小助の部屋/信濃諏訪氏/信濃小笠原氏/信濃木曽氏
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小笠原長棟
1492〜1542年
小笠原信濃守ともいう。
小笠原貞朝
の次男。
林城主。
天文3年(1534年)に
小笠原長棟
は伊那の松尾小笠原氏を圧倒し、松尾城に次男
小笠原信定
をおいた。 国人統制が上手くいかず、一族も分裂してしまい、充分な領国制を確立できないまま戦国期に突入していた小笠原氏にあって、
小笠原長棟
は、ようやく長年分裂していた小笠原家を統一する。 不和だった諏訪家と天文8年(1539年)6月に和解するなど、戦国大名としての地盤を築く。
小笠原長棟
には長男
小笠原長時
、次男
小笠原信定
、三男
小笠原頼貞(小笠原清艦)
、 四男
小笠原貞種
、五男
小笠原統虎
らがいる。 父
小笠原貞朝
には長男
小笠原長高
、次男
小笠原長棟
、三男
小笠原兵庫頭定政(小笠原宗政)
、四男
小笠原長利
がいる。
小笠原定政
の長男は
小笠原下総守長政
、
小笠原長政
の長男は
小笠原民部大輔信綱
。
小笠原長高
は高天神小笠原氏祖といわれ、高天神城を領した。
小笠原長高
には長男
小笠原春茂
がおり、
小笠原氏興
、
小笠原長忠
とつづく。 次男は
小笠原春義
で、
小笠原春義
には長男
小笠原氏清
がいる。
小笠原氏は甲斐武田氏と祖を同じくし、
小笠原長清
からはじまり、
小笠原長経
へつづき、
小笠原長経
の次男
小笠原長忠
から、
小笠原長政
、
小笠原長氏
とつづく。
小笠原長氏
の次男
小笠原宗長
から、
小笠原宗長
の次男
小笠原貞宗
へ、さらに
小笠原政長
、
小笠原長基
へとつづき、
小笠原長基
の次男
小笠原長秀
から、
小笠原持長
、
小笠原清宗
、
小笠原長朝
、
小笠原貞朝
へとつづく。 一族として跡部氏、下條氏、矢田氏、丸毛氏、常葉氏、赤沢氏、津毛氏らに分かれ、繁栄した。
小笠原長時
1519〜1583年
小笠原信濃守ともいう。
小笠原長棟
の嫡男。
林城主。天文10年(1541年)に家督を相続する。 天文11年(1542年)に父
小笠原長棟
が死去し、小笠原一族の総領として、信濃への侵入をはかる
武田晴信
と対立していく。 2月には
村上義清
と甲斐へ侵攻し、瀬沢で迎撃され敗走。 天文14年(1545年)には妹婿
藤沢頼親
を救援するために出兵するが惨敗。 天文17年(1548年)2月に
武田晴信
が上田原合戦で
村上義清
に敗れると、 4月5日に
小笠原長時
は村上氏や仁科氏などと連合し諏訪下社に討ち入った。 6月10日にも諏訪下社を攻めたが逆に100人あまりが討たれ、
小笠原長時
自身も二ヵ所に手傷を負って敗走した。 7月10日、小笠原氏と通じて諏訪湖西岸の諸氏や諏訪氏一族が諏訪へ侵攻。
武田晴信
は7月18日に大井ヶ森(山梨県北杜市)から諏訪へ慎重に行軍。
小笠原長時
も5000の軍勢で塩尻峠に陣を張る。 7月19日早朝に塩尻峠でゆっくりと行軍していたはずの武田軍に急襲され一方的な敗北を喫し、 1000余人が討ちとられ、
小笠原長時
はほうほうのていで深志城へ逃げ帰った。 天文19年(1550年)7月に
武田晴信
が村井城に入り、乾城や林城(大城)を落すと、 深志城、岡田城、桐原城、山家城、さらに島立城、浅間城も戦わずに落城。
