小助の部屋/駿河今川氏/岡崎松平氏/尾張織田氏
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今川良真
1517〜1536年
玄広恵探、花蔵殿、花倉殿ともいう。
今川氏親
の三男。 永正14年(1517年)に生まれる。母は今川氏の重臣
福島左衛門
の娘。
今川氏親
の側室の子として生まれたため、早くに出家して花倉の遍照光寺(静岡県藤枝市)の住持となる。 天文5年(1536年)、今川氏当主
今川氏輝
と弟
今川彦五郎
が相次いで急死したため、
今川氏輝
の母
寿桂尼
は出家していた我が子の
梅岳承芳
を還俗させて
今川義元
と名乗らせ、 家督を継がせようとした。 これに反対して、
今川氏真(玄広恵探)
は福島氏に擁されて挙兵し花倉城に拠るが、
梅岳承芳
派に攻められて自害する。これが世に言う花倉の乱である。
福島正成
1492〜1536年
九島正成、兵庫、上総介ともいう。遠江土方城城主。
明応元年(1492年)、
福島基正
の長男として生まれる。
大永元年(1521年)11月23日、駿河から甲斐へ乱入し、上條河原で
武田信虎
と戦うが大敗。 武田氏
原虎胤
に追われるがほうほうのていで逃れた。
天文5年(1536年)6月8日、
今川氏親
の側室が福島氏であったため、その子
玄広恵探(今川良真)
を擁し挙兵。
梅岳承芳(今川義元)
と戦うことになり、大敗。敗走し
武田信虎
を頼るが討たれた。
花倉の乱後は福島一族は今川氏に仕えるわけにはいかず、武田氏にも見放されたことで北條氏を頼った。
福島正成
の嫡男
福島綱成
は玉縄城主
北条為昌
を嗣ぎ
北條綱成
と北條姓を賜わったほどまでに出世。 次男
福島綱房(福島綱広)
、三男
福島勝広
、四男
福島備前守(梶原備前守)
らがいて、それぞれ北條氏で活躍した。
福島綱成
には長男
福島氏繁
、次男
福島氏秀
、三男
福島康成
がいて、
福島氏繁
には長男
福島氏舜
、次男
福島氏勝
、三男
福島繁広
、四男
福島直重
、五男
福島直胤(千葉直胤)
らがいる。
朝比奈駿河守信置
1528〜1582年
朝比奈秀盛、朝日奈信置、朝比奈政貞、朝日奈政貞、右兵衛大夫ともいう。
朝比奈元長(朝比奈丹波守親徳)
の長男。駿河朝比奈氏。
駿河先方衆。用宗城主。持舟城主。庵原山城主。150騎持。
今川義元
の娘婿。
小豆坂合戦で大功を立てて名を馳せる。
今川義元
が討たれ、
今川良真
の代になると、
武田晴信
が駿河侵攻をはじめる。 永禄11年(1568年)、持舟城に拠って
朝比奈信置
は今川氏を見限り武田氏に寝返る。150騎持ちの侍隊将として迎えられ、
武田晴信
の一字を賜るなど、重用される。 駿河先方衆として
山縣昌景
の配下に加わり、庵原山城を守る。
武田勝頼
が討たれ武田氏滅亡後は蒲原城を守り、徳川家康と戦うが、自害した(謀殺されたともいう)。
朝比奈信置
には長男
朝比奈信良(朝比奈信重)
、次男
朝比奈元永
、三男
朝比奈宗利
、四男
朝比奈信清
がいる。
朝比奈信良
には長男
朝比奈良保
がおり、
跡部昌秀
を嗣ぐ。
朝比奈良保(跡部良保)
には長男
朝比奈良隆
がいる。
朝比奈宗利
には長男
朝比奈良明
がいる。
朝比奈元長
には次男
朝比奈一昌
もいたとされ、
武田晴信
に仕えた。
奥平美作守貞能
1537〜1598年
奥平牧斎、監物ともいう。
奥平貞勝
の長男。三河山家三方衆。作手亀山城主。武節城主。
牧野成種
の娘婿。150騎持。
父
奥平九八郎貞勝(奥平道文)
は
水野忠政
の妹を娶り(後室として
菅沼定継
の妹を娶っている)、
奥平貞能
は天文6年(1537年)に生まれる。
奥平貞勝
は、享禄3年(1530年)5月、
松平清康
が八名郡の宇利城を攻めると、これに従軍。 搦手門から攻め入り、功を挙げたという。 その後、
松平清康
が守山崩れで横死すると今川氏に転属。 天文11年(1542年)、対
織田信秀
戦の小豆坂合戦では岡崎勢の与力に付けられる。 弘治2年(1556年)、前室の縁で
水野信元
からの織田家への誘いを受けると、 これに応じ、今川氏を離反。 さらに縁戚の田峯菅沼氏まで誘って蜂起した。 しかし半年程度で、今川勢に鎮圧されて再属を余儀なくされた。 永禄3年(1560年)5月、
今川義元
の尾張侵攻に参戦。
松平元康(徳川家康)
の与力として、大高城への兵糧運び入れを支援するが、 桶狭間合戦で
今川義元
が
織田信長
に敗死し本隊が崩れると自領に退却した。 その後、東三河の諸家が挙って松平氏へ転属することとなっても事態を静観。 今川氏の三河支配権回復が見込めないことを見定めてから、
今川氏真
から離反。
