滋野一党武将
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相木森之助
1496年〜1550年。武田家一族、加賀美四郎の腹心。1529年頃、武田信虎の勘気に触れた加賀美四郎は信虎に討伐されたという。
『真田三代記』では、真田幸隆の家来、伊勢崎五郎兵衛と穴山源覚が生け捕ったことになっているが、当時真田家が武田家に仕えていないことから、ありえないと思われる。
1541年に信虎によって海野・真田両氏は滅ぼされることからも、武田家に従っていたとは思えない。その後も、真田家には相木荒次郎なる者の名も見ることができるし、武田家臣に相木昌朝の名がある。もしかしたら昌朝が森之助、荒次郎のどちらかなのかもしれない。
なお、加賀美勢は小幡日浄、原大隈守、鯰江頼母らによって討たれている。相木森之助は関ヶ原敗戦後、真田昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。
会田氏
滋野一党は早くに海野氏、根津氏、望月氏を分出し、鎌倉末期には、会田、塔原、田沢、苅屋原、光、西牧氏らが分出して、東信地域で一大勢力をもつようになった。
とりわけ海野氏からはその後も多くの支族が分出しており、その一部は、下屋、鎌原、羽尾、大戸氏のように、西上野吾妻郡地域にも進出していった。
相野一斎
北信濃村上義清家臣。
青木半左衛門
高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。
そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。
昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
青柳近江守
1510年〜1561年。北信濃村上義清家臣。真田幸隆の調略によって武田氏に降る。
青柳伊勢守
1530年〜1561年。青柳近江守の長男。青柳近江守の弟ともいわれる。北信濃村上義清家臣。真田幸隆の調略によって武田氏に降る。真田昌幸の家臣として諸書に名が残る。
青柳青庵頼長
1550年〜1615年。青柳清庵、清安、千弥、長迪。青柳氏はもとは北信濃村上家臣。武田氏の川中島進出で真田幸隆の調略によって武田氏に降る。
武田家臣として真田幸隆に従い北信濃を転戦する。武田氏滅亡後は武田遺臣として真田氏を頼った。頼長は真田昌幸の重臣として真田家に仕える。関ヶ原合戦では昌幸に従い西軍に参陣する。関ヶ原敗戦後は昌幸とともに九度山へ赴く。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。
そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。
昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
青山弥七郎
1558年〜1615年。真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
青山弥十郎
1578年〜1615年。青山弥七郎の長男。真田幸村家臣。真田昌幸に従い関ヶ原合戦では父弥七郎とともに西軍に参陣。大阪の陣で活躍した。
赤坂式部
真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。
赤沢常陸介経康
1521年〜1587年、常陸守、常陸助、赤沢常康。昌幸の上州攻略の陣立てで旗本を務めた。
赤沢嘉兵衛
1551年〜1620年、赤沢加兵衛。赤沢経康の長男。『真武内伝』によると、天正10年、武田氏滅亡後、真田昌幸が上州岩櫃城へ帰る途中、両岸が断崖でそこへ橋を渡してある大笹村の雁ヶ沢という谷で、真田信幸・幸村兄弟が橋の上で「この橋から飛び下りる者があるか」と戯れに部下に尋ねた。
そこへ赤沢嘉兵衛が進み出て谷底へ身をおどらせた。嘉兵衛はけろけろした顔で笑いながら帰ってきたが、昌幸は「稀に死なぬこともあろうが、このような無茶な者はわしの用には立たぬ。無益に命を捨てようとしたのは不所存の至りだ。」と厳しく叱り、勘気を申しつけた。
この嘉兵衛はのちに上田籠城神川合戦で、敵2人を討ち取り、勘気を解かれたという。
明石月部入道
1541年〜1611年。真田昌幸家臣。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。大阪の陣で真田幸村とともに戦った明石全登の明石家とは全くの別家であり、古くから真田家に従っていたものと思われる。
明石又七郎
1571年〜1615年。明石月部入道の長男として生れる。真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。真田昌幸の一周忌に上田に戻り帰農している。大阪の陣では大阪城に馳せ参じ、真田幸村とともに討死したものと思われる。
浅香郷右衛門
真田昌幸家臣。『真田三代記』や他の書物でもよく登場する。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。
朝倉藤十郎
真田昌幸家臣。旗本使番物見衆。真田表七本槍。
東十郎
木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
畔柳九蔵
1553年〜1611年。真田昌幸家臣。『真田三代記』によると、天正10年(1582年)に武田勝頼が討たれ、真田一党が武田勝頼の次男勝千代を擁して戸石城に籠った時、「火攻め遊撃隊」を組織した1人として登場する。彼らの活躍で、北條氏照ら北條勢や徳川勢を散々に悩ませ、織田信長に勝千代の命を助けることを条件に真田家は降伏した。武田残党が処罰される中、真田家は果敢にも織田勢に挑んだ様子が伺え、信長が真田家を滅ぼさなかったわけが分かる気もする。
「信州の駑馬」と信長に罵られた昌幸なら武田家が滅ぶ前から北條氏や織田氏に付きそうなものだが…事実はどうであったのか?
