滋野一党親族(滋野一党/真田家親族/甲斐武田氏/尾張織田氏/三河徳川氏/豊臣氏/片倉氏/岩城氏)
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上原伊賀守昌辰
1514年〜1552年、小山田昌辰、備中守。
昌辰自身は1552年に死去したといういわれが一般的であるわけだが、文献によれば上原氏が小山田氏を名乗るのは1553年のこととされる。
上原伊賀守は飯富虎昌の家臣として信濃侵攻で活躍する。飯富虎昌が信州内山城主を務めたとき小山田性を名乗り、その後武田晴信の命によって上原昌辰が飯富虎昌の跡を襲って小山田氏を名乗ったとされる。
高遠城の攻防戦で、弟上原昌貞とともに戦死したとされる。
小山田備中守昌行
1538年〜1582年、上原昌行、備中守。小山田昌辰(上原昌辰)の嫡男。武田家が戸石崩れの際、地蔵峠で討死したとされる。また高遠の合戦で討死したともされるが…いずれにしてもちょっとね。どうやって茂誠が生れたんだってことになっちゃうからね。
小山田壱岐守茂誠
1567年〜1642年、六左衛門。小山田昌行の子。真田昌幸の娘(村松)婿。
配流地の真田幸村が心を許した義兄。その姓が示すとおり、甲斐武田の臣・小山田氏の一族である。
同氏には出羽守信有、越前守信茂と続く郡内小山田氏と、備中守昌辰から備中守昌行と続く石田小山田氏の二系統があり、
茂誠は「後の備中」と称され高遠の合戦で討ち死にした石田小山田昌行(上原昌辰の子)の子。
天正10年(1582年)昌幸と戸石城に籠り、武田家滅亡後は昌幸長女の村松殿(宝寿院)を娶り真田の重臣となった。
幸村同腹の姉の夫である。関ヶ原では信幸に従っていた模様で、戦後、真田家で信幸を当主とする新体制が確立すると、茂誠も家老として同家に留まった。
九度山に蟄居した旧主であり、舅の昌幸に対しては立場上、表立って接触を図ることはできなかったが、
折をみて日用品や食料などを手紙を添えて差し入れていた。また、義弟である幸村にとっては気の置けない人物であったらしく、九度山にある時も、また大阪城に入った後も、幾度となく茂誠に対して近況を記した書簡を送っている。
幸村は「歯も抜け、髭などもほとんど白くなり、身体も弱くなって」と蟄居中の弱音を漏らし、「何とかもう一度お目にかかりたい」と気取りのない心情を吐露している。
虚飾のない「戦国武将」真田幸村の人柄・心情を最もよく知っていたのは、他ならぬ茂誠であったのかもしれない。
元和元年(1615年)3月、一時講和の成った大阪城で、幸村は茂誠に対して書状を発した。「定めのない浮世、明日の事も知れません。我々の事はこの世に無い者と思ってください」知られている限り、これが幸村の絶筆である。
小山田主膳之知
1587年〜1660年。小山田茂誠の子。母は真田昌幸の娘(村松)。
小山田辰行
1540年〜1615年。小山田昌辰(上原昌辰)の次男。
他にも、小山田藤介、小山田浅右衛門(上原兵庫)など兄弟がいたとされる。
上原昌貞
1515年〜1552年。小山田昌辰(上原昌辰)の弟。
他にも、上原昌盛、上原彌助など弟がいたとされる。
遠山景広
1530年〜1560年。
遠山土佐守景直
1550年〜1600年。遠山景広の長男。
遠山景重
1570年〜1605年。遠山景直の長男。
遠山左馬介
1540年〜1575年、長左衛門。真田幸隆の娘婿。『滋野世紀』によれば、幸隆の娘つまり昌幸の妹の1人が、その妻になっている。
遠山右馬亮
1560年〜1630年、右馬助。真田信尹の娘婿。遠山右馬亮は武田家の足軽大将の1人として『甲陽軍鑑』に名が見える甲州の武士である。
『真田軍功家伝記』では、真田昌幸の弟信尹の娘がその妻になったともある。
真田昌幸の妻山之手殿が右馬亮の娘という説もあるが、この説は、
