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小助の部屋/滋野一党/甲斐武田氏/甲斐武田氏年譜

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12世紀後半の平安時代末期から16世紀末の戦国時代にいたるおよそ500年間、武田氏が君臨した甲斐国は、 『古事記』に「こちごちの山の賀比」とあり、大宝2年(702年)の『文武紀』には「歌斐国献梓弓五百張」と記されているように、 古くは柯斐歌斐加比介賓などの文字が使われ、いずれも字音をかりて「かひ」と読んでいました。 文献のいずれも山間地であることを意味しているところから、山峡の国の「」が甲斐になったものと考えられます。
平安時代末期から武勇の誉れ高い甲斐源氏武田氏は、これまで平安末期、甲府の西方武田荘(韮崎市)で荘園経営に着手した武田信義を始祖として氏姓が起きたとされてきましたが、 『尊卑分脈』『長秋記』の記述にもとづく近年の研究によって、武田信義の祖父源長清源清光父子が常陸国武田郷より甲斐市川へ移住、 その後八ヶ岳山麓の逸見筋を本拠地として勢力を拡大したことに始まったというのが定説化されています。
源清光は子福者だったこともあって、八ヶ岳周辺から甲斐の国中地方の主要拠点にわが子を配置していきました。韮崎に配置された武田信義より数えて15代目が「甲斐に猛虎・武田入道あり」と恐れられた武田信虎で、武田晴信の父です。 後世「武田三代」というのは、この武田信虎にはじまり武田晴信武田勝頼にいたる父子三代をいいます。
以下は、おもに武田信虎武田晴信の二代を中心とした武田氏の年譜です。      

宝徳2年
(1450年)

宝徳2年(1450年)11月24、武田信重は石和に乱入した穴山勢と戦うが敗れ、自害(『甲斐国志』により)。享年65歳。 武田信重のあとを長男武田信守が継ぐ。

享徳3年
(1454年)

享徳3年(1454年)8月28日、若狭武田氏一族武田信広が陸奥国大畑より蝦夷国松前に渡航し、 松前武田氏(蝦夷蠣崎氏)を興す(『寛政重修諸家譜』により)。

康正元年
(1455年)

康正元年(1455年)1月21日、武田信長は鎌倉公方足利成氏に属し、長尾景仲上杉持朝らを 武蔵国分倍河原で戦い(分倍河原合戦)、長尾勢を打ち破る(『鎌倉大草紙』により)。
5月11日、甲斐守護武田信守死去(『一蓮寺過去帳』により)。夭折したという。嫡男武田信昌がわずか9歳で家督を継ぐ。幼名は五郎で長じて刑部大輔と称す。
前代より守護代をつとめていた跡部氏が補佐することとなり、跡部明海跡部景家がその任にあたった。

康正2年
(1456年)

康正2年(1456年)、武田信長足利成氏より上総守護代を命じられ、 嫡男武田信高らを率いて上総に入部。上総武田氏の祖となる(『鎌倉大草紙』『上総武田系図』により)。

長禄元年
(1457年)

長禄元年(1457年)12月28日、武田氏一門の吉田氏らは、守護代跡部景家と小河原で戦う(小河原合戦)が敗北。 岩崎氏も攻められ一族が全滅する(『一蓮寺過去帳』により)。

長禄2年
(1458年)

長禄2年(1458年)8月、跡部景家が守護代として塩山の向岳寺に寺領の安堵状を出しており、 幼主を軽視して専権を振るうようになる(『向岳寺文書』により)。
武田信昌跡部景家が御前山(山梨市)ほかで何度か交戦。 甲斐守護代跡部駿河守政家(跡部入道明海)跡部上野介景家父子が反旗を翻した。

寛正5年
(1464年)

寛正5年(1464年)2月、跡部入道明海は老衰で死去。

寛正6年
(1465年)

寛正6年(1465年)4月14日、京都聖護院門跡の満意の書状に「甲斐国武田・辺見(逸見)・跡部輩被官人」とあり、弁僧都に彼らのための熊野先達職を知行させており、 当時甲斐国内ではこの武田氏、逸見氏、跡部氏の三氏が有力者と認知されていたことがわかる(『住心院文書』により)。
6月、10年前に父武田信守の死によって武田の正統を継いでいた長男武田刑部大輔信昌であったが、 反旗を翻した跡部景家と度度戦うがどうしても勝てなかった。 そこで諏訪信満ら信濃の諏訪氏に援助を要請。信濃より諏訪氏ほかが何度か甲斐に出兵していた記録があり、この内乱と関係が指摘されている。
7月には山梨郡上岩下の夕狩沢砦にいた跡部景家と武田氏と諏訪氏の連合軍は戦う(夕狩沢砦合戦)。
7月2日、武田信昌は山梨郡西保下(山梨市牧丘町)小田野城(小田ノ城)に籠る守護代跡部景家を攻め(小田ノ城合戦)、跡部一族を滅ぼす(『王代記』により)。 跡部景家を自害させ、跡部掃部跡部刑部跡部縫殿助跡部新三郎らを討つ(『一蓮寺過去帳』により)。
12月8日、武田信昌今川義忠は、将軍足利義政からの古河公方足利成氏追討の命を受け(『足利家御内書案』により)、 信濃念場の野辺山へ軍を進める。村上政清と対陣。

文正元年
(1466年)

文正元年(1466年)3月10日、村上政清と対戦(念場野辺山合戦)。 武田信昌村上政清の武将杵淵下野守と戦う。多くの戦死者を出して両者とも撤退した(『蔭涼軒日録』により)。

応仁元年
(1467年)

応仁元年(1467年)、北信濃村上政清大井持之を攻め(大井原合戦)、 次いで南佐久の伴野氏も大井氏と戦い、大井氏は惨敗。
佐久の名門大井氏も鎌倉時代に足利尊氏新田義貞の激戦において、 大井城で大井朝行が新田勢10000余騎に襲われ、大敗北してから一時衰退していたが、 しだいに勢いを盛り返して 大井持光の代を迎えると南佐久から甲斐武田氏を脅かすようになっていた。 しかしそれだけ勢力を広げれば風当たりは強く、戦史には敗戦のあとが目立ち、 特に北信濃の雄村上氏との不和は大きな災いとなっていた。

文明4年
(1472年)

文明4年(1472年)4月22日(4月24日)、武田信昌は信濃佐久郡から甲斐八代郡まで攻め寄せた大井政朝(大井大炊介)の軍勢を撃退する(『勝山記』により)。 佐久郡の大井氏は、この頃は坂城の村上氏に圧迫されており、国内が乱れている甲斐国へ活路を見出そうとしたのではないかと思われる。
5月20日、八代郡花鳥山(甲府市中道町)で武田勢と大井勢(大井信包)とが交戦(花鳥山合戦)している(『王代記』『勝山記』により)。

文明7年
(1475年)

文明7年(1475年)3月8日、駒井信久は西石森郷(山梨市)油田の地500文を大善寺に寄進する(『大善寺文書』により)。

文明10年
(1478年)

文明10年(1478年)、佐久郡岩村田城主の大井政朝が、初めて諏訪上社の御射山頭役を請ける。 伴野氏代官の鷲野伊豆守(鷲野伊豆入道)が、御射山頭役の右頭を請ける。

文明11年
(1479年)

文明11年(1479年)7月、大井氏、伴野氏は諏訪上社の御射山祭の左頭、右頭として頭役をつとめる。
8月、佐久郡岩村田の大井政朝が前山城伴野光利伴野光信父子と戦って敗れる。 大井政朝は生け捕られ、大井氏重臣の相木氏が討死する。
甲斐国の武田信昌は文明4年(1472年)4月に大井氏が甲斐国へ侵入したことに対する報復として伴野氏に与し信濃国佐久郡へ侵攻。

文明16年
(1484年)

文明16年(1484年)2月27日、 村上政清村上政国父子が大井城を攻略し、暴風のもとで四方に火を放つ。 260年持ちこたえた大井城下を焼け野原とし、佐久の名門大井氏大井政則は村上氏の軍門に降る。

文明19年
(1487年)

文明19年(1487年)11月、 武田信昌は中山広厳院に寺領を寄進する(『広厳院文書』により)。

延徳元年
(1489年)

延徳元年(1489年)、前山城主伴野光利が85歳で死去(『洞源山貞祥寺開基之由』により)。

延徳2年
(1490年)

延徳2年(1490年)9月16日、大井氏(大井信包大井信達父子)は河内地方を治める穴山氏と対立し、穴山大井合戦が起こる(『王代記』により)。 穴山氏などの有力国人は駿河国の今川氏と結んで勢力を維持。 大井信包大井信達父子も今川氏親に属す。

延徳4年
明応元年
(1492年)

延徳4年(1592年)、武田信昌は隠居し落合(山梨市)に居所したことから落合殿とも称された。 隠居後においても後見役として政務を補佐しており、諏訪大社の神長官である守矢氏にあてた守符、玉会贈与の礼状が残っている(『守矢家文書』により)。文亀4年(1504年)2月には武田信縄と連署で向岳寺に寺内法度を出している(『向岳寺文書』により)。
明応元年(1492年)6月11日、武田信縄油川信恵兄弟が相戦い、武田氏の内乱がはじまる(『勝山記』『一蓮寺過去帳』などにより)。
この甲州乱国において、武田信縄穴山信懸らが対立。 以降、穴山信風武田信虎に服従するまで武田氏と穴山氏の対立はつづく。

明応3年
(1494年)

明応3年(1494年)1月6日、武田信虎が甲斐川田館(甲府市川田町)で生まれる(『甲斐国志』により)。
武田信昌は家督(甲斐守護職)を次男油川信恵に継がせようとしていたため、長男武田信縄との間で家督争いが起こる。 3月26日、油川氏との戦いのため、今井信乂が討死したが、武田信縄油川信恵を破っている(『王代記』『勝山記』により)。 この家督争いは明応7年(1498年)には両者の和睦により終決。

明応5年
(1496年)

明応5年(1496年)3月12日、武田信縄は境川郷(笛吹市境川)の熊野神社に制礼を掲げる(『熊野神社文書』により)。

明応7年
(1498年)

明応7年(1498年)8月25日、明応地震が起こる。
武田信昌武田信縄が和睦する(『勝山記』により)。

文亀元年
(1501年)

文亀元年(1501年)9月18日、伊勢盛時(伊勢宗瑞)が伊豆より甲斐国へ侵入。吉田の城山に吉田城を、小倉山に小倉山城を築城。 都留郡の豪族(小山田勢など)が迎撃する(『勝山記』により)。

文亀3年
(1503年)

文亀3年(1503年)、都留郡の豪族(小山田勢)などが伊勢盛時と富士上方の梨木沢で戦う(梨木沢合戦)。 伊勢盛時の家臣葛山孫四郎が討死している(『勝山記』により)。

永正2年
(1505年)

永正2年(1505年)9月16日、武田信昌が死去し、長男武田信縄が家督を継ぐ(『永昌院墓碑銘』により)。 武田信昌は享年59歳。

永正3年
(1506年)

永正3年(1506年)4月1日(4月11日)、武田信縄は富士浅間大菩薩(富士浅間神社)に願文を捧げて病気平癒を祈る(『北口富士浅間神社文書』により)。

永正4年
(1507年)

永正4年(1507年)2月14日、父武田信昌が死去し家督を継いでわずか2年で、武田信縄が死去。武田信縄は享年37歳。 甲府塚原の恵雲院に葬す。
武田信縄の嫡男武田信虎(このときはまだ武田信直と名のっていた)が14歳で家督を相続することになる。 武田信虎と、武田信縄の弟油川信恵とが家督を争い対立(油川氏の乱)。

