小助の部屋/滋野一党/依田氏

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信濃国で勢力を広げた滋野氏。滋野恒成には長男滋野恒信、次男依田敦重がいたという。 滋野恒信は天暦4年(950年)に望月牧監となり海野へ下向し、海野幸俊と改名し海野姓を家名としたという。 滋野恒信が海野氏の祖とされている。依田敦重も兄海野幸俊とともに信濃国へ下向したとみられる。 滋野氏から分かれた依田氏を紹介する。
依田下野守信守1521〜1575年

芦田信守、余田信守、蘆田信守、葦田信守、依田下総守、依田太郎次郎、四郎左衛門、幸成ともいう。
依田氏は信濃国小県郡依田庄を本拠とする武家氏族。 天暦年間(947〜957年)に滋野恒信の次男滋野敦重が依田庄に拠って依田氏を称したことにはじまる。 しかし鎌倉時代以降は依田滋野氏ではなく、清和源氏が依田氏を称し、依田滋野氏にかわって依田庄を治めている。 『尊卑分脈』によれば清和源氏(多田源氏)で源満仲の弟源満快の流れをくむとされている。 源満仲源経基の長男で多田源氏につながる。源満快源経基の次男。 源満快から源満国源為満とつづき、 源為満の長男源為公のときに信濃守となり、現在の長野県上伊那郡箕輪町上ノ平に居館を構えている。 源為公がおもに南信濃に広がる信濃源氏の祖となっており、源為公から伊那氏、林氏、村上氏、萩原氏、芳美氏、依田氏などが分かれ、 伊那・松本・上田盆地まで広がっている。
よって依田氏の祖は源為公の六男依田為実(依田六郎為真)(三男ともいわれている)とされ、東信濃の小県郡に依田城を築いて本拠地としている。 文治2年(1185年)に源頼朝が全国に守護・地頭職をおいたときに、 源為公の六男依田為実が依田庄地頭として入部したとする説が有力であるが、 佐久郡大井庄の地頭岩村田大井氏(小笠原氏の支流)の分流とする説もある。しかし依田氏が大井氏の配下となったのは永享年間(1429〜1441年)の頃とされているため、混同されたものとされている。
文治元年(1185年)8月16日、朝廷が源義光の子加賀美遠光(加々美次郎)を信濃国守に任命。 源為公は上田の国分に居をかまえ、六男依田為実に丸子に依田城を築城させ、依田姓を名のらせている。 源義仲(木曾義仲)の父源義賢は上野国多胡郡に所領をもっており、武蔵国の豪族秩父重隆(畠山重隆)の娘と結婚し大蔵に在住し、上野国から武蔵国へ勢力の拡大をはかっていた。 源義朝の長男源義平に大蔵城を攻められ秩父重隆は32歳で討死。首をとられている。 依田為実の妻が源義仲(木曾義仲)の父源義賢の妹だったという血縁関係があり、 依田氏は源義仲(木曾義仲)にとっては叔母の家にあたり、依田為実源義仲(木曾義仲)にとっては義理の叔父にあたる。
依田城を築城した依田為実の子依田実信(依田次郎/依田二郎)は治承4年(1180年)に源義仲(木曾義仲)に依田城を明渡し、 源義仲(木曾義仲)は依田城にて挙兵している。 依田為実は全面的に源義仲(木曾義仲)の挙兵に協力している。 依田氏も他の信濃武士とともに源平合戦で源義仲(木曾義仲)軍に加わり上京。 依田為実は子の依田実信(依田次郎)依田為継(依田四郎)依田為基(伊那源八郎)らを参戦させている。 しかし源義仲(木曾義仲)源頼朝軍に敗北すると、ともに没落してしまう。 源義仲(木曾義仲)に属し京都に攻め上った依田実信は、 源義仲(木曾義仲)源頼朝に滅ぼされると、依田庄を没収されてしまう。 依田庄を失って一族は各地に散ったとされている。 鎌倉幕府の命により、塩田庄は島津氏が入部。佐久郡には小笠原氏が地頭として入り、依田庄は茂木氏に与えられている。 依田庄は三代将軍源実朝のときに茂木氏が地頭となっている。 依田氏の一部には近隣の飯沼の地に残留して飯沼氏(飯沼依田氏)を称した(『丸子町史』より)ものもいたとされ、 飯沼氏のほか、手塚氏、諏訪氏、芦田氏、平尾氏、相木氏などにも分かれている。 依田実信の長男依田信行は飯沼に潜伏していたが、 依田実信依田信行依田行俊(飯沼行俊)依田資行(飯沼唯心)とつづき、 北條氏が執権になると許され依田城に戻っている。 依田唯心(依田資行)は鎌倉幕府に尽くした功績が認められ、 依田唯心(依田資行)の長男依田行盛(依田左右門太郎)は鎌倉幕府の使者として九州探題となるなど活躍している。 依田唯心(依田資行)の次男依田朝行(依田中務)も鎌倉幕府の奉行職、評定衆を務めるなどの活躍がみられる。 この時期(鎌倉時代)の依田氏については、詳細が明らかではないが、いずれにしても依田氏は北條氏の執権下で支配地を回復している。 得宗氏の(家臣として)援助によって茂木氏の支配に抵抗して勢力を回復したとする説や、南北朝初期(1330年)頃に飛騨国の依田義胤が依田庄を奪回したとする説がある。
