小助の部屋/信濃大井氏/信濃村上氏/信濃高梨氏
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小田井又六郎信親
1518〜1543年
尾台信親、尾台又六郎、御台信親、御台又六郎ともいう。
小田井長澄
の長男。小田井城(尾台城)城主。
小田井小次郎長澄
の長男として永正15年(1518年)に生まれる。
天文12年(1543年)12月、
武田晴信
は東信地方で8つの城を攻略したが、 御代田の小田井城は小城でありながらなびく姿勢をとらなかった。 その小田井城の城主は
小田井信親
と、その弟
小田井次郎左衛門信治(小田井又七郎)
だった。 天文13年(1544年)9月、武田氏は小田井城を攻めている。武田氏の前衛は歴戦の将
板垣信方
(『甲陽軍鑑』により)。
小田井信親
、
小田井信治
兄弟はこのまま城に籠るよりはと、 寒さで縮みあがっている武田方に夜襲をかけた。 「小田井又六郎、武田晴信に見参のため寄せたり」と叫び声が陣営を貫き、たちまち小田井勢が切り込んだ。 しかし
板垣信方
は
山本勘助
とともに夜襲にもしっかりと備えていたため、すぐさま反撃に転じ力で圧し返し、
小田井信親
、
小田井信治
兄弟も城内へ逃れた。
山本勘助
が士気を盛り上げ、武田勢3000は城を包囲し八方から火を放ち、一角を破ると城内へ雪崩込み、
小田井信親
、
小田井信治
兄弟を討取り、城を制圧した。 城の内外には城兵の死体500あまりが無残に散らばっていたという。
『甲陽軍鑑』『信陽雑記』『妙法寺記』など多少の相違があるものの、小田井合戦があったことが記されている。 いずれも武田関係者の記述であるため、そのまま信じることは難しいとしても、小田井城で合戦があったことは単なる創作でないと思われる。
文明16年(1484年)に
村上顕国(村上政清)
が岩村田大井氏
大井光照
を12000の軍勢で攻め滅ぼして以来、 佐久郡は村上氏の勢力下におかれていた。 それでも伴野氏、依田氏、望月氏、小諸大井氏、岩尾大井氏、内山大井氏、平賀大井氏らが佐久郡で勢力を維持しており、 延徳年間(1489〜1491年)頃に甲斐から
武田信縄
が攻め込んできた際には、 岩村田や岩尾が戦場となったが村上氏が武田氏を撃退したという。 永正16年(1519年)には
武田信虎
が平賀まで侵攻。村上氏が佐久衆の求めに応じ出陣したことにより
武田信虎
は退去している。
小田井氏の出自に関しては諸説ある。佐久郡が文明16年(1484年)以降は村上氏の勢力下にあったことは間違いないが、 依田氏、望月氏、大井氏などが勢力を維持しており、考えられるのは、村上氏や武田氏と同じ源氏の一族か、 もしくは滋野氏の一族のいずれかである。 佐久郡では望月氏、依田氏、小田切氏、香坂氏と滋野一族のなかでも名のある諸族が村上氏に与しながら佐久群で勢力を維持していたと考えられる。 小田井氏の娘が平尾氏へ輿入れしているようで、平尾氏との関係が深い。 平尾氏は依田氏の一族であるが、依田氏に関しては系図では滋野氏にも源氏にも見られ、 源氏とも滋野氏とも断定するにいたらない。小田井氏そのものの史実については何一つ正確な史料は残っていないといわざるをえない。 小田井氏に滅ぼされた先住民として伝わる墓が下児玉の金塚にある。
天文16年(1547年)にも小田井の地で合戦が行われている(小田井原合戦)。笠原山志賀城の
笠原清繁
が上杉氏の援護を得て籠城し、 さらに上野国から