永正5年
(1508年)

永正5年(1508年)10月4日、油川信恵は長男油川信貞(油川弥九郎)、 次男油川信守(油川清九郎)、三男油川信友(珍宝丸)を引き連れ、弟岩手縄美(岩手四郎)とともに挙兵。 栗原信真、工藤氏、上條氏、そして小山田氏らが油川氏に加担し、 武田信虎には武田惣領家の被官である曽根氏、甘利氏、駒井氏、小田切氏、 さらに萩原氏、金丸氏、板垣氏、飫富(飯富)氏、浅利氏らの中小国人領主が味方していた。 武田一族で有力国人でもあった大井氏、穴山氏、今井氏らも武田信虎寄りの姿勢を示していた。 武田信虎は坊ヶ峰(笛吹市境川)で油川氏、岩手氏を破り(坊ヶ峰合戦)、滅亡に追い込むと、 わずか14歳で家督を継承する。
この合戦で栗原信真の次男栗原昌種油川信恵油川信貞父子、岩手縄美河村重家(河村左衛門尉)らが討死している(『勝山記』『一蓮寺過去帳』により)。
12月5日、小山田弥太郎が国中に侵攻。武田信虎は小山田勢を迎撃し、さらに都留郡に進攻。 油川信恵に加担した小山田弥太郎を攻め(境小山田合戦)、小山田弥太郎は敗死。 境小山田氏の小山田平三郎や工藤氏は伊豆へ逃亡し韮山城伊勢盛時に出仕している(『勝山記』により)。

永正6年
(1509年)

永正6年(1509年)、武田信虎は都留郡へ進攻し河口宿へ放火し撤退(『勝山記』により)。
10月23日、小尾弥十郎今井信是と対立。 小尾弥十郎今井信是の本拠地、江草城を攻め(江草城合戦)陥落させる(『高白斎記』により)。
12月、武田信虎は再び都留郡へ侵攻し、小山田氏を攻める(『勝山記』により)。
諏訪頼満今井信是を攻めて今井勢を撃破する(今井合戦)。今井信是の弟今井信隣(今井平三郎)矢戸信守(谷戸源三郎)らが戦死する(『一蓮寺過去帳』『円光院本武田系図』により)。
将軍足利義尹(足利義稙)は関東管領上杉顕定に命じて、前山城主伴野貞祥(伴野六郎)と大井城主大井忠重(大井太郎)の争いを和睦させている。

永正7年
(1510年)

永正7年(1510年)、武田信虎小山田信有(小山田越中守)は和睦(『勝山記』により)。

永正10年
(1513年)

永正10年(1513年)5月27日、穴山信縣(穴山道義斎信懸)が長男穴山信永(穴山清五郎)に討たれる(『勝山記』により)。

永正11年
(1514年)

永正11年(1514年)、駿河国から今川氏親が甲斐国に侵入する(『宇津山記』『宗長手記』により)。
武田信虎が川田に居館を築く(『王代記』により)。

永正12年
(1515年)

永正12年(1515年)10月17日(10月10日)、武田信虎は西郡(甲府盆地西部)で反旗を翻した大井信達を攻め、 大井氏の居城上野椿城(中巨摩郡櫛形町上野)や富田城を包囲するが大敗(大井合戦/富田合戦)。 今井信房飫富道悦飫富昌義(飫富源四郎)らが討死してしまう。 他にも板垣氏、甘利氏、於曽氏、小山田氏ら諸将も多くが戦死している(『勝山記』により)。
大井氏を支援していた駿河今川氏親の軍勢が甲斐国へ侵入してきたため、 武田信虎は恵林寺に一時逃げるまでに窮地に立たされる。今川氏親は甲駿国境を封鎖する(『勝山記』により)。
前山城主伴野光信が76歳で死去(『洞源山貞祥寺開基之由』により)。

永正13年
(1516年)

永正13年(1516年)、武田信虎と、大井信達今川氏親との抗争がつづく。 他国(駿河国)への路次封鎖が解けないまますぎる(『勝山記』により)。
9月28日、武田軍と今川軍のあいだで、万力で合戦が起こる(万力合戦)。 武田信虎は扇山(塩山)で敗北し、恵林寺に逃げ込む(『高白斎記』により)。 国中が今川軍に放火される。八幡普賢寺や松本大蔵経寺、七覚山円楽寺が焼失する。 今川軍は曽根に布陣し、勝山城を再興(『王代記』により)。
12月26日、都留郡の西海右近進西海平八郎ら三兄弟、大石与五郎らが今川軍との戦いで討死(『勝山記』により)。
12月29日、小林昌喜(小林宮内丞)が出陣し、吉田山城の今川軍と激突。民は戦火を避けて河口湖の鵜島に逃れて越年する(『勝山記』により)。 勝山城に籠城していた今川軍はしだいに孤立しはじめる(『宇津山記』により)。

永正14年
(1517年)

永正14年(1517年)1月1日、都留郡小林道光(小林尾張入道)小林昌喜(小林宮内丞)父子が新倉(富士吉田市)へ出陣。
1月2日、小林道光(小林尾張入道)は吉田山城を攻撃(吉田山城合戦)。
1月12日、吉田山城の今川軍は撤退をはじめる(『勝山記』により)。
1月22日、今川氏親が連歌師柴屋軒宗長に、武田信虎との和睦斡旋を依頼する(『宇津山記』『宗長手記』により)。
1月27日、武田信虎の家臣小林道光(小林尾張入道)が吉田城を落し、今川軍の退路を断つ。
1月28日、和睦交渉を依頼された柴屋軒宗長が甲府の知音の屋敷に到着し、 武田信虎と交渉し、和睦を成功させている。今川軍は駿河国へ撤兵する。(『宇津山記』『宗長手記』により)。
大井信達も今川氏が撤退した以上は反抗をつづけられないとし、 武田信虎に降伏し、娘を武田信虎に正室として差し出した。 武田信虎は川田へ帰陣する(『高白斎記』により)。
3月2日、和睦により勝山城に籠城していた今川軍2000余人が駿河国へ帰国する(『宇津山記』『宗長手記』により)。
3月9日、武田信虎は中山広厳院とその末寺に禁制を与えている(『広厳院文書』により)。
4月3日、武田信虎は一蓮寺領を安堵する(『一蓮寺文書』により)。

永正15年
(1518年)

山吹城主金刺昌春諏訪頼満に敗れ山吹城は落城。 武田信虎は諏訪下社(金刺諏訪大祝家)金刺一党に与す。 武田信虎は中郡今井郷(甲府市上今井町)の今井信是(今井兵庫助)の反乱の鎮圧に向かう。 小幡日浄(小幡盛次)が戦死している。
5月、都留郡の小山田氏など郡内勢と駿河今川氏が和睦する(『勝山記』により)。

永正16年
(1519年)

永正16年(1519年)、今川氏を甲斐国から退け、大井氏(大井信達)を講和(降伏)させたこともあって、 武田信虎今井信是との戦いがつづく。 4月、武田信虎今井信是との和睦をもはたす。
8月15日、武田信虎は積翠寺郷の南躑躅ヶ崎で新府中の鍬立ての儀を行う(『高白斎記』『勝山記』により)。
9月、武田信虎は信濃国佐久郡平賀城を攻める。 村上顕国村上義清父子が佐久衆の求めに応じ出陣。 村上義清の初陣とされ、村上勢は8000の兵を率いて小諸城に着陣。 小諸城主小諸光政(大井伊賀守)父子が城外に出て村上顕国村上義清父子を出迎えている。 多勢の出現を知り武田信虎は平賀周辺に火を放って帰国。
10月6日、武田信虎は新府中の見分を実施(『高白斎記』により)。武田信虎は甲斐国衆を甲府に 集住させることにする(『勝山記』により)。
12月20日、武田信虎は笛吹川沿いにあった石和の川田館を引き払い、府中の躑躅ヶ崎へ居を移す(『高白斎記』により)。 大井殿武田信虎のあとにつづいて甲府に引っ越す(『勝山記』により)。 躑躅ヶ崎館は国人衆を周囲に集住させて、支配強化をねらったことで、 国人衆の反感を買い、再び栗原氏、今井氏、大井氏らの反乱を招く。 天正9年(1581年)に武田勝頼が韮崎に新府中城(新府城)を築いて移るまで武田三代の居館となる。

永正17年
(1520年)

永正17年(1520年)5月、栗原信真栗原信友父子らが武田信虎に背き府中を退去。 栗原信友を大将として今井信是大井信達らが同調し、武田信虎に謀反を起こす。 武田信虎は、板垣信方曽根出羽守曽根三河守らに出陣を命じる(『王代記』により)。
6月1日、武田信虎は詰城を築城するために積翠寺丸山に登る(『高白斎記』により)。
6月8日、東郡都塚(笛吹市八代町)で戦う(都塚合戦)。 武田信虎栗原信友軍を撃破し、栗原氏の居館を包囲する(『勝山記』により)。
6月10日、西郡今諏訪(南アルプス市)において、武田信虎は逸見氏(今井氏)と大井氏と戦い(今諏訪合戦)撃破する(『王代記』『勝山記』『高白斎記』『塩山向嶽禅庵小年代記』により)。 曽根大学助が戦死(『王代記』により)。栗原信友は武蔵国秩父へ逃亡し、武田信虎は大井氏や今井氏と和睦する。 のちに栗原信友は許されて帰参する(『王代記』により)。 武田信虎は再び反旗を翻した栗原氏、今井氏、大井氏らをわずか半年で一掃する(『高白斎記』『勝山記』により)。 躑躅ヶ崎館の北方の積翠寺丸山に築城を決め普請をはじめる。要害山城(石水寺城/積翠寺城)を後詰めの城として築城する。
8月、西郡大井信達武田信虎に臣従する(『勝山記』により)。これにより武田信虎の甲斐国統一がほぼ完了したという(『塩山向嶽禅庵小年代記』により)。
勝沼信友や都留郡領主小山田信有らが、岩殿山円通寺七社権現の再建を行う(『甲斐国志』により)。

大永元年
(1521年)

大永元年(1521年)1月27日、武田信虎駒井高白斎に知行宛行の判形を与える(『高白斎記』により)。
2月18日、武田信虎は都留郡大原庄船津の小林宮内丞の屋敷を訪問(『勝山記』により)。
2月19日、武田信虎は中津森館の小山田信有を訪問(『勝山記』により)。
2月28日(2月27日)、駿河今川軍が河内に侵入する(『塩山向嶽禅庵小年代記』『王代記』により)。
4月13日、武田信虎は従五位下に叙任される(『歴名土代』により)。 4月19日、武田信虎は左京大夫に叙任される(『後柏原天皇日記』により)。名前も武田信直から信虎にこのときに改めている。
7月15日、武田八郎(穴山信友)武田信虎の許しを得て駿河より甲斐へ帰国(『勝山記』により)。
8月10日、駒井昌頼(駒井高白斎政武)が積翠寺要害山城(丸山城)の城代を命じられる(『高白斎記』により)。
8月28日、武田信虎は河内を総攻撃。今川方の富士勢を撃破し、富士勢は敗退(『勝山記』により)。
9月6日、武田軍と今川軍が大島で激突(大島合戦)。武田方は敗北(『塩山向嶽禅庵小年代記』『高白斎記』により)。 9月16日、今川氏親軍、富田城を陥落させる。大井殿が要害山城(丸山城)へ避難する(『塩山向嶽禅庵小年代記』『高白斎記』により)。
10月16日、今川氏親の重臣で遠江土方城城主福島正成が1万5000の大軍を率いて駿河から甲斐へ乱入。 穴山八郎信綱も今川氏に属し武田信虎と対立している。 荻原昌勝による奇略や、原虎胤の活躍により荒川飯田河原で福島正成勢を撃破(飯田河原合戦)し敗走させる。 今川氏に与していた穴山信綱が討死。穴山信風武田信虎に服従した。
11月3日、武田晴信が甲斐要害山城(石水寺城/積翠寺城)で生まれる。幼名太郎。母は大井殿(大井夫人)。 蟇目役は曽根縄長(曽根三河守)が勤めている(『高白斎記』により)。 板垣信方金丸虎嗣が傅役に抜擢される。
11月10日、今川氏親軍が勝山城に移る。
11月23日、荒川上條河原で2500余の兵を率いた武田信虎福島正成は戦い(上條河原合戦)、 武田信虎はここでも福島勢を迎撃する。福島氏らは4000余人が戦死したという。敗走した今川軍の残兵は富田城に退去し年を越している(『塩山向嶽禅庵小年代記』により)。
11月27日、要害山城(丸山城)で誕生した武田晴信が甲府に移る(『高白斎記』により)。
前山城主伴野貞祥は祖父伴野光利の三十三回忌、父伴野光信の七周忌の追善のために前山に貞祥寺を開基。