依田行盛の長男依田経光(依田衛門丞)から依田為景(依田弥三郎)依田長景(依田三郎/依田若狭守)依田長家(依田加賀守/依田幸宗/依田四郎)依田為重(依田弥七郎/権律師)依田時家(依田五郎)とつづき鎌倉幕府に仕えている。 依田行盛の代になる正応元年(1288年)、鎌倉幕府の勢力が衰えてきたことによって、豪族たちが領土の拡大をはかり、 境界を突破して侵攻するという事件が多発していた。
源義仲(木曾義仲)とともに挙兵したときには、海野氏の方が大きな勢力であったが、この頃になると 相木氏、芦田氏、八幡氏、飯沼氏、浦野氏(祢津氏)、海野氏、望月氏が依田七家に数えられるというほど、依田氏の勢力が強大化していたことがうかがえる。 依田七家の紋章は「三ツ蝶」「二ツ蝶」「上羽蝶」「一ツ蝶」と蝶を紋とし、依田氏の勢力によって東信一帯を領分とし、 比較的円満に治めていたとされる。 佐久郡には、前山に城を築き居城(前山城)していた伴野氏、岩村田大井に居城(大井城)を持つ大井氏が勢力をもっていたが、 同じ清和源氏の子孫であったこともあってか友好関係にあったという。 正和2年(1313年)には大井庄の法華堂源覚をはじめ、大井氏一族、依田氏一族ともに法華堂や熊野神社2ヶ所の先建職となっている。
南北朝時代には当初から足利(足利尊氏)方に与していたことが明らかとなっている。 元徳2年(1330年)に足利尊氏は諸国の源氏に呼びかけ兵をあげたとき、依田七家も呼応に応じている。 二代目将軍足利義詮は依田七家の東信濃全域にわたって、その領土を余すことなくそれぞれに配分し統治できるようにしたという。 依田七家にとってこの室町時代が最も繁栄した時期ともいわれている。 この時期に神社仏閣の建立が佐久郡でも行われている。 応安6年(1373年)に依田元信(依田左近太夫入道/依田左近大夫入道)が、将軍足利義満の幕府評定衆に加えられた記録が残されている。 依田元信についての詳細は不明であるが、この時期に依田為重が活躍していることから、依田為重の弟と考えられる。 初期の室町幕府内では重用されていたことがうかがえる。しかも信濃国に本拠をもつ氏族のなかで、幕府の最高裁決機関である評定衆に列したものは、 依田氏以外には例がなく、依田氏の室町幕府内における地位は注目すべきものとされる。
鎌倉幕府の力が衰えたことにより豪族たちが東信濃へ侵入する事件が多発するなかで、 南北朝時代に足利氏に与し、室町時代初期から室町幕府内で重用されるようになったことから、 応安年間(1368〜1374年)頃の当主依田為重(依田弥七郎)は東信濃一帯を守るために、一族を各地に派遣し警護を強化。 東信濃に侵入する通路としては、@甲斐国から川上村の信州峠、平沢峠、三国峠、A上野国から北相木に通ずるぶどう峠、栂峠、 B上野国から大日向に通ずる余地峠、十石峠、C上野国下仁田からの内山峠、田口峠、D上野国から長倉(軽井沢)への碓氷峠、梨沢峠、 E上野国から海野への鳥居峠、F諏訪、松本方面からの和田峠、大門峠などがあった。 そのなかで一番警備を厳重にしなければならなかったのが甲斐国武田氏の勢力を防ぐための甲信国境と、 関東(上野国)上杉氏の勢力から守るための碓氷峠であった。 甲斐国武田勢から守るために、天然の要害堅固であった南相木の中心地である見上置籍に城を築き、一族を入部させている。 これが相木依田氏の祖であり、このときに築かれた本城が相木城とされている。 この地は甲府から韮崎、須玉、信州峠、馬越峠、南相木と武田氏の重要な軍路であり、 北相木のぶどう峠を守ることによって、十石峠、内山峠、梨沢峠、碓氷峠を守備することにつながる重要地であった。 