滋野一党武将

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  相木森之助
  1496年〜1550年。武田家一族、加賀美四郎の腹心。1529年頃、武田信虎の勘気に触れた加賀美四郎は信虎に討伐されたという。 『真田三代記』では、真田幸隆の家来、伊勢崎五郎兵衛と穴山源覚が生け捕ったことになっているが、当時真田家が武田家に仕えていないことから、ありえないと思われる。 1541年に信虎によって海野・真田両氏は滅ぼされることからも、武田家に従っていたとは思えない。その後も、真田家には相木荒次郎なる者の名も見ることができるし、武田家臣に相木昌朝の名がある。もしかしたら昌朝が森之助、荒次郎のどちらかなのかもしれない。 なお、加賀美勢は小幡日浄、原大隈守、鯰江頼母らによって討たれている。相木森之助は関ヶ原敗戦後、真田昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。
  会田氏
  滋野一党は早くに海野氏、根津氏、望月氏を分出し、鎌倉末期には、会田、塔原、田沢、苅屋原、光、西牧氏らが分出して、東信地域で一大勢力をもつようになった。 とりわけ海野氏からはその後も多くの支族が分出しており、その一部は、下屋、鎌原、羽尾、大戸氏のように、西上野吾妻郡地域にも進出していった。
  相野一斎
  北信濃村上義清家臣。
  青木半左衛門
  高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
  青柳近江守
  1510年〜1561年。北信濃村上義清家臣。真田幸隆の調略によって武田氏に降る。
  青柳伊勢守
  1530年〜1561年。青柳近江守の長男。青柳近江守の弟ともいわれる。北信濃村上義清家臣。真田幸隆の調略によって武田氏に降る。真田昌幸の家臣として諸書に名が残る。
  青柳青庵頼長
  1550年〜1615年。青柳清庵、清安、千弥、長迪。青柳氏はもとは北信濃村上家臣。武田氏の川中島進出で真田幸隆の調略によって武田氏に降る。 武田家臣として真田幸隆に従い北信濃を転戦する。武田氏滅亡後は武田遺臣として真田氏を頼った。頼長は真田昌幸の重臣として真田家に仕える。関ヶ原合戦では昌幸に従い西軍に参陣する。関ヶ原敗戦後は昌幸とともに九度山へ赴く。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
  青山弥七郎
  1558年〜1615年。真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
  青山弥十郎
  1578年〜1615年。青山弥七郎の長男。真田幸村家臣。真田昌幸に従い関ヶ原合戦では父弥七郎とともに西軍に参陣。大阪の陣で活躍した。
  赤坂式部
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。
  赤沢常陸介経康
  1521年〜1587年、常陸守、常陸助、赤沢常康。昌幸の上州攻略の陣立てで旗本を務めた。
  赤沢嘉兵衛
  1551年〜1620年、赤沢加兵衛。赤沢経康の長男。『真武内伝』によると、天正10年、武田氏滅亡後、真田昌幸が上州岩櫃城へ帰る途中、両岸が断崖でそこへ橋を渡してある大笹村の雁ヶ沢という谷で、真田信幸・幸村兄弟が橋の上で「この橋から飛び下りる者があるか」と戯れに部下に尋ねた。 そこへ赤沢嘉兵衛が進み出て谷底へ身をおどらせた。嘉兵衛はけろけろした顔で笑いながら帰ってきたが、昌幸は「稀に死なぬこともあろうが、このような無茶な者はわしの用には立たぬ。無益に命を捨てようとしたのは不所存の至りだ。」と厳しく叱り、勘気を申しつけた。 この嘉兵衛はのちに上田籠城神川合戦で、敵2人を討ち取り、勘気を解かれたという。
  明石月部入道
  1541年〜1611年。真田昌幸家臣。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。大阪の陣で真田幸村とともに戦った明石全登の明石家とは全くの別家であり、古くから真田家に従っていたものと思われる。
  明石又七郎
  1571年〜1615年。明石月部入道の長男として生れる。真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。真田昌幸の一周忌に上田に戻り帰農している。大阪の陣では大阪城に馳せ参じ、真田幸村とともに討死したものと思われる。
  浅香郷右衛門
  真田昌幸家臣。『真田三代記』や他の書物でもよく登場する。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。
  朝倉藤十郎
  真田昌幸家臣。旗本使番物見衆。真田表七本槍。
  東十郎
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  畔柳九蔵
  1553年〜1611年。真田昌幸家臣。『真田三代記』によると、天正10年(1582年)に武田勝頼が討たれ、真田一党が武田勝頼の次男勝千代を擁して戸石城に籠った時、「火攻め遊撃隊」を組織した1人として登場する。彼らの活躍で、北條氏照ら北條勢や徳川勢を散々に悩ませ、織田信長に勝千代の命を助けることを条件に真田家は降伏した。武田残党が処罰される中、真田家は果敢にも織田勢に挑んだ様子が伺え、信長が真田家を滅ぼさなかったわけが分かる気もする。 「信州の駑馬」と信長に罵られた昌幸なら武田家が滅ぶ前から北條氏や織田氏に付きそうなものだが…事実はどうであったのか?
  畔柳九八郎
  1573年〜1615年。畔柳九蔵の長男。関ヶ原敗戦後、真田昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。九八郎は一旦上田に戻り帰農しているが、大阪の陣では叔父畔柳兵助と大阪城に馳せ参じ、真田幸村とともに討死している。
  畔柳兵助
  1559年〜1615年。畔柳九蔵の次弟。 真田昌幸家臣。兄畔柳九蔵とともに真田昌幸に仕える。『真田三代記』によると、天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦に豊臣方として、真田信幸と真田幸村の兄弟が参陣している。その時真田信幸に従い参陣していた。
  穴山源覚
  『真田三代記』によると、真田幸隆最古の家臣。穴山といえば甲斐武田一族。何かつながりがあるのだろうか? 加賀美家臣の相木森之助を生け捕り、家臣に加えている。また、1561年頃、武田信玄の北信濃、苅屋原城攻めに参陣し、真田信綱や真田昌輝、真田昌幸を補佐した。
  穴山玄蕃信光
  1548年〜1585年、小左衛門、源覚。穴山信友の3男。武田一族で、穴山信濃守信春を祖先とする家系。穴山小助の父。
  穴山小助安治
  1568年〜1615年、岩千代、雲洞軒。穴山玄蕃信光の長男。真田軍の守り神と賞された。
穴山小助について詳しくは、真田十勇士のページを参照。
  穴山新兵衛
  1588年〜1615年。穴山小助の長男。『真田三代記』によると、小助とともに関ヶ原で西軍に味方した昌幸・幸村の軍勢に参陣している。岩千代という名も見られるが、小助、新兵衛のどちらかの幼名であろうか? 小助の父は甲斐穴山家出身といわれているが、『真田三代記』にはやたら「穴山」が真田家臣に多い。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った。父穴山小助とともに大阪の陣で真田幸村のもとに馳せ参じ、討死した。
  雨宮刑部
  1493年〜1549年。川中島北部の豪族。高梨、須田、島津、小田切、井上らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。 他には井上清政、井上清次、須田満親、島津規久、小田切清定、栗田国時、室賀光正、山田氏、斎藤氏らである。上田原の合戦で討死した。他にも西条義忠、屋代道斎、森村清秀、小島権兵衛ら多くの戦死者を出したが、甲州軍は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が戦死しており、死傷者は村上軍を上回った。
  雨宮丹後守景義
  1513年〜1575年。
  雨宮重兵衛家次
  1533年〜1575年。
  荒川内匠
  1549年〜1593年。真田昌幸家臣。70余兵の一隊を預かる侍大将。『真田三代記』によると、武田氏が滅び、北条氏、上杉氏、織田・徳川氏などに囲まれ狙われた際、 北条氏との小競り合いで、真田方は無紋の大きな旗に、北条氏の家中で謀反の噂の絶えない松田尾張守の紋所「永楽通宝の銭形」を描いて松田氏の謀反と見せかけ勝利した。 その時、北条氏を撹乱させた小隊が荒川隊である。これが、六文銭の始まりだとする説である。幸隆が武田晴信から譲られた家紋という説もある。
  荒川勝蔵
  1569年〜1615年。荒川内匠の長男。真田幸村家臣。忍びの者。『真田三代記』によると、「火攻め遊撃隊」の1人。畔柳九蔵参照。
  荒牧宮内少輔右衛門
  荒牧宮内左衛門、左衛門。真田昌幸家臣。長篠の合戦に従軍。天正8年(1580年)、昌幸の上州攻略(沼田攻略)の陣立てで使番及び足軽隊を務めた。 その後、徳川氏や北条氏などの戦いにも従軍している。
  蟻川入道
  西中城主。天正10年(1582年)以後の、徳川氏や北条氏などの戦いに従軍。 天正18年(1590年)小田原征伐の岩櫃城留守部隊を務めた。
  安中左近忠政
  1512年〜1564年。上野国の国人。安中城主。安中城、松井田城を築城する。 山内上杉家から越後上杉家の傘下となり、長野業正とともに武田晴信と戦うが、捕らえられ自害した。
  安中久繁
  1535年〜1590年。安中忠政の嫡男。武田晴信と争ったが敗北し、安中城を失う。後に織田家、ついで北條家に仕えた。 北條家滅亡時に討ち死にした。
  安中忠成
  1536年〜1580年。安中忠政の次男。
  安中忠基
  1537年〜1580年。安中忠政の3男。
  安中左近少輔家繁
  1538年〜1600年、左近、廣守。安中忠政の4男。武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
  安中景繁
  1539年〜1575年。安中忠政の5男。
  安中勘解由
             
  飯島長左衛門
               
  飯島市之丞
  飯島市丞、宗心。代官を勤める。天正13年(1585年)8月8日、真田昌幸から場所は不明であるが、御料所の百姓が早損のため年貢減免を訴訟してきたので、検見の上談合して納入分が減少しないように処置するよう命じている。高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
  飯沼氏
          
  鵤幸甚九郎
  1539年〜1589年。斑鳩甚九郎、鳩甚九郎。真田昌幸の家臣。乗馬衆として矢沢頼康にも仕えている。
  鵤幸右衛門祐貞
  1559年〜1615年。斑鳩祐貞、鳩幸右衛門。乗馬の達人といわれる。
  生島紋太夫
  真田幸隆の側臣。寺社支配の様相であるが、本領真田郷の氏神社であった白山神社(山家神社)や、歴史の菩提所である長谷寺や信綱寺などのように特定な関係を有する寺社に対しては寄進や安堵が目立って多いが、領国の拡大とともに所領化した地域でも伝統性を尊重してほぼ旧来どおりの安堵と諸役免除などの保護を与えている。 具体例は多いが、例えば天正13年(1585)2月8日付けで塩田平下之郷の生島足島神社に与えた朱印状では、坂城、庄内、塩田の各筋の郷より「柳御用」の徴用を許しており、同社が旧来から所持していた慣行を新領主として安堵したものであろう。
  池田親忠
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  池田重憲
  1503年〜1567年。
  池田佐渡守重安
  1536年〜1600年、池田重憲の長男として生まれる。武山城主。永禄8年(1565年)引き抜かれる。重安は斎藤憲広の嫡男憲宗が嶽山城に戻って来た時に、幸隆と嶽山城を攻めている。 長篠の合戦に従軍。その後、徳川氏や北条氏などの戦いにも従軍している。 昌幸の代でも真田氏の戦で数々の戦功をあげている。関ヶ原合戦では信幸に従い、東軍として参陣。家名を残している。
  池田土佐守
  天正10年(1582年)頃最大の高持ち。
  池田長門守定信
  関ヶ原では西軍に属して上田城に籠城した。高野山まで供をした者として名前が残る。その後は上田に戻り真田信幸に仕えたとされる。 従来の所見では真田領ではいわゆる太閤検地に相当するものは実施されていないといわれているが、果たしてそうであろうか。例えばついで見られる文禄元年との肩書を持つ「東松本之帳」の場合、前後を欠いていて詳細は不明であるが、その記載形式は名寄帳の形式になっている。 この東松本郷は、塩田平の町屋、奈良尾の平坦地であり、その集計によると、580余筆で110余名、総貫高227貫余であるという。本帳の特徴は各筆について「分付」の見られる点であり、その名は備後、備中、加茂、神田などの有姓28氏他になるという。これらの人々はこの期にこの地域の町屋に居を構えていた池田長門守の被官たちといわれており、手作分も相当あるが大部分には請作者として実際の耕作者名が最下段に記載されている。 その中には他郷からの出作者名や「こんや」のように、職人名も見られる。この場合もやはり照応する検地帳は残っていないが、検地の結果、こうした帳簿が作成されたことは明らかであり、その時期や内容からしても太閤検地の一貫とみることが無理とは思われない。従来、これらは太閤検地とは無関係に真田領独自の検地によるものとされ、その根拠が貫高表示にあるとされているが、所領高ないし年貢収納高での表示は確かに太閤検地の記載基準とは異なるが、そこははっきりした換算数値があったと思われ、そのもとでの貫高制の温存であったと見るべきであろう。
  石井棟喜
  海野平合戦で敗北後、海野棟綱に従い上州上杉憲政を頼りにしていたが、 真田幸隆が信州旧領を回復すると、幸隆の説得もあり武田家に臣従する。
  石井舎人
  高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。その後は真田昌幸の一周忌に池田長門守とともに上田に戻り真田信幸に仕えたとされる。
  石川氏
  村上家臣。真田幸隆の調略によって、武田家に降る。
  石黒又八
          
  石野大膳
          
  泉重満
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  伊勢崎五郎兵衛
  『真田三代記』によると、穴山源覚と並ぶ、真田幸隆最古の家臣。 伊勢崎といえば戸石城の支城の名前(伊勢崎城)。当時、戸石城は村上義清の手にあったが、何かつながりがあるのだろうか。 加賀美家臣の相木森之助を生け捕り、家臣に加えている。また、1561年頃、武田信玄の北信濃、刈屋原城攻めに参陣し、昌幸を補佐した。
  板垣修理信安
  1534年〜1615年。板垣信憲の長男。武田氏滅亡後に真田家に仕える。 武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
  市川義信
           