大永2年
(1522年)

大永2年(1522年)1月3日、武田信虎は国中に棟別銭を賊課する(『塩山向嶽禅庵小年代記』により)。
1月14日、富田城の今川氏親軍が開城し、甲斐から駿河へ撤退する(『塩山向嶽禅庵小年代記』『高白斎記』により)。
2月8日、武田信虎の家臣河村縄興が、伊勢神宮御師幸福大夫に書状を送り、国内の安定化を報じ、 甲斐への訪問を促している(『幸福大夫文書』により)。
4月、武田信虎の側室逸見殿(西昌院殿)が永昌院住持菊隠瑞譚に受戒し、春英理芳と称す(『菊隠録』により)。 逸見殿今井信是の娘。
8月17日、武田信虎は富士山に登り、駿河須山浅間社に立願して太刀一腰ほかを奉納する(『須山浅間神社文書』により)。
8月、武田信虎が佐久郡に侵攻し大井城を攻撃。 村上義清は大井城主大井忠重の要請を受けて出陣。 大井原で戦い(大井原合戦)、武田信虎は250余の首級を討ちとられ、敗走。
10月、村上義清は勢いにのって平賀源心斎(大井成頼)の求めに応じ逆に甲斐若神子へ出兵。 しかしこのときは武田信虎の重臣馬場虎貞が撃退している。
11月2日、武田信虎が大檀那として遷宮を行った山梨郡天神社の新社造宮が成る(『甲斐国志』により)。 武田信虎は家臣を率いて身延山久遠寺を参詣し、御授法を授けられる。富士参詣も行い、富士山に登り、御鉢廻りを行う(『勝山記』により)。

大永3年
(1523年)

大永3年(1523年)4月24日、武田信虎は湯村山城の普請をはじめる(『高白斎記』により)。
6月10日、武田信虎は信濃善光寺に参詣する。
12月3日、武田晴信の御袴着がなされる(『高白斎記』により)。

大永4年
(1524年)

大永4年(1524年)1月、武田信虎は武田軍の陣立初めを行う。
2月7日、武田信虎は都留郡猿橋へ出陣(『高白斎記』により)。 2月11日、武田信虎は1万8000の兵を率いて都留郡猿橋に着陣し、 北條氏綱と対陣(猿橋合戦)する。奥三方へ侵攻。しばしば野戦となる(『勝山記』により)。 小猿橋で武田軍と北條軍はしばしば戦い、土屋信遠が戦死している。
3月30日(2月11日)、武田信虎は武蔵秩父に出陣し、関東管領上杉憲房と対陣(秩父合戦)する(『王代記』により)。
6月16日、甲府一條小山砦の普請をはじめる(『高白斎記』により)。
6月20日(7月20日)、武田信虎は武蔵国岩槻城を攻める。 武田信虎は扇谷上杉氏上杉朝興救援のために武蔵岩槻に出陣し、 関東管領上杉憲房と対陣(岩槻合戦)する(『高白斎記』により)。
11月23日、武田信虎北條氏綱と講和するが、北條氏綱武田信虎のことを信用できないと越後の長尾為景に報じている(『上杉家文書』により)。

大永5年
(1525年)

3月、和睦により、北條氏綱から甲府へ銭千貫文が贈られる(『勝山記』により)。
3月10日、越後長尾為景北條氏綱に鷹三羽を贈るために甲斐国通行を要請するが、 武田信虎は要請を断り、鷹を抑留し一羽のみを北條氏綱のもとへ届ける(『上杉文書』により)。
武田氏と北條氏の和睦は間もなく破れ、武田信虎北條氏綱と再び対決し、 津久井城を攻城(津久井城合戦)する。しかし陥落させることはできなかった(『勝山記』により)。
4月1日、武田信虎諏訪頼満に追われた諏訪大社下社大祝の金刺盛昌金刺昌春らを匿う。金刺昌春らに甲府に屋敷を与えている(『勝山記』により)。
8月2日、武田信虎は塩山向嶽寺(向岳寺)に禁制を与える(『向嶽寺文書』により)。「信虎」朱印の初見とされている。
今川氏親とも戦う。
北條氏綱と和睦し、関東管領上杉憲房とも和睦する(『勝山記』により)。

大永6年
(1526年)

武田信虎北條氏綱との和睦が何度も試みられるが、合意に至らなかった(『勝山記』により)。
3月27日、一條小山砦の普請のために、一條一蓮寺を一條小山から小山原へ移転させる(『高白斎記』により)。
6月19日、武田信虎は将軍足利義晴に上洛を促される。武田信虎が上洛するのではないかと噂が流れる(『勝山記』により)。 足利義晴
武田信虎に上洛を命じたのは自分の地位が危うくなったためで、武田信虎はすでに上洛したという噂も流れる(『妙法寺記』により)。
6月23日、武田信虎の好敵手だった駿河守護今川氏親が死去。
7月24日、武田信虎が山中に在陣。
7月30日、武田信虎は富士北麓(籠坂峠麓)加古坂の梨ノ木平に出陣し、北條氏綱と戦い(梨木平合戦(梨ノ木平合戦))大勝する(『勝山記』により)。 北條氏綱軍は、須走氏、高田氏、黒石入道、葛山氏、御宿氏らが戦死し敗走している(『勝山記』により)。
9月8日、武田信虎が塩山向嶽寺の門前敷地に対する権利を安堵する(『向岳寺文書』により)。
10月18日、武田信虎は大蔵峯(北杜市)に出陣。

大永7年
(1527年)

大永7年(1527年)1月25日、武田信虎は上條の地蔵堂(国母地蔵)を甲府に移転させるための普請をはじめる(『高白斎記』により)。
4月27日、足利義晴武田信虎の音問を謝し、忠節を励ます。上洛を促す(『後鑑』により)。
足利義晴は諏訪社大祝、木曽義元らに武田信虎との協力を命じている(『室町家御内書案』により)。
6月3日、佐久の諸豪とそりがあわなくなって身の危険を感じた伴野貞慶は、武田信虎に頼み込んで出兵を仰いだりしている。 武田信虎伴野貞慶を救援するため信濃佐久へ出陣。 大井氏らと対陣し、和睦を成立させると善光寺に参詣して帰還した。伴野氏から所領の進上があったが、武田信虎は辞退している(『勝山記』により)。
甲斐国の武田信虎が伴野氏に頼まれて信濃国に出立したが、信濃国方が一丸となって抵抗し、伴野氏は行方不明になったと『妙法寺記』には記されている。
武田信虎今川氏輝と和睦。早馬(走馬)で甲斐国内に通達される(『勝山記』により)。
足利義晴が洛外で柳本賢治と戦い敗れたために近江国に逃れ、再度武田信虎に上洛を命じた。
6月19日、足利義晴上杉憲政や諏訪上社大祝の木曾氏らに書状を送り、武田信虎の上洛について便宜をはかるよう命じる。
7月8日、武田信虎が信濃国善光寺に参詣する。
7月19日、上條の地蔵を甲府へ移す(『高白斎記』により)。

亨禄元年
(1528年)

亨禄元年(1528年)、武田信虎は信濃諏訪郡富士見に兵を進め、先達城を修築し入城。 これに対して諏訪頼満も兵を率いて出陣。
8月20日、武田信虎諏訪頼満諏訪頼隆父子と甲信国境の朝方の神戸で戦い(神戸合戦)、諏訪勢を撃破。
8月22日、武田信虎金刺昌春を擁して諏訪へ侵攻。 8月26日、武田信虎諏訪頼満諏訪頼隆父子と青柳で対陣する(『諏訪神使御頭之日記』により)。
8月30日、境川での戦い(境川合戦)では武田信虎は敗れ、萩原昌重(萩原備中守)らが討死し、200騎が討とられた。 諏訪勢では千野孫四郎(茅野孫四郎)らが討死している(『諏訪神使御頭之日記』『勝山記』により)。
武田信虎は徳政令を出す(『勝山記』により)。

亨禄2年
(1529年)

武田信虎小山田信有の関係が悪化し、武田信虎は路次封鎖を行う。
5月24日、武田信虎は黒駒の時宗称願寺に狼藉禁止と諸役免許特権を与える。武田信虎が「沙弥道因」と自称した唯一の所見(『称願寺文書』により)。
6月20日、小山田信有の母御大方殿が遠江国に在住する姉を訪ね、今川氏に仲介を依頼する。
10月18日、小山田信有の母御大方殿が帰国し、小山田家臣が大挙して出迎える。
武田信虎の家臣小田切秋連が八代郡聖応寺に所領を寄進する(『聖応寺文書』により)。
11月15日、武田信虎は路次封鎖を解除し、都留郡で棟別賊課を実施する(『勝山記』により)。
武田信虎は一族加賀美虎光討伐を諌言した股肱の臣山縣虎清馬場虎貞 らを相次いで斬首する。大永元年(1521年)に今川氏親軍を撃破して以来、自信過剰から勇を誇り強引なまでに戦を繰り返す武田信虎を見兼ねて、 馬場虎貞山縣虎清が57ヶ条の書き上げをもって強諫したわけだが、 これにより武田信虎の逆鱗に触れ誅されてしまった。

亨禄3年
(1530年)

亨禄3年(1530年)1月7日、小山田信有が猿橋に出陣し、武田信虎軍と合流する(『勝山記』により)。 3月、小山田信有の居館であった中津森館が焼失する(『勝山記』により)。
4月23日、小山田信有北條氏綱と北都留郡八坪坂で戦い(八坪坂合戦)敗れる。 吉田勢に多くの死者が出る(『勝山記』により)。
諏訪頼満の嫡男諏訪頼隆が病死。
扇谷上杉氏上杉朝興が、上杉憲房の後妻を奪い、武田信虎の側室として甲斐へ送る(『勝山記』により)。
足利義晴長尾為景に上洛を命じる(『越佐史料(3の759)』により)。

亨禄4年
(1531年)

