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小助の部屋/滋野一党/滋野一党城郭郡
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信濃国(長野県)滋野一党城郭郡 (IEでしか地図をクリックできません。firefox2には対応していませんのでご了承ください。)


信濃の城を地図も用いて、どこにあった城なのか、どういう城だったのか、詳しく紹介していこうと思っています。 しかし多いですね。なかなか更新できていませんが、気長にお待ち下さい( ^ _ ^ ;)


海ノ口城〒384-1302 長野県南佐久郡南牧村海ノ口

海尻城の出城とされる。
佐久海ノ口駅で降りれば、約1kmのところに海ノ口城跡がある。 海ノ口城は天文5年(1536年)11月、武田晴信の父武田信虎が8000の軍勢をもって 34日間攻撃したが、剛勇できこえた守将平賀源心斎がよく戦って落せず、 大雪にもなったために武田信虎は引上げることにした。そのときに16歳の武田晴信は殿を願い途中から海ノ口城へ引き返すと、 手兵300とともに城を急襲した。平賀源心斎は武田軍の退陣をみて城兵と酒宴を催しており、 酔いしれていたために、小幡盛景によって討取られてしまい、武田晴信にとって初陣の手柄となった。 これは『甲陽軍鑑』によって武田晴信の元服(初陣)を飾り立てた作り話という説が定説となっているが、 面白い話ではある。
海尻城〒384-1301 長野県南佐久郡南牧村海尻

天文年間に村上義清が築城したとされる。
天文9年(1540年)武田信虎が大軍を率いて佐久地方へ侵攻した。 1日に36城を抜いたという。もちろん無名の砦などを含めてのことだろうが、 中小豪族がひしめくのみであった佐久の諸城は、強力な兵団の進撃にひとたまりもなかったものと思われる。 武田信虎がこの海尻城を侵攻したときには、村上義清家臣の城代出浦清種が不在で、井上清忠が300人ぐらいの兵力で守っていた。 守兵が小人数のわりにはよく抵抗し、武田方の板垣信方の策により一度攻撃をゆるめて、油断させたところを再び突いて攻略したという。 その後は、武田信虎家臣の上原昌辰が守将をつとめた。 上原昌辰は城を守ることに優れていたので、慣例的に守将となったわけだが、くじ引きで決めたという話もある。 上原昌辰は武田勢が甲斐へ引上げた後、村上義清の逆襲を受けながら、わずかな兵力で城を守り通した。 二の丸、三の丸までとられても、本丸を死守し、援軍の活躍で何とか救われたという。 ただ、武田方がいつまでも海尻城を確保できていたわけではなく、村上方ととったりとられたりの争奪がつづけられたとみられる。 天文15年(1546年)、武田晴信がこの城を抜いて北へ侵攻してからは、村上勢が一度反撃に押し寄せたことがあったものの、 信州攻防の主戦場が北佐久や小県へ移ったこともあって、武田氏の城となった。

相木城〒384-1201 長野県南佐久郡北相木村坂上

相木昌朝の城。
天文11年(1542年)、相木城主相木昌朝は武田晴信に降り、武田家臣として、川中島合戦などに出陣して名を馳せた。 武田氏滅亡後は、相模北條氏に従い、相木城は廃城になったとされる。相木昌朝はその後、田口城に籠り、相模北條氏が徳川氏と講和し相模へ引上げると、徳川氏に従っていた同族の芦田信蕃に攻め込まれ、いったん上州へ逃れた後、佐久への復帰をはかるが松平康国(芦田康国)と戦い敗走した。
















本間城〒384-1105 長野県南佐久郡小海町千代里本間

城主不明。
蟻城〒384-0701 長野県南佐久郡佐久穂町畑穴原(穴倉)

土豪の城。
佐口城〒384-0701 長野県南佐久郡佐久穂町畑佐口

城主不明。
下畑城〒384-0701 長野県南佐久郡佐久穂町畑下畑

武田晴信が海尻城を奪ったときの出城。
通城〒384-0704 長野県南佐久郡佐久穂町八郡

石堂城ともいう。土豪の城。
上ノ城〒384-0503 長野県南佐久郡佐久穂町海瀬(海瀬城北/城山)

伴野甚三郎の城。
大影城〒384-0501 長野県南佐久郡佐久穂町上中屋敷

福田城ともいう。福田美作守の城。
勝見城〒384-0501 長野県南佐久郡佐久穂町余地勝見沢

依路右近の城。武田氏が上州攻撃に利用した城。

入澤城〒384-0621 長野県佐久市入澤

入澤氏(入沢氏)の城。天文9年(1540年)に武田信虎が攻略。
稲荷山城〒384-0302 長野県佐久市勝間

勝間城ともいう。武田氏滅亡後に徳川氏が修築したという。
龍岡城〒384-0412 長野県佐久市田口

竜岡城ともいう。幕末の佐久郡田野口藩主松平乗謨が文久3年(1863年)に築城を計画したが、明治維新のごたごたで中止され、廃城となった。
田口城〒384-0412 長野県佐久市田口

田口良能の城。
天文17年(1548年)、上田原合戦で板垣信方をはじめ多くの老練の将を失ったことで、波紋がひろがり、 信濃各地で次次と武田氏に対して反旗が翻った。 田口良能も反旗を翻し、武田氏への反攻をはじめていた。 それでも、武田晴信は7月から諏訪地方の平定にとりかかり、筑摩郡に侵入した上、9月には佐久郡に馬首を向けた。 武田晴信は家臣小山田出羽守に田口城攻めを命じた。しかし逆に小山田出羽守の軍勢は包囲され、苦戦を甲斐に報せ援軍を求めた。 とはいえ、田口軍の善戦も意外なほどに武田軍を苦しめたというだけで、武田晴信の援軍が加わってからはあっけなく落城した。 田口良能以下ほとんどの将が討死し、終ってみれば武田方の大勝だった。
天正10年(1582年)、武田氏が滅亡したことで相模北條氏に従い勢力を維持していた相木市兵衛昌朝だったが、 北條氏が徳川氏と講和して引上げたことで、徳川氏に従っていた一族の芦田信蕃が佐久郡の旧武田勢力を一掃しにかかった。 そのため田口城にいた相木昌朝はいったん上州へ逃れ、再び佐久へ戻り、芦田信蕃の子松平康国(芦田康国)と戦い敗走し、行方知れずになってしまった。
雁峰城〒384-0305 長野県佐久市中小田切(切原)

草問城ともいう。村上氏に属した小田切行長が築いて守った。武田軍が攻略。
向城〒384-0305 長野県佐久市中小田切

向雁峰城ともいう。雁峰城と相対した城。
小田切城〒384-0306 長野県佐久市上小田切

上小田切城ともいう。雁峰城の支城。
下ノ城〒384-0307 長野県佐久市

医王山城ともいう。村上氏の城。
湯原城〒384-0307 長野県佐久市湯原

 

蛇沢城〒385-0032 長野県佐久市常和

源頼朝家臣黒沢植光の城。
『信濃奇勝録』に詳しい。
平賀城〒385-0034 長野県佐久市平賀(城山)

平賀義信が築城。
佐久地方で大井氏が威勢をしめしていた頃、大井氏の流れをくむ平賀大井氏が平賀城に勢力を張っていた。 70人力とまでうたわれた平賀源心斎の一族平賀氏は大井氏から出ている。 源平内乱の物語でも武名を散見することができる平賀氏は、 文安2年(1445年)頃、最も権勢を高めた大井持光の攻撃にあい、城ともに滅びたと(村上氏によってとも)伝えられる。 いずれにしても、滅亡した平賀氏の名跡を大井氏が身内に名のらせたということになる。
深堀城〒385-0051 長野県佐久市中込中込原(大塚)

上原和泉守の城。
八反田城〒385-0035 長野県佐久市瀬戸

平賀大井氏一族上原筑前守の城。
内山城〒385-0031 長野県佐久市内山(本郷/城山)

大井貞清の城。 名門大井氏の長い伝統をふまえた大井与党には精兵が多く、城主大井貞清は有能な人物ときこえがあった。 しかも峠一つ向うの上州には関東管領で知られた上杉憲政が勢力をのばしており、しばしば援軍を送り込んできていた。 長窪城を落したからには当然それ相当の警戒をからっているとみた武田晴信は、 うっかり手だしもできずに慎重に機会をねらいつづけた。 もちろん手を休めていたわけではなく、伊那への侵攻や諏訪地方をしっかりと固めていたのである。 天文15年(1546年)5月3日、武田晴信は甲斐を出発して内山城の攻撃に向かった。 5月6日、南佐久の前山城に到着。ちょうど雨が降りしきっていたため足踏みしたものの、 5月9日には戦闘が開始され、夜通し力攻めが続けられ、5月10日には籠城している城兵の命の綱である水の手を奪った。 5月14日になると二の丸が落ち、北條氏との戦いで敗れた上杉憲政からの援軍がこなかったが、 本丸はなかなか落ちず、5月20日についに大井貞清が降伏を申し出た。 大井貞清は野沢城に捕えられ、甲斐へ送られ、天文16年(1547年)に許されて武田氏に仕えた。 天文20年(1551年)、内山城へ復帰し、城代上原昌辰の配下についた。 名門が絶えることが惜しまれたはからいともいう。 天文17年(1548年)に上田原合戦で武田氏が敗れると、信濃各地で反乱が起き、 内山城も火をかけられて大半が焼かれ、武田晴信は半月ほど前山城に滞在し、焼かれた内山城などの修復工事を督励した。 また、天文19年(1550年)に戸石崩れで武田氏が再び敗北したことが伝わると、 土豪の反乱は繰り返され、岩村田城などが放火された上、村上義清は小諸城や野沢城を占領し、 佐久一帯で村上氏との激戦になった。 しかし真田幸隆によって戸石城が奇襲で落ちると、姿を隠していた佐久の諸将も、武田氏へ帰順を申し入れる者が増え、 佐久地方の安定がおとずれる。
志賀城〒385-0006 長野県佐久市志賀(笠原山)

笠原山城ともいう。高棚城の支城。
内山城が落ちた翌年の天文16年(1547年)に武田晴信の猛攻をあびて陥落した。 天文16年(1547年)7月13日に甲斐を発し、7月20日に前山城の北にある支城、桜井山城に滞在していた。 上杉憲政の援軍がかけつけるのではないかということもあって、情報収集のために待っていたとされる。 桜井山城に5日間もいて、7月25日から志賀城攻めにかかった。翌日の午後には城の水口をおさえた。 城主は、笠原清繁(志賀清繁)父子で、甘楽郡から縁続きの高田右衛門佐憲頼が来援。 ともに守りを固めていた。高田憲頼上杉憲政とつながり、援軍の要請もしていたことも、志賀城が武田氏に屈しなかった大きな理由の一つだ。 上杉方の援軍はやや手遅れの感はあったが、碓氷峠を越えてから浅間山麓に陣をとり、 今にも押し寄せる態勢を示した。総数は武田勢をしのぐものがあった。 武田晴信は、板垣信方甘利虎泰横田高松らに精兵を選ってさずけ向かわせた。 両軍は小諸に近い小田井原で激戦を展開したが、8月6日には上杉勢はもろくも敗走をはじめ、 武田方の曲淵庄右衛門三科肥前守小出越前守らの活躍もあり、 上杉軍は師岡隼人をはじめとする大将格15人、雑兵3000(雑兵1219とも)を討取られたという。 武田の精鋭騎馬隊の密集突撃にかき乱されたとはいえ、頼りない話で、上杉の面目は丸つぶれで、 小田井原合戦(碓氷峠合戦)で討取った首を志賀城の前に並べて城兵に見せた。 生首さらしの効果は覿面し、志賀城の士気はみるみる失われ、8月10日夜に武田軍が二の丸へ 乱入しはじめ、8月11日には落城した。 笠原清繁(志賀清繁)父子や、高田憲頼は最後まで降伏せずに戦い奮戦したのち、討死した。 志賀城は陥落後破壊されたまま打ち捨てられ、廃城となった。
高棚城〒385-0006 長野県佐久市志賀(高棚)

志賀城ともいう。志賀氏の本拠。志賀与三右衛門の城。
笠原山城(志賀城)の北にあり、志賀氏が居城とした城。天文16年(1547年)に武田氏に降ったという。
五本松城〒385-0006 長野県佐久市志賀(中宿/五本松/日影小屋)

志賀城の属城。
岩村田城〒385-0022 長野県佐久市岩村田上ノ城

藤ヶ城、藤ガ城ともいう。大井氏の城。
元禄16年、内藤正友が岩村田藩主となって陣屋をおいた。
大井城〒385-0022 長野県佐久市岩村田荒宿(円満寺)