徳川家康
へ転仕した。 永禄11年(1568年)12月、
徳川家康
の遠江侵攻に従い、 長男
奥平貞能
に参戦させている。
奥平貞勝
は隠居する(文禄4年(1595年)で没する)。
奥平貞能
は、元亀元年(1570年)6月28日の姉川合戦にも、
織田信長
への援軍として駆けつけた
徳川家康
軍として参戦する。 翌年元亀2年(1571年)から、
武田晴信
の三河侵攻が活発化。
織田信長
と
徳川家康
の関係を遮断し三河撹乱をもうろむ武田軍の先遣
秋山信友
が侵攻するも、それまでの力攻めから方針を改めて、 降伏の使者を送り出してきた。奥平氏へもその使者が来訪するが、
奥平貞能
の意思としては断固拒絶。
徳川家康
への臣従を貫くつもりでいた。 だが、隠居の父
奥平貞勝(奥平道文)
の発言力が勝っていたため、 以後は武田軍として三河、遠江の各地を転戦。三方ヶ原合戦などに
武田晴信
の臣として参戦している。 元亀4年(1573年)、野田城を降しながら撤退する武田軍を不審に思っていたが、 やがて、秘匿されていた
武田晴信
の死に確信を深める。 元亀4年(1573年)夏、三河長篠城の救援に間に合わなかった武田軍のなかで次第に立場を悪くしたため、 天正元年(1573年)8月21日、
武田晴信
の後を継いだ
武田勝頼
から離反して、
徳川家康
への再属を決断する。 一族郎党の大半を率いての亀山城退去が、のちの長篠の戦いの遠因になった。 離反を成功させたようでも突発的だったためか、差し出していた人質の安全にまでは手を回せなかった。 離反から5日後の8月26日には、次男
奥平貞元
をはじめとした人質3人が磔刑に処せられている。 武節城主をつとめ、長篠合戦では案内役をつとめた。のちに剃髪し牧斎と名のっている。
奥平貞能
は、この天正元年(1573年)のうちに、 長男
奥平信昌
に家督を譲って隠居したが、実権は握りつづけたという。 それというのも、
奥平貞能
自身は
徳川家康
のもとにあって、 奥三河の地勢や人物関係を教える助言役に徹していたといわれている。
徳川家康
のもとでの
奥平貞能
の存在とは、そのまま対武田との最前線で身命を賭しつづける奥平将士と彼らを束ねる嫡男
奥平信昌
の命綱であったとも言えるのである。 そして、天正3年(1575年)5月の長篠合戦で、戦勝に大いに貢献した奥平氏。 だが、戦後の
奥平貞能
は、
織田信長
と
徳川家康
の両将から見込まれた嫡男
奥平信昌
を引き立たせるべく、 表舞台から完全に退いている。 その
奥平貞能
が、天正18年(1590年)3月、小田原遠征の途中で三河国額田郡長沢に逗留した
豊臣秀吉
から招かれ、 長篠の戦話などを所望された。 その褒美として呉服を拝領し、都住まいを奨められている。
豊臣秀吉
の相伴衆(2000石)になったきっかけである。 こんな隠居者の上京に対し、
豊臣秀吉
はわざわざ美作守叙任の労をとるほどだった。
豊臣秀吉
薨去の際には、形見分けとして茶器や黄金を拝領した。 慶長3年(1598年)12月11日、伏見において病で没した。62歳。 戒名は昌院殿牧庵道渓大居士。
奥平貞勝
には長男
奥平貞能
のほか、次男
奥平常勝
、三男
奥平貞治
がいる。
奥平貞能
には長男
奥平九八郎信昌(奥平美作守貞昌)
、次男
奥平貞元
、さらには
本多広孝
の次男
本多重純
に嫁いだ娘もいる。
奥平信昌
も父
奥平貞能
とともに主家を何度も替えている。
奥平信昌
は一族
奥平久兵衛
の娘を娶って三男をもうけていたが、 長篠合戦で徳川の臣として長篠城を守りぬく功をあげ、天正4年(1576年)に
徳川家康
の長女(亀姫)を娶っている。 これにより有力譜代としての地位を確立。 武田氏に人質として差し出されていた
牧野成種
の娘や弟は長篠合戦のときに磔刑に処せられ、意に感じた
徳川家康
が娘婿として迎えたという。
織田信長
から偏諱を与えられ、
徳川家康
からは3000貫文の知行を与えられる。 関東入府のおりには上野国小幡城3万石の大名となった。 甲斐侵攻戦、小牧長久手合戦、さらに関ヶ原合戦では
安国寺恵瓊
を捕える功をあげ、家名を繁栄させた。
奥平信昌
の四男
奥平忠明
は
徳川家康
の養子となっている。
遠山景任
1529〜1572年
遠山内匠助、勘太郎ともいう。美濃岩村城城主。
遠山景前
の嫡男。
織田信長
姉婿であり、
織田信長
の五男
織田勝長
を養子に迎えていた。 ところが元亀3年(1572年)11月に
武田晴信
の重臣
秋山信友
に攻落され、
織田勝長
は人質として甲斐に送られ、
武田晴信
の養子となった。
遠山景任
には養子
織田勝長
以外にも、長男
遠山利景
、次男
遠山景行
がいたとされる。