畔柳九八郎
1573年〜1615年。畔柳九蔵の長男。関ヶ原敗戦後、真田昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。九八郎は一旦上田に戻り帰農しているが、大阪の陣では叔父畔柳兵助と大阪城に馳せ参じ、真田幸村とともに討死している。
畔柳兵助
1559年〜1615年。畔柳九蔵の次弟。
真田昌幸家臣。兄畔柳九蔵とともに真田昌幸に仕える。『真田三代記』によると、天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦に豊臣方として、真田信幸と真田幸村の兄弟が参陣している。その時真田信幸に従い参陣していた。
穴山源覚
『真田三代記』によると、真田幸隆最古の家臣。穴山といえば甲斐武田一族。何かつながりがあるのだろうか?
加賀美家臣の相木森之助を生け捕り、家臣に加えている。また、1561年頃、武田信玄の北信濃、苅屋原城攻めに参陣し、真田信綱や真田昌輝、真田昌幸を補佐した。
穴山玄蕃信光
1548年〜1585年、小左衛門、源覚。穴山信友の3男。武田一族で、穴山信濃守信春を祖先とする家系。穴山小助の父。
穴山小助安治
1568年〜1615年、岩千代、雲洞軒。穴山玄蕃信光の長男。真田軍の守り神と賞された。
穴山小助について詳しくは、真田十勇士のページを参照。
穴山新兵衛
1588年〜1615年。穴山小助の長男。『真田三代記』によると、小助とともに関ヶ原で西軍に味方した昌幸・幸村の軍勢に参陣している。岩千代という名も見られるが、小助、新兵衛のどちらかの幼名であろうか?
小助の父は甲斐穴山家出身といわれているが、『真田三代記』にはやたら「穴山」が真田家臣に多い。
関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。父穴山小助とともに大阪の陣で真田幸村のもとに馳せ参じ、討死した。
雨宮刑部
1493年〜1549年。川中島北部の豪族。高梨、須田、島津、小田切、井上らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。
他には井上清政、井上清次、須田満親、島津規久、小田切清定、栗田国時、室賀光正、山田氏、斎藤氏らである。上田原の合戦で討死した。他にも西条義忠、屋代道斎、森村清秀、小島権兵衛ら多くの戦死者を出したが、甲州軍は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が戦死しており、死傷者は村上軍を上回った。
雨宮丹後守景義
1513年〜1575年。
雨宮重兵衛家次
1533年〜1575年。
荒川内匠
1549年〜1593年。真田昌幸家臣。70余兵の一隊を預かる侍大将。『真田三代記』によると、武田氏が滅び、北条氏、上杉氏、織田・徳川氏などに囲まれ狙われた際、
北条氏との小競り合いで、真田方は無紋の大きな旗に、北条氏の家中で謀反の噂の絶えない松田尾張守の紋所「永楽通宝の銭形」を描いて松田氏の謀反と見せかけ勝利した。
その時、北条氏を撹乱させた小隊が荒川隊である。これが、六文銭の始まりだとする説である。幸隆が武田晴信から譲られた家紋という説もある。
荒川勝蔵
1569年〜1615年。荒川内匠の長男。真田幸村家臣。忍びの者。『真田三代記』によると、「火攻め遊撃隊」の1人。畔柳九蔵参照。
荒牧宮内少輔右衛門
荒牧宮内左衛門、左衛門。真田昌幸家臣。長篠の合戦に従軍。天正8年(1580年)、昌幸の上州攻略(沼田攻略)の陣立てで使番及び足軽隊を務めた。
その後、徳川氏や北条氏などの戦いにも従軍している。
蟻川入道
西中城主。天正10年(1582年)以後の、徳川氏や北条氏などの戦いに従軍。
天正18年(1590年)小田原征伐の岩櫃城留守部隊を務めた。
安中左近忠政
1512年〜1564年。上野国の国人。安中城主。安中城、松井田城を築城する。
山内上杉家から越後上杉家の傘下となり、長野業正とともに武田晴信と戦うが、捕らえられ自害した。
安中久繁
1535年〜1590年。安中忠政の嫡男。武田晴信と争ったが敗北し、安中城を失う。後に織田家、ついで北條家に仕えた。
北條家滅亡時に討ち死にした。
安中忠成
1536年〜1580年。安中忠政の次男。
安中忠基
1537年〜1580年。安中忠政の3男。
安中左近少輔家繁
1538年〜1600年、左近、廣守。安中忠政の4男。武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
安中景繁
1539年〜1575年。安中忠政の5男。
安中勘解由
飯島長左衛門
飯島市之丞
飯島市丞、宗心。代官を勤める。天正13年(1585年)8月8日、真田昌幸から場所は不明であるが、御料所の百姓が早損のため年貢減免を訴訟してきたので、検見の上談合して納入分が減少しないように処置するよう命じている。高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。
そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。
昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
飯沼氏
鵤幸甚九郎
1539年〜1589年。斑鳩甚九郎、鳩甚九郎。真田昌幸の家臣。乗馬衆として矢沢頼康にも仕えている。
鵤幸右衛門祐貞
1559年〜1615年。斑鳩祐貞、鳩幸右衛門。乗馬の達人といわれる。
生島紋太夫
真田幸隆の側臣。寺社支配の様相であるが、本領真田郷の氏神社であった白山神社(山家神社)や、歴史の菩提所である長谷寺や信綱寺などのように特定な関係を有する寺社に対しては寄進や安堵が目立って多いが、領国の拡大とともに所領化した地域でも伝統性を尊重してほぼ旧来どおりの安堵と諸役免除などの保護を与えている。
具体例は多いが、例えば天正13年(1585)2月8日付けで塩田平下之郷の生島足島神社に与えた朱印状では、坂城、庄内、塩田の各筋の郷より「柳御用」の徴用を許しており、同社が旧来から所持していた慣行を新領主として安堵したものであろう。
池田親忠
木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
池田重憲
1503年〜1567年。
池田佐渡守重安
1536年〜1600年、池田重憲の長男として生まれる。武山城主。永禄8年(1565年)引き抜かれる。重安は斎藤憲広の嫡男憲宗が嶽山城に戻って来た時に、幸隆と嶽山城を攻めている。
長篠の合戦に従軍。その後、徳川氏や北条氏などの戦いにも従軍している。
昌幸の代でも真田氏の戦で数々の戦功をあげている。関ヶ原合戦では信幸に従い、東軍として参陣。家名を残している。
池田土佐守
天正10年(1582年)頃最大の高持ち。
池田長門守定信
関ヶ原では西軍に属して上田城に籠城した。高野山まで供をした者として名前が残る。その後は上田に戻り真田信幸に仕えたとされる。
従来の所見では真田領ではいわゆる太閤検地に相当するものは実施されていないといわれているが、果たしてそうであろうか。例えばついで見られる文禄元年との肩書を持つ「東松本之帳」の場合、前後を欠いていて詳細は不明であるが、その記載形式は名寄帳の形式になっている。
この東松本郷は、塩田平の町屋、奈良尾の平坦地であり、その集計によると、580余筆で110余名、総貫高227貫余であるという。本帳の特徴は各筆について「分付」の見られる点であり、その名は備後、備中、加茂、神田などの有姓28氏他になるという。これらの人々はこの期にこの地域の町屋に居を構えていた池田長門守の被官たちといわれており、手作分も相当あるが大部分には請作者として実際の耕作者名が最下段に記載されている。
その中には他郷からの出作者名や「こんや」のように、職人名も見られる。この場合もやはり照応する検地帳は残っていないが、検地の結果、こうした帳簿が作成されたことは明らかであり、その時期や内容からしても太閤検地の一貫とみることが無理とは思われない。従来、これらは太閤検地とは無関係に真田領独自の検地によるものとされ、その根拠が貫高表示にあるとされているが、所領高ないし年貢収納高での表示は確かに太閤検地の記載基準とは異なるが、そこははっきりした換算数値があったと思われ、そのもとでの貫高制の温存であったと見るべきであろう。
石井棟喜
海野平合戦で敗北後、海野棟綱に従い上州上杉憲政を頼りにしていたが、
真田幸隆が信州旧領を回復すると、幸隆の説得もあり武田家に臣従する。
石井舎人
高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。
そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。
昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。その後は真田昌幸の一周忌に池田長門守とともに上田に戻り真田信幸に仕えたとされる。
石川氏
村上家臣。真田幸隆の調略によって、武田家に降る。
石黒又八
石野大膳
泉重満
木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
伊勢崎五郎兵衛
『真田三代記』によると、穴山源覚と並ぶ、真田幸隆最古の家臣。
伊勢崎といえば戸石城の支城の名前(伊勢崎城)。当時、戸石城は村上義清の手にあったが、何かつながりがあるのだろうか。
加賀美家臣の相木森之助を生け捕り、家臣に加えている。また、1561年頃、武田信玄の北信濃、刈屋原城攻めに参陣し、昌幸を補佐した。
板垣修理信安