石並城、円満寺城ともいう。大井朝光の城。
鎌倉時代、大井朝光の居城で、代代大井氏が在城。 足利尊氏新田義貞の激戦において、大井城にいた大井朝行は、新田勢10000余騎に襲われ、 打ち砕かれたという。 10000余騎とは話が大きすぎるが、佐久の名門大井氏がそこで絶えたわけではなく、しだいに勢いを盛り返して、 大井持光の代を迎えると南佐久から甲斐武田氏を脅かすようになった。 しかしそれだけ勢力を広げれば風当たりは強く、戦史には敗戦のあとが目立つ。 特に北信濃の雄村上氏との不和は大きな災いとなり、応仁元年(1467年)には村上政国大井持之を攻め(大井原合戦)、次いで南佐久の伴野氏にも惨敗し、文明16年(1484年)2月27日には村上頼清が 大井城を攻略したばかりか、暴風のもとで四方に火を放ち、260年持ちこたえた大井城下を焼け野原としてしまった。
黒岩城〒385-0022 長野県佐久市岩村田荒宿(一二社)

文明年間、岩村田大井氏の城。岩村田大井氏が石並城の落ちた後に築いたとされる。
燕城〒385-0004 長野県佐久市安原(城山)

岩村田大井氏の城。
室町時代に大井持光は関東の足利持氏の遺児永寿王を匿って養育し、後に永寿王は古河公方になったという。
香坂城〒385-0005 長野県佐久市香坂(閼伽流山)

阿伽流城ともいう。南北朝時代に献身した香坂氏の居城。
平尾城〒385-0002 長野県佐久市上平尾

平尾山城ともいう。永正年間(1504〜1520年)、依田氏一族平尾守信が築城。後に武田氏に降った。

野沢城〒385-0053 長野県佐久市野沢中小屋

伴野氏の城。伴野氏が前山城へ移るまでの居城。
現在は土塁の大部分が残っており、鎌倉期の遺構を保っている。
荒山城〒385-0045 長野県佐久市大沢

前山城の属城。市川義信が守将として守った。
前山城〒385-0046 長野県佐久市前山(城山)

佐久地方には古くから北に大井氏、南に伴野氏がそれぞれ支配勢力を張っていた。 『吾妻鏡』に大井庄と伴野庄という地名が出ているほどで、時の政権から荘園と呼ばれた地域を任される地頭の職にあって、 しだいに武力も強めていったと思われる。いずれも小笠原氏(甲斐源氏)の血を引いた同族だったが、 絶えず勢力争いを繰り広げ、この抗争が佐久の地盤をいつまでも固められない結果をまねき、 村上氏や武田氏などの侵略をたやすくしたといえる。
文明11年(1479年)8月、伴野康政大井政朝の間で激しい合戦が起こり、 伴野氏は大井政朝を生け捕りにするほどの大勝をはくしたが、 大永7年(1527年)になると、佐久の諸豪とそりがあわなくなって身の危険を感じた伴野貞慶は、 武田信虎に頼み込んで出兵を仰いだりしている。 武田信虎は永正年間(1504〜1520年)に村上頼平と佐久郡をめぐって度度争っていた。 天文15年(1546年)に武田晴信が北佐久内山城を攻めたときには前山城を前線基地として提供しており、 村上氏に従う豪族が多い佐久にあって武田氏に従っていた。 そのため、天文17年(1548年)には村上義清に攻められ村上氏に降伏。天文19年(1550年)には武田晴信に攻められて数百人を討取られるといった始末で、 伴野一族は武田氏と村上氏の争奪戦に挟まれ、もみくちゃにされてしまった。 天正10年(1582年)11月、徳川家康の命をうけた芦田信蕃に攻められ、城主伴野信守は討死した。 その後一族の伴野貞長が再起をはかろうと攻めたともいわれる。
日向城〒385-0062 長野県佐久市根岸日向

根岸城、長坂城ともいう。武田家臣長坂釣閑斎の城。
桜井山城〒385-0056 長野県佐久市桜井

 
今井城〒385-0015 長野県佐久市今井

木曽義仲を擁して挙兵したという今井兼平の城。
岩尾城〒385-0016 長野県佐久市岩尾

 
鷺林城〒385-0026 長野県佐久市常田

武田家臣曽根覚雲斎が守将として守った。武田軍の足溜まり場。

矢嶋城〒384-2105 長野県佐久市矢嶋

矢島城ともいう。木曽義仲に従った矢島行忠の城。
布施城〒384-2203 長野県佐久市布施(入布施)

布施氏の城。のちに望月氏の城となる。
望月城〒384-2202 長野県佐久市望月

南北朝時代に望月氏が築城。 平安時代から鎌倉時代にかけて朝廷に献上された「望月の駒」は清少納言の『枕草子』にも見えており、 『拾遺和歌集』にも紀貫之の「逢坂の関の清水に影見えて今や牽くらん望月の駒」という歌にも出てくる。 天皇が各地の献上馬を乗りまわす儀式はなかなか勇壮なものだったようで、ひときわ望月の駒は優れていたという。 望月氏は御牧の牧監として優れた馬をたくさん有し、『保元物語』や『源平盛衰記』にも記されているほか、 「是は信濃の国に隠れもなき大名望月の秋月殿…」と謡曲『望月』のなかでもうたわれている。 滋野一族のなかでも滋野三家といわれる名族として、城下ににぎやかな町を有して栄えた。 建武2年(1335年)には北條氏の残党を匿ったことで足利氏に攻撃を受け敗戦の苦い味をなめた。 天文10年(1541年)に武田信虎諏訪頼重村上義清の連合軍が小県郡に攻め込んだときには、 望月氏は村上義清に与していたようで、難を逃れている。 天文12年(1543年)9月17日、武田晴信が大井氏の長窪城を攻略し、19日には大井貞隆を匿った望月城も攻められ、20日には望月氏の主だった者は自害という憂目をみた。
倉見城〒384-2206 長野県佐久市茂田井

茂田井城ともいう。武田氏に属した米持氏の城。
春日城〒384-2205 長野県佐久市春日(秋葉山)

穴小屋城ともいう。春日氏の城。のちに依田氏(芦田氏)の城となる。
押出城〒384-2205 長野県佐久市春日(黒班)

大小屋城ともいう。依田氏(芦田氏)の城。
小倉城〒384-2205 長野県佐久市春日(小倉沢)

依田氏(芦田氏)の詰城。

小田井城〒389-0206 長野県北佐久郡御代田町御代田小田井

天文12年(1543年)12月、武田晴信は東信地方で8つの城を攻略したが、御代田の小田井城は小城でありながらなびく姿勢をとらない。 その小田井城の城主は小田井又六郎と、その弟の小田井次郎左衛門だった。 武田氏の前衛は歴戦の将板垣信方である。 小田井兄弟はこのまま城に籠るよりはと、寒さで縮みあがっている武田方に夜襲をかけた。 「小田井又六郎、武田晴信に見参のため寄せたり」と叫び声が陣営を貫き、たちまち小田井勢が切り込んだ。 しかし板垣信方山本勘助とともに夜襲にもしっかりと備えていたため、すぐさま反撃に転じ力で圧し返し、小田井兄弟も城内へ逃れた。 山本勘助が士気を盛り上げ、武田勢3000は城を包囲し八方から火を放ち、一角を破ると城内へ雪崩込み、小田井兄弟を討取り、城を制圧した。 城の内外には城兵の死体500あまりが無残に散らばっていたという。











平原城〒384-0092 長野県小諸市平原

有利小屋城ともいう。依田氏の一族平原景能が鎌倉時代のはじめに築城。
平原氏は木曽義仲の挙兵に応じて横田河原合戦で活躍し、のちに源頼朝に従ったり、代代にわたって新田義貞とともに足利尊氏と戦ったり、 関東管領上杉氏に重んじられたりと、武名はとてもに高かった。 その後大井光盛が平原氏を名のり平原城で根を張った。 武田晴信は大井城を叩き本陣を岩村田に据え、天文18年(1549年)9月2日、平原城攻撃を開始。 平原和泉守幡繁村上義清から援軍500人を預かり、要害平原城に自信をもって籠城していた。 城の守りは堅く、騎馬隊の再三の突撃をみごとに撃退し、攻勢は4日間もつづき城内の士気はますます高まっていた。 武田方は和議を申し入れ、いつまでも籠城しているのも得策ではないと考えた平原方も和議を承諾した。 ところが、その夜に武田軍は城へ火を放ち城内へ雪崩込んだ。 武田軍を抑えてきた平原方にとってみれば、まるで勝利したかのように祝杯をあげていたため、もはや戦うどころではない。 混乱に陥り、怒号と悲鳴が響きわたった。 武田氏は謀略でもって勝利をあげた。一見やり方は汚いように感じることだが、遠征の兵をなるべく損なうことなく勝つためには、 つねに精密な計画をたて行動し、敵を打ち破るためには手段を選ばず、勝つことだけを選ぶ。 平原氏は甘かったといわざるをえない。 平原幡繁は城を脱出していたが後日武田氏に従う起請文を出して仕えた。 のちに川中島合戦でも奮戦し、武田氏滅亡後は相模北條氏、徳川氏に仕えた。徳川氏に仕えていたときに謀反の疑いで処刑された。 平原一族はその後関ヶ原合戦で戦功をたてたことで旗本になった。
柏木城〒384-0055 長野県小諸市柏木

柏木六郎の城。平原城の出城。
柏木六郎は武田氏、徳川氏に降り、のちに殺されたという。
与良城〒384-0006 長野県小諸市与良町(下河原)

与良氏代代の城。武田氏に降り小山姓を名のった。
小諸城〒384-0032 長野県小諸市古城(懐古園)

穴城、小室城ともいう。
文明18年(1487年)に足利氏に属した大井光忠が鍋蓋城と乙女城を築いたことにはじまる。 天文12年(1543年)、武田晴信は小諸を交通の要衝として、千曲川の絶壁を利用して築城したことで小諸城が誕生。 鍋蓋城は小諸城の東北に位置し、乙女城は小諸城の二の丸となった。 徳川氏の時代になると、仙石秀久が入城した。 明治時代になって、荒廃していた小諸城の保存運動を旧藩士たちが起こしたことで公園「懐古園」が生まれたという。
大室城〒384-0043 長野県小諸市諸

大諸城、富士見城ともいう。
鎌倉時代から大室氏代代の居城。
菱形城〒384-0041 長野県小諸市菱平

大室氏の城。
矢留城〒384-0041 長野県小諸市菱野(舟ヶ沢/矢留山)

矢留山城、雲之助城ともいう。
鎌倉時代から稲室氏代代の居城。稲室雲之助が大井氏に滅ぼされたという。
芝生田城〒384-0046 長野県小諸市滋野甲芝生田

柴生田城ともいう。芝生田石見守(芝生田岩見守)の城。
森山城〒384-0085 長野県小諸市森山

森山古城ともいう。大井氏が築城。森山大井氏代代の居城。
武田氏に屈し、のちに徳川氏に属した。

耳取城〒384-0084 長野県小諸市耳取

耳取古城ともいう。耳取大井氏の城。
手塚城〒384-0083 長野県小諸市市

注連掛城ともいう。
岩尾合戦で戦死した長尾景祐の城。塚が残る。
諏訪形城〒384-0082 長野県小諸市大久保諏訪山(東柳沢)

 
楽巌寺城〒384-0071 長野県小諸市大久保(布引)

楽岩寺城、布引城ともいう。天文17年(1548年)に武田晴信が攻略し再建した。千曲川の絶壁にのぞむ天険の城として、その後も何度も争奪がおこなわれた。

芦田城〒384-2305 長野県北佐久郡立科町芦田

蘆田城、倉見高井城、木宮城ともいう。中山道の宿場町があったところで、本陣の跡などが残る。 文安2年(1445年)に依田光徳が築城。 依田信守は武田氏に従い、三方ヶ原合戦に参陣。依田信守の子依田信蕃は武田氏に人質として出され、諏訪高島城に在城し、元服してからは武田氏の軍勢に加わり各地を転戦した。 武田晴信死後は武田勝頼に仕え、遠江国二俣城(二股城)の守将をつとめた。 徳川勢に攻められてもよく粘り、城を明け渡すときには軍容作法を正しくしたという。 また武田氏滅亡後も駿河国田中城で慌てずに構えていた姿に徳川家康が惚れこみ、 故郷に帰っていた依田信蕃に何度も仕官を勧めてようやく登用したという。 織田信長が本能寺の変で倒れたために北條氏直が大軍を率いて碓氷峠を越えて信濃に攻め込み、 さらに甲斐をまわって徳川氏の背後を突こうとしたとき、 徳川家康の要請で依田信蕃真田昌幸を味方に引き入れることに成功。 北條勢を碓氷峠に抑え補給路を妨げたことで、小諸城を落としていた北條家臣大道寺政繁の軍勢に悲鳴をあげさせている。 徳川氏と北條氏が和睦してからは、佐久地方の平定を任され、弟の依田信則とともに佐久へ出陣し、最後まで降伏しなかった岩尾城を攻城。 しかし依田信蕃は陣頭にたっていたところ鉄砲に撃たれ討死。弟依田信則も混乱のなか討死した。 依田信蕃の嫡男依田康国は徳川勢に助けられ小諸城に入城したものの、のちに上野国で戦死。 依田信蕃の次男依田康勝は伏見城で碁の相手を切りつけ高野山へ逃れたが、のちに許され越前福井藩の城代家老となった。
牛鹿城〒384-2308 長野県北佐久郡立科町牛鹿