小笠原長時
は平瀬城へ落ち延び、やがて
村上義清
を頼った。
小笠原長時
は信濃守護たる自分の立場を有利にしたいと7月5日に将軍の代替りを祝って太刀や馬などを
足利義輝
に贈っていたが、 無駄になってしまった。 9月に
武田晴信
が
村上義清
に大敗すると、
村上義清
の支援をえて深志城の奪還のために出兵する。武田氏に寝返っていた山家氏や三村氏などの諸城を陥れた。 ところが塔原城に3000の軍勢で陣を張っていた
村上義清
が突如川中島へ帰ってしまい、
小笠原長時
に従っていた8000の軍勢が瞬く間に1000余人にまで減ってしまった。
小笠原長時
は武田軍を迎撃すると、この勝利を最後の思い出に、いさぎよく切腹しようとしたが、 重臣に諌められて二木氏の中塔城に半年間籠城。 天文21年(1552年)に小岩岳城、日岐城が落城すると孤立無援の状態となり、 三男
小笠原貞慶
らを連れて草間(中野)へ落ち伸びた。 天文22年(1553年)には高梨氏の手引きにより
長尾景虎
のもとへ行き、保護を受ける。 天文23年(1554年)に
溝口長勝
が越後へ迎えにくると
小笠原貞慶
をそのまま越後
長尾景虎
に託して、 弟
小笠原信定
のいる下伊那鈴岡城へ入った。 しかし鈴岡城も武田氏に落とされ、下條氏の庇護を受ける。 しかし下條氏も攻められると駿河へ出て伊勢へ逃れ外宮御師の
榎倉武国
のもとに身を寄せる。 弘治元年(1555年)、
小笠原長時
は京都にのぼり同族
三好長慶
を頼る。 摂津芥川城に招かれ厚く遇された。
小笠原長時
は将軍
足利義輝
の弓矢や騎馬の師範となり、河内高安郡で100貫文を給された。
小笠原信定
らも300貫ずつ与えられた。 永禄6年(1563年)には「百手の的」を興業するなど、弓矢の家として活躍する。 しかし永禄7年(1564年)には
三好長慶
が死去し、さらに永禄11年(1568年)9月末には
織田信長
によって芥川城が落城し、 10月1日に摂津郡山で妻は捕えられたものの、
小笠原長時
は逃れ、 再び
長尾景虎
を頼って越後に赴いた。500貫文の地を与えた。 天正6年(1578年)、
長尾景虎(上杉謙信)
が死去すると、会津若松に赴き、黒川城主
蘆名盛氏
のもとに身を寄せた。 天正7年(1579年)には
小笠原貞慶
も若松に迎えている。
小笠原貞慶
は天正8年(1580年)に近畿へ行き、天正10年(1582年)7月には旧領の深志城を回復。
小笠原長時
を迎えるために家臣を遣わせたが、天正9年(1583年)2月25日、信濃国への帰国準備中に突然家臣に殺害された。 享年64歳(永正10年(1513年)生説では70歳)。
小笠原長時
には長男
小笠原長隆(小笠原右馬助)
、次男
小笠原貞次
、三男
小笠原貞慶(小笠原右近大夫)
がいる。
小笠原長隆
には長男
小笠原長頼
、次男
小笠原長元
がいる。
小笠原貞慶
1546〜1595年
小笠原右近大夫、喜三郎、小僧丸ともいう。
小笠原長時
の三男。 天文21年(1552年)に小岩岳城、日岐城が落城すると孤立無援の状態となり、
小笠原貞慶
は父
小笠原長時
に連れられて草間(中野)へ落ち伸びた。 天文22年(1553年)には高梨氏の手引きにより
長尾景虎
のもとへ行き、保護を受ける。 天文23年(1554年)に