1534年〜1615年。板垣信憲の長男。武田氏滅亡後に真田家に仕える。
武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
市川義信
一場太郎左衛門
1542年〜1620年、一場太郎左衛門尉。天正3年(1575年)長篠の戦いに従軍。吾妻衆。
真田昌幸の上州攻略の陣立てで小荷駄奉行及び足軽隊を務めた。天正10年に大戸城攻めに従軍。天正17年に小田原征伐に従軍。
その後、元和3年(1618年)の江戸詰めにも名前がある。
一場茂左衛門
1562年〜1620年、一場太郎左衛門の長男。
天正8年(1580年)沼田攻略の際、中城小城を北条氏から奪還する活躍を見せる。元和3年の江戸詰めにも名前がある。
一場右京進
市場右京進、源七郎。政治面で昌幸を補佐した重臣である。天正11年3月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、中条3貫100文とある。天正12年の真田昌幸の書状にも名が残る。真田昌幸の朱印はいくつかあるのだが、天正12年12月16日付けの一場右京進宛ての問屋役安堵状に使われた昌幸の朱印は現在注目されている。
一場氏とはあまり関係ないが、市場といえば、領内の市場については、真田昌幸の代の上田領では原郷、海野郷、前山、保野、馬腰の各地に、その地域の商業活動の中心となった六斎市が開かれていたことが明らかにされており、上田城下の建設に伴って原、海野の市が城下に移された。
出浦主計頭清種
1522年〜1570年、左衛門尉。村上義清家臣。
出浦下野守清正
1542年〜1561年。村上義清家臣。
出浦対馬守盛清
1546年〜1623年、上総守、幸久。
出浦盛清は村上義清の支族で更級郡村上郷出浦城主、出浦清種の次男である。
更科郡上平城(出浦城)主。横谷左近とともに松代藩の忍者の棟梁と伝わる。村上家滅亡後は武田晴信に属し、すっぱ頭となる。
天文22年に武田晴信が村上義清の軍を打破り、義清が越後へ逃れるに及んで、その一族の出浦氏を召抱えることができたといわれる。
もともと謀略、放言、放火戦術を得意とする真田幸隆であったが、対馬守を手に入れるに及んで、
その忍法を通じてさらに戦術を広げていった。その後織田信長家臣、森武蔵守長可の配下となったが、
天正11年(1583年)より真田昌幸に仕えて、群馬県長野原町嶽山城を守った。小県郡武石村にて30貫文を領した。
昌幸・信幸に仕え、岩櫃城に居住し、岩櫃城代や吾妻郡奉行の要職に就いた。
天正18年(1590年)小田原征伐の武州・忍城攻めで活躍したという。
対馬守はのちに上州吾妻郡長野原町に住み、元和9年(1623年)に78歳で死去した。
忍者としての対馬守には逸話が多く、幸村配下の割田下総守との浅間山麓の死闘は「加沢記」が詳しい。
真田信之の松代時代には対馬守の子半平幸吉が1000石の知行で家老となっている。
出浦上総介幸吉
1566年〜1650年、半平。出浦盛清の嫡男。真田信之家臣。
真田昌幸の上州攻略の陣立てで武者奉行及び足軽隊を務めた。僅か14歳での初陣である。天正10年(1582年)の大戸城攻撃で手柄をあげている。
小田原征伐にも従軍。慶長2年(1597年)には岩櫃城代を務めている。真田信幸(信之)の家老となり、1000石を扶持された。
出浦某
1586年〜1630年。出浦幸吉の長男。真田信之家臣。
出浦某
1588年〜1630年。出浦幸吉の次男。真田信之家臣。
出浦五左衛門
1590年〜1670年。出浦幸吉の3男。真田信之家臣。
伊藤半之丞
天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
伊藤藤二郎
天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
伊藤団右衛門継基
1565年〜1615年。真田幸村の重臣。「我こそは幸村なり」と影武者として活躍。
継基は剣と乗馬の達人として名高い。幸村より2歳年上である。7人の影武者として名が残るが初めから7人だったわけではなく、たまたま7人で影武者隊を編成したことに始まる。
伊藤団右衛門について詳しくは、7人の影武者のページを参照。
伊藤修理
大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。組頭。
井上光基
木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
稲津親忠
木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
稲問三郎
木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
井上清忠
1497年〜1550年。
井上次郎左衛門清政