  一場太郎左衛門
  1542年〜1620年、一場太郎左衛門尉。天正3年(1575年)長篠の戦いに従軍。吾妻衆。 真田昌幸の上州攻略の陣立てで小荷駄奉行及び足軽隊を務めた。天正10年に大戸城攻めに従軍。天正17年に小田原征伐に従軍。 その後、元和3年(1618年)の江戸詰めにも名前がある。
  一場茂左衛門
  1562年〜1620年、一場太郎左衛門の長男。 天正8年(1580年)沼田攻略の際、中城小城を北条氏から奪還する活躍を見せる。元和3年の江戸詰めにも名前がある。
  一場右京進
  市場右京進、源七郎。政治面で昌幸を補佐した重臣である。天正11年3月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、中条3貫100文とある。天正12年の真田昌幸の書状にも名が残る。真田昌幸の朱印はいくつかあるのだが、天正12年12月16日付けの一場右京進宛ての問屋役安堵状に使われた昌幸の朱印は現在注目されている。 一場氏とはあまり関係ないが、市場といえば、領内の市場については、真田昌幸の代の上田領では原郷、海野郷、前山、保野、馬腰の各地に、その地域の商業活動の中心となった六斎市が開かれていたことが明らかにされており、上田城下の建設に伴って原、海野の市が城下に移された。
  出浦主計頭清種
  1522年〜1570年、左衛門尉。村上義清家臣。
  出浦下野守清正
  1542年〜1561年。村上義清家臣。
  出浦対馬守盛清
  1546年〜1623年、上総守、幸久。 出浦盛清は村上義清の支族で更級郡村上郷出浦城主、出浦清種の次男である。 更科郡上平城(出浦城)主。横谷左近とともに松代藩の忍者の棟梁と伝わる。村上家滅亡後は武田晴信に属し、すっぱ頭となる。 天文22年に武田晴信が村上義清の軍を打破り、義清が越後へ逃れるに及んで、その一族の出浦氏を召抱えることができたといわれる。 もともと謀略、放言、放火戦術を得意とする真田幸隆であったが、対馬守を手に入れるに及んで、 その忍法を通じてさらに戦術を広げていった。その後織田信長家臣、森武蔵守長可の配下となったが、 天正11年(1583年)より真田昌幸に仕えて、群馬県長野原町嶽山城を守った。小県郡武石村にて30貫文を領した。 昌幸・信幸に仕え、岩櫃城に居住し、岩櫃城代や吾妻郡奉行の要職に就いた。 天正18年(1590年)小田原征伐の武州・忍城攻めで活躍したという。 対馬守はのちに上州吾妻郡長野原町に住み、元和9年(1623年)に78歳で死去した。 忍者としての対馬守には逸話が多く、幸村配下の割田下総守との浅間山麓の死闘は「加沢記」が詳しい。 真田信之の松代時代には対馬守の子半平幸吉が1000石の知行で家老となっている。
  出浦上総介幸吉
  1566年〜1650年、半平。出浦盛清の嫡男。真田信之家臣。 真田昌幸の上州攻略の陣立てで武者奉行及び足軽隊を務めた。僅か14歳での初陣である。天正10年(1582年)の大戸城攻撃で手柄をあげている。 小田原征伐にも従軍。慶長2年(1597年)には岩櫃城代を務めている。真田信幸(信之)の家老となり、1000石を扶持された。
  出浦某
  1586年〜1630年。出浦幸吉の長男。真田信之家臣。
  出浦某
  1588年〜1630年。出浦幸吉の次男。真田信之家臣。
  出浦五左衛門
  1590年〜1670年。出浦幸吉の3男。真田信之家臣。
  伊藤半之丞
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  伊藤藤二郎
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  伊藤団右衛門継基
  1565年〜1615年。真田幸村の重臣。「我こそは幸村なり」と影武者として活躍。 継基は剣と乗馬の達人として名高い。幸村より2歳年上である。7人の影武者として名が残るが初めから7人だったわけではなく、たまたま7人で影武者隊を編成したことに始まる。 伊藤団右衛門について詳しくは、7人の影武者のページを参照。
  伊藤修理
  大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。組頭。
  井上光基
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  稲津親忠
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  稲問三郎
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  井上清忠
  1497年〜1550年。
  井上次郎左衛門清政
  1517年〜1573年。川中島北部の豪族。高梨、須田、島津、小田切らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。 他には嫡男の井上清次、須田満親、島津規久、小田切清定、栗田国時、室賀光正、山田氏、斎藤氏らである。 西条義忠、屋代道斎、森村清秀、小島権兵衛、雨宮刑部ら多くの戦死者を出したが、甲州軍は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が戦死しており、 死傷者は村上軍を上回った。上田原の合戦とよばれる。
  井上清次
  1537年〜1615年。井上清政の嫡男。
  井上源六郎
  1557年〜1620年。井上清次の嫡男。上杉景勝に仕える。真田昌幸の徳川氏離反は直ちに小諸城主の大久保忠世から徳川家康に知らされた。家康は天正13年(1585年)7月19日に浜松を出発して駿府城へ入り、真田討伐のための準備を始める。 8月20日、小笠原信嶺や伊那郡の諸将に出陣命令を出し、「小県へ出陣せられ、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らと相談」して、敵を根切りにするようにといっている。その軍勢は7000余といわれており、これを迎え撃つ真田方は2000弱であったという。 昌幸は上杉景勝に援軍を求め、8月26日の井上源六郎ほか10名の北信衆宛ての景勝の書状によれば、「須田相模守注進のごとくんば、佐久、諏訪両郡の人数、根津近辺に陣取るの由に候、好ましか節に候条、各15以前60以後と申し付けられ、須田相模守一左右次第、急度参陣、軍功専一に候」とあって、 15歳から60歳までの徴兵をして援軍に向うように命じている。井上源六郎も、当然出陣していたものと思われる。これは真田昌幸が次男弁丸(真田幸村)を被官に出して越後へ在府させると詫び言を言ってきたので、自ら信濃長沼まで出馬し、惣人数5000余を真田館際に陣取らせたともみえている。 5000余は誇張と思われるが、援軍が曲尾まで来ていたことは、8月29日付けの矢沢頼康(頼幸)宛ての須田満親の書状でも明らかである。頼康は前述したように人質となって海津城へ赴いた幸村に付属させられていたが、この大事に居城である矢沢城に戻っていたと思われる。
  井上昌満
  1522年〜1590年。
  猪口半兵衛
  関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  今井兼平
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  入江親貞
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  岩井経俊
  1518年〜1589年。信濃の国人。越後上杉家臣。
  岩井信能
  1548年〜1620年。越後上杉家臣。父経俊は信濃の国人で、武田晴信に追われ越後上杉景虎を頼った。 飯山城主となり、城下町を整備した。後上杉景勝に従い会津に移転した。
  岩尾行真
  1513年〜1583年。
  岩尾康行
  1533年〜1590年。岩尾行真の長男として生まれる。
  岩尾康真
  1563年〜1620年。岩尾康行の長男として生まれる。
  岩野左京
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
  岩野宇兵衛
  関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  植栗河内守
  1532年〜1585年。吾妻衆。植栗城主。永禄6年(1563年)の長野原合戦で武田氏に降る。 天正8年(1580年)昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。松井田合戦にも従軍。以降は真田氏の合戦に参加。
  植栗安芸守
  1552年〜1582年、植栗河内守の長男。植栗城主。天正10年(1582年)大戸城攻略戦で戦死した。
  植島東馬
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
  植田久右衛門
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
  植田又左衛門
  関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  上野家成
  1526年〜1571年。沼田家臣。
  上原和泉守
  1480年〜1530年。平賀一族。
  上原筑前守
  1500年〜1550年。
  上原浅右衛門
  兵庫。真田昌幸の上州攻略の陣立てで小荷駄奉行及び足軽隊を務めた。
  上原藤介
  藤助。真田昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。
  上原勘衛門尉
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  海瀬文之丞
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  梅沢孫右衛門
  真田昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。
  浦野遠隅
             
  浦野源一郎幸次
  永禄9年(1566年)、武田晴信が嫡男武田義信の謀反の疑いありとして、武田義信に自害を命じる。 このとき武田晴信は家臣団の動揺を防ぐために、ほぼ全領域の家臣団から起請文を徴収した。この中で真田氏に関係ある地域のものは、小県郡では、室賀信俊、海野幸貞、根津政直、根津直吉、望月信雅、依田信守(信盛)、小泉一族、吾妻領では、浦野幸次、海野衆では真田綱吉らの名前がみえる。
  浦野中務重成
  1520年〜1579年。三島根小屋城主。吾妻斎藤家に属し大戸城を城代として守る。 永禄6年(1563年)岩櫃城攻略のときに真田幸隆に内応した。
  浦野七左衛門尉重次
  1546年〜1590年、海野七左衛門尉、義見斎。浦野重成の長男として生まれる。根小屋城主。 真田昌幸の上州攻略の陣立てで脇備の左を務めた。羽尾中務太輔幸貞(海野中務)や鎌原宮内少輔重春と並び真田昌幸の重臣。天正10年(1582年)大戸城攻めに従軍。真田昌幸家臣団の知行宛行いで羽尾5貫を受けている。小田原征伐にも従軍。
  浦野民部右衛門尉幸景
  1552年〜1582年。浦野重成の次男として生まれる。浦野幸景は吾妻衆として活躍。武田勝頼からの信頼も厚かったという。
  浦野源太郎重秀
  1523年〜1589年。浦野重成の弟として武田家に従う。武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
  浦野五郎三郎
  1505年〜1570年。真田幸隆の側臣。
  漆戸虎光
  1512年〜1575年。
  江原左平太
  譜代衆。大阪の陣で討死。
  笈川八内
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  大井修理信隆
  1485年〜1543年。小県郡長窪城主。天文12年に謀反を起こしたため、武田氏に攻められたとされる。
  大井政継
  1511年〜1547年。大井信隆の嫡男として生まれる。小県郡長窪城主。
  大井政成
  1538年〜1615年。大井政継の嫡男として生まれる。小県郡長窪城主。 関ヶ原合戦後、真田昌幸らが去った上田城は徳川方に接収されて破却されることとなり、諏訪頼水、依田信守、大井政成らに預けられ、彼らの手で破却された後、 1601年8月頃までには真田信幸(信之)に引き渡されている。信幸はそこに陣屋を設け、重臣たちを上田領に派遣して支配を行った。信幸が沼田城から本拠を上田城に移した時期については諸説があってはっきりしていない。 上田城の破却の程度にもよるが、関ヶ原合戦の翌年との説では早すぎると思われ、元和2年(1616年)との説では遅すぎるようにも思われる。いずれにしても、信幸は元和8年10月、川中島松代10万石へ転封となっており、上田領支配には終止符が打たれている。
  大井貞隆
  1514年〜1547年。大井信隆の次男として生まれる。信濃内山城主。武田家と戦い、敗れて切られた。
  大井貞清
  1520年〜1600年。大井信隆の3男として生まれる。大井貞隆の嫡男ともいわれる。剛直な武将として知られる。 天文15年(1546年)内山城に立て籠って武田家と戦う。武田先鋒の真田幸隆と戦い、苦戦ののち降服。幸隆が武田晴信に助命、嘆願を行ったため許された。
  大井政貞
  1554年〜1615年。大井貞清の長男として生まれる。
  大石太郎
  滋野一党。
  大岡氏
  村上家臣。真田幸隆の調略によって、武田家に降る。
  大熊政秀
  1487年〜1522年。
  大熊備前守朝秀
  1517年〜1582年。大熊政秀の長男。越後長尾家臣。越後守護上杉家と景虎の間を取り持ち重臣となる。 後景虎に叛き武田家に出奔し、武田家滅亡の際はこれに殉じたとされる。子孫は真田家を頼り活躍している。
  大熊五郎右衛門朝友
  1536年〜1611年、伯耆守、重利、五郎左衛門、五郎左衛門尉。大熊朝秀の嫡男として生れる。大熊氏は越後長尾氏の重臣であったが、反旗を翻して武田家に臣従した。 武田家滅亡後は真田昌幸に仕えた。昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。対北条・徳川連合軍との合戦にも参加。第一次上田合戦に参戦。真田信幸配下で天正18年(1590年)忍城攻めにも参加。 また関ヶ原の戦いには東軍として参加。朝友の子は秀種。
  大熊正左衛門秀種
  1556年〜1624年。大熊朝友の嫡男として生れる。
  大熊朝知
  1537年〜1594年。大熊朝秀の次男として生れる。 兄弟とともに真田家に出仕したか分からない。
  大熊勘右衛門長秀
  1547年〜1621年。大熊朝秀の3男として生れる。兄とともに真田家に出仕。 関ヶ原合戦時には息子秀行とは別れて西軍に参加。大阪の陣で東軍に加わった。
  大熊靱負尉秀行
  1568年〜1615年。大熊長秀の嫡男として生れる。 叔父とともに関ヶ原合戦で東軍に参加。大阪の陣では父を東軍に引き込む。
  大熊尊秀
  1549年〜1615年。大熊朝秀の4男として生れる。兄弟とともに真田家に出仕したか分からなが、大阪の陣で西軍に加わって戦死しているのではないだろうか。 とするならば、関ヶ原では兄・長秀とともに参加。大阪の陣では長秀と別れてそのまま西軍に残ったのだろう。
  大熊清尊
  1569年〜1615年。大熊尊秀の嫡男として生れる。
  大熊盛秀
  1518年〜1570年。大熊政秀の次男。
  大熊重連
  1520年〜1570年。大熊政秀の3男。
  大須賀久兵衛
  村上家臣。幸隆の調略によって武田氏に臣従した。小島兵庫助を討ち取るなど、村上家衰退の要因をつくる。
  大瀬儀八
  大瀬義人。高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
  太田次郎
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  太田弥兵衛
  信濃の刈屋原城主、太田弥助の長男として生れる。真田昌幸家臣。『真田三代記』によると、賤ヶ岳の合戦に豊臣方として、真田信幸・幸村が赴いている。 その時、一緒に参陣していた。
  太田善太夫
  真田昌幸家臣。旗本使番物見衆。真田表七本槍。
  大塚清兵衛
  譜代衆。
  大塚清兵衛
  1507年〜1590年。
  大戸真楽斎
  1535年〜1589年。大戸城主。永禄6年(1563年)長野原合戦で真田軍に居城・大戸城を攻められ開城。 武田氏に随身した。長篠の戦いに参加。対北条・徳川連合軍との合戦にも参加した。 北条氏から大戸城を攻められ自害して果てた。
  大戸但馬守重勝
  1537年〜1589年。真楽斎の弟。永禄6年(1563年)長野原合戦で真田軍に居城・大戸城を攻められ開城。 その際、武田家に人質として出された。対北条・徳川連合軍との合戦にも参加したが、父兄とともに自害した。
  大日方小五郎
  村上家臣。幸隆の調略によって武田氏に降る。
  大日向氏
  滋野一党。
  大淵勘介
  勘助。昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。
  大室直光
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  岡氏
  滋野一党。
  岡田親義
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  岡野平内左衛門
 
  岡野谷加賀守
  岡野屋加賀守。矢沢頼綱が沼田城代の頃、頼綱に従い北条氏と戦う。
  岡本右京
  昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。
  岡山源右衛門
               
  小川可遊斎
  真田昌幸が天正7年(1579年)に名胡桃城の鈴木重則と小川城の小川可遊斎の降誘に成功しており、名胡桃城を拠点に真田氏は沼田城攻めを開始する。
  奥出羽守
  大阪城へ共した地侍。
  奥弥兵衛
  大阪城へ共した地侍。
  小草孫左衛門
  永禄7年(1564年)、武田晴信の命で、海野・根津・真田らとともに上野在陣。
真田幸隆や常田隆家、海野業吉らとともに、将として上野長野原に出陣しる。
  小草野新三郎
           
