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滋野一党武将(滋野三家-海野家-根津家-望月家)

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  根津道直
  1143年~1170年。
  根津泰平
  1165年~1230年。木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  根津行貞
  1315年~1360年。

  根津遠光
  1375年~1430年。信濃国司であったという貞之新王の子幸恒の長男が海野小太郎幸明、次男が根津小次郎真宗、3男が望月三郎重俊を名乗ったとされる。 海野や根津はそれぞれの地に居住したのであろう。海野、根津、望月を「滋野三家」という。 信濃、上野方面の根津氏が全て海野氏流というわけではなく、海野氏流以外にもいくつかの流れがあるものと考えられる。
 「大文字一揆」の盟主。大塔合戦で一族とともに小笠原氏と戦った。滋野一族は、一つの集団は海野宮内少輔幸義を中心とした勢力であって、会田、岩下、大葦(大井)、飛賀留(光)、田沢、塔原、深井、土肥、矢島氏らの氏族連合であった。 さらに根津遠光を中心とした大文字一揆と称する国人、土豪連合があり、その構成員は根津一族の他、三村、桜井、別府、浦野、真田、横尾、曲尾氏らであった。海野一族といい、根津一族といい、いずれもこの段階でなお滋野同族意識が残っていたことによるものであろう。
  根津親直
  1495年~1541年。
  根津宮内太輔元直
  1515年~1575年、根津親直の嫡男。根津城主。天文10年(1541年)の武田信虎による小県侵攻戦(海野平合戦)で海野氏滅亡時に矢沢頼綱と一緒に武田氏に捕らえられたが、諏訪頼重によって命は助けられた。 根津城は落城したものと思われる。元直は武田晴信に臣従し、元直の養女は晴信の側室となっている。このことからも根津氏は滋野一党のなかでも逸早く武田家に仕え、地位も上昇していったものと思われる。元直は幸隆が武田氏に出仕すると、幸隆に従い戸石城攻略において戦功をあげたらしく、真田氏が本領を回復したとほぼ同時に根津の地を回復している。 元直は幸隆の重臣として永禄6年の岩櫃城攻めでも活躍し、1500石もらっていたという史料もあるが、根津の地を回復したのならそれはないだろう。元直は長篠の合戦で討ち死にしてしまい、その後どういうわけか根津氏は真田氏と不仲になるが、昌幸の代に屈して、真田氏は小県郡を平定し、小領ながら独立を果たしていく。
  根津松鶴軒政直
  1535年~1590年、常安、常安兄、松鷂軒、帯刀、惣左衛門。根津元直の長男。父根津元直が家督を継ぐと同時期に庄内(更科郡)に千貫文を拝領したとある。父とは別の根津分家を開いたものであろうか。いずれにしても政直は嫡男ではないようで父根津元直戦死後(長篠合戦後)に出家している。家督は3男根津信直が継いでいる。 入道して松鷂軒と号し、武田晴信への起請文の他、永禄10年(1567年)11月には、上野箕輪在城の賞として晴信から知行を受けている。さらに元亀3年(1573年)7月晦日付けの武田氏竜朱印状による小県郡内での分国追放人の捕縛命令状の宛名人の1人としてもみられており、本領根津にあって真田氏と同じく武田氏の西上野侵攻の先兵を勤めていた。 一旦出家していたが、根津元直3男の根津信直の嫡男信政の後見人となり、天正11年(1583年)9月28日に、同日付けで分家根津信光(根津昌綱)とは別に徳川家康から知行宛行状を与えられており、この根津信政の系統が上野国富岡藩主になっている。
  根津月直
  1555年~1575年、神平。根津政直の長男。長篠合戦で討死する。
  根津甚八貞盛