溝口長勝
が父
小笠原長時
を越後へ迎えにくると、
小笠原貞慶
はそのまま
長尾景虎
に託され、越後ですごすことになる。 弘治元年(1555年)、父
小笠原長時
が京都にのぼり同族
三好長慶
を頼り、 摂津芥川城に招かれ厚く遇されると、
小笠原貞慶
も招かれる。 永禄11年(1568年)には摂津から父
小笠原長時
たちとともに逃れ再び越後
長尾景虎
を頼る。 天正6年(1578年)、
長尾景虎(上杉謙信)
が死去すると、
小笠原長時
は会津若松に赴き、黒川城主
蘆名盛氏
のもとに身を寄せた。 天正7年(1579年)には
小笠原貞慶
も若松に迎えられている。
小笠原貞慶
は天正8年(1580年)に近畿へ行き
織田信長
に仕え東国諸大名との外交役を務めた。 天正10年(1582年)7月には叔父小笠原貞種とともに
徳川家康
の助力で旧領の深志城を回復。
徳川家康
の支援をえて
上杉景勝
と
木曽義昌
と戦う。 父
小笠原長時
を迎えるために家臣を遣わせたが叶わず。 天正13年(1585年)に
石川数正
の出奔に従い
豊臣秀吉
配下となった。 天正18年(1590年)には小田原攻めで
前田利家
に従い奮戦したことで戦功を挙げ讃岐半国を与えられたのだが、 九州攻めで追放された
尾藤甚右衛門
を庇護したために改易され下総古河に移封となり、
徳川家康
の家臣に戻った。 文禄4年(1595年)に没した。
小笠原貞慶
には長男
小笠原秀政(小笠原貞政)
があり、
小笠原秀政
には 長男
小笠原忠脩
、次男
小笠原忠政
、三男
小笠原忠知(小笠原忠真)
がいる。
小笠原秀政
は徳川氏に人質として出され、のちに
松平信康
の娘を娶り、 天正17年(1589年)に家督を相続し古河城主として3万石を領し、慶長18年(1613年)には小笠原氏の旧領深志城(松本城)を回復。 元和元年(1615年)、大阪の陣で長男
小笠原忠脩
とともに討死している。
小笠原信定
1521〜1565年
民部少輔ともいう。
小笠原長棟
の次男。
天文3年(1534年)に父
小笠原長棟
は伊那の松尾小笠原氏を圧倒し、松尾城に次男
小笠原信定
をおいた。 天文22年(1553年)に兄
小笠原長時
は越後へ逃亡。 天文23年(1554年)に
溝口長勝
を越後に派遣し、
小笠原長時
を下伊那鈴岡城へ招いた。 しかし鈴岡城も武田氏に落とされ、兄
小笠原長時
とともに下條氏の庇護を受ける。 しかし下條氏も攻められると駿河へ出て伊勢へ逃れ外宮御師の
榎倉武国
のもとに身を寄せる。 弘治元年(1555年)、兄
小笠原長時
とともに京都にのぼり同族
三好長慶
を頼る。 摂津芥川城に招かれ厚く遇され、
小笠原信定
らも300貫ずつ与えられた。
小笠原信定
には長男
小笠原長継
がいる。
会田信清
1550〜*1610年
会田中務丞ともいう。
会田幸久
の長男。
父
会田将監幸久
は信濃国会田を領し小笠原氏の家臣であったが、 小笠原氏が
武田晴信
に攻められ敗れると関東にくだり越谷に住み、岩槻太田氏に属した。 のちに北條氏に仕えた。
会田信清
は江戸衆の1人で江戸下平川、葛西小岩、飯塚、奥戸で276貫900文を領した。
会田信清
の長男
会田資久
のとき天正18年(1590年)、北條氏の没落により越谷に隠樓した。
会田資久
の長男
会田資勝
は将軍
徳川秀忠