善正城ともいう。箱山氏の城。
蟹原城〒384-2308 長野県北佐久郡立科町蟹原

滋野一族蟹原氏(藤沢氏)の城。

大石城〒389-0512 長野県東御市滋野大石

大石太郎の城。祢津氏に滅ぼされた。
別府城〒389-0512 長野県東御市滋野別府

滋野一族別府氏の城。祢津氏から分かれた別府氏。永亨年間に小笠原氏に攻略された。
祢津城〒389-0506 長野県東御市祢津西宮(城山)

禰津城、根津城ともいう。武田氏、真田氏、徳川氏に仕えた。
祢津支城〒389-0512 長野県東御市滋野原口(北の山)

祢津氏の支城。
鷲尾城〒389-0501 長野県東御市新張奈良原

祢津氏の支城。
矢立城〒389-0505 長野県東御市和東上田

祢津氏の支城。
海野城〒389-0518 長野県東御市本海野

海野氏、望月氏、祢津氏の三家は滋野三家と呼ばれ、東信地方では真っ先に指を折られる名門だった。 滋野三家は血統のよさにあこがれた各地の豪族と結びつくことによって、信州から上州にまで支族、分流をひろげた。 「海野平で禰津見れば 禰津は信濃の京じゃもの」という里謡がうたわれたのは、一門の繁栄と、豪華な生活を語るものであろう。 滋野一族は、雅やかな遊びごとなどで日をすごす人たちではなく、それぞれ武門の誉れを尊んだ。 曽我兄弟の仇討ちで源頼朝の富士裾野の巻狩りには滋野三家もこぞって参加したし、 朝廷と北條幕府との間に起こった承久の乱や、南朝再興に信越の野で奮闘した宗良親王の陣にも進んで加わった。 ことに祢津氏は鷹匠の技を伝えて、多くの武家に珍重がられた。 ところがそんな名門にも没落のときがやってきた。
天文10年(1541年)5月、海野庄を襲ったのは西隣りの埴科地方に勢力をたくわえていた村上義清、 諏訪の諏訪頼重、甲斐の武田信虎という荒っぽい連合軍であった。 武田信虎は前年にも佐久地方へ侵入して豪族の城をなぎ倒しており、 このときもやはり佐久を通って白樺湖に近い大門峠を降り、諏訪勢は下諏訪の和田峠から山づたいに、 村上勢は戸石城で兵力を揃え、いずれも血に飢えたような格好で戦闘をいどんだ。 5月14日、双方の主力がぶつかり合い、善戦したが5月25日には海野城の本拠が陥落。 海野棟綱は山を越えて裏道を逃げ関東管領上杉氏を頼って行き、 海野棟綱の嫡男海野幸義は戦死した。ここに海野本家は没落をみた。 祢津元直は諏訪神社の神官と縁を結んでいたので特に許され、望月氏は村上氏に与していたため攻撃の的にならなかった。 祢津氏は諏訪氏に与し、望月氏は村上氏に与するかたちとなり、海野氏が滅亡した背景には、かつて滋野三家と称されるほどの連帯の強かった三家の分裂があったかもしれない。 海野氏の支配地は勝利者がむしりあったが、7月になると上州から上杉氏の大軍が雄将長野業政に率いられて巻き返しに進撃してきた。 ところが村上氏にも諏訪氏にも相手にされず、武田氏も甲斐に引上げていたので、 上杉勢は佐久地方をかきまわしただけで上州へ帰ってしまった。 村上氏も武田氏も海野攻撃の責任を諏訪氏になすりつけ、諏訪氏が上杉氏と和議を結ぶことになった。 上杉氏の出兵では何ら得るものがなく、海野氏はついに見殺しにされた。
太平寺城〒389-0518 長野県東御市本海野

 
海野古城〒389-0518 長野県東御市本海野

海野氏の居城であり、建久2年(1192年)に海野幸氏が海野庄三分にあったこの居城(海野古城)を太平寺(現在の白鳥台団地)に移したという。
外山城〒389-0406 長野県東御市八重原(羽毛山)

武田氏が築城。依田氏(芦田氏)が支城とした。
下之城〒389-0405 長野県東御市下之城

望月支城ともいう。

内村城〒386-0501 長野県上田市武石鳥屋

武石大井氏の城。武田氏が攻略。
小山城〒386-0502 長野県上田市武石沖

天文年間に小山筑後守が在城。武田氏に降る。
武石城〒386-0501 長野県上田市武石鳥屋

大永年間、大井光照の五男が築城。のちに武田氏に降り、芦田信蕃に属した。
中山城〒386-0504 長野県上田市武石小沢根

武石城の詰城。
鬼ヶ城〒386-0507 長野県上田市武石上本入

武石城の支城。かくし城ともいわれる。武石川の上流にある。
海部野城〒386-1212 長野県上田市富士山奈良尾

五加山城ともいう。塩田氏一族宮沢時胤の城。
吉沢城〒386-1213 長野県上田市古安曽

北條氏に属した塩田氏一族吉沢民部の城。
塩田城〒386-1436 長野県上田市前山

塩田北條氏三代居城とした。 北條国時は元弘3年(1333年)、新田義貞の鎌倉攻めに討たれて北條幕府と運命をともにした。塩田城は城主を失った。
天文22年(1553年)、村上義清が入城し、小県地方で武田氏に従っていた諸豪も待ってましたとばかりに武田氏に反旗を翻し、再起するものも続出。 武田晴信は、8月1日、小県に兵を進めると、謀反を起こした和田城、高鳥屋城、内村城を叩き、8月5日に塩田へ出陣した。 村上義清はたちまち姿を消してしまった。 武田晴信の軍勢は猛烈な勢いで、反旗を翻した16の城を陥落させた。 武田晴信の出現に驚いた小泉城の小泉重成は自ら小泉城を壊し、室賀城を誘って武田氏に降伏した。
別所城〒386-1431 長野県上田市別所(城山)

別所山城、女神山城、女神岳城ともいう。塩田城の支城。
馬伏城〒386-1437 長野県上田市野倉(奥野倉)

慶長5年(1600年)、真田氏に反した斎藤源左衛門らの城。

塩川城〒386-0401 長野県上田市塩川(陣場山)

陣場城、陣場山城ともいう。神川合戦で徳川方が丸子城攻めで使用した陣跡。
長瀬城〒386-0407 長野県上田市長瀬

長瀬古城ともいう。源平時代、長瀬義貞の居城。真田氏家臣春原氏の碑がある。
箱山城〒386-0405 長野県上田市中丸子(箱山)

箱山国正の城。
飯盛城〒386-0404 長野県上田市上丸子(向山)

村上氏に属した丸子三右衛門の城。のちに武田氏、真田氏に従った。
丸子城〒386-0403 長野県上田市腰越

依田城ともいう。飯盛城と峰つづき。 天正13年(1585年)、丸子平内が守る丸子城に、徳川軍が攻め寄せた。 徳川軍は上田城攻めに失敗し、このままでは何の面目があろうかと、せめて丸子城を落として土産にしようと考えてのことだった。 上田城の勝報に気勢のあがる丸子城兵は善戦し徳川軍を容易には寄せ付けない。 尾野山城も攻撃されていたが真田昌幸が修理を加えて守兵を置いていたので、なんとかもち堪えた。 徳川方の戦意喪失に助けられたというところだ。
鳥羽城〒386-0403 長野県上田市腰越(鳥羽山)

鳥羽山城ともいう。天文年間に福島肥後守が居城とした。福島肥後守は岩尾合戦で討死。
依田城〒386-0412 長野県上田市御嶽堂(金鳳山)

依田二郎の城。 治承4年(1180年)9月7日、木曽谷で平家追討の旗揚げをした木曽義仲は平家方の笠原頼直と戦い圧勝。笠原頼直は越後の城資長のところへ落ちのびた。 木曽義仲は上野国へ行き、12月24日には信濃国へ引き返した。依田二郎木曽義仲に依田城を明け渡し、自らは山下の館に移ったという。 木曽義仲が依田城に入ると樋口兼光今井兼平とならんで四天王とうたわれた根井行親海野幸広らが 中原兼遠から連絡を受けて軍勢を引き連れて馳せ参じた。さらに矢田義清も加わった。 越後の城長茂が10000余の大軍を率いて信濃国に向かってくると耳にすると、依田城を発った。
尾野山城〒386-0411 長野県上田市生田尾野山(城平)

尾山城、尾ノ山城、尾根山城ともいう。千曲川と依田川の合流点を見下ろす。海野氏滅亡時に落城。
飯沼城〒386-0411 長野県上田市生田飯沼

中城城ともいう。木曽義仲に従った飯沼氏の城。
笹谷城〒386-0411 長野県上田市生田

伊勢山城ともいう。尾野山城の支城。天文年間に笹谷明賀が築城。
東内城〒386-0413 長野県上田市東内

高鳥屋城、鳥帽子城、鳥帽子形城、丸子城、武石城、依田城、首切城、鳥居城ともいう。
水手城〒386-0413 長野県上田市東内和子(栗山)

水ノ手城、水の手城ともいう。山を越えると東筑摩郡。

小牧城〒386-0031 長野県上田市小牧

木曽義仲の要害。村上氏が出城とした。
岩門城〒386-0005 長野県上田市古里岩門

 
尼ヶ淵城〒386-0025 長野県上田市天神(大手町)

尼ガ淵城ともいう。小泉氏の城。
天正11年(1583年)に上杉景勝に対抗するために、真田昌幸が拡張し上田城と改めた。上田城では、真田昌幸室賀兵部を迎撃したことでさらに自信を強めたという。 芦田信蕃の勧めで徳川家康に仕えていた真田昌幸は、沼田城を勝手に北條氏に渡すと和議の条件として約束してしまったことへ反発し、 沼田城を手放すことを「お断り申す」と答え、感状まで叩き返した。真田昌幸の心には、「沼田のかわりをくれると言いながら、この上田まで取り上げられるはめになったらどうする」という思いがあったという。 天正13年(1585年)8月、鳥居元忠大久保忠世大久保忠教保科正俊らを将とする軍勢が上田城を囲んだ。 真田昌幸上杉景勝に援軍を要請し、8月2日に上田城外で戦端をひらき、真田信幸が指揮をとった。 真田信幸は押されて退き、徳川勢はここぞとばかりに大手門、ニの丸へと乱入。 しかしそこへ頭上から大きな丸太が地響きを立てて落ちてきて、さらに鉄砲の弾が降り注ぐ。 狭いところで混乱した徳川勢に、さらに真田勢の逆襲が加えられたから目もあてられない大混乱となった。 逃げ道をふさがれ、城下の家家からは火が吹き出し、真田勢の奇襲がさらに加えられ、徳川勢は逃げる味方をどうにかくい止めようとしたが踏みとどまるものはいなかったという。 さらに神川の西岸まで真田氏の追撃は激化し、神川を渡ろうとする徳川勢に対して、前日の雨で増した水嵩の流れをせき止めていた杭を抜き、神川では流されたものや深みにはまって溺れるものなどが多数。 この神川合戦で、徳川氏の損害は死者1300余(または350余)人。真田氏は死者40余人という。 徳川勢は千曲川を渡って佐久郡の八重原まで撤退した。 援軍にかけつけていた上杉軍ははじめから積極的には戦闘に加わらずに引上げていった。
須々貴城〒386-0001 長野県上田市上田山口

天白城ともいう。村上氏が出城とした。上田原を見下ろす。
花小屋城〒386-0001 長野県上田市上田(花小屋)

村上氏の城。太郎山の尾根つづき。
矢島城〒386-0027 長野県上田市常磐城(上平)

北林城ともいう。矢島氏の城。
荒城〒386-0027 長野県上田市常磐城(太郎山)

太郎山城ともいう。
牛伏城〒386-0027 長野県上田市常磐城(虚空蔵山)

牛頸城ともいう。村上城の支城。白蛇神社の上に位置する。
虚空蔵山城〒386-0042 長野県上田市上塩尻(虚空蔵山)

多田三八の城。
飯綱城〒386-0041 長野県上田市秋和(飯綱山)

飯綱山城ともいう。赤羽兵部の城。
燕城〒386-0043 長野県上田市下塩尻

虚空蔵山城の支城。土豪塩尻氏の城。
和合城〒386-0043 長野県上田市下塩尻(岩鼻)

村上家臣林能登守の城。のちに武田家臣小泉五郎左衛門が守ったという。
米山城〒386-0003 長野県上田市上野神科(米山)

小宮山城ともいう。戸石城の出城。
戸石城〒386-0003 長野県上田市上野神科(金剛寺/伊勢山)

天文のはじめ、村上義清の家臣楽巌寺雅方布下仁兵衛らが築城。
飯縄城〒386-0003 長野県上田市上野神科(金剛寺/伊勢山)

戸石城の出城。
本城〒386-0003 長野県上田市上野神科(金剛寺/伊勢山)

戸石城の出城。
枡形城〒386-0003 長野県上田市上野神科(金剛寺/伊勢山)

戸石城の出城。
伊勢崎城〒386-0004 長野県上田市殿城下郷(伊勢山)