  小草野若狭守
           
  小熊左兵衛尉
  昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  小沢景俊
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  小田井又六郎
  1518年〜1543年。信濃土豪。天文12年(1543年)に武田晴信が東信地方で8つの城を攻略した頃、降参していく者が多い中、軽井沢と小諸の中間にある御代田の小田井城は例外だった。小城でありながら、城主の小田井又六郎と弟の小田井次郎左衛門はともに胸を張ってなびく姿勢をとらない。 武田の前衛は、歴戦の将板垣信方である。又六郎は夜襲をかけ、一時は混乱したが、それもつかの間で反撃され夜襲は失敗に終わる。小田井城は火攻めで落城。又六郎も次郎左衛門も討死して最後の抵抗も崩れた。城の内外には、城兵の死体500あまりが無残に散らばっていたという。昔、小田井の近くには「皎月の原」と呼ばれた円形の芝原があったそうだが、現在は大気の澄んだ高原が広がっている。
  小田井次郎左衛門
  1520年〜1543年。小田井又次郎の弟。武田晴信に攻められ、兄の小田井又六郎とともに奮戦したが討死した。
  小田切清定
  1515年〜1561年。信濃土豪。高梨、須田、島津、井上らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。他には井上清政、井上清次、須田満親、島津規久、栗田国時、室賀光正、山田氏、斎藤氏らである。 西条義忠、屋代道斎、森村清秀、小島権兵衛、雨宮刑部ら多くの戦死者を出したが、甲州軍は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が戦死しており、死傷者は村上軍を上回った。上田原の合戦とよばれる。
  小田切孫右衛門信清
  1535年〜1615年。信濃土豪。小田切清定の長男とされる。
  小田中氏
  滋野一党。
  落合兼行
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  落合遠江守
  1494年〜1557年。
  落合備中守
  1514年〜1557年。
  落合兵助
  1569年〜1615年。
  小野大膳
  昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。
  尾上九兵衛
  村上家臣。
  尾ノ山氏
  滋野一党。
  小幡信貞
  1541年〜1592年、信重。小幡重貞の嫡男。武田家臣、後に真田家臣。滝川一益指揮の織田軍に降伏し臣従するが、織田信長死後は相模北條家に属した。北條家滅亡後は真田昌幸を頼った。
  小幡信氏
  1561年〜1610年、信真、彦三郎、将監。小幡信貞の嫡男。真田家臣。祖父小幡重貞嗣。
  小幡将監
  1581年〜1640年。小幡信氏の嫡男。
  麻績勘解由左衛門清長
  1511年〜1575年。北信濃村上義清家臣。真田幸隆の調略によって武田氏に降る。その後は武田家臣として北信濃を転戦。麻績氏は武田家滅亡後は、越後上杉氏や仁科氏、小笠原氏らに挟まれた状況にあり、各氏に転属し家名を残している。
  小山田平三
  天正18年12月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、村松郷300文とある。
  小山田治左衛門
  高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
  折田軍兵衛
  天正10年10月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、横尾17貫、桃井100貫とある。 天正16年4月26日付けで吾妻衆の富沢豊後守、狩野志摩守、狩野右馬之助、折田軍兵衛に宛てられた「八幡山番帳」とある真田昌幸朱印状がある。原本は亡失してしまってその写ししか残っていないので不確かな点もあるが、同地の八幡山城の番役と普請役を命じたものである。 これら4名の同心衆である64名の地侍が2組に編成されて番役を勤めており、その各自に軍役の内容である武器の指定が明記されている。その割合は鑓32、鉄砲29、弓2、槍1となっている。これらの同心衆は真田氏の直接被官ではなく、番帳の宛名となっている4名の血縁、地縁による地侍、上層農民であって、知行地の実際の保有、耕作者たちであった。
  恩田越前守能定
  森下城代。真田信幸家臣。沼田七人衆。天正10年以降徳川家についた真田家は、北條氏邦の大軍により沼田領の諸城を次々と攻められており、 これに対して城代矢沢頼綱ほか、矢沢頼康の娘婿根津幸直、北能登守、金子綱重、恩田能定らの沼田衆が善戦し、3日にわたる激戦の後に、北条勢は兵を引いている。
  恩田伊賀守
  恩田右近助、後家。真田信幸家臣。沼田七人衆。真田昌幸から知行宛行いで、上条30貫、向発知15貫、さらに向発知5貫、下南雲15貫、阿波ふせ分1貫500文とある。
  海善寺氏
  海野一族。
  筧十兵衛虎秀
  真田幸隆家臣。筧十蔵の父。『真田三代記』には、敵の包囲を潜り抜け城門を丸太で突き破るという大胆不敵な戦功により、 一介の足軽から家来持の武将に出世したという。
  筧十蔵
  1573年〜1615年。金六郎、掛飛十蔵、政右衛門。 真田家臣の筧十兵衛虎秀の長男として生まれる。 筧十蔵について詳しくは、真田十勇士のページを参照。
  筧政右衛門
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  笠原新三郎清繁
  1505年〜1547年。笠原清仲の長男として生まれる。佐久郡志賀城主。 一度は武田晴信に臣従していたが、山内上杉家の力を借りて謀反を起こした。 そして武田晴信の北進の前に死を覚悟して立ちふさがった。1546年(天文15年)に内山城が奪取され、城主の大井貞清父子が降伏、 出仕させられてからは、もはや佐久で残るのは清繁の志賀城だけになっていた。志賀越えという峠を中心にして境を接する、隣国上野の平井城にいる関東管領、上杉憲政に救援を乞い、 縁戚にあたる高田右衛門佑父子が援軍に駆けつけた。さらに金井秀景を総大将に小田井原を出陣したとの知らせに強気になったが、 水の手を切られ、さらに生首を城門前に並べられ、士気が激減し、とうとう自害した。
  笠原政尭
  1545年〜1627年。笠原清繁の長男として生まれる。
  加沢助左衛門
  賀沢助左衛門。滋野一党。昌幸の上州攻略の陣立てで旗奉行を務めた。
  加沢与七郎
            
  加沢平次左衛門
  1628年〜1692年。小林五平次の長男として寛永5年に生まれる。加沢家の養子となる。 沼田藩改易後、『加沢記』を記す。5代城主真田伊賀守信利の家老根津宮内の家臣。 天和元年、沼田藩は江戸両国橋の橋材納入遅延と圧政を咎められて改易となるが、平次左衛門はそのときの勘定師(役)7人の中の1人で、家禄は4両3人扶持であった。 翌天和2年、幕府代官竹村惣左衛門と熊沢武兵衛の命により、『天和元年沼田領品々覚書』を記して提出。『加沢記』も改易後に書かれたもので、『加沢平次左衛門覚書』ともいい、戦国期の真田一族の興亡の様子を記している。 天和2年、吾妻郡大笹関所番となった。元禄5年(1692年)に没した。
  柏木六郎
            
  柏田玄仲
  譜代衆。軍術達人。
  角田新右衛門
  斎藤憲広の家臣。間者として憲広が真田勢に放ったが、 斎藤憲実に言い含められ、真田に降った。
  角輪佐吉
  譜代衆。
  片岡助兵衛
  天正11年3月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、諏訪10貫、上条5貫、南かた20貫とある。
  金井彦右衛門
  海野一族。
  金井房次
  永禄10年(1567年)8月、武田領の家臣団が晴信に提出した起請文には海野氏関係として、三河守幸貞の単独のもの、信濃守直幸、伊勢守幸忠、平八郎信盛の連名のもの、さらに「海野被官」として桑名、塔原氏ほか5名連記のものと、「海野衆」として真田綱吉(真田幸隆の兄)、神尾房友ほか12名連記のものがある。 海野衆の中には幸義嫡男左馬允幸光(業吉)の名も見えている。こうした衆で提出したものは他にもいくつかあり、その実態は地縁によって結合していた地侍集団とされている。つまり海野幸光(業吉)にしても、この段階では単独で提出するような状況にはなく、真田綱吉、常田綱富(常田隆家次男)、金井房次、下屋棟吉(常田隆家3男)、神尾房友ほかの一族や奈良本、石井、桜井氏などの地縁関係のものと同列でしかなかった。 ついで幸貞単独のものと「海野被官」5名連記のものであるが、その宛名はともに跡部勝資であって、これは上野の海野氏とみる研究もあるが、永禄12年(1569年)10月12日付けの武田氏龍宝朱印状による軍役定書の宛名は海野衆である海野伊勢守、海野三河守の連記となっており、小県郡の海野氏とみる従来の見解でよいと思われる。残る伊勢守幸忠と平八郎信盛については、三河守幸貞の次男と3男とされているが、確かではない。三河守幸貞と連記されている点からみても有力な海野一族と思われる。傍系かも知れないが、なお数家の海野氏が存続していたことを示すものであろう。
  金井佐太夫
  金井久内。天正14年2月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、蘆田50貫とある。他にも真田昌幸の書状に名が残る。
  金井久内
         
  蟹原氏
          
  金田茂吉
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  鎌原修理亮幸政
  1491年〜1578年、修理進。三原城主。鎌原氏は鎌倉御家人海野幸氏の子孫。滋野姓海野氏に連なる家系で、この鎌原氏は同族羽尾氏との領地争いがあって、 永禄3年(1560年)の春、幸隆に通じて武田氏に随身した。一度その本領を羽尾氏に奪われるも永禄5年(1562年)10月、武田氏及び真田氏の尽力により、 長野原合戦で、その本領を回復している。
  鎌原宮内少輔幸重
  1511年〜1582年、美作守、幸景。鎌原幸政の嫡男として生まれる。三原城主。幸隆の岩櫃城攻略の際、岩櫃城主斎藤憲広の弟を内応させるのどの活躍を見せる。 武田氏崩壊後は昌幸の配下として幾つもの合戦に参加。天正10年(1582年)大戸城攻略の戦で、老体に鞭打ち参陣し討ち死にしたといわれる。
  鎌原筑前守重澄
  1537年〜1575年、鎌原幸重の嫡男。羽尾幸光の娘婿。武田家に臣従していた重澄は長篠合戦で討ち死にした。
  鎌原宮内少輔重春
  1557年〜1590年、鎌原重澄の嫡男。母は羽尾幸光の娘。真田昌幸の上州攻略の陣立てでは前備を務めた。真田昌幸の家臣としては海野中務太輔幸貞(羽尾幸貞)と並び大いに期待されている。天正17年(1589年)小田原城攻めに参加。天正18年に北条攻めの一環である松井田城攻めで討ち死にした。
  鎌原石見守重宗
  1577年〜1633年。鎌原重春の嫡男。関ヶ原の合戦では信幸に従って東軍に付き、大阪の陣にも真田信吉に従い従軍し、その家名を残している。 後々、鎌原氏は真田氏の盟友として活躍した。
  神尾淡路守房友
  永禄10年(1567年)8月、武田領の家臣団が晴信に提出した起請文には海野氏関係として、三河守幸貞の単独のもの、信濃守直幸、伊勢守幸忠、平八郎信盛の連名のもの、さらに「海野被官」として桑名、塔原氏ほか5名連記のものと、「海野衆」として真田綱吉(真田幸隆の兄)、神尾房友ほか12名連記のものがある。 海野衆の中には幸義嫡男左馬允幸光(業吉)の名も見えている。こうした衆で提出したものは他にもいくつかあり、その実態は地縁によって結合していた地侍集団とされている。つまり海野幸光(業吉)にしても、この段階では単独で提出するような状況にはなく、真田綱吉、常田綱富(常田隆家次男)、金井房次、下屋棟吉(常田隆家3男)、神尾房友ほかの一族や奈良本、石井、桜井氏などの地縁関係のものと同列でしかなかった。 ついで幸貞単独のものと「海野被官」5名連記のものであるが、その宛名はともに跡部勝資であって、これは上野の海野氏とみる研究もあるが、永禄12年(1569年)10月12日付けの武田氏龍宝朱印状による軍役定書の宛名は海野衆である海野伊勢守、海野三河守の連記となっており、小県郡の海野氏とみる従来の見解でよいと思われる。残る伊勢守幸忠と平八郎信盛については、三河守幸貞の次男と3男とされているが、確かではない。三河守幸貞と連記されている点からみても有力な海野一族と思われる。傍系かも知れないが、なお数家の海野氏が存続していたことを示すものであろう。
天正14年2月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、依田摂津守分蘆田70貫とある。
  亀岡帥
  大阪城へ共した地侍。
  加茂大膳
  真田昌幸の上州攻略の陣立てで脇備の左を務めた。
  唐沢杢之助
  1531年〜1565年。吾妻斎藤氏の家臣であったが、岩櫃城攻略戦で内応し武田氏に臣従した。 後の嶽山合戦で討ち死にした。
  唐沢玄蕃允
  1551年〜1615年、唐沢杢之助の嫡男。父の死後、家督を継いで真田氏の合戦に参加している。 長篠の合戦に従軍。天正8年(1580年)、昌幸の上州攻略の陣立てでは使番及び足軽隊を務めた。その後、徳川氏や北条氏などの戦いにも従軍している。
  狩野左近
            
  狩野志摩守
  天正16年4月26日付けで吾妻衆の富沢豊後守、狩野志摩守、狩野右馬之助、折田軍兵衛に宛てられた「八幡山番帳」とある真田昌幸朱印状がある。原本は亡失してしまってその写ししか残っていないので不確かな点もあるが、同地の八幡山城の番役と普請役を命じたものである。 これら4名の同心衆である64名の地侍が2組に編成されて番役を勤めており、その各自に軍役の内容である武器の指定が明記されている。その割合は鑓32、鉄砲29、弓2、槍1となっている。これらの同心衆は真田氏の直接被官ではなく、番帳の宛名となっている4名の血縁、地縁による地侍、上層農民であって、知行地の実際の保有、耕作者たちであった。
  狩野右馬之助
  狩野右馬助。
  苅屋原氏
  滋野一党は早くに海野氏、根津氏、望月氏を分出し、鎌倉末期には、会田、塔原、田沢、苅屋原、光、西牧氏らが分出して、東信地域で一大勢力をもつようになった。 とりわけ海野氏からはその後も多くの支族が分出しており、その一部は、下屋、鎌原、羽尾、大戸氏のように、西上野吾妻郡地域にも進出していった。
  川合杢十郎
  昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。
  河上太郎
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  木内甚五左衛門
  昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。
  木内八右衛門
                