の小姓となり、
会田資長
、
会田資信
とつづき、幕臣として500石を給された。
羽田治郎左衛門幸清
*1520〜1554年
秦幸清、秦幸信ともいう。
秦幸清(羽田治郎左衛門幸清)
は和田城主の
大井信隆(大井修理)
の家老として仕えたが、天文14年(1545年)に
武田晴信
に攻められ
大井信隆
軍は全軍討死したとされる。 大井五騎の一将と称された羽田氏(秦氏)は、主家
大井信定
に従うかたちで武田氏に抵抗しつづけていたと思われる。 およそ10年後の天文23年(1554年)6月15日、
武田晴信
の信濃侵攻により落城。
秦幸清
は下和田の矢崎城において、主君
大井信定
とともに戦い、武田軍に討たれたという。
秦幸清
は法名を亭秦院幸清正雲居士とされ、墓は下和田の若宮八幡社境内にあるという。
これ以降、秦氏は羽田氏を名のったとされている。『秦氏家譜先君伝』によれば家紋は「ぶっちがえの鷹の羽」を使用していたとされる。
秦幸清
の長男として生まれた
秦竹久(羽田筑後守竹久/羽田雅楽之介武久)
は
武田晴信
の信濃侵攻で降服し従い、 武田氏滅亡後は武田遺臣として真田氏を頼っている。 真田軍功家伝記『真武内伝』によれば、真田家の重臣について、「羽田筑後は長野信濃守一家なり。甲州衆なるが甲州崩れのとき房州様へ従い数度覚えあり」とし、武田家滅亡のときに
真田昌幸
に仕え数度の戦功をあげた。 大阪の陣では、
秦幸清
の長男
羽田竹久
、次男
羽田房幸
、三男
羽田幸正
は真田方として参陣し、長男
羽田竹久
は戦死、他の兄弟たちも戦死か行方知れずとなっている。 四男
羽田信久
、五男
羽田吉久
は徳川方へつき兄弟別れて戦った。現在残っている羽田氏は徳川方に与した
羽田吉久
の後裔にあたる。
真田信幸(真田信之)
時代『寛文十年分限帳』に
羽田六右衛門
(300石)、
真田幸専
時代の『文政二年分限帳』に
羽田忠左衛門
、
羽田雄助
の名がみれる。 武田氏滅亡後に真田氏を頼った理由としては、羽田氏が上州侵攻に加わっていたことがあげられる。 また『真武内伝』にある「長野信濃守一家」という文言や『戦国草津温泉記』『箕輪城と長野氏』からは、羽田氏が上州で盛大な勢力を誇った山内上杉氏家臣
長野業政
と何かしらの深い関係があったこともうかがえる。 『秦氏家譜先君伝』『戦国草津温泉記(湯本善太夫「箕輪城と長野氏」)』によれば
秦幸清
の妻は上州箕輪城主
長野業政(長野信濃守)
の妹とされており、主家滅亡後に妻の兄を頼って上州へ逃れたとする説が有力。
長野業政
の配下として安中の後閑城を治め、のちに鷹巣城へ移動した依田氏の一族もいるため、依田氏と長野氏が関係していたことは明白となっており、 武田氏に追われて長野氏の配下に属していた同族(依田氏)を頼り、長野氏が滅亡後に武田氏に属した可能性もある。 いずれにしても長男
羽田竹久(羽田彦太郎)
は
長野業政
の妹の子であり、さらに
長野業政
の娘婿であるため、「長野信濃守一家」と記されたのであろう。 吾妻郡に羽田城(大柏木城、芳ノ城ともいう)が天文年間(1532〜1555年)に
羽田康文
によって築城されており、武田家臣(もしくは長野氏が滅亡して後に武田家臣となり)として活躍後、真田氏に属したとみられる。 羽田城は、のちに浦野滋野氏
大戸真楽斎
が居城としている。
