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天慶元年(938年) 千曲川合戦(天慶の乱) | 天慶元年、平将門に圧迫された平良兼の子平貞盛は、 この事情を京の朝廷に訴えようと東山道より京に向かう。 それを知った平将門は1000余の兵を率いて直ちに追撃に向かった。 平貞盛は危険を察して海野城(海野古城)へ逃げ込み旧知の滋野恒成(善淵王)に助けを求めた。 平将門は、平貞盛が海野城に隠れているのを知り、先回りして国分寺付近に陣を取り、 神川を挟んで衝突する。小県の滋野の一族は平貞盛に加勢して、平将門と千曲川にて合戦した。 滋野一族は奮戦したが、戦は平将門側が勝利を収め、平貞盛は付近の山中に逃れ危機を脱したといわれる。 |
康平5年(1062年) 前九年の役 | 陸奥の俘囚長安部頼時が叛き、前九年の役で海野幸家は 80騎の棟梁として源頼義に従い安部頼時を討つ。 |
永保3年(1083年) 後三年の役 | 後三年の役で海野幸勝は180騎の棟梁として源義家に従い 陸奥の清原清衡を討つ。 |
保元元年(1156年) 保元の乱 | 海野幸直は、海野幸親、祢津道直、望月広重ら兄弟たちとともに、 保元の乱に300騎の棟梁として源義朝に属し京に上り参戦。戦功をあげる。 |
養和元年(1181年) 横田河原合戦 | 木曾義仲は白鳥河原にて挙兵し、越後の城助茂の大軍と横田河原で戦う。 海野幸広はこれに応じ、侍大将として集結。木曾義仲と海野氏援兵は横田河原の戦いに大勝する。 |
承久3年(1221年) 承久の乱 | 海野幸氏は執権北條泰時の幕府方の将として「承久の乱」に美濃大井戸で参戦する。 |
文永11年(1274年) 文永の役 | フビライ率いる中国(蒙古)、高麗の兵28000が、壱岐・対馬を侵略の後10月20日には 九州博多湾西部の今津付近に上陸した。晩台風に遭いそのために多くの船が沈み、戦意を失い敗退していった。 |
応永7年(1400年) 大塔合戦 |
守護小笠原長秀に反抗して起こった国人一揆。 更埴地域で強大化しつつあった村上満信の当知行地に対する守護小笠原氏の圧力への反発が発端で起こった。 村上氏に加え、北信の高梨・島津・井上氏や諏訪氏らが加わって、守護勢を上回る勢力となり、勝利した。 真田氏は、祢津遠光を大将として村上氏とともに小笠原氏と戦った。 大塔物語に「実田」という武士の名を見ることができる。「実田」は真田氏の祖先である。 祢津氏の配下には、桜井・別府・小田中・横尾・曲尾などもあり、中でも真田氏は、横尾・曲尾らと並ぶ山間の小土豪にすぎなかった。 |
嘉吉元年(1438年) 結城合戦 | 結城氏朝が関東管領足利持氏の遺子を奉じて挙兵し下総国結城城に拠ったので、将軍足利義教が これを討った戦い、いわゆる結城合戦において、結番帳には従軍した信濃の将士の名が記されており、 その中の信濃の雄である村上頼清に従って出陣した武将の中に、真田源太、真田源五、真田源六の名が記されている。 |
応仁元年(1467年) 応仁の乱 | |
応仁2年(1468年) 海野大乱 |
小県郡をめぐって海野氏幸と村上頼清の戦いが起こった。 かつての大塔合戦では、味方同士であったが、守護小笠原氏の衰退に伴って、ともに勢力を拡張させていき、 所領の境界をめぐって争いが起こったものと思われる。村上氏が攻勢に出て海野領に侵攻したとされる。 この時点での真田氏の動向は不明であるが、真田郷の洗馬城が戦場になったこともあり、真田は海野一族との意識からすれば、 当然村上氏に対抗したことが予測される。村上氏が小県郡へ進出し、滋野一族は徐々に圧迫されて、所領を縮小させていく。 |
文明16年(1484年) 村上氏v.s.大井氏 | 2月、佐久郡の名族大井氏が村上氏によって攻められ没落する。 |