  北能登守
  小川城代。天正10年以降徳川家についた真田家は、北條氏邦の大軍により沼田領の諸城を次々と攻められており、 これに対して城代矢沢頼綱ほか、矢沢頼康の娘婿根津幸直、北能登守、金子綱重、恩田能定らの沼田衆が善戦し、3日にわたる激戦の後に、北条勢は兵を引いている。
  喜多源助
  大阪城へ共した地侍。
  北川治郎兵衛宣勝
  大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。真田丸の押さえとして玉造口の門内側に布陣していた。
  北沢勘解由
  天正14年2月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、吉原五兵衛分30貫、上田七兵衛分15貫、鍋蓋右近分5貫とある。文禄1年の真田昌幸の書状に名が残る。
  北沢清兵衛
  真田昌幸の書状に名が残る。
  木辻別右衛門
  苅屋原城主太田弥助の家臣。 1551年太田弥助が武田氏に攻められ、城が落城した時に幸隆の家臣相木森之助に生け捕られた。 太田弥助の家臣、本間九郎と坂井名八は筧十兵衛が討ち取っている。中根宇右衛門は、増尾新蔵が討ち取っている。別右衛門は鉄砲の名手として知られる。 真田氏が武田氏滅亡後、武田勝頼の遺児である勝千代を擁して籠り、織田信長の家臣、梁田出羽守や金森五郎八らに戸石城を包囲されたとき、 別右衛門の放った鉄砲の弾は織田信忠の右腕の小手の隙間をかすたという。後の真田氏の合戦にも度々従軍している。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  木辻元之助
  木辻別右衛門の子。大阪の陣で活躍した。
  木村渡右衛門
  1534年〜1590年。真田昌幸家臣。天正10年(1582年)頃最大の高持ち。
  木村土佐守綱茂
  1554年〜1631年。戸右衛門。真田藩の重臣。上田衆17騎。木村氏は今川家旧臣。今川家滅亡後に真田信綱に仕える。 長篠合戦で信綱戦死後は真田昌幸に仕える。昌幸にとって最も信頼できる重臣といわれる。昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  木村庄左衛門
  真田昌幸家臣。
  霧隠弾正左衛門
  1551年〜1573年。霧隠雲之助。元は浅井長政に仕える侍大将。
  霧隠才蔵
  1571年〜???年。鹿右衛門、宗蓮、宗連。伊賀流忍術の使い手。佐助と並ぶ忍術の名人であり、甲賀の好敵手ともいえる忍者の名流伊賀流の出身である。 霧隠才蔵について詳しくは、真田十勇士のページを参照。
  木呂子友則
  北条家臣。松山城の降将。
  窪田正介
          
  窪田善三郎
  文禄3年12月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、長瀬20貫、上条10貫とある。
  窪田角右衛門
  作之丞、角左衛門。高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
  栗田範覚
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  栗田国時
  1511年〜1573年。川中島北部の豪族。高梨、須田、島津、小田切、井上らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。 他には井上清政、井上清次、須田満親、島津規久、小田切清定、室賀光正、山田氏、斎藤氏らである。 西条義忠、屋代道斎、森村清秀、小島権兵衛、雨宮刑部ら多くの戦死者を出したが、甲州軍は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が戦死しており、 死傷者は村上軍を上回った。上田原の合戦とよばれる。
  栗田鶴寿
  1531年〜1591年、長寿軒。善光寺の別当。
  桑原氏
  永禄10年(1567年)8月、武田領の家臣団が晴信に提出した起請文には海野氏関係として、三河守幸貞の単独のもの、信濃守直幸、伊勢守幸忠、平八郎信盛の連名のもの、さらに「海野被官」として桑名、塔原氏ほか5名連記のものと、「海野衆」として真田綱吉(真田幸隆の兄)、神尾房友ほか12名連記のものがある。 海野衆の中には幸義嫡男左馬允幸光(業吉)の名も見えている。こうした衆で提出したものは他にもいくつかあり、その実態は地縁によって結合していた地侍集団とされている。つまり海野幸光(業吉)にしても、この段階では単独で提出するような状況にはなく、真田綱吉、常田綱富(常田隆家次男)、金井房次、下屋棟吉(常田隆家3男)、神尾房友ほかの一族や奈良本、石井、桜井氏などの地縁関係のものと同列でしかなかった。 ついで幸貞単独のものと「海野被官」5名連記のものであるが、その宛名はともに跡部勝資であって、これは上野の海野氏とみる研究もあるが、永禄12年(1569年)10月12日付けの武田氏龍宝朱印状による軍役定書の宛名は海野衆である海野伊勢守、海野三河守の連記となっており、小県郡の海野氏とみる従来の見解でよいと思われる。残る伊勢守幸忠と平八郎信盛については、三河守幸貞の次男と3男とされているが、確かではない。三河守幸貞と連記されている点からみても有力な海野一族と思われる。傍系かも知れないが、なお数家の海野氏が存続していたことを示すものであろう。
  剣持喜右衛門
             
  小泉源二郎重成
  小泉城主。
  小泉源五郎昌宗
  武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。上田城築城の一説には、上田城内に残る小泉曲輪の存在からすでに築城以前にこの地に小県郡小泉荘を領した小泉氏の出城があり、それを拡大修築したものという。だがその関係を示す確かな史料は見られず、推定の域を出ない。しかし地形や交通の要所などの点から見て先行する類似施設があったことは十分に考えられる。
  小泉宗一郎
              
  高坂筑前守
  1506年〜1561年。香坂筑前守。村上家臣。
  高坂安房守
  1526年〜1570年。香坂安房守。村上家臣。幸隆の調略によって、武田家に降る。
  高坂昌貞
  源五郎。春日昌貞。 高坂昌信の子。海津城主。武田氏滅亡後、真田氏、北条氏へつく。
  河野清右衛門
  河野清左衛門。高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
  高坊常敏
  大阪城へ共した地侍。九度山周辺の中飯降村の地侍。
  木暮加兵衛
  真田昌幸家老。
  木暮甚右衛門
  真田昌幸家老。
  小柴慶俊
             
  小島兵庫助
  小島権兵衛。川中島北部の豪族。村上家重臣。真田幸隆の調略によって、大須賀久兵衛が叛き、久兵衛に討ち取られた。
  小林真光
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  小松盛長
  大阪城へ共した地侍。丹生川村の地侍。
  小中彦兵衛
  沼田家臣。
  小宮山丹後守昌友
  1519年〜1564年。武田晴信の重臣。侍大将として永禄年間は諏訪城代となり、松井田城を守ったこともある。。
  小宮山数馬友晴
  1542年〜1615年。天目山麓から武田勝頼の遺児である次男の勝千代(当時7歳)を伴って逃れ、真田昌幸を頼ったとされる。 その後は真田昌幸に仕え、関ヶ原敗戦後、真田昌幸、真田幸村父子に伴い紀州へ従った。
  小諸義兼
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  小山筑後守
        
  近藤無手之助
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  斉藤久右衛門
  真田昌幸家臣。旗本使番物見衆。真田表七本槍。 川中島北部の豪族。斉藤氏は高梨、須田、島津、小田切、井上らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。 他には井上清政、井上清次、須田満親、島津規久、小田切清定、栗田国時、室賀光正、山田氏らがある。 西条義忠、屋代道斎、森村清秀、小島権兵衛、雨宮刑部ら多くの戦死者を出したが、甲州軍は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が戦死しており、死傷者は村上軍を上回った。上田原の合戦とよばれる。
  斎藤憲次
  1485年〜1550年。岩櫃城主。
  斎藤筑前守憲広
  1516年〜1566年、越前守、越前入道、斎藤憲次の嫡男として生まれる。 岩櫃城主。弟(甥?)斎藤憲実や重臣の内応などで城を追われた。
  斎藤憲宗
  1541年〜1600年、城子丸、斎藤憲広の嫡男。
  斎藤憲春
  1520年〜1585年、斎藤憲次の次男。
  斎藤摂津守憲実
  1542年〜1605年、弥三郎、則実。 岩櫃城主の斎藤筑前守憲広の甥。弟とともいわれる。真田幸隆の岩櫃城攻略戦において憲広を見限り真田方に加担し、真田方から送られた人質を天狗丸に避難させた。 これより武田氏に仕えるが、間もなく退散したか病没したものと思われる。 後の沼田藩にはニ家の斎藤氏があり、弥三郎憲実の子孫が仕えたものと思われる。
  斎藤佐太郎基国
  1565年〜1640年、斎藤憲実の長男。岩櫃城近くに祭られている岩櫃神社の祭神。 岩櫃城落城後、元の領民が気になって天狗になって戻ってきたのだという。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  酒巻夕庵
  坂巻夕庵。平次、法印。信幸家臣。あるいは小松殿の護衛。
  坂本与三左衛門尉
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  桜井行晴
  滋野一党。木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  佐竹秀義
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  佐藤豊後守
  上田衆。真田昌幸の上州攻略の陣立てで旗本を務めた。
  佐藤備後守
            
  佐藤備中守
  上田衆。真田昌幸の上州攻略の陣立てで武者奉行及び足軽隊を務めた。
  佐藤軍兵衛
  天正17年(1589年)5月27日付けで真田昌幸の感状を受けている。
  更級清澄
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  三橋甚太郎
  昌幸の上州攻略の陣立てで旗本を務めた。
  塩入弥兵衛
  天正13年7月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、松本7貫、境8貫とある。
  塩入甚三
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  塩田信兵衛
  幸隆の側臣。
  塩野井善八
  昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  塩野井又市郎
  昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。
  塩原源太左衛門
  滋野一党。昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。
  塩谷掃部介
  和利宮城主。長篠合戦、天正8年沼田攻略、小田原征伐、松井田攻めなどに従軍した。
  志賀七郎
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  志賀清義
  1515年〜1547年。
  志賀又兵衛
  清吉、清義。昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  鹿野祐直
  1540年〜1610年、佑直。中条城主。鹿野氏は代々吾妻斎藤氏の家臣の家柄である。岩櫃城が攻略されて武田氏に出仕。 後に真田氏の戦に参戦。特に天正10年以降の合戦に参加している形跡がある。
  鹿野志摩守祐清
  1560年〜1615年、鹿野祐直の長男。対北条・徳川連合軍との合戦に参加。天正18年の松井田合戦にも従軍。
  鹿野和泉守祐保
  1564年〜1589年、鹿野祐直の次男。天正17年の忠乗原合戦に従軍し討死したものと思われる。
  鹿野勘助
  真田家老。350石もらっていたそうだ。
  嶋甚九郎
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  芝生田石見守
            
  島津規久
  1514年〜1560年。川中島北部の豪族。高梨、須田、井上、小田切らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。 他には井上清政、井上清次、須田満親、小田切清定、栗田国時、室賀光正、山田氏、斎藤氏らである。 西条義忠、屋代道斎、森村清秀、小島権兵衛、雨宮刑部ら多くの戦死者を出したが、甲州軍は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が戦死しており、死傷者は村上軍を上回った。上田原の合戦とよばれる。
  島津左京亮忠直
  1534年〜1604年。上杉景勝家臣。信濃の国人で長沼城主。村上義清らとともに越後上杉家を頼る。 川中島合戦で奮戦した。織田信長死後は信濃に戻り旧領を奪還している。真田昌幸が徳川家康に臣従し上杉景勝と対戦していた最中の天正11年(1583年)4月13日付けの島津忠直宛ての上杉景勝の書状に「真田、海士淵(尼ヶ淵)を取り立つの由」と見えていることから、尼ヶ淵(上田)城の所見として、上田城築城がこの頃であるというのはこれを根拠としている。
  清水三郎兵衛
            
  下沼田道虎
  1530年〜1590年。真田昌幸の上州攻略の陣立てで羽尾能登守輝幸とともに沼田城留守居役を務める。
  下沼田豊前守泰則
  1550年〜1620年。真田昌幸の上州攻略の陣立てで前備を務めた。
  下屋与三右衛門尉棟吉
  下屋氏は上野吾妻郡で栄えた海野氏の支族。海野氏は鎌倉期に早くも上野に支族が移住、繁栄していたようだが、海野氏の祖、小太郎幸恒の曾孫幸盛の弟将監幸房が上野三原荘を本拠とし、下屋氏を名乗ったとされる。 鎌原、羽尾、西窪の各氏など、幸房の子孫を称する支族がさらに出ている。下屋氏はまた修験の家でもあり、系図や文書を所蔵している。永禄10年(1567年)8月、武田領の家臣団が晴信に提出した起請文には海野氏関係として、三河守幸貞の単独のもの、信濃守直幸、伊勢守幸忠、平八郎信盛の連名のもの、さらに「海野被官」として桑名、塔原氏ほか5名連記のものと、「海野衆」として真田綱吉(真田幸隆の兄)、神尾房友ほか12名連記のものがある。 海野衆の中には幸義嫡男左馬允幸光(業吉)の名も見えている。こうした衆で提出したものは他にもいくつかあり、その実態は地縁によって結合していた地侍集団とされている。つまり海野幸光(業吉)にしても、この段階では単独で提出するような状況にはなく、真田綱吉、常田綱富(常田隆家次男)、金井房次、下屋棟吉(常田隆家3男)、神尾房友ほかの一族や奈良本、石井、桜井氏などの地縁関係のものと同列でしかなかった。 ついで幸貞単独のものと「海野被官」5名連記のものであるが、その宛名はともに跡部勝資であって、これは上野の海野氏とみる研究もあるが、永禄12年(1569年)10月12日付けの武田氏龍宝朱印状による軍役定書の宛名は海野衆である海野伊勢守、海野三河守の連記となっており、小県郡の海野氏とみる従来の見解でよいと思われる。残る伊勢守幸忠と平八郎信盛については、三河守幸貞の次男と3男とされているが、確かではない。三河守幸貞と連記されている点からみても有力な海野一族と思われる。傍系かも知れないが、なお数家の海野氏が存続していたことを示すものであろう。
  上条織部
            
  白河十左衛門尉
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  白倉右近
  白倉武助。武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
  白倉武兵衛
  白倉武助の長男。真田昌幸の上州攻略の陣立てで旗本を務めた。
  尻高左馬介
  左馬允。昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。
  城孫右衛門
  大阪城へ共した地侍。
  神宮寺右近
  甲陽忍者。
  新庄則高
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  神保佐左衛門
  昌幸の上州攻略の陣立てで使番及び足軽隊を務めた。
  須井氏
  真田家臣団として河原氏とともに長篠合戦で討死した者の中に名前があがる。
  杉角兵衛
             