泰氏は古代の有力な渡来民族で、秦の始皇帝の子孫の弓月君が日本に渡来したのがそのはじまりとされている。 泰氏は山城国の葛野郡一帯を領し、太秦の地を本拠に勢力を拡大していった。 飛鳥時代、
推古天皇
の御世にあらわれた
泰河勝(秦川勝)
は、
聖徳太子
に仕えて朝廷内における秦氏の地位を向上させ、 京都・広隆寺を創建したことで知られている。
秦河勝
は
聖徳太子
の信頼に応えて多大な功績をあげ、恩賞として信濃国更級郡桑原郷を賜り、
秦河勝
の長男
秦広国
を派遣して信濃国の統治にあたらせた。 以後、泰氏は信濃国に住して豪族に成長していく。 『更級郡誌』によれば、
保元の乱
に際して
秦能俊
が
村上為弘
、
平正弘
らと
崇徳上皇
方に属して敗れ、土佐国に逃亡したという。 阿波の新開氏も信濃秦氏の分かれといい、秦氏が佐久郡、更級郡、東筑摩地方に広がっていたことをうかがわせている。
『元親記』には「
秦川勝
の末葉、土佐国司となり、長曽我部・江村・廿枝郷など三千貫領知すべき綸旨を頂戴し、御盃を賜る。その盃に酢漿草の葉が浮かび、これをもって酢漿草を紋に定む」とある。 また、
後三条天皇
の延久年間(1069〜1074年)に、
秦能俊
が信州から入部したとするものもある。 さらに、鎌倉時代初期に起った
承久の乱
に幕府方に属した
秦能俊
は京方の仁科氏と戦い、その功により土佐国の地頭となり、長曽我部郷に移ったとする説もある。 いずれにしても土佐に移った
秦能俊
は国分川沿いにある岡豊山に城を築き、代代の居城と定めた。 そして、鎌倉時代、江村氏、久礼田氏、広井氏、中島氏、野田氏、大黒氏、中野氏らの庶子家を分出。 長宗我部氏はこれらの庶子家を指揮下におき、惣領制のもと発展をしていった。甲浦惟宗氏、金剛界寺氏、瀬本氏、西和田氏、蒲原氏、益田氏、香川氏などにも分かれ、 長宗我部氏は津野氏、一條氏、吉良氏、香宗我部氏、島氏、戸波氏、比江山氏なども一族に引き入れるなど拡大していった。
秦氏は長宗我部氏のほか、惟宗氏の流れを汲む島津氏などにも分かれており、信濃国でも島津氏は長沼島津氏や赤沼島津氏に分かれて勢力を広げている。
諏訪頼満
1478〜1539年
諏訪安芸守、諏訪碧雲斎ともいう。
諏訪政満
の次男。諏訪氏中興の祖といわれる。
文明16年(1484年)に大祝となり、諏訪氏総領家当主となった。 甲斐の
武田信虎
と対立し、亨禄4年(1531年)4月には
飫富虎昌
、
栗原兵庫
、
大井信業
らと
武田信虎
と塩川河原で戦うが、 1000人近い死傷者を出して大敗。 天文4年(1535年)9月には
武田信虎
と和睦をし、長年の敵であった信濃守護小笠原氏との戦いに専念する。 天文6年(1537年)2月には
諏訪頼満
と孫諏訪頼重は
小笠原長時
と戦い、 塩尻を攻略し松本まで侵攻した。 天文8年(1539年)6月に和睦するまで足掛け3年、小笠原氏と戦いつづけた。 天文8年(1539年)12月にが病没。
諏訪為信
からはじまる諏訪氏は、
諏訪為信
の次男
諏訪為貞
、
諏訪敦貞
、
諏訪貞方
、
諏訪貞光
、
諏訪敦光
、
諏訪敦忠
とつづき、
諏訪敦忠
の三男
諏訪盛信
、
諏訪盛重
、
諏訪頼重
、
諏訪時継
とつづく。
諏訪時継
の長男
諏訪頼継
から高遠氏が別れ、
諏訪時継
三男
諏訪信嗣
、
諏訪直頼
、
諏訪信有
、
諏訪有継