真田氏の娘の1人が遠山氏に縁付いたことによる誤伝、とみてよかろう。山之手殿は1565年の生れであることからも、遠山右馬亮が山之手殿の父とは無理がある。
大井信達
1474年〜1552年。武田晴信の祖父。長男は信業、次男は信堯、3男は常昭。次男信堯は武藤信堯。
真田昌幸が武藤信堯を嗣いで武藤喜兵衛と称していた。昌幸が真田姓に帰してからは三男常昭が武藤氏を嗣いで武藤常昭となる。
大井信業
1494年〜1561年。大井信達の長男。
武藤左衛門尉信堯
1502年〜1561年、三郎左衛門尉、大井信堯。大井信達の次男。真田昌幸の義父。
武藤与次
1522年〜1532年。武藤信堯の長男。早世したため、真田昌幸が父武藤信堯の養子に入ったとされる。。
大井三河守常昭
1509年〜1587年、武藤常昭。大井信達の3男。大井常昭は真田昌幸が真田家の家督を継いだ後、大井光幸の後見人として活躍している。
大井光貞
1530年〜1575年。大井常昭の長男。
大井光幸
1560年〜1582年、武藤光幸。大井光貞の長男。武藤喜兵衛(真田昌幸)嗣。
滝川一益
1525年〜1586年。滝川一勝の嫡男。
滝川益重
1548年〜1592年。滝川一益の長男。
滝川一忠
1553年〜1615年。滝川一益の次男。生涯を浪人で過ごしたとされる。
滝川三九郎一積
1583年〜1660年。滝川一忠の長男。真田昌幸の5女の後夫となる。
嫡流である従弟の一乗が幼少であったため、一積が名代を命ぜられる。大阪の陣では徳川方として参陣した。その後、一乗との間で領知をめぐって争いがあったが、一積は1000石を知行する幕府旗本となる。
寛永9年(1632年)7月16日、妻の姪にあたる真田幸村の4女あぐりを養い、蒲生郷喜に嫁がせたことを理由に除封された。
一般には知られていないが、これ以外にも困窮している真田家の人々に援助の手を差し延べていたとされている。なお、一積と昌幸の5女との間の嫡男一明は寛文3年(1663年)に召し出された。
滝川一明
1613年〜1680年。滝川一積の嫡男。父滝川一積は幕府から除封されていたが、寛文3年(1663年)に召し出され、廩米300俵の幕府旗本となった。
一明の妻は真田幸道の叔母、その養嗣子一重の母も真田幸政の娘であるなど、松代藩主家と姻戚を重ねていた。
子孫は幕府旗本として存続した。
滝川一時
1568年〜1603年。滝川一益の3男。滝川一益の跡を継ぐ。
滝川一乗
1598年〜1650年。滝川一時の長男。
滝川益氏
1527年〜1635年、佐治氏益。滝川一勝の次男。
滝川利益
1554年〜1612年、前田慶次、利大、利太。滝川益氏の長男。滝川一益の甥。、前田利久養子。
滝川詮益
1537年〜1582年。滝川一勝の3男。
滝川儀太夫
1557年〜1582年。滝川詮益の長男。滝川一益の甥。滝川一益が関東探題として厩橋城に入ると、儀太夫は沼田城に入る。
本多忠勝
1548年〜1610年、鍋之助、平八郎。三河松平氏の譜代の家に生まれる。徳川四天王の一人として名を馳せた。真田信幸の妻小松殿の父。
徳川家康に仕え、三方ヶ原合戦や長篠合戦に従軍した。天正18年(1590年)の小田原征伐後、上総で10万石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では軍監を務めたが、娘婿の真田信幸が父や弟を敵にまわしてまで東軍に属したのは居城沼田城の地理的条件や、軍団編成の関係とともに、やはり義父忠勝が家康の重臣であったからであろう。
忠勝は戦後、伊勢桑名藩主となるが、武功が多く、徳川四天王の一人に挙げられ、「家康には過ぎた家臣」と喧伝された。慶長15年(1610年)10月18日に没した。享年63歳。桑名の浄土寺に葬られた。
