰の足軽隊将をつとめる。信濃進攻戦で活躍。戦場数34度、戦場傷31ヶ所、知行地3000貫文。 敵の動きをすばやく察知し、その動きによっていち早くその戦術を読みとり、先手先手と手を打ってつねに味方陣営を勝利に導く 敵の先手を打つ戦術に優れた戦上手、合戦巧者、智謀の将と名高い。 多田満頼原虎胤小幡虎盛山本勘助らと並んで「甲陽の五名臣」の一人に数えられる。 『甲斐国志』には武田晴信の代には食禄3000貫、騎馬30騎、手勢100人の足軽隊将と記されている。 知行3000貫というのは武田氏時代ではかなりの高禄であったといえる。 甘利虎泰の相備えをつとめ、実質的には侍隊将格の地位にあった。
天文10年(1541年)6月に武田信虎が駿河へ追放され、南信濃や東信濃への進攻作戦では、 板垣信方甘利虎泰飫富虎昌と並んで横田高松隊も武田の精鋭部隊といわれ、 『妙法寺記』や『高白斎記』など信用度の高い武田史料にも、横田高松の活躍は記されている。 天文16年(1547年)8月、志賀城攻めでは、志賀清繁(笠原清繁)は親戚にあたる上野国菅原城主(群馬県妙義町)高田憲頼らの応援もあって、 「武田晴信恐るるにたらず」との気概があった。 武田晴信板垣信方甘利虎泰飫富虎昌横田高松を主力として徹底的に攻撃。 援軍のくることを察知したため、援軍到着する前に攻め落とさないと不利になると進言し、 横田高松は水口を断つ大功をあげる。水口を奪う手段は内山城攻略でも使用された作戦。 さらに駆けつけた山内上杉の救援軍(金井秀景)を撃破する大活躍をし、武将格の首級15人、将士雑兵の首級3000余を志賀城周辺に並べて城兵を威嚇。 志賀城を落城させている。 天文19年(1550年)9月3日、戸石城攻めでは、横田高松は攻め口を探る役目をつとめている。しかし劣勢から撤退となり、 敗走する武田軍の殿をつとめ壮絶な戦死をとげた。 『妙法寺記』は「信州戸石の要害を御退け候とて、横田備中守をはじめ随分衆1000人ばかり討死なされ候。されども御大将はよく退き召され候云云」と記している。 武田晴信本隊は無事に大門峠を経由して諏訪へ戻ることができた。 『石水寺物語』には武田晴信が「優れた武将になるとするならば、横田高松原虎胤のようになれ」といつまでもその死を惜しんだと記されている。
横田高松は跡継ぎがいなかったこともあり、武田晴信原虎胤の長男原十郎兵衛康景を養嗣に入れたが、 長篠合戦で討死してしまっている。
一族には横田下野守重晟がおり、横田重晟には長男横田九郎左衛門重政(横田九郎三郎正秀)、次男横田重員、三男横田重治、四男横田重次、五男横田利勝がいる。 横田重政には長男横田茂右衛門政次(横田庄五郎正次)がいる。

加賀美信濃守虎光1490〜1529年

加賀美四郎ともいう。
武田信虎の重臣。
加賀美氏は、武田信義の弟加賀美遠光が甲斐国(巨摩郡)加賀美庄(現在の南アルプス市加賀美/若草町加賀美)に拠り、加賀美氏を称したのにはじまる。居城は、現在の法善寺とされている。 加賀美遠光からは次男秋山光朝、三男小笠原長清、四男南部光行、五男伴野時長、六男加賀美光清、七男於曽光経、八男於曽光俊などに別れ、 秋山氏からは山田氏、上田氏、常葉氏、下山氏、小笠原氏からは跡部氏、溝口氏、矢田氏、丸毛氏、赤沢氏、津毛氏、下條氏、大井氏に別れている。 大井氏からはさらに、大室氏、長土呂氏、岩尾氏、平賀氏、根々井氏、耳取氏、小諸氏、武石氏、森山氏、平原氏、瞳崎氏、八代氏、鳴海氏、大倉氏に別れている。 南部氏は陸奥へ渡り、一戸氏、八戸氏、新田氏、金沢氏、北氏、石川氏、南氏、石亀氏、毛馬内氏、野沢氏、堤氏、大光寺氏、横田氏、久慈氏、大浦氏、七戸氏、四戸氏、金田一氏、櫛引氏、足沢氏、九戸氏、小軽米氏、江刺氏、波木井氏などに別れ、 伴野氏も阿刀部氏などに別れている。 いかに加賀美氏から多くの支族へ別れているかが分かる。甲斐国において加賀美氏の勢力は大きい。
加賀美遠光は康治2年(1143年)2月28日に逸見清光の三男(一説には四男)として生まれる。 母は常陸国の源義業の娘(『群書類従(小笠原系図)』より)とあるが実態は疑問で、むしろ甲斐国へ入国した逸見清光が甲斐国西郡を勢力下に治めるために在地豪族の娘を娶り生ませたという説(『武田信玄伝(広瀬広一)』より)が有力視されている。 兄弟の安田義定と同じように源平争乱の時期から動向が明らかとなる。 『吾妻鏡』によれば、治承4年(1180年)10月19日に加賀美遠光の三男小笠原長清源頼朝との対面に間に合わなかったという記録が残っている。 加賀美遠光は次男秋山光朝を在京させ平知盛に奉仕させていたという記録も残っており、 必ずしも兄武田信義安田義定らと行動をともにしていたとはいえない。 小笠原長清源頼朝の側近として信任を得ていたこともあり、 寿永2年(1183年)には加賀美遠光小笠原長清父子は源範頼源義経兄弟の木曾義仲討伐に参陣しており、平家追討にも従軍している。 文治元年(1185年)8月には功により加賀美遠光は信濃守に任ぜられ鎌倉に出仕し、多くの活躍が見られる(『吾妻鏡』より)。 前述したように次男秋山光朝平知盛に奉仕しており、平家全盛期に平重盛の娘を娶っている。 源頼朝から排斥され、不遇のうちに没したという。 加賀美遠光の四男南部光行源頼朝の奥州征伐に従軍し、その功によって陸奥糠部五郡を与えられた。 加賀美遠光の七男於曽光経は東郡於曽郷(甲州市塩山町下於曾)を領し、於曽氏の祖となっている。
加賀美遠光は寛喜2年(1230年)4月19日に没し、三男小笠原長清が加賀美氏の名跡を継いだようがが、 小笠原長清が小笠原氏を継承したのちには、加賀美遠経が加賀美氏を継承した。
戦国期になると加賀美虎光が加賀美を領していたが、亨禄2年(1529年)、武田信虎の勘気に触れ、武田信虎に討伐され、抵抗むなしく討死した。

今福浄閑斎友清1513〜1581年

今福虎孝、善九郎、石見守、石見入道浄閑斎、今福浄観斎ともいう。
旗本侍隊将。譜代家老衆70騎持。公事奉行。苅谷原城主。久能城(久能山城)代。
永正10年(1513年)に生まれる。広く一般的には今福友清で知られているが、実のところ今福友清今福虎孝(今福浄閑斎)の父とする見方もある。 武田信虎武田晴信に仕え、公事4奉行の1人にかぞえられる。 武田信虎の重臣。長坂虎房とともに元服し、武田信虎に「虎」の一字を賜わり今福虎孝と名のる。 また今福虎孝は浄閑斎と号す。浄閑斎の方が名高い。
今福氏は今福郷(山梨県中央市今福)を本拠とする。奈胡氏からわかれた武田氏の一族。
逸見清光の八男奈胡義行(奈古義行)は、『吾妻鏡』には八條院蔵人奈胡十郎として登場する。 奈胡は南湖とも南胡とも記され、巨摩郡南湖・浅原(南アルプス市甲西町)地域を中心とした奈胡荘を所領とした。 奈胡義行には長男奈胡義継(奈胡蔵人)がいる。奈胡義継には次男奈胡信継(奈胡弥太郎)がおり、奈胡信継は米倉氏の祖となる。 奈胡義継の三男奈胡行信(奈胡三郎)は花輪氏の祖となっている。花輪行信(奈胡行信)の孫の代花輪為頼浅原八郎と称し、浅原氏の祖となったという。花輪為頼(浅原為頼)は強弓大力の侍で悪逆人として成敗されたともいう。
今福浄閑斎は『甲陽軍鑑』によればかなり武略がある武将としてえがかれ、芸や能なども嗜んだとされる。 武田晴信の信濃侵攻に従い、天文22年(1553年)には筑摩郡の苅谷原城主となる。
信濃の国人衆、主に仁科氏の監視にあたった。
永禄10年(1567年)(天正5年(1577年)とも)に駿河国の久能山城を築き、城代に任ぜられた。
公事奉行とは訴訟や裁判を担当した奉行のことで、武藤常昭桜井信忠(桜井安芸守)今井信衡らとならび公事4奉行の1人とされる。 そんな今福浄閑斎には逸話が残っている。
悪趣味ではあるが今福浄閑斎は罪人を斬るのが飯を喰うより好きという変わり者で、死刑が決まった罪人は執行人がいるにもかかわらず、 自らがすべて引き受けて罪人を斬ったという。 いつしか1000人を斬ったと噂されるほどだったという。斬った罪人の祟りなのか、子どもが何人も病死したとまでいわれている。 信濃国の岩村田龍雲寺の法興和尚が甲斐国へ訪れた際、高徳の僧として尊敬していた今福浄閑斎は面識もあったこともあり、挨拶に赴いた。 和尚が「今福殿は、よい歳をしてためしものをしているそうだが、罪深いことよ…」と言うと、今福浄閑斎は「囚人の科が斬らすので、われらは罪を重ねているとは思いませぬ。」と抗弁。 和尚は今福浄閑斎に囲炉裏の炭をつぐよう頼んだとき、炭を手で入れた今福浄閑斎が手を拭っていると、 和尚が「なぜ手を拭きなされた?」と問うた。今福浄閑斎は「手が汚れもうしたので」と応えた。 和尚は「炭を手でつぐと手が汚れるように、奉行たるものがたとえ罪人でも人を斬るとその心が汚れ申そう。火箸という首斬り役があるではござらぬか。」と説き、 以後今福浄閑斎は罪人を斬らなくなったという。(『甲陽軍鑑』より)
今福浄閑斎には長男今福丹波守友実(今福丹波守勝信)、次男今福市左衛門昌和(今福筑前守)、三男今福昌松、四男今福友久がいる。 今福友実は久能諏訪原城代をつとめている。元亀元年(1570年)には原甚四郎改易にともない、原同心衆を付され侍隊将となっている。 今福友実には長男今福友直(今福善十郎)がいる。今福友直には長男今福友信がいる。 天正10年(1582年)3月に今福友実今福友直は久能山城から出て戦い、村松でともに自刃した。
今福浄閑斎の次男今福昌和は侍隊将40騎持で、永禄6年(1563年)に小宮山昌友のあとを受けて高島城代をつとめた。 永禄10年(1567年)には下郷起請文『生島足島神社文書』に署判がある。 天正10年(1582年)1月に武田勝頼を裏切った木曽義昌を攻め鳥井峠合戦で討死したとも、2月4日に討死したとも、3月に斬罪されたともいわれる。
今福浄閑斎は天正9年(1581年)5月15日(6月16日とも)に病死した。

米倉丹後守重継1519〜1575年

米倉宗継ともいう。
米倉重純の次男。
武田信虎の足軽隊将。牧野原氏の娘を妻としている。武川衆の頭領。
米倉氏は奈胡義継の次男米倉信継からはじまる。 米倉信継が甲斐国巨摩郡武川筋米倉郷(八代町)に拠って姓としたという。 はじめ武田信虎20人衆徒歩若党の1人にあげられ、甘利虎泰の同心頭となり、 合戦で13度の槍合せ、うち8回に功名をあげている。剛の者として名高い。 武田晴信旗本5人衆にも加えられ、7人の足軽隊将のうちの1人となる。
甘利虎泰の配下となり戦功をたて、 天文21年(1552年)に信州苅屋原合戦に新兵器として鉄砲玉除け(鉄砲や矢を防ぐ竹の盾)の竹束を工夫したことで有名。 竹束というのは青竹を束ねて楯をつくり、その表面に油を塗ったもので、敵の放つ矢や鉄砲弾を防いだ。 これに車輪をつけたものを車竹束といい、さしずめ装甲車。この新兵器、実は古代中国の三国時代に登場しており、 米倉重継らも中国の兵法書に精通していたことを物語っている。
天正3年(1575年)長篠合戦にて討死した。
米倉重継の嫡男米倉彦次郎晴継(米倉彦二郎)は、永禄5年(1562年)に武蔵松山城攻めで瀕死の重傷を負ったところ、 寄親(直属の上司)の甘利昌忠に馬糞汁を飲まされ、まもなく治ってしまうという。 永禄12年(1569年)、駿河薩捶山で没したいう(天正3年(1575年)長篠合戦で戦死したともいわれている)。 米倉重継の次男米倉五郎兵衛忠継(米倉主計助)は天正10年(1582年)武田氏滅亡後、 遠江国桐山(静岡県金谷町/榛原町)に潜居していたところ、徳川家康より扶持を受ける。 6月には徳川家康の甲斐入国に際し、折井次昌とともに武川衆を率いる。 12月には巨摩郡円井郷(韮崎市)に430貫文を給される。天正18年(1590年)に 武藏国鉢形(埼玉県寄居町)に750石を給されている。
米倉重継には、長男米倉晴継、次男米倉忠継以外に、三男米倉種継、四男米倉豊継、五男米倉利継、六男米倉満継、七男米倉信継らがいる。
米倉種継には長男米倉清継がいる。米倉信継には長男米倉永時、次男米倉定継らがいる。 米倉清継には長男米倉昌純がおり、米倉昌純米倉昌尹とつづき、米倉昌尹には長男米倉昌明、次男米倉昌仲がいる。 米倉昌明には長男米倉昌忠がいる。

浅利伊予守虎在1506〜1546年

信晴ともいう。
武田信虎の重臣。
八代郡(青島荘)浅利郷(山梨県中央市浅利/東八代郡豊富村浅利)を領す。侍大将として武田信虎に仕えた。 浅利隊は赤備えとしても有名。攻撃部隊の将。 浅利虎在武田信縄の娘婿であったことから、武田信虎の義弟として重く用いられた。 浅利虎在の長男浅利信種武田晴信の従弟にあたり、 武田晴信の代になってからも、重く用いられた。
浅利虎在には長男浅利式部少輔信種(浅利右馬助信音)、次男浅利義益がいる。 浅利信種には長男浅利式部丞昌種(浅利彦次郎)がいる。
浅利信種は90騎をもつ旗本侍大将。のちに30騎を加えられ120騎を率いた。 武田晴信の信濃、上野攻略戦において活躍。 上野箕輪城を攻略後、真田幸隆真田信綱父子、甘利左衛門尉のあとを 受けて箕輪城将となり、関東方面の責任者となる。 武田義信事件後の武田諸将の武田晴信への起請文「下之郷起請文」の取りまとめの奉行もつとめた。 竜朱印状の発行も確認されていることから、武田家の軍政における地位はかなり高かったといえよう。 永禄12年(1569年)、北條氏の居城である相模小田原城などを攻める。 武田軍は小田原城攻囲は4日程で解き、甲斐国への帰路へ付いた。 その途上、10月8日、北條氏照北條氏邦たちが、 武田軍の帰路を塞ぎ小田原城の軍勢との挟撃を図って発生したのが三増峠の戦い(三増峠合戦)。 三増峠上に布陣する北條氏照北條氏邦軍と峠を登る武田軍との間で激しい戦闘となった。 この戦闘の折に、殿をつとめた浅利信種は馬上で部隊の指揮を執っていたが、 北條下総守の手勢に鉄砲で撃たれ、落馬して死亡。 軍監として陣中にあった曽根下野守昌世(曽根内匠)が代わって浅利隊の指揮をとり、 指揮官を失った浅利隊をよくまとめた。 浅利信種の戦死を受けて、新たに箕輪城将、上野方面の責任者になったのが工藤昌豊(内藤昌豊)。 また、浅利同心衆(相備え)は土屋昌次が引き継いだ。
浅利昌種は父浅利信種の120騎を継ぎ、天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、 徳川家康に仕え、本田平八郎の配下に加えられた。
浅利氏は、文治5年(1189年)の奥羽合戦での戦功で浅利遠義源頼朝から陸奥国比内方面の地頭職を任されている。 秋田郡に橘氏、鹿角郡に成田氏、雄勝郡に小野寺氏、平鹿郡に平賀氏などが地頭職を与えられている。 『奥南落穂集』に「知義下向、鹿角ニ住シ三代浅利太郎義邦トイフ」とあり、浅利遠義の子浅利知義が下向し、 三代の浅利義邦が鹿角郡に移住していたことがうかがえる。 建武元年(1334年)には南部師行北畠顕家に鹿角郡を給付されており、 『津軽降人交名注進状』にみえる浅利清連は当初南朝方に与していたが、 建武2年(1335年)に北朝方の足利尊氏に与し、鹿角郡の成田氏や南部氏ら南朝方と激戦。 一進一退の攻防を繰り広げながらも、曽我貞光一族の曽我光俊曽我光時らと鹿角大里城の成田小次郎を攻め、 しだいに勢力を拡大していく。比内地方は浅利氏が支配することになる。 文和3年(1354年)に浅利浄光が甲斐国の浅利郷を譲渡していることが「沙弥浄光譲状」に見ることができ、 甲斐国浅利郷と比内郡の両方を所領していたことがうかがえる。
南北朝期以降は、檜山地方に勢力を拡大していた安東氏や南部氏との対立から浅利氏の勢力は後退し、 比内地方にはわずかに勢力を維持している状態で、 安東氏と南部氏の対立を利用して何とか生き延びていたという。
『独鈷村旧記』『長崎氏旧記』『浅利軍記』などから、比内地方における浅利氏の勢力の回復をはかり、 甲斐国の浅利氏本流から、浅利則頼が移住している。 永正15年(1518年)には津軽から比内に移り、赤利又(明利又)を拠点とし、南部氏に与する十狐次郎五郎を攻め、 十狐に十狐城を築いている。さらに笹館城を築くと弟浅利頼重を城代とし、 花岡城を築くと弟浅利定頼を城代とし、八木橋城にも一族をおくなど、比内地方に勢力を拡大。 天文19年(1550年)に十狐城で浅利則頼は死去したという。