依田為重は依田氏の頭領として、布施村に布施城を築城。 つづいて軽井沢の長倉にも警備のための出城や砦を多く築城。 また中山道を守備するために長門(長窪古町)に砦をかまえ御岳城を築城。 芦田にも芦田城を築城し一族を入部させ警備させている。これが芦田依田氏の祖となっている。 飯沼方面も守るために、飯沼城を築城し警備。 飯沼に関しては源義仲(木曾義仲)とともに一度没落したときに飯沼依田氏が入部していたともいわれており、さらなる警備のために改めて改修したとも考えられる。 いずれにしても飯沼依田氏が在城し警備を担当している。 このように、各地に一族を派遣して警備の任務を持たせている。 依田為重は一族一同これに全面的に協力させるため、最大の難関地である相木の見上置籍に若い長男依田時家を御岳城から送り込み城主としてすえたという。 応安年間(1368〜1374年)頃に相木を領した依田時家が地盤をかため、 相木の地は応永年間(1394〜1427年)には 依田時家の長男依田貞康(相木左衛門尉)にひきつがれている。 依田貞康の長男依田行朝(依田九郎左右衛門)が見上城を築城したといわている。 依田貞康の次男依田朝貞(依田左京助)は軽井沢に長倉城を築城し、碓氷峠の警備にあたっている。 永享13年(1441年)には依田朝貞の長男依田忠政(依田内匠頭)が上野国安中に進出し、後閑城(上野城)を築城したとされている。
東山道、国分、鳥居峠を警備していたのは代代海野氏であって、やはり海野氏も城を築き守っていた。 諏訪、松本方面からの街道を守備していたのは望月に城をかまえていた望月氏であった。
こうして室町時代から南佐久郡の相木、上野国安中に進出していた依田氏は、この頃にはすでに佐久郡に勢力を張っており、 佐久郡最大の勢力を誇った大井氏とともに政にたずさわるようになっている。
応永2年(1395年)、相木貞康(依田貞康)が父依田時家のために南相木村に慈恩山常源禅寺を造っている。 応永7年(1400年)には相木貞康が南相木村に新海神社を造営。 文安2年(1445年)には相木貞康の長男相木行朝(相木九郎左右衛門/相木入道道永)が布施村に熊野神社を造営。 文安6年(1449年)に相木行朝が南相木村中央に諏訪上社の御神体を分けてもらい諏訪神社を造営している。 軽井沢に長倉城を築城した相木朝貞の子依田忠政(依田内匠頭)が、永享13年(1441年)に上州後閑城(上野城)を築いているが、 のちに長倉城に戻り入道して越後守となったという。 なお、築城にあたっては7年をかけて完成させたとあることから、嘉吉元年(1441年)から文安4年(1447年)までかかったことになる。 その後、依田忠政は嫡男依田政知に継がせている。 後閑城については『安中志』によれば、文安4年(1447年)から永正6年(1509年)11月まで依田政知(依田信濃守/依田六郎/依田民部丞/依田主殿助/依田光久/依田全棟入道)が居城としている。 その後51年間は城主不在で、永禄3年(1560年)に新田信純(新田伊勢守)が居城とし天正6年(1578年)2月に落城したという。 依田政知は扇谷上杉氏六代当主上杉定正に属し後閑城を継いでいる。 上杉定正は山内上杉氏当主上杉顕定と対立していた。 依田政知は青木山長源寺を開基している。長源寺に現存する寺領寄進状によれば文明2年(1470年)に開基したとある。
南北朝期以降、依田庄から丸子郷に進出し、箱畳峠を越えてさらに佐久郡立科方面にも支配を広げ、 さらに相木や上野国安中にまで進出するなど勢力を拡大していた依田氏であったが、佐久郡の最大勢力であった大井氏としだいに抗争がおこっていた。 依田氏は丸子の箱山に箱山城を築城すると、佐久郡立科にも進出。 牛鹿に牛鹿城(善正城)を築城。このときに箱山城を築城しているのが依田国正で、箱山氏を称している。 佐久郡立科に進出したのもこの箱山依田氏で、牛鹿城を築城したのは依田善正依田善正も箱山氏を称していた。 依田善正依田国正の子と考えられる。 箱山依田氏が芦田古町にも進出し芦田城(芦田古城)を築城し芦田依田氏を称している。 芦田城(芦田古城)の築城は、佐久郡の大井持光を刺激し、芦田氏と大井氏の争いに発展した。 