  杉原四郎兵衛
            
  鈴木主水正重則
  1547年〜1589年、重利。出身は越後といわれる。妻は中山城主中山安芸守の娘。元亀2年に降り、名胡桃城代を務めた。 真田昌幸に仕えて1000騎を指揮する足軽大将を務めた。しかし、北条方の猪俣邦憲により名胡桃城を攻略され、正覚寺で自害した。 このことが、太閤秀吉の小田原攻めの契機となったとして、日本史上にその名が残る武将である。
  鈴木右近忠重
  1584年〜1658年、幼名を久次郎。鈴木重則の長男として生まれる。父重則の自害時は6歳であった。その後、真田昌幸に育てられ、慶長7年に小県郡岩門で50貫、慶長19年には足軽15人、その給15貫を与えられた。 成長してからは沼田3代藩主真田信吉に仕え、奉行職などを務め、寛永2年には200石の加増を受けたが、風流者とか異様者として信吉と不和となり浪人となった。 が、正保3年(1646年)、真田信之に700石で松代に呼び戻され、重臣となる。信之の生前より殉死を覚悟。万治元年10月17日信之が没すると、19日に法泉寺で切腹し信之の後を追ったという。 墓は法泉寺と高野山蓮華定院にあり、信之が眠る大鋒寺の傍らにもある。
  須田信正
  1513年〜1585年。信濃の土豪。信濃上高井福島城主。一向一揆を指導する。北信濃村上家臣。後に越後上杉家臣。高梨、井上、島津、小田切らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。永禄2年(1559年)武田晴信に敗れ、上杉家を頼りに越後に奔った。上杉景勝は豊臣秀吉方の大名として徳川家康の背後を脅かす存在であり、小牧長久手合戦には参陣しなかったものの、信濃では川中島以北を領有しており、南下して徳川方の小笠原氏や真田氏を圧迫していた。ところが秀吉と家康の和議によって信濃侵攻の口実を失い、さらに屋代氏や室賀氏らの離反も会って、北信濃で退潮の兆しが見え始めていた。そんな中、須田信正も真田昌幸に調略されている。上杉景勝は天正13年(1585年)5月8日に川中島海津城代の上条氏に命じて高井郡福島城に籠る須田信正を成敗している。
  須田相模守満親
  1534年〜1598年。須田信正の長男。信濃の土豪。信濃上高井福島城主。一向一揆を指導する。 永禄2年(1559年)武田晴信に敗れ、上杉家を頼りに越後に奔った。上杉景勝に仕え、一向一揆抑止や北信濃防衛の任に就いた。武田家の滅亡により、上杉景勝が川中島地方を占領、天正13年(1585年)海津城代となった。 同年徳川家康が2度にわたり、上田城を攻めたとき、海津より昌幸に援兵を派遣した。これは真田幸村を人質として差し出すことを条件としたためである。これにより幸村は春日山城に赴く。満親の上杉家に於ける禄高は1万4004石であった。 天正17年(1589年)従5位下に叙せられ、秀吉より羽柴姓を許されたが、慶長3年に没する。子孫は上杉家とともに会津若松、出羽米沢に移るが、6代目須田満主のとき、家老であったが藩主上杉鷹山の政策に反対して同僚7名とともに脱藩した。
  須田満統
  1569年〜1609年、長義。須田満親の長男。
  須田長義
  1579年〜1615年。須田満親の次男。上杉景勝の会津転封に従い、梁川城代となる。 関ヶ原合戦の際、会津で福島口を守り、伊達政宗の軍を撃破した。
  春原若狭守
  1521年〜1579年、須野原若狭守、奥座若狭守。元は海野家の家老。海野氏滅亡後は真田幸隆、昌幸の二代に仕える。春原氏は真田氏譜代の家臣として名が伝わる。 作戦参謀ともいうべき重臣。『真田三代記』では弟の惣左衛門とともに村上氏へ潜入し、村上家重臣の薬師寺右近之進を陥れ討ち取った。 また、そのことに激怒した村上義清は真田討伐に重臣の楽岩寺右馬助を向かわせたが、これも幸隆の戦略にかかって敗れ、戦死した。重臣を失い、直後の上田原合戦で村上家は“有無の合戦”を強いられたという。 武田晴信は真田の大功を喜び、若狭守を奥座と名乗らせ、海野武士80騎を任せ、知行は100貫から1000貫に加増したという。
  春原惣左衛門
  1524年〜1587年、須野原惣左衛門。須野原若狭守の弟。
幸隆の戸石城攻略戦に従軍した。さらに天正10年大戸城攻略にも従軍し、以降の対北条・徳川戦でも活躍している。
  春原孫右衛門
  1544年〜1615年、春原惣左衛門の嫡男。大阪の陣では右衛門とともに西軍についた。
  春原角八
  1546年〜1615年、春原惣左衛門の次男。大阪の陣では右衛門とともに西軍についた。
  春原徳右衛門
  1566年〜1625年。真田家老であり、300石もらっていたらしい。
  春原勘左衛門
  1547年〜1592年、春原惣左衛門の3男。真田昌幸の上州攻略の陣立てで脇備の右を務めた。
  春原右衛門
  1567年〜1615年、春原勘左衛門の長男。大阪の陣で幸村について戦ったという。
  清野喜右衛門
  1482年〜1564年。村上家臣。幸隆の調略によって武田氏に降る。
  清野左近太夫
  1502年〜1575年。村上家臣。幸隆の調略によって武田氏に降る。
  清野左衛門
  1522年〜1575年。村上家臣。幸隆の調略によって武田氏に降る。
  関小三郎
  甲賀虎吉。関ヶ原合戦に敗れた幸村たちに従い九度山に伴う。甲賀五郎兵衛の子で、本名を虎吉という。関東方の諜者であった。
  関口角左衛門
  代官を勤める。天正13年(1585年)8月8日、真田昌幸から場所は不明であるが、御料所の百姓が早損のため年貢減免を訴訟してきたので、検見の上談合して納入分が減少しないように処置するよう命じている。高野山まで供をした者として名前が残る。
  関口忠右衛門
  慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
  瀬下若狭守
  武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
  高楯光延
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  高月備中守
  高槻備中守。天正14年(1586年)8月18日付けの真田昌幸の書状で名が残る。昌幸が上田城を築城するにあたり、願行寺移転後の住職招聘を家臣に命じたものである。願行寺はもと海野郷にあった寺であり、城内に移転させられた寺社の1つである。この他にも城下の建設に伴って旧地から移転させたれた寺社として、海禅寺と八幡神社が海野郷から移転し、また大輪寺は戸石城下の畑山から移されたといわれ、常福寺は真田郷角間から移されたといわれる。
  高石孫助
           
  高梨澄頼
  1488年〜1547年。高梨政盛の嫡男。北信濃の国人。
  高梨政頼
  1508年〜1559年。高梨澄頼の嫡男。信濃中野を本拠としていたが、武田晴信の圧迫を受けて飯山まで退いた。 上杉景虎を頼り、川中島合戦のきっかけとなる。
  高梨秀政
  1528年〜1572年。高梨政頼の嫡男。越後上杉家臣。上杉景虎の関東出兵で、春日山城の留守居を任される。 第4次川中島合戦では先鋒をつとめ、奮戦した。
  高梨頼親
  1557年〜1598年。高梨秀政の嫡男。越後上杉家臣。本能寺の変後、上杉家の北信濃奪還に伴い高梨家の旧領中野に復帰した。 後上杉景勝の会津転封に従う。
  高梨頼清
  1577年〜1615年。高梨頼親の嫡男。
  高梨政広
  1558年〜1600年。高梨秀政の次男。
  高梨兵庫助頼包
  1530年〜1611年。高梨政頼の次男。高梨家が越後へ逃亡したとき、頼包は真田家を頼り武田家に臣従する。 真田昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  高梨内記
  1550年〜1615年、主膳、高階主膳。真田幸村の妻采女の父。 慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
  高梨頼治
  1534年〜1572年。高梨政頼の3男。
  高野但馬守
            
  高野九太夫
  九太郎。昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  高野彦三郎
  天正18年12月、真田信幸よち知行宛行状で、秋塚23貫とある。
  高橋右近
  昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。
  高橋右馬允
  昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。天正12(1584年)1月19日、吾妻衆が北條方の白井城を攻撃しており、真田昌幸はその戦功を賞して長井主税に20貫文を与えている。また高橋右馬允にも戸鹿野で5貫文を与え、3月21日には南雲で戦死した右馬允の後家に対して1貫500文を与えている。
  高橋圭介
             
  高山重遠
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  滝川茂兵衛
  真田信之の家臣。関ヶ原合戦に際し、昌幸・幸村父子が沼田城に立ち寄ったときに、沼田城を守っていた。 滝川一益の一族とは関係があるのだろうか。
  滝川平太夫
  譜代衆。滝川一益の一族とは関係があるのだろうか。
  拓殖内蔵之介
  関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。滝川一益の伊勢長島時代の配下に拓殖氏の名前を確認できるので、滝川氏が真田氏に何人も従っているところを見ると、滝川氏の配下の者と予想できる。
  田口良能
  1520年〜1548年。
  田口又左衛門
                
  田口久左衛門
  高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
  武石民部亮
            
  竹由新兵衛
  武田家臣。武田氏滅亡後に真田家に身を寄せていた。本能寺が起こると沼田城に籠って反旗を翻すが、すぐに討ち取られてしまったという。
  竹沢山城守
  1527年〜1579年。沼田家臣。
  竹鼻六右衛門尉
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  多胡家包
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  田沢氏
  滋野一党は早くに海野氏、根津氏、望月氏を分出し、鎌倉末期には、会田、塔原、田沢、苅屋原、光、西牧氏らが分出して、東信地域で一大勢力をもつようになった。 とりわけ海野氏からはその後も多くの支族が分出しており、その一部は、下屋、鎌原、羽尾、大戸氏のように、西上野吾妻郡地域にも進出していった。
  田所庄右衛門
  大阪城へ共した地侍。
  種子島丹後守
  丹三郎。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
  玉川氏
  真田家の重臣。
  田村左次右衛門
             
  田村平介
  角内、平助。田村氏は猿ヶ京在城衆であり、中沢氏、森下氏らと同じく沼田衆の1人である。 昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。
  丹生弥二郎
  譜代衆。
  智荘院応政
  大阪城へ共した地侍。
  塚本舎人助
  塚本肥前守。昌幸の上州攻略の陣立てで旗本を務めた。天正14年1月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、武石10貫、岩村田40貫とある。
  津久井刑部左衛門
  昌幸の上州攻略の陣立てで脇備の右を務めた。
  辻太郎作
  真田昌幸家臣。旗本使番物見衆。真田表七本槍。
  津田三郎
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  津波田三郎
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  手塚光盛
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  寺尾豊前守重頼
  1503年〜1590年。東条寺尾城主。真田幸隆の内応に応じ村上家を見限るが、逆に村上義清の猛攻にあい討死した。
  土居右近
  文禄3年の真田昌幸の書状に名が残る。
  東坂式部
            
  東条興房
  1509年〜1590年。
  塔原氏
  滋野一党は早くに海野氏、根津氏、望月氏を分出し、鎌倉末期には、会田、塔原、田沢、苅屋原、光、西牧氏らが分出して、東信地域で一大勢力をもつようになった。 とりわけ海野氏からはその後も多くの支族が分出しており、その一部は、下屋、鎌原、羽尾、大戸氏のように、西上野吾妻郡地域にも進出していった。
  富樫家通
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  常田右衛門綱旨
  1483年〜1568年。海野一族。海野平合戦以後、上州上杉憲政を頼っていたが、 真田幸隆が小県旧領を回復すると、幸隆を頼って武田家に臣従する。
  徳島藤馬
  関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  徳蔵院
  昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  利光久兵衛
  譜代衆。
  戸田半平
  真田昌幸家臣。旗本使番物見衆。真田表七本槍。
  戸田左馬允
  昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。
  戸田大膳
            
  戸田兵庫
  大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。
  富沢但馬守行連
  1520年〜1602年。富沢氏は吾妻郡の大豪族で岩下城を預かっており、斎藤氏の重臣と思われる。地名をもって岩下衆と呼ばれた。 行連は岩櫃城攻略で幸隆の内応に応じ、武田氏随身後は吾妻衆の中心的人物となったと思われる。対北条氏戦に参加している。
  富沢伊予守
  1550年〜1610年。伊与守、富沢行連の嫡男。行連に代わって長篠合戦、沼田城攻略戦、第一次上田合戦、対北条氏戦など真田氏の主な戦に参加している。昌幸の上州攻略の陣立てで脇備の右を務めた。
  富沢出羽守
  1522年〜1564年。岩井堂城主。行連らと同族と思われる。すぐに嫡男の大学に家督を譲ったものと思われる。
  富沢大学
  1552年〜1593年、主水、豊後守。富沢出羽守の嫡男。鉄砲の名手。天正10年以降の対北条氏戦に続き、小田原征伐にも参加している。天正14年2月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、渋川100貫とある。 天正16年4月26日付けで吾妻衆の富沢豊後守、狩野志摩守、狩野右馬之助、折田軍兵衛に宛てられた「八幡山番帳」とある真田昌幸朱印状がある。原本は亡失してしまってその写ししか残っていないので不確かな点もあるが、同地の八幡山城の番役と普請役を命じたものである。 これら4名の同心衆である64名の地侍が2組に編成されて番役を勤めており、その各自に軍役の内容である武器の指定が明記されている。その割合は鑓32、鉄砲29、弓2、槍1となっている。これらの同心衆は真田氏の直接被官ではなく、番帳の宛名となっている4名の血縁、地縁による地侍、上層農民であって、知行地の実際の保有、耕作者たちであった。
  富沢豊前守
  1553年〜1615年、富沢出羽守の次男。次男ながら長篠合戦、沼田城攻略戦、対北条氏戦など真田氏の合戦に度々参加している。昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  富沢治部少輔
  1555年〜1575年、富沢出羽守の3男。長篠の合戦で討ち死にした。
  富部家俊
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  伴野康政
  1450年〜1500年。
  伴野正豊
  1470年〜1520年。
  伴野信豊
  1490年〜1520年。
  伴野正友
  1510年〜1575年。
  伴野貞慶
  1530年〜1575年。
  伴野甚三郎信守
  1550年〜1582年。
  伴野貞長
  1555年〜1600年。
  伴野正友
  1510年〜1575年。
  工藤源左衛門尉昌豊
  1522年〜1575年、工藤祐長、内藤修理亮昌豊。工藤虎豊の次男として生まれる。 工藤下総守虎豊はかつて武田信虎の勘気に触れて誅殺された。このため彼の一家は、一時甲斐から出奔していたが、 武田晴信が信虎を追放して当主になると早速呼び戻された。晴信から信虎の粗暴な行為を謝罪され、流浪の身をねぎられて金子や所領まで与えられれば、 昌豊の感激はいかほどか察せられるであろう。 個人の力量が全ての価値基準だった戦国の世に、多くの功名に輝きながら武田晴信から一通の感状も受け取っていない武将がいる。それが昌豊である。 「合戦は大将の軍配によってこそ勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さいこと」だからという。 これは昌豊の度量を示す人となりを説く際に、必ず引かれる逸話であるが、それまでの晴信と昌豊の信頼関係からすれば、感状などといった手形は必要なかったともいえよう。 武田家中で、優れた主君に仕える幸福を誰よりも感謝していたのは、恐らく彼であったろう。 それ故、晴信によって活躍の場を得た昌豊は、晴信の死とともに消える運命だったのかもしれない。 長篠合戦での戦死はまるで自殺のようであったという。
  工藤昌秀
  1542年〜1572年、内藤昌秀。工藤昌豊の長男として生まれる。
  工藤修理種次
  1547年〜1600年、内藤種次。工藤昌豊の次男として生まれる。武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
  工藤種昌
  1567年〜1620年、内藤種昌。工藤種次の長男として生まれる。
  中勝之助
  大阪城へ共した地侍。
  半井源之丞
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  長井主税
  長井権助。天正11年10月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、武石15貫、本間右衛門抱20貫とある。天正12(1584年)1月19日、吾妻衆が北條方の白井城を攻撃しており、真田昌幸はその戦功を賞して長井主税に20貫文を与えている。また高橋右馬允にも戸鹿野で5貫文を与え、3月21日には南雲で戦死した右馬允の後家に対して1貫500文を与えている。
  長窪左衛門尉基量
  1521年〜1560年。小県郡長窪の郷土。
  石合和泉守道重
  1541年〜1582年、長窪道重。長窪基量の長男として生まれる。信州矢沢郷石合邑に移住し、石合氏と称するようになったという。 道重は父の死後武田家に仕えるが、武田晴信の弟信実の死後は上田の真田氏に仕えて和泉守となった。 天正10年6月有坂野に於いて戦死。墓も現在のその地にあり、子孫は長窪に住み着いたのである。
  石合庄次郎道房
  1561年〜1615年。石合道重の長男として生まれる。嫡子がなかったため弟道相の長男弥吉を養嗣子として迎える。 大阪の陣で真田幸村の下で討死している。幸村を慕う様々な譜代衆の活躍と忠節があって、幸村の武名が轟いたことは想像に難くない。
  石合助右衛門
  1563年〜1600年。石合道重の次男として生まれる。
  石合新左衛門道相
  1565年〜1640年。石合道重の3男として生まれる。小林九右衛門とともに長窪代官を務め、 慶長から元和にかけ戦乱により荒廃した土地を捨てて散した農民を呼び戻し、私財を投じて郷土の復興に力を尽くした功により、 真田信幸より30貫文無役の朱印状を戴く。
  石合弥吉
  1585年〜1610年。石合道相の長男として生まれる。本家石合庄次郎道房嗣。 弥吉にも嫡子がなかったため弟道定の子たちが家督を継承していく。
  石合十蔵道定
  1587年〜1660年、重定。石合道相の次男として生まれる。真田幸村の娘(すへ)婿。小県郡長窪の郷土。石合家はのちに中仙道長窪宿の本陣となった。 寛永2年より小諸領となり、領主松平因幡守忠憲の依田川の川狩りの案内や松茸拾い1本献上、さらに城内庭築の折は、道定宅の樹木をご所望進上したという。 また寛永17年(1640年)2月大阪方落人隠匿のご詮議あり、江戸表まで召し出された。「長窪村十蔵申出」の控書も残っている。 すへは8人の子宝に恵まれ、男3人は本家と分家を継承、女5人は近郷の名家に嫁がれ、それぞれ子孫健在、繁栄の由である。 長女は青木家、次女は小松家、3女は児玉家、4女は小井土家、5女は翠川家に嫁いでる。
  石合邑長
  1607年〜1670年。石合道定の長男として生まれる。 3男市十郎が本家を継いだが若く死んだので、邑長が家督を継ぐ。
  石合家栄
  1609年〜1670年。石合道定の次男として生まれる。
  石合市十郎
  1611年〜1640年。石合道定の3男として生まれる。叔父石合弥吉嗣。
  中沢越後守
  中沢半右衛門。昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。
  長瀬義貞
  1000年〜1050年。
  長瀬義数
  1150年〜1200年。木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  長沼又右衛門尉
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  長野刑部
  村上家臣。幸隆の調略によって 武田氏に降る。
  長野舎人
  1559年〜1581年。昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。 天正9年(1581年)羽尾能登守輝幸が謀反の疑いをかけられ自害を命じられるとそれに殉じた。
  中橋弘高
  大阪城へ共した地侍。政所別当。
  中村忠直
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  中村式部
  沼田衆。真田昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。
  中山安芸守
  1534年〜1589年。昌幸の上州攻略の陣立てで先陣を務めた。娘は鈴木重則に嫁いでいる。
  中山左衛門尉景信
  1554年〜1589年、勘解由。中山安芸守の長男として生まれる。旗本使番物見衆。真田表七本槍。昌幸の上州攻略の陣立てで前備を務めた。
  中山勘解由
              