加津野孫四郎昌忠1519〜1570年

和野昌忠、鹿角昌忠、加津乃昌忠、数野昌忠、勝野昌忠、葛野昌忠ともいう。
加津野勝忠の長男。東郡(山梨県大月市七保町葛野)を領す。 甲斐国名門の一族といわれているが詳細は不明。 諸説あるものの、有力視されているのは浅利氏の一族浅利遠義からの分かれとする説である。 浅利遠義浅利知義浅利義邦が鹿角郡で勢力を定着させており、 鹿角郡では鹿角を称する者も確認されており、 甲斐国浅利郷と陸奥国比内郡と両方を所領していた浅利氏の一族(もしくは浅利氏の配下)としての説は有力である。
浅利遠義が戦功をたて陸奥国比内地方を与えられた陸羽合戦のおこった文治5年(1189年)には すでに伊達泰衛に与して大木戸で戦死した鹿角近作がいることから、 古くから鹿角氏を称する豪族がいたことは間違いない。
加津野氏(鹿角氏)は甲斐国においては、東郡加津野(葛野)を領し、勝沼氏の配下に与していたと伝えられる。
祖父加津野筑前守勝房武田信昌の代からの重臣。 加津野勝房の長男加津野勝忠武田信虎の重臣。加津野勝房加津野勝忠ともに奉行衆に名を連ねる。
加津野勝忠の長男として加津野昌忠は永正16年(1519年)に生まれ、 武田信虎武田晴信の二代に仕える。
永禄8年(1565年)、『戦国遺文(二宮造立帳)』に加津野昌忠の名が残る。
加津野昌忠には長男加津野昌世がおり、加津野昌世武田義信の側近をつとめていたことで、 永禄7年(1564年)には切腹をせまられ、自刃している。
加津野昌世の名跡をのちに武田晴信が復興させるために真田幸隆の四男真田信尹を養子に入れている。 真田信尹は、加津野市右衛門信昌を名のるが、のち武田氏が滅亡すると真田姓に戻っている。

青沼助兵衛忠吉1527〜1582年

青沼昌吉、青沼昌忠ともいう。
青沼昌世の長男。
武田御親類衆の1人。勘定奉行。15騎、足軽30人持の侍隊将。
青沼氏は、甲斐国巨摩郡北山筋を中心に、青沼庄(青沼郷)や穂坂庄(穂坂郷)を領していたという。
逸見清光の流れをくみ、武田氏にとって庶流にあたる一族である。 青沼郷の地名は佐久郡にもあることから信濃国佐久郡の出身、もしくは信濃国佐久郡へ分布したとも考えられる。 佐久郡には同じく、武田氏と同じ源氏である小笠原氏や跡部氏、伴野氏、大井氏などが分布しており十分可能性はある。 いずれにしても青沼逸見氏が源氏であることは間違いない。
青沼忠吉は天文10年(1541年)に元服。青沼忠吉は算術に堪能であったことでしられる。 武田晴信武田信虎を追放し当主となった年に元服していることになる。 武田晴信武田勝頼に仕え、武田御親類衆の1人に列せられるほど格式も高く、勘定奉行をつとめている。
永禄6年(1563年)には諏訪城代、また上野国松井田城代をつとめたともされている。 永禄3年(1560年)に長尾景虎の攻撃を受けた北條氏康を援護するために 初鹿忠次(初鹿野源五郎)とともに出兵。物頭をつとめている。
巨摩郡北山筋を領していた青沼氏は、青沼郷(現在の山梨県甲府市青沼)から敷島、竜王、穂坂郷(山梨県韮崎市穂坂町)にかけて領し、 韮崎、宇津谷(山梨県甲斐市宇津谷)や穂坂道を守備する重要な役割をはたしていたといえる。
青沼業久の長男青沼昌業から、青沼氏には「昌」の字がつくものが多く、 武田信昌の代に重臣として地位を確立していたものと思われる。 青沼昌業の長男青沼昌虎(青沼肥後守)は、武田信虎から「虎」の字を賜っており、 「虎」の字を賜っているほかの重臣たちの顔ぶれをみても、青沼氏がいかに重んじられていたかもうかがえる。
武田信虎の代では青沼昌虎が活躍しているわけだが、 「虎」の字を賜っている重臣たちは武田信虎と同年代かもしくは年下がほとんどで、 永正年間(1504〜1520年)に生まれたものが中心に「虎」の字を賜っている傾向にある。 そのなかではかなり年長の方で、確認できるかぎりでは青木義虎が長禄4年(1460年)と高齢(「虎」の字は賜ったものではない可能性が高い)。 つづいて文明12年(1480年)生まれの諸角虎定(諸角豊後守)が確認できる。
武田信虎武田晴信の2代に仕えたのが、青沼昌虎の長男青沼昌世(青沼縫殿助/飛騨守)で、 青沼昌世は駿河国侵攻戦で戦功をあげ、興国寺城の城代をつとめている。
青沼昌世の娘が武田氏に嫁いでいるといわれ、青沼忠吉が御親類衆に列せられる理由はそのあたりかと思われる。
青沼昌業の次男青沼昌平(青沼七左衛門/青沼梅銕)がおり、青沼昌平には長男青沼昌長(青沼左近)、次男青沼昌次(青沼勘六郎)がいる。 青沼昌次には長男青沼昌武(青沼勘右衛門)、次男青沼昌成(青沼又右衛門)がいる。 青沼昌武からは、青沼直政青沼直之青沼直孝とつづいている。
青沼氏については、諸説あるもののしっかりとした文献を確認することができず、人名や年代などに誤りがある可能性が高い。

上原備中守昌辰1514〜1552年

小山田昌辰、信辰、伊賀守、古備中ともいう。石田(中巨摩郡上石田)を領する。
上原虎満の長男。譜代家老衆。平賀氏一族。甲斐源氏を祖としているので甲斐武田氏とも同族。
永正11年(1514年)に上原伊賀守虎満(上原伊賀入道玄怡)の長男として生まれる。 信濃佐久郡平賀の出であることからも、父上原虎満上原昌辰は信濃佐久侵攻戦では大きな役割を担っている。 父上原虎満の従弟上原虎種武田信虎に重く用いられ、 板垣信方飫富虎昌の副将として、ともに信濃佐久侵攻戦に従軍している。 上原昌辰は内山城代、海尻城代、小諸城代をつとめる。 上原昌辰自身は天文21年(1552年)に死去。
文献によれば上原氏が小山田氏(石田小山田氏)を名乗るのは翌天文22年(1553年)のこととされる(『高白斎記』によると天文20年(1551年)9月のこととしている。)。 両者とも備中守であったことから混乱が生じているのだが、つまり上原昌辰までは上原姓であって、次男上原昌行から小山田姓となる。 甲斐国石田に所領があったことから石田小山田氏と称されるようになったという。
上原昌辰は城を守ることにかけては優れた武将であり、 武田信虎にも信頼され、信濃侵攻の頃の武田家では上原昌辰が慣例的に守将になっていた。 飫富虎昌が信州内山城主をつとめたとき小山田姓を名乗り、 その後武田晴信の命によって上原昌行飯富虎昌の跡を襲って小山田氏を名乗ったとされる。 上原昌辰は古備中と称され、上原昌行が後備中と称されることがある。 上原昌辰は父上原虎満と同じく伊賀守を称したとされてきたが、 実は上原虎満と混同されてきたことで伊賀守とされていただけで、備中守であった。 上原伊賀守は父上原虎満のことで、上原備中守上原昌辰である。
天文9年(1540年)、上原昌辰板垣信方小宮山昌友長坂虎房日向昌時らとともに佐久侵攻作戦にあたった。 総指揮官を板垣信方、副将として上原昌辰小宮山昌友がつとめる。 1日に36城も攻略したわけであるが、村上義清の反撃も強く、上原昌辰が海尻城守将を務めていたとき、村上義清の猛攻にあう。 しかし日向昌時とともに村上義清勢を迎撃。必死の防戦により、武田勢の援軍がくるまで守り抜いた。 天文6年(1537年)にすでに海ノ口城を落としており、武田晴信が初陣をかざった合戦であったが、 その後武田信虎によって築かれた海尻城を守っていたのが上原昌辰である。 佐久地方は武田方と村上方で取ったり取られたりを繰り返していた。
上原昌辰は天文10年(1541年)海野平合戦、 天文11年(1542年)3月瀬沢合戦、10月信濃大門峠合戦、 天文12年(1543年)12月小田井合戦、 天文16年(1547年)7月碓氷峠(笛吹峠)合戦、 天文17年(1548年)2月上田原合戦、 天文17年(1548年)5月桔梗ヶ原合戦、 天文11年(1542年)7月塩尻峠合戦、 天文19年(1550年)戸石城合戦(戸石崩れ)、地蔵峠合戦など、 村上氏や小笠原氏との信州勢を相手に、飫富虎昌真田幸隆教来石信房(馬場信房)らと戦場狭しと駆け巡ったという。
上原昌辰の長男上原昌重は天文19年(1550年)、武田氏が戸石崩れの際に地蔵峠合戦で討死。 上原昌辰も、天文21年(1552年)3月、時田合戦(常田合戦)で、弟上原昌成とともに戦死した。 享年39歳。
次男上原昌行は天正10年(1582年)の高遠合戦で、武田盛信(仁科盛信)の副将をつとめ、壮絶な討死をした。
上原昌辰には長男上原昌重、次男上原備中守昌行(上原六左衛門信常)、三男上原治左衛門辰行がいる。 上原昌行には長男上原藤四郎昌盛、次男上原弾正有茂、三男上原壱岐守茂誠(上原六左衛門)がいる。 上原茂誠には長男上原主膳之知がおり、上原之知には長男上原之成がいる。
上原虎満には、長男上原昌辰以外にも、次男上原管右衛門昌成、三男上原大学介昌貞(上原彌助)、四男上原十郎兵衛盛昌がいる。 上原昌成には長男上原多門貞重がおり、上原貞重には長男上原熊之助重吉(上原甚五兵衛)がいる。 父上原虎満の叔父上原甚五郎吉勝(上原和泉守)には長男上原淡路守虎種(上原随翁軒種正)がおり、 上原虎種には長男上原筑前守種吉(上原助之丞)、次男上原与左衛門種長(森与左衛門)、 三男上原兵庫種知(上原瀬戸)がいる。 上原種知には長男上原守吉、次男上原勘衛門尉守長、三男上原藤介守真、四男上原浅右衛門長吉がいる。 上原守吉には長男上原吉備がいる。
上原茂誠(小山田茂誠)は、真田昌幸の娘(村松)婿でもあり、配流地の真田幸村(真田信繁)が心を許した義兄。 天正10年(1582年)、真田昌幸と戸石城に籠り、武田家滅亡後は真田昌幸長女の村松殿(宝寿院)を娶り真田の重臣となった。 真田幸村(真田信繁)同腹の姉の夫である。 関ヶ原では真田信幸に従っていたようで、戦後、真田家で真田信幸を当主とする新体制が確立すると、 上原茂誠(小山田茂誠)も家老として同家に留まった。 九度山に蟄居した旧主であり、舅の真田昌幸に対しては立場上、 表立って接触を図ることはできなかったが、 折をみて日用品や食料などを手紙を添えて差し入れていた。 また、義弟である真田幸村(真田信繁)にとっては気の置けない人物であったらしく、 九度山にある時も、また大阪城に入った後も、幾度となく上原茂誠(小山田茂誠)に対して近況を記した書簡を送っている。 真田幸村(真田信繁)は「歯も抜け、髭などもほとんど白くなり、身体も弱くなって」と蟄居中の弱音を漏らし、「何とかもう一度お目にかかりたい」と気取りのない心情を吐露している。 虚飾のない「戦国武将」真田幸村(真田信繁)の人柄、心情を最もよく知っていたのは、 他ならぬ上原茂誠(小山田茂誠)であったのかもしれない。 元和元年(1615年)3月、一時講和の成った大阪城で、真田幸村(真田信繁)上原茂誠(小山田茂誠)に対して書状を発した。 「定めのない浮世、明日の事も知れません。我々の事はこの世に無い者と思ってください」知られている限り、これが真田幸村(真田信繁)の絶筆である。

萩原備中守虎重1490〜1541年

萩原昌勝、市左衛門、宗左衛門ともいう。
武田信虎の重臣。 萩原備中守昌重の長男として延徳2年(1490年)に生まれる。
萩原氏は村上源氏を祖とし、甲斐国萩原に居住し萩原を姓とした。祖をたどると武田氏と同族ということになる。
永正5年(1508年)に武田信虎油川信恵の家督争いが起こったときには、萩原氏は一貫して武田信虎に味方し、 坊ヶ峰合戦や境小山田合戦でも萩原氏は武田信虎の勝利に貢献している。
荻原昌勝の荻原氏と混合されることも多いが、荻原氏も萩原氏も秩父と甲斐の国境にほど近く、 雁坂峠を警護したり、武蔵と甲斐の国境を警護し、黒川金山など守備する役割を担ったという。
亨禄元年(1528年)8月30日に、諏訪頼満諏訪頼隆父子と甲信国境の神戸・境川で戦い、 武田氏が大敗したときに父荻原昌重は討死した。
武田虎重武田信虎に仕え、武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。 萩原虎重には長男萩原市左衛門興重がいる。 萩原興重から萩原宗左衛門重次萩原市左衛門無重萩原瀬兵衛重正萩原十兵衛重成へと継がれていく。 武田氏滅亡後は徳川家康に仕えた。