伊勢山城ともいう。戸石城の出城。

矢沢城〒386-0004 長野県上田市殿城矢沢

矢沢氏の城。真田頼綱が矢沢姓を名のり居城とした。
矢沢支城〒386-0004 長野県上田市殿城矢沢

矢沢城の支城。
殿城山城〒386-0004 長野県上田市殿城(殿城山)

矢沢氏の城。戸石城攻めに武田軍が部隊をおいたという。
天白山城〒386-2202 長野県上田市真田町本原赤井(天白山)

真田氏の城。
真田城〒386-2202 長野県上田市真田町本原下塚

真田館、真田氏館ともいう。真田氏の城。真田氏歴史館、御屋敷公園がある。
真田山城〒386-2201 長野県上田市真田町長十林寺

真田氏本城、松尾城、見返城、住連寺城ともいう。真田幸隆の居城。真田幸隆夫妻の墓(長谷寺)が近くにある。
松尾城〒386-2201 長野県上田市真田町長角間

松尾古城ともいう。真田氏の城。
鬼ヶ城〒386-2201 長野県上田市真田町長角間

真田氏の城。
城ヶ平城〒386-2201 長野県上田市真田町長大日向

真田氏の城。
三日城〒386-2204 長野県上田市菅平高原

真田氏の城。
横尾城〒386-2201 長野県上田市真田町長横尾

尾引城ともいう。天文年間に横尾妥女正が築く。一時村上義清が落した。近くに真田信綱の墓(信綱寺)がある。
内小屋城〒386-2201 長野県上田市真田町長横尾

信綱寺城ともいう。信綱寺がある。
曲尾城〒386-2203 長野県上田市真田町傍陽曲尾

根古屋城、根小屋城ともいう。武田氏の戸石城攻撃に脇備えをした城。大熊朝秀が城代をつとめた。大熊朝秀は後に海津城へ出仕した。
洗馬城〒386-2203 長野県上田市真田町傍陽

真田氏の城。
猿ヶ城〒386-2203 長野県上田市真田町傍陽

真田氏の城。

竹把城〒386-1541 長野県上田市上室賀(摺鉢山)

伊勢崎城ともいう。
三頭山城〒386-1541 長野県上田市上室賀(三頭山)

三ツ頭山城、跡部城ともいう。室賀城の出城。
室賀城〒386-1541 長野県上田市上室賀

原畑城ともいう。
笹洞城〒386-1541 長野県上田市上室賀(原組/下洞山)

室賀信俊の城。武田氏に降り、後に徳川氏に仕え旗本となる。
小泉城〒386-1106 長野県上田市小泉(日向/城山)

 
岡村城〒386-1543 長野県上田市岡(岡城/白銀)

武田氏の番城。
浦野城〒386-1546 長野県上田市浦野(浦野古城)

浦野古城ともいう。浦野氏は村上氏、武田氏、徳川氏、真田氏に従った。武田晴信の割ヶ岳城攻めには先陣をつとめた。

孤落城〒389-0604 長野県埴科郡坂城町網掛

福沢城、三水城ともいう。村上城の詰城。大須賀久兵衛が城代を務めていたが、 天文22年(1553年)、真田幸隆の調略によって武田氏に降った。
南条城〒389-0603 長野県埴科郡坂城町南条入横尾

横尾城ともいう。
葛尾城〒389-0601 長野県埴科郡坂城町坂城(葛尾山)

葛尾山城ともいう。 天文17年(1548年)2月2日、甲斐を発した武田晴信は諏訪から大門峠をへて丸子を通り塩田平へ馬を進めた。 真田幸隆も加わり進軍。行軍の道筋は雪が深く、大軍の移動には決して好条件ではなかった。 本陣を上田原東方の高地にすえた。武田氏兵力は8000という。 一方、葛尾城の村上義清は、度重なる戦での兵力消耗から、籠城意見が多いなかで、撃って出るべきだと強調した。 2月14日、村上勢は全軍7000を上田岩鼻口に陣を敷いた。 武田勢は、板垣信方甘利虎泰を先陣として、飫富虎昌小山田信有武田信繁がつづき、 右に真田幸隆、左に教来石信房、後詰には工藤昌豊、遊軍を原昌俊として、各部隊を配した。 村上勢は、高梨政頼井上清政清野清秀らを先陣として、 ニ陣には須田信正須田満親父子、島津規久小田切清定、 左備に室賀信俊室賀光正父子、右備に栗田国時、 後陣には山田国政斎藤久右衛門らがかためた。 板垣信方の猛攻は鋭く村上勢の前線を切り崩し、村上勢は混乱した。 しかしニ陣が混乱を立て直し、板垣軍を迎撃。上條織部板垣信方を討取り反撃に出た。 戦況をみた村上義清は武田氏の本陣に突撃し、武田勢は大混乱に陥った。 甘利虎泰初鹿野高利才間河内守らが混乱のなかで次次と討死。 村上義清は混戦のなかで落馬し傷を負ったため退却するほかなかったが、武田晴信は二ヵ所の軽傷を負った。 武田勢のニ陣がしだいに優勢へ導き、屋代基綱雨宮刑部若槻清尚小島権兵衛ら宿将が討死して、 再進撃どころではなくなり、疲れきった村上勢は葛尾城へ兵を引き上げた。 板垣信方の死は『妙法寺記』に「一国のなげき限りなし」と記されるほど、たいへんなショックだったろう。 武田晴信は戦場において、敵地でありながら、おいそれと陣を引き払おうとせず、 死体を収容して弔い、村上勢の追撃や夜襲に備え、周辺の状況にも油断なく警戒し、3日後に堂堂と甲斐へ引き上げていった。
村上城〒389-0605 長野県埴科郡坂城町上平

村上古城ともいう。村上氏が葛尾城へ移る前、代代居城としていた。天中年間に、村上満清が築城したと(元中元年(1384年)に村上義国が築城したとも)いう。
海野一族に隣り合わせていた村上氏は、いかにも勢力的かつ野性的な活動をつづけ、ぐんぐん勢力範囲をひろげ、 いつしか押しも押されぬ立場になりあがっていた。 当然それを快く思っていなかった海野氏と衝突を起こし、応仁元年(1467年)に両者は激しい戦いを交えたあげく、海野氏は惨敗。 逆に上田の南西、川西地区を村上氏にもぎとられてしまった。村上氏は佐久地方へも進軍していくことになった。
出浦城〒389-0605 長野県埴科郡坂城町上平(出浦)

村上氏に属した出浦氏の城。のちに真田昌幸に従ったという。

荒砥城〒389-0822 長野県千曲市上山田(城山)

 
入山城〒389-0822 長野県千曲市上山田(天神山)

入山太郎の城。
屋代城〒387-0007 長野県千曲市屋代(一重山)

一重山城ともいう。大塔合戦に出陣した屋代氏代代の城。村上氏、武田氏、徳川氏に従い、後に甲州へ転封され廃城となった。
倉科城〒387-0004 長野県千曲市倉科(倉科石抗城山)

鷲尾城、石抗山城ともいう。倉科源三郎の城。西に支城として出城がある。
鷲尾城〒387-0004 長野県千曲市倉科(倉科石抗城山)

倉科城の支城。
雨宮城〒387-0001 長野県千曲市雨宮(唐崎山)

唐崎城、唐崎山城ともいう。雨宮摂津守の城。
土口城〒387-0002 長野県千曲市土口(天城山)

天城城、天城山城ともいう。大仏貞直の城。南に出城がある。
西条城〒387-0002 長野県千曲市土口(天城山)

西条山城、天城支城、天城城、妻女山城ともいう。土口城の支城。
永禄4年(1561年)の川中島合戦の舞台として語り継がれる重要な地。 永禄4年(1561年)8月16日、長尾景虎は西条(妻女)山に陣取り、海津城を攻落そうと総勢13000がおかれた。 武田晴信は8月18日に甲斐を発ち、8月24日には20000の軍勢で川中島へ着陣。 飫富虎昌は西条山へ攻めこむべきだと進言。教来石信房山本勘助らも戦うことを進言。 武田氏では6月に小幡山城守が病死し、原虎胤も割ヶ岳城での合戦で13ヵ所も手負い臥せて出陣していなかった。 山本勘助は「きつつき戦法」を提案。 春日虎綱飫富虎昌教来石信房小山田備中守甘利左衛門真田一徳斎幸隆相木昌朝芦田下野守小山田弥三郎小幡尾張守ら12000を西条山へ攻め込ませ、 西条山から出てきた長尾勢を、 飫富三郎兵衛昌景、左は武田信繁穴山信友、右は工藤昌豊諸角豊後守虎定、旗本左脇備は原隼人佐武田信廉、右脇備は武田義信望月、 旗本後備は跡部大炊今福善九郎浅利式部ら8000で迎撃しようという作戦であった。 ところが、西条山へ向かった12000の武田軍勢はまるで空の西条城を攻撃。 いつの間にか長尾勢は西条山から降り武田晴信本陣のすぐ目の前に迫っていた。 「きつつき戦法」の失敗である。荒川長実を先陣に、長尾景虎の軍勢が奇襲。武田本陣は大混乱となった。 飫富昌景の軍勢が柿崎勢を追い崩し、穴山信友の軍勢も新発田勢を迎撃。 ところが、本陣の手勢だけでは劣勢を挽回できず、 武田信繁諸角虎定らが討死。さらに、山本入道道鬼勘助初鹿野源五郎までも討死。 武田晴信も腕にかすり傷二ヵ所。武田義信も手傷を負った。 武田信繁の首は、諸角虎定の家臣石黒五郎兵衛成瀬が取り返した。 そこへ西条山へ向かっていた12000の軍勢が退き返してきたことで長尾勢を迎撃。 殿を務めた甘粕景持の活躍もあって長尾景虎は最後まで奮闘をつづけて撤退した。
鞍骨城〒387-0002 長野県千曲市土口(天城山)

西条(妻女)山の南に位置する城。西条城も近くにある。永正年間に清野山城守勝照が築城。竹山城、雨宮(唐崎)城、倉科(鷲尾)城、土口(天城山)城などを属城にもつ。
竹山城〒387-0002 長野県千曲市土口(天城山)

 
稲荷山城〒387-0021 長野県千曲市稲荷山

上杉景勝が築城。
小坂城〒387-0024 長野県千曲市桑原小坂(小坂山/龍洞院(竜洞院)山上)

 

吉窪山城〒380-0876 長野県長野市山田中(小田切)

小田切城ともいう。
大塚城〒  

 
栗田城〒  

 
横山城〒  

 
旭山城〒380-0941 長野県長野市安茂里(旭山)

朝日山城ともいう。
葛山城〒380-0874 長野県長野市茂菅(芋井/葛山)

 
大峰城〒380-0867 長野県長野市長野往生地(大峰山)

大峰山城ともいう。
北郷城〒381-0075 長野県長野市北郷(城山)

飯綱山城ともいう。
若槻城〒381-0051 長野県長野市若槻

若槻氏の城。武田氏が攻略。裏山は山城。
若槻山城〒381-0084 長野県長野市若槻東条

若槻城の支城。
髻山城〒381-0089 長野県長野市若槻西条(髻山)

もとどり山城ともいう。長尾景虎が善光寺へ出陣のとき、物見に築いたという。
長沼城〒  

 
駒沢城〒381-0082 長野県長野市上駒沢駒沢新町

駒沢氏の城。天文3年(1534年)に駒沢刑部村上義国に討たれたという。
石村城〒389-1106 長野県長野市豊野町石(石村北)

大倉城の出城。
三日城〒389-1106 長野県長野市豊野町石(石村北)

長尾景虎家臣甘粕数直が在城した。
大倉城〒389-1102 長野県長野市豊野町大倉(大倉入)

小笠原長清の子小笠原長澄が在城した。
手子塚城〒389-1103 長野県長野市豊野町蟹沢(区手古塚)

 
福平城〒381-4104 長野県長野市戸隠栃原(福平)

永正(1504〜1520年)年間に溝口伯耆守が居城とした。

上尾城〒381-2344 長野県長野市信更町上尾

平林氏の城。
楯ノ城〒381-2359 長野県長野市信更町三水

金丸氏の城。
田野口城〒381-2353 長野県長野市信更町田野口

牧之島城の属城。田野口(田口)氏が築城。
塩崎城〒388-8014 長野県長野市篠ノ井塩崎

白助城ともいう。
応永6年(1399年)、信濃守護に就任した小笠原長秀に一揆が起こった。 9月3日、守護反抗の兵をあげた村上満信は屋代城から500余騎を繰り出し、 佐久地方の伴野氏、平賀氏、望月氏らが700余騎、小県地方の海野氏、会田氏らが300余騎、 中野須坂地方の高梨氏、井上氏らも計1000騎を引き連れて横田河原方面に向かった。 小笠原長秀は仁科氏、大田切氏らを集め800余騎で守護所を出て、 大文字一揆と小笠原軍が9月24日に戦い、小笠原勢は圧されて塩崎城へ逃れた。 坂西長国率いる小笠原勢は大塔城に籠ったが飢えに苦しみ、撃滅されてしまう。 塩崎城には大井光矩が調停に入り、和議が成立。 小笠原長秀は京都へ立ち去っていったという。
赤沢城〒388-8014 長野県長野市篠ノ井塩崎(赤沢)