  中山九郎兵衛
  1558年〜1589年、中山安芸守の次男として生まれる。姉が嫁いでいた名胡桃城代鈴木重則とは義兄弟にあたる。 猪俣邦憲と通じて重則を殺害し、北條氏の滅亡のきっかけとなった。
  名胡桃三郎景冬
  沼田氏一族。室町時代末から戦国時代初めにかけて、 名胡桃城築いた。
  夏目兵庫守
  真田幸隆の側臣。
  奈良本氏
  滋野一党。
  那和弘澄
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  南条右馬助
  1518年〜1571年。乾巨。村上家老臣。他にも森村清秀、屋代道斎、楽岩寺光氏など重臣と肩を並べる。耕雲寺住職。幸隆の調略によって、武田家に降る。
  南条弥左衛門尉
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  新木肥前守
  天正14年(1586年)8月18日付けの真田昌幸の書状で名が残る。昌幸が上田城を築城するにあたり、願行寺移転後の住職招聘を家臣に命じたものである。願行寺はもと海野郷にあった寺であり、城内に移転させられた寺社の1つである。この他にも城下の建設に伴って旧地から移転させたれた寺社として、海禅寺と八幡神社が海野郷から移転し、また大輪寺は戸石城下の畑山から移されたといわれ、常福寺は真田郷角間から移されたといわれる。
  西窪治部左衛門重知
  1520年〜1565年。西窪氏は鎌原氏同様に滋野姓海野の血を引く家柄である。重知は幸隆が鎌原氏と羽尾氏を攻略したときに武田氏に臣従した。岩櫃城攻めに参加した。永禄8年10月の嶽山合戦にも参加し、討ち死にしている。
  西窪治部少輔
  1550年〜1590年、蔵千代丸、西窪重知の長男。治部少輔が蔵千代丸のその後の名前なのか、あるいは別人なのか判明しないが、天正18年松井田城攻めで討ち死にしている。永禄6年岩櫃城攻めから真田氏の合戦に参加していた。
  西条義忠
  村上家老臣。川中島北部の豪族。他にも森村清秀、屋代道斎、楽岩寺光氏など重臣と肩を並べる。上田原の合戦で戦死した。
  西牧氏
  滋野一党は早くに海野氏、根津氏、望月氏を分出し、鎌倉末期には、会田、塔原、田沢、苅屋原、光、西牧氏らが分出して、東信地域で一大勢力をもつようになった。 とりわけ海野氏からはその後も多くの支族が分出しており、その一部は、下屋、鎌原、羽尾、大戸氏のように、西上野吾妻郡地域にも進出していった。
  西山市之丞貞行
  西丸市之丞。沼田衆として真田昌幸に仕え活躍。天正7年(1579年)4月上旬に真田昌幸の内応に応じる。昌幸の上州攻略の陣立てで先陣を務めた。
  二宮勘解由
  昌幸の上州攻略の陣立てで使番及び足軽隊を務めた。
  布下仁兵衛雅朝
  1505年〜1575年。信濃土豪。村上家臣。楽岩寺雅方とともに武田晴信の侵攻を喰い止めようとするが敗れ去り、村上氏の敗亡後は武田家に臣従した。
  布下弥四郎
  1525年〜1586年。『真田三代記』によると、真田幸隆の苅屋原城攻めの際、真田昌幸らとともに従軍している。 また、織田信長や北条氏に包囲された際は、荒川内匠らとともに北条勢を混乱に陥れたとされる。
  沼田万鬼斎顕泰
  1515年〜1572年。上野国人。天文元年(1532年)に利根郡沼田城を築く。関東管領上杉家に属す。 一時相模北條家に属すが、上杉謙信の関東出兵に従う。 庶子沼田景義の相続をはかり嫡男を殺害するが、家臣に追われて会津に逃亡する。
  沼田景泰
  1533年〜1569年。沼田顕泰の嫡男として生まれる。 父顕泰が景義(景泰の弟)に家督を相続させようとするお家騒動が起こってしまい、景泰は殺害されてしまう。
  沼田憲泰
  1535年〜1590年。沼田顕泰の次男として生まれる。
  沼田祐光
  1538年〜1612年。沼田顕泰の3男として生まれる。 津軽の地を1代で奪取した津軽為信の軍師とされる祐光であるが、詳しい業績は全く分かっていない。 一時期は京都にいて細川藤孝に仕えていたが、永禄末年頃、京を出て北奥羽に流れたともされているが、 父沼田顕泰が城を捨てて奥羽会津に逃亡しているから、この一団に祐光がいて、そのまま大浦家に仕えた可能性もある。
  沼田小新朝泰
  1544年〜1590年。沼田顕泰の4男として生まれる。 『真田三代記』によると、真田昌幸直属の家臣として活躍している。
  沼田清次郎
  1574年〜1615年、久助。沼田朝泰の長男として生まれる。 譜代衆。真田昌幸の直属の家臣として仕えた父朝泰に代わり関ヶ原合戦で奮戦。 関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  沼田平八郎景義
  1552年〜1581年。沼田顕泰の5男として生まれる。 父顕泰が強引に嫡子に立てたため、家臣の怒りを買い、父とともに追放された。 のち沼田城奪還を計画し、兵3000を集めて城に迫ったが、 真田昌幸が城代金子美濃守にある策を授けていて、騙し討ちにされた。 金子美濃守は景義の叔父である。 景義は沼田城下の近いところに沼田大明神として祭られている。 怨みを抱いて死んだ元領主を領民が神に祭っているのは注目すべき現象といえる。
  沼田美濃守泰清
  1517年〜1590年、景秀、金子美濃守。沼田顕泰の弟。天正7年(1579年)4月上旬に真田昌幸に出仕。 沼田城攻略に参加。昌幸の上州攻略の陣立てで先陣を務めた。横尾八幡城(吾妻郡中之条)を城代として守る。 甥沼田景義が攻めてきたときは一族として景義を騙し油断させたところを謀殺している。 対北条・徳川合戦にも参加。
  沼田経重
  1547〜1632年、綱重。金子泰清の長男として生まれる。金子経重。 天正10年以降徳川家についた真田家は、北條氏邦の大軍により沼田領の諸城を次々と攻められており、 これに対して城代矢沢頼綱ほか、矢沢頼康の娘婿根津幸直、北能登守、金子経重(綱重)、恩田能定らの沼田衆が善戦し、3日にわたる激戦の後に、北条勢は兵を引いている。 真田信幸家臣として沼田城で活躍する。
  根井幸親
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  野口二郎左衛門
  1553年〜1612年。
  野口十内
  1573年〜1615年。
  野尻太郎
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  野呂兵庫
  『真田三代記』では、賤ヶ岳の合戦に真田氏が加勢したとされ、その加勢に従軍していた。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  野呂兵部
  真田昌幸家臣。
  箱山国正
          