芦田下野守信守1521〜1575年

芦田依田氏の詳細(
依田信守)はこちらから。
相木能登守昌朝1516〜1590年

依田昌朝、依田正朝、相木昌友、阿江木昌友、相木政友、相木政朝、相木政信、相木昌信、相木正友、相木正朝、相木市兵衛、相木能登入道、相木常喜、相木常善、相木能登入道常善、相木常林、相木平三、相木平三郎ともいう。
相木常林の長男。
信濃国佐久郡の相木城(長野県北相木村)主。見上城主。信濃先方衆。80騎持ち。山縣昌景の相備衆。
相木能登守常林の長男として永正13年(1516年)に生まれる。 相木氏は、清和源氏(源為公)の流れをくむ依田氏(相木道永)から分かれ、信濃佐久郡相木に拠って相木を姓とした。 伊那氏、林氏、芳美氏、依田氏、手塚氏、諏訪氏、飯沼氏、芦田氏、平尾氏、片桐氏、大島氏などを一族に持っている。 木曾義仲に属した依田実信(余田二朗実信)が京都に攻め上ったとされ、木曾義仲源頼朝に滅ぼされると、 依田庄は茂木氏に与えられている。だが依田氏は北條氏の執権下で支配地を回復。 正応元年(1288年)、依田為重(依田弥七郎)が東信濃一帯を守るために、一族を各地に派遣し警護を強化。 依田為重は一族一同これに全面的に協力させるため、最大の難関地である相木の見上置籍に若い長男依田時家を御岳城から送り込み城主としてすえている。 依田時家の長男依田行朝(依田九郎左右衛門)が見上城を築城したといわている。 依田時家の次男依田朝貞(依田左京助)は軽井沢に長倉城を築城し、碓氷峠の警備にあたっている。 依田朝貞の長男依田忠政(依田内匠頭)が上野国安中に進出し、後閑城(上野城)を築城したとされている。 依田行朝が相木氏の祖とされている。
足利尊氏のときには依田元信(依田左近大夫入道)は評定衆に加えられたとされ、 永享年間(1429〜1441年)の頃には依田庄のみならず、丸子地方から佐久郡へも勢力を拡大していったとされている。 永享12年(1440年)の結城合戦にも依田氏が関わっている。 『丸子町史』によれば、室町幕府が大井氏と依田氏の争いに懸念を抱き、信濃守護の小笠原氏に大井氏とともに依田氏討伐を画策。 永享8年(1436年)に小笠原氏・大井氏の連合軍は祢津氏、海野氏を撃ち破っている。 祢津氏や海野氏が敗れた3ヶ月後には依田氏(芦田下野守)は大井氏の軍門に下り、配下となったとされている。 永享8年(1436年)以降、丸子地方の依田氏領土は大井氏が治めることとなり、大井氏の一族がが長窪古町(長門町)の城に入ったとされている。 相木氏は永享8年(1436年)以降、代代、岩村田城や長窪城を領した大井氏の家老として仕えるようになる。 しかし、文明16年(1484年)に村上政清村上政国父子が佐久郡に侵入し、大井城が村上氏によって攻略されると大井氏は衰退し、 相木氏は大井氏からしだいに離れ、佐久郡相木城を拠点に独立性を保つようになっていた。 大井氏が村上氏に敗れる少し前の文明11年(1479年)8月にも、佐久郡岩村田城主大井政朝が前山城主伴野光利伴野光信父子と戦って敗れ、 大井政朝は生け捕られ、大井氏重臣の相木忠政(依田越後守忠政)が討死している。 このときに甲斐国の武田信昌も伴野氏に与して信濃国佐久郡へ侵攻し、大井氏を攻撃している。 これは文明4年(1472年)4月に大井氏が甲斐国へ侵入したことに対する報復として武田氏が伴野氏に与したもの。 つまり、すでに文明年間(1469〜1487年)の頃から、佐久郡は村上氏、大井氏、武田氏による激しい戦場と化していたことがうかがえる。
それからおよそ50年後、相木昌朝の代になると、大井氏の影響下からは完全に離れており、 甲信国境付近まで勢力を拡大していた村上氏の傘下に属していた。当時の大井氏の当主大井貞隆の家老だったとされる記述もあるが、すでに文明年間(1469〜1487年)以降は大井氏は南佐久郡に勢力を維持しておらず、 実際に相木昌朝大井貞隆に仕えたとは思われない。
天文5年(1536年)からはじまった武田信虎の佐久郡侵攻を契機に、かねてから村上氏を快く思わなかった相木氏は、 天文9年(1540年)に武田氏には属すようになる。 ところが天文10年(1541年)に武田信虎が嫡男武田晴信に追放されるという事件が起こると武田氏に属していた佐久郡の諸族たちはたちまち村上氏に帰属。 相木氏も例外なくこのときには武田氏から離反したとみられる。
武田氏は大きな混乱を招くことなくすぐさま佐久郡侵攻を再開。武田晴信に包囲され、天文11年(1542年)には相木氏は完全に武田晴信に降伏した。 その後は武田家臣として、信濃攻略において地の利を活かし数多くの戦功をあげていく。 武田晴信からの信頼も厚く、騎馬80騎持ちで佐久郡臼田の田口城代を任せらている。 天文12年(1543年)には武田晴信の信濃侵攻に従軍し、(かつての主君)大井氏滅亡に貢献。 のちに真田幸隆とともに甲斐府中(甲府)に屋敷をもらうこととなる。 同じ信濃先方衆として真田幸隆とは好を深めていたこともあって、 相木昌朝の娘が真田昌輝に嫁いでいる。
信濃先方衆として頭角をあらわした相木昌朝は、 永禄4年(1561年)9月には、川中島合戦で妻女山奇襲軍10隊中の1隊を任せられ、 春日虎綱真田幸隆らとともに妻女山の越後上杉軍を突く啄木鳥隊の1隊を指揮した。 川中島合戦後には善光寺平の治安を守るよう命じられ、善光寺に留まっている。 現在の長野市立城山小学校や長野女子高等学校の辺りに、城砦(相木城)を築いたといわれる。 長野市三輪に相木昌朝が在城した相木氏の城址(館跡)があったが、 昭和33年(1958年)に長野女子高等学校の建設によりとり壊され、跡地に小宮と城跡碑が建立された。 現在残っている相ノ木通り(北国街道)は、相木城跡にちなんだものといわれている。
相木昌朝山縣昌景が江尻城代のときの相備衆としても活躍している。 永禄8年(1565年)には次男相木荒次郎昌信(相木政信)山縣昌景の娘婿になっている。
天正10年(1582年)武田氏滅亡後は、信濃国は織田信長の勢力下にあり、相木昌朝滝川一益に属した。 しかし織田信長が本能寺の変で討たれ、相木昌朝は相模北條氏に属すこととなる。 織田氏の影響力が失われた信濃国は、北は上杉、南は徳川、東は北條から攻め込まれ、 そのため、徳川家康に属した依田信蕃に田口城、相木城を包囲される。相木昌朝は相模北條氏の援軍を頼りに田口城に籠っていたが、 相模北條氏が徳川氏と講和し相模へ引上げると、徳川氏に従っていた芦田信蕃に攻め込まれ、 やむなく相木昌朝は北條氏を頼り上州(関東)へ逃れた。 その後、相木城は廃城になったとされる。
機会をうかがっていた相木昌朝は、天正17年(1589年)、同じく依田氏に追われていた伴野貞長らと共謀し、 ともに相木に挙兵。佐久郡への復帰をはかる。 依田信蕃の長男依田康国(松平康国)と相木の木次原で合戦し、再び敗れて関東へ去ったとされる。その後の相木昌朝の消息は分からない。
相木昌朝には長男相木長門守頼房(相木市兵衛常祐)、次男相木昌信、三男相木七良右衛門善量がおり、 相木頼房武田信廉の娘婿となり、南佐久郡の南相木の名主となって現在にいたる。 相木頼房には長男相木美濃守信房(相木一兵衛)がおり、相木信房には長男相木彦太夫がいる。 相木昌信山縣昌景の娘婿。鉄砲の名手として知られ、 永禄12年(1569年)の対北條氏小田原城包囲戦で、北條氏邦の家臣で御湯見城主御湯見薩摩守を討ちとって功績を上げている。のちに真田氏に属している。 相木善量はのちに福井県の相ノ木氏の祖となったといわれる。 また一族に相木森之助というものもいるとされるが素性は確認できない。

山本勘助晴幸1493〜1561年

大林勘助、山本晴幸、菅助、勘介、松田七郎左衛門、道鬼入道ともいう。
吉野貞幸の三男。大林貞次嗣。
吉野図書貞幸(山本図書幸三)の三男として明応2年(1493年)に駿河富士郡山本に生まれる。初名は源助。
永正元年(1504年)、牛久保城主牧野右馬助(牧野出羽守)の家臣大林勘左衛門貞次(大林兵左衛門尉)の養子となり、大林勘助と改めた。 20歳になった永正9年(1512年)、養家を出て諸国修行の旅に向かう。 高野山に登り、摩利支天堂に籠って修行を積む。 永正10年(1513年)、京都(山城)で大内氏と細川氏の間で繰り広げられていた争いにおいて、 山本勘助は大内陣営に馳せ参じ、安芸武田氏に雑兵として仕えることになる。 永正12年(1515年)、武田元繁大内義興の命で安芸に帰国したときに 山本勘助も安芸に下る。 帰国した武田元繁は大内勢力の駆逐に乗り出し、安芸国は戦乱の坩堝と化す。 永正14年(1517年)10月22日有田中井手合戦で大内勢の毛利元就に討たれてから、 安芸武田氏は急速に勢力を失い連戦連敗というていたらく。 出雲尼子氏の支援で何とか存続していた状態だったが、 山本勘助は安芸武田氏を見限り、安芸に妻子を残して再び修行の旅に繰り出す。 近畿、西国、四国、山陽、山陰方面を遊歴し、軍法軍略の奥義体得に励む。 大永7年(1527年)には15年にわたる諸国遊歴を終えて帰郷したが、養家大林家の事情により旧姓を復し山本勘助と改める。 天文4年(1535年)、関東へ武者修行へ出て北條氏に仕官を望むがかなわず、母方の親戚庵原阿波守忠胤(庵原弥右衛門忠房)を頼り今川氏への仕官を試みるがかなわず、いずれも風采を理由に断られたものという。
天文12年(1543年)3月には武田氏に仕官。100貫の予定だった知行を300貫にまで変更させたというだけあって、 智略に長け、南信濃をほぼ平定した天文15年(1546年)7月21日には500貫の加増を受け、 800貫、足軽も25人から75人となり足軽隊将に抜擢される。 原虎胤横田高松多田満頼小幡虎盛ら足軽隊将五人衆のうちの一人に数えられる。 さらにその原虎胤の妹と再婚し、2人の子どもを設けた。 佐久郡内山城攻め、志賀城攻め、山内上杉氏との合戦にも従軍し、武田晴信の側近として軍師の役目を担うようにもなっていく。
天文16年(1547年)、高遠城を建築するなど、長きにわたった修行の成果ともいうべき得意とする城取り陣取りの法を大いに役立てた。
天文19年(1550年)9月の戸石崩れの際は、村上勢主力の侵攻方向の流れをかえることで、武田晴信撤退を援けている。 弘治元年(1555年)には、『妙法寺記』によれば300挺の鉄砲隊を率いて旭山城を攻めたという。
永禄2年(1559年)、武田晴信の剃髪を追って、永禄3年(1560年)に入道して道鬼と改めと、 『信州松原文書』『甲陽軍鑑』『甲州安見記』などに記されている。
永禄4年(1561年)の第四回川中島合戦で、西条山(妻女山)に陣をしいた長尾景虎の背後を奇襲し、 西条山を出たときに別働隊で撃つという『きつつき戦法(啄木鳥戦法)』を進言。 しかし長尾景虎に見破られ、戦法が失敗に終ったばかりでなく、武田信繁諸角虎定らが討死し、 自らも討死した。全身に80余ヶ所の手負い傷を受けても奮戦していたという。『甲陽軍鑑』『甲州安見記』『名将言行録』などには山本勘助戦死が記されているが、 武田史料として信頼性の高い『妙法寺記』『高白斎記』『王代記』には見られない。『武田三代記』『川中島五箇度合戦之次第』『北越軍記』『常山紀談』『武功雑記』などは江戸中期に書されたもので、 『甲陽軍鑑』が世に出て以降のものであり、『甲陽軍鑑』を参考史料とした軍談本の類でしかない。
これまで実在か架空かと江戸時代からいろいろと取沙汰されてきた「幻の軍師」であったが、『市河文書』の断片が発見され、 これに「山本菅助」の名を見ることになって、「菅助」と「勘助」の文字の違いこそあれ、少なくとも武田晴信の重要指令を口頭で直接伝達できるほどの立場に あったと考えられる。武田晴信の側近として存在していたことは確かなようだ。 『甲陽軍鑑』などには武将として華々しい活躍をする山本勘助であるが、『武功雑記』には山縣昌景に所属する斥候隊員でしかない。
山本勘助には安芸に残してきた長男以外に、原虎胤の妹との再婚でできた次男山本勘之助(山本源蔵)、三男山本助次郎がいる。 山本勘之助は天正3年(1575年)5月の長篠合戦で討死。山本助次郎は31歳のとき山中城合戦で討死。 山本勘助には娘もおり、饗庭十左衛門頼元(饗場頼元)に嫁いでいる。
吉野貞幸は、吉野貞久の次男であり、加茂山本家祖。 吉野貞幸には長男山本菊一郎貞次(吉野貞次)、次男山本藤七、三男山本勘助がいる。 山本貞次は本家吉野貞宗を嗣ぐ。 山本貞次にはニツ沢吉野家祖である長男山本九郎左衛門貞家(吉野九郎左衛門)、 石ノ宮吉野家祖である次男山本貞重(吉野貞重)がある。 山本貞家には長男山本日向守貞時(吉野日向守貞時)、次男山本元信、三男山本貞光がある。 山本貞時には長男山本助左衛門(吉野助左衛門)がある。
山本藤七は越後山本家祖であり、山本藤七には長男山本豊守(山吉豊守)がいる。

内藤相模守虎資1495〜1537年

内藤虎賢、虎貞ともいう。
内藤昌盈の長男。
武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
源満季(疋田為輔疋田成道)、疋田成家らを祖とする。 疋田為範の長男内藤康範から内藤氏ははじまる。内藤康範内藤為康父子から内藤氏は内藤保康の代まで流れ、 内藤為康の次男である佐伯為弘の流れ(佐伯為弘佐伯為貞佐伯為久佐伯為彰とつづく)をくむ 佐伯為彰の長男佐伯景廉が内藤保廉を嗣ぎ、 内藤教泰内藤廉徳内藤廉輔内藤藤廉内藤輔次内藤輔実内藤泰藤内藤廉次内藤就藤内藤元輔内藤元藤とつづき、内藤元輔の次男内藤元重へと継がれていく。
内藤廉次の次男内藤守秀の子孫が内藤虎資である。
内藤筑後守昌盈の長男として内藤虎資は明応4年(1495年)に生まれる。 父内藤昌盈内藤右京守秀の次男であり、武田信昌の側近だったことから「昌」の字を賜り、 内藤虎資武田信虎の股肱の臣として「虎」の字を賜る。 ところが、 『武田三代記』によれば天文6年(1537年)に武田信虎の駿河出兵について直諫したことで、工藤虎豊とともに誅殺されたという。 忠誠の士であったにもかかわらず、ひとたび意に逆らえば斬首をまぬがれない。 これでは君臣一体の感情など生まれるはずもなく、のちにクーデターによって武田信虎は追放される。 内藤虎資らの死が大きく影響していることは言うまでもない。 のちに武田晴信が武田氏当主となると、工藤源左衛門尉祐長(工藤昌豊)を内藤氏復興のために内藤姓を名のらせ内藤昌豊とさせた。 内藤虎資には、長男内藤常陸守昌貞(落合常陸守)、次男内藤清左衛門尉昌基(青木清左衛門尉)がいる。
安芸武田氏にも内藤氏は分布しており、内藤少輔九郎元康内藤伊勢守元種らがいる。 長田為紀の流れをくむ内藤氏も安芸武田氏に仕えており、内藤内匠泰勝内藤河内守元方内藤与三右衛門元栄内藤将監教方内藤松之助元種らがいる。 若狭武田氏にも分布しており、内藤筑前守元廉内藤筑前守勝高内藤筑前守勝行らがいる。

土屋右衛門尉昌遠1480〜1575年

土屋信遠の長男。
武田信虎の重臣。武田氏の族臣。
土屋氏は甲斐国の名族。もとは相模国の名族。『土屋系図』『甲斐国志』などから、鎌倉武士土屋三郎兵衛宗遠(土屋三郎平)が氏祖となっている。
平宗遠(土屋宗遠)から、土屋宗光土屋光時土屋遠経土屋貞遠土屋貞包土屋宗将土屋秀遠(土屋備中守)土屋道遠土屋宗弘土屋宗貞土屋氏遠(土屋豊前守)土屋景遠(土屋備前守)土屋勝遠土屋信遠へとつづき、土屋信遠武田信虎に重臣として仕えている。
土屋氏遠(土屋平三郎)は長男土屋景遠とともに、上杉禅秀の叛乱で武田信満武田信長父子に属し 上杉禅秀軍として参戦するが、上杉軍は敗北。 鎌倉公方軍は甲斐に攻め込み、武田信満は自害。武田信長は幕府側に降伏し、土屋氏遠は戦死する。 相模の本所領も没収され、武田氏に与していた土屋氏、土肥氏の所領は、駿河国の大森氏に与えられ、 ここに相模国土屋氏は滅亡する。 武田信長の麾下にあった土屋景遠(土屋備前守)も従い、鎌倉御所へ仕える。 土屋景遠は鶴岡八幡宮神主大伴時連の娘を正室とする。 のちに主君武田信長と房総に渡り、上総国土屋氏の祖となる。 土屋氏遠の妹が武田信長(武田右馬助)に嫁ぎ、武田信高(武田伊豆千代丸)をもうけており、 武田信高(武田伊豆千代丸)は武田宗家内乱の折、短期間ではあるが甲斐国主の座を占め、伯父武田信重と交代している。 このことからも、土屋氏の甲斐国での勢力は大きく、 武田信重武田信守武田信昌武田信縄とつづく代代の武田氏に有力豪族として臣従している。 さらに土屋景遠の長男土屋勝遠は明応4年(1495年)に甲斐守護武田信昌の娘を娶り、 武田信高(武田伊豆千代丸)以来の甲斐武田親戚衆を引継ぎ、名実ともに甲斐の名族となる。 この頃、伊勢盛時(北條早雲)に小田原城を乗っ取られた大森藤頼は真田城に逃れ、 甥大森泰頼大伴時信とともに甲斐国に逃れてきた。 大森泰頼大伴時信土屋勝遠は受け入れて扶持している。
武田信虎の時代には土屋信遠(土屋刑部少輔)土屋昌遠土屋直規の三代が仕えていた。 大永4年(1524年)2月11日、武田信虎は都留郡猿橋に出陣し、北條氏綱と対陣したときの戦い(猿橋合戦)で土屋信遠が戦死してしまう。 土屋信遠の戦死で後継者がなく断絶していたという説もあるが、家督はすでに土屋昌遠が継いでおり、 土屋昌遠の長男土屋備前守直規(土屋圓都)武田信虎の代で仕えている。 土屋昌遠から、土屋直規土屋知貞土屋知義土屋知治土屋知康土屋知寿へとつづく。
ただ、 天文10年(1541年)に武田信虎が追放されると、武田信虎に従い駿河国大平郷へ移住。 武田信虎が将軍足利義輝の招きで上洛し、石山本願寺で本願寺証如上人に会うとそれにも従った。 天正2年(1574年)に武田信虎が信濃国伊那高遠で没したため、 土屋昌遠は出家し高野山に入る。天正3年(1575年)大平郷にある菩提真光院にて没する。享年は96歳。
武田晴信の代になり、元亀3年(1572年)頃になると武田晴信の命により金丸虎義の次男金丸昌次が跡絶えた土屋一族の名跡を再興するために養嗣となっている。 土屋昌遠ら一族が駿河へ移住したことによるので実際には跡絶えたというわけではないが、 後継者として武田晴信金丸虎義の次男金丸昌次を入れて名跡を維持したといわれている。 武田信虎の重臣のなかには、土屋氏のように天文10年(1541年)の武田信虎追放事件以降名が見られなくなる武将も多く存在する。 土屋直規からの家系も存続しているにもかかわらず、金丸昌次(土屋昌次)が養嗣として入り、 金丸昌次(土屋昌次)が長篠合戦で戦死してからは、金丸虎義の九男金丸昌恒が継いでいる。
土屋直規はその後武田勝頼に仕えているようで、長篠合戦で戦死している。