  1569年~1615年、小六。 根津政直(根津帯刀)の次男。父親は大和絵師だったともいわれる。真田十勇士の一人。 根津という姓から見ても、海野六郎兵衛や望月六郎兵衛と同じく、真田家の源流に属する一族である。真田家には北條家との紛争の折、国境見極めの任を託された根津助衛門尉幸直のような重臣があった。根津松鶴軒政直の長男である甚八自身、紛れもなく真田家譜代であり、信州の豪族、根津元直の親族である。根津家は真田家とともに武田家臣として信州先方衆の一翼を担っていた。武田晴信に娘を嫁がせるなど、滋野一党の中でも武田家臣としては割と格式も高い。しかし、真田家が対村上家や上野侵攻に目覚しい活躍を見せる中、根津家は忽ち真田家に遅れをとってしまう。結局根津家は真田家に従い、上野侵攻に加わってく。甚八の父政直も真田家の重臣として上野侵攻で活躍を見せる。甚八は幼少時代から真田家に仕えていたが、特に真田幸村の小姓として…というわけではなかったようだ。長篠合戦後父根津政直は出家している。甚八もともに出家したともいわれているが、甚八は真田家臣として昌幸に仕えたようである。甚八が父とともに旅に出て海賊になった話はここから始まったのだろう。
1582年真田昌幸に従い上野国で北條家と戦う。
1583年真田昌幸に従い埴科郡虚空蔵山城にて上杉景勝軍と戦う。これを打破る。大いに活躍し、戦功をたてる。野戦では群を抜く豪勇を誇っていた。
1585年矢沢頼綱に従い上野国で北條家と戦い、上野国沼田城を守る。
1586年徳川家と北條家との和議により、甚八の従兄根津幸直らは知行を信濃国内に切り換えられる。甚八も信濃国へ赴くことになる。真田家譜代の家臣でありながら、真田幸村とは全く別の行動をとってきたわけだが、この頃より真田幸村の小姓たちと行動をともにし、郎党の仲間入りを果たす。特に海野六郎兵衛と行動をともにすることが多くなる。
1589年真田幸村の小田原攻めに従軍。
1590年真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに小姓らとともに従う。その後も幸村とは行動を供にする。上杉景勝への人質でありながら、豊臣秀吉にも眼をかけられて豊臣信繁という名や左衛門佐の官位まで与えられた幸村が、秀吉に九鬼水軍の情報を探ることを命じられて熊野灘に赴いた折、甚八自身が海賊の群に身を投じてその首領にまでのし上がったという。海賊の出となれば、十勇士でただ1人の海の専門家である。やはり正規の海賊ではない不正規戦の名手で、強大な水軍を持つ徳川家康に対するには力強い味方となっただろう。 根来衆を率い、吹き矢を得意とした戦術で潮の中を縦横無尽に回ったという。『真田三代記』などでもお馴染み、九鬼水軍の動静を探りに出かけた幸村と出会い、その器量に惚れ込んだ甚八が家臣に取り立てられたというのが定説である。しかし、野戦では群を抜く豪勇を誇り、海賊の首領までのし上がった勇猛な好漢というのが、異説ではあるものの人々の心をうつのではないだろうか。
1600年関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。関ヶ原敗戦後は、九度山から帰った海野六郎兵衛と連れだって奥州を探索する。由利鎌之助とは喧嘩友達で、鎌之助に劣らず勇猛な好漢である。
1614年大阪の陣では真田幸村とともに大阪城へ入城する。甚八45歳である。
1615年『真田三代記』によると、大阪夏の陣では穴山小助が総指揮を執る7人の影武者に加わり、「火龍軍」と名付けた突撃隊を編成。穴山小助を筆頭に、伊藤団右衛門、三浦新兵衛、鵤幸右衛門、林源次郎、山田舎人、木村助五郎、望月六郎兵衛ら他の7人とともに波状攻撃を続けた後に、最期の1人として奮戦した。 自ら「真田左衛門佐幸村、ここに討死いたす」と呼ばわって徳川勢を蹴散らし、加賀前田家の家臣本多安房守に討たれたという。壮絶な最期を遂げている。
  根津惣左衛門信忠
  1540年~1575年、直吉、常安、常安兄。根津元直の次男。根津政直の次弟。武田家臣として真田家とともに上野侵攻の先兵を勤める。岩櫃城合戦に参加。父根津元直とともに長篠合戦で戦死している。長篠合戦後は兄根津政直が出家していることもあり、弟根津信直が家督を継ぐ。
  根津宮内大輔信光