金井秀景
率いる上杉軍が援軍として進軍。 武田軍と上杉軍が小田井で合戦となった。 天文13年(1544年)の小田井城合戦ですでに
小田井信親
らは討死し小田井城は落城していたこともあり、 小田井原合戦では小田井氏が介在した形跡は見られない。しかし小田井城が完全に廃城となっていたわけではないようで、 天正10年(1582年)11月4日に
依田信蕃
が前山、高棚、小田井の諸城を攻め落としたと『信陽雑記』などに記されており、
織田信長
が倒れると
滝川一益
は甲斐から撤退し、 佐久郡が北條氏の勢力下になった後、
徳川家康
に与した
依田信蕃
が佐久郡を平定したときに小田井城も攻め落とされている。 これらのことからも、小田井城が天正の頃まで機能していたことがうかがえ、 小田井の地に小田井氏が脈々と生き残っていたことも想像できる。
小田井長澄
には長男
小田井信親
以外に、次男
小田井次郎左衛門信治(小田井又七郎)
がいる。
小田井信治
は治郎左衛門、一郎左衛門とも称されている。永正17年(1520年)の生まれという。
小田井信親
は享年26歳。
小田井信治
は享年24歳。
笠原新三郎清繁
1505〜1547年
志賀清繁、笠原清繁、笠原清重、笠原雅真、笠原雅重、笠原新三郎ともいう。
佐久郡笠原山城(志賀城)城主。 天文年間に
村上義清
や
武田信虎
、
武田晴信
らに度度攻められ、降伏と離反を繰り返していた。 天文15年(1546年)、武田軍が甲斐へ引きあげたのを機として蜂起し、武田守備隊を襲って城砦を奪取した。
武田晴信
が内山城を陥落させると、残るのは志賀城だけとなり、
志賀清繁(笠原清繁)
は決死の覚悟で
武田晴信
の前に立ちはだかった。 関東管領
上杉憲政
に救援を乞い、次男
志賀繁頼(高田繁頼)
を養子として迎え入れていた
高田憲頼
にも救援を乞うた。
高田憲頼
父子はすぐさま救援に馳せ参じ、
上杉憲政
の救援として
金井秀景
が碓氷峠から進軍してきた。 志賀城は武田勢の包囲によく耐えていたが、水の手を切られ、さらに総勢2万の兵力で駆けつけていたはずの
金井秀景
軍が小田井原で大敗し、 3000の生首が城前に並べられ、 よく耐えていた志賀城兵の士気も落ち、一挙に形勢は逆転。志賀城はついに落城した。
志賀清繁
、
志賀清仲
らは討死した。
志賀清繁
には、長男
志賀清仲
、次男
志賀繁頼
がおり、次男
志賀繁頼
は
高田憲頼
の養子となっていた。
平原和泉守幡繁
1520〜1582年
平原城(有利小屋城)城主。
天文18年(1549年)、上田原合戦で敗れた武田氏に反旗を翻し、
村上義清
から援軍500人を送られ籠城。 9月2日に
武田晴信
に攻められるが、徹底的に抵抗。 攻め落せずにいた武田方は9月3日に和議を申し込む。 しかしそれは武田方の謀略であり、和議にうっかり応じてしまった平原城は呆気なく落城してしまった。
平原幡繁
は西方に逃れるが、日をへて武田家に従うことを起請文を差し出して一族は武田家に仕えた。
本領据置きを許された
平原幡繁
は川中島合戦で奮戦。 武田家滅亡後は相模北條家や徳川家に属した。
ところが徳川家に仕えていたときに謀反の事実があると密告をこうむり処刑された。 子孫は関ヶ原合戦で功を上げ徳川旗本になっている。
平原氏は、東信濃の豪族依田氏から分かれた一族。滋野氏の一族とも源氏の一族ともいわれる。鎌倉時代のはじめに平原城を築いている。
平原景能
は
木曽義仲