享禄元年(1528年) 神戸合戦 堺川合戦 |
8月、神戸・堺川合戦で武田信虎は諏訪氏に敗れる。 飫富虎昌らが諏訪方に味方したとされている。 |
天文5年(1536年) 海ノ口城合戦 |
武田信虎が佐久郡へ出兵する。海ノ口城の平賀源心斎を攻める。 武田晴信の初陣の戦いといわれている。 |
天文10年(1541年) 海野平合戦 村上氏v.s.山内上杉氏 |
5月、武田信虎が村上義清と諏訪頼重を誘って、東信濃の海野一族を討った。 海野棟綱とその娘婿真田幸隆は上州へ逃亡した。 真田幸隆は上州へ逃れる際、祖先の墓が敵に辱められるのを恐れて破壊する。 祢津氏と矢沢氏は神氏ということで降伏を許された。 7月、関東管領上杉憲政は、海野棟綱の乞いにより村上義清を攻めるため佐久、小県に出兵。 武田信虎は嫡男武田晴信に追われる。 |
天文11年(1542年) 武田氏v.s.諏訪氏 |
7月、武田晴信は妹婿諏訪頼重を滅ぼし、
諏訪郡を占領する。さらに佐久方面への侵攻を再開した。 12月、祢津元直の娘(祢津姫)が武田晴信の側室として嫁ぐ。 |
天文12年(1543年) 武田氏v.s.大井氏 武田氏v.s.望月氏 |
真田幸隆は武田晴信に仕え佐久郡岩尾城代となり、信州先方衆として活躍を始める。 武田晴信は小県郡長窪城の大井貞隆を攻め捕らえる。 ついで望月一族を成敗する。 |
天文15年(1546年) 武田氏v.s.大井氏 |
5月、武田晴信は佐久郡内山城の大井貞清を攻め滅ぼす。 武田晴信はさらに佐久志賀城や小田井原城を攻略する。 |
天文16年(1547年) 小田井原合戦 武田氏v.s.山内上杉氏 |
8月、武田晴信が志賀城の志賀清繁(笠原清繁)を攻める。 上野国から上杉憲政の援軍として金井秀景が来襲するが、小田井原で迎え撃つ。 武田方は板垣信方を大将として、 飫富虎昌、上原昌辰とともに真田幸隆が参戦して勝利する。 |
天文17年(1548年) 上田原合戦 |
真田幸隆は、武田晴信の家臣として上田原で村上義清と戦う。
この戦で武田方は、板垣信方や甘利虎泰などの重臣を戦死で失っている。 2月22日、村上義清は上野国高山(安中)の小領主小林氏に佐久郡の知行を条件に援軍を要請。 すでに板垣信方ほかを討取り、武田方の敗北は時間の問題だと伝えている。 |
天文18年(1549年) 塩尻峠合戦 武田氏v.s.大井氏 |
3月、真田幸隆は望月一族を懐柔。望月源三郎、望月新六郎が武田氏に服属し、
真田幸隆は所領安堵の朱印状を望月源三郎に伝達した。
真田幸隆の活躍が確実な文献に見える最初である。
真田幸隆の工作に応じて蘆田氏(依田新左衛門)、伴野氏らも武田方に降る。 7月、小笠原長時が武田方を急襲したが、武田晴信は迎え撃った。 4月、武田晴信が佐久春日城を攻略。 9月、武田晴信が佐久前山城を攻略。佐久平原城を焼く。真田幸隆も参戦している。 |
天文19年(1550年) 村上氏v.s.武田氏 戸石崩れ |
8月、武田晴信は大兵を率いて村上氏の戸石城を囲む。 10月、真田幸隆は村上家に属する川中島平の須田氏、寺尾氏、清野氏、春原(須野原)氏らを味方にすることに成功。 村上義清は高梨政頼と手を組み、武田に寝返った清野氏の寺尾城を攻める。清野氏からの報せに驚いた真田幸隆は、 武田晴信に急報し、自らは寺尾城救援に赴く。 11月1日、攻囲1ヶ月に及んだが、落城させることができず、囲みを解いて退却した。 真田幸隆は善光寺平へ進んで村上義清の背後を撹乱していたが、急遽、武田晴信の本陣へ帰り、 情況の急変を告げた。北信濃の反乱を鎮めた村上義清が、全力を奮って戸石城の救援に来るという報告だったらしい。 攻城が失敗しての退却は極めて危険であり、戸石城攻めは完全に失敗であったが、武田晴信はギリギリの機を逃さず戦場を離脱したのである。 これは退却の最後のチャンスを生かしたものであり、真田幸隆の献策が与って力があったことは疑いない。 真田幸隆は、武田晴信より諏訪形1000貫文の地を与えられる。 |
