小助の部屋/滋野一党/親族衆/一門衆/家老衆/譜代衆/外様衆
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海野氏、祢津氏、望月氏ら滋野三家をはじめ、信濃から上野にかけて一大勢力を築き上げた滋野氏。
そんな滋野一族を支えた諸族もまた
滋野一党
として紹介する。
羽尾幸全
1515〜1563年
羽尾幸景、海野幸景、上原幸景、道雲入道、修理亮、能登守ともいう。
羽尾幸世
の長男。
海野氏幸
の次男
海野幸安(羽尾治部少輔)
が
羽尾景幸
の名跡を継ぎ、羽尾氏を称している。 羽尾氏は戦国期の上野吾妻郡を領した地侍で、上野吾妻郡羽尾(羽根尾)を本拠としている。 『加沢記』などの記述によれば、下屋海野氏の子孫とあり、下屋海野筋の
羽尾景幸
から
海野幸安
が家督を受け継いだことになる。 『真田氏辞典(唐沢貞市)』によれば、戦国期の
羽尾景幸
は四阿山権現を信仰し、 応仁3年(1469年)に「滋野朝臣景幸」の名で土地を寄進しているという。 いずれにしても、
羽尾幸安
が家督を継承しており、
羽尾幸安(羽尾治部少輔)
、
羽尾幸世
、
羽尾幸全
とつづいている。
道雲入道とは父
羽尾幸世
のことともいわれている。 同じ滋野一族でありながら
鎌原幸重
と領地争いを度度行っている。 天文10年(1541年)に海野氏が信濃を追われたときには
羽尾幸世
、
羽尾幸全
父子は
海野棟綱
らを受け入れ、
長野業政
や
上杉憲政
らとの仲介役となって、信濃への出兵を実現させている。 結局
長野業政
の佐久郡への出兵は全く効果がなかったようで、
諏訪頼重
と和睦し関東へ帰還している。
海野棟綱
はそれでも関東管領上杉氏を信じて羽尾の地にとどまって小県郡復帰を夢見ていたようだが、
真田幸隆
は上杉氏を見限り出奔。天文12年(1543年)頃には
武田晴信
に従い頭角をあらわすようになり、 小県郡への復帰を果たしている。 なぜこのときに
海野棟綱
が小県郡へ復帰しなかったのかは不明であるが、
真田幸隆
は系図を改竄し、真田氏が海野氏の直系であると偽造。これを調略活動に活かし、 次次と
真田幸隆
は信濃の豪族たちを武田氏に帰属させている。 一方、本家の
海野棟綱
は、天文10年(1541年)に小県の本領を追われて羽尾の地へ逃れてきたことと関係があるのかは確かではないが、
羽尾幸全
の弟たち
羽尾幸光(羽尾長門守)
、
羽尾輝幸(羽尾能登守)
兄弟に海野姓を与え、
海野幸光
、
海野輝幸
と名のらせている。 羽尾氏は上杉氏の配下のもと、上杉氏麾下の岩櫃城主
斎藤憲広(斎藤越前守)
の勢力下にあった。
羽尾幸光
は弟
羽尾輝幸
とともに、岩櫃城主吾妻
斎藤憲広
に出仕している。
羽尾幸全
は、真田氏や鎌原氏が甲斐の武田氏に属したのを潔しとせず、抗争をつづけている。 もしかすると、
海野棟綱
が小県郡へ帰らなかったことや羽尾兄弟に海野姓を与えたこと、 また羽尾氏とともに武田氏に抵抗しつづけた理由は、 羽尾氏への恩と、長年海野氏の後ろ楯となってくれていた上杉氏への恩、 そして海野氏を滅ぼした武田氏への恨みと意地があったのかもしれない。
のちの
長尾景虎(上杉謙信)
に提出した『関東幕注文』に
羽尾幸全
の名がすでに見られることから、 この頃にはすでに
羽尾幸全
が家督を相続していたと思われる。
羽尾幸世
の娘が
真田幸隆
に嫁いでいたこともあって、
羽尾幸全
と
真田幸隆
は義兄弟の間柄。
永禄3年(1560年)の『関東幕注文』には
羽尾幸全(羽尾修理亮)
の家紋として「六連銭」と記されている。 永禄6年(1563年)、
真田幸隆
が武田家臣として押しも押されぬ武将になっていた頃、 上州岩櫃城の攻略戦が武田軍によって行われる。 岩櫃城には
斎藤憲広
と
羽尾幸光
、
羽尾輝幸
兄弟が籠っている。 そして
羽尾幸全
や
海野棟綱
も羽尾城から駆けつけ岩櫃城へ拠っている。
羽尾幸全
はほかならぬ
真田幸隆
の義弟であり、かつて海野一族が敗亡したときに親身も及ばぬ保護を与え、
真田幸隆
を励ました恩人。 両者の間柄を知る部下の将士の闘志は、当然鈍りがちとなった。