の挙兵に応じて横田河原の合戦に力闘し、後に
源頼朝
に従い、 代代にわたって
新田義貞
とともに
足利尊氏
と戦ったり、関東管領の上杉氏に重んじられたりして、その武名が高かった。
大井光盛
の長男
大井光連
が平原氏を嗣いでいる(平原大井氏)。
平原彦次郎
の娘は
真田昌幸
に嫁いでいる。
曲尾源右衛門常光
1499〜1566年
曲尾越前守ともいう。
曲尾城主。曲尾(長野県上田市真田町傍陽曲尾)を領した。 曲尾城は、根古屋城、根小屋城、根子屋城、曲尾若宮城、千古屋城とも称される。根子屋城と千古屋城をあわせて曲尾城ともいう。 応仁元年(1467年)に村上氏が海野氏を攻めており(『御符札之古書』『真田町誌歴史編上』により)、 このときに海野氏が攻められたのが洗馬城(千葉城)であり、海野氏に属していた曲尾氏、洗馬の堀内氏、半田氏らは村上氏に降っている。 のちに横尾氏も村上氏に降ることになる。応仁元年(1467年)12月14日には海野氏方の
岩下満幸(海野満幸)
が戦死するなど大きな被害が出ている。 諏訪上社が式典の頭役に海野氏を指名していたため、応仁2年(1468年)4月に洗馬城(千葉城)が攻められているなか、陣中から海野氏は諏訪上社へ返事を届けている。
応仁元年(1467年)の暮に、村上氏は塩尻の岩鼻をまわって上田盆地に進み海野氏と合戦。 翌応仁2年(1468年)の雪が消えて春になったころに傍陽の洗馬に攻め入り、海野氏に勝っている。 坂城から傍陽への侵入はあいだに山なみがつづくので困難のように感じるが、 中之条から坂城の横尾の沢を登り、芝峠を越すとその真下は入軽井沢。平地まわりよりずっと近い。 この年(1467年)の村上氏の洗馬攻めが真田地域に村上氏が入ってきた最初と考えられ、 これにより傍陽地方に大きな変化がもたらされている。海野氏は村上氏に敗れたことで傍陽地方を維持できず、 傍陽地方の小国人領主を切り捨てざるをえなくなり、曲尾氏や洗馬の堀内氏、半田氏らは村上氏に降伏。のちに横尾氏も降伏している。
応仁元年(1467年)から村上氏に従い海野氏と度度戦ってきた
曲尾常光(曲尾刑部亮)
は永正3年(1506年)3月18日に死去。法名は常光寺殿とある。 『小笠原家正統系図』に「曲尾を名乗る初代は曲尾刑部亮常光で永正3年3月18日死去、居曲尾村、法名、常光寺殿、道貴曲尾祖也」と記されており、 小笠原氏、あるいは依田氏といったいずれも源氏の流れとする説が有力であるが、真田氏と同様に江戸幕府または上田藩から系図を提出するよう命令が下ったことで後世に書かれたものとして系図の信憑性に欠けるとして、 滋野氏か大伴氏の一族ではないかという説もあり、定かではない。海野氏や真田氏の領地から考えると滋野氏の流れを汲む依田氏(源氏の流れを汲む依田氏ではなく)の分かれの可能性もある。 家紋は表紋が「抱合いの三つ橘」、裏紋が「揚羽の蝶」とされている(依田氏は「三つ蝶」)。
曲尾常光
の長男
曲尾政常(曲尾左衛門)
は天文4年(1535年)1月27日に亡くなっている(法名は弘誉宗源居士)。
曲尾政常
の長男で祖父の名を継承した
曲尾常光(曲尾源右衛門)
は、天文年間(1532〜1555年)に
武田晴信
に降伏したとみられ、 曲尾越前守とも称され、天文22年(1553年)9月8日に
武田晴信
から松本郷200貫を賜り配下の
水出治郎右衛門
ほか3名を引き連れて移ったという。 曲尾氏は東塩田から西塩田手塚に移って帰農したとされ、永禄9年(1566年)10月5日に亡くなっている(法名は英誉久清居士)。