この争いに対してときの将軍足利義教は大井氏支持を決め、 信濃守護小笠原政康に芦田依田氏征伐を命じている。 『丸子町史』によれば、室町幕府が大井氏と依田氏の争いに懸念を抱き、信濃守護の小笠原氏に大井氏とともに依田氏討伐を画策。 このとき小笠原氏と大井氏の連合軍に、海野氏をはじめとする滋野氏も抵抗している。 村上氏、海野氏、祢津氏らの信濃国人連合が芦田依田氏を支援して抵抗。 村上氏は関東公方足利持氏の力を背景としていたことから強気の姿勢を示していたが、 公方足利持氏は将軍足利義教との衝突を憂慮する管領上杉憲実の諌止によって出兵ができず、 関東公方から援軍は見込めない状況となる。 永享8年(1436年)3月に小笠原氏(小笠原政康)・大井氏の連合軍が祢津氏、海野氏を撃ち破っている。 『信濃史料』には、永享8年(1436年)3月に信濃守護小笠原政康が芦田依田氏を討つため、 小県郡祢津に攻め寄せて、芝生田城や別府城を陥落させたとあり、依田氏の芦田郷への南下進出をこの動きと同時期とするものも多い。 祢津氏や海野氏が敗れた3ヶ月後には孤立していた芦田依田氏(芦田下野守)は大井氏の軍門に降り、配下となったとされている。 また村上氏も敗れ室町幕府に降伏している。 永享8年(1436年)以降、丸子地方の依田氏領土は大井氏が治めることとなり、大井氏の一族がが長窪古町(長門町)の城に入っている。 依田氏が大井氏の配下として勢力を維持し、家老として代代仕えていくことで大井氏と強い血縁関係を結ぶことになり、 大井氏の流れをくむ一族という説が生まれてしまったとされている。 芦田依田氏は大井氏の家臣となり、その執事を務める重臣の地位にまでなっている。 永享12年(1440年)の結城合戦にも大井持光の命を受けて参戦。 清野氏とともに足利持氏の遺児永寿王丸を危険をおかして結城城に送り込むという重要な任務を果たしている。 その後、永寿王丸は成人して、足利成氏を名のり鎌倉公方となっている。 もう1つの説として、永享8年(1436年)に小笠原氏や大井氏に敗れてから対立をつづけていたが、 芦田依田氏はその直後の鎌倉での永享の乱(1439年)に関連して佐久郡岩村田の大井氏とさらに対立し、 結城合戦(1441年)でも鎌倉公方足利持氏の遺児永寿丸(足利成氏)を擁護したため、 信濃守護の小笠原政康、守護代大井持光に攻められ、敗退した後は大井氏の被官になったという説がある。 大井氏に属して後に結城合戦におよんだのか、結城合戦で敗退して大井氏に属したのかの違いだが、いずれにしてもそれ以降は大井氏の配下となっている。
「一に芦田、二に相木」と称されるほど、依田氏は大井氏の重臣として地位を確立し、 文安2年(1445年)には依田光徳が芦田古城を改修。芦田城を築城し改めて芦田依田氏を称している。 また、丸子依田氏は享徳元年(1452年)まで依田秀朝(依田中務丞/依田信濃入道/依田享信)が幕府奉行をつとめたという記録も残っている。
南北朝期にすでに芦田には一族が送り込まれ芦田依田氏が入部していた記録もあるが、 文明18年(1486年)に村上氏の配下である高井米持氏と芦田依田氏が芦田城を急襲し、 芦田城(長野県立科町茂田井)の芦田滋野氏を滅ぼしている。芦田依田氏と芦田滋野氏の関係性は明らかではない。 依田光徳が改修した芦田城は芦田(長野県北佐久郡立科町芦田)で倉見高井城、木宮城などとも称される城。 芦田滋野氏が拠っていた芦田城は茂田井(長野県佐久市茂田井)で倉見城と称される。 村上氏が勢力を佐久郡にまで広げるようになってからは高井米持氏が茂田井の芦田城を守備したとされ、 芦田周辺では源氏の流れをくむ芦田依田氏と滋野氏の流れをくむ芦田滋野氏、そして村上氏や大井氏がしのぎをけずっていたとされ非常に整理が難しい。