塩崎城ともいう。
横田城〒388-8005 長野県長野市篠ノ井横田

横田河原合戦のときに越後から城長茂が入城。 養和元年(1181年)、越後から平家方の大軍勢が押し寄せてくると聞いた小県郡の依田城をあとにした木曽義仲は、 白鳥河原で全軍の馬首をそろえ、進軍。従うのは樋口兼光今井兼平をはじめ、 木曽中太木曽弥中太ら木曽党。諏訪次郎茅野太郎、手塚氏ら諏訪党。 井上光盛根井小弥太楯親忠落合兼行祢津貞行望月次郎志賀七郎平原景能仁科二郎ら信濃源氏や滋野一党。 上野国や甲斐国などに散っていた源氏の将も加わり、総勢3000騎であった。 城資長の弟城長茂(城資茂)が越後、出羽、会津の武士を引き連れ4000騎で横田河原に陣を張った。 6月14日、木曽義仲の軍勢が横田河原に到着し、激戦が繰り広げられた。 笠原頼直木曽義仲に散散に破られ、城長茂に「今こそ恥をすすぎたまえかし、平家の見参に入れ奉らん」と激励されたという。 木曽方の奇策によって、平家方は大敗。逃げ帰ったのはたった300余人だったという。 城長茂は越後にもいたたまれずに陸奥へ逃亡。 大勝利をあげた木曽義仲であったが、源頼朝に攻められ、嫡男木曽義高を人質に差し出し和議を結ぶ。
横田城は、川中島合戦のときには武田晴信が入城した。

海津城〒381-1231 長野県長野市松代町松代

松代城ともいう。
関屋城〒381-1222 長野県長野市松代町豊栄(関屋)

 
戸山城〒381-1222 長野県長野市松代町豊栄(牧内)

津羽氏の城。天文6年(1537年)に村上義正に攻められ主従38人は山奥で自決したという。
東条城〒381-1221 長野県長野市松代町東条(清滝)

清滝城、英多城ともいう。雨飾城の支城。南北朝時代で合戦上になったという。
雨飾城〒381-1221 長野県長野市松代町東条(尼巌山)

尼飾城、尼巌城ともいう。東条信広の城。天文年間に真田幸隆が攻撃を繰り返してようやく落した。
寺尾城〒381-1225 長野県長野市松代町東寺尾(赤塚山)

天文19年(1550年)武田氏に心を寄せた寺尾重頼を村上勢が攻撃し、真田幸隆が救援に出陣した。
金井山城〒381-1225 長野県長野市松代町東寺尾(金井山)

寺尾城の属城。
霞城〒381-1211 長野県長野市松代町大室

大室氏代代の城。天文年間に村上氏に属し、のちに武田氏に従い、さらに織田氏、上杉氏の配下となる。
川田城〒381-0103 長野県長野市若穂川田

川田氏の城。村上氏に属し、のちに武田氏に降る。
保科城〒381-0102 長野県長野市若穂保科(須釜)

霜台城。保科正利(保科正俊)が築城。村上氏に敗戦し伊那へ逃れた。
春山城〒381-0103 長野県長野市若穂(春山/城ノ峰)

天文年間、富永氏が築いたが、途中で中止したという。

井上城〒382-0045 長野県須坂市井上(前山)

 
竹ノ城〒382-0043 長野県須坂市八町下八町

 
須田城〒382-0028 長野県須坂市臥竜(臥竜山)

 
大岩城〒382-0011 長野県須坂市日滝本郷町(大岩山)

建久4年、須田氏が築城。村上氏に属し武田氏が攻略。須田満親は上杉氏に従い会津に移った。
瀬脇城〒386-2211 長野県須坂市(瀬脇)

大峡広綱の城。
仙仁城〒386-2211 長野県須坂市仁礼仙仁山

村上家臣小出大隅守の城。武田氏に降り、のちに東寺尾に移る。
宇坪城〒382-0000 長野県須坂市米子

坂田信濃守の城。越後へ逃走する。
米子城〒382-0000 長野県須坂市米子(蓑堂山)

 

雨引城〒382-0800 長野県上高井郡高山村高井(雨引山)

 
福井城〒382-0822 長野県上高井郡高山村牧福井原

牧伊賀守の城。武田氏に攻められ越後へ去る。
山田城〒382-0801 長野県上高井郡高山村中山駒場

駒場城、滝入城、滝ノ入城ともいう。高梨政光の孫高梨忠直が山田高梨氏を称したが、中野高梨氏の高梨政盛が攻略。
枡形城〒382-0801 長野県上高井郡高山村(枡形)

山田国政(高梨国政)の城。山田城(滝ノ入城)落城後はどうなったか不明。





二十端城〒381-0211 長野県上高井郡小布施町雁田

荻原常倫の城。
雁田城〒381-0211 長野県上高井郡小布施町雁田(雁田山)

雁田大城、雁田山城ともいう。二十端城の詰城。砦跡が残る。
郷原城〒381-0207 長野県上高井郡小布施町押羽

延元年間、もしくは元中年間の頃、都住の大半をおさめたという郷原直衡が居城とした。









二十端城〒383-0044 長野県中野市桜沢(翠山)

荻原常倫の城。雁田城へ移る前に居城としていた。武田氏が攻略。
小曽涯城〒383-0034 長野県中野市新野(南屏風山)

和銅年間の築城という。高梨氏が守り、武田氏が攻略した。
牛出城〒383-0055 長野県中野市牛出

天文年間、須田満親の城。武田氏が攻略。
草間城〒383-0053 長野県中野市草間

高梨氏に属した草間信良の城。武田氏と戦い敗れ落城した。
小内城〒383-0052 長野県中野市安源寺

高梨房光の城。永禄2年(1559年)に武田氏が攻略。
高梨城〒383-0023 長野県中野市小舘

中野小館、中野小舘ともいう。
鴨ヶ岳城〒383-0024 長野県中野市東山(鴨ヶ岳)

鴨ヶ丘城、鴨ガ丘城ともいう。
間山城〒383-0033 長野県中野市間山(南雲井岳)

真山城、南雲井岳城ともいう。高梨盛光の城。永禄3年(1560年)に武田氏が攻略。
鎌ヶ岳城〒383-0032 長野県中野市更科(鎌ヶ岳)

鎌ガ岳城ともいう。天文22年(1553年)に武田氏が攻略。浦野氏の城。
壁田城〒383-0061 長野県中野市壁田(城山)

壁田山城ともいう。高梨氏に属した山田豊前守(高梨豊前守)が築城。武田氏に降る。
岩井城〒383-0001 長野県中野市岩井(朝日山)

朝日山城、吉ノ城、吉の城ともいう。文明8年(1476年)に東源寺政重が築城。のちに岩井直信が居城とした。上杉氏に従った。
今井城〒389-2102 長野県中野市上今井(北城山)

北城、北城山城、北山城ともいう。替佐城の出城。
替佐城〒389-2101 長野県中野市豊津替佐(対面城)

武田晴信が永禄7年(1564年)に築城。上杉氏への抑えのために城。
笠倉城〒389-2101 長野県中野市豊津笠倉

高梨政頼の城。
永井城〒389-2104 長野県中野市永江南永江

永井山城ともいう。天正8年(1580年)に上杉景勝の家臣吉江民部少輔が領した。

横倉城〒381-0405 長野県下高井郡山ノ内町(横倉)

高梨家臣の夜間瀬氏の城。
間崎城〒381-0403 長野県下高井郡山ノ内町寒沢

高梨氏が築城。永禄年間に高梨氏の没落とともに落城。
須毛城〒381-0403 長野県下高井郡山ノ内町寒沢

小島氏の城。












日向城〒389-2302 長野県下高井郡木島平村往郷

計見城ともいう。市川氏代代の城。市川氏は上杉氏に従い会津へ移った。真宗寺に遺品がある。
蓮城〒389-2256 長野県飯山市蓮

 
犬飼城〒389-2253 長野県飯山市(犬飼)

泉氏の家臣宮森信親の城。武田氏侵攻のときに越後へ逃走した。
飯山城〒389-2253 長野県飯山市飯山

 
中条城〒389-2418 長野県飯山市寿(中条)

泉氏の一族今清水重継の城。のちに会津へ移る。
尾崎城〒389-2417 長野県飯山市(尾崎)

泉氏の長男尾崎政重(泉政重)の城。のちに会津へ移る。
黒岩城〒389-2417 長野県飯山市(顔戸/黒岩/黒岩山)

黒岩山城ともいう。勘解由重胤の城。
中曽根城〒389-2417 長野県飯山市中曽根

中曽根道秋の城。
大川城〒389-2411 長野県飯山市(大川)

大川日蔭城ともいう。多室氏の城。
今井城〒389-2412 長野県飯山市常郷(今井)

永禄年間に今井経永が築城。のちに会津へ移る。
大滝城〒389-2611 長野県下高井郡野沢温泉村東大滝

上杉家臣大滝重家の城。のちに会津へ移る。
西浦城〒389-2614 長野県下高井郡野沢温泉村平林(西浦)

上杉家臣平林蔵人の城。のちに会津へ移る。

志久見城〒389-2702 長野県下水内郡栄村(志久見)

志久見郷には市河氏が地頭として大きな支配勢力をふるっていた。 市河氏は甲斐国の出といい、鎌倉時代から室町時代、戦国時代、さらに安土桃山時代にいたるまで活躍し、 全盛期には替佐から平滝方面まで権勢を示したという。 建武2年(1335年)には足利尊氏党に属し越後で新田軍と激戦をまじえ、その後は南朝方を助けて志久見郷を没収されたときもあるという。 中野高梨氏との間がうまくいかず、小菅寺で大きな合戦となったこともある。 『市河文書』に、南北朝時代のはじめの康永2年(1343年)に武名の高かった市河助房が養子の市河弥六とあとから生まれた市河松王に与えた領地の譲り渡し書などが記してある。 市河氏は甲斐武田氏が滅亡したのちは、越後上杉景勝に従い、会津移封によって信濃を去った。













矢筒城〒389-1211 長野県上水内郡飯綱町牟礼(矢筒山)

矢筒山城ともいう。永正年間(1504〜1520年)の頃、島津氏が築城。島津権六郎の城。
赤塩城〒389-1203 長野県上水内郡飯綱町赤塩

黒田城ともいう。赤塩氏の城。
芋川城〒389-1201 長野県上水内郡飯綱町芋川(若宮)

芋川若宮城ともいう。芋川氏の城。村上氏に従い上田原合戦に出陣。のちに武田氏に属した芋川守親は長篠合戦で戦死した。








柏原城〒389-1305 長野県上水内郡信濃町柏原(東裏)

柏原東裏城ともいう。
割ヶ岳城〒389-1312 長野県上水内郡信濃町富濃(割ヶ岳)

割ガ岳城、割ヶ嶽城、割ガ嶽城、割ケ嶽城ともいう。野尻城とならんで信越国境における上杉氏の重要拠点。要害として知られる。 柴津為信の城。永禄4年(1561年)武田氏が攻略。永禄3年(1560年)長尾景虎が関東に侵攻し、北條氏康の小田原城を包囲。 3月には鶴岡八幡宮で山内上杉氏の家督と関東管領の継承を行い上杉政虎と改名していた。 北條氏康と同盟していた武田晴信は、北條氏救援のため一時吉田まで進出するが、途中で戦略を換え、 信越国境に軍勢を展開。本拠が危ういして上杉軍が関東から越後に撤退するよう画策した。 5月17日に甲府を出陣した武田晴信は越後へ侵入し小田切を攻撃。帰りに要衝割ヶ岳城を攻撃。しかし抵抗は激しく、 武田勢では甲斐衆辻六郎兵衛が戦死。原虎胤と信濃衆浦野民部が重傷を負うなど苦戦する。 そこで、原虎胤加藤虎景が調略により城から内応者を出し、城はようやく落城したという。
戸草城〒389-1312 長野県上水内郡信濃町富濃戸草

 
野尻城〒389-1303 長野県上水内郡信濃町野尻(城ヶ入)

 
古海城〒389-1302 長野県上水内郡信濃町古海(古海城腰)

古海城山城ともいう。木曽義仲を攻撃した城長茂が築城。

牧之島城〒381-2412 長野県上水内郡信州新町牧野島

牧野島城ともいう。






















松原城〒381-3203 長野県上水内郡中条村中条(若神子)

中條城、若神子城ともいう。永禄年間(1558〜1569年)に長尾氏に属した春日氏が築城。
柏鉢城〒381-3204 長野県上水内郡中条村御山里(虫倉山)

柏丸城ともいう。下綱因幡守が築城。


















真那板城〒381-3302 長野県上水内郡小川村高府(外石峰)

小川城の支城。
小川城〒381-3303 長野県上水内郡小川村小根山(古山)

小川古城、小川古山城、布留山城ともいう。小川氏代代の城。村上氏に従わず香坂安房守が攻略。のちに大日方長政が在城。
椿峰城〒381-3303 長野県上水内郡小川村(椿峰)