  1560年~1620年、長右衛門、一味斎、昌綱。根津信忠の長男。根津元直の3男信直の根津家(後に富岡藩主)とは別家として根津政直の甥信光が分家の名跡を継ぎ、昌綱と称した。 分家根津信光(昌綱)は武田氏滅亡後は真田家と不和になる。というもの武田氏滅亡後に逸早く徳川家康に従っていたが、真田家が北條家を見限り徳川家に属す頃には、信光(昌綱)は逆に徳川家を離脱し、北條家に臣従する。当然徳川家についた真田家は北條家と戦っており、真田昌幸は依田信蕃らとともに碓氷峠に出陣し、甲斐若神子在陣中の北條勢の補給路を押さえ、徳川勢を支援している。根津信光(昌綱)は北條勢として真田軍と戦う。しかし結局、真田昌幸に攻められて徳川家に再び属している。真田家は後に徳川家を離反し上杉家につく。真田家が第一次上田合戦で徳川軍を迎撃した天正13年(1585年)に根津家は真田家に臣従している。根津信直の根津家(本家)は真田氏に従っていたので、昌綱の根津家(分家)がどうして真田家と不和になっていたかは定かでないが、後に真田家の家臣になっていることは確かである。真田家がころころと鞍替えを繰り返していたことで、根津家も振り回されていたのだろう。第一次上田合戦のとき真田昌幸と碁を打っていた人物として諸書に登場する。昌幸と碁を打っていた人物は沢山いる。
  根津助衛門尉幸直
  1565年~1620年、根津信忠の次男。矢沢頼康の娘婿。兄根津信光(昌綱)は武田氏滅亡後、逸早く徳川家に属す。弟根津幸直は真田家につき、真田家の親族衆として矢沢頼綱と行動をともにする。天正10年以降徳川家についた真田家は、北條氏邦の大軍により沼田領の諸城を次々と攻められており、 これに対して城代矢沢頼綱ほか、矢沢頼康の娘婿根津幸直、北能登守、金子綱重、恩田能定らの沼田衆が善戦し、3日にわたる激戦の後に、北條勢は兵を引いている。天正17年11月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、岩下郷と田沢郷50貫とある。
  根津幸豊
  1585年~1650年、根津幸直の長男。沼田真田家臣。
  根津直方
  1587年~1650年、根津幸直の次男。松代真田家臣。
  根津美濃守信直
  1547年~1608年、甚兵衛、甚平、根津元直の3男。岩櫃城合戦に参加。妻は真田幸隆の娘。真田昌幸の義兄弟にあたる。真田家親族として早くから真田家に仕えている。『真田三代記』では、真田信幸の重臣として登場している甚兵衛ではないかと思われる。 信直は父根津元直が長篠合戦で戦死した後、兄根津政直が出家していることもあり、家督を継ぐ。兄根津政直は別家根津家を開いており、根津信忠の長男信光が別家を継いでいる。根津氏はこの時期、真田氏とほぼ同じような動きをしており、武田一族でもあり本領根津では領主であったが、真田一族のような際立った軍功がなかったため、相当な遅れをとり、最後は真田氏に臣従せざるを得ない状況に至ったといえる。
  根津一無斎信政
  1567年~1615年、助右衛門尉、庄之助、根津信直の長男。あるいは根津政直(根津帯刀)の次男ともいわれる。武田家滅亡後に真田家を頼り家臣となる。小田原北条氏との戦にその名が見える。関ヶ原の合戦にも従軍していたとされるが確かではない。 徳川家康に転仕し、上野豊岡藩(1万石)藩主となったが、子孫は無嗣のために除封となっている。
  根津七左衛門
  1588年~1640年、七右衛門、伊予守。根津信政の長男。真田家臣。
  根津志摩守
  1590年~1640年、半兵衛、主水。根津信政の次男。真田家臣。
  根津甚平
  1595年~1650年。根津信政の3男。真田家臣。
  根津是広
  1520年~1575年。
  望月秀包
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  望月昌頼
  1509年~1543年。北佐久郡望月を本拠とした望月氏は、武田氏の侵攻によって嫡流であった惣領望月昌頼が、天文12年(1543年)9月に没落し逃亡している。 これによって嫡流は途絶え、天文18年(1549年)5月に支流の1人である左衛門佐信昌が武田氏によって擁立された。信昌は晴信への起請文を提出しており、それには遠江守信昌と署名している。
  望月源三郎
         
