信濃国の武将(北信濃-南信濃-滋野一党以外の信濃の豪族と大名)

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  村上満信
  1360年〜1420年。応永7年(1400年)、守護小笠原長秀に反抗して起こった国人一揆(大塔合戦)は、更埴地域で強大化しつつあった村上満信の当知行地に対する守護小笠原氏の圧力への反発が発端で起こった。 村上氏に加え、北信の高梨・島津・井上氏や諏訪氏らが加わって、守護勢を上回る勢力となり、勝利した。 真田氏は、根津遠光を大将として村上氏とともに小笠原氏と戦った。大塔物語に「実田」という武士の名を見ることができる。 「実田」は真田氏の祖先である。根津氏の配下には、桜井・別府・小田中・横尾・曲尾などもあり、中でも真田氏は、横尾・曲尾らと並ぶ山間の小土豪にすぎなかった。
  村上周防守義清
  1503年〜1573年、村上義光。村上顕国の長男。葛尾城主。室町時代、信濃守護職は代々小笠原氏が任命されていたが、信濃は独立した国人が各自領国支配を展開していた。中でも鎌倉時代以来、北信濃に勢力を張る村上氏は最強の国人で、入国しようとする小笠原氏を何度も追い出している。 こうして国人たちは自治を守り続けていたが、それは悲劇でもあった。一つに結束しなかったので、信濃制覇を目指す武田晴信に各個撃破されてしまったのである。 しかし、戦国最強といわれた騎馬軍団を擁する武田晴信に、2度までも苦杯をなめさせた武将が北信濃の国人領主村上義清であった。 それは越後上杉家の景虎でも、織田信長でも成し得なかったことである。1548年の上田原合戦、1550年戸石城攻防戦と地形を巧みに活かしたその戦いぶりは、20歳年下の晴信を翻弄した。 晴信の生涯で最強の敵は、あるいは義清だったかもしてない。だが、戦場では無類の強さを見せた彼も、真田幸隆の謀略によって信濃から追い出されるとは思ってもみなかったであろう。
  村上義兼
  1509年〜1598年。村上顕国の次男。
  村上国清
  1546年〜1598年、山浦景国。村上義兼の長男とされる。叔父村上義清嗣。義父とともに上杉景虎を頼り家臣となる。 海津城代をつとめる。豊臣秀吉による小田原攻めでは、上杉軍の先鋒を務めた。
  村上景国
  1566年〜1615年。村上国清の長男。
  安中一藤太
  1481年〜1565年。村上義清家臣。天文16年(1547年)上田原の合戦で、板垣信方、曲渕小左衛門、三科肥後守、広瀬郷左衛門ら武田勢と戦い、 弟八木惣八をはじめ、原田十郎左衛門、相野一斎らを討ち取られたが、侍大将・上条織部と談合し、奇襲によって板垣信方を討ち取った。
  安中惣八
  1485年〜1547年。八木惣八。安中一藤太の弟。村上義清家臣。天文16年(1547年)上田原の合戦で、板垣信方、曲渕小左衛門、三科肥後守、広瀬郷左衛門ら武田勢と戦い討ち取られた。
  諏訪頼満
  1480年〜1539年。諏訪家当主。父親を親族に殺され、僅か5歳で家督を継ぐ。内政や軍事を掌握し諏訪一円を統一し、諏訪中興の祖と呼ばれる。 諏訪氏は代々諏訪大社の大祝をつとめてきた信濃の古族であるが、次第に武力を持ち合わせ、戦国期に頼満の代になると諏訪郡を領国化して戦国大名として歩み始める。 しかし、隣国の甲斐でも武田氏が台頭し、一進一退の攻防が繰り広げられた。
  諏訪頼隆
  1497年〜1539年。諏訪頼満の嫡男。
  諏訪頼重
  1516年〜1542年。諏訪頼隆の嫡男。武田晴信の妹を娶る。1542年、高遠頼継と共謀した武田軍に攻められ降伏。甲府に送られた後毒殺された。 ここに諏訪惣領家は滅亡する。なお頼重の娘は晴信の側室となり、生れた子が武田勝頼である。
  諏訪虎王
  1536年〜1543年、寅王。諏訪頼重の嫡男。
  諏訪頼高
  1517年〜1542年。諏訪頼隆の次男。