忠勝の孫に千姫の後夫になる忠刻がいる。子孫は播磨姫路などを経て、三河岡崎に定着。明治維新後、伯爵を授けられている。
宇田下野守頼忠
1527年〜1600年、宇多頼忠、尾藤甚右衛門、左衛門尉。
美濃の出身とされる。豊臣秀長に仕えた後、羽柴秀吉に仕えたという。大和・河内において、1万3000石を宛行われている。
また、頼忠の娘は石田三成の妻となっていることから、頼忠は石田三成の義父にあたる。
このことから『諸家高名記』などで、頼忠の娘は真田昌幸に嫁ぎ、
昌幸と三成とは妻同士が姉妹であり、相婿であるとされているものもある。
しかし、現在では真田昌幸の妻山之手殿が頼忠の娘である説は否定されている。
源氏の名族・宇多氏とは無関係であろう。
昌幸の正室・山之手殿は宇田頼忠の娘である可能性は実は低い。
婚姻成立時の昌幸の年齢と置かれていた立場は、長女の生年から推測すると昌幸は18歳前後。
武藤氏養子入り以前の信玄奥近習衆の頃であろう。
そして宇田氏は当時は尾藤氏を称し、おそらく織田家の下級臣。
から考えて、両者の婚姻成立の可能性はやはり低い。
昌幸の側室の中に宇田氏の娘がいて、その誤伝とも考えられる。
また、頼忠は本来、信州の出身という説もある。幸村の母は遠山氏(『沼田記』、『続武家閑談』等)、
あるいは菊亭大納言の今出川晴季(菊亭晴季)の娘とするものもある(『滋野世記』)。
しかし、武田氏の家臣という身分から見て、
公卿の娘との結婚はないことはないであろうと、現在では可能性はあるとしている。
宇田河内守頼次
1557年〜1600年、石田刑部少輔。
宇田頼忠の嫡男として生れる。妹が石田隠岐守為成の子石田三成に縁付いているので、石田三成とは義兄弟。
真田昌幸の娘(5女)を娶る。真田昌幸は義父。
『石田系図』『滝川十次郎家記』によると、真田氏の諸系図に滝川三九郎一積の妻とする真田昌幸の娘は、
初めは宇田頼次に嫁したものであるという。
石田三成は頼次の妹を妻にしていたので、2人は義兄弟であったが、
頼次は石田三成の父為成の養子となり「石田刑部少輔」とも名乗っていた。
名目の上でも三成と頼次は兄弟になっていたのである。
現在では、真田昌幸の娘を頼次が娶っていることもあり、
山之手殿が宇田頼忠の娘である説は否定されている。
慶長5年(1600年)、義兄弟・三成とともに挙兵した頼次は、父頼忠を伴って佐和山城に入城。
三成の書状には「留守居」とあることから、9月15日の決戦には不参加であろう。
しかし、17日には小早川秀秋と田中吉政によって佐和山城は攻め落とされ、宇田父子も城と運命を共にした。
昌幸の5女(頼次妻)は命を存え、後に滝川一積の室となっている。
大谷刑部少輔吉継
1559年〜1600年、吉隆、紀之介、平馬。大谷吉房の長男。
越前敦賀5万石の城主。真田幸村の義父。
従5位下刑部少輔に叙任奉行となる。9月15日関ヶ原の合戦で討死。
三成とは少年時代から親しく、秀吉に仕え、任務をともにすることも多かった。
文禄の役では軍監として三成らとともに朝鮮に渡り、明との和平交渉を行っている。
だが、帰国後は病を患って邸で養生していたらしい。
この間、秀吉が自ら吉継邸を訪れて饗応を受けたことがあるが、これは見舞いの目的もあっただろう。
関ヶ原役では癩病の病身をおして、くずれた顔を白布で包み、
輿に乗って出陣して東軍の藤堂、京極、小早川の各隊と戦い全滅している。
吉継は家老湯浅五助の介錯で切腹し首は土中に埋められた。
吉継は三成に対して「人に対しての言葉づかい、態度が驕慢で、人に慕われる人ではない。
また決断力がなく、将たる器ではない。」と言いながら、親友の三成に殉じている。
大谷大学助吉治