真田幸隆
自身のうちにも様々な逡巡や苦衷があったはず。 しかし、それを乗り越えて
真田幸隆
は城攻めを敢行。 しかも調略戦法を用いて、
羽尾幸全
の弟たち
羽尾幸光
、
羽尾輝幸
らに内応を促している。
羽尾幸光
、
羽尾輝幸
らは斎藤氏を見限り
真田幸隆
に内応。 岩櫃城が真田方に落城するきっかけとなった。 岩櫃城の攻防は激戦となり、
羽尾幸世
、
羽尾幸全
父子は戦死し、長男
羽尾幸次(羽尾源六郎)
は信州高井郡へ逃亡している(
羽尾幸世
は一説には越後へ亡命し上杉氏を頼ったともいわれている)。 そして
海野棟綱
も戦死している。 弱小豪族にとって、一族の興亡のためには肉親や恩人といえども、あえて犠牲にしなければならない非情さを、
真田幸隆
は身をもって部下や子孫たちに示したといえる。 この厳しさと非情さは、真田家の後代に伝えられ、のちの関ヶ原合戦において、
真田昌幸
、
真田信幸
父子が敵と味方に分かれて戦い、
真田昌幸
は真田の意地を貫き、
真田信幸
が一族のサバイバルに成功を収めた。
真田昌幸
の代となり、天正9年(1581年)、
羽尾幸光
、
羽尾輝幸
、
羽尾幸貞
の3人は謀反の疑いをかけられ自害している。
羽尾輝幸
は、その武勇は武田家全軍はもとより、越後上杉勢にも知れ渡っていたという。 強弓を引き、荒馬を御し、その腕の力は百人のそれに匹敵するとまでいわれていたという。 兄の
羽尾幸光
とともに岩櫃城主
斎藤憲広
のもとに出仕し、
真田幸隆
の岩櫃城攻めに際し、 真田勢を手引きし臣従している。
羽尾輝幸
は
真田昌幸
の上州攻略の際には、天正8年(1580年)に上野津久田城を奪取。 天正9年(1581年)には
由良国繁
と戦っている。 多くの功をたて、
藤田信吉
の目付役として沼田城留守居役をつとめている。
羽尾輝幸
の長男
羽尾幸貞
は
矢沢頼綱
の娘婿であり、親族衆として大いに期待され、 天正8年(1580年)、
真田昌幸
の上州攻略の陣立てで先陣をつとめている。 しかし天正9年(1581年)に謀反の疑いをかけられ、
羽尾幸光
、そして
羽尾輝幸
、
羽尾幸貞
父子は自害している。 天正10年(1582年)には上杉氏が大戸城攻略に動いていることもあり、 上杉氏と内通していたという理由も的を射ており、
真田昌幸
は一度裏切ったこの海野兄弟らが再び裏切る可能性があると考えたといわれているが、
真田昌幸
にとって最も信頼できる重臣であったことは確かであり、真意は分からない。
羽尾輝幸
は大阪の陣で活躍した
海野六郎兵衛
の父ともいわれる。 井上靖氏の『真田軍記』では、
羽尾輝幸
は武田氏の武将である
小山田信茂
の配下として、 主人公の1人として登場し、岩櫃城をめぐっての真田氏との関わりのなかで、逆心を疑われてもなお武士として最後まで生きたとえがかれている。
羽尾幸世
には長男
羽尾幸全
のほか、次男
羽尾幸光
、三男
羽尾輝幸
、四男
羽尾幸昌
らがいるという。
羽尾幸全
には長男
羽尾幸次(羽尾中務丞)
、次男
羽尾仲次
がおり、
羽尾幸次
には長男
羽尾景次
がいる。
羽尾仲次
には長男
羽尾仲正
、次男
羽尾昌重
がいる。
羽尾幸光
には長男
羽尾重光
、次男
羽尾重照
がおり、長男
羽尾重光
は早世しているが、 次男
羽尾重照
は長野県大乗院の浦野氏の養嗣子となり子孫代代浦野氏を称している。
羽尾幸光
には娘もいたが、天正9年(1581年)に父
羽尾幸光
とともに自害している。享年は14歳であったという。
羽尾輝幸
には長男
羽尾幸貞(羽尾中務大輔)
がおり、
矢沢頼綱
の娘婿として真田氏の重臣となっている。
羽尾輝幸
の娘たちは、大熊氏や赤見氏などに嫁いでいる。
羽尾幸貞
には長男
羽尾幸勝(羽尾太郎)
がおり、天正9年(1581年)に父
羽尾幸貞
が自刃してからは、
原幸勝(原郷左衛門)
と名のっている。
羽尾幸貞
の娘たちは、
原監物
、
祢津志摩守
らに嫁いでいる。
羽尾幸昌
には長男
羽尾昌元
がおり、
羽尾昌元
には長男
羽尾昌富
がいる。
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