1517年〜1573年。川中島北部の豪族。高梨、須田、島津、小田切らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。
他には嫡男の井上清次、須田満親、島津規久、小田切清定、栗田国時、室賀光正、山田氏、斎藤氏らである。
西条義忠、屋代道斎、森村清秀、小島権兵衛、雨宮刑部ら多くの戦死者を出したが、甲州軍は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が戦死しており、
死傷者は村上軍を上回った。上田原の合戦とよばれる。
井上清次
1537年〜1615年。井上清政の嫡男。
井上源六郎
1557年〜1620年。井上清次の嫡男。上杉景勝に仕える。真田昌幸の徳川氏離反は直ちに小諸城主の大久保忠世から徳川家康に知らされた。家康は天正13年(1585年)7月19日に浜松を出発して駿府城へ入り、真田討伐のための準備を始める。
8月20日、小笠原信嶺や伊那郡の諸将に出陣命令を出し、「小県へ出陣せられ、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らと相談」して、敵を根切りにするようにといっている。その軍勢は7000余といわれており、これを迎え撃つ真田方は2000弱であったという。
昌幸は上杉景勝に援軍を求め、8月26日の井上源六郎ほか10名の北信衆宛ての景勝の書状によれば、「須田相模守注進のごとくんば、佐久、諏訪両郡の人数、根津近辺に陣取るの由に候、好ましか節に候条、各15以前60以後と申し付けられ、須田相模守一左右次第、急度参陣、軍功専一に候」とあって、
15歳から60歳までの徴兵をして援軍に向うように命じている。井上源六郎も、当然出陣していたものと思われる。これは真田昌幸が次男弁丸(真田幸村)を被官に出して越後へ在府させると詫び言を言ってきたので、自ら信濃長沼まで出馬し、惣人数5000余を真田館際に陣取らせたともみえている。
5000余は誇張と思われるが、援軍が曲尾まで来ていたことは、8月29日付けの矢沢頼康(頼幸)宛ての須田満親の書状でも明らかである。頼康は前述したように人質となって海津城へ赴いた幸村に付属させられていたが、この大事に居城である矢沢城に戻っていたと思われる。
井上昌満
1522年〜1590年。
猪口半兵衛
関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
今井兼平
木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
入江親貞
木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
岩井経俊
1518年〜1589年。信濃の国人。越後上杉家臣。
岩井信能
1548年〜1620年。越後上杉家臣。父経俊は信濃の国人で、武田晴信に追われ越後上杉景虎を頼った。
飯山城主となり、城下町を整備した。後上杉景勝に従い会津に移転した。
岩尾行真
1513年〜1583年。
岩尾康行
1533年〜1590年。岩尾行真の長男として生まれる。
岩尾康真
1563年〜1620年。岩尾康行の長男として生まれる。
岩野左京
真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
岩野宇兵衛
関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
植栗河内守
1532年〜1585年。吾妻衆。植栗城主。永禄6年(1563年)の長野原合戦で武田氏に降る。
天正8年(1580年)昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。松井田合戦にも従軍。以降は真田氏の合戦に参加。
植栗安芸守
1552年〜1582年、植栗河内守の長男。植栗城主。天正10年(1582年)大戸城攻略戦で戦死した。
植島東馬
真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
植田久右衛門
真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
植田又左衛門
関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
上野家成
1526年〜1571年。沼田家臣。
上原和泉守
1480年〜1530年。平賀一族。
上原筑前守
1500年〜1550年。
上原浅右衛門
兵庫。真田昌幸の上州攻略の陣立てで小荷駄奉行及び足軽隊を務めた。
上原藤介
藤助。真田昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。
上原勘衛門尉