曲尾常光
の長男
曲尾重光(曲尾源右衛門)
は文禄元年(1592年)2月2日に死去。法名を到誉源西居士といい、上田市手塚無量寺に墓がある。
曲尾重光
の長男
曲尾昌光(曲尾平助)
は寛永3年(1626年)10月9日に亡くなっている。法名は到岸院西誉浄源居士。
曲尾城が武田氏の城となってからは
大熊朝秀
が城代をつとめた。
大熊朝秀
は長尾氏の家臣であったが海津城へ出仕し、武田氏の戸石城攻撃では脇備えを務めている。
曲尾富光(曲尾市兵衛)
は享保3年(1718年)から享保18年(1733年)まで塩田組の大庄屋、割番をつとめ、
曲尾富光(曲尾市兵衛)
は享保18年(1733年)に66歳で死去。現在でも曲尾氏子孫が上田市手塚に代代住んでいるという。
村上周防守義清
1503〜1573年
村上信濃守、左衛門尉、右京権亮、兵部大輔、左少将、左馬頭、武王丸ともいう。
村上顕国
の嫡男。葛尾城(埴科郡坂城町)城主。
文亀3年(1503年)、信濃の葛尾城で
村上左衛門督顕国
の嫡男として誕生。 母は室町幕府管領
斯波義良
の娘。乳母は
出浦国則
の妻。傅役は
出浦国則
。のちに
石川長昌
も傅役となる。 永正12年(1515年)、
村上義清
は元服し永正13年(1516年)に上洛して従五位下佐渡守に任じられた。 永正15年(1518年)に父
村上顕国
が戸石城へ移り、
村上義清
は葛尾城城主となり家督を継ぐ。 永正16年(1519年)5月には父
村上顕国
が水内郡の島津氏攻めに参陣しているのでまだ実権は
村上顕国
が握っていた。 永正16年(1519年)9月、
武田信虎
が佐久郡平賀に侵攻。
村上義清
は佐久衆の求めに応じ父
村上顕国
とともに出陣。
村上義清
の初陣とされる。 このとき村上勢は8000の兵を率いて出陣し小諸城に着陣。 小諸城主
小諸光政(大井伊賀守光政)
、
小諸光成(大井光成)
父子が城外に出て
村上顕国
、
村上義清
父子を出迎えている。 多勢の出現を知り
武田信虎
は平賀周辺に火を放って帰国。 永正17年(1520年)3月、
村上顕国
が死去し、
村上義清
は正真正銘村上氏の総領となった。 大永2年(1522年)8月にも
武田信虎
が佐久郡に侵攻し大井城を攻撃。
村上義清
は大井城主
大井忠重
の要請を受けて出陣し武田軍と大井原で戦い、250余の首級を討ちとり、
武田信虎
を敗走させている。 勢いにのって大永2年(1522年)10月には
村上義清
は佐久郡海ノ口城城代
平賀源心斎(大井成頼)
の求めを受けて甲斐国若神子へ侵攻。 しかし猛将
馬場虎貞
に敗れて退却した。 天文10年(1541年)5月、
諏訪頼重
と
武田信虎
が小県郡海野平に出兵し
海野棟綱
を攻めた。 長年の宿敵海野氏を叩く絶好の機会とみた
村上義清
は
武田信虎
と手を結びともに海野氏を破り、滅亡に追い込んだ。 天文11年(1542年)2月、
諏訪頼重
、
小笠原長時
と与して甲斐国へ攻めこみ、瀬沢で反撃を受けて敗走。 天文17年(1548年)2月、
武田晴信
が出兵し小県郡の上田原に兵を進めた。
村上義清
は葛尾城に10000余の兵を集め、2月14日、3000の兵を葛尾城へ残し7000の兵を率いて出陣。 300の兵を和合城に残し天白山を背に陣を張った。 先陣は
高梨政頼
、
井上清政
、
清野清秀
らで、ニ陣は
須田信正
、
須田満親
父子、
島津規久
、