、
諏訪信満
、
諏訪政満
、
諏訪長宗
とさらにつづき、
諏訪政満
の次男
諏訪頼満
へとつづく。
諏訪頼満
の嫡男
諏訪頼隆
は上原城城主。 次男
諏訪頼熈
、三男
諏訪満隆
は茶臼山城城主。四男
諏訪満隣
がおり、 また娘は長女を
高遠頼継
に、次女を
逸見信親
に嫁がせている。 一族は関屋氏、深沢氏、岩波氏、保科氏、保坂氏、金子氏、小坂氏、有賀氏、平出氏、中島(中嶋)氏、中沢氏、茅野氏、藤沢氏、栗原氏、矢崎氏、大妻氏、一瀬氏などに分かれ繁栄。 晴近氏、千村氏、守矢氏、三沢氏、花岡氏、山田氏、上原氏、古田氏、福島氏ら多くの諸氏が従っていた。
諏訪頼隆
1497〜1531年
諏訪頼高、刑部大輔ともいう。
諏訪頼満
の嫡男。
亨禄4年(1531年)4月に急死。
諏訪頼隆
の長男
諏訪頼俊
も若くして亡くなったため、
諏訪頼満
は孫諏訪頼重の後見人として育てた。 天文8年(1539年)12月には
諏訪頼満
が病没したため、
諏訪頼重
は24歳で家督を相続する。
諏訪頼隆
には長男
諏訪頼俊
、次男
諏訪頼重
、三男
諏訪頼高(諏訪豊増丸)
がいる。
諏訪頼高
の嫡男諏訪頼忠が
諏訪満隣
の後見をえて大祝となっていたが、 武田氏滅亡後に、
徳川家康
の軍門に降り、
諏訪頼忠
の嫡男
諏訪頼水
が諏訪藩初代藩主となり、 諏訪家の再興をはたし、子孫は幕末までつづいた。
諏訪頼重
1516〜1542年
諏訪頼茂、刑部大輔ともいう。
諏訪頼隆
の次男。
諏訪頼重
はわずか15歳ながら亨禄3年(1530年)には長女をもうける。 父
諏訪頼隆
、兄諏訪頼俊がすでに亡くなっていたため、 天文8年(1539年)12月に祖父
諏訪頼満
が病没すると、
諏訪頼重
は24歳で家督を相続。 松本平の
小笠原長時
との戦いが諏訪氏にとって最重要課題であったため、麻績氏(小見氏)の娘を娶って小笠原氏との戦いを有利にしようとしていたが、
武田信虎
の六女
禰禰
を正室に迎え、麻績氏を側室にすえた。 どれだけ諏訪氏にとって
武田信虎
が頼りになったかがうかがえる。 見返りとして
諏訪頼重
は麻績氏との間にできた娘
諏訪御料人
を人質として甲斐へ送った。
武田信虎
とより一層深い同盟を交わした諏訪頼重は、 天文10年(1541年)5月には
村上義清
とも連合して佐久郡や小県郡へ出兵し、 海野一族を滅亡させた。
武田信虎
が駿河へ追放されると、佐久郡や小県郡へ関東管領
上杉憲政
が出兵。
諏訪頼重
は
上杉憲政
軍と戦い善戦。上杉氏との和睦に持ち込み、
諏訪頼重
にとっては得意の絶頂だったといえる。 その勢いで
高遠頼継
を攻め滅ぼそうとしていた。 天文11年(1542年)6月、
武田晴信
が突然諏訪に乱入し、 高遠攻めの出兵ではないかと全く警戒感を抱いていなかった
諏訪頼重
はあっという間に滅ぼされる。 諏訪上社禰宜であった
矢島満清
と
高遠頼継
は
武田晴信
と結んでいたのであった。
諏訪頼重
はわずか1000人で上原城へ籠り、杖突峠から高遠勢が押し寄せ、10000の武田軍と対陣。 しかし上原城ではとうてい戦えないとして、
諏訪頼重
は弟
諏訪頼高
と桑原城へ籠る。 桑原城では夜間に逃亡する将兵が続出するなど徐徐に減り始め、わずか20人ほどになっていた。 武田氏からの和睦に応じた
諏訪頼重
、
諏訪頼高