文明16年(1484年)に村上政清村上政国父子が佐久郡に侵入し、 大井城が村上氏によって攻略されると大井氏は衰退。大井氏に属してきた依田氏は、村上氏に属しながら半自立化していったとされている。 相木氏も大井氏からしだいに離れ、佐久郡相木城を拠点に村上氏に属しながらも独立性を保つようになっていた。 大井氏が村上氏に敗れる少し前の文明11年(1479年)8月にも、佐久郡岩村田城主大井政朝が前山城主伴野光利伴野光信父子と戦って敗れ、 大井政朝は生け捕られ(大井政朝の父大井政光が生け捕られたとも)、 大井氏重臣の相木忠政(依田越後守忠政)が討死している。 このときに甲斐国の武田信昌も伴野氏に与して信濃国佐久郡へ侵攻し、大井氏を攻撃している。 これは文明4年(1472年)4月に大井氏が甲斐国へ侵入したことに対する報復として武田氏が伴野氏に与したもの。 つまり、すでに文明年間(1469〜1487年)の頃から、佐久郡は村上氏、大井氏、武田氏による激しい戦場と化していたことがうかがえる。 同時期に依田一族であった相木氏、平尾氏、平原氏、笠原氏、内山氏らも自立性を高めており、それぞれ小領主化している。 武田氏、徳川氏時代においても、この地域の領主として、高野山蓮華定院との交渉を示す『宿坊定書』や書状に、芦田依田氏のほかに依田姓の者が複数みられることが、それを物語っている。 文明(1469〜1487年)末年以降、東信地域では小県郡坂城を拠点とする村上氏が急速に勢力を拡大させ、中小の領主層を圧迫しはじめる。 岩村田の『法華堂大井家文書』のなかに若干関連のものがみられる。 明応2年(1493年)10月には、依田長久(依田伊賀守)が「三疋三人分」を法華堂へ寄進しているが、依田滋野氏の系統であるとされる。 さらに永正14年(1517年)9月には、聖護院道増が熊野二所の先達職を安堵した文書のなかに、「大井一家、依田一族、其外被官人等共」が檀那として書上げられており、 同じ内容のものが同家文書中には遡って数通みられるので、これは多分に形式的なもののようにも思われるが、依然として佐久郡を代表する氏族が大井氏と依田氏であったことの反映であると思われる。
大井氏が滅亡し、依田氏や芦田氏は村上氏に属しながらも自立化していった。とはいえ文明18年(1486年)には芦田依田氏も衰退し、辛うじて大井氏と命脈を保っていたにすぎない。 このように応仁の乱や文明の乱が京都で勃発(1467〜1487年)したことで、その余波が日本各地に戦乱の時代を招来させ、 例外なく信濃国もにわかに騒がしくなっていた。
天文10年(1541年)に海野平で村上義清海野棟綱が合戦となった。 村上義清諏訪頼重を誘い、武田信虎までもが甲斐から村上氏に与して援軍をさしむけた。 村上義清諏訪頼重、そして武田信虎にまで攻められ海野氏ら滋野一族はことごとく攻め破られた。 滋野三家と称され滋野氏の繁栄を支えてきた海野氏、望月氏、祢津氏であったが、望月氏は村上義清に与し、 祢津氏は諏訪氏に与するなど、海野氏の敗北は明白となり、 天文10年(1541年)5月に、海野平の戦いで敗退した海野棟綱の後ろ盾であった関東管領上杉憲政の軍勢が佐久郡に侵攻。 芦田郷を荒らすなどの事件が起きている。 このときに依田氏(芦田氏)が芦田郷を領していたかは明らかでないが、 『神使御頭日記』によれば、天文10年(1541年)に滋野一族が、村上氏、諏訪氏、武田氏に挟撃された海野平合戦では、 芦田氏が海野一族と行動をともにしていたことが明らかとなっている。 海野平合戦で滋野一族は大敗し、海野棟綱真田幸隆らは関東へ逃れ、 望月昌盛は村上氏に与していたことで攻撃の的にはならず、 矢沢頼綱らは武田氏に臣従。祢津元直は諏訪氏のはからいにより旧領を安堵される。 芦田依田氏の芦田信守のほか、丸子依田氏の依田春賢(丸子大和守春賢)もいたとされるが、敗戦後は諏訪頼重の配下となったとされている。 関東管領山内上杉憲政が信濃へ侵攻したときには一時抵抗したが、諏訪頼重を頼り城を捨てている。 諏訪頼重が上杉軍を迎え撃つために長窪まで出兵しているが、和議を結び両者とも兵をひいている。 芦田郷は諏訪頼重の知行地となり、依田信守は諏訪氏の傘下に入り芦田郷に戻り治めることとなる。 依田春賢(丸子春賢)書状案によれば、このときの上杉憲政の信濃進攻は、成果がなかったようである。 依田信守(芦田信守)はもともと諏訪氏方として滋野氏と戦い、依田春賢(丸子春賢)が滋野氏方に与して諏訪氏・村上氏・武田氏連合軍と戦ったともされているがやはり明らかではない。