亨禄4年(1531年)1月21日、武田信虎は、反旗を翻し御岳(御嶽)に籠る甲斐国人飫富虎昌栗原信真大井信業今井信是今井信元らと戦う(御岳合戦)。 逸見信親を通して諏訪上社の大祝諏訪頼満が反武田軍の援軍として参陣。 諏訪頼満武田信虎が下社牢人衆を集めて籠もっていた笹尾塁を攻略し、さらに軍を進める(『勝山記』により)。
1月22日、国中大乱(『塩山向嶽禅庵小年代記』により)。
2月2日、武田信虎は反旗を翻した大井信業今井信是らと戦い、 大井信業今井信是らを討死させる。
3月3日、武田信虎は、栗原信真を討死させ800余人を討ちとる。
3月12日、穴山信綱が没し、穴山信友が継ぐ(『大聖寺過去帳』により)。
4月12日、武田信虎諏訪頼満今井信元飫富虎昌栗原信友らと塩川河原部(韮崎市河原辺)で戦い(韮崎塩川河原合戦)大勝する。 諏訪頼満の軍勢は1000人近い死傷者を出して退去(『諏訪神幸記』『諏訪神使御頭之日記』により)。
栗原信真の長男栗原信友はこの合戦の大敗により降伏。

天文元年
(1532年)

天文元年(1532年)9月、諏訪氏の援助を得て再び今井信元が反旗を翻し、巨摩郡小倉(北杜市須玉町)の浦城に籠る。 武田信虎今井信元を攻め(小倉合戦)て降伏させる(『勝山記』により)。 これにより甲斐国内統一をほぼ完了させた武田信虎は、隣国の駿河、相模、信濃への攻勢にさらに勢力を傾けていく。
村上義清が家臣楽巌寺雅方依田新左衛門布下政朝(布下仁兵衛)らに戸石城を築城させる。のちに、武田晴信が苦渋をなめることになる難攻不落の名城。

天文2年
(1533年)

武田晴信が扇谷上杉氏上杉朝興の娘(扇谷殿)を娶る。
この時期、大地震があり、甲斐全土に冷害、干ばつ、水害の天変地異がつづいており、農耕を専業とする農兵とその家族の大半が飢餓にあえぎ、 餓死する者も多く出ている。 飢えに苦しむ農兵の暮らしを無視して戦場に狩り出す武田信虎は、10年以上も信濃での長い戦をつづけてきたことも、味方の死傷者を多数出し、武器や武具、軍馬の消耗も増えるばかりとなっていた。

天文3年
(1534年)

武田晴信の妻となった上杉朝興の娘(扇谷殿)は懐胎するが、母子ともに死去する。

天文4年
(1535年)

天文4年(1535年)6月5日に武田信虎は今川氏との戦いのため甲駿国境に軍勢を送る。 8月、万沢口(南巨摩郡南部町富沢)で万沢口合戦が起こる(『為和卿集』により)。
8月16日に北條氏綱北條氏康父子が、今川氏救援のために甲斐都留郡に出陣。 8月22日に武田信虎は都留郡山中で北條勢と今川勢の連合軍と戦い(山中合戦)大敗。 武田信虎の弟勝沼信友が討死し、小山田氏(小山田弾正など)も多数の戦死者を出した。 上吉田下吉田が焼かれている(『勝山記』『快元僧都記』により)。
9月17日、武田信虎はそれまで敵対していた諏訪頼満と甲信国境(諏訪郡富士見町山神戸北堺川)で会し、 諏訪上社の宝鈴を鳴らして和睦する(『諏訪神使御頭之日記』により)。諏訪上社の神宝の鉄鐸を鳴らしたのは諏訪上社神官守矢頼真(『銅鐸(藤森栄一)』により)。 次の矛先を弱小領主が割拠していた佐久郡へ向ける。
武田信虎の軍師荻原昌勝が病死。荻原昌勝は度度武田信虎を諌めてきたという。 加藤虎景荻原昌勝に代わって軍師をつとめる。

天文5年
(1536年)

天文5年(1536年)3月(1月17日)、武田晴信は元服し将軍足利義晴の偏諱を受けて太郎から武田晴信と改め、 従五位下左京大夫(大膳大夫)に叙せられる(『高白斎記』により)。京都からは正親町公叙が下ってきて官位を伝達した。
6月8日、今川氏輝の急死により花倉の乱が起こり、 武田信虎今川義元を推し、玄広恵探(今川良真)福島正成に味方した甲斐国人前島一族を成敗する。 このことで奉行衆で国外へ出奔するもの、追放されるものも続出する(『勝山記』により)。
この合戦で福島正成は討死。
北条氏綱が駿河に侵攻すると、武田信虎は今川軍の援軍として参戦し、飫富虎昌の活躍もあり北條氏綱を撃破する。
武田晴信今川義元の斡旋によって公家三條公頼の娘(三條殿)を娶る。三條氏は清華といわれ太政大臣を極官とし、五摂家につぐ名門。 都の文化にあこがれる武田信虎にとっては望んでもない良縁。しかも三條殿の姉は細川晴元に、妹は本願寺顕如に嫁いでいることも、 上洛して天下に号令することを悲願とする武田氏にとってはこの上ない婚姻となる。
11月、武田信虎は信濃佐久郡に出陣し、村上義清と戦う。 武田晴信の初陣となり、海ノ口城将平賀源心斎(大井成頼)と戦い(海ノ口城合戦)討ちとる。
楽巌寺光氏(室賀光氏)村上義清の命により戸石城を改修。

天文6年
(1537年)

天文6年(1537年)2月10日、武田信虎は長女定恵院を駿河守護今川義元に嫁がせ、甲駿同盟を成立させる。 甲駿同盟に激怒した北條氏綱が2月26日に駿河へ出兵。興津近辺に放火する。 武田信虎今川義元救援のために富士須走口に出陣(須走口合戦)している(『勝山記』により)。
工藤虎豊内藤虎資武田信虎の駿河出兵(前島一族成敗や今川良真北條氏綱との戦い)について 直諫したことで誅殺され、工藤一族は国外へ追放されている。

天文7年
(1538年)

天文7年(1538年)2月、甲州八ヶ岳山麓の小荒間(北巨摩郡長坂町小泉)で合戦(小荒間合戦)がおこっている。 村上義清麾下の清野氏、高梨氏、井上氏、隅田氏らが2500(3500)余の軍勢で佐久郡から甲信国境を越えて侵入し、 八ヶ岳山麓の小荒間まで進攻してきて近郷に放火するなど乱暴を働いたという。多田満頼がみごとな夜襲戦の采配をふるって計略によって敵を迎撃している(天文9年(1540年)の説もある。)。
5月16日、北條氏綱が都留郡吉田新宿に侵攻(吉田新宿合戦)。 その後北條氏綱と和議を結ぶ。
村上義清との戦いもつづいており、飫富虎昌が首級97を討ちとるという軍功をあげる活躍もあって、 数で勝る村上勢を撃破する。
小笠原長棟が甲州へ攻め込み、韮崎においてこれを迎撃(韮崎合戦)。小笠原軍は2700余の戦死者を出して撤退。 飫富虎昌の率いる赤備え隊が第一陣をつとめ、甘利虎泰隊、小山田信有隊、板垣信方隊らがつづき、小笠原勢を追い散らしたという。 この合戦では小幡虎盛が三度の一番槍の功名をあげている。 『甲陽軍鑑』によれば小笠原氏だけでなく諏訪氏も連合して攻め寄せたとあるが、諏訪氏とは同盟関係にあり諏訪氏の侵攻はないと思われる。 この合戦は『甲陽軍鑑』『常山紀談』『甲州安見記』に記述があるだけで、武田史料として信頼度の高い『妙法寺記』『王代記』や諏訪史料『諏訪神使御頭之日記』などには、 享禄4年(1531年)に起こった韮崎塩川河原合戦の記述だけで、混同があったものともされている。
8月、武田信虎大井信達らは冷泉為和を招き、和歌の会を武田信虎邸で開いている(『為和卿集』により)。
武田義信が生まれる。幼名は太郎。
12月、板垣信方率いる5000余人の武田軍が海尻城を攻城(第一回海尻城合戦)。

天文8年
(1539年)

天文8年(1539年)1月、板垣信方は智略をもって海尻城を落とす。(天文9年(1540年)の説もある。)
武田信虎は北條氏との戦いに多忙をきわめている。
佐久侵攻を飫富虎昌に進めさせ、北信の豪族村上義清の居城である葛尾城まで攻め入ったという。 葛尾城は村上氏の本拠であるが、佐久郡が武田氏と村上氏の取り合いの地となっていたので、 村上氏の本拠葛尾城まではさすがに攻め入ることは難しい。いずれにしても佐久郡を舞台に村上義清勢と戦っていたことは確かであろう。
12月、村上義清の反撃もあって、重臣楽巌寺満氏率いる3000余の一軍が、 地侍たち一揆衆とともに海尻城を攻城。 日向昌時(日向大和守)長坂虎房(長坂釣閑斎)が敗走させられる。 二の郭まで攻め込まれるが、援軍が到着するまで海尻城代上原昌辰が猛攻を必死にしのぐ。
12月31日、甲斐国からの援軍として武田晴信が海尻城に到着して村上勢を撃退。
諏訪頼満が背中に悪性の腫れ物ができ没す。諏訪大祝家を諏訪頼重が継ぐ。 諏訪頼満は享年61歳。

天文9年
(1540年)

天文9年(1540年)2月、武田晴信は海尻城の防備をかため甲斐国へ帰郷。
4月、武田信虎板垣信方に命じて佐久郡臼田城、入沢城など10数城を攻略させ、 前山城を築いて在陣している(『塩山向岳禅庵小年代記(塩山向嶽禅庵小年代記)』『勝山記』により)。前山城主の伴野氏は武田氏の信濃国佐久郡侵攻に協力。前山城に迎え入れた。
5月、武田信虎板垣信方に佐久郡への出兵を命じ、一日に36城を陥落させる。 小山田氏の代理として小林宮内助が佐久郡に出陣し、一城を築城する。兵を大勢かりだされ迷惑のいたりであると『妙法寺記』に記されている。
8月2日、武田信虎は海ノ口宿に伝馬朱印状を与える。
8月11日には大型台風のため躑躅ヶ崎館や家臣の屋敷が破損し、人家は吹き飛ばされ、田畑は流失。 秋の農作物の収穫は激減し、甲斐国内は100年に一度といわれる大凶作となった。 凶作は深刻で冬から春にかけ山村では餓死者が出たにもかかわらず、武田信虎は救済には乗り出さなかった。
11月29日、武田信虎は三女禰禰殿諏訪頼重に嫁がす。禰禰殿は13歳。 諏訪頼重小笠原長時家臣の麻績氏の娘麻績殿をすでに娶っており、麻績殿とのあいだに1人娘諏訪殿を生んでいる。
11月30日に輿入れ、12月9日には諏訪頼重が甲斐へ婿入り。
12月17日、武田信虎は上原城へ招かれる。

天文10年
(1541年)