  諏訪満隆
  1498年〜1542年。諏訪頼満の次男。
  諏訪満隣
  1500年〜1545年。諏訪頼満の3男。諏訪一門の重鎮であったが、武田晴信に攻められ降伏する。諏訪の神官に専念することを約束したが、後に自害させられた。
  諏訪頼忠
  1536年〜1606年。諏訪満隣の長男。父満隣の死後は、神官として隠棲していたが、本能寺の変後に挙兵して諏訪家を再興した。信濃平定の徳川家と和睦し臣従した。
  諏訪頼永
  1563年〜1641年、頼水。諏訪頼忠の長男。後の信濃国高嶋藩の藩祖。旧領を取り戻すために徳川家康と戦っていたが、和睦して家康の配下におさまる。
  諏訪頼広
  1566年〜1623年。諏訪頼忠の次男。
  高遠信濃守頼継
  1513年〜1552年。諏訪家の一族でありながら、惣領の地位を狙い武田晴信と共謀し諏訪頼重を討った。後に晴信が諏訪を専有したのに不満を持ち、挙兵するが敗北して没落した。
  高遠蓮峰軒頼宗
  1517年〜1542年。
  藤沢頼親
  1516年〜1582年。小笠原長時の娘婿。伊那郡福与城主。
  藤沢頼宗
  1545年〜1621年。藤沢頼親の嫡男。
  藤沢権次郎
  1519年〜1611年。藤沢頼親の弟。
  矢島満国
  1479年〜1561年。
  矢島満清
  1499年〜1551年。上諏訪社当主。なお、満清の嫡男は諏訪頼重とともに武田晴信と戦い討死している。
  守矢頼真
  上社神長官。
  保科正則
  1489年〜1533年。
  保科弾正忠正俊
  1509年〜1593年、甚四郎、正景。保科正則の嫡男。武田晴信に臣従し高遠城主になる。信濃先方衆として活躍し、「槍弾正」と呼ばれ武勇を誇る。後に徳川家臣となる。
  保科正直
  1542年〜1601年。保科正俊の嫡男。
  保科正光
  1561年〜1595年。保科正直の嫡男。
  保科正重
  1563年〜1600年。保科正直の次男。
  保科正貞
  1565年〜1630年。保科正直の3男。
  保科正勝
  1545年〜1605年。保科正俊の次男。
  保科正近
  1565年〜1620年。保科正勝の長男。
  保科昌月
  1546年〜1588年、内藤昌月。保科正俊の3男。内藤昌秀嗣。
  保科五郎左衛門直矩
  1566年〜1620年、内藤直矩。保科昌月の長男。武田家滅亡後に真田家を頼った。
  木曾義在
  1493年〜1558年。信濃の有力国人。父の代に敵対関係にあった飛騨の三木氏との関係を修復する。中仙道を整備し、仁政により領内の安定をはかる。 木曾氏は南北時代以降、信濃木曾谷に勢力を保った領主で、自らは清和源氏の木曾義仲を後裔とするが、後世になって後付されたものらしい。 伊那郡の小笠原氏や飛騨の三木氏と抗争しながら戦国期を迎え、武田晴信もその動向に気を遣っていたようで、ご親類衆の待遇を与えて懐柔しようとした。 だが、晴信死後は、武田氏の衰えが見えると織田信長に内通し、武田氏を滅亡へ導いている。
  木曾中務大輔義康
  1514年〜1579年、源九郎、陽山。木曾義在の嫡男。小笠原氏や村上氏と結び甲斐武田氏と争う。 武田氏の進入を度々防いでいたが、最後は城を包囲され降伏した。
  木曾伊予守義昌
  1540年〜1595年、左馬頭、玄徹。木曾義康の嫡男。妻は武田晴信の3女(真竜院)。木曾義昌は信濃の名族の出ということで、武田晴信も自分の娘を嫁がせ、家臣団の中でもご親類集という外様では最上位の待遇を与えた。 にもかかわらず、武田氏を助けるどころか織田信長の手引きをして滅亡の糸口を作ったとして、山梨県では「裏切り者」としてすこぶる人気が悪い。 だが木曾地方では、小領主ながら時代の流れを見極め、巧みに身を処した武将として評価されている。 ともあれ木曾の家を保った義昌であったが、嫡男義利が改易され、その努力も報われなかった。
  木曾仙三郎義利