依田氏が源氏の流れをくんでいるのか、それとも滋野氏の流れをくんでいるのか。諸説あって現在でも明らかにはなっていないが、 どちらかというと清和源氏の流れをくむ依田氏が定説となっている。 ところが、滋野氏に与して、同族である村上氏や大井氏、または小笠原氏に攻められている事実も多く残っており、いっそう史実の明快さを難しくしている。
ところが、天文11年(1542年)7月には諏訪氏は武田晴信に滅ぼされ、 翌年天文12年(1543年)には武田氏の佐久郡侵攻で長窪城の大井貞隆が生け捕られ、 望月城の望月氏も攻められて降伏。諏訪氏滅亡後に大井氏に帰参していた依田信守(芦田信守)も、真田幸隆相木昌朝の内応に応じ武田氏に降伏している。 『千曲の真砂(芦田城の項)』では「天文十二年武田晴信出馬、信守武田に降り、先手の将と為る」とあるが、 芦田氏は武田晴信諏訪頼重を滅ぼしたときにはすでに武田氏支配下に組み込まれていたとする説が現在では定説。 その後は武田氏に臣従し、以後は信濃先方衆として活躍するようになる記録が『依田記』に詳しい。
依田氏はほかにも確認できる。 『高白斎記』によると、天文18年(1549年)3月、真田幸隆の働きで武田氏に臣従した望月源三郎に700貫文の知行が与えられ、 それを依田新左衛門が受けとるとある。真田幸隆の工作に応じて村上義清に属していた蘆田氏(依田新左衛門)のほか、 伴野氏らも一部が武田方に降っている。依田新左衛門は小諸依田氏とされ、後には武田信豊被官になったとの記録がある。 また依田義胤の流れをくむ飛騨依田氏も信濃国依田庄で根を張っていたといわれ、武田晴信に従い武功を挙げている。 『甲斐国誌』によれば、依田正信武田晴信に甲斐国東河内領宮木(山梨県南巨摩郡中富町)に領地を賜っている。 依田正信は宮木館内に曹洞宗円通寺をつくり、晩年は出家している。 依田正信ののちは、依田正治(依田和泉守)依田正房依田正義とつづく。 弘治3年(1557年)に依田長繁の名が湯原城(長野県佐久市湯原)の城主にみることができる(『南佐久郡古城址調査』『長野県の中世城館跡-分布調査報告書-』により)。 依田信守(芦田信守)は天文19年(1550年)に春日城を修復して本拠として入城している。 しかし直後に村上義清の攻撃によって落城し制圧しれる。 最後には武田方が勝利し、依田信守(芦田信守)が春日城に再び入城している。 春日城は保元の乱(1156年)で活躍した祢津貞親が春日氏を称し春日滋野氏の祖となったという。 祢津貞親の子祢津貞幸(春日貞幸)は承久3年(1221年)の承久の乱(宇治川合戦)で戦功をたて春日氏全盛期を迎えた。 永正3年(1506年)に望月氏により祢津系春日氏は滅亡し、望月系春日氏の居城となっている。 武田晴信の重臣春日虎綱(高坂昌信)もこの信濃国の春日滋野氏の一族という。 この時期には、小県郡をめぐって武田氏と村上義清との抗争が激化しており、 天文17年(1548年)2月には、上田原の戦いで武田方が大敗北し、一時的に村上勢が攻勢にでていた。
永禄8年(1565年)10月には、武田家内部で武田義信らによる謀反事件が起こり、 そのため家臣団の再掌握を迫られることとなり、武田晴信は翌永禄9年(1566年)8月から永禄10年(1567年)8月にわたって全家臣団から起請文を提出させている。 小県郡下郷の諏訪明神社(生島足島神社)への奉納というかたちを取っているが、そのなかに佐久郡、小県郡の将士のものがいくつか見られる。 室賀氏、小泉氏、望月氏、海野氏、大井氏、祢津氏らのほか、依田信秀(依田又左衛門尉)の単独提出ものと、 依田隆総(丸子兵部助隆総)ら三名連署のものがある。 さらに海野衆、北方衆、小泉被官などと同じく連名で提出したものとして、包紙に「鉄砲衆」とあるものがあり、 その構成員は布下氏、楽巌寺氏、諸沢氏、篠沢氏ほか依田頼房(相木長門守頼房)依田秀□らのいわゆる布引山衆であり、 いずれも望月氏に近い地侍衆だという。