原美濃守虎胤1497〜1564年

信知、虎種、美濃入道、鬼美濃、清岩ともいう。
足軽大将、平瀬城代、久能城代、甲陽五名臣。北條氏康に仕えた時期もある。
原友胤の長男。「鬼美濃」と異称される。
武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
原胤継の長男原能登守友胤は千葉一族の上総原氏の一族であるが、 永正14年(1517年)、小弓城落城により下総をはなれ甲斐へ。 武田信虎に仕える(永正10年(1513年)、永正12年(1515年)説もある)。 原虎胤原友胤の長男として明応6年(1497年)に生まれる。 原虎胤が20歳のときに甲斐へ父原友胤とやってきて武田氏に仕えている。 甲斐源氏の庶流出身者が多い武田家臣のなかで、原虎胤は千葉一族の上総原氏の末裔。 甲斐武田氏が上総の真里谷武田氏とも深い関わりをしていたことも、 原友胤原虎胤父子が下総原氏から甲斐武田氏に流れてきたことに関係があるかもしれない。 『甲斐国志』によると原友胤は武田家仕官のときは足軽隊将として召抱えられている。 「金の半月」の旗差し物を背に合戦に臨む。はじめは飫富虎昌の相備えとして活躍。 大永元年(1521年)、甲斐飯田河原合戦では福島正成を討ちとる活躍をしている。
原虎胤は城攻めを得意としており、それも破壊的な攻撃法ではなく、奪取したあとであまり補修をせずに利用できるように、いかにそのまま奪うことができるかという戦法を得意としている。 正面攻撃隊が派手に動きまわっている間に、城の生命線である水口を抑え、間道を見つけてふさぎ外部との連絡を遮断するいわば「裏口攻略法」で、 完全孤立化を謀るという城攻め戦術であった。 「どんな堅城、難攻不落の城であっても、所詮人間の手で築いたもの。丹念に探ればどこかに弱点はあるはず。 そこをどう探し、どう攻めるかだ」というのが原虎胤の理論とされている。
原虎胤は「鬼美濃」という異名が示すように、38度の合戦で全身に受けた疵は53ヶ所を数えたという猛将である。 だが、彼は残忍な猪武者ではなかった。 傷ついた敵将を敵陣まで送り届けて労るなど、情けも持ち合わせていた。 「元気な姿で再び戦場で相まみえ、武士らしく堂堂と刀を交えようぞ」とねぎらったという。 戦闘が集団戦に突入しつつある時代にもかかわらず、「いくさ」に美学を持って臨んでいたのかもしれない。 合戦終了後は一端矛を収め、互いに負傷者を陣営に運ぶしきたりがあり、原虎胤の場合も合戦が終わって部下の安否を気遣い、 戦場内を探索していたところ、たまたま傷ついて彷徨していた敵将に出会い、ひとまず敵陣へ送り届けたのが実のところだろうといわれている。 また、原虎胤が一時追放の身となって北條家に寄食していた頃に世話になった武将であったことから、 「ゆかりの人ゆえ、手出し無用ぞ」と叫びつつ敵陣へ送り届けたともいわれている。
天文20年(1551年)10月には松本平瀬城代をつとめる。 平瀬城は小笠原軍にとって筑摩へ反抗する足がかりとなる要害であった。騎馬30騎、足軽100人を手勢とする原虎胤は、 教来石信房(馬場信房)飫富虎昌隊の応援を得て、この要害を4日間で攻め落としたことで、平瀬城の守将に任命される。
ところが、天文22年(1553年)には浄土宗と日蓮宗の論争に巻き込まれ家法を犯したとして国外追放され、 小田原の北條氏康に仕えたが、まもなく許されて帰参する。 武田晴信は「甲州法度之次第」で法論を禁止しているのだが、原虎胤が武田の法度を破って、浄土宗を見舞ったためとされており、 北條氏康は「渡辺の綱(源頼光四天王)に勝る」と喜び、四隣に聞こえた「武田の鬼虎」無類の勇者を大歓迎したという。 小田原に滞在3年にして、甲州への帰還が許されている。 一説には原虎胤追放は表向きのことで、実は今川氏や北條氏ら東海地方の大名たちの動静探索の密命を帯びていたともいわれている。 弘治2年(1556年)には武田家に帰参していたと考えられる。 永禄2年(1559年)、武田晴信が剃髪したときにはこれにならい美濃入道清岩と号す。 9月には原虎胤は信越国境の要害割ヶ岳城の攻略を果たしている。しかし鉄砲弾を受けて負傷し、回復することはなく、 永禄4年(1561年)の川中島合戦では本国留守部隊を命じられていたが、 永禄7年(1564年)に病没。享年は68歳。 武田晴信は「原虎胤は幾多の合戦で限りなき武功をあらわした真の剛の者なり。世人、原虎胤を畏敬して鬼美濃と恐れしわが忠臣なり。当家、原虎胤のほかに美濃を称する者とてなし」と その死を惜しんで嘆息したという。
原虎胤には長男原十郎兵衛康景(原彦十郎直胤)、次男原重胤(原勝重)、三男原親胤、四男原甚四郎盛胤(原昌胤)がいる。 娘は、小幡昌盛初鹿忠次に嫁いでいる。
原康景横田高松の養嗣となり横田康景(横田綱松)と名のり、清水城代となる。 原康景には長男原光景、次男原甚五郎尹松(原甚右衛門尹松)がいる。 原尹松は高天神城代をつとめた。 原尹松には長男原政松、次男原倫松、三男原述松、四男原胤松、五男原景松、六男原縄松(小幡縄松)がいる。 原政松には長男原隆松がおり、原倫松には長男原重松がいる。 原述松には長男原豊松、次男原由松がおり、原由松には長男原遥松がいる。 原縄松小幡景憲の養嗣に入る。 原重胤には長男原重久がおり、原重国原親詮へとつづく。 原親胤には長男原親治がいる。
家督は四男原盛胤が継いだとされている。

原大隅守康景1524〜1575年

十郎兵衛尉、虎吉、虎義、直胤、十郎兵衛、彦十郎、半右衛門、横田綱松、横田康景ともいう。
原虎胤の長男。横田高松嗣。中間頭横目付20人頭
清水城代をつとめる。 原康景横田高松の養嗣となり横田康景(横田綱松)と名のる。 原康景には長男原光景、次男原甚五郎尹松(原甚右衛門尹松)がいる。 原尹松は高天神城代をつとめた。 原尹松には長男原政松、次男原倫松、三男原述松、四男原胤松、五男原景松、六男原縄松(小幡縄松)がいる。 原政松には長男原隆松がおり、原倫松には長男原重松がいる。 原述松には長男原豊松、次男原由松がおり、原由松には長男原遥松がいる。 原縄松小幡景憲の養嗣に入り、小幡縄松と名のった。

小山田越中守信有1488〜1533年

小山田弥太郎ともいう。
小山田信隆の嫡男。谷村城主。岩殿山城主。
武田信虎の妹を娶る。
小山田氏は関東でも有数の豪族。甲斐国都留郡(郡内領)に拠り支配した。 御坂山塊を境界線として西方の甲府盆地を中心とした地方を「国中」と称し、富士山麓地方を「郡内」と称した。 小山田氏はその郡内都留領を領有し、武田氏に匹敵する勢力を保持していたとされている。 永正4年(1507年)10月、油川信恵岩手縄美兄弟とともに武田信虎と戦うが敗北。 以来、武田信虎と度度戦いがつづいたが、 『妙法寺記』によれば、永正7年(1510年)春には小山田信有と国中の武田氏が和睦したことが記録されている。 永正7年(1511年)、武田信虎の妹を娶って武田氏に従う。 だがこの時点での武田氏と小山田氏の関係は、武田信虎の小山田氏への処遇などからみて臣従関係というよりは同盟関係という見方の方が正しい。 亨禄3年(1530年)4月23日、北條氏綱と北都留郡八坪坂で戦い敗れる。
小山田氏の出自は武蔵国秩父の関東平氏の出という名族。 『承久記』によると小山田の別当秩父重弘の次男小山田有重の子小山田五郎行平が鎌倉幕府より地頭の命を受けて郡内へ赴任したことにはじまるという。 戦国期に小山田信実小山田信光小山田信長小山田信隆とつづき、小山田信有を迎える。 小山田信有には長男小山田弥七郎虎親がいるが、天文10年(1541年)、33歳という若さで亡くなっている。 小山田虎親には長男小山田修理亮がいるとされる。 小山田信有には次男小山田信有、三男小山田信義がいる。

小山田出羽守信有1519〜1552年

小山田左兵衛、左兵衛尉ともいう。
小山田信有の次男。二代目信有。武田晴信の従兄。
天文10年(1541年)、兄の後を継いで家督を相続。 『甲陽軍鑑』によれば、穴山氏とともに武田親族衆として騎馬200騎を擁する侍隊将の地位にあり、 谷村城に居館を構えている。 岩殿山に防備の山城を築き、武蔵口、駿河方面の防衛の任にあたる一方で、関東の北條氏に備える重要な任務を帯びていたという。 天文16年(1547年)、志賀城攻めで戦功をあげ、討死した城主笠原繁清の娘を側室として娶る。 天文17年(1548年)、村上義清との上田原合戦では、味方が劣勢であったが奮戦。 天文21年(1552年)、村上義清との常田合戦で討死。 武田信虎武田晴信に従い甲斐国内外を出陣していたとはいえ、 武田氏に対抗する郡内地域における自立性をもった領主であり、 北條氏からは「他国衆」として位置づけられ、武田氏と北條氏との外交においては一自立領主として交渉に活躍。 小山田氏は生粋の武田譜代とは異なり、独立した領主権を認められていた。
小山田信有には長男小山田弥三郎信有がいたが若くして亡くなっている。 小山田信有には次男小山田左兵衛尉信茂、三男小山田修理亮昌輝(小山田五郎兵衛)、四男小山田弥五郎義武、五男小山田八左衛門行村(小山田彦之丞)がいる。 小山田義武には長男小山田元重、次男小山田次重がいる。

小山田弥三郎信有1538〜1565年

鶴千代ともいう。
小山田信有の長男。譜代家老衆250騎持。三代目信有。
天文7年(1538年)に小山田信有の長男として生まれる。
天文21年(1552年)に父小山田信有が死去したことにより小山田氏の家督を15歳で継承。 「信有」の名も継承しており、三代目信有とも称される。 『甲陽軍鑑』には「文のいることは弥三郎を召して七書五経をいわせて聞き給う」と記されており、 文才の面で小山田弥三郎信有の頭脳がかわれていたという。
天文22年(1553年)川中島合戦で初陣をかざったとされているが、 小山田弥三郎信有は幼少の頃から身体が弱かったともいわれている。 永禄年間の合戦には弟小山田信茂が出陣することが多くなっており、 小山田弥三郎信有は永禄8年(1565年)に死去。享年28歳。 子どもがいなかったため小山田氏の名跡は弟小山田信茂が継いでいる。 永禄4年(1561年)第四回川中島合戦においては、『妙法寺記』には「弥三郎殿は御立ちなく候て人衆ばかり立候へ共云云」と明確な記述があり、 永禄年間の災害からの小山田領の復興に追われていたために出陣していない。 武田晴信がこれを認めた背景には、自立領主としての小山田氏の性格が一因として考えられる。

小山田右衛門尉信茂1545〜1582年

藤乙丸、鶴千代、兵部丞、兵衛尉、又兵衛尉、左兵衛尉、左衛門大夫、越前守ともいう。
小山田信有の次男。譜代家老衆250騎持。
天文14年(1545年)に小山田信有の次男として生まれる(天文7年(1538年)生まれ説あり)。
弘治3年(1557年)、川中島合戦で初陣。 永禄8年(1565年)に兄小山田弥三郎信有が亡くなり、家督を継承。 『甲陽軍鑑』には、武田晴信の側近にあって、合戦の相談や進言をする「弓矢の御談合七人衆」の一人とされており、 若くして武田晴信から信頼されるほどの武将であったという。 永禄11年(1568年)からの北條氏政との対決では、中心的な働きをしている。 永禄12年(1569年)、八王子合戦で北條氏照を破り戦功をあげる。 三増峠合戦や三方ヶ原合戦では先陣を務め勝利に貢献している。
小山田信茂は投石戦法をお家芸としていたという。「武田の合戦は小山田隊の投石ではじまる」といわれていた。 石を投げつけられると災いが起こるという迷信もあったため、効果も絶大。 その攻撃の前に崩れない敵はないとまでいわれ、唯一越後長尾勢だけがその攻撃に耐えられたと伝えられる。 三方ヶ原合戦でも、両軍が睨み合っていたところへ小山田隊が投石攻撃を敢行。 これに徳川勢先陣石川数正の配下がカッとなり、攻撃命令を待たずに小山田勢めがけて突進。 徳川軍を敗北へと誘ったとされる。 川中島合戦や三増峠合戦、三方ヶ原合戦などで戦功をあげ、武田軍最強とまでいわれたが、 織田軍来襲の際に勝算なしと家名存続を選び織田信長に降伏。 武田勝頼を岩殿山城へ迎えるふりをして入城拒否。 『甲陽軍鑑』によると、側近長坂釣閑斎跡部勝資らの意見を聞き入れた武田勝頼小山田信茂の勧める岩殿山城へ向かっていたが、小山田信茂は笹子峠に竹矢来の柵を組んで武田勝頼一行の行く手を阻み、 行き場を失った武田勝頼は天目山で自害。 3月14日には織田信忠と謁見。しかし織田信長は降伏を認めず、堀尾吉晴(堀尾茂助)に処刑を命じ、 3月15日には小山田信茂も善光寺で殺害された。『信長公記』は武田勝頼滅亡の6日前と記し、生害の衆として一條信龍清野美作守今福筑前守らとともに小山田信茂の名を掲げている。 『常山紀談』は小山田信茂の最期の様子を「小山田兵衛尉信茂は武田累世の族臣だが、武田勝頼に叛いて善光寺に来たので、 織田信忠堀尾吉晴に下知して殺せといった。堀尾吉晴則武三太夫を討手とし「武田家の侍隊将として数世重恩ある身なのに主君に叛いたのは不義のいたりである。よって討つべしとの命である」というと、 小山田信茂は「口惜しくも謀られた。首を刎ねるがよい」といって切腹し、則武三太夫が介錯した」と記されている。 裏切り者として悪評が高い小山田信茂ではあるが、見方によっては、織田軍の郡内侵入を防ぎ得たのは小山田信茂が自ら犠牲になったからだと評価する声も少なくない。
法名は青雲院武山長久居士(武山長文居士)。長生寺に石碑がある。