  望月新六
         
  望月遠江守信昌
  1515年~1593年、望月信雅、新六、左衛門佐、三郎兵衛、玄蕃、印月斎一峰、主水。真田幸隆の側臣。『真田三代記』によりと、岩尾城に逗留した山本勘助が城を去るときに国境まで送った人物として名が残る。 北佐久郡望月を本拠とした望月氏は、武田氏の侵攻によって嫡流であった惣領望月昌頼が、天文12年(1543年)9月に没落し逃亡している。 これによって嫡流は途絶え、天文18年(1549年)5月に支流の1人である左衛門佐信昌が武田氏によって擁立された。信昌は晴信への起請文を提出しており、それには遠江守信昌と署名している。 望月昌盛が真田幸隆の斡旋により望月氏を継ぐが、昌盛が反旗を翻したために信昌が改めて家督を継ぐ。 武田晴信の弟武田信繁の3男武田信雅が養子として入る。長篠合戦後に再び信昌が望月領を預かり、小諸城主となった武田信豊が望月領も支配していたという。 武田氏滅亡後には、信昌が領主として復帰し、天正11年(1583年)11月、徳川家康に従って佐久郡を領した依田信蕃に臣従している。この時期には真田昌幸とは対立する立場に度々あったが、その支流には真田氏に仕えたものも多い。
  望月太郎左衛門
  1535年~1615年、雷之進、左衛門佐。望月信昌の長男として生まれる。真田昌幸・幸村2代に仕えた重臣。『真田三代記』によると、「火攻め遊撃隊」の一人。畔柳九蔵参照。
  望月六郎兵衛幸忠
  1572年~1615年。望月六郎、主水、卯左衛門、宇右衛門、六右衛門、善太夫、六郎次、高野小天狗、後に村雄(むらかつ)と改める。真田十勇士の一人。望月家は日本を二分する忍びの大流、伊賀と甲賀の一方の雄、甲賀流の上忍53家の1つに名を連ねている。伊賀流が大陸から渡ってきた手妻師、軽業師が源流となっているとの説が正しければ、甲賀流は日本の忍術の宗家とも呼べる存在なのだ。元々、望月家は海野家や根津家といった、滋野氏に通じる巫祝集団で、飯道山を中心とした修験者を統括する神人の集団だった。近江国の住人諏訪三郎こと甲賀三郎兼家が、33年の間、地底をさまよい、蛇体となって諏訪に現れた後に諏訪に定着し、望月氏の祖となったという。修験者を情報網の中心に据えた望月氏は、武田晴信の家臣、望月盛時の奥方で、後に甲斐、信濃の巫女頭となった望月千代が組織した女性謀報集団に見るように、一方で武田家の情報網の一翼を担っていたらしい。
望月六郎兵衛は、海野六郎兵衛や穴山小助らと同じく、真田家正規の家臣という家格を保ちながらも、鷲塚佐助や霧隠才蔵のような忍びの顔も併せて持っていたのである。
六郎兵衛は望月太郎左衛門の長男として生まれたとされ、太郎左衛門は真田幸隆の代からの譜代の重臣として各地で名を馳せている。六郎兵衛は海野六郎兵衛と同じく、幼少時代から逸早く真田幸村の児小姓として仕えていた。六郎兵衛は特に火薬、爆薬など火術に才能を持ち、大筒や地雷火などを製造している。六郎兵衛の特徴はというと謀報と火術に長け、幸村を補佐した好漢といったところだろう。
1584年僅か13歳ながら真田幸村に従い賤ヶ岳合戦に参戦。海野六郎兵衛と行動をともにし、主に謀報活動を行う。
1585年真田幸村が人質として春日山城、海津城に赴く際、それに小姓として従う。
1586年真田幸村の対北條攻めに従軍。謀報活動や大筒、地雷火などで敵軍を翻弄する。
1589年真田幸村の小田原攻めに従軍。
1590年真田幸村が人質として大阪へ赴く際、幸村とは別行動となる。主に謀報活動を行う。
1600年関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。
関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸・幸村父子に伴い九度山へ従った275人のうちの1人であり、青柳清庵や高梨内記らとともに最後まで九度山に残った数少ない武将といわれる。
1614年大阪の陣では真田幸村とともに大阪城へ入城する。六郎兵衛42歳である。
神崎川の戦いで真田大助を守り、関東勢を尼ヶ崎まで敗走させたという。
1615年『真田三代記』では、井楼に乗った徳川家康を一貫目筒で砲撃する場面があるが、これも六郎兵衛が作ったものであろう。幸村の補佐役に徹した好漢は、影武者の1人として突撃し、壮絶な最期を遂げている。
  望月昌盛
  1518年~1576年、信雅、源三郎。望月源三郎は惣領望月昌頼方として武田氏に抵抗していたが、天文18年(1549年)3月に真田幸隆の扱いによって武田氏に臣従し、700貫文の知行を受けている。
信濃国司であったという貞之新王の子幸恒の長男が海野小太郎幸明、次男が根津小次郎真宗、3男が望月三郎重俊を名乗ったとされる。 海野や根津はそれぞれの地に居住したのであろう。海野、根津、望月を「滋野三家」という。 望月氏は信濃などに多いが、清和源氏義隆流森氏の望月氏などもあり、望月氏の全てが海野氏の子孫というわけではない。 明暦3年(1657年)の信濃松代藩分限帳にも「800石根津喜平治」や「650石海野源左衛門」など、根津姓、海野姓、望月姓の藩士が見え、 真田昌幸や信幸(信之)ら真田家の歴代当主が根津・望月の各氏を順次、家臣団に加えていったものと思われる。 松代藩主の重臣家臣にもこれらの姓が多いことが分かる。因みに、周知の通り、「真田十勇士」の中には海野六郎、根津甚八、望月六郎の3士が入れられている。 彼らが史実の人物か架空の人物かは明らかでないにしても、真田幸村の側近に海野、根津、望月等、滋野三家の出身と思しき武士があったことは事実であり、興味深い。
  望月甚八郎重氏
  1538年~1575年。望月昌盛の長男。
  望月三郎兵衛
         
  望月雷之進
         
  望月左衛門佐
         





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