  羽田治郎左衛門幸清
  1520年〜1554年。初めは秦を姓とした。和田城主の大井修理信隆の家老として仕えたが、天文23年(1554年)6月、武田晴信の信濃侵攻により討たれたという。 これ以降、秦氏は羽田氏を名乗る。
  羽田筑後守竹久
  1540年〜1615年。羽田幸清の長男として生まれる。羽田氏は大井家に仕えていたが、武田晴信の信濃侵攻で降服し、従う。武田遺臣として、武田氏滅亡後に真田氏を頼った。 真田軍功家伝記『真武内伝』によれば、真田家の重臣について、「羽田筑後は長野信濃守一家なり。甲州衆なるが甲州崩れのとき房州様へ従い数度覚えあり」とし、 武田家滅亡のときに真田昌幸に仕え数度の戦功をあげた。大阪の陣では、長男竹久、次男房幸、3男幸正は真田方として参陣し、戦死か行方知れずとなる。 4男信久、5男吉久は徳川方へつき兄弟別れて戦った。今の羽田氏は吉久の後裔。真田信幸(信之)時代『寛文十年分限帳』に羽田六右衛門(300石)、真田幸専時代の『文政二年分限帳』に羽田忠左衛門、羽田雄助の名が見れる。
  羽田房幸
  1543年〜1615年。羽田幸清の次男として生まれる。大阪の陣で真田方として参陣し、戦死する。
  羽田幸正
  1545年〜1615年。羽田幸清の3男として生まれる。大阪の陣で真田方として参陣し、戦死する。
  羽田信久
  1548年〜1630年。羽田幸清の4男として生まれる。大阪の陣で徳川方として参陣する。
  羽田吉久
  1550年〜1630年。羽田幸清の5男として生まれる。大阪の陣で徳川方として参陣する。
  羽田六右衛門
  1580年〜1650年。羽田吉久の長男として生まれる。『寛文十年分限帳』に300石知行と記される。
  蜂須賀伊賀守
  1542年〜1610年。岩櫃城攻略戦で真田氏に内応した一人である。 昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。岩櫃城攻略戦に続き、天正10年以降の対北条氏戦にもその名が見られる。
  蜂須賀舎人
  1562年〜1620年。昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  蜂須賀但馬守
  1564年〜1630年。昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  蜂須賀縫殿助
  1547年〜1643年。忍者であったといわれる。なだけに活躍もその出自も伝わっていない。 岩櫃城攻略戦で真田氏に内応した一人である。
  発知三河守
  矢沢頼綱沼田城代に従い、対北条氏戦に従軍した。
  花形氏
  武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
  羽尾治部少輔景幸
  1481年〜1540年、幸安。羽尾氏は長年鎌原氏と領地争いを行っているが、双方とも滋野一党である。『加沢記』等の記述に従えば、下屋氏系海野氏の子孫という。 戦国期の上野吾妻郡の地侍で、上野吾妻郡羽尾(羽根尾)を本拠とした。『真田氏辞典』(唐沢貞市)によれば、戦国期の羽尾景幸は四阿山権現を信仰し、応仁3年(1469年)に「滋野朝臣景幸」の名で土地を寄進しているという。享年74歳。
  羽尾道雲入道幸世
  1501年〜1563年、羽尾景幸の嫡男。鎌原幸重と領地争いを行う。一族の真田氏、鎌原氏が甲斐の武田氏に属したのを潔しとせず、抗争続ける。当時の当主は幸全であった可能性が高い。後の上杉謙信に提出した『関東幕注文』に幸全の名がすでに見られることによる。 真田幸隆の妻の父であり、幸隆にとっては義父にあたる。永禄6年(1563年)、その真田幸隆に攻められ討死する。越後へ亡命し上杉家を頼ったとする説もある。
  羽尾道雲入道幸全
  1521年〜1563年、修理亮、羽尾幸世の嫡男。道雲は幸世のことであるが、幸全のことともいわれる。鎌原幸重と領地争いを行う。 永禄3年(1560年)の『関東幕注文』に羽尾修理亮幸全の家紋として「六連銭」と記されている。 永禄6年(1563年)真田幸隆が武田家臣として押しも押されぬ武将になっていた頃、上州岩櫃城の攻略戦が武田軍によって行われた。 岩櫃城には斎藤憲広と羽尾幸全が拠っており、幸全は他ならぬ幸隆の義弟であり、かつて海野一族が敗亡したときに親身も及ばぬ保護を与え、幸隆を励ました恩人であった。 両者の間柄を知る部下の将士の闘志は、当然鈍りがちとなった。幸隆自身のうちにも様々な逡巡や苦衷があったはずである。だが、それを乗り越えて幸隆は城攻めを敢行した。 激戦となり、羽尾幸世・幸全父子は戦死し、長男源六郎は信州高井郡へ逃亡した。弱小豪族にとって、一族の興亡のためには肉親や恩人といえども、あえて犠牲にしなければならない非情さを、幸隆は身をもって部下や子孫たちに示した。 この厳しさと非情さは、真田家の後代に伝えられた。そして後の関ヶ原合戦において、昌幸信幸父子が敵と味方に分かれて戦い、昌幸は真田の意地を貫き、信幸が一族のサバイバルに成功を収めた。
  羽尾源六郎
  1551年〜1585年、羽尾幸全の嫡男。永禄6年(1563年)、その真田幸隆に攻められ信州高井郡へ逃亡。
  羽尾長門守幸光
  1526年〜1581年、海野幸光、太郎左右衛門、羽尾幸世の次男として生れる。岩櫃城代。
弟の輝幸とともに羽尾家を離れて岩櫃城主吾妻氏・斎藤憲広に出仕している。海野を名乗る過程は不明であるが、天文10年(1541年)に海野棟綱が小県の本領を追われて羽根尾を頼った事と、何らかの関係があるものと思われる。 真田幸隆が岩櫃城を攻略するに当たって斎藤氏を見限り内応。岩櫃城を真田方に落城させるきっかけをつくった。 昌幸の時代の天正9年(1581年)、幸光、輝幸、幸貞の3人は謀反の疑いをかけられ自害した。
  羽尾某
  1546年〜1550年。羽尾幸光の長男として生れるが早世。
  羽尾重照
  1555年〜1620年、浦野重照。羽尾幸光の次男として生れる。浦野氏嗣。
  羽尾能登守輝幸
  1532年〜1581年、海野輝幸、昌景、幸景、喜兵衛。羽尾幸世の3男として生れる。
輝幸の武勇は武田家全軍はもとより、越後上杉勢にも知れ渡っていたという。 強弓を引き、荒馬を御し、その腕の力は百人のそれに匹敵するとまでいわれていたという。
兄の幸光とともに岩櫃城主・斎藤憲広の元に出仕。真田幸隆の岩櫃城攻めに際し、真田勢を手引きし臣従したという。 真田昌幸の上州攻略の際には、天正8年(1580年)に上野津久田城を奪取。天正9年(1581年)には由良国繁と戦う。そして沼田城留守居役を務めたこともある。が、同年天正9年に謀反の疑いをかけられ、自害している。 この翌年の天正10年には上杉氏が大戸城攻略に動いている。昌幸は一度裏切ったこの海野兄弟らが再び裏切る可能性があると考えたのであろうか。 大阪の陣で活躍した海野六郎の父ともいわれる。
井上靖氏の『真田軍記』では、武田氏の武将である小山田信茂の配下として、主人公の1人として登場する。 息子の海野中務丞幸次(1539〜1580年)とともに帰農するために武田氏を出奔した海野能登守幸景(1507〜1580年)は頑固な老将として登場し、岩櫃城をめぐっての真田氏との関わりのなかで、逆心を疑われてもなお武士として最後まで生きたとえがかれている。
  羽尾中務太輔幸貞
  1554年〜1581年、中務丞、海野中務。羽尾輝幸(海野輝幸)の嫡男として生れる。矢沢頼綱の娘婿。天正8年(1580年)、昌幸の上州攻略の陣立てで先陣を務めた。 親族衆として大いに期待されている。が、天正9年に父の輝幸や叔父の幸光とともに自害している。海野幸貞というと海野幸義の弟にも名前を見ることができる。
  羽尾太郎
  1574年〜1640年、原郷左衛門。羽尾幸貞の長男として生れる。天正9年に父幸貞が自害したときは7歳のことであり、太郎は連座を免れ原監物に養育された。
  羽尾太郎仲次
  1562年〜1630年、幸次。羽尾輝幸(海野輝幸)の次男として生れる。真田幸隆の娘婿。真田昌幸の妹を娶っており、昌幸とは義兄弟にあたる。天正9年に父輝幸と兄幸貞が自害したときは19歳のことであり、連座を免れ真田昌幸に引き取られた。
  羽尾仲正
  1582年〜1640年。羽尾仲次の長男として生れる。
  羽尾昌重
  1585年〜1640年。羽尾仲次の次男として生れる。
  羽尾郷左衛門
  1535年〜1581年。羽尾幸世の4男として生れる。
  海野六郎兵衛利一
  1571年〜1615年。海野六郎、六右衛門、三左衛門、小平太、呉羽自然坊。真田十勇士の一人。 父親は羽尾能登守輝幸(海野喜兵衛)とされる。羽尾輝幸(海野輝幸)の3男として生れる。そのことから六郎兵衛は羽尾海野家の出とされる。 海野六郎兵衛について詳しくは、真田十勇士のページを参照。
  馬場惣市
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
  馬場主水
  真田家の忍び。主水自身は大阪城へ籠るものを一部かくまっていた。幸村に通じていたのであった。大阪落城の翌年に幕府へ訴えでて成敗されそうになり逃亡した。 真田家家老木村土佐守とは兄弟付き合いであった。
  早川平左衛門
  譜代衆。大阪の陣で討死。
  林光平
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  林太郎左衛門
  1543年〜1582年。東松本郷内の足軽衆。真田昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。 真田家の個々の家臣団編成の仕方に関して、天正13年6月21日に矢沢頼綱の長男矢沢頼康に与えた真田昌幸朱印状によれば、 乗馬衆として鵤甚九郎ほか4名と足軽衆として林勘左衛門尉ほか11名が書上げており、いずれも有姓の者たちで、 「右の衆同心に申し付け候間、向後は人衆を催され一手役の奉公肝要たるべき者なり」とあって、いわゆる寄親、寄子制に基いた同心衆、足軽衆が付与され、軍団編成が進められていたことが明らかである。
  林源次郎寛高
  1563年〜1615年。林弾左衛門。林太郎左衛門の長男。父太郎左衛門は真田幸隆の代から真田家に仕え、足軽頭として主に吾妻一帯を守衛したとされる。 林源次郎について詳しくは、7人の影武者のページを参照。
  林勘左衛門尉
  1548年〜1605年。天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  原三左衛門昌澄
  弥一郎、監物。武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
  原右近
  弥吉。原昌澄の長男。
  原昌貞
  半兵衛。原昌澄の次男。
  原出羽守
  主膳。原昌澄の3男。関ヶ原合戦では兄2人と別れ西軍に参戦。高野山まで供をした者として名前が残る。
  原沢大蔵
  昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。
  原田十郎左衛門
  1489年〜1547年。
  春田伝助
             
  春田専之助
  関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  日置五右衛門
  武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。
  日置五左衛門尉
  天正10年7月9日、真田昌幸が蘆田氏、高坂氏、小笠原氏らの信濃国衆と談合し、越後上杉家から相模北條家に属すことを決め、 五左衛門尉は北條氏直への使者をつとめた。
  光氏
  滋野一党は早くに海野氏、根津氏、望月氏を分出し、鎌倉末期には、会田、塔原、田沢、苅屋原、光、西牧氏らが分出して、東信地域で一大勢力をもつようになった。 とりわけ海野氏からはその後も多くの支族が分出しており、その一部は、下屋、鎌原、羽尾、大戸氏のように、西上野吾妻郡地域にも進出していった。
  樋口兼光
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  樋口四角兵衛
  武田の旧臣。日本に3人といない戯け者という。四角兵衛は真田幸村が大谷吉継から所望した来国俊の刀をインチキ賽を使って双六で幸村から騙しとった。 幸村は何事につけても怒ることのない人だが、珍しく立腹していた。しかし四角兵衛は女中を騙して、殿の言いつけだと言って刀を出させ、出奔してしまった。 その後幸村は昌幸に「お前が刀の惜しさに抜かりがあったのだから、情をかけて早々呼び戻せ、 刀は戦の用に立つべきものだ樋口にささせてやれ、役に立つぞ」と言われ赤面して呼び戻した。
 四角兵衛は九度山へも随行し、幸村が忍びで京の風俗、家々の風儀などを探るときは、必ず召し連れられた。 四角兵衛は生涯に25人を斬ったという粗暴な男であったが、人の好意を感じると前後の見境もなく 感動する性分であったらしい。大阪陣でも幸村に従って武功があり、落城後国に帰り、子孫は真田藩に仕えた。
  久嶋頼母
  大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。
  久屋藤五郎
  矢沢頼綱沼田城代に従い、対北条氏戦に従軍した。
  久屋左馬允
  昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。
  久屋三河守実秀
  沼田衆として真田昌幸に仕え活躍。昌幸の上州攻略の陣立てで先陣を務めた。
  平井七郎兵衛保則
  大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。
  平尾守信
  1500年〜1575年。
  平尾将監頼政
  1520年〜1582年。
  平賀盛義
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  平賀源心斎成頼
  1489年〜1537年、玄信、源信、源心法師。南信濃の佐久郡平賀城主。佐久郡一帯を宰領していた。その祖は甲斐源氏とされる。平賀源心斎は信濃佐久では豪勇として知られ、天文5年(1536年)、武田信虎の信濃佐久侵攻に際し、海ノ口城へ援軍として入城する。武田軍本体を甲斐へ追い返すほどの活躍を見せるが、殿として残っていた武田晴信との海ノ口城合戦で討死し、海ノ口城は落城した。これをきっかけに武田家は信濃侵攻を本格的に開始する。
  平賀元徳
  1511年〜1547年。平賀源心斎の嫡男として生まれる。
  平賀元貞
  1514年〜1547年。平賀源心斎の次男として生まれる。
  平賀元成
  1516年〜1600年。平賀源心斎の3男として生まれる。
  平賀右衛門重資
  1547年〜1623年。平賀元成の長男として生まれる。真田昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  平野孫右衛門吉次
  高野山の東にある伊都郡学文路村平野壇を領する土豪。真田幸村に従って大阪城に籠城。
  平野八郎右衛門尉
  大阪城へ共した地侍。
  広田岡右衛門
               
  広田大夫
  真田昌幸の書状に名が残る。
  深井右衛門尉棟広
  1490年〜1563年、深井棟廣。海野棟綱重臣。海野氏滅亡後は、真田幸隆の側臣として活躍する。 棟広の娘(むね)は幸隆の兄真田綱吉に嫁いでいるとされる。 むねは法名、蓮玉院殿巌妙清大禅尼とされる。
  深井三弥
  昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  深江庄兵衛
  真田信幸の家臣。関ヶ原の合戦時には滝川茂兵衛らとともに沼田城を守ったとされる。
  深津二郎兵衛
  川田城代。
  福島肥後守
          
  福岡平三郎
  譜代衆。大阪の陣で討死。
  福島武蔵守
  先手衆。大阪の陣で討死。
  福島伊予守
  大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。
  福田美作守
           
  藤井喜右衛門
               
  藤井甚左衛門
  天正18年12月、真田信幸よち知行宛行状で、沼須54石とある。
  藤田能登守信吉
  1559年〜1616年、弥六郎、重信、源心。藤田重連の次男。父藤田重連が毒殺されたことで相模北條家を出奔する。越後長尾家を頼り、佐渡平定に活躍する。沼田城代をつとめる。その後、御館の乱で越後長尾家が動揺している中、真田家に従う。真田昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。 豊臣秀吉死後、徳川家と上杉家の和睦に失敗、出奔して会津出兵のきっかけとなる。
  藤原中貞
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  藤山兼助
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  別木勝蔵
  真田昌幸の家臣。天正10年以降の対北条氏との戦いで活躍した。
  別所八郎太
  真田幸隆の側臣。
  別所善左衛門
            
  別府若狭守
  真田昌幸の家臣。天正10年に加沢与七郎とともに室賀家中の過半を味方に引き入れたので、昌幸から知行を与えると感状を受けている。賤ヶ岳の戦いに真田の加勢として参加した。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  別府虎之助
  関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  穂入登之助
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
  穂入愛之助
  関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  星田勘平
  譜代衆。
  本郷左近
  譜代衆。大阪の陣で討死。
  前島作左衛門
  高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
  間嶋杢
             
  増尾新蔵
  苅屋原城攻略の際、太田弥助家臣の中根宇右衛門を討ち取った。
  増田九郎
  真田昌幸の家臣。賤ヶ岳の戦いに真田の加勢として参加した。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  増田荒次郎
  増田九郎の弟。真田昌幸の家臣。賤ヶ岳の戦いに真田の加勢として参加した。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  増田虎之助
  増田九郎、あるいは増田荒次郎の子。真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  益田六太夫
  真田大助家臣。
  町田外記
  天正10年9月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、海津10貫、東条50貫、間島20貫、福島100貫と多くの知行を受けている。
  松浦七郎
  真田幸村家臣。『真田三代記』によると、「火攻め遊撃隊」の一人。畔柳九蔵参照。
  松尾豊前守
  権之助。真田幸隆の側臣。天正10年(1582年)頃最大の高持ち。
  松崎藤兵衛
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  松沢彦次郎
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  松沢平之丞
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  松本忠光
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  間鍋日向
  間部日向、日向入道。真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  馬淵六郎大夫
  譜代衆。足軽大将。
  丸子秀資
  1150年〜1200年。木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  丸子平内
  1514年〜1575年、重兵衛。滋野一党。第一次上田合戦で活躍した。
  丸子三右衛門尉
  1544年〜1618年、海野三右衛門、鞠子。丸子平内の長男として生まれる。馬場信房の娘婿。駿河国清水城代。武田遺臣。武田氏滅亡後に真田氏を頼った。 真田信幸が丸子三右衛門尉(海野三右衛門尉)へ与えた知行宛行状の添書として上田奉行らが出したものがあり、この時点での上丸子郷の村高構成を明記したものである。これによれば、村高403貫文余に対して御料所が93貫文余であり、その割合が具体的にわかる事例である。 直轄領の割合は23%であるから、こうした数字が一応の目安となる。もちろん各郷にこうした割合の直轄領があったとは思われないが、これから見ても総体として大規模な直轄領を想定することが無理な推論とは思われない。 三右衛門尉は第一次上田合戦で丸子城を死守し戦功をあげたとされる。この頃より海野姓を名乗り海野三右衛門尉といった。
  丸子喜兵衛
  1564年〜1620年。丸子三右衛門の長男として生まれる。
  丸子宮内
  1567年〜1615年。丸子三右衛門の次男として生まれる。
  丸山土佐守綱茂
  小七郎。真田氏譜代の家臣として名が残る。真田昌幸の重臣。真田昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務め、天正8年沼田城攻略に従軍した。 また真田信幸の警護役を務めるほどの信頼を得ていたようだ。天正10年以降の対北条氏との戦いで活躍した。
  三河頼重
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  御宿勘兵衛政友
  大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。
  三井豊前守
            
  三井仁左衛門
  高野山まで供をした者として名前が残る。
慶長5年(1600年)12月13日に真田昌幸と信繁(幸村)は上田城を出発して高野山に向っている。 そのお供衆は16名であり、その名は池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵であったという。 昌幸夫人の寒松院は上田に残り、信繁の妻子のみが同行している。
  宮沢七郎兵衛
               