小幡山城守虎盛1505〜1561年

孫十郎、信貞、織部、山城入道日意ともいう。
小幡盛次の長男。
足軽大将、海津城番、甲陽五名臣。小幡四兄弟の長男。
小幡上総守盛次(小幡日浄)の長男として永正2年(1505年)に生まれる(延徳3年(1491年)生まれ説あり)。
小幡盛次小幡定高の次男であり、遠江勝間田(静岡県榛原町勝間田)城主。「尾畑」「小畑」「小畠」「小俣」とも記されることがある。 父子は永正9年(1512年)から武田信虎に出仕し、いきなり足軽隊将の重職に登用される。 荻原昌勝の相備えとして、武田信虎に仕えた重臣。
永正12年(1515年)10月、大井信達大井信業父子が駿河今川氏親と好を通じ、 今川氏の強大な力を背景に武田信虎に公然と戦いを挑んできた(大井合戦)。 小幡日浄(小幡盛次)は先陣を引き受けて大井氏の居城上野椿城(中巨摩郡櫛形町上野)を取り囲み強攻めに及ぶ。 しかし敵の仕掛けた泥田に踏み込んで足をとられてしまい大敗。かろうじて危機を脱出する。 永正15年(1518年)には中郡今井郷(甲府市上今井町)の今井信是(今井兵庫助)の反乱の鎮圧に向かう。 大井合戦での汚名返上の気持ちもあったであろうが、武運つたなく、小幡盛次は戦死してしまう。
永正15年(1518年)、小幡虎盛が家督を継承する。 小幡虎盛は足軽隊将として15騎、足軽75人持。1800貫分の知行を得る。 生涯で38度の合戦に出陣し、36枚の感状を授かり、全身に41ヶ所の傷をもつ歴戦の足軽隊将。 小幡虎盛は8歳で武田信虎に仕え、幼名を孫十郎、家督を継いで織部、のちに山城守の官途を受ける。 武田信虎に「虎」の一字を賜った。合戦では自ら斬り込み八面六臂に暴れまわり、「武田の鬼虎」と称され怖れられた。 大永元年(1521年)11月の飯田河原合戦では、小幡虎盛が足軽隊を指揮し、武田信虎の騎馬隊との連携作戦で先陣を争い敵陣を撹乱。 有力武将首をあげる手柄を立てている。 『甲陽軍鑑』によれば、天文7年(1538年)7月19日に小笠原長時が甲斐へ乱入するという韮崎合戦が起こり、 飫富虎昌を先陣に、甘利虎泰小山田信有板垣信方らでこれらを迎撃。 この合戦で小幡虎盛は三度一番槍の功名をあげ、四度目はその身に7ヶ所の手傷を負いながら奮戦し、武将首を4つもとるという大手柄を立てている。 『甲州安見記』によると天文21年(1552年)に「小幡虎盛、入道剃髪して日意と号する」とある。 天文22年(1553年)に清野氏の旧地に海津城を築城し、上原昌行(上原備中守)に守備を任命していた武田晴信であるが、 越後上杉勢の動きを監視するためにも、春日虎綱を弘治2年(1556年)に城将に命じ、 春日虎綱の副将として小幡虎盛に海津城二ノ丸曲輪の守衛を命じている。 春日虎綱の相備衆として長男小幡昌盛とともに二曲輪の守将をつとめていた小幡虎盛であったが、 永禄4年(1561年)6月2日、川中島合戦直前に病没。 小幡虎盛は臨終に際して「よくみのほとをしれ」という戒めの九文字の遺言を遺している。
小幡虎次には長男小幡虎盛、次男小幡惣七郎貞長、三男小幡下野守虎昌(小幡弥三右衛門)、四男小幡惣次郎貞盛、五男小幡弥左衛門尉光盛がいる。
小幡虎盛には長男小幡豊後守昌盛(小幡随応軒)がいる。 小幡昌盛には長男小幡藤五郎昌忠(小幡又兵衛尉)、次男小幡孫次郎在直、三男小幡藤十郎昌重、四男小幡孫七郎景憲(小幡勘兵衛道牛)がいる。
小幡虎昌には長男小幡信広(小幡五左衛門)、次男小幡右馬家長がおり、小幡信広には長男小幡重長がいる。 小幡家長には嫡子がなかったため村山左近の長男村山弥五右衛門頼長(村山善四郎)が養嗣となる。 村山頼長には長男村山内膳長昌(村山弥左衛門)、次男村山左内精景(村山弥惣左衛門)、三男村山七之助頼秀がいる。 小幡貞長(小幡惣七郎)は天文19年(1550年)10月11日に海野平で戦死している(天文10年(1541年)海野平合戦とは別)。 小幡虎昌教来石信房(馬場信房)の副将をつとめている。武田信虎にも気に入られており、兄小幡虎盛とともに武田信虎から「虎」の一字を賜っている。
小幡貞盛は使番12騎をつとめている。 小幡光盛も武田家のために活躍し、兄小幡虎盛死後にはかわって海津城の城番をつとめている。
小幡昌盛原虎胤の娘を娶り、武者奉行をつとめる。天正10年(1582年)3月6日に死去。 小幡景憲は武田氏滅亡後は徳川秀忠に仕え、軍学修行をしたのち、大阪夏の陣で徳川方の間諜をつとめ、戦後に甲州流軍学を広めた。
『安見記』の二十四将には小幡上総守信貞がいるが、小幡虎盛小幡昌盛父子と同族ではあるものの、 上野国甘楽の国峰城主小幡憲重(小幡尾張守)の一族である。

小幡豊後守昌盛1534〜1582年

孫次郎、又兵衛尉、随応軒ともいう。
小幡虎盛の長男。
足軽大将、同心衆3騎、足軽10人保持。妻は原虎胤の娘。
幼名を孫次郎といい、長じて又兵衛尉を名のる。
天文17年(1548年)7月、15歳で初陣。塩尻峠合戦で父小幡虎盛とともに得意とする夜襲で敵陣を急襲。 小笠原長時軍を撃破し大勝利を収め、若いながら功名をあげる。 「鬼虎のうしろに小鬼あり」と連戦につぐ連戦で小幡昌盛は各地で奮戦。原虎胤からも将来に期待をかけられるようになる。 武田家中からも「末頼もしき若武者よ」と云われるようになっている。
『常山紀談』には、ある人が「武田晴信の士に小幡昌盛あり。いずれの戦いの折か、あるとき敵地に物見の命令を受けて出かけた折、 その帰りに道を敵兵に封鎖されてしまった。小幡昌盛は落ち着いて敵兵の動きを確かめてその場を逃げ、敵兵を避けて遠く迂回し 池に飛び込んで身を隠し、味方陣地へ戻った。さっそく「敵に虚あり」の報告をし、武田晴信は直ちに兵を進めて勝利を得ている。 一方、奥羽の太守伊達政宗の士茂庭良元(茂庭周防守)はあるとき、物見に物見に出て伏兵に囲まれ討死。 敵兵と遭遇して逃げなかったのは茂庭良元が勇気ある武士だったからだ」と褒めていると、 「物見の役目は軍の勝利にかかわる大事。敵状偵察が目的だ。発見されて戦うのは、すでに物見の役目を忘れてしまっていることになる。 役目を果たすことこそが大事であって、敵兵に後ろを見せても卑怯な振舞いにはならない。伊達の士を褒めるのはその道の大事をわきまえない者の考えだ」と言い放ったという。」
弘治2年(1556年)、父小幡虎盛が海津城の守衛につくと小幡昌盛も守衛につき越後上杉勢の動向を監視する任務を受ける。 武田晴信は「鬼の子には鬼の娘がふさわしい」といって原虎胤の娘と小幡昌盛を結婚させている。 永禄4年(1561年)11月に父小幡虎盛が病死し、28歳で家督を継ぐ。山城守、川中島海津城の副将、知行の3分の2は小幡光盛が継承。 自らは旗本衆組頭となり武者奉行をつとめる。武田晴信が甲府へ呼び寄せている。 武田晴信に近侍する旗本組頭となった小幡昌盛は、関東進攻作戦に従軍。 西上野攻略戦で活躍。倉賀野城、武蔵松山城、上野箕輪城攻めで武勲をあげている。 元亀3年(1572年)の三方ヶ原合戦では居並ぶ武将とともに大活躍。武田勝頼の代になっても長篠合戦では越後上杉氏に背後を突かれないため、 春日虎綱、叔父小幡光盛とともに海津城の守備にあたっている。
しかし小幡昌盛は「武田落ち」の直前に病床に伏す身となり、風雲急を告げる織田軍の甲州乱入を案じながら、 武田勝頼に涙ながらの別れを告げ、父子二代の重なる不忠を嘆きつつ、武田家滅亡の5日前、 天正10年(1582年)3月6日、織田信長の甲州攻めの最中に病死。
小幡昌盛には長男小幡昌忠(小幡藤五郎)、次男小幡在直(小幡孫次郎)、三男小幡昌重(小幡藤十郎)、四男小幡景憲(小幡孫七郎)らがいる。 小幡景憲は江戸時代の初期に「武田流(信玄流)」といわれた甲州流軍学の教典『甲陽軍鑑』を集大成した軍学者という。 小幡景憲小幡勘兵衛道牛の名でも知られる。

工藤下総守虎豊1495〜1537年

祐英ともいう。
工藤祐包の長男。
武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。 工藤守岡工藤光長父子が武田信昌に仕えており、 工藤光長の長男工藤祐包、次男工藤昌祐武田信昌武田信縄に重く用いられた。 工藤祐包の長男工藤虎豊武田信虎の重臣として、名を馳せた。 しかし、工藤虎豊は『武田三代記』によれば天文6年(1537年)に武田信虎の駿河出兵について直諫したことで、内藤虎資とともに誅殺されたという。 武田家中で重臣として仕えてきた工藤氏は、甲斐を出奔し名跡が跡絶える。 工藤氏は鎌倉時代から甲斐の名族であり、甲斐国巨摩郡と西郡から信濃国伊那郡の一部に及ぶ大草郷を支配する地頭であったという。 『吾妻鑑』には治承4年(1160年)8月25日、平家の将俣野景久と駿河目代橘遠茂を富士裾野で迎え撃った甲斐武田勢があったと記し 「安田義定工藤景光(工藤庄司)工藤行光(工藤小次郎)市川行房ら甲州より発向云云」とある。 これにより、大草郷の地頭が工藤景光であったことが明らかとなっている。 また武田信縄の近侍として工藤昌祐(工藤藤七郎)や、工藤祐久(工藤藤九郎)の名が『一蓮寺過去帳』に記されている。 永正4年(1507年)から起こった武田信虎油川信恵の家督争い(油川氏の乱)では、工藤氏は一貫して油川氏に味方しており、 永正5年(1508年)10月に笛吹市境川で行われた坊ヶ峰合戦や12月に都留郡で行われた境小山田合戦などで相次いで敗れた工藤氏は、 小山田氏とともに伊豆へ逃亡し韮山城の伊勢盛時に出仕した者もいたという。 跡絶えていた工藤氏であったが、武田晴信の代になって天文15年(1546年)には、 工藤祐元工藤昌豊兄弟は甲斐へ呼び戻され、工藤氏再興をはたす。
工藤虎豊には、長男工藤長門守祐元(工藤憲七郎昌康)、次男工藤長門守昌英(工藤玄随斎喜盛)、三男工藤源左衛門尉祐長(工藤修理亮昌豊)がいる。 工藤昌英には、長男工藤市兵衛昌明がいる。工藤昌明には、長男工藤市郎、次男工藤豊次郎昌武、三男工藤八郎右衛門祐明(工藤門三郎)がいる。 工藤昌豊には、長男工藤大和守昌秀(工藤信豊)、次男工藤甚五郎昌弘、三男工藤織部種次、四男工藤源助正種、五男工藤修理豊俊がいる。 工藤種次には長男工藤甚右衛門種昌がいる。
工藤昌祐には長男工藤藤九郎祐久がいる。

工藤源左衛門尉祐長1522〜1575年

工藤昌豊、源左衛門、大和守、修理亮、修理正、内藤昌秀、内藤昌豊、内藤修理、正重、昌重、重昌、下総守ともいう。
善龍院泰山常安。譜代家老衆。深志箕輪城代。四名臣とも副将とも称される。
『甲陽軍鑑』では内藤昌豊として登場するが、史実と違うので作為的に名を変えて記されたとする見方が近年の通説で、 実在した人物としては内藤昌秀(工藤祐長)が正しいようである。
工藤虎豊の五男。
工藤虎豊武田信虎の勘気に触れて誅殺されたため、工藤一族は、 一時甲斐国から出奔していたが、武田晴信武田信虎を追放して当主になると早速呼び戻され、 天文15年(1546年)には武田氏に召し戻され家臣団に復帰するとともに工藤氏の旧領を相続する。 工藤祐長は父工藤虎豊の一字ももらい工藤昌豊と改めたという。 武田晴信から武田信虎の粗暴な行為を謝罪され、 流浪の身をねぎられて金子や所領まで与えられれば、工藤昌豊の感激はいかほどか察せられるであろう。 天文19年(1550年)、工藤昌豊は信濃小県郡戸石城の村上義清攻めに功を立てる。 武田晴信の信濃平定戦に従い、永禄初期から深志城に在城。奉行人として地侍たちへ知行の宛がいを行い、城普請の采配に従事。 侍大将に抜擢され50騎を預けられる。 戦闘や調略などで華華しい戦果をあげることは少なかったが、その人となりは度量があり、思慮深く理にかなった進言をしたり、戦術の変更にも動ぜず万端怠りなく対応できたという。 しだいに頭角をあらわし、副将役として武田信繁と並び称されるほどになった。 『甲陽軍鑑』にも山縣昌景工藤昌豊のことを「古典厩武田信繁内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したとある。 弘治3年(1557年)、関東出兵を決断した武田晴信ははじめて碓氷峠を越え、上野国へ侵攻。 工藤昌豊も勇躍としてこれに従う。 関東管領上杉憲政が越後に逃れ長尾景虎は大義名分を得、関東へ兵を進めてくることは確実に。 西上野を侵されることは東信濃や甲斐の背後を脅かされることになる。 しかも依然として西上野には長野業政が箕輪城に拠り、頑強な抵抗をつづけていた。 武田晴信は足掛け9年にわたる執念の戦いのすえ、永禄9年(1566年)になってようやく箕輪城を陥落させる。 元亀元年(1570年)、工藤昌豊は箕輪城代に就任。 武田氏譜代内藤氏の名跡を嗣ぐように命じられ、内藤修理亮昌豊と称した(永禄11年(1568年)のことともされている)。 200騎の長野氏同心衆がつけられ、武田氏の重鎮として甘楽郡など西上野七郡の統治を任される。 これまでの同心組下50騎と300騎の将となり、西上野七郡の支配頭となった。 新しい領国の地侍、倉賀野衆らの人心掌握につとめ、領地内に定めを達するなど民政面に能力を発揮。
一向宗徒であった工藤昌豊の母が亡くなったとき、僧侶を集め葬儀を行った。 阿弥陀仏へはもちろん死者にも立派な膳を供えるよう命じたが僧侶の長老が「阿弥陀さまに膳を進上すれば、死者に膳は不要」と言った。 工藤昌豊は「それでは死者が飢えるではないか」と問うと、長老は「阿弥陀さまさえ食が満ちればその功徳が万人に施され、衆生が飢えることはない」と答えた。 やがて法事が終り会席となったとき、膳は長老の前だけに据えられ他の僧たちには一杯の茶さえ出されなかった。 僧たちが騒ぎはじめると、工藤昌豊は「先ほどのお上人の理屈では、上人さまさえ腹が満ちれば、脇脇のご坊たちにも施しがまわり、満腹となるはずではないか」と答えたという。
また、武田信豊が奉公人に紛れている悪しき者を見分ける方法を問うと、「坊主と座頭は近づけぬこと」と工藤昌豊は答えたという。 戦国時代では稀な合理的精神の持主であり、特に宗教的権威には格別の猜疑心をもっていた。 それは民政統御をする上で、一向宗徒など神仏を笠に着る寺社勢力の扱いに苦慮することが度度あったからであって、 工藤昌豊の深慮遠慮の片鱗を伝えている。
永禄12年(1569年)、小田原攻めに、工藤昌豊も箕輪城から出陣し、余地峠を越えてきた本隊に合流。 武蔵に入ると鉢形城や滝山城などを攻めつつ南下し、小田原城を包囲。 工藤昌豊は先鋒として北條軍と奮戦を繰り広げた。北條長綱(北條幻庵)が小田原城の守将であった。 武田晴信は手筈どおり包囲を解き退却。平塚から北上し津久井の郡境三増峠に差しかかった。 そこには北條氏邦北條氏照兄弟が待ち構えており、三増峠合戦となった。 工藤昌豊は小荷駄隊の宰領を命じられる。 工藤昌豊は川中島合戦でも武器、兵糧などを輸送する小荷駄隊の指揮官を務め、工藤昌豊隊の活躍があって上杉軍を善光寺平から駆逐することに成功したこともあった。 小荷駄隊は、軍需品や食料の輜重部隊であり、行軍中の最弱点で、ここを衝かれると総崩れとなる恐れがあった。 武将たちが嫌がる役割だが、工藤昌豊はこれを指揮し三増峠の脇坂道を長蛇の列をなして登っていく。 案の定北條氏邦が先頭に襲いかかり、ここへ山縣昌景隊、小山田信茂隊などが迎撃し乱戦となった。 北條氏の小田原からの正規軍の到着が遅れたことが勝敗の分かれ目となり、北條軍は敗走し小田原へ退き返している。
元亀2年(1571年)には相模の北條氏康が病死。武田晴信工藤昌豊に甲相和睦の全権をゆだねる。 工藤昌豊北條氏政との交渉にあたり、元亀2年(1571年)12月に北條氏政武田晴信との間に誓詞を取り交わし、 武田氏と北條氏は4年ぶりに復交することとなる。
元亀3年(1572年)三方ヶ原合戦では先陣七手の将として山縣昌景隊、小幡昌盛隊とともに攻撃隊の采配をふるう。 高天神城主小笠原長忠本多忠勝隊を撃破。
武田信繁が川中島合戦で戦死した後は「甲陽の副将格」と目されるほどの器量人と評され、武略にも優れ、 大将首をあげ、味方を勝利に導く軍功、多くの功名に輝く歴戦の勇者であったが、武田晴信からは感状の一通も受けていない。 個人の力量が全ての価値基準だった戦国の世に、多くの功名に輝きながら武田晴信から一通の感状も受け取っていない武将は、 工藤昌豊だけではないだろうか。 『甲陽軍鑑』には武田晴信が「内藤修理亮(工藤昌豊)ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と工藤昌豊を語ったとあり、 また工藤昌豊も「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもの。いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことよ」と感状をもらっていないことなど歯牙にもかけず平然と語ったとある。 これは工藤昌豊の度量を示す人となりを説き、「この将にしてこの臣あり」を物語る際に、必ず引かれる逸話であるが、 それまでの武田晴信工藤昌豊の信頼関係からすれば、感状などといった手形は必要なかったともいえよう。 武田家中で、優れた主君に仕える幸福を誰よりも感謝していたのは、恐らく彼であったろう。 それ故、武田晴信によって活躍の場を得た工藤昌豊は、 武田晴信の死とともに消える運命だったのかもしれない。長篠合戦での戦死はまるで自殺のようであったという。
長坂釣閑斎跡部勝資と反目しており、 天正3年(1575年)正月、恒例の重臣談合では、工藤昌豊長坂釣閑斎が激しく争論している。 長坂釣閑斎織田信長徳川家康との戦いを急ぎ、それに対し工藤昌豊は自重を促していたのだが、 工藤昌豊の進言は受け入れられず、 武田勝頼工藤昌豊へ動員命令を下す。すでに工藤昌豊は「武田の運命もはやこれまで」と感じていたのだろう。 佐久郡岩村田で武田勝頼工藤昌豊は合流し、 三河へ向かった。長篠城から設楽原へ発向。白地に胴赤の旗指者を翻し、1万の手勢を従えて突撃。 滝川一益の兵3000を柵のうちに追い落とした。 しかし山縣昌景原昌胤ら名だたる勇将たちが、名もなき足軽の鉄砲の前に次次と斃されていく。 武田軍は激闘のなかでしだいに劣勢を強いられ、総崩れとなった。 武田勝頼本隊が退却をすると、工藤昌豊は100騎ほどをかき集め、最期の突撃を敢行。 周囲の従う者は次次と薙倒され、流れ矢が命中した工藤昌豊は落馬し、槍をふるって敵を求めたが、設楽郡八束穂宮脇原で、朝比奈泰勝によって討とられた。 塩山の恵林寺に墓があり、善龍院泰山常安居士と号している。 工藤昌豊には長男工藤大和守信豊、次男工藤甚五郎昌弘(工藤彦五郎正弘)、三男工藤織部種次(工藤修理)、四男工藤源助正重(工藤昌重)、五男工藤修理豊俊がいる。 工藤種次には長男工藤甚右衛門種昌がいる。 工藤種次工藤種昌は武田氏滅亡後は真田氏を頼っている。