小田切清定
、 左備に
室賀信俊
、
室賀光正
父子、右備に
栗田国時
、後備に
山田国政
、
斎藤久右衛門
らが備えた。 武田軍は先陣に
板垣信方
、
甘利虎泰
、
小山田信有
、ニ陣に
飫富虎昌
、武田信繁、右備に
諸角虎定
、
真田幸隆
、左備に
教来石信房
、後備に
工藤昌豊
、遊軍が
原昌俊
がついた。 3500の兵を率いた
板垣信方
の軍勢が村上勢に突撃して開戦。
甘利虎泰
、
小山田信有
、
才間河内守
、
初鹿野高利
らがつづき、 押しに押した武田軍は150余の首級を奪った。 しかし
村上義清
は深追いする板垣勢に猛攻を加え、
村上義清
家臣の
安中一藤太
が
板垣信方
に斬りかかり、
上條織部
が討ちとった。 板垣勢を救援しようと奮戦するも
甘利虎泰
も討死。 武田勢のニ陣が盛り返したため、
屋代基綱
、
雨宮刑部
、
若槻清尚
、
小島権兵衛
ら宿将が討死して、村上勢も圧されたものの、 武田軍を敗走させる。 勢いにのって4月には
村上義清
は
小笠原長時
、
藤沢頼親
、
仁科盛明
ら信濃の諸将を集め、 諏訪へ侵攻し、佐久地方にも進軍した。 天文19年(1550年)9月、
武田晴信
が戸石城を攻撃。
真田幸隆
の調略によって
須田新左衛門
、
清野左衛門
、
寺尾重頼
らが武田氏に寝返っていた。
村上義清
は
高梨政頼
とともに武田氏に寝返っていた
寺尾重頼
の寺尾城を攻め寺尾氏一族を討ち滅ぼす。
村上義清
は10月1日に
楽岩寺光氏
を先陣に6500の兵を率いて戸石城救援に向い、 武田軍を急襲。さらに戸石城の城兵も撃って出て、武田軍は総崩れとなり、
横田高松
を討ちとり武田軍を敗走させる。
村上義清
は11月8日には小諸城へ入り、11月13日には野沢城、桜井山城を攻め、城下に火を放った。 11月14日には海ノ口城へ入り武田軍と対陣したのち引上げた。 ところが天文20年(1551年)5月26日に
真田幸隆
の調略によって戸石城が落とされ、 7月には岩尾城の
岩尾行範(大井弾正忠)
が武田氏に寝返り、 天文22年(1553年)3月には孤落城の
大須賀久兵衛
が寝返り、さらに
屋代政国
が武田氏に寝返った。 もはや葛尾城は支えきれずに4月9日に落城し、
村上義清
は4月22日に川中島で諸豪族を集め、八幡原で武田軍を破り、葛尾城を奪回。 塩田城まで兵を進め入城した。 8月には
武田晴信
によって塩田城を落とされ、劣勢を挽回できずに越後
長尾景虎
に援軍を乞った。 天文22年(1553年)9月に
長尾景虎
が要請に応じて信濃へ出陣。第一回川中島合戦となる。 天文24年(1555年)、弘治3年(1557年)にも川中島で対峙。 永禄4年(1561年)9月10日の第四回川中島合戦では
村上義清
が2000余騎を率い先陣をつとめ奮戦。 永禄7年(1564年)にも出陣。しかし旧領を回復するにはいたらず。 永禄12年(1569年)に剃髪。天正元年(1573年)1月、越後根知城で失意のうちに生涯を閉じる。享年は70歳(文亀元年(1501年)生説では73歳)。
村上氏は清和源氏の血を引く
源盛清
が信濃国更科郡村上郷に流罪となり、以降子孫は更科郡で勢力を扶植した。
出浦国則
*1480〜*1540年
出浦周防守ともいう。
村上顕国
の重臣。出浦城主。海尻城主。埴科郡上平出浦(長野県埴科郡坂城町上平)を本領とする。
村上義清
の傅役を務める。
妻は
村上義清
の乳母をしていたことからも、出浦氏は村上氏の重臣であったことがうかがえる。