天文10年(1541年)5月13日、武田信虎諏訪頼重とともに小県郡海野平へ出兵。
25日、海野城主海野棟綱を攻める(海野平合戦)。長年海野氏と宿敵関係にあった村上義清も与し、 武田氏、諏訪氏、村上氏の連合軍に攻められた海野氏は滅亡。 祢津氏は神氏(諏訪氏に系譜を仮託し神氏に加わっていた)であるために諏訪氏に与し降伏を許される。 海野棟綱は上野国の羽尾氏を頼り亡命(『諏訪神使御頭之日記』『高白斎記』により)。
5月、安芸武田氏武田元繁毛利元就に攻められ滅亡する。
6月4日に戦から帰ってきた武田信虎武田晴信によって今川義元のもとへ追放される(武田晴信による実父追放事件(無血クーデター))。 日頃から横暴なふるまいの多い武田信虎を見限っていた重臣たち、板垣信方をはじめ、 飫富虎昌甘利虎泰諸角虎定原虎胤穴山信友小幡虎盛らの賛同をえて、 6月14日に武田信虎が長女と孫の顔を見に行くと駿河へ出かけたのを好機ととらえ、 武田晴信は父武田信虎に対して駿河隠居という強行手段に出た。 なかでも大井夫人でさえもが「ぜひともご苦労だが、お願いします」と武田信虎追放を願っていた。 板垣信方の家臣山家三郎助武田信虎を国境の河内で遮り駿河国へ引き返させている(『塩山向岳禅庵小年代記』『勝山記』により)。
武田信虎の側近であった駒井高白斎(駒井政武)の日記『高白斎記』に「6月小丙辰14日、信虎公甲府御立、駿河へ御越、甲府に於いて16日に各存候」とあるように、 近臣だった駒井高白斎すらも2日後に知ったというのだから、いわば無血クーデターともいえる国主交代劇が、 いかに武田晴信を中心にごく限られた小数の重臣の間で綿密に、しかも隠密裏に計画され、実行に移されたかを知ることができる。
6月16日に武田晴信が甲斐守護職就任の報が早馬で各郷へ伝わると、 「これで天災は消える」「国も生まれ変わる」と武田信虎が追放されて民はホッとしたという。 『塩山向岳禅庵小年代記』『妙法寺記』などの記録には武田信虎の悪政を記すことで、父追放を正当化する弁護論とも受けとれる一面をのぞかせている。 武田信虎は生きて再び甲斐の土を踏むことはなかった。今川義元の求めもあり武田晴信武田信虎の隠居のための資金を永禄3年(1560年)の桶狭間合戦今川義元が討死するまで、 今川氏に送りつづけ、女中衆も送っている。
武田晴信は武田庄(韮崎市神山町)において社殿(武田八幡神社)造営に着手。 社宝には武田晴信奉納の備前兼光の大刀、大薙刀、そして武田勝頼夫人北條氏の願文が残る。

天文11年
(1542年)

天文11年(1542年)2月、武田信虎が追放されたのを知り、 村上義清小笠原長時諏訪頼重木曾義康らと与して甲斐へ乱入。諏訪頼重は武田氏と同盟していたので甲斐へ進攻することは考えにくく、信頼性の高い武田史料にこの合戦が記されていないことから実際にはなかったともされている。
3月9日、瀬沢で武田晴信は小笠原勢を迎撃(瀬沢合戦)する。甘利虎泰飫富虎昌らは負傷するが、 1621の首帳をもって勝鬨式を行う。
4月4日には諏訪頼重に男児が生まれる。寅年生まれであることから寅王丸(虎王丸)と命名される。
7月2日(6月15日)、高遠頼継は一族諏訪頼重を追放して自らが諏訪の地を手中に収めようと野望をいだき、 諏訪上社の禰宜矢島満清を抱き込み、矢島の名でもって武田晴信に密書を送る。 密書の内容は、諏訪頼重が謀反を企てているというものであった。 武田晴信は下社金刺昌春金刺晴長父子にひそかに連絡をとる。 武田晴信が出馬することを知ると高遠頼継は杖突峠から攻め込むと武田晴信に伝える。 関東管領上杉憲政と抗争していた北信村上義清応援のために進軍していた諏訪頼重が、 上杉憲政と和睦し諏訪へ引き返してきたことに「上杉と結んで武田に刃向うもの」と大義名分を打ち出し、 武田晴信は動員した兵を信濃境の教来石郷に集結させる。
武田晴信は油断していた諏訪頼重の上原城を攻城。 諏訪勢は長窪城への出陣で疲労していた家臣350騎がくたびれた馬に乗り、800人ほどの従者とともに馳せ参じた。 諏訪頼重をはじめ、重臣千野伊豆入道(茅野伊豆入道)千野南明庵(茅野南明庵)たちは狼狽しながらも奮戦。 7月1日、いよいよ高遠頼継までもが杖突峠から諏訪に侵入し、安国寺に放火。 劣勢は挽回できるはずもなく、諏訪頼重は桑原城へ逃れる。 小競り合いがつづいたが、7月5日、見回りに出た諏訪頼重を警備兵が脱出しようとしていると勘違いし、 持ち場を放棄。次次と城兵が逃亡することとなり、 諏訪頼重夫妻と寅王丸(虎王丸)、弟諏訪頼高ら数10人だけとなってしまった。 7月6日、投降に応じざるをえなくなった諏訪頼重は捕らえられ、甲斐国へ送致し東光寺に監禁。 禰禰殿寅王丸(虎王丸)らも甲斐国で滞在(『守矢頼真書留』『高白斎記』により)。
諏訪郡代に板垣信方を任命する。
7月21日、甲斐板垣郷東光寺で諏訪頼重諏訪頼高兄弟は自害。 『高白斎記』に「19日頼重牢者、21日寅刻頼重被為切腹」とある。諏訪大社神長官守矢頼真の記した『守矢頼真書留』には 「切腹にさきだってサケ、サカナをといったところ、酒は持ってきたが肴はないと武田の家臣が応えたので、 武田では切腹の作法をご存じないとみえる。肴とは脇差のこと。われらほどの武士に腹を切らせることは、 武田家では今まであるまい。といって作法通りに立派に切腹した。」と旧主の最期を粉飾して記されている。
9月25日、武田晴信は宮川を境に諏訪領の西半分を高遠頼継に与えていたが、 高遠頼継はそれを不服とし諏訪へ侵攻。 安国寺前宮川原に布陣した合戦(安国寺合戦)は、 生後4ヶ月の寅王丸を擁する武田晴信高遠頼継勢を敗走させる(『諏訪神使日記』『守矢頼真書留』により)。 茶臼山城の諏訪満隆諏訪頼重滅亡を傍観していたことで諏訪頼重の遺臣や上社神長官守矢頼真(守屋頼真)らに猛反発を抱かれていた。 諏訪満隣諏訪頼高の嫡男諏訪頼忠(諏訪小太郎)を12月に大祝に仕立て後見人となっていたが、やはり諏訪頼重が籠城していた桑原城に駆けつけなかったことが反発を呼んでいた。 寅王丸(虎王丸)が後継者として相応しいとみる者も多く、 高遠頼継に従わずに、寅王丸を擁する武田氏に与した者が多かった。
高遠頼継は福与城の藤沢頼親や府中林城の小笠原長時に使者を送り武田晴信に対抗しようとしたが、 藤沢頼親でさえも武田晴信に降伏し所領を安堵されていたため、いまさら反旗を翻し犠牲を出したくないと高遠頼継に与さない姿勢を示していた。 諏訪一族ながら北信濃で勢力をもっていた保科正俊は、村上義清に追われて高遠頼継を頼り仕えていた。その保科正俊が使者に抜擢され、 藤沢頼親らを説得。保科正俊の活躍により、高遠頼継は藤沢氏や小笠原氏の協力を得ることになり、守備態勢を固めていった。
12月、武田晴信は、滋野一族祢津元直の娘(祢津殿)を側室に迎える。

天文12年
(1543年)

天文12年(1543年)1月9日(1月19日)、禰禰殿(禰禰御料人)が16歳の若さで病死。諏訪頼重の嫡男寅王丸(虎王丸)も早世。
11月15日、信濃諏訪郡への侵攻の正当性を失った武田氏は、諏訪の血を引く諏訪頼重の娘を室にしその子に諏訪氏を継がせることで諏訪諸氏を納得させることを決め、 武田晴信諏訪頼重の娘(諏訪殿)を側室として娶る。 諏訪殿は父諏訪頼重死後、諏訪満隆のもとに身を寄せて諏訪にいたが、 2月のはじめに諏訪満隆に連れられて、躑躅ヶ崎館へ挨拶にきており、その後は信濃の祢津元直(祢津神平)のもとに預けられていた。 山本勘助らの説得により、諏訪殿は甲斐府中の躑躅ヶ崎館へ側室として迎えられた。 祢津元直も諏訪総領家再興のためであるという説得に応じた。 板垣信方甘利虎泰飫富虎昌ら各家老たちもはじめは反対していたが、 山本勘助の智恵に賛同した。
12月、武田晴信は東信地方で8つの城を攻略したが、御代田の小田井城は小城でありながらなびく姿勢をとらず、 城主小田井信親(小田井又六郎)小田井信治(小田井又七郎)兄弟が籠る小田井城を攻める(小田井合戦)。 武田氏の前衛は歴戦の将板垣信方板垣信方山本勘助とともに小田井兄弟の夜襲にしっかりと備え、 夜襲を仕掛けてきた小田井兄弟を迎撃。城内へ逃げ込んだ小田井兄弟を武田勢3000は包囲し八方から火を放ち、 一角を破ると城内へ雪崩込み、小田井兄弟を討ちとり、城を制圧。500余を討ちとったという。

天文13年
(1544年)

天文13年(1544年)10月、武田晴信は5000の兵を率いて諏訪に入り、上原城の板垣信方の兵1000をあわせて、 藤沢頼親の福与城前衛の荒神山城を攻めた。擬装の軽い攻撃で武田晴信は甲斐へ軍を返す。
12月8日、高遠頼継は全兵力3000をあげて諏訪へ侵入し、上原城に強襲。上原城の板垣信方が籠城。 高遠頼継の軍勢は上原城陥落をできずに、長く包囲がつづいた。
12月、武田晴信は小山田氏の重臣小林宮内助を相模北條氏の小田原城へ派遣し、 関係の改善をはかる。

天文14年
(1545年)

天文14年(1545年)4月11日、武田晴信は6000の兵力で諏訪に進攻。 上原城を包囲していた高遠頼継の軍を追い払い、高遠頼継は杖突峠を越えて退却。
4月17日、武田晴信は高遠へ進攻。包囲した高遠城ではわずかな抵抗があったものの、 城主以下が逃亡しほぼ陥落した(『高白斎記』により)。山本勘助武田晴信の命により高遠城を大改修。 防衛上本丸の下に曲輪(勘助曲輪)を増築。
6月10日、武田晴信は高遠城を修築し、上伊那郡箕輪荒神山の福与城を攻めている(福与城合戦)。 城主藤沢頼親小笠原長時の妹を娶っていたこともあって、 小笠原氏の支援を受けて籠城をし、50日間の抗戦に及んだが、武田晴信の提案した和議に応じ、投降した。 藤沢頼親の弟藤沢権次郎頼忠は人質として甲斐へ送致。 藤沢頼親に与した小笠原長時は撤退したが、 武田晴信は逆に林城近くまで侵攻し、領内を荒しまわり焼討ちして兵を引上げた。 小笠原氏、木曽氏の連合軍との戦いで荻原昌信荻原信基兄弟が討死している。

天文15年
(1546年)

笠原山志賀城主志賀新三郎清繁(笠原清繁)が武田氏の守備隊を襲って城砦を奪取。
内山城主大井貞清父子も抵抗していたが、 武田晴信は内山城を攻め、大井貞清父子を降伏させた。

天文16年
(1547年)