日向大和守昌時1491〜1590年

虎頭、是吉ともいう。
日向昌吉の長男。
比志(須玉町比志/比志神社)を領す。 武田信虎の重臣。松本城主。
武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。 延徳3年(1491年)、日向図書昌吉の長男として生まれる。 父日向昌吉武田信昌に「昌」の一字を賜り、日向昌時も「昌」の字を受けついだが、 武田信虎から「虎」の字を賜り日向虎頭と名のった。 日向昌時(日向虎頭)武田信虎武田晴信武田勝頼と仕え、 長命にて天正壬午の年まで生き長らえている。
日向昌時には長男日向新助虎忠(日向大和守是吉)、次男日向弥四郎秀泰がいる。 日向虎忠には長男日向大和守重熈がいる。
また、日向昌時の娘婿として新津氏から養嗣が入り、日向右京虎顕(日向玄東斎宗立)がおり、 日向虎顕には長男日向藤九郎昌成、次男日向次郎三郎昌之(日向正之)、三男日向伝次郎政成(日向半兵衛)がいる。 日向政成には長男日向政次、次男日向出雲守次房がいる。 日向政次には長男日向政知(日向正知)がいる。 日向次房には長男日向兵左衛門次盛、次男日向半之丞次吉がおり、 日向次吉には長男日向孫三郎次直(日向左兵衛)、次男日向三郎右衛門次俊がいる。 日向次俊保科正之に仕えた。
日向虎忠(日向是由)は信濃大島城の副将をつとめ、天正10年(1582年)2月に自刃した。

加藤駿河守虎景1492〜1566年

加藤光貞、昌頼、光員、嘉藤虎景、嘉藤駿河ともいう。 武田信虎の重臣。内城城主。藤原利仁の流れをくむ都留郡の豪族。郡内加藤氏。内城城主。上野原城城主。武田信虎の軍師。
もとの名を加藤光貞という。武田信虎に「虎」の一字を賜った重臣。 旗本武者奉行、武田晴信の弓矢の指南役をつとめる。武田晴信の兵法の師ともいわれている。
勝沼信元とともに小山田氏や相模北條氏への警護にあたるという重責を担った。
甲相国境付近に知行をもつ。北條氏への抑えとして最前線を守備。 加藤氏は鎌倉時代から郡内上野原を所領とする領主(武田信義を頼って逃れてきた加藤景廉)で、 戦国期になって武田氏に従属したといわれる。 郡内上野原には上野原城があり、はじめ古郡氏が領し、のちには加藤氏の居館となったといわれている。 古郡氏は武蔵七党の一つ横山氏の流れで、12世紀末に横山重忠が古郡氏を称したのがはじまりという。 建保元年(1213年)5月、和田義盛の挙兵に同調して滅亡に追い込まれ、遺領は加藤兵衛尉が与えられている。 応永28年(1421年)、武田氏に忠誠を誓う都留郡の豪傑加藤入道梵玄(加藤照政)は 武田氏の甲斐守護職奪回をかけ、逸見氏や跡部氏と戦いを繰り返し名を馳せている。
加藤氏は内城(内城館)を居城居館としたとされている。 『上野原町誌』はこの内城館を、はじめ古郡氏、のちに加藤氏の居館としており、 「崖と堀に囲まれた自然の地形をうまく利用し、さらに古道にそって空堀をつくり、あたかも三角形の島のごこき城塞とした。敵襲に備えて、内側には土塁を盛り、空堀に橋を渡してあった。 この島の内を内城(面積1127.6u(337.2坪)、空堀は幅12.72〜16.36m、深さ3m)という。」と伝えている。 現在、内城の大部分は中央自動車道の建設などにより、確認することはできない。
『甲斐国志』によれば、加藤虎景(加藤光貞)は駿河守の受領名を名のり、『武隠草話』のなかで 宇佐美定行吉川元春と並び「三駿河」と称されるほどの武将であったとされている。ただ『武隠草話』も名士同名選定も近世のものであるため、事実を示す史料はなく、 伝聞を裏づける証拠をそろえて書きつづられている『甲斐国志』でさえ、「三駿河」と評される加藤虎景について、簡略な説明のみに終始している。 加藤虎景の動向が確認される史料としては『加藤家文書』と『栃木県庁採集文書』の二つ。 『加藤家文書』は山形県史に収録されている『北條氏照書状』であり、『栃木県庁採集文書』は上野原町誌に収録されている。 山梨県史によれば、これは永禄4年(1561年)の長尾景虎の相模国侵攻のときに、 北條氏照加藤虎景に援軍を要請したもの。 書状には「信玄江も以書状□候」とあり、武田晴信へも同時に同様の書状が届けられたと思われ、 北條氏照の援軍要請に応えて加藤虎景は北條氏援護のため関東(津久井)へ出兵している。
また5月には逆に越後へ侵入することで本国を狙われた長尾景虎を越後へ帰させるように画策。 加藤虎景も越後へ従軍し、割ヶ岳城を攻め落としている。 割ヶ岳城合戦では、辻六郎兵衛が戦死し、原虎胤浦野民部らが負傷するなど苦戦を強いられ、 加藤虎景原虎胤らによる調略によって落城させている。
そのほかでは、ほぼ『甲陽軍鑑』に頼らざるを得ない状況で、『甲陽軍鑑』の史料的価値によって加藤虎景の評価も大きくかわってくる。 史料が少ないこともあって、次男加藤信邦と混同されることもしばしばある。
『甲陽軍鑑』第14項に「戸石城攻めでの合戦で武田晴信敗戦(戸石崩れ)により撤退する武田軍にあって、山本勘助加藤虎景は、諸角虎定小山田信有日向昌時今井信昌(今井伊勢守)らとともに、 追手の村上勢を迎撃し、敵を300人余討ちとった」とあり、また『甲陽軍鑑』巻9「信州大門峠合戦のこと」「武田晴信が山本勘助に城取軍法を尋ねるのこと」「信濃上野国境の碓氷峠合戦のこと」「碓氷峠合戦での板垣信方のこと」「信州戸石合戦のこと」などにしばしば加藤虎景は登場し大きな活躍をしている。 『甲陽軍鑑』だけをとってみれば、確かに「三駿河」と称される由縁が分かる。
永禄9年(1566年)になると、上野原市鷲神社再興棟札および上野原市牛倉神社再興棟札に、 加藤虎景の嫡男加藤景忠の名が見える。 加藤虎景は永禄9年(1566年)に死去。享年は75歳という。
加藤虎景には、長男加藤丹後守景忠(加藤昌忠)、次男加藤駿河守信邦(加藤弥五郎)がいる。 加藤景忠の養嗣子として勝沼丹後守信景(加藤左衛門信真)が家督を継承。勝沼信景には長男勝沼千久利丸がいる。
天正10年(1582年)3月、武田勝頼が天目山に向かうという報せを受けると、 加藤景忠と養子加藤信景(勝沼信景)は主君救援のため一族を挙げて天目山へ向かう。 武蔵箱根ヶ崎にさしかかった折、北條氏の大軍に囲まれ、ほとんどが戦死したといわれている。 また、一説には武田氏滅亡を不安に思い、箱根ヶ崎に落ちて行き土地の一揆によって滅亡したともいわれている。 また、加藤信景は天正10年(1582年)、織田軍侵攻のときは相模国津久井口を守るが戦死したともいわれている。
加藤信邦には六男加藤弥五郎昌久(加藤昌次)がいる。 加藤昌久初鹿忠次を嗣ぎ初鹿伝右衛門尉信昌と改名。 加藤昌久の長男加藤伝四郎信吉は、初鹿伝四郎信吉(初鹿勘解由)ともいい、 加藤信昌には長男加藤伝右衛門尉昌次、次男加藤昌重らがおり、ともに初鹿氏(初鹿野氏)を姓としている。

小林尾張守道光1470〜1530年

小林尾張入道、尾張守、宮内丞ともいう。
都留郡大原庄船津を領す。藤原利仁の流れをくむ加藤氏一族加藤吉信を祖とされる。小山田氏に仕える。
小山田信有の重臣。永正12年(1515年)に今川氏親の支援をえた大井信達と戦い大敗した武田信虎は 恵林寺に一時逃げるまでに窮地に立たされて、今川勢が甲斐を侵攻していた。 永正14年(1517年)正月、小林道光が吉田城を落したことで、今川軍の退路を断ち、さらに駿河でも問題を抱えていた今川氏は撤退を余儀なくされる。 和睦を提案された武田信虎も応じ、今川軍は駿河へ撤兵。 大井信達も今川氏が撤退した以上は反抗をつづけられないとし降伏する。 今川氏を撤退させた小林道光の功績は大きい。
藤原氏の流れという小林氏以外にも、甲斐国巨摩郡には信濃国から移住したという小林氏も分布している。 信濃の小林氏は伊那郡と諏訪郡から発祥した2つの流れがあり、いずれも諏訪神家に縁がある。 諏訪郡の小林氏は諏訪氏の分かれ。伊那郡の小林氏は知久氏の分かれという。 知久氏は清和源氏源満快の流れだが、諏訪氏と姻戚関係が深く、諏訪氏とは同族とみなされている。
また、 甲斐国隣の上野国の小林氏は桓武平氏の分かれ。緑野郡小林と多野郡御厨小林を根拠とした秩父氏高山党の分かれという。 源頼朝の奥州征伐に際しては、同族の高山氏や大胡氏、佐貫氏らと参戦。 南北朝の争乱期には山名氏にしたがって上洛。その有力部将として守護代に任じられたものもいる。 丹波篠山にある沢田城主小林氏は、その子孫といわれている。 また、室町時代初期、上野一揆の有力国人としてもみえている。

小林和泉守昌喜1490〜1550年

小林尾張守、正喜、政喜、宮内丞ともいう。
小林道光の長男。
小山田信有の重臣。小山田氏一門に名を連ねる。都留郡大原庄船津を領す。
小林昌喜には長男小林宮内助貞親(小林和泉守)がおり、小林貞親には長男小林刑部左衛門房実(小林和泉守)がいる。 永正13年(1516年)に吉田山城へ出陣し今川軍と激突している。この時点で小山田氏の先鋭として出陣していることから、 すでに小林道光から家督を継承されていたとみられる。
天文10年(1541年)7月に北條氏綱が死去したことで、それまで争いの絶えなかった北條氏との関係改善のため、 天文13年(1544年)12月、武田晴信は小山田氏の重臣小林貞親を相模北條氏の小田原城へ遣わせた。 公式の和平使節としての訪問である。 これにより三国は和平の成立に大きく進み、天文23年(1554年)の三国同盟への確かな伏線の役割をはたす。 『妙法寺記』にも、武田晴信の娘が北條氏政に嫁ぐことになる三国同盟が描かれており、 相模国からは遠山氏、桑原氏、松田氏が迎えを務め、 小山田弥三郎の一門小林尾張守が相模国へお供役を務めている。

三枝土佐守虎吉1511〜1584年

源八郎、右衛門、栄富斎、元久ともいう。
三枝守綱の長男。
武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。田中城代。
三枝氏は甲斐で平安朝期からの在庁官人の系譜を引く旧族であり、「三枝の連」よりその氏姓が存在しており、甲斐源氏の武田氏より以前の旧族。 『続日本後紀』の平安時代中期、承和11年(844年)に「5月14日、山梨郡の人、伴直富成娘15、郷二と三枝直平麻呂に嫁ぎ一男一女を生む。 夫の死後貞節を守り札を尽くす云云」と記されている。 平安時代から鎌倉初期にいたる荘園時代の在官官人として強大な権力を誇っていた。 しかし長寛元年(1163年)4月、三枝守政の代に、熊野神社の支配領押領にからむ事件「長寛勘文」に連座して以来、 しだいにその勢力は失墜し、甲斐源氏が勃興し、武田氏の勢力拡大によって後退。 峡東地方(甲府東部)の一角に辛うじて支配権をとどめ、隆盛期の面影を失っていた。 三枝氏が最後まで抑えていた御坂、八代、一宮の国衙領も新興勢力の甲斐源氏武田一族に侵食され、奪取され、ついに没落してしまう。
武田信虎の代になって一族の石原守種の次男三枝丹波守守綱(三枝丹後守道見) を取り立てて三枝姓を名のらせ三枝定久を嗣がせている。 三枝虎吉三枝守綱の長男として永正8年(1511年)に生まれる(永正10年(1513年)説もある)。 足軽隊将として活躍する。
三枝守綱には長男三枝虎吉のほか、次男三枝備後守守龍(三枝守能)、三男三枝五郎右衛門守之、四男三枝新十郎守直がいる。 三枝虎吉には長男三枝勘解由左衛門尉守友(三枝宗四郎昌貞)、 次男三枝源左衛門守義、三男三枝源八郎昌吉(三枝平右衛門昌重)、四男三枝監物吉親、五男三枝甚太郎守光がいる。 三枝守友には長男三枝彦兵衛守吉(三枝主水)がおり、三枝守吉には長男三枝守恵、次男三枝新五郎守俊がいる。 三枝守義には長男三枝源十郎守房(三枝守秀)がいる。 三枝昌吉には長男三枝伊豆守守昌(三枝勘解由)、次男三枝守秋がおり、 三枝守昌には長男三枝隠岐守守全(三枝勘解由)三枝守全には長男三枝能登守守輝がいる。 三枝吉親には長男三枝喜内守時、次男三枝七内守次がいる。 三枝守直武田晴信に仕え、信濃侵攻戦に活躍し、戦功により大抜擢を受け、足軽隊を率いる。 しかし、永禄4年(1561年)の川中島合戦で壮絶な討死をとげる。
天正3年(1575年)の長篠合戦で嫡男三枝守友を失った父三枝虎吉は、武田氏滅亡後、三枝守友の遺児三枝守吉を連れ、三枝一族をともない徳川家康に謁見。 八代郡木原郷(東八代郡豊富村)など武田時代に受けた本領を安堵され旗本に取り立てられている。 徳川家康の関東受封の際は、采地を房総半島の先端、館山市に隣接する三芳村に知行を与えられる。 三枝虎吉は先祖代代の菩提寺として智蔵寺を設立。ところが武田信勝を慰霊する目的で武田信勝を勧請開基としてことから誤解が生じ、 武田信勝が生きていたという伝説が生まれる。 三枝虎吉の三男三枝昌吉(三枝平右衛門)武田晴信の奥近習から使番12人の1人。武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、 土佐守に任じられ大阪の陣では御旗奉行をつとめている。三枝虎吉の四男三枝監物吉親徳川家康に仕え子孫を伝えている。