椿勝政の城。小川貞綱の不意討ちで討たれたという。その後廃城となる。












長窪城〒386-0602 長野県小県郡長和町長久保(古町北古屋)

長久保城ともいう。
和田城〒386-0701 長野県小県郡長和町和田(上和田/上の山)

武石大井氏の大井信定の城。
村上義清と通じたため天文14年(1545年)武田氏が攻略。大井信定をはじめ、全員が討死したという。













黒丸城〒386-1603 長野県小県郡青木村当郷(城山公園)

飯綱山城、飯縄山城ともいう。
村松西城〒386-1602 長野県小県郡青木村村松

村松城ともいう。冠者岳城の支城。
村松東城〒386-1602 長野県小県郡青木村村松

村松城、村松本城ともいう。冠者岳城の支城。
乗城〒386-1601 長野県小県郡青木村田沢入田沢(立谷)

冠者岳城の支城。
冠者岳城〒386-1601 長野県小県郡青木村(子檀嶺)

鳥帽子形山城、村松城、火車城ともいう。 杉原四郎兵衛の城。
天正13年(1585年)、子檀嶺岳に杉原四郎兵衛が冠者岳城を築城し、反真田の兵をあげた。 徳川側に味方した方が真田氏が敗れたのちに恩賞にあずかれると思った一揆連中だったわけだが、 徳川側について上田城へ攻めることはなかった。 ところが、真田氏は神川合戦で勝利し、子檀嶺岳に真田信幸が討伐にあらわれ、大砲を打ち鬨の声をあげて降伏させた。 関ヶ原合戦のときには、真田家臣小山田壱岐守が守った。
待小屋城〒386-1601 長野県小県郡青木村田沢(十観山)

まちごや城ともいう。
滝仙寺城〒386-1607 長野県小県郡青木村奈良本下奈良本(滝仙寺上城山)

池田城ともいう。
慶長5年(1600年)、真田家臣池田定信が守った。
平城〒386-1606 長野県小県郡青木村沓掛(本村)

南に大明神岳、保福寺峠道がある。
荒屋城〒386-1606 長野県小県郡青木村沓掛

大明神岳の尾根で平城と相対している。

先達城〒399-0101 長野県諏訪郡富士見町境先達

武田氏が諏訪地方に対して築いた山城。守将の多田常昌にちなむ常昌寺がある。






















粟沢城〒391-0011 長野県茅野市玉川粟沢

天文年間に諏訪頼重の従兄弟諏訪頼豊が在城。武田氏に属したのち、鳥居峠合戦で討死した。
塩沢城〒391-0216 長野県茅野市米沢塩沢(朝倉山)

朝倉城、朝倉山城ともいう。天正の頃、武田氏に属した塩沢将監の城。佐久や小県方面への関門。
湯川城〒391-0301 長野県茅野市北山湯川

南北朝時代の宿場。武田晴信が足だまり場として出陣の手配などをしたという。大門峠へ通じる道がある。
樋沢城〒391-0013 長野県茅野市宮川安国寺

諏訪頼継の城。
文明15年(1483年)諏訪頼継が上原城主の諏訪政満を神殿に招き床下の伏兵に殺させたため、樋沢城は攻められ、諏訪頼継は高遠へ逃れたという。
上原城〒391-0001 長野県茅野市茅野上原(永明寺)

永明山城ともいう。

桑原城〒392-0012 長野県諏訪市四賀桑原

 
金子城〒392-0015 長野県諏訪市中洲下金子

金子左衛門尉の城。諏訪大社上社の近くで、天正年間に諏訪頼忠が築城。
武居城〒392-0015 長野県諏訪市中洲神宮寺

守屋山につづき鎌倉時代に築城されたという。諏訪氏の要害。
大熊城〒392-0131 長野県諏訪市湖南大熊

武居城の支城。
有賀城〒392-0016 長野県諏訪市豊田有賀

有賀氏の城。
有賀峠の登り口にある。豪族有賀兄弟がいたという。大熊城の属城。
高島城〒392-0022 長野県諏訪市高島

 
茶臼山城〒392-0003 長野県諏訪市上諏訪茶臼山

 
大和城〒392-0001 長野県諏訪市大和

尾和城、大輪城ともいう。大輪(大和)越中守の城。武田氏に攻略された。

山吹城〒393-0011 長野県諏訪郡下諏訪町新町上(下ノ原/水月霊園)

 
上ノ城〒393-0093 長野県諏訪郡下諏訪町東山田

山吹城と同じく中山道に備えた城。武田氏が支配し川中島合戦の狼煙台にも使われた。
下ノ城〒393-0093 長野県諏訪郡下諏訪町東山田

 
小坂城〒394-0044 長野県岡谷市湊小坂(城山)

神官小坂氏と称し、樋沢城を攻めた。
花岡城〒394-0044 長野県岡谷市湊花岡

尾尻城、湖尻城、小尻城、池尻城ともいう。
承久の頃に諏訪一族有賀四郎が在城。武田氏が攻略後、武田信繁板垣信方が在城した。
高尾山城〒394-0000 長野県岡谷市川岸(高尾山)

天文年間に武田家臣三沢対馬守が在城。

西条城〒399-0724 長野県塩尻市上西条(城ヶ岳)

城ヶ岳城、城ガ岳城ともいう。
高山城〒399-0715 長野県塩尻市長畝

武田軍を防ぐために小笠原氏が築いた城。
上野山城〒399-0726 長野県塩尻市下西条(上野山)

小笠原氏の城。
熊井城〒399-0711 長野県塩尻市片丘北熊井

北熊井城ともいう。
妙義城〒399-6462 長野県塩尻市洗馬芦ノ田(妙義山)

妙義山城ともいう。三村氏の城。
洗馬城〒399-6462 長野県塩尻市洗馬(長瀬)

瀬場城ともいう。
贄川城〒399-6301 長野県塩尻市贄川(楡沢山)

楡沢山城、瀬戸城、七城八城ともいう。木曽氏の城。鳥居峠(山吹山)にたいする狼煙台としても使用された。
奈良井城〒399-6303 長野県塩尻市奈良井

木曽一族奈良井義高の城。奈良井義高は天文年間から弘治年間(1555〜1557年)の頃、武田晴信に抵抗して滅亡した。大宝寺に墓がある。

朝日城〒390-1104 長野県東筑摩郡朝日村古見

旭城ともいう。上条氏の城。
武居城〒390-1101 長野県東筑摩郡朝日村西洗馬

三村忠親の城。小笠原氏から武田氏に寝返った。
淡路城〒390-1401 長野県東筑摩郡波田町上波田(淡路)

春日淡路守が慶長年間に築城。
波田山城〒390-1401 長野県東筑摩郡波田町上波田(水沢)

波多山城、秋葉城ともいう。波田六郎左衛門(畑六郎左衛門)佐々廉義が在城。治承年間に築城。
櫛木城〒390-1401 長野県東筑摩郡波田町上波田

櫛起城、西光寺城ともいう。櫛木紀伊守が在城。
村井城〒399-0032 長野県松本市芳川村井町

 
島立城〒390-0852 長野県松本市島立

 
埴原城〒390-0823 長野県松本市中山埴原南

埴原氏、村井氏、波田腰氏が在城。

井川城〒390-0831 長野県松本市井川城

 
乾城  

 
深志城〒390-0815 長野県松本市深志

松本城ともいう。永正元年(1504年)、小笠原貞朝の家臣島立貞永(島立右近大夫)が築城。天正10年(1582年)には松本城と改称されている。
犬甘城〒390-0861 長野県松本市蟻ケ崎(城山)

天文19年(1550年)11月、深志城を預かっていた教来石信房は戸石崩れを機に村上義清が攻めてくるという噂の真否をつきとめるため、 いまだ武田氏に降らずに抵抗していた犬甘城や平瀬城付近を家臣20騎ほど連れて探索していた。 岡田の宿場あたりで馬上武士10騎ほどに出くわした。馬をとめると、1人が近づいてきて、 「そこへお越しの方方は村上殿の衆とお見受けもうす。ご出張かたじけなく存ずる。深志への先駆けのため、 犬甘大炊助、これまでお出迎えに参った。」と妙な挨拶をするので、なるほど人違いだなと悟った教来石信房は、犬甘城主がわざわざ小人数で出てきているのだから討ちとってやろうと、 「いかにも。村上の手の者。これまでまかり越した。お出迎え、ご苦労に存ずる。」と返した。 犬甘大炊助も異変に気づき、とっさに後ろへ向き走り出した。 教来石信房の一行は抜刀しあとを追いかけたが、犬甘大炊助は夜の闇にまぎれこんでしまった。 しかし犬甘大炊助が犬甘城に戻ることができなかったことが明らかになり、 深志城に伝令がとぶや犬甘城はあっという間に圧しかけた武田軍によって苦もなく制圧された。 犬甘大炊助は小笠原家臣二木重高の中塔城へ逃げ込んだという。
桐原城〒390-0222 長野県松本市入山辺西桐原(追倉山)

小笠原氏に属した桐原氏五代の城。武田軍攻略後は遠山長左衛門が在城。東に袴越山がそびえる。
山家城  

 
浅間城〒390-0303 長野県松本市浅間

 
中入城〒390-0222 長野県松本市入山辺(中入/秋葉山)

山家氏を称した諏訪為頼が築城。のちに折野氏が山家氏を称し小笠原氏に仕えた。現在は徳運寺が跡地。
林城〒390-0221 長野県松本市里山辺林(金華橋)

金華山城、東城山城、大城、小笠原氏城ともいう。
林小城〒390-0221 長野県松本市里山辺林(金華橋)

林支城ともいう。林城の支城。
平瀬城〒390-0851 長野県松本市島内下平瀬

小笠原氏に属した平瀬下野守が築城。 天正20年(1551年)10月20日、深志城へ着陣した武田晴信は安曇地方の平瀬城を攻撃。 10月24日に武田軍はさらに平瀬城に猛襲をくわえ、孤立無援にもかかわらず降伏しないでいた平瀬城は城将平瀬下野守以下200人あまりが城と運命をともにした。
伊深城〒390-0314 長野県松本市岡田伊深(城山)

岡田城ともいう。保元の頃、岡田親義が築城。岡田一族の赤井氏が元文の頃に小笠原氏に属し在城した。
稲倉城〒390-0301 長野県松本市稲倉(城山)

稲倉山城ともいう。小笠原家臣の赤沢氏の城。武田氏に降った。稲倉峠のつづきで、山嵐峠ともいう。
茶臼山城〒390-0303 長野県松本市浅間温泉(茶臼山)

稲倉支城ともいう。稲倉城の支城。松本平を一望できる。
洞山城〒390-0317 長野県松本市洞

稲倉城の出城。武田氏の侵攻に、本城とともにあっという間に落ちたことから「早落し城」という名がつけられたという。
三才山城〒390-0302 長野県松本市三才山

稲倉城の出城。

刈谷原城〒399-7417 長野県松本市刈谷原町

苅屋原城、刈屋原城、苅谷原城ともいう。
荒神屋城〒399-7416 長野県松本市七嵐

太田弥助の城。天文22年(1553年)に武田氏が攻略。
見揚城〒399-7415 長野県松本市赤怒田

刈谷原城の支城。武田氏が攻略。
保福寺城〒399-7412 長野県松本市保福寺町

掻揚城、見当城ともいう。文亀2年(1502年)に小笠原長棟が築城。
笹ヶ城〒399-7401 長野県松本市五常西宮

 
雨戸屋城〒399-7401 長野県松本市五常中北山

会田家臣児玉民部の城。武田氏により攻略された。
秋吉城〒399-7411 長野県松本市中川小岩井

会田氏の城。武田氏が攻略。
中ノ陣城〒399-7411 長野県松本市中川小岩井

会田氏の城。武田氏が攻略。
岩淵城〒399-7411 長野県松本市中川藤池

岩渕城ともいう。会田家臣岩淵丹後守(岩渕丹後守)の城。天文22年(1553年)に武田氏が攻略。
履盆子城〒399-7411 長野県松本市中川召田

会田家臣召田監物の城。武田氏が攻略。
会田城〒399-7402 長野県松本市会田(虚空蔵山)

虚空蔵城ともいう。会田小次郎の城。天文22年(1553年)武田氏が攻略。

田屋城〒390-1703 長野県松本市梓川上野田屋

天文15年(1546年)に西牧氏が築城。北条城の支城。
北条城〒390-1702 長野県松本市梓川梓南北条(亀山)

中塔合戦のときに西牧信道が中塔防衛のために在城した。
中塔城〒390-1702 長野県松本市梓川梓小室(中塔/黒沢山)