兄弟は甲斐に送られ、 東光寺に幽閉され、7月21日に自刃した。 降伏したときには「武田軍を借りて高遠軍を討ち、滅亡させる覚悟である」と述べたという。 この時点でも
諏訪頼重
が置かれている状況を全く把握できていなかったことがわかる。 辞世の句は、「おのずから枯れ果てにけり草の葉の主あらばこそまたも結ばめ」であった。
諏訪頼重
の長男
諏訪虎王丸(寅王丸)
も、正室として迎えられていた
禰禰
もまもなく死亡したため、
武田晴信
の側室となった
諏訪御料人
(諏訪頼重の長女)が生んだ
武田勝頼
が跡目を継ぐことになる。
藤沢頼親
1516〜1582年
伊那郡箕輪荒神山の福与城城主。
小笠原長時
の妹婿。
天文14年(1545年)、
武田晴信
に攻められ、龍ヶ崎城に出陣して敗北。小笠原氏の支援を受けて福与城へ籠城。 50日間の抗戦に及んだが、6月10日、
武田晴信
の提案した和議に応じ、投降した。 藤沢氏は
諏訪光親
の次男
藤沢清貞
からはじまり、
藤沢清親
、
藤沢清正
、
藤沢朝清
、
藤沢政頼
へとつづく。
藤沢頼親
には長男
藤沢頼宗
、弟
藤沢頼忠(藤沢権次郎)
がいる。
藤沢頼忠
には長男
藤沢織部
がいる。
金刺盛昌
1470〜1540年
諏訪盛昌、金刺大膳大夫ともいう。金刺諏訪大祝家。
金刺興春
の長男。 諏訪大社は上下二社をあわせて一社というかたちをとっていた。 さらに上社は前宮と本宮の二つに分かれ、下社は春宮と秋宮からなっていた。 上社本宮の祭神は建御名方神、前宮はその妃である八坂刀売神。 下社は春宮秋宮ともに祭神は八坂刀売神。 この他神社に比べて複数な構成ともいえる諏訪大社の上社は諏訪氏が大祝として司り、 下社は金刺氏が大祝として司ってきた。 建御名方神を祀る上社の諏訪氏の方が名族であり、大きな勢力を有していた。 この諏訪氏が室町時代に入ると分裂し、総領家と高遠に分かれた。 「大祝職」と「総領職」の奪取を悲願にいきる高遠諏訪氏や、 文明15年(1483年)に大祝家が総領家にたいしてクーデターを決行するなど内紛があり、 金刺氏もそれに翻弄されていく。 しかし謀反は成功せずに、総領家の
諏訪頼満(諏訪碧雲斎)
が総領職と大祝職に就任する。 下社大祝祖とされる
金刺貞長
、
金刺貞継
父子からはじまり、
金刺益成
、
金刺有久
、
金刺武久
、
金刺有範
、
金刺為範
、
金刺為賢
、
金刺為員
、
金刺為信
、
金刺盛澄
、
金刺盛次
、
金刺蓮仲
、
金刺盛基
、
金刺盛久
、
金刺時澄
、
金刺豊久
、
金刺基久
、
金刺基澄
、
金刺興春(金刺基春)
と代代下社大祝家に就任してきた。 一族は手塚氏、武居氏、小泉氏、鳶木氏などにも分かれ繁栄。
金刺昌春
1490〜1552年
諏訪昌春、金刺右馬助ともいう。
金刺盛昌
の長男。
金刺諏訪大祝家。山吹城主。
永正15年(1518年)と大永5年(1525年)、
諏訪頼満
に攻められ、大祝金刺氏は没落。 大永5年(1525年)4月1日、
武田信虎
を頼り、屋敷を与えられ匿われた。
金刺昌春
の長男
金刺晴長
がおり、
金刺晴長
には長男
金刺豊保
、次男
金刺善政(武居善政)
、三男
金刺尭存
らがいる。
守矢頼真
1500〜*1550年
守屋頼真、守谷頼真、漏矢頼真ともいう。諏訪大社神長官。
諏訪氏の国造り神話のほかに、諏訪大明神に抵抗する土豪として