天文20年(1551年) 村上氏v.s.真田氏 |
5月26日、真田幸隆は戸石城を不意を襲って乗っ取る。 7月25日、武田晴信が信濃に出陣する旨を飫富虎昌が真田幸隆に連絡する。 これは飫富虎昌と上原昌辰宛ての武田晴信の書状であり、 武田晴信が佐久、小県郡へ出馬することを伝えた後、「尚、この趣、真田方へ物語り有るべく候」とあって、 佐久郡小諸城主飫富虎昌、内山城主上原昌辰と同列に扱っていることにより、 真田幸隆の武田家臣としての地位が固まったことが明らかである。 |
天文22年(1553年) 川中島合戦 |
4月9日、宿敵村上義清は武田方によって葛尾城を攻落され、長尾景虎を頼って越後へ亡命している。
ここでも真田幸隆は大須賀氏を調略しており、真田幸隆の活躍が大きかったことが窺える。
真田幸隆は戸石城の普請の実務担当をつとめた。 8月10日、真田昌幸を人質として甲府へ送る。代わりに真田幸隆は、武田晴信から 上田秋和の350貫の地を与えられる。真田昌幸が奥近習衆(小姓)に出仕した頃、 曽根総次郎、曽根与一、金丸平八郎(土屋昌恒)、三枝勘解由、三枝新十郎含めた6名があげられる。 |
弘治2年(1556年) 長尾氏v.s.武田氏 | 真田幸隆は埴科郡東條の雨飾城を攻め落とし、城将となる。 |
永禄4年(1561年) 長尾氏v.s.武田氏 |
5月、真田幸隆は西上野に出陣。 9月21日、真田幸隆・真田信綱父子、川中島合戦に参戦。 武田信玄(武田晴信)と上杉謙信(長尾景虎)の一騎撃ちとして伝えられる。 真田幸隆・真田信綱父子は、妻女山を攻める。 斎藤憲広によって鎌原城を攻め落とされ、羽尾幸全が斎藤方として城代となる。 真田幸隆は甘利昌忠とともに鎌原城を奪還する。 |
永禄6年(1563年) 長野原合戦 |
3月、三原荘をめぐって鎌原氏と羽尾氏の争いが再燃する。 9月、斎藤憲広は越後上杉家の後ろ盾により長野原城へ進軍。 常田隆家が城代として守っていたが落城。 真田幸隆は岩櫃城を攻めていたが、戦局は思わしくなく和議を余儀なくされる。 羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟が武田方に内応する。 真田幸隆は羽尾幸光・羽尾輝幸兄弟の助力により斎藤実憲を調略する。 10月13日、真田幸隆は上野国吾妻郡の岩櫃城を攻略する。 岩櫃城を鎌原幸重と湯本善太夫に城代として任せる。 |
永禄8年(1565年) 越後上杉氏v.s.武田氏 | 11月、上野嶽山城の斎藤憲広の家老である池田重安が城を脱出して真田幸隆に降る。 真田幸隆は嶽山城を攻略する。真田幸隆が吾妻郡代となる。 吾妻衆への感状や知行宛行状には真田幸隆により行われ、それを受けて武田方の窓口は甘利昌忠が行っている。 |
永禄9年(1566年) 長野氏v.s.武田氏 越後上杉氏v.s.武田氏 |
武田晴信、上野箕輪城を攻略。 羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟が岩櫃城代となり、吾妻衆70騎の与力と城を守る。 武田晴信が嫡男武田義信の謀反の疑いありとして、自害を命じる。 このとき武田晴信は家臣団の動揺を防ぐためにほぼ全領域の家臣団から起請文を徴収した。 この中で真田氏に関係ある地域のものは、小県郡では、室賀信俊、海野幸貞、祢津政直、祢津直吉、 望月信雅、依田信守(依田信盛)、小泉一族、 吾妻領では、浦野幸次、海野衆では真田綱吉らの名前がみえる。 |
永禄10年(1567年) 越後上杉氏v.s.武田氏 |
3月6日、真田幸隆は上杉一族長尾憲景が籠る白井城を攻略する。