天文16年(1547年)2月17日、後奈良天皇が綸旨を武田晴信に下し、三條大納言家へ納める青苧・白苧の年貢の完納を督促する(『武田神社文書』により)。
5月30日、駒井高白斎(駒井政武)が甲州法度之次第の案文を完成させ、武田晴信に進上する(『高白斎記』により)。
閏7月13日、武田晴信は甲斐を発し、諏訪、高遠の兵をあわせて総勢7000余で北上。 7月20日、桜井山城に到着。 7月24日には志賀城攻城(志賀城合戦)を開始した。 城主志賀清重(笠原清繁)は上野国の上杉憲政に通じ、上杉氏からの援軍として高田憲頼高田繁頼父子も入城したことで、包囲は10日にもおよび落城しなかった。 武田晴信は志賀城の水の手を切って包囲したが、志賀城はそれでも落ちなかった。
8月、上野から新たな援軍として金井秀景らが到着。 武田晴信板垣信方甘利虎泰横田高松多田頼満小山田信有栗原昌清らを派遣し、 8月6日には小田井原(北佐久郡御代田町)で激突(碓氷峠(笛吹峠)合戦)。 武田方の曲淵庄右衛門三科肥前守小出越前守らの活躍もあり、 武田方の大勝となり、金井秀景率いる上杉勢は師岡隼人をはじめとする1219人(『妙法寺記』によれば大将格15人、雑兵3000人)もの死者を出した。 武田晴信は合戦で討取った首を志賀城の周辺にさらし城兵を威嚇。 城兵は戦意を喪失し、8月11日の武田方の総攻撃によって城兵300余人が戦死。 城主志賀清重(笠原清繁)志賀清仲父子、副将小川六右衛門、また援軍高田憲頼父子らも討死。 志賀清重(笠原清繁)夫人(笠原殿)は、小山田信有がもらいうけ側室とした。

天文17年
(1548年)

天文17年(1548年)2月2日、甲斐を発した武田晴信は諏訪から大門峠をへて丸子を通り塩田平へ馬を進めた。 真田幸隆も加わり進軍。行軍の道筋は雪が深く、大軍の移動には決して好条件ではなかった。 本陣を小県郡の上田原東方の高地にすえ、軍を倉升山に布陣、武田氏兵力は8000。村上義清は葛尾城に10000余の兵を集めた。 村上義清は家老筆頭楽巌寺光氏(室賀満氏)を川中島北部の豪族、高梨政頼井上清政須田信正島津規久小田切清定らへ派遣し出兵を促した。 また、侍大将西條義忠屋代政綱(屋代道斎)森村清秀らを筆頭に軍議が開かれた。 度重なる戦での兵力消耗から、籠城意見が多いなかで、撃って出るべきだと強調した村上義清は、 2月14日、3000の兵を葛尾城へ残し7000の兵を率いて出陣。300の兵を和合城に残し天白山を背に上田岩鼻口に陣を敷いた。 先陣は高梨政頼井上清政清野清秀らで、ニ陣は須田信正須田満親父子、島津規久小田切清定、 左備に室賀信俊室賀光政(室賀光正)父子、右備に栗田国時、後備に山田国政斎藤久右衛門らが備えた。 武田軍は先陣に板垣信方甘利虎泰、ニ陣に飫富虎昌武田信繁小山田信有、右備に諸角虎定真田幸隆、 左備に教来石信房、後備に工藤昌豊、遊軍に原昌俊がついた。 3500の兵を率いた板垣信方の軍勢が村上勢に突撃して開戦(上田原合戦)。 甘利虎泰小山田信有才間河内守初鹿野高利(初鹿野伝右衛門)らがつづき、押しに押した武田軍は150余の首級を奪った。 板垣信方の猛攻は鋭く村上勢の前線を切り崩し、村上勢は混乱した。しかし村上勢のニ陣が混乱を立て直し、板垣軍を迎撃。 戦況をみた村上義清は深追いする板垣勢に猛攻を加え、さらに武田氏の本陣に突撃し、武田勢は大混乱に陥った。地の利を得た村上勢は強かった。 板垣信方は、武田晴信を安全圏に逃すために戦死する。 村上義清家臣の安中一藤太板垣信方に斬りかかり、最期は上條織部が討ちとった。 板垣勢を救援しようと奮戦するも甘利虎泰も討死。初鹿野高利才間河内守らも混乱のなかで次次と討死。 劣勢となった武田勢だったが工藤昌豊教来石信房らが村上勢旗本衆を横から攻めかかり追い散らし混戦となった。 村上義清武田晴信は馬上で渡り合い、火花を散らして斬りあった。 村上義清は混戦のなかで落馬し傷を負ったため退却するほかなかったが、武田晴信村上義清に斬られ二ヵ所の軽傷を負った。 先陣が崩れた武田勢だがニ陣栗原左衛門が村上勢を切崩し、飫富虎昌上原昌辰小山田信有武田信繁らが盛り返したため、 疲れきった村上勢は葛尾城へ兵を引き上げた。 諸角虎定真田幸隆浅利信種原昌俊が退却する村上勢を追い討ち、 村上勢は屋代基綱屋代政綱(屋代道斎)雨宮正利(雨宮刑部)若槻清尚小島権兵衛ら宿将が討死。 村上勢も2919余の戦死者を出すほどの大打撃を受けたが、武田氏にとって板垣信方の死は『妙法寺記』に「一国のなげき限りなし」と記されるほど、 たいへんなショックだったろう。武田晴信は戦場において、敵地でありながら、おいそれと陣を引き払おうとせず、死体を収容して弔い、 村上勢の追撃や夜襲に備え、周辺の状況にも油断なく警戒し、3日後に堂堂と甲斐へ引き上げていった(『高白斎記』『勝山記』『諏訪文書』により)。
4月5日、武田晴信が上田原合戦で敗れたのを知り小笠原長時村上義清仁科盛明(仁科修理)藤沢頼親らとともに諏訪下社に討ち入る。
上田原合戦での村上氏の善戦に呼応して、4月25日に小県郡長窪城や南佐久郡内山城で大井一族が反旗を翻し、 内山城に放火したり、伴野貞慶の前山城を攻落すなど、村上氏に属した。 村上義清を助けるため、上杉憲政が8000の軍勢を率いて飫富虎昌の守備する内山城を攻める。 飫富虎昌は800の城兵を指揮して奇襲作戦を展開し、上杉軍を右往左往させた(内山城合戦)。
6月10日にも諏訪下社へ小笠原長時が攻めこむが、このときは小笠原勢を迎撃(塩尻峠合戦)。 100人余を討ちとり小笠原長時も二ヵ所に手傷を負い敗走した。
7月10日には小笠原氏に通じていた諏訪湖西岸の諸氏(西方衆)や諏訪氏一族、神一族の矢島満清花岡昌直らが諏訪へ侵攻。
西方衆(諏訪湖西岸の豪族たち)が一斉に蜂起したことで、佐久郡でも小豪族が村上氏に寝返り、内山城や前山城が落ちた。
神長官守矢頼真(守屋頼真)千野靫負尉(茅野靫負尉)は上原城に籠り小笠原氏と抗戦。 板垣信方の死後、上原城代を勤めていた板垣信方の弟諸角虎登(諸角玄蕃允)も奮戦していた。 武田晴信はすぐに出馬するが、7月18日になってやっと長坂今井の大井ヶ森(山梨県北杜市大井ノ森)から諏訪へ入った。 小笠原長時も5000の軍勢をそろえて塩尻峠で陣を張っていたが、 西方衆や神一族を味方にし、洗馬の三村長親(三村駿河守)や山辺氏、西牧貞兼(西牧四郎右衛門)ら参陣している武将の顔ぶれから、自信に満ちていた。 ところが、ゆっくりと行軍していたはずの武田軍が7月19日の早朝に小笠原勢を急襲。不意をつかれた小笠原勢は大混乱。 さらに三村長親(三村駿河守)西牧貞兼(西牧四郎右衛門)、洗馬氏、山辺氏らが1500の兵を連れ武田氏に寝返ったため、 塩尻峠から勝弦峠まで逃げ延びたが追撃され1000余人が討ちとられ敗走。 小笠原長時もほうほうのていで深志城へ逃げ帰った。
8月11日、武田晴信長坂虎房に諏訪郡上原城在城を命じる(『高白斎記』により)。 武田晴信は9月には諏訪から佐久に侵攻し失地を回復する。
10月2日、武田晴信は村井城(松本市芳川)へ入城。 10月4日、武田晴信は普請を開始。城取(築城)の技術に長けた山本勘助により村井城を築城を命じ甲斐へ帰った。

天文18年
(1549年)

天文18年(1549年)6月、伴野信豊の弟伴野信是が武田氏に出仕(『高白斎記』により)。
9月2日、大井城を叩き本陣を岩村田に据えた武田晴信は、反旗を翻した平原城を攻める(平原城合戦)。
平原和泉守幡繁村上義清から援軍500人を預かり、要害平原城に自信をもって籠城。 城の守りは堅く、騎馬隊の再三の突撃をみごとに撃退し、攻勢は4日間もつづき城内の士気はますます向上。 武田方は和議を申し入れ、いつまでも籠城しているのも得策ではないと考えた平原方も和議を承諾。 ところが、その夜に武田軍は城へ火を放ち城内へ雪崩込む。油断していた平原勢はもはや戦うどころではなく、 武田氏は謀略でもって勝利をあげている。 平原幡繁は城を脱出していたが後日武田氏に従う起請文を出して仕える。

天文19年
(1550年)

天文19年(1550年)4月、武田晴信は、後奈良天皇宸筆の般若心経を甲斐一宮に納める(『浅間神社文書』により)。
閏5月25日、武田晴信は松本村井城に小笠原長時を破る。
7月10日、武田晴信は村井城へ入り、7月15日に乾城を攻め破る。 林城(大城)、深志城、岡田城、桐原城、山家城が戦わずして落城。島立城、浅間城も降服。 武田氏はほとんど兵力を費やさずに府中を手に入れる。小笠原長時は平瀬城へ落ち延びる(『小笠原歴代記』により)。
7月19日、深志城を拠点に決め、駒井高白斎によって鍬入れを行い、 7月23日に山本勘助により大規模な改修が着手され、堅固な城にし、 教来石信房を城代とする。
8月9日、小笠原長時を追い、武田晴信は佐久郡へ馬を進め、参謀駒井高白斎を使者として村上義清のもとへ送る。
8月14日、駿河今川義元の重臣一宮出羽守村上義清のもとへかけつけた。 多少は威し文句をちらつかせる条件を見せての和議の申し入れであったが、 上田原合戦で勝利した村上義清はその手には乗らず、返答書を見た武田晴信は号令をかけて甲斐へいったん引上げる。 9ヶ月近く兵馬を養い、今川義元に嫁いでいた姉の死去に雑事を終えると、いよいよ小県郡へ出陣。 真田幸隆の調略工作がまだ不十分だったのを知りながらも戸石城を包囲。 兵は信濃衆を加えておよそ1万。武田信繁横田高松原虎胤工藤昌豊小山田信有ら歴戦の顔ぶれであった。 村上義清高梨政頼と勢力紛争の最中だったことで、 村上義清は戸石城にすぐに駆けつけられないと判断していたことが戸石城包囲の決め手であった。 それでも、裏へ抜ければ本拠の葛尾城も危いし、山頂から小県郡を一望できる重要な城であったため、 村上義清は守将に山田国政を戸石城に置いていた。
8月19日、武田晴信は1万近い軍勢を従え長窪城に着陣。
8月24日、今井藤左衛門らが戸石城へ偵察に向い、
8月25日には横田高松も敵の配備を伺いに出た。
8月27日、海野平に本陣を進め、8月28日には下原屋降地に陣を張り、
8月29日には武田晴信自身が戸石城を偵察。
9月1日、清野左衛門が降伏。
9月3日に戸石城近くに本陣を進め、9月9日から戸石城攻撃がはじまるが成果をあげられず、 むしろ城兵からの反撃が激しく、武田勢は劣勢に立たされていたが、それでも攻撃はつづけられた。 村上勢は善戦しながら、村上義清の援軍を待っていた。
9月19日には真田幸隆の調略により須田新左衛門寺尾重頼らが武田氏に寝返る。
9月20日には村上義清高梨政頼と和睦し、挟撃を避けるためにも、高梨政頼とともに寺尾城を攻め、寺尾氏一族を討ち滅ぼす。 真田幸隆が寺尾氏救援に向かうが間に合わず、真田幸隆は戸石城へ退き返し撤退を進言。
10月1日、背後から攻撃される心配のなくなった村上勢は楽巌寺光氏(室賀満氏)を先陣に6500の兵で武田軍に襲いかかり、 籠っていると思っていた武田軍は浮き足立ち、退却を余儀なくされる。戸石城の城兵もおどり出て追撃。武田軍は総崩れとなった。 武田晴信はもはや指揮がとれないとみて、本陣と辛うじて体勢のとれる諸角虎定上原昌辰の軍勢と一戦を交えようと決めたが、 諸角隊の50騎を授かった山本勘助の采配で混乱を収拾し、殿を担った横田高松軍も死力を尽くし追い討ちの敵を迎撃。 上原昌辰隊は村上勢61人を追い討ち、甘利隊も村上勢132人を討ちとった。村上勢も日暮れがせまると引上げた。 横田高松小沢式部渡辺出雲守(渡辺雲州)上原昌重らが悲壮な最期をとげ(地蔵峠合戦)、武田軍の損害は1000を上回り、戸石城攻めは大敗(戸石崩れ)に終った。 武田晴信は望月城まで下がり、大門峠を越えて諏訪上原城まで引いた。
9月、村上義清の支援をえて小笠原長時は旧領回復のために氷室に出陣。 村上義清は3000の兵を塔原城へ入れ、小笠原長時は山家氏や三村氏などの諸城を陥れた。 しかし突然村上義清が帰陣してしまったため、小笠原勢も戦意喪失し、 8000いた兵が1000余人にまで減っていしまったものの、小笠原長時は武田勢を撃ち破り、 二木氏の中塔城へ籠城(中塔城合戦)する。