1579年〜1615年、義治、義胤。大谷吉継の長男。吉治と頼継は父とともに慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍として奮戦。敗戦により、血路を開いて戦場を離脱。
元和元年(1615年)5月7日に天王寺口で討死した。
大谷山城守頼継
1581年〜1602年、木下頼継。大谷吉継の次男。
片倉景光
1526年〜1580年。
片倉景重
1530年〜1570年。
片倉景広
1554年〜1575年。片倉景重の長男。
片倉景次
1576年〜1615年。片倉景広の長男。
片倉景綱
1557年〜1615年。片倉景重の次男。伊達政宗の懐刀で、「伊達軍団に景綱あり」と謳われている。武勇の伊達成実、能吏の鬼庭綱元、そして景綱の智謀が、独眼竜政宗の名を天下に轟かせたといってもいいだろう。
豊臣秀吉はその才能をうらやんで、5万石の所領をもって政宗から景綱を引き抜こうとした。また徳川家康も広大な屋敷を江戸に与えようとしている。
これら天下人の破格の条件を景綱はにべもなく断った。片倉家の家柄は低かったが、景綱の才能を見抜いた遠藤基信が輝宗に推挙して政宗の守役になって以来、常に苦楽をともにして離れなかった政宗との関係は、主従以上の契りによって結ばれていたのである。
政宗の奥州制覇の戦いに常に従軍し、数々の武功を立ててきたのは勿論であるが、1590年には秀吉の小田原征伐に参陣をためらう政宗を説得して主家を救い、関ヶ原の合戦でも最上氏を見捨てて上杉軍との決戦に備えるように進言するなど、その判断はきわめて冷静沈着で、時には残酷でさえあった。
天下の動きを見る大居観がずば抜けて優れていたといえよう。ちなみに1615年に彼が没したとき、その徳を慕って家臣6人が殉死している。
片倉重綱
1585年〜1659年、重長。片倉景綱の長男。大阪の陣で後藤又兵衛を討つなど勇猛な武将であった。真田幸村から娘を預かり、後に妻にしたといわれる。
片倉友綱
1587年〜1663年。片倉景綱の次男。
片倉行綱
1588年〜1665年。片倉景綱の3男。
岩城由隆
1476年〜1569年。磐城の豪族。岩城氏の先祖は常陸平氏の大掾氏で、その子孫が奥州に下向したことに始まる。鎌倉時代は一地頭にすぎなかったが、南北朝時代に伊賀氏、国魂氏らの諸豪族を押さえて「浜通り」といわれる磐城地方の領有に成功する。そして居城大館城を築き、全盛期を迎えたのである。
戦国時代には伊達氏、相馬氏、佐竹氏などの群雄に囲まれて苦しい対応を迫られたが、伊達氏と連携してその命脈を保った。
岩城重隆
1505年〜1569年。岩城氏は北の相馬氏、東の伊達氏、田村氏、白河氏、そして南を接する常陸佐竹氏といった周囲の諸大名と虚々実々の抗争を続けていた。重隆は、この危機を巧みな外交戦略で乗り切ろうとする。
重隆は白河氏からの求婚を蹴って、娘の久保姫を伊達晴宗に嫁がせた。さらに久保姫が生んだ晴宗の長男親隆を引き取って岩城家の後継者にすることで、益々伊達氏との関係を深め、相馬氏に対する岩城・伊達連合戦線を築いた。こうして重隆は難局を乗り切ることに成功したのである。
伊達親隆
1542年〜1594年、岩城親隆、宣隆。伊達晴宗の長男。岩城重隆嗣。岩城重隆の養子となり岩城家の家督を継いだ。常陸佐竹家と争ったが、次第に劣勢となり常陸佐竹家に臣従する形となった。
伊達常隆
1567年〜1590年。伊達親隆の長男。常陸佐竹家、蘆名家らと結び伊達家と争った。豊臣秀吉の相模北條家討伐に参陣し所領の安堵を得たが、その帰途鎌倉で病死したという。
伊達某
1587年〜1630年。伊達常隆の長男。
伊達政隆
1590年〜1615年。伊達常隆の次男。
伊達国隆
1610年〜1690年。伊達政隆の長男。
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