白井城攻略に関しては永禄8年から元亀3年までの間で諸説はあるが、 11月23日白井城代を勤めていた祢津政直宛に武田晴信より知行が宛行われている。 |
永禄12年(1569年) 三増峠合戦 |
武田晴信が駿河蒲原城を陥れ、その旨を真田幸隆・真田信綱父子に知らせる。 10月6日、武田晴信は相模北條家の小田原城を攻囲する。 |
元亀3年(1572年) 三方ヶ原合戦 越後上杉氏v.s.武田氏 |
三方ヶ原で武田晴信は徳川家康を破る。 武田晴信は川中島地方からの逃亡者の逮捕を、 小県の諸領主、祢津松鴎軒(祢津常安斎政直)・真田信綱・室賀大和入道・浦野源一郎・小泉昌宗らに命じる。 3月、真田幸隆は上野白井城を攻め、計略で落とす。 それを賞した武田晴信は、箕輪城に在城している春日虎綱(高坂弾正昌信)の指示を受けるよう命じる。 |
天正元年(1573年) 越後上杉氏v.s.武田氏 |
3月、白井城が上杉方に奪われる。真田幸隆は上野にて上杉軍と戦う。 4月12日、武田晴信が伊那郡駒場で没する。 |
天正3年(1575年) 長篠合戦 | 5月21日、武田勝頼が織田信長・徳川家康連合軍に大敗。 真田信綱、真田昌輝がともに戦死する。 真田信綱は享年39歳、真田昌輝は享年33歳。 三男武藤喜兵衛が本姓の真田昌幸に復して真田家を嗣いだ。 |
天正4年(1576年) 越後上杉氏v.s.武田氏 |
4月、矢沢頼綱が沼田城に攻撃を加える。武田勝頼はこの報を耳にし、助勢を命じる。 5月23日、真田昌幸は沼田城に入城していた羽尾幸光らに武田勝頼の指示により軍令を発する。 9月10日、武田勝頼は女淵城主新井図書の動向を真田昌幸に探らせる。 |
天正6年(1578年) 御館の乱 | 3月、越後の上杉謙信が死んで、養子の間に相続争いが起こり、越後が乱れると、 上州方面への上杉の圧力が弱まってたのに乗じて、真田昌幸は上州への経略を進める。 |
天正7年(1579年) 越後上杉氏v.s.真田氏 | 3月17日、真田昌幸は上野吾妻郡の地侍羽尾幸光らに上野中山城と尻高城を奪取したと報じる。 |
天正8年(1580年) 越後上杉氏v.s.真田氏 |
4月26日、真田昌幸は沼田城潜入を田村角内に命じ、籾50俵を与える。 5月4日、上野猿ヶ京三ノ曲輪に放火した中沢半右衛門に荒牧10貫文を宛行う。 真田昌幸は上州名胡桃城と小川城を攻略する。 沼田城将藤田信吉が武田方に降る。 真田昌幸はついに要衝沼田城の招降に成功した。 5月23日、真田昌幸は沼田・吾妻に法度を発する。 武田晴信亡き後、武田の勢力は日々に縮まりつつあったことから、 これは真田昌幸の力によるもので、真田昌幸が自立の方向に歩み始めていることを物語っている。 |
天正9年(1581年) 越後上杉氏v.s.真田氏 |
7月10日、真田昌幸は内応した須田新左衛門に南雲20貫文を与え、また屋敷地などを安堵。 岩櫃城代をつとめる羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟が、相模北條家重臣の猪俣邦憲の誘いに応じて 真田昌幸に反旗を翻す。 矢沢頼綱や吾妻衆の活躍により事なきを得たが、真田昌幸の沼田領掌握が不安定なものであったことをしめしている。 真田昌幸は沼田城に矢沢頼綱を城代として入れ、岩櫃城は池田氏、鎌原氏、湯本氏の3名に預けて守りの体制を強化した。 |
天正10年(1582年) 織田氏v.s.武田氏 本能寺の変 北條氏v.s.真田氏 |
武田氏滅亡の時、真田昌幸は武田勝頼を上州岩櫃城に迎えようとしたが、武田勝頼は、
真田は外様だから信用できぬと言う小山田信茂の居城岩殿城へ入ろうとしたが、
小山田信茂の謀反によって討ち取られた。