天文20年
(1551年)

天文20年(1551年)5月25日(5月26日)、真田幸隆が戸石城を攻略。 難攻不落を誇った戸石城であったが、真田幸隆が様様な謀略を駆使し村上方を内部から崩し、 矢沢重信を内応させ、少数の兵力で急襲。 守将山田国政らは討死。戸石城陥落による村上義清の動揺は大きいものであった(『高白斎記』により)。
10月、武田晴信は平瀬城を攻略(平瀬城合戦)。 さらに小岩岳城を攻城。

天文21年
(1552年)

天文21年(1552年)3月、時田合戦(常田合戦)上原昌辰上原昌成らが討死。
8月1日、武田晴信は小岩岳城(小岩岳城合戦)、日岐城(日岐城合戦)を攻略。 これにより小笠原長時は三男小笠原貞慶らと草間(中野市)へ落ち延びた。
11月27日、今川義元の息女が武田晴信の嫡男武田義信に嫁ぐ(『高白斎記』『勝山記』により)。

天文22年
(1553年)

閏1月24日、安曇郡の仁科盛康武田晴信に出仕(『高白斎記』により)。
3月に真田幸隆が孤落城(埴科郡坂城町)の大須賀政信(大須賀久兵衛)を調略。武田方へ鞍替えした大須賀政信(大須賀久兵衛)は孤落城守将小島兵庫助を討ち攻略。
3月29日、武田晴信は苅屋原城を攻略(苅屋原合戦)。栗原左兵衛(栗原佐兵衛)が城代を務めた。 4月2日には、塔原城が自落。会田虚空蔵山城を放火。
孤落城は葛尾城の3kmほどの距離にあり、さらに苅屋原城から武田信繁を川中島へ進軍させ、 4月7日、村上義清の家臣屋代政国(屋代越中守)が寝返り、桑原塩崎氏(桑原氏)も寝返った。 更科郡の屋代政国、室賀城主室賀信俊、塩崎氏、石川氏、牧之島城主香坂有宗(香坂安房守)、井上氏、大日向氏、西條氏、仙仁氏、南條の耕雲寺乾巨らが次次に武田氏に帰属し、村上氏を孤立させる。
4月9日、村上義清の本拠である葛尾城(埴科郡坂城町)を急襲(葛尾城合戦)し、葛尾城を奪取。 於曽源八郎を守将に置く。
村上義清は4月22日に川中島で諸豪族を集め八幡原で武田軍を破り、4月23日には葛尾城を奪回。守将於曽源八郎は討死。 村上義清は塩田城へ兵を進める。
6月30日、武田晴信は望月に陣を定め、8月1日に和田城を攻め落とし、 8月3日には高鳥屋城、内村城、田村城を攻め落とし、塩田城に進軍。武田晴信の軍勢は猛烈な勢いで、反旗を翻した16の城を陥落させた。 武田晴信の出現に驚いた小泉城の小泉重成は自ら小泉城を壊し、室賀城を誘って武田氏に降伏している。 村上義清は劣勢を挽回できずに10月には越後長尾景虎を頼り亡命し、 北信の高梨氏、島津氏、井上氏らも武田晴信に抗することができず、 やはり越後長尾氏に救援を求め、亡命するものもあった。 高梨氏が長尾景虎の祖母の実家にあたることもあって、北信濃の高梨政頼島津規久井上清次須田満親小田切清定栗田時国らも長尾景虎に使者をひっきりなしに 送り出兵を要求。 小笠原長時も高梨氏の手引きにより長尾景虎のもとへ行き、保護を受けた。
大日方小五郎麻績清長(麻績勘解由左衛門)青柳近江守青柳伊勢守、大岡氏、 清野左近太夫長野刑部らが投降。武田晴信はそれぞれに所領を安堵する。
8月下旬、長尾景虎の姉婿長尾政景を総大将として川中島へ進軍。村上義清須田満親井上清次らが先陣を務める長尾勢と 武田晴信の軍勢は布施(更埴市南西部)で激突(第一回川中島合戦)。 長尾景虎の家臣柿崎和泉守上條山城守直江大和守らをして八幡、青柳、会田、南條一帯を荒らしまらせ、 9月20日には越後へひきあげていった(『大須賀文書』により)。
7月23日、武田晴信の嫡男武田義信は将軍足利義輝より偏諱「義」の字を受け、元服。
8月20日、武田晴信後奈良天皇宸筆の般若心経を信濃一宮諏訪上社に奉納(『守矢文書』により)。

天文23年
(1554年)

12月20日、武田晴信は伊那郡知久平を下條兵庫助に与えている(『武家事紀』により)。
武田晴信の長女が北條氏政に嫁ぐ(『勝山記』により)。

弘治元年
(1555年)

4月、近習窪田新十郎に火薬製造所の監督をさせ、鉄砲製造を試みる。 鉄砲隊300人を足軽隊将今井九兵衛原与左衛門横田十郎兵衛らに指揮させている。
7月23日、1万の兵力で大塚に着陣。長尾景虎も8000の兵で善光寺へ出陣。 大御堂の里栗田氏は長尾景虎につき、小御堂の山栗田氏は武田晴信につき旭山城に拠った。 長尾景虎の猛攻が旭山城でつづいたが、武田の鉄砲隊の前に長尾勢は劣勢を強いられるようになっていった。 今川義元の仲介により武田晴信長尾景虎と和睦する。 鉄砲が伝来してから10年あまりでどうしてこんなにたくさんの鉄砲を手に入れることができていたのか、 入手経路は同盟国の駿河が考えられ、代金は甲州金山(黒川鶏冠金山、中山金山、湯之奥金山、川尻金山、早川金山、七保金山、 中村金山、増富金山、御座石金山、長畑金山、身延大城金山など)であったと思われる。
11月6日、諏訪殿(諏訪御料人)が25歳で病死(諏訪湖への入水自殺ともいわれている)。
11月8日、武田晴信の長女(北條氏政夫人)が男児を出産(『勝山記』により)。

弘治2年
(1556年)

武田晴信長尾景虎の家臣大熊朝秀を内応させる。
7月19日、高井郡志久見郷の豪族市河孫三郎が武田氏に降る。 高梨政頼一族の安田氏の旧領を市河孫三郎に与えている。
8月、長尾氏内紛に介入する。
11月1日、武田晴信は祖母崇昌院(武田信縄夫人)の菩提所を中山広厳院に改め、法号も広厳院殿とし、一宮郷内の地10貫文を寄進している(『広厳院文書』により)。

弘治3年
(1557年)

弘治3年(1557年)2月、武田晴信落合遠江守落合三郎左衛門尉らを内応させ、 積雪で越後からの出兵がない2月に教来石信房ら6000余の兵で善光寺抑えとして堅固をほこった葛山城を攻め落とす。 援将の吉窪城主小田切駿河守幸長らが籠る葛山城の守備は堅くなかなか落ちなかったが、水の便が悪い山城であることを利用し、水路を断ち、その上放火するなど、2月15日には落城した。 城主落合治吉(落合備中守)以下ことごとく討死。 これにより善光寺平を手中にし、戸隠方面への通路も抑え、越後長尾氏との戦いの主導権を握った。
2月16日に長尾景虎は和議に反して北信濃に出兵した武田晴信に激怒し、 色部勝長に書状を送り、3月に高梨政頼の飯山城が危機に瀕すると、 色部勝長長尾政景に援軍を要請し、自ら高梨氏の救援に向かった。 長尾景虎は4月に善光寺平へ、5月には坂城岩鼻まで進軍。8月には若槻で武田勢と合戦(川中島合戦)にいたる。
8月29日、武田晴信長尾景虎と水内郡上野原で対陣。長尾景虎は勲功の士に感状を与えている(『歴代古案』により)。 善光寺平を抑えた武田方が、飯山城や野尻城をうかがう構図が定まった。
6月23日、武田晴信市河信房(市川藤若)に書状を送り、 来襲した長尾勢に抵抗しつづけたことへの感謝と、倉賀野城へ上原与三左衛門尉を置き、 塩田城の原与左衛門尉ら500余騎を真田幸隆に遣わしたと、長尾勢を追撃すると伝えている。 市河氏は南北朝以降、高梨氏としばしば衝突していたことも武田氏に降り長尾氏と戦った要因とされる。 この書状を持って使者として派遣されたのが山本勘助で、市河氏にこれからも忠節を尽くすよう強く求める。 武田氏の外交官(使者)は、駒井高白斎跡部左衛門尉飫富虎昌甘利藤三長坂筑後守板垣弥次郎ら重臣たちであり、 この時期に山本勘助の地位が高かったことがうかがえる。
8月にはそれを誇示するかのように将軍足利義輝に対して、信濃守護職就任を要請している。
武田晴信北條氏政に嫁いだ娘が妊娠したことをうけ安産を願って富士御室の浅間神社に願文を捧げている。 永禄9年(1566年)にも同じく安産を祈る願文を奉納している。

永禄3年
(1560年)

永禄3年(1560年)11月3日、長尾景虎関東侵攻の際に、勝沼信元長尾景虎の調略により謀反を企てた。 前年より目付けによって察知されており、捜査により謀反の証拠となる文章が発見され、 武田晴信勝沼信元を捕え成敗したわけだが、 250騎を率いる武田一族が長尾景虎に内通し、武蔵秩父谷(鉢形)の藤田康邦(藤田右衛門)を引き入れようとした事件は 武田家中を驚愕させた。
桶狭間合戦今川義元が討死。遠江国掛川の円福寺を利用して武田信虎が密書を甲斐国へ送っている。 内容は定かではないが一説には今川氏の実情を報せるためだとか乗っとるためだとかいわれている。武田信虎は駿河国を追われ、京都に上ると、足利義輝に会っている。