出浦国則
には長男
出浦清種
がおり、出浦左衛門尉もしくは出浦主計頭とも称した。
出浦清種
は
村上義清
とは乳兄弟であり、義兄弟的存在でもあった。 文亀2年(1502年)に生まれ、永正9年(1512年)にはその乳兄弟でもある
村上義清
の近習となっている。
海尻城主をつとめていた父
出浦国則
に従い海尻城に在城していた
出浦清種
は、 天文5年(1536年)11月に
武田信虎
による信濃侵攻が行われた際には海尻城から海ノ口城へ援軍として参戦。
出浦清種
は
楽巌寺光氏(室賀光氏)
隊とともに5000の兵を率いて海ノ口城へ進軍し、武田軍と激突。
武田信虎
軍を敗走させた。 天文7年(1538年)6月には
長尾晴景
が信濃へ侵攻してきたため、主将格として出陣し、長尾軍をも撃退している。 天文9年(1540年)正月には
出浦清種
が不在のときに
武田信虎
に海尻城を攻略されてしまうが、 すぐに奪回している。
村上義清
の乳兄弟(義兄弟)として数数の合戦に参戦し、戦果をあげる
出浦清種
の信頼は厚かったであろう。 「村上氏城持高家八人衆」の1人に数えられるともされている。
出浦清種
には長男
出浦清正
、次男
出浦清長
、三男
出浦盛清
がいる。
出浦清正
は出浦下野守とも称した。また坂城出浦氏ともいわれ、嫡男として出浦城主を継承している。 出浦正左衛門をも称し、正左衛門は代代継承されていく。
出浦清正
は、大永2年(1522年)に生まれ、天文7年(1538年)に初陣をはたす。6月の
長尾晴景
侵攻のときには将7首を討つ活躍を見せ、
出浦国則
や
出浦清種
ら先代に劣らない信頼を得ていく。 弘治元年(1555年)正月には
村上国清
の傅役に抜擢されるほど、
村上義清
からの信頼は厚かった。
ただし
出浦清正
には嫡子がいなかったため、
出浦清長
の長男
出浦清春
が跡を継いでいる。
出浦清春
ははじめ出浦小太郎を称していたが、正左衛門を継承した。
出浦清春
には長男
出浦清次
がおり、
出浦清次
の次男
出浦清定
へと家督は継承されていく。
出浦盛清(出浦盛為/出浦守清)
は、出浦対馬守とも称され、松代出浦氏の祖とされている。 天文17年(1548年)の上田原合戦において、
真田幸隆
の捕虜となった。 村上氏滅亡後には武田氏に仕え、さらに武田氏の滅亡後には
織田信長
家臣
森長可
に仕えている。 本能寺の変が起こると真田氏に仕え、忍衆を束ねたともされているがその点はにわかに信じがたい。
真田昌幸
に仕え、岩櫃城代や上野吾妻郡代を務めるほど信頼は厚かった。
出浦盛清
には長男
出浦幸久(出浦対馬守)
がおり、松代出浦氏の家督とともに対馬守も継承されている。
出浦幸久
の家督は三男
出浦幸吉(出浦半平)
が継承。
出浦幸吉
には長男
出浦幸生(出浦織部)
、次男
出浦安豊(出浦五左衛門)
がいる。
出浦幸生
には長男
出浦新四郎
がいるが早世しているらしく、
出浦安豊
の長男
出浦幸重(出浦半平)
が家督を継承している。