ただし、これは『甲陽軍鑑』の伝えるところで、事実に反しているともいわれる。 2月、真田昌幸は武蔵鉢形城主北條氏邦を通じて北條氏直と連絡をとっており、 武田と共倒れになるつもりなどは全くなかった、というのが真相のようだ。 3月4日、真田昌幸は2500騎を率いて岩櫃城を立ち、戸石城へ入る。 祢津氏、室賀氏により高遠城の陥落と織田勢が今にも攻めてくるとの報せを受ける。真田家は一族とともに守りを固める。 3月11日、武田勝頼一族が天目山で自刃。 4月8日、真田昌幸は織田信長に馬を贈って臣従の意を表明した。 6月2日、織田信長が殺されると、上杉景勝に従う。 7月、北條氏直は東信濃に侵入、北信濃に侵入した上杉景勝と対陣したが、 この時は真田昌幸は蘆田氏、高坂氏、小笠原氏ら信濃国衆と談合して北條氏に属している。 9月、真田昌幸は弟加津野信尹らの勧めで、徳川家康に属す。 9月19日、徳川家康が屋代秀正に真田昌幸が徳川方に身を投じたことを報じる。 10月14日、真田昌幸は羽尾城に湯本三郎右衛門を城代に任命し、普請を命じる。 10月22日、真田昌幸は正式に相模北條家から離脱。報復の為に北條氏直が信濃佐久と上野吾妻へ兵を進める。 10月、徳川・北條の和議が成立し、真田昌幸は独立の地位を確保した。 |
天正11年(1583年) 丸子合戦 徳川氏v.s.大井氏 徳川氏v.s.越後上杉氏 |
1月、小県郡依田窪の丸子氏を中心とする地侍が徳川家に反発。
真田昌幸、真田信尹の兄弟がその制圧に向っている。 2月22日、佐久郡岩尾城の大井氏を依田信蕃が攻める。 しかし攻略に失敗し、依田信蕃、依田信幸兄弟が戦死してしまう。 真田昌幸は千曲川の河岸段丘の上(尼ヶ淵)に上田城を築いた。 3月、真田昌幸は、埴科郡虚空蔵山にて上杉景勝軍を破る。 3月14日、上杉家に属していた更科郡屋代勝永が徳川家に従う。 4月、屋代勝永の兄室賀満俊も徳川家に従う。 9月29日、徳川家を離反し北條家についていた祢津信光(祢津昌綱)が再び徳川家に従い、本領安堵状を受けている。 |
天正12年(1584年) 小牧長久手合戦 |
真田昌幸は小県郡で対立していた室賀正俊を上田城に招いて謀殺する。 小牧長久手合戦で徳川軍は全軍結集されており、 手薄になった小県郡の統一と掌握を進めた真田家に対抗できる在地領主は祢津家を残すのみとなった。 真田昌幸は徳川家康が新知宛状の約束を実行していないことと、まず沼田領の譲渡が先との条件を不満として、 徳川家に従うべきとの重臣の意見を退けたという。 真田昌幸は徳川家康との対決を決断したわけであり、当然、北條家との対立激化も予想されている。 他大名との関係で独立した外交権を有していたことなどを指標とするならば、 すでにこの段階の真田家は大名化を遂げていたと見るべきであろう。 |
天正13年(1585年) 第一次上田合戦 |
5月8日、真田昌幸の調略により上杉家を離反した高井郡福島城の須田信正が、上杉景勝の命により
川中島海津城代の上條氏に成敗される。 6月12日、海津城代には上條氏に替わって須田満親がなる。 7月、真田昌幸は上杉景勝に和を乞い、徳川と手を切る。次男真田幸村と従弟矢沢頼康を人質として 上杉方(春日山城)へ送った。7月15日、上杉景勝は起請文で真田昌幸に、沼田・吾妻・小県などの他に、 屋代一跡(屋代秀正の旧領)も給付する、としている。 この安堵状から真田幸村が屋代氏の旧領を上杉景勝から与えられ、既に独自の家臣を持とうとしていた様を知ることができる。 なお、屋代旧臣諏訪久三の本領をそのまま安堵するとしている。 上杉景勝は海津城代の須田満親を上田城近くの地蔵峠まで兵を進め、徳川勢を牽制する。 閏8月2日、徳川家康は鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世らに信濃の諸将を付し、 遭わせて7000余の兵を派して上田城を攻めるが、1300余の戦死者を出して敗れた。 支城戸石城には長男真田信幸が籠った。 真田昌幸・真田信幸父子は国分寺で徳川軍を破り、天下に勇名を轟かす。 