天文19年(1550年)、戸石城で武田軍を撃ち破った村上義清は匿っていた小笠原長時とともに約3000の軍勢をひきつれて塔ノ原城へ出陣した。 さらに梓川氷室へ着陣すると、小笠原旧臣が集まり、その軍勢は1000を越え、さらに鳥立城が協力を申し出てきた。 ところが一緒に進軍してきた村上勢が一夜のうちに陣を引き払って葛尾城へ帰陣してしまった。 村上氏が抱える東信地方の諸事情もあったのだろうが、小笠原氏からすれば一緒に戦うはずだった仲間が断りもなく遠くへ布陣してしまったのだから戦意喪失。 せっかく集まった軍勢も急に気力をなくして逃げる者も続出し、いつしか1000人すれすれに減っていた。 武田方は飫富虎昌を大将として梓川野々宮に布陣。塩尻から上条藤太が小笠原氏の援軍に駆けつけた。 上条藤太を先頭に小笠原勢は奮立ち、小笠原長時も武田騎馬隊を18人討取り、武田勢は先陣が崩れたために退却。 この野々宮合戦で武田方はおよそ300という多数が討取られたという。 小笠原長時はこの大勝も所詮消灯前の一灯にすぎないと自害しようとしたが、 二木重高におしとどめられ、二木重高の中塔城へ籠城した。 籠城3日目には武田勢が中塔城を囲み、激しい戦いとなったが、抵抗の激しさに武田勢は後退し、約半年にわたって抵抗はつづいた。 武田晴信小笠原長時に降伏勧告をしたが、小笠原長時は降伏を拒んだ。しかしながら長い長い戦に耐えきれなくなったのか、ふいと城を脱出し、村上義清や下伊那にいる弟小笠原信定の鈴岡城を頼り武田氏に攻められて逃亡をつづけた。 中塔城内では二木家臣が武田氏に寝返り放火するなど、もはや武田氏に降伏するほかなくなり、開城した。 二木重高一族は甲斐へ送られるということになった。甲斐へ送られるというのは死を意味するものだった。ところが二木重高は許されて武田氏に仕えることになった。 武田氏に仕えてからも二木重高は謀反者扱いされ、小笠原貞慶が復帰するまではたいへんな苦労をしたという。

光城山城〒399-8203 長野県安曇野市豊科田沢(光城山)

田沢城ともいう。真田四郎が在城。
塔ノ原城〒399-7102 長野県安曇野市明科中川手塔の原

塔原城、塔の原城ともいう。塔原(塔ノ原)氏の城。天文22年(1553年)に武田氏が刈谷原城を攻略すると塔ノ原城は戦わずに落城した。
明科城〒399-7102 長野県安曇野市明科中川手上町

小屋城ともいう。
三峰笹ヶ城〒399-7101 長野県安曇野市明科東川手

三峰笹ガ城、三嶺笹ノ城ともいう。
花見城〒399-7101 長野県安曇野市明科東川手竹の花(花見山)

日岐城の属城。丸山肥後守の城。
長尾城〒399-8102 長野県安曇野市三郷温上長尾

堀金氏一族(小岩井氏一族)の長尾氏の城。
小倉城〒399-8103 長野県安曇野市三郷小倉(城山)

天文年間に小笠原家臣秋山与一が在城。中塔城と連絡をとった。天正の頃には小笠原貞政が在城。
殿村城〒399-8205 長野県安曇野市豊科(細萓)

細萓氏の城。
真々部城〒399-8204 長野県安曇野市豊科高家真々部(殿村/金竜寺)

仁科一族真々部真光の城。武田晴信に捕えられ甲斐に送られ自害したという。
田多井城〒399-8212 長野県安曇野市堀金三田田多井

田多井氏の城。深志城が落城して、廃城となった。
岩原城〒399-8211 長野県安曇野市堀金烏川岩原(砂渡)

小岩井一族の堀金氏の城。のちに武田氏に従い、武田氏滅亡後は没落。
小岩岳城〒399-8301 長野県安曇野市穂高有明小岩岳

小岩嶽城ともいう。仁科氏の城。仁科盛能の子仁科盛親が小岩岳城主となり、小岩岳図書盛親と称した。 小岩岳盛親小笠原長時に節をたて、中塔城が没落したのちも武田氏に降らずに、 天険をたのみに武田氏と一戦を辞さないかまえをとりつづけていた。 もとより決死の覚悟をかためていたため、か弱い女子どもは穂高の豪家に頼んでおき、城兵500人で籠城していた。 天正20年(1551年)10月20日、深志城へ着陣した武田晴信は安曇地方の平瀬城を攻撃。村上義清も安曇地方を抑えるべく丹生子城を落した。 24日に武田軍はさらに平瀬城に猛襲をくわえ、孤立無援にもかかわらず降伏しないでいた平瀬城は城将平瀬下野守以下200人あまりが城と運命をともにした。 武田軍は偵察に小岩岳城へ兵を出し城下の砦などを焼き払って引上げた。 天正21年(1552年)7月27日、武田晴信は甲斐を出発し、8月には小岩岳城を本格的に攻撃。小岩岳城の抵抗も激しく激戦が繰り広げられた。 猛攻撃は昼夜つづき、8月12日、ついに小岩岳盛親とその子小岩岳盛通はともに壮烈な最期をとげた。小岩岳城兵は500人あまりが討死したという。 安曇地方へ出てきていた村上義清は川中島方面に忙しく安曇地方からは撤退していた。

渋田見城〒399-8602 長野県北安曇郡池田町会染渋田見

渋田見勘解由の城。
滝沢城〒399-8602 長野県北安曇郡池田町会染滝沢

滝沢資成の城。
田ノ入城〒399-8605 長野県北安曇郡池田町陸郷(茶臼山)

安部五郎丸の城。
白駒城〒399-8605 長野県北安曇郡池田町陸郷

樋口兼時の城。
池田山城〒399-8601 長野県北安曇郡池田町池田堀之内(花岡山)

池田盛国の城。

星野城〒399-8501 長野県北安曇郡松川村細野

細野城ともいう。星野盛通(細野盛通)の城。武田氏に従い川中島合戦で討死した。
大和田城〒399-8501 長野県北安曇郡松川村川西(大和田/城山)

永正年間に、仁科一族大和田盛久が在城。
布上城〒399-8501 長野県北安曇郡松川村川西

天文の頃に、平林氏が在城。小岩岳城が陥落してから城を去った。
谷知原城〒399-8501 長野県北安曇郡松川村(谷知原)

丸山盛直の城。天文21年(1552年)に武田氏が攻略。
鼠穴城〒399-8501 長野県北安曇郡松川村鼠穴(城ヶ峰)

土屋盛俊の城。天文21年(1552年)に武田氏が攻略。

小屋場城〒399-7301 長野県大町市八坂大平

仁科家臣北沢吉次の城。
野田城〒399-7301 長野県大町市八坂上篭

長亨2年、仁科家臣坂井吉信が築城。
前山城〒399-7301 長野県大町市八坂上篭

雷電城の出城。
雷電城〒399-7301 長野県大町市八坂大塚

鳥屋城ともいう。仁科家臣の小菅氏の城。
鳥立城〒399-7301 長野県大町市八坂切久保(取手山)

取手山城、取手城、鳥手城ともいう。仁科家臣の切久保氏の城。
切明山城〒399-9101 長野県大町市美麻(切明/日影)

高知伊豆守(高地伊豆守)の城。
大野田城〒399-9101 長野県大町市美麻大塩

手塚次郎の城。
篠山城〒399-9101 長野県大町市美麻高地

高地氏の城。切明山城の支城。
白石城〒399-9101 長野県大町市美麻二重(湯ノ海)

 
藤城〒399-9101 長野県大町市美麻二重

 
千見城〒399-9101 長野県大町市美麻千見

大日向直長の城。大日向直長は武田氏に内応していたが、飫富昌景(山縣昌景)によって落城。大日向直長は討死した。
西山城〒398-0004 長野県大町市常盤西山(本城城山)

矢口筑前守(矢ノ口筑前守)の城。天正9年(1581年)に高遠城へ移った。
大崎城〒398-0004 長野県大町市常盤清水

仁科家臣清水石見守(清水岩見守)の城。
丹生子城〒398-0003 長野県大町市社木舟(社丹生子)

南山城ともいう。仁科家臣丹生子筑後守の城。天文20年(1551年)に武田氏の侵攻を抑えるために村上義清が攻城。
南原城〒398-0002 長野県大町市大町南原町

天文年間に仁科家臣高根明成が在城。
南城〒398-0002 長野県大町市大町仁科町

仁科南城ともいう。仁科氏の城。
仁科城〒398-0002 長野県大町市大町仁科町

北城、仁科北城ともいう。仁科氏の本城。
仁科盛康は武田氏の軍門に降り、仁科盛康の嫡男仁科盛政は川中島合戦に参陣したが、上杉方への内応を疑われ、甲斐府中へ送られ自害した。 仁科盛政の遺児仁科孫二郎は麻衣木崎湖へ投身したという。 武田晴信の五男武田晴清が仁科氏を継ぎ、仁科盛信として高遠城合戦で織田の大軍と戦い討死した。
森城〒398-0001 長野県大町市平森

木崎湖の西岸で、木崎湖の水を引き堀をつくった水城。 仁科盛遠後鳥羽上皇の鎌倉幕府討伐軍に従い、鎌倉幕府と戦い討死した。 その後、貞応元年(1222年)、仁科領を与えられた菅谷政治仁科盛遠旧臣の間に亀裂が生じ、仁科家臣の阿部貞綱阿部貞高兄弟が菅谷政治を急襲。 菅谷政治は矢を雨のように放ち、阿部貞綱を討つが、弟の阿部貞高に討たれてしまった。阿部貞高は仁科姓を勝手に名のり領主となり横暴をきわめた。 鎌倉幕府の命で討伐に向かったのは木曽義重という。天福元年(1233年)1月、木曽義重は夜襲でもって阿部氏を滅ぼした。阿部貞高は猿ヶ城へ逃亡しようとしたところを討たれたという。 天文年間は、仁科盛康が在城した。
駒沢城〒398-0003 長野県大町市(大沢寺)

南北朝時代に宗良親王に従った一条氏の城。一条正信の墓がある。
猿ヶ城〒398-0001 長野県大町市平海の口

海ノ口城ともいう。

迎場城〒399-9211 長野県北安曇郡白馬村神城佐野(子安神社)

大塔合戦のころに多田善八郎が在城。
上城〒399-9211 長野県北安曇郡白馬村神城佐野(やしろ沢)

 
沢渡城〒399-9211 長野県北安曇郡白馬村神城沢渡

沢渡氏は大塔合戦で活躍。天文21年(1552年)に中塔城攻防戦ののち、沢渡盛方は武田氏に降る。
宮原城〒399-9211 長野県北安曇郡白馬村神城三日市場(大屋敷)

沢渡氏の城。
茨山城〒399-9211 長野県北安曇郡白馬村神城堀之内(城峰神社)

飯田城の出城。守将は山本勘助という。
飯田城〒399-9211 長野県北安曇郡白馬村神城飯田(秋葉神社)

月夜沢城ともいう。大日向佐渡守の城。弘治元年(1555年)に武田家臣飫富昌景(山縣昌景)に攻められ滅亡。
飯森城〒399-9211 長野県北安曇郡白馬村神城飯森

一夜山城ともいう。飯森春盛(飯森晴盛)の城。
川中島合戦がはじまると、武田晴信は越後上杉勢の進出を警戒し、安曇の交通路を抑えておく必要があると、飫肥昌景(山縣昌景)を遣わせた。安曇地方の大半は武田氏に降っていたが大町以北は以前に武田氏に属していなかった。もはや恐るべき相手ではないが、越後に近いだけに放ってはおけないと判断したのだ。 弘治2年(1556年)に飫肥昌景は美麻の千見城を攻撃。城主大日向直長は早くから武田氏に内応していたが、反乱をもくらんでいるとみた武田氏は攻撃したため、大日向直長をふくめ全員が討死した。 飫肥昌景は白馬へ猛進し、飯森城を攻城。武勇で知られた守将飯森春盛は期待を裏切り、たった一晩のうちに落城してしまったため、一夜山城と名を残した。 弘治3年(1557年)1月に、雪に埋もれたため飫肥昌景が陣を引いたこともあり、越後に隠れていた飯森春盛が再び戻り、小谷五人衆に協力を求めた。ところが飫肥昌景に人質をとられていたこともあって、拒絶される。そのうち1人は飫肥昌景にそのことを密使で報せるしまつであった。 飯森春盛は白馬への復帰を諦め、小谷平倉城へ籠った。
塩島城〒399-9301 長野県北安曇郡白馬村北城塩島(城山)

塩島勝雄の城。塩島勝雄は武田氏に降っていたが、飫肥昌景に籠城の疑いをかぐられ飯田城で謀殺された。

千国城〒399-9422 長野県北安曇郡小谷村千国(城ヶ峰)

横沢氏の城。
黒川城〒399-9422 長野県北安曇郡小谷村千国乙黒川

武田氏の城。武田氏が攻略後に越後上杉勢に備えた。
稲葉城〒399-9511 長野県北安曇郡小谷村中土松本(稲葉)

杉山右門の城。
平倉城〒399-9511 長野県北安曇郡小谷村中土白岩(平倉山)

小谷城、平倉山城ともいう。
弘治2年(1557年)1月に飯森春盛が越後上杉家臣と名のって平倉城へ籠った。 大雪のなかを攻め寄せた飫富昌景の軍勢を抑え、雪に強いだけあって、一時迎撃に成功する。 弘治2年(1557年)7月に攻撃を再開した飫富昌景は鉄砲などを揃えて、平倉城は悪戦苦闘のすえに、落城。 最後は曲淵庄左衛門飯森春盛を討とった。
大網城〒399-9601 長野県北安曇郡小谷村北小谷大網