依田信守は川中島合戦以後は武蔵国、駿河国などで転戦。永禄12年(1569年)には、御嶽城代を務める。 永禄9年(1566年)に依田信守依田信蕃父子が御嶽城(御岳城)を守ったという記録もある。 御嶽城(御岳城)は記録では上野国と武蔵国の国境にある城(埼玉県児玉郡神川町渡瀬)であるというので、 武田氏の上野国侵攻戦で依田信守依田信蕃父子が戦った城と思われる。 安中を中心とした後閑城や板鼻鷹之巣城に依田氏の一族が分布していたこともあり、依田氏は上野国侵攻戦で大きな役割を果たしていたと推測できる。 ちなみに御嶽城は長窪(長野県小県郡長和町長久保)にも同名の城がある。
武田勢が甲斐国から駿河国に進出すると、依田一族も駿河国の要衡江尻城(静岡県清水市)の防備をまかされる。 依田信守依田信蕃父子は元亀3年(1572年)、 武田晴信が東海道へ侵攻すると遠江国二俣城に入る。三方ヶ原合戦にも210騎を率いて従軍。 しかし天正3年(1575年)、長篠の戦いで勝利した徳川家康軍に二俣城を包囲され、依田信守は城中で没した。 長篠合戦後には依田信蕃が徳川勢の猛攻を死守している。 敗退していく武田勢のなかにあって、依田信蕃は少ない兵糧を土俵をつくることによって偽装し、戦意を保ちながら、 捕えられていた弟を人質交換して撤退している。
依田信守の長男依田信蕃(芦田右衛門佐/依田源十郎/芦田常陸介)の代に武田氏が滅亡。 天正10年(1582年)に織田信長の甲斐侵攻によって武田勝頼が天目山で自刃し武田氏は滅亡している。 武田氏の滅亡後は、依田正信の一族は遠く奥伊豆・大沢の地に落ちのびている。
当時駿河国の田中城に在城し徳川家康と対峙していた依田信蕃は田中城を明渡し、 徳川家康の召抱えたいというすすめを自国の様子も分からないままではと断わり、信濃国の春日城へとひき返している。 その後、小諸城で森長可と対面し、織田信長に御礼をしたいと小諸を発って諏訪へ向かったが、 「信長は信蕃など甲州や信州の大名に切腹を命じているから、家康のもとに来なさい」という徳川家康の便りをみると、 徳川家康のもとに走り、徳川氏の庇護下に身を寄せている。 天正10年(1582年)6月の本能寺の変により信濃の織田勢力が瓦解し、旧武田領が徳川氏、北條氏、上杉氏の争奪地となると、 当初は相模北條氏に属していた依田信蕃であったが、 徳川家康が蟄居させていたことで命拾いしていた恩があり、 徳川家康の要請に応じて徳川氏に与し、春日城を拠点とし佐久郡地方で旧武田遺臣たちを味方にひき入れさせようと活躍している。 依田信蕃徳川家康の後援をえて佐久郡で相模北條氏の軍勢と戦い、伴野氏の守る伴野城を攻め落とし、 当初相模北條氏方であった真田昌幸を徳川方に寝返らせている。 春日城は相模北條氏の攻撃を受けているが、依田信蕃はこれをみごとに撃退している。 依田信蕃真田昌幸と協力して碓氷峠で北條氏の後方連絡線を遮断し、徳川氏と北條氏の和睦を実現している。 これらの功績で、依田信蕃は佐久郡・諏訪郡の2郡を与えられ小諸城代に大抜擢されている。 しかし、佐久郡で唯一残った北條方の岩村田大井氏が立て籠る岩尾城には、徳川氏に従うことを快しとしないものたちが馳せ参じ、 大井氏譜代の旧臣たちも続続と大井行吉(岩尾行吉)のもとに集結。 烏合の衆である岩尾大井氏は孤軍であったが「窮鼠猫を噛む」というように徹底的に徳川氏に抗戦していた。 天正11年(1583年)2月、依田信蕃は岩尾城攻めにかかる。 岩尾城では逡巡する依田軍に対して鉄砲や矢の集中攻撃を行い、依田軍は多大な犠牲者を出している。 徳川家康からの援軍柴田康家は力攻めではなく家康流の気長な戦術をすすめているが、 依田信蕃は強気に力攻めを強行。 岩尾城は武田晴信が手塩にかけて縄張りをおこなった城だけにさすがの依田信蕃も攻めあぐね、 依田信蕃が落城させると公言していたのに落とせていないと柴田康家になじられたこともあって、 依田信蕃は意地になってさらに力攻めを強行。遮二無二に攻城を繰り返した結果、何とか大手門を破り城内に突入。 城方と乱戦となり、櫓から放たれた矢や狙撃された鉄砲弾によって依田勢はばたばたと打ち倒されてしまう。 依田信蕃は次次に新手を繰り出して激戦が夕方までつづいたが、意地もあって依田信蕃柴田康家に援軍を要請することができず、 陣頭指揮にあたっていた3日目。城方の淺沼平兵衛が配下の鉄砲隊に命じて狙撃させ、 依田信蕃依田信幸兄弟はともに戦死を遂げてしまう。 主将を失った依田勢は戦意を喪失。末弟の依田信春が兵を立て直し引き上げている。 依田信守(芦田信守)の長男依田信蕃(芦田信蕃)と次男依田信幸(芦田信幸)はこの天正11年(1583年)の岩尾城攻めでともに討死しているが、 三男芦田重方、四男依田信春が生き延びている。 すぐさま柴田康家が開城降伏の使者を派遣。大井行吉の奮戦ぶりを讃え、これ以上の戦いは無駄だと説得。 大井行吉も説得に応じ、城内の兵に財物を分け与えると柴田康家に城を明け渡している。