三枝勘解由左衛門尉昌貞1539〜1575年

三枝守友、勘解由左衛門、宗四郎、宗次郎、山縣善右衛門ともいう。山縣昌景猶子。
『甲陽軍鑑』では三枝守友として登場するが、史実と違うので作為的に名を変えて記されたとする見方が近年の通説で、 実在した人物としては三枝昌貞が正しいようである。
三枝虎吉の長男。
三枝守友(三枝昌貞)武田晴信の奥近習衆をへて足軽隊将となり、30騎の同心衆と足軽70人を保持。 三枝守友は幼名を宗四郎といい(『甲陽軍鑑』では宗次郎)、武田晴信の奥近習6人の1人。 川中島合戦では旗本組の一員として活躍。勘解由を名のり、のちに左衛門尉を称す。
永禄4年(1561年)3月には信濃在国の賞として諏訪郡土田、洗馬領で65貫文を得ており、 永禄8年(1565年)3月には奉公の賞として60貫文を宛行われている。 永禄9年(1566年)閏8月には生島足島神社の起請文に「三枝惣四郎(宗四郎)昌貞」としてみられ、 竜朱印状の奉者としてもみられる。 永禄10年(1567年)10月1日には甲斐国石森郷の代官を命じられ、信濃長窪ほかで50俵を受けている。 父三枝虎吉にかわって若いうちから活躍していたことがうかがえる。
『三枝系図』によると永禄7年(1564年)、27歳で騎馬56騎を預けられ侍隊将の列に加わる。 三枝守友山縣昌景をも感服させるほど高い評価を受けており、山縣昌景の猶子に迎えられ、 山縣善右衛門と名を改めている。『甲斐国志』に、山縣昌景より山縣の姓と吉光の名刀を与えられたと記されている。 『甲陽軍鑑』にも天正2年(1574年)の高天神城攻略戦で軍功をあげた三枝守友に対して武田勝頼は 「山縣善右衛門(三枝守友)殿」の宛名で感状を発給していることが分かっている。
永禄12年(1569年)6月には先非を悔いて奉公したとして塩尻郷の代官を命じられている。 永禄12年(1569年)の小田原攻め、三増峠合戦での働きに功があり、元亀元年(1570年)の駿河国花沢城攻め、 元亀2年(1571年)の駿河深沢城攻めなどで、三枝守友はそれぞれ一番槍の功名をあげる。 元亀3年(1572年)の三方ヶ原合戦でも獅子奮迅の活躍。 天正3年(1575年)の長篠合戦では、武田晴信の弟武田兵庫助信実の副将として鳶ノ巣山に布陣。 徳川方の酒井忠次の率いる4000余の軍勢の奇襲攻撃にあい、必死の防戦もむなしく、武田信実三枝守友らは枕を並べて討死。 弟三枝守義(三枝源左衛門)も長篠合戦で討死。

温井常陸介景宗1539〜1582年

武田晴信の近習。武田勝頼の側近。武田信勝の傅役。
天正10年(1582年)には武田勝頼と田野で運命をともにする。
温井源八郎景長武田晴信近習頭をえて足軽隊将となるが、二俣城攻略戦で小宮山昌友とともに戦死してしまう。

春日源五郎虎綱1527〜1578年

高坂昌信、昌宣、晴昌、晴久、源助、源四郎、高坂弾正、弾正忠、香坂昌信ともいう。
春日大隅守の長男。海津城代。150騎持ち。武田四名臣。戦国三弾正。
石和(山梨県笛吹市)の豪農春日大隅守の長男として生まれる。 天文11年(1542年)、16歳のときから武田晴信の小人(雑用係)に採用されるが、 幸運にも才気を認められ、30日のうちに近習、使番に取り立てられ、武田晴信の膝元で奉公し、 利発かつ美少年ゆえに、寵童として6歳年上の武田晴信から愛された。
東京大学史料編纂所の架蔵文書のなかに武田晴信自署の「春日源助の誓詞」が残っている。 その内容は「源助に対する気持ちには変わりはない。このことで色色と騒がれ、館内を吹聴するように走り回られては、 かえって疑いのもとになり迷惑である」というもの。
天文19年(1550年)には使番から100騎の侍大将に抜擢される。七隊将の1人となった。 天文21年(1552年)、信濃安曇城攻めで功をあげ、さらに150騎追加となり 官途名の弾正忠を称し名実ともに武田晴信重臣に列せられる。 天文23年(1554年)から信濃小諸城代となる。 小諸城を城代として預かった春日虎綱は佐久地方をしっかりと抑え、武田の揺るぎない地盤を固める。 さらに甲越決戦に際しては弘治2年(1556年)から信濃海津城代を歴任。 海津城代として川中島四郡を支配し、7万5000石を預かる譜代家老衆にまで列する。 春日虎綱は戦陣においては敵の情勢を機敏に探り、敵の戦力や状況などから合戦を延期するような場合には武田晴信に直接進言する立場にもあったという。 いざ合戦となれば春日虎綱は先鋒となって沈着冷静に行動し確実な戦果をあげて勝利に大きく貢献。 春日虎綱の作戦、用兵の妙は武田軍団随一との定評もあった。 『甲陽軍鑑』には戦国三弾正として「保科正俊の槍弾正」「真田幸隆の攻め弾正」とともに「春日虎綱の逃げ弾正」と記されている。 「逃げ弾正」との異名をとったことからも、合戦で最も困難な退去時の殿の指揮、守戦を得意としていたことが分かる。 これは、戦場で敵味方の士気や兵力、陣形などを正確に把握する観察力、威に猛らぬ冷静さ、不利な戦況にめげない強靭な意志と統率力を兼ね備えた実戦指揮官として抜群の力量をもっていた証である。 いずれにしてもすべてにおいて確実に情報を集め、慎重に行動した春日虎綱の性格をよくあらわしている。 譜代家老衆に列して武田家竜朱印状の発給奉行も務め、450騎を率いており、 永禄4年(1561年)、第四回川中島合戦では武田家本陣に肉迫する上杉軍の背後を襲って反撃のきっかけをつくり、 この功から、戦後には香坂(高坂)筑前守の名跡を与えられている。35歳のときである。 「高坂昌信」という名で有名であるが、35歳ではじめて名のったこの香坂(高坂)氏の名も、 間もなく永禄6年(1563年)には旧姓春日に復しているので、1〜2年足らずの実はほんのつかの間のことであった。 猛勇ぞろいの武田家臣のなかでは異色の存在であり、春日虎綱が家中からたいして嫉妬も受けなかったのは、 温厚な人柄と抜かりない配慮があったからであろう。 長尾景虎(上杉謙信)の侵攻を阻む役割を担い、越後境への進攻に700余騎を与えられ、 春日山城に通じる上道に深く押入り、越後の地を荒す武功も立て、北越の警備にも怠りなかった。
春日虎綱の娘が戸外で遊んでいると急に発病し苦しむ。すぐに医者を呼んだが回復の兆しが見えない。 「山伏を見たのが原因に違いない」というものがいたので、山伏を呼んで祈祷させたところ病は不思議にも嘘のように癒えた。 山伏に多大な謝礼の贈り物をしたが、またしばらくして発病。例の山伏が呼ばれ祈祷するとやはりまたすぐによくなった。 しかし同じことが三度繰り返されると、春日虎綱もさすがに「これは山伏が悪霊を使っての仕業に違いない」と疑い、 四度患った娘のもとに山伏を呼び寄せるや今度は一刀のもとに斬り捨てた。 するとその後は、娘は発病することもなかったという。 慎重にことを見極めて、こうと決めると直ちに実行する春日虎綱の性格をよく物語っている逸話といえよう。
春日虎綱は主君である武田晴信、さらには武田勝頼をことあるごとに諌めている。 弘治元年(1555年)に酒好きを諌める漢詩を武田晴信に贈っている。武田晴信はもっともであると反省し、長光の名刀、左文字の脇差に加え、3000貫の知行を与え、春日虎綱を賞したという。 元亀3年(1572年)には武田晴信の上洛戦に従軍。 三方ヶ原合戦に勝利後、武田勝頼穴山信君教来石信房(馬場信房)工藤昌豊(内藤昌豊)らの諸将が徳川家康の追撃を主張するなか「京に旗を立てるのが先」と俄然反対。 「浜松城を攻めても落とすのに最低20日はかかる。その間に織田信長は浜松より岐阜にかけて、しっかりとした待陣を固め、わが軍の進撃を阻もうとするに違いない。 いたずらに功名心に駆り立てられて浜松攻めを強行することは自ら窮地に飛び込むも同然。 もし浜松城にてこずれば、徳川家康と内通している長尾景虎(上杉謙信)が信濃か上野に進出してくるのが目に見えている。そうなれば北條氏も黙っていない。 お館様(武田晴信)の誉れ高き弓矢に少しでも傷つけないためにも、深追いは避けるべきが肝要」として、 浜松城攻略を思い留まるよう諌言した。 実は三方ヶ原合戦の直後に、敗け戦にせめて武田に一矢報いてやろうとしていた徳川方が、断崖に擬橋を構築し武田方を挑発し、 武田軍の一部将兵が千仭の谷底へ落とされ、犠牲者は300とも500ともいわれている。 春日虎綱の「深追いは禁物」という警告を前線部隊が守らなかった結果の悲劇であった。 今でも毎年8月になると、ここで犠牲になった武田将兵の霊を慰めるための「遠州念仏おどり」が旧盆行事として盛大に行われている。 武田晴信はこの進言にうなずき浜松城を無視して姫街道を西に進むことになる。 武田晴信没後は信濃で長尾景虎の進攻を防ぐとともに、血気にはやる武田勝頼をしばしば諌めるが、 かえって疎まれてしまう。
高天神城を落とし凱旋した武田勝頼は諸将とともに祝宴をひらく。 春日虎綱は立ち上がって盃を飲み干しながら、長坂釣閑斎に「武田家の滅亡は近い」ともらしたという。 これには工藤昌豊(内藤昌豊)も同意見だった。 長坂釣閑斎をはじめ他の武将たちは「何と臆病なことか」とあざ笑ったという。 長尾景虎(上杉謙信)を牽制し1万の軍勢で海津城に留まっていた春日虎綱であったが、 長篠合戦大敗の報が飛び込んできて、さらに工藤昌豊(内藤昌豊)春日虎綱の嫡男春日昌澄の戦死の報も伝わってきていながらも、 撤退する惨めな武田勝頼率いる武田兵を信濃国下伊那(甲斐国境)で8000の軍勢をもって温かく出迎え、 用意していた武具衣服を敗残兵に着替えさせ、他家の目を欺くために凱旋を装わせ領民たちに不安を与えないように配慮したのも、 また、武田勝頼北條氏政の妹の結婚を実現させたのも、春日虎綱の働きであったという。 長篠合戦で山縣昌景教来石信房(馬場信房)といった歴戦の名将たちが戦死すると、 武田晴信以来の重臣で生き残ったのは、彼ひとりとなってしまった。 世代交替を円滑にし、傷ついた軍団を再編して周囲の強敵と対峙しなければならない。 彼にかかる重圧は大変なものであったろう。 北條氏政の妹を妻に迎え北條氏の幕下に属すこと、重臣の子であってもはじめは身分の低い地位で召抱えること、穴山信君の処罰や木曽義昌の所領替えを断行すること、など、 武田勝頼に徹底的な改革の断行を具申した。 しかし武田勝頼にはそのような勇気もなく、ただ北條氏政の妹を娶ることを実行しただけであった。 天正6年(1578年)5月21日(5月7日)、彼は宿敵であった越後長尾氏(越後上杉氏)との同盟によってこの危機を乗り越えようとしていたが、 その大事なときにこの世を去ってしまう。膈を患って2年後のことで、52歳の人生をとじた。 「武田家は間もなく滅亡するであろう。だがもし自分が生き残っていたなら、武田家と敵対する家には決して奉公しない」と遺言したという。 武田家滅亡はその3年後となった。 多くの戦死者の遺体を敵味方の区別なく手厚く葬るなど仁愛に満ちた武将としても名高い。そんな春日虎綱自身は、松代の明徳寺に葬られる。 法名を保雲椿公禅定門。
春日虎綱には長男春日源五郎昌澄春日昌貞がいる。 春日昌澄は長篠合戦で討死。 春日昌貞は武田氏滅亡後は真田昌幸とともに行動をとる。 真田氏が越後上杉氏から相模北條氏に離反する際、春日昌貞も越後上杉氏を離反し相模北條氏につく手はずであったが、 上杉景勝に見破られ首をはねられた。 このことが北條氏直の士気を下げ、相模北條氏は大軍をみすみす撤退させたという。
春日大隅守には次男春日又八郎助宣がおり、春日助宣には長男春日惣二郎元忠(春日惣次郎)がいる。『甲陽軍鑑』を叔父春日虎綱から書き継いだともいわれる。

楠浦刑部少輔昌勝1480〜1540年

楠蒲昌勝、楠甫昌勝、政勝、刑部、清三、清三郎ともいう。
楠浦昌胤の長男。武田信虎の義父。
楠浦丹後守昌胤の長男として文明12年(1480年)に生まれる。
楠浦氏は、甲斐国八代郡楠甫邑(山梨県西八代郡市川三郷町楠甫)を領する。 「楠浦丹州」と称された父楠浦昌胤とともに武田信昌に仕え、「昌」の一字を賜る。 文亀4年(1504年)2月に武田信縄が宛てた書状や、永正元年(1504年)の『戦国遺文(幸福文書)』に名が残る。 武田信縄の書状では、向岳寺よりの末寺の扱いについて目安に対する指示を命じたもので、 寺社奉行としての楠浦氏への指示である。 永正元年(1504年)閏3月にも、伊勢御師幸福大夫に神馬を送り、神宮での祈願を依頼している。 まだ武田信虎が信直と名のっていた頃にも、武田信虎の意向を幸福大夫に伝達していることからも、 武田信縄武田信虎二代にわたって側近として活躍していたことがわかる。 また「落合御前(武田信昌)をさしおいて、そのつくろいをなすべきのこと、遠慮いたし候、 何ヶ度も落合へ御侘言然るべく候」とあり、武田信縄武田信昌と和睦してもなお二次政治が行われており、一元的な大名領国化の途をたどっていなかったことを示している。 さらに二次政治の調整がうまくできていないことを表明しているといえる。
このように楠浦昌勝は、武田信昌武田信縄武田信虎と三代に仕えた重臣である。
楠浦昌勝は永正7年(1510年)に永昌院菊隠瑞潭から書状を送られたときにはまだ清三と呼ばれていることから、 刑部少輔と改称したのは武田信虎の代になってからのこととされている。
外交面での活躍が顕著で、曽根昌長と連名で、将軍足利義晴からの上洛命令について回答している。
楠蒲昌勝の娘楠蒲殿武田信虎に嫁いでおり、武田信虎の五女亀殿(亀御料人)を生んでいる。 楠蒲昌勝にとって武田信虎は娘婿であり、義父子の間柄である。 亀殿は天文3年(1534年)に生まれており、兄武田晴信の養女として大井信業の嫡男大井信為に嫁いでいる。 大井信為は天文18年(1549年)7月25日に死去しており、法名を天見遣清禅定門という。 亀殿は天文21年(1552年)5月26日に19歳で病死。法名は光岩宗玉禅定尼という。
楠浦昌勝には長男楠浦丹波守虎常(楠蒲丹後守/若狭守)がいる。 楠浦虎常武田信虎武田晴信武田義信に仕えた重臣。奉行衆。 楠浦虎常の姉が武田信虎に側室として嫁いでいることからも、武田信虎にとって義弟にあたる。
楠浦氏は一門・親族衆に名を連ねながらも、武田晴信の代には目立った活動はみられなくなる。 武田信虎追放によって勢力を落としたとも考えられる。 家柄や家格だけではなく力のあるものを登用し重用する武田晴信の代では日の目が出なかったこともあり、 楠浦虎常にしてみれば、武田義信の側近として武田家中で力をつけられる絶好の機会とみていたことであろう。
しかし楠浦虎常武田義信の側近として仕えていたことにより、永禄8年(1565年)に成敗されている。 楠浦氏は甲斐国ではその後断絶したとされているが、九州熊本に甲斐国八代郡楠甫邑を発祥とする楠浦氏が確認できる。 甲斐国では正確には楠甫(くすほ)が正しい書き(読み)方である。熊本に分布したものたちは楠浦(くすうら)と記されている。

