小助の部屋/越後長尾氏/山内上杉氏/上野長野氏

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長尾景虎1530〜1578年

武田晴信が病死したときの様子が『北越軍談』にこう記されている。 「折節食事に向いましましけるが、たちまち箸をなげうちたまい、横手を拍ち、 “晴信病死決定なるべし。苦々しき儀なり”と宣い、大いに愁嘆の色ありて落涙したまう」とある。 かけがえのない宿敵であったのであろう。
高田憲頼1507〜1547年

高田右衛門佑ともいう。
上野国山内上杉家臣。上杉憲政家臣。上野国菅原(群馬県妙義町)城主。
信濃国笠原山志賀城主志賀清繁(笠原清繁)の縁戚にあたる。 志賀清繁武田晴信に攻められた天文15年(1546年)に、 平井城の関東管領上杉憲政からの救援として養嗣子高田繁頼(志賀繁頼)とともに志賀城へ進軍。 上杉憲政は関東管領ではあったものの、相模国北條氏康に圧されており、 信濃へ北上してきていた武田晴信北條氏康の挟撃を恐れて志賀城への救助を決断した。 高田憲頼は、志賀清繁の次男志賀繁頼を養子に迎えており、 高田繁頼(志賀繁頼)にとって実父からの要請であった。 上杉憲政にとっても武田晴信を叩いておかなければならなかったわけで、利害が一致。
高田憲頼らの援軍もあって包囲は10日にもおよんだが志賀城は落城しなかった。 ところが、金井秀景を総大将とする上杉軍2万が小田井原で大敗すると形勢は逆転し、志賀城は落城。 志賀清繁志賀清仲父子は討死。援軍に駆けつけていた高田憲頼高田繁頼(志賀繁頼)父子も討死した。
那波無理介宗安1535〜1575年

縄無理介、無理ノ介、無理之介、無理之助、名和宗安ともいう。
那波宗元の長男。 那波宗俊那波宗元那波宗安とつづく那波氏は上野国の名流の出であったが、 長尾景虎(上杉謙信)に追われて武田晴信を頼る。
縄を編んだ羽織を鎧の上からまとい、無理を押し通すことから無理之介と異称されたという。
那波宗元には長男那波宗安以外に、次男那波顕宗がおり、那波顕宗には長男那波俊広がいるとされる。