天正12年(1584年)、徳川家康依田信蕃依田信幸兄弟の死をたいへん残念に憐み、 依田信蕃の嫡男依田康国(竹福丸)は松平姓を許されるとともに、 徳川家康から「康」の一字を与えられ、依田康国(松平康国)として小諸6万石の城主となる。 小諸城主になった依田康国は父の遺領10万石を与えられたともいうが、 佐久郡の石高は5万4000石余であり、駿河国志多郡を含めた領地高であったと推定される。 大久保忠世を後見人として佐久郡を治めることになった 依田康国は天正13年(1585年)の第一次上田合戦で初陣を果たす。 これは、天正12年(1584年)に徳川家康豊臣秀吉が戦った小牧合戦・長久手合戦の後、 徳川家康が背後の憂いをなくすために相模北條氏と結んだ講和条件の定めによって真田昌幸の沼田城を北條氏へ引き渡すよう命じたことで、 真田昌幸徳川家康の命令に従わずに上杉景勝に寝返ったことが発端であった。 激怒した徳川家康は天正13年(1585年)8月に大軍を率いて真田昌幸の拠る上田城を攻め、真田昌幸の作戦に翻弄されて散散な敗北を喫している。 この第一次上田合戦が依田康国の初陣で、徳川家康から感状を受けている。 その後、依田康国は不穏な状勢のつづいていた佐久郡地方の戦後復興、 人心の安定、寺社領の安堵、知行割りなど、徳川家康の後楯をえて、着着と進めていったことが残された家臣宛の知行状などからうかがえる。 しかし天正18年(1590年)の小田原の役で上州に出陣し、石倉城で戦死を遂げている。 徳川家康を服属させた豊臣秀吉は九州の島津氏を屈服させ、 小田原の相模北條氏にも上洛して命に服するように何度も書状を送っていたが、 北條氏の態度は明快を欠き、ついに天正18年(1590年)4月、豊臣秀吉は小田原征伐の軍を発した。 依田康国徳川家康に命じられて上州に出陣し、前田利家に属して大導寺政繁の守る大井田城攻めに加わり、 つづいて石倉城攻撃に加わっていた。 北條方金井秀景の配下で石倉城主寺尾左馬介依田康国を通じて降服を申し入れてきたため、依田康国はわずかな手勢のみで城内に入った。 そのとき、攻城軍のあいだに騒動があり、騒然とした城外の様子に誅せられるのではないかと思い込んだ寺尾左馬介によって依田康国は斬りつけられ、 重傷を負いながらも応戦したが力つきて討死した。享年21歳という若さであったという。弟依田康真(依田新九郎)が仇を討ったという。
依田康国(松平康国)の死後は弟依田康真が家督を相続し、徳川家の関東移封にともなって武蔵国の榛沢郡と上野国の緑野郡に3万石を与えられ、藤岡城主となっている。 佐久郡の武士や領民たちが芦田依田氏を慕い、藤岡へ移住し城下町を築いたという。 依田康真(依田信真)が兄依田康国の追福のために春日城下に康国寺を建立。 文禄3年(1594年)には依田康真は二條城築城奉行を命じられ、井伊氏、榊原氏らとともに上洛し、本丸・隠居郭を完成させている。 しかし関ヶ原合戦をひかえた慶長5年(1600年)1月23日、大坂の旅宿で囲碁をしていたときに同僚で旗本の小栗三助というものと喧嘩口論を起こし(囲碁勝負に負けた小栗氏が依田康真に悪口雑言を口走ったことを聞き捨てならなかったという)、 喧嘩の末に殺害してしまう。これが原因で高野山に出奔し藤岡藩3万石は改易(『藤岡市史』『多野郡誌』『戦国人名辞典』『国史大辞典(吉川弘文館)』などにより)。 結城秀康のもとに預けられる。これ以後、依田康真は松平姓を返上。母方の加藤姓を名のって加藤康寛と改名し、越前国木本5000石を与えられている。 子孫は芦田姓を名のっている。 また、依田康真(加藤康寛)自身は終生、依田姓で通していたといわれるが子孫は芦田姓に改めたともいわれている。 元和9年(1623年)に死去(没年には異説もある)。