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相木城合戦
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相木城
相木城〒384-1201 長野県南佐久郡北相木村坂上

jyoukaku-相木城- 阿江木城ともいう。相木依田氏の城。

相木昌朝は、相木常林(相木能登守)の長男として永正13年(1516年)に生まれている。 依田昌朝、依田正朝、相木昌友、阿江木昌友、相木政友、相木政朝、相木政信、相木昌信、相木正友、相木正朝、相木市兵衛、相木能登入道、相木常喜、相木常善、相木能登入道常善、相木常林、相木平三、相木平三郎などとも称される。 信濃国佐久郡の相木城(長野県北相木村)主。見上城主。信濃先方衆として80騎を預かる。山縣昌景の相備衆もつとめている。
相木氏は、清和源氏(源為公)の流れをくむ依田氏(相木道永)から分かれ、信濃佐久郡相木に拠って相木を姓とした。 伊那氏、林氏、芳美氏、依田氏、手塚氏、諏訪氏、飯沼氏、芦田氏、平尾氏、片桐氏、大島氏などを一族に持っている。 相木氏は代代、岩村田城や長窪城を領した大井氏の家老として仕えていた。 しかし、文明16年(1484年)に村上政清村上政国父子が佐久郡に侵入し、大井城が村上氏によって攻略されると大井氏は衰退し、 相木氏は大井氏からしだいに離れ、佐久郡相木城を拠点に独立性を保つようになっていた。 大井氏が村上氏に敗れる少し前の文明11年(1479年)8月にも、佐久郡岩村田城主大井政朝が前山城主伴野光利伴野光信父子と戦って敗れ、 大井政朝は生け捕られ、大井氏重臣の相木越後守が討死している。 このときに甲斐国の武田信昌も伴野氏に与して信濃国佐久郡へ侵攻し、大井氏を攻撃している。 これは文明4年(1472年)4月に大井氏が甲斐国へ侵入したことに対する報復として武田氏が伴野氏に与したもの。 つまり、すでに文明年間(1469〜1487年)の頃から、佐久郡は村上氏、大井氏、武田氏による激しい戦場と化していたことがうかがえる。
それからおよそ50年後、相木昌朝の代になると、大井氏の影響下からは完全に離れており、 甲信国境付近まで勢力を拡大していた村上氏の傘下に属していた。当時の大井氏の当主大井貞隆の家老だったとされる記述もあるが、すでに文明年間(1469〜1487年)以降は大井氏は南佐久郡に勢力を維持しておらず、実際に相木昌朝大井貞隆に仕えたとは思われない。
天文5年(1536年)からはじまった武田信虎の佐久郡侵攻を契機に、かねてから村上氏を快く思わなかった相木氏は、 天文9年(1540年)に武田氏に属すようになる。 ところが天文10年(1541年)に武田信虎が嫡男武田晴信に追放されるという事件が起こると武田氏に属していた佐久郡の諸族たちはたちまち村上氏に帰属。 相木氏も例外なくこのときには武田氏から離反している。
武田氏は大きな混乱を招くことなくすぐさま佐久郡侵攻を再開。武田晴信に包囲され、天文11年(1542年)には相木氏は完全に武田晴信に降伏した。 その後は武田家臣として、信濃攻略において地の利を活かし数多くの戦功をあげていく。 武田晴信からの信頼も厚く、騎馬80騎持ちで佐久郡臼田の田口城代を任せられた。 天文12年(1543年)には武田晴信の信濃侵攻に従軍し、大井氏滅亡に貢献。 のちに真田幸隆とともに甲斐府中(甲府)に屋敷をもらうこととなる。 同じ信濃先方衆として真田幸隆とは好を深めていたこともあって、 相木昌朝の娘が真田昌輝に嫁いでいる。
信濃先方衆として頭角をあらわした相木昌朝は、 永禄4年(1561年)9月には、川中島合戦で妻女山奇襲軍10隊中の1隊を任せられ、 春日虎綱真田幸隆らとともに妻女山の越後上杉軍を突く啄木鳥隊の1隊を指揮した。 川中島合戦後には善光寺平の治安を守るよう命じられ、善光寺に留まっている。 現在の長野市立城山小学校や長野女子高等学校の辺りに、城砦(相木城)を築いたといわれる。 長野市三輪に相木昌朝が在城した相木氏の城址(館跡)があったが、 昭和33年(1958年)に長野女子高等学校の建設によりとり壊され、跡地に小宮と城跡碑が建立された。 現在残っている相ノ木通り(北国街道)は、相木城跡にちなんだものといわれている。
相木昌朝山縣昌景が江尻城代のときの相備衆としても活躍している。 永禄8年(1565年)には次男相木荒次郎昌信(相木政信)山縣昌景の娘婿になっている。
天正10年(1582年)武田氏滅亡後は、信濃国は織田信長の勢力下にあり、相木昌朝滝川一益に属した。 しかし織田信長が本能寺の変で討たれ、相木昌朝は相模北條氏に属すこととなった。 織田氏の影響力が失われた信濃国は、北は上杉、南は徳川、東は北條から攻め込まれ、 そのため、徳川家康に属した依田信蕃に田口城、相木城を包囲される。相木昌朝は相模北條氏の援軍を頼りに田口城に籠っていたが、 相模北條氏が徳川氏と講和し相模へ引上げると、徳川氏に従っていた芦田信蕃に攻め込まれ、 やむなく相木昌朝は北條氏を頼り上州(関東)へ逃れた。 その後、相木城は廃城になったとされる。
機会をうかがっていた相木昌朝は、天正17年(1589年)、同じく依田氏に追われていた伴野貞長らと共謀し、 ともに相木に挙兵。佐久郡への復帰をはかる。 依田信蕃の長男依田康国(松平康国)と相木の木次原で合戦し、再び敗れて関東へ去った。その後の相木昌朝の消息は分からない。

相木昌朝には長男相木長門守頼房(相木市兵衛常祐)、次男相木昌信、三男相木七良右衛門善量がおり、 相木頼房武田信廉の娘婿となり、南佐久郡の南相木の名主となって現在にいたる。 相木頼房には長男相木美濃守信房(相木一兵衛)がおり、相木信房には長男相木彦太夫がいる。 相木昌信山縣昌景の娘婿。鉄砲の名手として知られ、 永禄12年(1569年)の対北條氏小田原城包囲戦で、北條氏邦の家臣で御湯見城主御湯見薩摩守を討ちとって功績を上げている。のちに真田氏に属している。 相木善量はのちに福井県の相ノ木氏の祖となったといわれる。 また一族に相木森之助というものもいるとされるが素性は確認できない。

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