徳川勢はなおしばらく付近に滞陣して井伊直政の5000余の援軍で支城丸子城を攻めたが、これも落とせなかった。 9月、北條氏邦と北條氏照を大将に北條勢が沼田城へ3万8000の軍勢で攻める。 矢沢頼綱と沼田衆は上田からの援軍は望めず、籠城する。 9月29日、北條勢は真田方の守りの固さに落城させることが出来ずに退陣している。 11月13日、石川数正が出奔したため、信州出陣の諸将は呼び返された。 木曾義昌や小笠原貞慶らも徳川家を離反し豊臣方についている。 小笠原氏が伊那郡に乱入し保科氏と衝突している。 |
天正14年(1586年) 真田討伐中止 |
7月、徳川家康が真田昌幸討伐のため駿河まで出馬するが、豊臣秀吉の斡旋で延引となる。
それまで真田昌幸に向かって、徳川家康を討つと広言していた豊臣秀吉が、徳川家康と和睦し、
真田昌幸に徳川家康に臣従するよう命じた。 9月、真田討伐は中止。9月7日、真田昌幸は中山城攻めに参加した林弾左衛門に、割田新兵衛の旧領を与える。 11月、真田昌幸は止む無く豊臣秀吉の命に従い、長男真田信幸を徳川家康に出仕させた。人質の意味である。 |
天正17年(1589年) 小田原征伐 |
11月、真田信幸は豊臣秀吉の命で沼田城を北條氏直に渡す。名胡桃城は真田氏に残すものとなった。 11月3日、真田昌幸は、上野吾妻や沼田城付近の祢津幸直、塚本肥前守、折田軍兵衛らの知行を信濃国内に切り換える。 11月12日、真田昌幸は上野名胡桃城に鉄砲15挺を入れる。 北條氏直の家臣猪俣邦憲が名胡桃城を奪取し、鈴木主水重則が討死する。 豊臣秀吉は、北條氏討伐の命令を下す。 真田幸村は豊臣秀吉に従って小田原攻めに加わり華々しい高名を稼ぐ。 |
文禄元年(1592年) 文禄の役 |
真田幸村は豊臣秀吉の馬廻りとして名護屋に在陣。 豊臣家の奉行大谷吉継の面倒を受けるようになる。 |
慶長5年(1600年) 関ヶ原合戦 |
徳川家康が上杉景勝征伐を名として関東に下ると、真田昌幸はそれに従った。 7月21日、真田昌幸が下野国犬伏に陣をとっている時、石田三成の密使が来た。 真田昌幸の娘は宇田頼忠の嫡男宇田頼次に嫁いでいた。 また、真田幸村の義父大谷吉継も石田三成に与していることから、 真田昌幸・真田幸村父子は石田三成を見殺しにできぬ立場にあった。 真田昌幸・真田幸村父子は即日石田方へ属する決心をし、徳川の陣を離れて上田城へ急行した。 一方、真田信幸の妻(小松殿)は徳川四天王の1人本多忠勝の娘で、 これまた徳川を裏切ることはできぬ立場にあった。 真田信幸は小山の徳川秀忠の本陣へ駆けつけ、父の離反と自分の異心のないことを告げた。 8月24日、徳川秀忠は宇都宮を発して中山道を西上の途につき、 9月1日、徳川家康は江戸城を発して東海道を西上した。 9月2日、徳川秀忠は小諸城に入り、真田昌幸の招降に数日を空費する。 9月6日、徳川秀忠は真田昌幸・真田幸村の籠る上田城を攻めたが、 城壁近くへおびき寄せられて反撃され、手痛い損害を受けた。 徳川秀忠を輔佐して指揮に当たっていた本多正信は諸隊の軍令違反を厳しく責め、大久保忠隣旗奉行の杉文勝、牧野康成旗奉行の熱(にえ)掃部に死を命じた。 牧野康成は先の上田城攻めにも加わっており、2度にわたって貧乏くじを引いたことになる。 敵将を前にして味方の重要な地位にある者を自殺させるなど、徳川勢の混乱ぶりが伺われる。 空しく数日を送った徳川秀忠は上田城攻略の見込みが立たぬと見て、押さえの軍を残して上方へ急行したが、ついに関ヶ原の合戦には間に合わなかった。 徳川秀忠率いる酒井・榊原・本多・大久保ら譜代の精兵3万8000、諸大名軍3万、合せて7万の大軍が潮のように襲いかかったわけだが、 城を陥すことはできず、やむなく徳川家康の本隊の後を追ったが、関ヶ原に辿りついた時、 すでに合戦は終わっていたといわけである。 しかし、関ヶ原合戦は石田方の大敗に終り、戦後、真田信幸は恩賞にかえて父弟の助命を乞い、真田昌幸と真田幸村は死一等を減じられて高野山へ流された。 池田長門守以下16名の随臣の名がみえる。 真田信幸は「信之」と改名する。 |