安間三右衛門弘家1500〜1561年

安間充兼ともいう。
武田信虎の直臣。武田信虎の小姓をつとめ、側近として重く用いられた。 のちに足軽隊将をつとめ、武田晴信の代になっても武田氏に仕えた。
安間弘家は訴人頭という役職もつとめ、百姓町人からの様様な訴訟事を裁く役目をおった。 武田晴信は盲目の人人を非常に憐れみ、冠婚葬祭のいずれにつけても、 その財力に応じて人人の寄付を受けられるように定めた。 これにより、甲斐信濃二国の盲人たちは大いに救われたのであるが、 人というのは弱いもので、はじめは謙虚な気持ちでこの施しを受けていたが、 いざいつでも寄付をもらえる一種特権的な立場となってみると、次第に調子に乗り、 欲心というものがきざし、あつかましい振る舞いをする者が多くなった。 あまりにもいきすぎることから人人が安間弘家のもとに訴え出た。しかし安間弘家には手におえず、 武田晴信に直接申したて指示を仰いだ。 「盲人のことであるから田畑を耕すこともままなるまい、と不憫に思い、 衆人の情けをもって生涯を全うさせてやろうという予の憐れみを顧みず、 悪口雑言、乱暴狼藉とは何事であるか」と武田晴信は激怒して、 甲斐信濃両国の盲人を全て火あぶりにしろと命じた。安間弘家は、 「御屋形様から下され物がある」とたばかって、盲人たち1300余人を石和河原に集め、 そこに組んだ竹矢来のなかへ誘導して、武田晴信の命令どおり、 無惨にも焼き殺してしまったという。
永禄4年(1561年)、川中島合戦で討死している。
安間弘家の子孫で安間一平太という名が残る。
武田信虎の直臣では、ほかに鎌田織部などもいる。

金丸筑前守虎義1518〜1572年

金丸虎吉、存九ともいう。
金丸虎嗣の次男。
金丸虎嗣武田信虎の重臣として起用された。 板垣信方とともに武田晴信の傅役を任されるほどで、 金丸虎重金丸虎義兄弟も武田信虎に気に入られ、二人とも「虎」の字を賜った。 金丸虎義は兄金丸虎重死後も重く用いられ、武田晴信の側近として忠節を尽くした。
金丸氏は武田氏を祖とする。武田信重の一二男金丸右衛門尉光重の跡絶えていた名跡を、 一色伊賀守藤次(秋山伊豆守藤次)が継ぎ、 一色藤次の長男金丸若狭守虎嗣金丸虎嗣の長男金丸虎重へと継がれ、 金丸虎嗣の次男金丸虎義が家督を継承するにいたった。
金丸虎義には長男金丸平三郎昌直、次男金丸平八郎昌次(土屋右衛門昌続)、 三男金丸左衛門佐昌詮(秋山昌詮)、四男金丸道助昌義、五男金丸助六郎定光、 六男金丸惣三昌忠、七男金丸惣八郎正直、八男金丸源三親久(秋山親久)、 九男金丸惣蔵昌恒(土屋右衛門昌恒)、十男金丸景氏(秋山景氏)らがいる。
金丸昌直には長男金丸定政金丸定政には金丸成政がいる。
金丸昌次土屋昌遠を嗣ぐ。金丸昌次には長男金丸信尚(土屋信尚)、次男金丸重卿(依田重卿)がいる。金丸重卿依田重方の嗣。 金丸昌次は天文13年(1544年)に生まれ、16歳で川中島合戦に初陣。奥近習をへてのちに譜代家老衆に列せられる。
金丸定光には長男金丸定信がおり、金丸定信には長男金丸吉次、次男金丸重次がいる。 金丸昌忠には長男金丸昌次がいる。 金丸昌恒岡部長宗を嗣いでいたが、兄金丸昌次(土屋昌次)を嗣ぎ土屋を名のる。金丸昌恒には金丸惣蔵忠直がおり、金丸忠直には長男金丸平八郎利直、次男金丸但馬守敷直(金丸数直)、三男金丸之直がいる。 金丸利直には長男金丸伊予守直樹(金丸頼直)がおり、金丸敷直には長男金丸相模守政直がいる。 金丸昌恒(土屋昌恒)は武田家滅亡の際には「片手千人斬り」と勇名を馳せた。
金丸虎嗣の三男金丸若狭守忠経には長男金丸又四郎忠次金丸忠次には長男金丸四郎兵衛久次がいる。
秋山信友を嗣いだ金丸昌詮(秋山昌詮)は天正3年(1575年)に死去したため、金丸親久が秋山氏を嗣ぎ、天正10年(1582年)3月武田氏滅亡のとき天目山田野で殉死した。

金丸平八郎昌次1544〜1575年

金丸晴綱、直村、信近、信親、忠屋、知真、右衛門、右衛門丞、右衛門尉、土屋昌遠嗣、土屋昌次、土屋昌続ともいう。
金丸虎義の次男。土屋昌遠嗣。
金丸昌次は天文13年(1544年)に金丸虎義の次男として生まれる。幼名を平八郎といい、武田晴信の奥近習として仕える。 晴綱、直村、信親、昌続など諸書にみえるが、甲府大泉寺、塩山恵林寺の牌子に「昌次」とあり、墓石にも「昌次院殿忠屋知真大居士」と刻まれている。 永禄4年(1561年)9月10日、17歳で川中島合戦に初陣。奥近習をへてのちに譜代家老衆に列せられる。 永禄9年(1566年)、22歳で騎馬50騎を預かる侍隊将に抜擢。元亀3年(1572年)、28歳で100騎を預かる身となり、信州先方衆七組の統率者に任じられる。 永禄8年(1565年)から永禄10年(1567年)の武田将士起請文(下之郷諏訪大明神起請文)のときには、 金丸平八郎の名で起請文の取りまとめ奉行の大役を務めるなど、武田家中での信頼も絶大であった。 元亀3年(1572年)頃に金丸昌次土屋昌遠を嗣ぎ、右衛門尉を称す。 黒地に白い鳥居を染め抜いた旗差物を背にして戦場を駆け巡り、元亀3年(1572年)12月三方ヶ原合戦では、鳥居忠吉(鳥居四郎左衛門信元)と激しい一騎打ちを演じその首級をあげる大手柄を立てている。 『常山紀談』には「鳥居四郎左衛門武田晴信の旗本に駆け入らんとせしを、土屋右衛門尉、その目前に立ちふさがりて一騎打ちを演じたまう。 鳥居三尺の野太刀を打ちふるい、死物狂いに切ってまわる。土屋右衛門尉が兜も破れよと斬りたせるに、さしもの鳥居四郎左衛門も目がくらみて落馬…」と記されている。 味方はもとより徳川軍、織田軍にまで金丸昌次(土屋昌次)の勇名はとどろきわたったという。
元亀4年(1573年)4月12日、武田晴信が病死したとき、金丸昌次(土屋昌次)は殉死を願い出たものの、 春日虎綱教来石信房らに「今死ぬことは簡単なことであるが、真の武士とは一時の感情で行動すべきではない。生きながらえて信玄公の遺志を守り、御曹司勝頼公のために働くことが御屋形様への忠誠を尽くすことに通じ、 名誉ある武門の道というものではないか」と押し止められたという。 天正3年(1575年)5月の長篠合戦では、『四戦紀聞』によれば、緒戦で金丸昌次(土屋昌次)は織田方の滝川一益隊と騎馬戦を展開。金丸昌次(土屋昌次)が滝川隊を蹴散らしたことで土屋隊に遅れをとらじと武田勢は突入。 しかし馬止めの柵に馬の足をとられ攻めあぐんで、三段構えの鉄砲隊の一斉射撃を受けて壊滅状態に追い込まれる。 金丸昌次(土屋昌次)は馬止めの柵を引き倒そうと柵上に登ったところを鉄砲隊の一斉射撃を浴びて壮烈な戦死を遂げたという。
金丸昌次には長男金丸信尚(土屋信尚)、次男金丸重卿(依田重卿)がいる。金丸重卿依田重方の嗣。

井上新左衛門1518〜1582年

牢人衆。
武田信虎武田晴信に仕え鉄砲奉行をつとめる。 武田晴信は早くから鉄砲を戦場で使用しており、信濃進攻戦でもよく使用されている。

市河信房1518〜1582年

市河藤若、孫三郎ともいう。
志久見城主。 高井郡志久見郷には市河氏が地頭として大きな支配勢力をふるっていた。 市河氏は甲斐国の出といい、鎌倉時代から室町時代、戦国時代、さらに安土桃山時代にいたるまで活躍し、 全盛期には替佐から平滝方面まで権勢を示したという。 建武2年(1335年)には足利尊氏党に属し越後で新田軍と激戦をまじえ、 その後は南朝方を助けて志久見郷を没収されたときもあるという。 中野高梨氏との間がうまくいかず、小菅寺で大きな合戦となったこともある。 『市河文書』に、南北朝時代のはじめの康永2年(1343年)に武名の高かった市河助房が養子の市河弥六と あとから生まれた市河松王に与えた領地の譲り渡し書などが記してある。
弘治2年(1556年)7月19日、志久見郷の豪族市河孫三郎信房は武田氏に降る。 武田晴信高梨政頼一族の安田氏の旧領を市河信房に与えている。
弘治3年(1557年)6月23日、武田晴信市河藤若信房に書状を送り、 来襲した長尾勢に抵抗しつづけたことへの感謝と、倉賀野城へ上原与三左衛門尉を置き、 塩田城の原与左衛門尉ら500余騎を真田幸隆に遣わしたと、長尾勢を追撃すると伝えている。 市河氏は南北朝以降、高梨氏としばしば衝突していたことも武田氏に降り長尾氏と戦った要因とされる。 この書状を持って使者として派遣されたのが山本勘助で、市河氏にこれからも忠節を尽くすよう強く求める。 市河氏は甲斐武田氏が滅亡したのちは、越後上杉景勝に従い、会津移封によって信濃を去った。

山縣三郎右衛門尉昌景1518〜1575年

山県昌景、飫富昌景、飯富昌景、飫富源四郎、景仲、三郎兵衛ともいう。
山縣重秋の六男。教来石信房工藤昌豊春日虎綱らと並び「四名臣」と称された。
母は飫富虎昌の姉。
永正15年(1518年)(永正12年(1515年)生まれ説あり)に山縣重秋の六男として生まれる。 幼くして母を亡くした山縣昌景は、継母とも折り合いが悪くなり、 亨禄2年(1529年)、11歳のときに実母の故郷である甲斐国の叔父飫富虎昌を頼る。 山縣昌景は叔父飫富虎昌の弟飫富源四郎と名のり、 亨禄2年(1529年)から武田信虎に仕え、 近習使番として武田晴信に仕えることとなる。武田晴信より3つ年上。
天文4年(1535年)に武田信虎諏訪頼満と和睦を果たし、佐久郡への侵攻に重点を置きはじめるが、 この頃に飫富昌景(山縣昌景)は元服したと考えられる。 義兄飫富虎昌につき従い信濃国佐久郡侵攻に従軍。「甲山の猛虎」と恐れられた飫富虎昌に劣らぬ勇将の片鱗を見せ、しだいに頭角をあらわし、 伊那郡攻略戦から本格的に活躍しはじめたとされる。
天文21年(1552年)に騎馬150騎を預かり侍隊将となり、 天文17年(1548年)に板垣信方甘利虎泰が戦死してからは、「職(しき)」として重く用いられ、 戦場でも武田晴信を補佐し全幅の信頼を得ていた。 永禄4年(1561年)川中島合戦では、武田信繁武田信廉が本陣を固め、飫富昌景(山縣昌景)は旗本隊の指揮官として親族衆の 穴山信君隊、工藤昌豊隊など8000の軍勢で本陣の守衛にあった。 永禄6年(1563年)には三郎兵衛尉と改める。 とくに飫富昌景(山縣昌景)の城攻め、野戦での駆け引き、采配ぶりは武田晴信も感嘆するほどの妙を見せており、 城攻めの短期決戦は山縣勢のお家芸との定評もあった。 黒地に白抜きの桔梗紋を染め抜いた旗差し物を背に戦陣狭しと暴れまわる勇猛さは、数数の軍談本にも多く物語られている。 『近代武勇記』には「上杉景勝には河田監物信親(川田信親)があり、徳川家康には本多百助正広武田晴信には山縣三郎兵衛尉昌景等等の勇将あり。いずれも大剛の士なり」と記されている。 『古今武勇覚書』には、飫富昌景(山縣昌景)の出陣の際のいでたちについて「甲州の英傑山縣三郎兵衛の陣脇差を見ると、 赤木作りで側は角地皮で菱取に巻いてあり、黒漆で塗りこめている。鞘は白木で所所に桜の皮を巻き、これも漆で塗っている。 刀身は一尺五寸ばかりの塗り身である」としている。
永禄8年(1565年)には、武田義信に「武田晴信排斥の謀議」があると察知し、義兄飫富虎昌も関わっていると知った飫富昌景(山縣昌景)は 「いかに義兄といえども、御大将に弓を引く謀反の企ては許すことができない」「兄を裏切るより、子(武田義信)に裏切られる父親(武田晴信)の方がはるかに心の傷は深い」と、 武田義信の謀反を未然に防ぎ、飫富虎昌を逆臣の咎により成敗させている。 かつて武田晴信は「大義、新を滅す」という戒めに従って実父武田信虎を追放。 しかし飫富昌景(山縣昌景)は引き立ててくれる主君への忠誠と武田家を守るために、たとえ兄であっても情に溺れることはなかった。 武田晴信は心中の慟哭を押し隠してまで訴えで出た飫富昌景の忠誠を喜び、300騎の侍隊将に昇進させる。 また飫富昌景はもともとの姓、山縣姓に復し、山縣昌景と改めた。飫富虎昌が自刃してからはその兵「赤備」を継承。 享禄2年(1529年)に武田信虎に誅されて断絶していた山縣虎清の名跡を継承する意味合いもあったとされている。 元亀3年(1572年)9月、武田晴信の西上作戦が開始されると、飫富昌景(山縣昌景)は本隊の出発に先立って三河衆など5000余の軍勢で別働隊を組織し先発。 下伊那から東三河へ入り、三方ヶ原合戦では秋山信友隊とともに徳川家康の本陣に迫り、徳川軍をことごとく撃破。 豪気な徳川家康も一時は自決を覚悟したほどで、本多、大久保らの直臣に諌められほうほうの態で浜松城へ逃げ込んでいる。 大久保彦左衛門の『三河物語』によれば、徳川家康が「さても山縣という者、おそろしき武将ぞ」と驚嘆したという。 武田氏が滅亡してから、徳川家康は散り散りになっていた山縣隊旧臣たちを召抱え、彦根井伊家に仕官させている。 また徳川家康本多信俊の子本多信勝の幼名を山縣と称させたというのだから、 徳川家康の脳裏にはよほど猛将山縣昌景の印象が強烈だったのだろう。
元亀4年(1573年)4月、武田晴信が臨終の際、山縣昌景を枕元に呼び「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命を遺したと『甲陽軍鑑』に記されている。
江尻城代をつとめていた山縣昌景であったが、天正3年(1575年)5月長篠合戦では、教来石信房(馬場信房)らとともに強攻めの不利と困難を武田勝頼に説くが聞き入れられず、 無謀ともいえる合戦に突入。 全身に無数の鉄砲玉を受けたにも関わらず、落馬もせずに采配を口にくわえたまま絶命。 『勇士ものがたり一言集』によると、山縣昌景を狙撃したのは織田軍の鉄砲の名手大阪新助であったという。
山縣昌景には長男山縣将監昌満、次男山縣三郎兵衛信継、三男山縣源四郎昌純、四男山縣昌久(上村左兵衛)、五男山縣左兵衛昌次(山縣甚太郎)、六男山縣昌忠(新宮昌忠)らがいる。 山縣昌純には長男山縣荒二郎純寿がいる。 山縣昌久には長男山縣内匠昌之、次男山縣正時(笹治大膳常勝)がいる。 山縣正時には長男山縣刑部正次(笹治左兵衛直次)がいる。山縣正次には 山縣良次(笹治大学)がいる。 父山縣与三兵衛重秋は永正8年(1511年)8月の船岡山合戦にめざましい武功を上げ、 永正14年(1517年)10月22日の有田中井手合戦でも父山縣重秋山縣右馬助重房父子は手柄を立て名を馳せた。 山縣重秋の長男山縣重房をはじめ、次男山縣備前守就延、三男山縣備後守就信、四男山縣備後守元信、五男山縣筑後守就相がいた。