出浦氏についてであるが、 祢津氏の分かれ出浦氏が祖といわれている。 祢津氏の所領については、『御符札之古書』から室町中期の所領を確認することができる。 『御符札之古書』によれば、祢津氏の直轄領を祢津氏の居館から別府、新張、田中郷にかけてと記されている。 祢津田中、祢津小田中、大石、桜井、芝生田の五つの郷を祢津氏の被官が領していることが分かる。 祢津田中、祢津小田中、大石、桜井、芝生田の五郷は浦野氏、金屋氏(出浦氏)、岡村氏、桜井氏、芝生田氏ら代官が領してる。 また群馬県吾妻郡嬬恋村には祢津氏被官の浦野氏や金屋氏、岡村氏なども散見でき、祢津から地蔵峠からつづいていることからも、祢津氏の所領は、西は三分川上流部から田中郷にかけて、南は千曲川まで、 東は深沢の渓谷まで、北は地蔵峠を越えて群馬県吾妻郡嬬恋村までの広範囲であったことが予想できる。 ここでいう浦野氏や出浦氏、岡村氏らは上田地方を領した豪族たちであり、戦国期まで村上源氏の家臣として勢力を維持してきた諸氏に他ならない。
村上為国
の十五男
村上成国
が出浦氏を称し出浦を領したとされることからも、 平安時代から鎌倉時代に全盛期を迎えた滋野一族も、源氏(村上源氏や小笠原氏)がしだいに力を強めていくなかで、 血縁関係は複雑化し、ついには出浦氏も源氏に組み込まれていったと思われる。
出浦成国
、
出浦為実
、
出浦義忠
、
出浦為親
へと継承されていき、戦国期には村上氏の重臣として
出浦国則
が登場する。
井上清忠
1497〜1549年
井上五郎、井上五郎左衛門、井上五郎兵衛ともいう。
村上義清
の重臣。
井上清忠
は、
出浦国則
の福将格として海尻城の防備をつとめた。
天文9年(1540年)に
武田信虎
が侵攻してくると、
出浦国則
、
出浦清種
父子不在であったこともあり、 もちこたえることができずに敗走。井上城に戻っている。
井上氏は信濃国高井郡井上(長野県須坂市井上)を本領とする。清和源氏
源頼季
流。
清和源氏
多田満仲
の子
源頼信
が、長元元年(1028年)に関東の下総国で起きた年平忠常の乱を平定して東国に勢力を張ったことで、 次男
源頼季
が信濃国に所領を得て、嫡男
源満実
とともに長久年間に高井郡井上に移住。地名をもって名字とし井上氏の祖となった。 米持氏、高梨氏、須田氏らが同族。また、綿内の小柳井上氏、楡井井上氏、狩田井上氏、八町井上氏、水内郡の長池井上氏、高田井上氏など分家を出している。 綿内は重要な所領でもあり、南に備える前線でもあった。
武田晴信
が北信濃に進出してくる弘治2年(1556年)には綿内に
井上左衛門尉
、小柳に
井上満直(井上出羽守)
が置かれた。
応永7年(1400年)の大塔合戦では、守護
小笠原長秀
と篠ノ井で激突。 北信濃を中心に、東信濃の国人衆が連合し、守護小笠原氏に総反撃した
村上満信
と仁科氏を盟主とする大文字一揆に、 井上氏、高梨氏、須田氏らも村上氏に与した強力な勢力となった。
井上光頼(井上左馬助)
の軍勢には、舎弟
井上遠江守
のほか、万年氏、小柳氏、布野氏、中俣氏に、
須田伊豆守
、
島津国忠(島津刑部少輔)
らも加わって500余騎となった。
石川長昌
1470〜*1550年
村上顕国
の重臣。
村上義清
の傅役を務める。 天文22年(1553年)に
真田幸隆
が孤落城(埴科郡坂城町)の
大須賀久兵衛
を調略したことで、 更科郡の石川氏をはじめ、屋代氏、塩崎氏、香坂氏らが次次に武田氏に帰属し、 村上氏を孤立させ葛尾城は落城。
大須賀政信
1514〜*1570年
大須賀久兵衛ともいう。
村上義清
家臣。天文22年(1553年)、
真田幸隆
の調略によって武田氏に臣従。 孤落城(埴科郡坂城町)において謀反を起こし、孤落城代
小島兵庫助
を討ちとるなど、村上家衰退の要因をつくる。
楽巌寺満氏
1514〜*1570年
額岸寺光氏、楽巌寺和泉守、楽巌寺光氏ともいう。