守矢大臣(漏矢大臣)
の名が残り、先住民守矢氏が渡来人に降伏し、 諏訪氏が信濃に根付いていったことが語られる。
守矢頼真
の記した『守矢頼真書留』には
諏訪頼重
切腹の様子が描かれており、 「(
諏訪頼重
が)切腹にさきだってサケ、サカナをといったところ、酒は持ってきたが肴はないと武田の家臣が応えたので、 武田では切腹の作法をご存じないとみえる。肴とは脇差のこと。われらほどの武士に腹を切らせることは、武田家では今まであるまい。 といって作法通りに立派に切腹した。」と旧主の最期を粉飾して記している。
守矢頼真
には長男
守矢頼昌
がおり、
守矢頼昌
には長男
守矢頼親
がいる。
千野昌長
1517〜1552年
千野左兵衛尉、茅野左兵衛尉、茅野昌長ともいう。
諏訪頼重
の重臣。 諏訪一族として、粟沢城、塩沢城、湯川城、樋沢城などの守将を務める。
亨禄元年(1528年)、信濃諏訪郡富士見に兵を進め先達城を修築し入城した
武田信虎
と
諏訪頼満
の合戦がはじまる。 8月20日、
武田信虎
は
諏訪頼満
、
諏訪頼隆
父子と甲信国境の朝方の神戸で戦い(神戸合戦)、 武田勢が諏訪勢を撃破。 8月30日、境川での戦い(境川合戦)で武田勢は敗れ、武田氏重臣
萩原備中守
らが討死するなど被害は大きかった。 諏訪勢でもこの合戦で
茅野孫四郎(千野孫四郎)
らが討死している。
天文11年(1542年)7月2日、
高遠頼継
の野望もあって、 諏訪上社の禰宜
矢島満清
や下社
金刺昌春
、
金刺晴長
父子が
武田晴信
に与し、
武田晴信
は油断していた
諏訪頼重
の上原城を攻城する。 諏訪勢は長窪城への出陣で疲労していた家臣350騎がくたびれた馬に乗り、800人ほどの従者とともに馳せ参じた。 このとき、
諏訪頼重
をはじめ、重臣
千野伊豆入道(茅野伊豆入道)
、
千野南明庵(茅野南明庵)
たちは狼狽しながらも奮戦。 しかし、劣勢は挽回できるはずもなく、
諏訪頼重
は桑原城へ逃れ最後の抵抗をしていたが、 7月5日、見回りに出た
諏訪頼重
を警備兵が脱出しようとしていると勘違いし兵は次次と逃亡し落城。 以後、千野(茅野)氏は
寅王丸(虎王丸)
をかかげる武田勢に与していく。
天文17年(1548年)7月19日、
武田晴信
が上田原合戦で敗れたのを知り
小笠原長時
が4月5日に
村上義清
や
仁科盛明(仁科修理)
、
藤沢頼親
らとともに諏訪下社に討ち入る。 6月10日にも諏訪下社へ
小笠原長時
が攻めみ、武田勢は小笠原勢を塩尻峠で迎撃(塩尻峠合戦)したが、 さらに7月10日には
小笠原長時
に通じていた諏訪湖西岸の諸氏(西方衆)や 諏訪氏一族、神一族の矢島氏や花岡氏らが諏訪へ侵攻。 武田方に与していた神長官
守矢頼真(守屋頼真)
や
千野靫負尉(茅野靫負尉)
は上原城に籠り小笠原氏と抗戦。 7月18日になってやっと
武田晴信
が諏訪へ入って形勢は逆転していく。
千野(茅野)氏は、横田河原合戦で
木曾義仲
に従った
千野太郎(茅野太郎)
が有名。
諏訪光親
の長男
千野光弘(茅野光弘)
が継ぎ、諏訪氏の一族として、また重臣としての地位を確立していく。 戦国期では
諏訪頼満
、
諏訪頼隆
父子の重臣として活躍し、
諏訪頼重
が討たれてからは武田氏に属している。
千野昌長(茅野昌長)
には長男
千野頼昌(茅野頼昌)
がいる。