  宮下喜内
  真田昌幸の上州攻略の陣立てで旗奉行を務めた。
  宮下孫兵衛
  天正10年12月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、根津領後藤35貫、海野3貫、国分寺2貫とある。
  宮下藤左衛門
  宮下藤右衛門。宮下孫兵衛の長男。真田昌幸家臣。真田信幸の家老。昌幸の上州攻略の陣立てで使番及び足軽隊を務めた。
  宮下太兵衛
  天正13年7月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、松本7貫、境6貫とある。慶長1年の真田昌幸の書状に名が残る。
  三好清海
  1569年〜1615年。御清、隆清院、三好清海入道。真田十勇士の一人。 三好清海について詳しくは、真田十勇士のページを参照。
  三好伊三
  1570年〜1615年、為三、伊三入道、三好総兵衛。真田十勇士の一人。清海の弟。 三好伊三について詳しくは、真田十勇士のページを参照。
  三輪琴之助
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  村山義直
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  室賀兵部信俊
  1497年〜1570年。川中島北部の豪族。高梨、須田、島津、小田切、井上らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。他には井上清政、井上清次、須田満親、島津規久、小田切清定、栗田国時、山田氏、斎藤氏らである。西条義忠、屋代道斎、森村清秀、小島権兵衛、雨宮刑部ら多くの戦死者を出したが、甲州軍は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が戦死しており、死傷者は村上軍を上回った。上田原の合戦とよばれる。真田幸隆の調略によって、武田家に降る。
  室賀大和守光正
  1517年〜1580年、一葉軒、一葉輔、大和入道。室賀信俊の長男。
  目方兵馬
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  綿内兵庫頭
  娘は真田昌幸に嫁いでいる。
  森川隼人
  譜代衆。
  森下又左衛門
            
  森村清秀
  1502年〜1549年。村上家老臣。川中島北部の豪族。他にも西条義忠、屋代道斎、楽岩寺光氏など重臣と肩を並べる。上田原の合戦で武田軍の猛攻により討死した。
  森山氏
            
  薬師寺右近之進
  村上家老臣。川中島北部の豪族。
  薬師寺左近
  村上家老臣。川中島北部の豪族。
  矢島主殿助
  天正14年2月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、岩村田100貫とある。
  屋代道斎正重
  1493年〜1549年、基綱。村上家老臣。川中島北部の豪族。 他にも西条義忠、楽岩寺光氏、森村清秀など重臣と肩を並べる。上田原の合戦で戦死した。
  屋代越中守政国
  1525年〜1582年、正国。屋代正重の長男として生れる。屋代氏は、埴科郡屋代郷の領主で、初め村上義清の家臣であったが、1553年に義清が信濃を捨てて越後に逃れたため、 政国は武田晴信の信濃侵攻に降伏しこれに従う。武田氏に配属した。 武田家滅亡後、海津城主となった森長可に臣従した。
  屋代満正
  1530年〜1580年、室賀勝政。屋代正重の次男として生れる。室賀光政嗣。
  屋代政信
  1555年〜1623年。屋代満正の長男。上杉家臣。上杉家を離れ、徳川に味方して領地を棄てて逃げ出している。
  屋代正長
  1556年〜1580年。屋代満正の次男。
  屋代満俊
  1557年〜1620年、室賀満俊。屋代満正の3男。天正11年には弟室賀秀正(屋代勝永)とともに上杉家から離反して徳川家に従う。
  屋代大和守秀正
  1558年〜1623年、屋代勝永。屋代満正の4男。屋代政国嗣。上杉家臣。 秀正は主君を次々に変えながら、乱世を巧みに泳ぎ切った戦国の武人で、それは決して非難されるべきでない。 当然の生き方であった。初め武田勝頼に仕えていたが、武田氏滅亡後は上杉景勝に属している。 更に1583年には上杉家を離れ領地を棄てて逃げ出して徳川家康に配属している。そしてついに信濃小諸城主の地位を手に入れたのである。
  矢田義清
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  柳沢与兵衛
             
  梁田新八
  真田昌幸家臣。関ヶ原の合戦で、真田昌幸・幸村父子に従い、西軍に参陣した。
  矢野孫右衛門
  真田昌幸の重臣。
  矢野半左衛門尉
  昌幸の旗本。上州攻略の陣立てで旗本を務めた。
  山岡軍平
  譜代衆。
  山川帯刀賢信
  大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。真田丸の押さえとして玉造口の門内側に布陣していた。
  山口式部
  昌幸の上州攻略の陣立てで後備を務めた。
  山口掃部助
  沼田衆。天正10年10月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、玉泉寺2貫とある。天正13年10月にも真田昌幸から知行地宛行いがなされている。知行地宛行いに際しては該当地に検使が遣わされて、指し出しによる「改め」検地が行われたことが明らかである。
  山越左内
  昌幸の上州攻略の陣立てで小荷駄奉行及び足軽隊を務めた。
  山田重弘
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  山田文右衛門
  1509年〜1562年。川中島北部の豪族。山田氏は、高梨、須田、島津、小田切、井上らとともに村上義清に従い上田原で武田晴信と戦った。 他には井上清政、井上清次、須田満親、島津規久、小田切清定、栗田国時、室賀光正、斎藤氏らである。 西条義忠、屋代道斎、森村清秀、小島権兵衛、雨宮刑部ら多くの戦死者を出したが、甲州軍は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門などの猛将が戦死しており、死傷者は村上軍を上回った。上田原の合戦とよばれる。
  山田与惣兵衛直安
  1550年〜1622年。上野国の土豪。長篠の合戦に従軍した。昌幸の上州攻略、天正8年沼田攻略の陣立てで使番及び足軽隊を務めた。天正18年岩櫃城留守部隊の大将も務めた。
  山田舎人友宗
  1570年〜1615年。父は上野国の土豪で山田城主、山田与惣兵衛直安とされる。 山田舎人について詳しくは、7人の影武者のページを参照。
  山本義弘
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  山本角左衛門
  大阪城へ共した地侍。
  由井惣兵衛
  村上家臣。
  湯本善太夫
  1525年〜1575年、善太郎。嶽山城代。湯本氏は草津谷の土豪。海野幸恒の3男、望月重俊の子細野長福にはじまる海野氏の支族といわれる。 海野幸久は草津に住み、源頼朝から湯本姓を与えられたとされる。戦国期は地理的に見て鎌原氏に仕えていたものと推定される。 長野原合戦を機に武田氏に出仕。永禄7年(1564年)には武田晴信から草津を安堵されている。幸隆は善太夫を重んじ、岩櫃城攻めでは200余りの小隊を率いさせたという。 嶽山合戦では深手を負いながらも戦功をあげ、城代として主に幸隆の時代に活躍した。長篠の合戦で討死を遂げた。 武田勝頼は善太夫の武功を称賛した上で、老母の行く末を気遣っている。家督は甥三郎右衛門に継がれ、真田氏に属している。
  湯本九右衛門
  1545年〜1575年、湯本善太夫の長男として生まれる。長篠合戦で父善太夫とともに討死したとされる。家督は三郎右衛門が継いでいる。
  湯本三郎左衛門尉
  1534年〜1599年。湯本善太夫の弟。岩櫃城攻略に参加。真田昌幸の上州攻略の陣立てで目付として従軍。 天正10年以降の真田氏の合戦にも従軍している。家督は長男三郎右衛門が継いでいるが、実際の実権は三郎左衛門尉が握っていたことが諸書から窺える。 商人の育成で、直接商人に対して与えた文書は残っておらず、具体的な点は不明であるが、城下や支配地域の中心的な町、宿では、そこを管轄する重臣や有力給人に対して指示したものがいくつか見られる。 まず天正11年(1583年)5月13日に湯本三郎左衛門尉が吾妻領の羽尾城代であった頃、湯本三郎左衛門尉宛てに真田昌幸からの朱印状が届く。それによると、「毎月、市中に月荷物五駄宛」の通行を許可する過所を与えており、羽尾城下の市への商人荷駄の通行を保証している。 また真田本領の原郷に屋敷を構え、譜代重臣であった河原綱家には天正10月7日付けで同様の過所を与えており、この方には追って書に「商人の外は、出合いの儀共これ有るべからず候、堅く相改むべく候」とあって、一方では商人改めの規制も行っていた様子が窺える。
  湯本三郎右衛門
  1554年〜1623年、喜右衛門、三郎右衛門尉、図書。湯本三郎左衛門尉の長男として生まれる。昌幸にとっては最も信頼できる重臣といわれる。真田家老で800石もらっていたらしい。 湯本氏を継いだが、善太夫の3男という説もある。そう考えると九右衛門は長篠の合戦で父とともに戦死したとも考えられる。昌幸の上州攻略の陣立てで先陣を務めた。
  湯本左京進
  1557年〜1589年、湯本三郎左衛門尉の次男として生まれる。昌幸の上州攻略の陣立てで脇備の左を務めた。
  由利鎌之助基幸
  1573年〜1615年、由利春房。真田十勇士の一人。 由利鎌之助について詳しくは、真田十勇士のページを参照。
  用土新左衛門
               
  横尾孫右衛門尉
  在所で妻を殺害したとして詮議を受けていたが、真田昌幸を頼って九度山に逃れた。。
  横田左近
  甲陽忍者。
  横谷左近幸重
  真田氏譜代の重臣。雁ヶ沢要害を任される。左近は真田氏の戦にはほとんど参加している。昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。東軍として関ヶ原、大阪の陣にも参加している。
  横谷掃部介
  横谷掃部助。真田昌幸の上州攻略の陣立てで脇備の右を務めた。
  横谷惣左衛門
  横谷幸重の弟。
  横谷庄八郎幸氏
  横谷幸重の弟。関ヶ原や大阪の陣では、二人の兄とは別れて昌幸・幸村に臣従した。
  吉池源兵衛
  天正13年(1585年)矢沢城を守備した。
  吉田四郎
  木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  吉田惣助
  昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。
  吉田玄蕃
  大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。
  依田二郎
  1140年〜1190年。木曾義仲に従った者たちの1人。木曾義仲は27歳の治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げ、31歳で琵琶湖畔粟津で討死したのである。
  依田光徳
  1421年〜1480年。
  依田春賢
  1501年〜1575年、幸貫。
  依田下野守信守
  1521年〜1575年、信盛、蘆田信守。依田春賢の長男として生まれる。
  依田右衛門佐信蕃
  1548年〜1583年、源十郎、常陸守、蘆田信蕃。依田信守の長男として生まれる。 武田家臣。主家滅亡後は徳川家に仕え、信濃平定に着手した。信濃岩尾城攻めで被弾し、戦死した。子の竹福丸は松平姓を許され佐久郡を与えられた。
  依田康国
  1570年〜1590年。竹福丸、松平康国。依田信蕃の長男。松平姓を許され佐久郡を与えられた。
  依田康真
  1574年〜1623年、康勝、新六郎、康貞。依田信蕃の長男。兄依田康国嗣。
  依田信幸
  1550年〜1583年。依田信守の次男として生まれる。兄依田信蕃とともに佐久郡岩尾城攻めで討死した。
  依田兵部重方
  1554年〜1603年。依田信守の3男として生まれる。関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。
  米持氏
           
  頼甚
           
  依路右近
           
  楽岩寺雅方
  1507年〜1587年、楽巌寺雅方。村上家老臣。
  楽岩寺右馬助光氏
  1509年〜1549年、楽巌寺光氏。村上家老臣。川中島北部の豪族、高梨、井上、須田、島津、小田切ら諸氏のもとへ外交交渉に度々足を運んでいる。他にも西条義忠、屋代道斎、森村清秀など重臣と肩を並べる。 天文9年(1540年)、海尻城へ侵攻の際、海尻城代の上原昌辰を襲い、日向大和守昌時や長坂釣閑斎虎房らを敗走させる活躍を見せる。真田家臣春原兄弟の謀略によって薬師寺右近之進が討たれたため、義清の命によって5000兵を率いて真田討伐に向かったが、幸隆の策略により討死した。
  楽岩寺兵太夫
  1512年〜1575年。村上家重臣。上田原合戦に従軍。義清とともに猿ヶ馬場の峠を越えて下桑原に下り、越後の長尾景虎を頼ったとされる。由井惣兵衛、尾上九兵衛とともに長尾家で最後まで義清を補佐した家臣。
  若槻清尚
           
  和久半右衛門是安
  半左衛門。大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。
  鷲塚佐太夫
  吾妻と関係の深い忍者の統率者には、出浦対馬守盛清がいる。 対馬守ははじめ村上義清、そして武田晴信の麾下に属し、ついで武田氏滅亡後は海津城の森長可の配下となり、天正11年9月から真田昌幸に仕えて30貫文を拝領、大変信頼を受けていた。 『真田家戦功録』によると武田時代から素破の隊長で、真田に仕えて吾妻に入り、次第に厚く遇せられて岩櫃城代や吾妻郡奉行の要職についている。 そんな関係からも忍者というと吾妻郡に多く、特に中之条町方面に集中しているようである。 例えば忍者の主たる任務というのは、謀報・謀略・敵方の内部撹乱などが中心であるから、どうしても諸国を流れ歩くものを必要とする。 だから忍者群の母体というのは、下級武士、浪人、百姓だが、主として修験山伏、御師集団、あるいは猟人、巫女、舞太夫などの遊芸人なども重宝がられた。 従ってこの忍者の性格は科学的というのではなく、中世独特の呪術的、妖術的性格の強いものであった。 対馬守はその統率者ということになる。なお『真田家戦功録』の中には、横谷左近幸重や鷲塚佐太夫などの真田忍者が出てくる。 信州に山伏がとりわけ多かったのは、山岳宗教の道場として、戸隠山・飯縄山・黒姫山・木曽の御岳山などがあったからで、 さらに吾妻地方に入ると、榛名山・白根山など、本山派・当山派の修験道の道場がひしめいていたからに他ならない。 それらの集団、あるいは個人を巧みに利用し、保護も与えたから、特に吾妻地方の真田道を中心に、優秀な忍者たちが輩出されたのであろう。
  鷲塚佐助幸吉
  1572年〜???年。猿飛佐助、鷲尾佐助。甲賀流忍術の使い手。信州鳥居峠の麓に住む郷士鷲塚佐太夫の長男という。武田勝頼の遺児とも。 鷲塚佐助について詳しくは、真田十勇士のページを参照。
  和田勝之助
  真田幸隆家臣。
  和田兵衛尉将盛
        
  和田主水
  和田主殿。真田昌幸の上州攻略の陣立てで前備を務めた。
  渡辺左近允綱秀
  渡辺左近丞。上野国人。沼田衆として真田昌幸に仕え活躍。天正7年(1579年)に真田昌幸の内応に応じる。柏原城を城代として守る。 昌幸の上州攻略の陣立てで先陣を務めた。
  渡辺内蔵介
  先手衆。大阪の陣で討死。
  渡辺糺
  大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。
  渡常陸守
            
  和名宗安
            
  割田下総守重勝
  甲陽忍者。真田昌幸の上州攻略の陣立てで小荷駄奉行及び足軽隊を務めた。
  我見修理
  昌幸の上州攻略の陣立てで殿を務めた。





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