  1577年〜1640年。木曾義昌の嫡男。父義昌の転封先である下総の所領を継ぐ。粗暴な振る舞いが多く、叔父木曾義豊を殺害したことにより改易される。
  木曾義豊
  1543年〜1611年。木曾義康の次男。
  上松蔵人
  1547年〜1611年。
  山村良利
  1514年〜1599年。木曾地方の国人。以前は木曾氏と争っていたが配下となる。木曾氏が武田傘下になると、晴信から直接指示を受ける半独立の代官として活躍したとされる。
  山村良候
  1547年〜1602年。木曾義昌が改易されても木曾の地にとどまる。関ヶ原合戦で西軍の犬山城に抑留されるが、息子良勝の活躍で解放される。
  山村良勝
  1563年〜1634年。徳川家臣。木曾家の転封に従い下総に移った。関ヶ原合戦では木曾の国人を率い、犬山城まで進撃した。後尾張藩木曾代官となる。
  小笠原長棟
  1492年〜1542年。小笠原貞朝の嫡男。深志小笠原家当主。小笠原氏は南北朝期に信濃守護として入部したが、国人統制が上手くいかず、一族も分裂してしまった。 充分な領国制を確立できないまま戦国期に突入する。小笠原長棟は、ようやく長年分裂していた小笠原家を統一する。不和だった諏訪家と和解するなど、戦国大名としての地盤を築いた。
  小笠原長時
  1519年〜1583年。小笠原長棟の嫡男。塩尻峠合戦で武田晴信に敗れ、越後上杉家を頼る。後上洛し将軍の騎馬指南をつとめる。寄寓先の蘆名家で没した。二度と信濃の地を踏むことは出来なかった。
  小笠原長隆
  1540年〜1570年。小笠原長時の長男。
  小笠原長頼
  1560年〜1600年。小笠原長隆の長男。
  小笠原長元
  1580年〜1632年。小笠原長頼の長男。
  小笠原貞次
  1543年〜1580年。小笠原長時の次男。
  小笠原右近大夫貞慶
  1546年〜1595年。小笠原長時の3男。徳川家康の助力で旧領を復帰した。後石川数正の出奔に従い豊臣配下となったが、改易されて徳川家臣に戻った。
  小笠原秀政
  1569年〜1615年。小笠原貞慶の長男。松平信康の娘を娶る。古河城主の後、小笠原家の旧領松本城主になる。大阪の陣に出陣し討死した。
  小笠原忠脩
  1589年〜1615年。小笠原秀政の長男。
  小笠原信定
  1521年〜1565年。小笠原長棟の次男。小笠原家は国人統制が上手くいかず長年一族が分裂してしまっていた。 父小笠原長棟は、次男信定を松尾小笠原家に送り込むことにより、ようやく長年分裂していた小笠原家を統一する。
  小笠原長継
  1543年〜1593年。小笠原信定の長男。
  小笠原頼貞
  1526年〜1600年。小笠原長棟の3男。
  小笠原貞種
  1529年〜1587年。小笠原長棟の4男。
  小笠原統虎
  1530年〜1623年。小笠原長棟の5男。
  小笠原定政
  1494年〜1542年。小笠原貞朝の次男。
  小笠原長利
  1496年〜1542年。小笠原貞朝の3男。
  小笠原宗基
  1482年〜1560年、小笠原定基。小笠原家長の嫡男。松尾小笠原家当主。
  小笠原信貴
  1502年〜1585年。小笠原宗基の嫡男。
  小笠原掃部大夫信嶺
  1547年〜1598年。小笠原信貴の嫡男。
  犬甘政徳
  1511年〜1560年。小笠原長時の家老をつとめた。小笠原家が林城を失った後も武田晴信に抵抗するが、馬場信房に敗れ安曇の二木領に逃亡する。
  犬甘久知
  1545年〜1620年。犬甘政徳の3男。小笠原家臣。信濃復帰後の小笠原貞慶に仕える。侍大将として領内平定の戦いに活躍した。小笠原秀政の代には筆頭家老となる。
  犬甘貞知
  1547年〜1615年。犬甘政徳の4男。
  二木重高
  1503年〜1565年。小笠原家臣。
  二木重吉