慶長19年(1614年) 大阪冬の陣 |
5月25日、徳川家康は大砲とともに火薬や鉛を購入した。
徳川家康は、京都方広寺大仏殿の釣鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」は徳川家康を呪い、豊臣家を君主として末長く豊臣の世を楽しむためだという。
大人気ない言いがかりをつけて大阪討伐の口実をでっち上げた。 10月9日、豊臣秀頼の使者が大金(現在の金額にして30億)を持って配所を訪れ、真田幸村の大阪入城を勧めた。 紀伊の国主浅野長晟は、かねて真田幸村の動向に気をつけるよう九度山辺りの名主や年寄りに命じていたが、 真田幸村は身辺を去らなかった家来と家族を連れてどうどうと山を下り、入城した。 近郷近在の名主や年寄りらを数百人集めて大盤振舞いをし、連中が酔いつぶれているすきに九度山を脱出したとも伝えられる。 大阪城では大野治長・大野治房・大野治胤の3兄弟が権力を握り、勇将・猛卒も少なくないが、 何分寄集めで団結力が甚だ乏しく、ことに首脳部の指揮能力は薄弱であった。 大阪城に入った知名度の高い武将といえば、真田幸村のほかに長宗我部宮内少輔盛親、後藤又兵衛基次などがいたが、 大名は1人としていなかった。大阪城中では淀殿が軍議にも何かと口出しをし、真田幸村ら浪人を疎んじていた。 真田幸村の出撃論は無視され、籠城戦にも大野治長、後藤又兵衛、木村長門守重成、渡辺内蔵助、 明石掃部助、毛利主馬、長宗我部盛親、毛利豊前守、仙石豊前守らは絶対的な一致団結の精神を欠いていた。 11月19日、戦が始まる。 12月4日、真田丸に籠って徳川方を撃破する。石川康勝の火薬桶の中に火縄を誤って落としたため大爆発。 城内の内応者の合図と早合点した前田・松平・井伊隊は突撃したが真田隊の思うがままの標的になって撃破された。 12月6日、小幡勘兵衛の内応を未然に防ぎ、黒門口で徳川家康本陣を大混乱に陥らす。 12月11日、面子にかけて徳川家康は全軍で真田丸を攻撃。徳川家康が指揮していた井楼は望月六郎兵衛の放った大筒で吹き飛んだ。 徳川家康は運よく井楼から下りていて命を助かった。徳川家康は作戦を中止して茶臼山の本陣へ帰った。 真田信尹が真田幸村を勧誘しにきた。 12月20日、和議が成立。 |
元和元年(1615年) 大阪夏の陣 |
4月29日、塙団右衛門が浅野長晟との合戦で戦死した。 5月5日、徳川家康が出陣命令を下す。 5月6日、道明寺合戦で後藤又兵衛・薄田隼人らが戦死。 真田幸村は徳川軍総大将水野勝成・本多忠政・松平忠明・伊達政宗と激闘する。 伊達政宗隊と善戦していたが、豊臣秀頼からの撤退命令が出された。 真田幸村は、もっとも困難な殿を勤めて城中へ退いた。 徳川方は撤退する真田隊に結局手を出せなかったという。 5月7日、真田幸村は嫡男真田大助を大阪城へ帰し、豊臣秀頼に二心のないことを証明した。 真田隊の主だった武将は真田与左衛門・江原右近・大谷大学・御宿政友・細川興秋・福富平蔵・渡辺内蔵助など3500の精鋭であった。 対峙する徳川方は前日の藤堂・井伊両隊が苦戦しているのを見ながら合力しなかったために徳川家康からこっぴどく叱責をうけた松平忠直であった。 最後の合戦に真田隊は目指すは「家康の首」だけを合言葉に1つの火の玉となって徳川家康の本陣に襲いかかり、 旗本を追い散らし、徳川家康を危機に陥れた。3度にわたって突撃を繰り返した真田幸村は、 さすがに手傷を負い、鉄砲隊頭の西尾久作に討ち取られた。享年49歳。 5月8日、嫡男真田大助は豊臣秀頼に殉死した。享年16歳である。 |