長坂城ともいう。平倉城陥落後に武田氏が狼煙台として使った。長坂釣閑斎が在城。

西条城〒399-7501 長野県東筑摩郡筑北村西条小仁熊上(城山)

西条三郎が築城。
乱橋城〒399-7504 長野県東筑摩郡筑北村乱橋(立峠)

会田氏の城。
青柳城〒399-7601 長野県東筑摩郡筑北村坂北青柳

 
薬師山城〒399-7200 長野県東筑摩郡生坂村小立野

高松薬師山城ともいう。丸山政友の城。
日岐城〒399-7200 長野県東筑摩郡生坂村下生坂(大城山)

日岐大城ともいう。仁科氏に属した丸山肥後守が守り、規模の巨大さと、堅固さから仁科四十八城に数えられ、なかでも随一という。
大日向城〒399-7311 長野県東筑摩郡生坂村東広津大日向(たかつや山)

 
宇留賀城〒399-7311 長野県東筑摩郡生坂村東広津宇留賀(かなとこ山)

 
麻績城〒399-7701 長野県東筑摩郡麻績村麻

 

薮原城〒399-6201 長野県木曽郡木祖村薮原(大久保)

藪原城ともいう。武田晴信が築城。栗原左衛門が守将として在城。
福島山城〒397-0001 長野県木曽郡木曽町福島城山

福島城ともいう。
福島城〒397-0001 長野県木曽郡木曽町福島(五領)

 
小丸山城〒397-0001 長野県木曽郡木曽町福島(小丸山)

木曽親豊木曽義元が在城した。
西野城〒397-0302 長野県木曽郡木曽町開田高原西野

木曽義昌が築城。山村氏が築城したともいう。
王滝城〒397-0201 長野県木曽郡王滝村崩越

 
今井沢山城〒399-5503 長野県木曽郡大桑村長野(今井沢山)

兼平城ともいう。今井兼平の城。
三留野城〒399-5301 長野県木曽郡南木曽町読書沼田(三留野)

木曽一族の沼田氏の城。
妻籠城〒399-5302 長野県木曽郡南木曽町吾妻妻籠

 
蘭城〒399-5302 長野県木曽郡南木曽町吾妻蘭(蘭起)

妻籠城の出城。天正12年(1584年)に徳川氏が攻略。
田立城〒399-5303 長野県木曽郡南木曽町田立(坪川)

妻籠城の出城。木曽家臣の原氏の城。
丸山城〒508-0502 岐阜県中津川市馬籠(木曽郡山口村馬籠)

馬籠城、孫目城ともいう。木曽氏代代の城。

龍ヶ崎城〒399-0428 長野県上伊那郡辰野町伊那富小横川

竜ヶ崎城、竜ガ崎城ともいう。
羽場城〒399-0428 長野県上伊那郡辰野町伊那富羽場

京極修理太夫の城。
小式ヶ城〒399-0425 長野県上伊那郡辰野町樋口(小式城部山)

小式ガ城、小式部城ともいう。武田晴信が伊那侵略後に10余年利用したという。
狐城〒399-0425 長野県上伊那郡辰野町樋口(小式城部山)

狐ン城ともいう。大石城の詰城。小式部城山の山腹に位置する。
大石城〒399-0425 長野県上伊那郡辰野町樋口(東樋口)

樋口光久の城。

上ノ平城〒399-4602 長野県上伊那郡箕輪町東箕輪小河内

知久氏の城。源義家の奥州征伐に従った源為公が伊那郡司に任ぜられ、居城とした。 知久氏を名のり勢力を広げたという。
荒城〒399-4602 長野県上伊那郡箕輪町東箕輪長岡

福与城の出城。
田中城〒399-4603 長野県上伊那郡箕輪町三日町

 
福与城〒399-4604 長野県上伊那郡箕輪町福与

箕輪城、荒神山城ともいう。
木下城〒399-4601 長野県上伊那郡箕輪町中箕輪木下

木下惣蔵の城。
松島城〒399-4601 長野県上伊那郡箕輪町中箕輪松島

松島肥前守の城。福与城が落城すると武田氏に降る。
大出城〒399-4601 長野県上伊那郡箕輪町中箕輪大出

黒小屋城ともいう。藤沢織部の城。福与城とともに落城。
大泉城〒399-4511 長野県上伊那郡南箕輪村大泉

大泉上総守の城。

古町城〒396-0011 長野県伊那市伊那部(古町公園)

春日昌吉の城。高遠氏に属していたが、のちに武田氏に降る。春日昌吉は織田軍の高遠城攻めで討死。
天神山城〒396-0111 長野県伊那市美篶笠原

平安末期に笠原頼直が在城。
中島城〒396-0621 長野県伊那市富県貝沼(吉田屋)

桜井重久の城。高遠城仁科盛信に従う。のちに上杉氏に仕え会津に移ると廃城となる。
埋橋城〒396-0621 長野県伊那市富県貝沼(局前)

天正年間、埋橋多賀茂の城。織田軍侵攻による高遠合戦で討死。
登城〒396-0621 長野県伊那市富県貝沼(局前)

天正年間、中原四郎左衛門の城。
叶尾城〒396-0621 長野県伊那市富県桜井

桜井茂八郎の城。織田軍侵攻による高遠合戦で討死。
羽場城〒396-0621 長野県伊那市富県北福地

天正年間、畑谷新八郎の城。織田軍侵攻による高遠合戦で討死。
橋場城〒396-0621 長野県伊那市富県南福地

天正年間、竹松外記の城。織田軍侵攻では武田氏に属し没落。
牛ヶ城〒396-0621 長野県伊那市富県南福地(池)

天正年間、中山道賢が築城。織田軍侵攻では武田氏に属し没落。
春日城〒396-0021 長野県伊那市伊那西町下春日町

伊那部城ともいう。春日昌吉の城。
小黒城〒396-0021 長野県伊那市伊那西町小黒

小黒川と段丘を利用した城。
小出城〒399-4431 長野県伊那市西春近小出

小出本城ともいう。小出氏の城。大塔合戦の頃に築城された。
安岡城〒399-4431 長野県伊那市西春近諏訪形

 
高遠城〒396-0213 長野県伊那市高遠町(高遠城跡)

 
山田城〒396-0216 長野県伊那市高遠町下山田

山田新左衛門ノ城。
台ノ城〒396-0301 長野県伊那市高遠町藤澤台

 
藤沢城〒396-0301 長野県伊那市高遠町藤澤

藤沢氏が築城。のちに保科正俊が在城し、武田氏に降る。高遠合戦ののちは徳川氏に仕えた。
溝口城〒396-0402 長野県伊那市長谷溝口

応永年間、小笠原政長の三男小笠原氏長が溝口氏を称し代代居城とした。

大田切城〒399-4117 長野県駒ケ根市赤穂太田切

平安末期、菅野友則の城。治承4年に源氏武田信義らの進攻に戦わずに落城。
上穂城〒399-4117 長野県駒ケ根市赤穂上穂町

上穂重清の城。福与城に籠り、落城後は武田氏に降る。織田軍侵攻で上穂重清は大島城で討死。
赤須城〒399-4117 長野県駒ケ根市赤穂上赤須

片切一族の赤須氏の城。大塔合戦に出陣した赤須為幸が古城を修復。赤須清玄は武田氏に従い、織田軍侵攻で大島城にて討死。
高田城〒399-4321 長野県駒ケ根市東伊那栗林(高田)

天正の頃、高田氏が築城。
城村城〒399-4321 長野県駒ケ根市東伊那栗林(城村)

城村ノ城ともいう。楠原氏の城。
高見城〒399-4231 長野県駒ケ根市中沢中割

高遠氏家臣の倉沢氏が築城。子孫中沢義忠は武田氏の侵攻に抗して討死。
菅沼城〒399-4231 長野県駒ケ根市中沢菅沼

菅沼氏の城。高遠城の出城。

唐沢城〒399-3702 長野県上伊那郡飯島町飯島石曽根

天文3年(1534年)、西箕輪から移った唐沢義景が築城。
岩間城〒399-3702 長野県上伊那郡飯島町飯島岩間

片切一族の岩間為遠の城。岩間為遠は大島城合戦で討死。
飯島城〒399-3704 長野県上伊那郡飯島町本郷

寿永元年、飯島氏が築城。飯島氏は大塔合戦や高遠城合戦などに参加。その後は徳川氏の家臣井伊直政に従った。
北山城〒399-3705 長野県上伊那郡飯島町七久保

船山城の属城。織田軍の侵攻戦に多くの戦死者を葬った。
葛島城〒399-3803 長野県上伊那郡中川村葛島

片切久信の城。片切信正ら大島城合戦で討死。

船山城〒399-3301 長野県下伊那郡松川町上片桐

箕輪上ノ平城から分かれた片切氏の城。武田氏のあとは徳川氏に仕えた。
大島城〒399-3304 長野県下伊那郡松川町大島

 
名子城〒399-3304 長野県下伊那郡松川町大島(名子)

平安時代の地頭名子氏の城。織田軍侵攻で焼かれた。
桃井城〒399-3302 長野県下伊那郡松川町生田(部奈)

桃井氏の城。

駿木城〒399-3501 長野県下伊那郡大鹿村鹿塩(原中峰)

南北朝時代に宗良親王を迎えた香坂高宗の城。
城ノ腰城〒399-3502 長野県下伊那郡大鹿村大河原(下青木)

青木城ともいう。香坂氏の出城。

















北ノ城〒399-3202 長野県下伊那郡豊丘村(北垣外)

室町時代、知久氏の城。
中ノ城〒399-3202 長野県下伊那郡豊丘村(中平)

 
南ノ城〒399-3202 長野県下伊那郡豊丘村

南城ともいう。
山吹城〒399-3101 長野県下伊那郡高森町山吹(丸山)

座光寺盈太郎の城。
松岡城〒399-3103 長野県下伊那郡高森町下市田(新井)

松岡貞則の城。
松下城〒395-1107 長野県下伊那郡喬木村小川

神之峰城の出城。知久氏の家臣羽生光定の城。武田氏が攻略。

座光寺城〒395-0001 長野県飯田市座光寺

上野城ともいう。片切氏一族の座光寺氏代代の寺城。知久氏、武田氏に従い、織田軍に攻略された。
今宮城〒395-0071 長野県飯田市今宮町

坂西氏の出城。
飯田城〒395-0028 長野県飯田市長姫町

 
愛宕城〒395-0036 長野県飯田市愛宕町

大塔合戦で討死した坂西氏の城。現在は愛宕神社となっている。
松尾城〒395-0042 長野県飯田市松尾町

 
北原城〒399-2602 長野県飯田市下久堅虎岩

知久氏の家臣平沢氏の城。
知久平城〒399-2603 長野県飯田市下久堅知久平

 
神之峰城〒399-2611 長野県飯田市上久堅(神ノ峯)

神ノ峯ともいう。
鈴岡城〒399-2561 長野県飯田市駄科(南平)

 
原ノ城〒399-2565 長野県飯田市桐林(竜丘/池の平)

知久氏の家臣桃井氏の城。弘治2年、武田氏が攻略。
鶯ヶ城〒399-2222 長野県飯田市千代

神之峰城の出城。知久氏の家臣松島氏の城。
久米城〒395-0241 長野県飯田市久米

小笠原氏の支城。
茶臼山城〒395-0244 長野県飯田市山本

久米氏の城。

長山城〒399-1311 長野県飯田市南信濃(名古山)

遠山氏の城。
和田城〒399-1311 長野県飯田市南信濃和田

 
八重河内城〒399-1312 長野県飯田市南信濃八重河内

かくれ城ともいう。遠山氏の城。遠山氏の諸城のうちでも最も険峰の城。
熊ノ城〒399-1401 長野県飯田市南信濃木沢(小道木)

 
木沢城〒399-1401 長野県飯田市南信濃木沢

 
中根城〒399-1401 長野県飯田市南信濃木沢(中根)

遠山氏の城。
程野城〒399-1403 長野県飯田市上村程野

遠山氏の城。

吉岡城〒399-2102 長野県下伊那郡下條村陽皐(吉岡)

 
大沢城〒399-1505 長野県下伊那郡阿南町富草

富草古城ともいう。吉岡城の支城。文明年間に下條長広が移った。
日差城〒399-1612 長野県下伊那郡阿南町新野

 
矢草城〒399-1504 長野県下伊那郡阿南町西條(田上)

 
権現山城〒399-1504 長野県下伊那郡阿南町西條(和知野)

大下條権現山城ともいう。
上田城〒399-1504 長野県下伊那郡阿南町西條(早稲田)

 
八幡城〒399-1504 長野県下伊那郡阿南町西條(早稲田)

下條氏の出城。
井戸城〒399-1504 長野県下伊那郡阿南町(井戸)

関氏一族金田盛数が築城。関氏とともに滅亡。
満島城〒399-1201 長野県下伊那郡天龍村平岡

遠山氏の城。