  1530年〜1611年。二木重高の長男。小笠原家臣。小笠原家滅亡後は武田晴信の許しを得て所領の安曇で隠棲していた。武田家滅亡後、主君小笠原貞慶の信濃復帰に尽力した。
  二木重次
  1560年〜1630年。二木重吉の長男。
  二木盛正
  1532年〜1610年。二木重高の次男。
  溝口長友
  1485年〜1551年。小笠原家臣。
  溝口長勝
  1512年〜1565年。溝口長友の長男。
  溝口貞泰
  1539年〜1608年。溝口長友の8男。小笠原家臣。小笠原貞慶の信濃復帰に尽力し、領内平定の戦いにも活躍する。貞慶の側近として仕え、小笠原家中で最も信頼された。
  平瀬八左衛門義兼
  1510年〜1574年。平瀬甚助の長男。
  丸山政知
  1523年〜1615年。
  沢渡盛方
  1521年〜1615年。
  沢渡盛忠
  1548年〜1615年。
  小岩岳図書
              
  三村駿河守
              
  西牧四郎右衛門
              
  平林正家
  1515年〜1599年。
  平林正恒
  1550年〜1622年。平林正家の長男。武田家臣。織田信長の信濃平定軍に所領を奪われるが、上杉景勝の援助で奪還する。 以後は越後上杉家臣となり、会津転封後は小峰城主となる。
  仁科盛国
  1478年〜1528年。信濃安曇郡の豪族。
  仁科盛明
  1498年〜1587年。仁科盛国の長男。
  仁科成康
  1518年〜1582年。仁科盛明の長男。
  仁科成政
  1535年〜1583年。仁科成康の長男。
  仁科盛方
  1537年〜1583年。仁科成康の次男。
  仁科盛棟
  1501年〜1550年。仁科盛国の次男。
  仁科盛員
  1538年〜1580年。仁科盛棟の長男。
  仁科伊勢守政長
  1505年〜1590年、渋田見伊勢守。仁科盛国の3男。
  仁科盛兼
  1510年〜1565年。仁科盛国の4男。
  仁科盛勝
  1530年〜1583年、古厩盛勝。仁科盛兼の長男。古厩家嗣。
  仁科盛時
  1550年〜1583年、古厩盛時。仁科盛勝の長男。
  仁科盛親
  1552年〜1583年、古厩盛親。仁科盛勝の次男。
  仁科成利
  1555年〜1600年、古厩成利。仁科盛勝の3男。
  仁科伝右衛門
  1556年〜1615年、古厩伝右衛門。仁科盛勝の4男。
  飯森春盛
  1519年〜1556年、飯森晴盛。
  高梨澄頼
  1488年〜1547年。高梨政盛の嫡男。北信濃の国人。
  高梨政頼
  1508年〜1559年。高梨澄頼の嫡男。信濃中野を本拠としていたが、武田晴信の圧迫を受けて飯山まで退いた。 上杉景虎を頼り、川中島合戦のきっかけとなる。
  高梨秀政
  1528年〜1572年。高梨政頼の嫡男。越後上杉家臣。上杉景虎の関東出兵で、春日山城の留守居を任される。 第4次川中島合戦では先鋒をつとめ、奮戦した。
  高梨頼親
  1557年〜1598年。高梨秀政の嫡男。越後上杉家臣。本能寺の変後、上杉家の北信濃奪還に伴い高梨家の旧領中野に復帰した。 後上杉景勝の会津転封に従う。
  高梨頼清
  1577年〜1615年。高梨頼親の嫡男。
  高梨政広
  1558年〜1600年。高梨秀政の次男。
  高梨兵庫助頼包
  1530年〜1611年。高梨政頼の次男。高梨家が越後へ逃亡したとき、頼包は真田家を頼り武田家に臣従する。 真田昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。
  高梨内記
  1550年〜1615年、主膳、高階主膳。真田幸村の妻采女の父。
  高梨頼治
  1534年〜1572年。高梨政頼の3男。





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