永禄4年
(1561年)

油川信連油川顕重出陣(川中島合戦)。 武田信繁諸角虎定油川信連初鹿野源五郎山本勘助ら討死。

永禄4年
(1561年)

永禄4年(1561年)5月17日、武田晴信北條氏康との同盟もあって、相模小田原へ侵入していた長尾景虎を討つため 相模や上野へ出陣し長尾景虎の軍勢と戦う姿勢をみせる。しかし長尾氏本国の越後へ侵入すれば長尾景虎が帰るだろうと武田晴信は 越後小田切へ侵入。帰りに割ヶ岳城を攻める。 割ヶ岳城攻め(割ヶ岳城合戦)で、辻六郎兵衛が戦死。原虎胤浦野民部も負傷。 加藤虎景らの調略によってようやく落城させる。
11月、上野の上杉方の諸城を攻めている。 このとき、甘楽郡国峰城を追われていた小幡憲重らが武田軍の先鋒として出陣。 上野原の内城からも加藤虎景北條氏照の要請に応えて津久井へ出陣し長尾勢と戦っている。 11月20日には小幡三河守が守る国峰城を攻落させた。

永禄5年
(1562年)

武田晴信武田勝頼を伊那郡代とし、高遠城城代にすえた。 そのさい、武田勝頼側近衆として跡部右衛門尉重政向山出雲守小田切孫右衛門安倍五郎左衛門尉宗貞竹内与五左衛門小原下総守小原丹後守継忠秋山紀伊守を付属させた。 しかしこのことが武田義信の不満につながったとされている。

永禄6年
(1563年)

永禄6年(1563年)6月、吾妻郡三原荘での鎌原氏と羽尾氏の所領争いに介入し、鎌原氏を救援しに真田幸隆真田信綱父子は出陣。 羽尾氏に味方した斎藤憲広の岩櫃城(吾妻郡)を攻略。 城内の斎藤弥三郎が真田氏に内応したことで落城。

永禄6年
(1563年)

武田晴信は和田城(高崎市)を投降させる。

永禄6年
(1563年)

永禄6年(1563年)12月、武田晴信由良成繁の新田郡金山城を攻める。 40日間のあいだに、5つの城を攻落す。

永禄7年
(1564年)

永禄7年(1564年)5月、武田晴信は倉賀野城を攻落す。武田晴信富田主計助宛の感状が残る。 武蔵本庄まで出陣し放火をする。

永禄7年
(1564年)

第五回川中島合戦を終えると、武田晴信は攻撃目標を苦慮した結果、長尾景虎との戦いは避け、 三国同盟を破棄して、桶狭間合戦で今川義元を失って没落の一途を辿りつつある駿河今川氏を攻略することにする。

永禄7年
(1564年)

永禄7年(1564年)7月、駿河侵攻という武田晴信の戦略転換が、嫡男武田義信との対立を激化させ、 武田家中を二分する骨肉の争いへと突き進んでいく。 飫富虎昌曽根周防守らが度度密談しているのが目付の知るところとなり、謀反が発覚。 飫富昌景武田晴信暗殺計画を記した密書を差し出して事実が確認された。 永禄8年(1565年)には、飫富虎昌曽根周防守長坂源五郎たちは処刑され、 「義信80騎」も捕えられ、粛正されたか、国外追放処分となった。 武田義信の正室が今川義元の娘であり、今川氏真の妹であることや、 実母三条夫人が今川氏の仲介で輿入れしてきたことなど、今川親派の急先鋒であった武田義信によって、 織田信長との同盟を阻止するためにも、今川氏真攻めを阻止するためにも、謀反が企てられた。

永禄8年
(1565年)

織田信長からの申し出を受け入れ、 西尾氏の養女として中津川苗木城主遠山直廉の娘苗木殿武田勝頼の側室に迎えた。

永禄9年
(1566年)

永禄9年(1566年)8月23日、武田晴信は重臣の長坂昌国三枝昌貞武藤常昭から武田家中で派閥を構成しないことや特定の人物と仲良くしないことを誓約させた起請文を提出させている。

永禄9年
(1566年)

永禄9年(1566年)閏8月、武田晴信祢津元直ら東信濃諸将を先発させ、9月には武田晴信自身も箕輪城を包囲。 連日の猛攻により9月29日に箕輪城を攻落す。 同日に北條氏政も金山城の由良氏を降伏させている。

永禄10年
(1567年)

永禄10年(1567年)5月、武田晴信は惣社城(群馬県前橋市)を攻略。

永禄10年
(1567年)

8月7日、武田晴信武田信廉など近親者や親族衆を含め、甲斐、信濃、西上野の家臣237人から忠節を尽くし二心のないことを誓約させた起請文を提出させ、 下ノ郷諏訪大明神(信濃国小県郡塩田町生島足島神社)に納めている。
10月19日、嫡男として養育され着着と武田家跡継ぎたる地位を確立しつつあった武田義信だが、幽閉されていた東光寺(甲府市)で忽然と死去した。 病死とも毒殺とも斬殺ともいわれている。
この年11月、武田勝頼の嫡男武田信勝が生まれる。

永禄11年
(1568年)

永禄11年(1568年)12月、武田晴信は甲斐を発って駿河へ侵攻。 今川氏真は薩垂峠を防衛線として固めたが、瀬名信輝朝比奈政貞葛山氏元らが内応し対陣したため、 今川氏真も駿河に退却をよぎなくされる。武田晴信は12月13日には駿河府中を占領。 三国同盟の盟主であった北條氏康北條氏政父子が今川氏救援に駿河に出兵してきたこともあり、 永禄12年(1569年)に武田晴信はいったん甲斐へ帰陣している。

永禄12年
(1569年)

永禄12年(1569年)7月、武田晴信は北條氏についた大宮城(静岡県宮士宮市)の富士氏を攻略。
8月、北條氏の本拠小田原城を包囲。これにより北條氏政は駿河から撤兵せざるをえなくなった。 それがねらいだったかのようにたった4日で包囲をとき退陣。 三増峠で追撃してきた北條氏と戦いなんとか打ち破る(三増峠合戦)。 12月には再度駿河府中占領のために出兵し蒲原城を攻落し駿府城へ入る。 以後、元亀2年(1571年)10月の北條氏康の遺言による甲相同盟復活まで、駿東郡で北條氏との激しい戦いが展開される。

元亀2年
(1571年)

元亀2年(1571年)正月、武田晴信は1ヶ月包囲した深沢城(静岡県御殿場市)の城主北條綱成に降伏勧告をする。 北條綱成は応じ開城。これにより駿河は完全に武田領となった。 遠江国は徳川家康と半国ずつ支配の密約を交していたが、対立がはじまり、 こうした背景から徳川家康と同盟関係にあった織田信長との関係も悪化。

元亀2年
(1571年)

元亀2年(1571年)2月、武田晴信は高天神城(静岡県掛川市)を包囲。 4月には三河に進み足助城(愛知県豊田市)を攻略。

元亀3年
(1572年)

武田晴信は予定していた8月には発病していたため、10月にようやく甲斐国を発つ。 3万3000の大軍を擁して信濃国伊那から青崩峠を越えて遠江国へ入り、内応していた犬居城の天野景貫の先導で遠江国中央へ進出(西上作戦)。 徳川家康と退陣していたが、徳川家康は決戦を避け、武田晴信は二俣城(静岡県浜松市)の攻略へ向かう。 10月下旬から攻撃を開始し、水路を断ち12月19日にようやく陥落させる。 しかし小宮山昌友武田晴信近習頭の温井源八郎が討死している。

元亀4年
(1573年)

三河に侵攻。しかし武田晴信は陣中で発病しやむなく信濃国下伊那へ軍を返す。
4月12日、駒場小寒村で53歳の波乱に満ちた生涯を閉じる。
これまで長い間戦ってきた長尾景虎(上杉謙信)は、 武田晴信病死の報せを受けたとき、惜しい武将を失ったと嘆き「英雄人傑とは信玄のような人物をいうものである。関東の弓矢の柱がなくなり残念である…。」と落涙したという。

天正2年
(1574年)

正月、武田勝頼は父武田晴信の遺言を破り出兵を開始。 美濃国岩村口へ進撃し、明智城を陥し、ついで十八ヶ城を手中に入れる。 ついで遠江国へも進撃。高天神城をも囲み、20日あまりで落城させる。

天正3年
(1575年)

5月、武田勝頼は長篠城の再奪還をはかり、甲州軍1万5000の精鋭と、 織田軍・徳川軍の連合軍3万8000が死闘を演じた長篠合戦が行われる。 この戦いで武田勢は凄惨、目を覆う大敗北を喫し、これが後に武田家滅亡につながる致命的原因となる。 山縣昌景教来石信房(馬場信房)真田信綱真田昌輝工藤昌豊(内藤昌豊)三枝守友金丸昌次(土屋昌次)原昌胤河西満秀米倉重継など武田晴信時代からの宿将の大半を失う。 二俣城や高天神城などが次次に奪還され、武田勝頼は防戦一方に追い込まれていく。

天正9年
(1581年)

釜無川の断崖にのぞむ七里ヶ岩上に甲斐新府中城(新府城)を築く。 七里ヶ岩(七里ガ岩)は釜無川と塩川の急流が自然の濠をなしている要害。武田勝頼は敵を迎撃する要害として築城を開始。 城の完成を待たずに祖父武田信虎より三代にわたった躑躅ヶ崎館を捨てて新府城へ移る。

天正10年
(1582年)

2月、織田信長徳川家康の連合軍10万余が甲州を目指して進撃を開始。 武田勝頼のもとへ妹婿木曽義昌の謀反、信濃国の支城の相次ぐ陥落という悲報が続続と舞い込む。 駿河国江尻城にあった穴山信君も反旗を翻し徳川家康の軍門に降り、伊那口最後の拠点高遠城も織田信忠軍の総攻撃によって落城。 弟武田盛信(仁科盛信)の戦死も伝えられる。 3月2日、新府城では最後の軍議が開かれ、武田勝頼小山田信茂の居城岩殿山城に退くことを決意。 新築したばかりの新府城を焼き払い、韮崎から旧甲府を通り、笛吹川を渡って大善寺に到着したとき一行は300人足らず。 大善寺にいた武田勝頼の伯母理慶尼が『理慶尼記』で武田氏滅亡を叙情的に綴っている。 「いたわしや女房たち、昨日は馬を乗りをさへ、世に憂きことは思はれしが、今日はその馬人も落ちゆきければ、かちやはだしで歩みける」などなど。 3月5日、笹子峠にさしかかる駒飼の地に着いたとき、小山田信茂が峠の頂上に柵を構えて一行の行く手をはばむ。 甲州街道を左に折れ天目山に向かった。 金丸昌恒(土屋惣蔵昌恒)秋山紀伊守光継阿部加賀守勝宝温井常陸介有賀善右衛門親忠跡部尾張守久能小原丹後守忠次、 それに主家の危急を知って馳せ参じた小宮山友晴(小宮山内膳)らと力を合わせ、 追いすがる織田・徳川連合軍の兵を次次谷間へ切り落とし、この死者の血が三日間も川を染めたことから「三日血川」といわれ、 これが今日の「日川」になったという。 天目山の麓、田野の草深い小村を死に場所と定め、3月11日、武田勝頼は37歳。夫人北條殿は19歳。嫡男武田信勝は16歳。



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