天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
海瀬文之丞
天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
梅沢孫右衛門
真田昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。
浦野遠隅
浦野源一郎幸次
永禄9年(1566年)、武田晴信が嫡男武田義信の謀反の疑いありとして、武田義信に自害を命じる。
このとき武田晴信は家臣団の動揺を防ぐために、ほぼ全領域の家臣団から起請文を徴収した。この中で真田氏に関係ある地域のものは、小県郡では、室賀信俊、海野幸貞、根津政直、根津直吉、望月信雅、依田信守(信盛)、小泉一族、吾妻領では、浦野幸次、海野衆では真田綱吉らの名前がみえる。
浦野中務重成
1520年〜1579年。三島根小屋城主。吾妻斎藤家に属し大戸城を城代として守る。
永禄6年(1563年)岩櫃城攻略のときに真田幸隆に内応した。
浦野七左衛門尉重次
1546年〜1590年、海野七左衛門尉、義見斎。浦野重成の長男として生まれる。根小屋城主。
真田昌幸の上州攻略の陣立てで脇備の左を務めた。羽尾中務太輔幸貞(海野中務)や鎌原宮内少輔重春と並び真田昌幸の重臣。天正10年(1582年)大戸城攻めに従軍。真田昌幸家臣団の知行宛行いで羽尾5貫を受けている。小田原征伐にも従軍。
浦野民部右衛門尉幸景
1552年〜1582年。浦野重成の次男として生まれる。浦野幸景は吾妻衆として活躍。武田勝頼からの信頼も厚かったという。
浦野源太郎重秀
1523年〜1589年。浦野重成の弟として武田家に従う。武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
浦野五郎三郎
1505年〜1570年。真田幸隆の側臣。
漆戸虎光
1512年〜1575年。
江原左平太
譜代衆。大阪の陣で討死。
笈川八内
真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
大井修理信隆
1485年〜1543年。小県郡長窪城主。天文12年に謀反を起こしたため、武田氏に攻められたとされる。
大井政継
1511年〜1547年。大井信隆の嫡男として生まれる。小県郡長窪城主。
大井政成
1538年〜1615年。大井政継の嫡男として生まれる。小県郡長窪城主。
関ヶ原合戦後、真田昌幸らが去った上田城は徳川方に接収されて破却されることとなり、諏訪頼水、依田信守、大井政成らに預けられ、彼らの手で破却された後、
1601年8月頃までには真田信幸(信之)に引き渡されている。信幸はそこに陣屋を設け、重臣たちを上田領に派遣して支配を行った。信幸が沼田城から本拠を上田城に移した時期については諸説があってはっきりしていない。
上田城の破却の程度にもよるが、関ヶ原合戦の翌年との説では早すぎると思われ、元和2年(1616年)との説では遅すぎるようにも思われる。いずれにしても、信幸は元和8年10月、川中島松代10万石へ転封となっており、上田領支配には終止符が打たれている。
大井貞隆
1514年〜1547年。大井信隆の次男として生まれる。信濃内山城主。武田家と戦い、敗れて切られた。
大井貞清
1520年〜1600年。大井信隆の3男として生まれる。大井貞隆の嫡男ともいわれる。剛直な武将として知られる。
天文15年(1546年)内山城に立て籠って武田家と戦う。武田先鋒の真田幸隆と戦い、苦戦ののち降服。幸隆が武田晴信に助命、嘆願を行ったため許された。
大井政貞
1554年〜1615年。大井貞清の長男として生まれる。
大石太郎
滋野一党。
大岡氏
村上家臣。真田幸隆の調略によって、武田家に降る。
大熊政秀
1487年〜1522年。
大熊備前守朝秀
1517年〜1582年。大熊政秀の長男。越後長尾家臣。越後守護上杉家と景虎の間を取り持ち重臣となる。
後景虎に叛き武田家に出奔し、武田家滅亡の際はこれに殉じたとされる。子孫は真田家を頼り活躍している。
大熊五郎右衛門朝友
1536年〜1611年、伯耆守、重利、五郎左衛門、五郎左衛門尉。大熊朝秀の嫡男として生れる。大熊氏は越後長尾氏の重臣であったが、反旗を翻して武田家に臣従した。
武田家滅亡後は真田昌幸に仕えた。昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。対北条・徳川連合軍との合戦にも参加。第一次上田合戦に参戦。真田信幸配下で天正18年(1590年)忍城攻めにも参加。
また関ヶ原の戦いには東軍として参加。朝友の子は秀種。
大熊正左衛門秀種
1556年〜1624年。大熊朝友の嫡男として生れる。
大熊朝知
1537年〜1594年。大熊朝秀の次男として生れる。
兄弟とともに真田家に出仕したか分からない。