小助の部屋/滋野一党/紀氏/大和楢原氏/大和滋野氏/信濃滋野氏
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『大日本氏族志』には滋野氏は
清和天皇
の皇子
貞秀親王
が信濃国白取荘に住み、 孫の
善淵王
が滋野姓を賜ったことにはじまると記されているが、現在では否定されている。 江戸幕府に仕えた高名な学者でありかつ経世家であった
新井白石
(1657〜1725年)は、主君甲府宰相
徳川家宣(徳川綱豊)
の命を受け、 元禄15年(1703年)に当時徳川家に仕えた全大名家の経歴と系譜を記述編纂し『藩翰譜』と名づけた。そのなかで 真田氏や安倍氏に関係の深い海野のルーツ滋野氏のことを次のように記し、 滋野氏のルーツは
清和天皇
ではなく、
孝謙天皇
時代に活躍し、実在が実証できる楢原国造の
滋野東人
を遠祖とした氏族であると結論している。
「奈良時代
孝謙天皇
のときに大和国楢原(奈良県御所市楢原)の地に
滋野東人
という豪族がいた。 紀伊国(和歌山県)の国造紀氏の子孫であり名家であった。朝廷の覚えもめでたく、勤臣の姓を賜り住まいする地名をとって楢原造と称した。」と。
滋野東人
の長男
滋野家譯(滋野尾張守)
は、滋野宿祢という姓を賜る栄誉を受け、
滋野家譯
の長男
滋野貞主
は弘仁年頃に滋野朝臣の姓を賜る栄誉を受けている。
滋野貞主
は当代一の学者であり文章も巧みで、天皇の命を受けて学者を動員し『秘府略』1000巻、さらに『経国集』20巻を著している。
滋野氏は朝廷と密接な関係にもあり、大いに繁栄し権勢を誇っていた。そんななかで、
滋野貞主
の推薦で一族が信濃国司に任ぜられたというが、 いずれにしても滋野氏は信濃国へ下向し、信濃豪族と結びつき滋野姓を名のらせたことが信濃滋野氏の祖となり、子孫を繁栄させていった。
滋野氏の朝廷との密接な関わりが、朝廷の直属の親王であったという説や、
惟彦親王
が
清和天皇
の腹違いの兄であったことから
清和天皇
を先祖と思い込み清和源氏だったのではないかという説など、様様な説をうんできた。 これまでの長い歴史のなかで、あいまいに語られてきた滋野氏の謎を、解き明かしていきたい。
滋野東人
*720〜*780年
楢原東人、楢原造東人、滋野造東人、楢原造、正五位下、駿河守、大学頭、大学頭博士、大学頭兼博士、国造ともいう。
楢原鷲取
の長男。
九経に該通した名儒。
滋野東人
は朝廷の覚えもめでたく、勤臣の姓を賜り住まいする地名を取って
楢原造
とも称している。 天平勝宝元年(749年)に駿河守となり、駿河国に在任中、蒲原付近で金を採取して朝廷に献上している。 天平勝宝2年(750年)に朝臣を賜る。
楢原氏は、大和国六党の一党に数えられ、南党として知られる。大和国葛上郡楢原(奈良県御所市楢原)に住したことにはじまるという。
滋野東人
をたどると紀伊国造である古代の名族紀氏にまでさかのぼることができる。 国造(くにのみやつこ)とは、大和朝廷が征服した地方の豪族のうち、最も勢力のある者をその地方の長として、国を統治させるために与えられた称号(『小学館百科全書』により)。
楢原富持古
、
楢原久等耳
、
楢原磯貝
とつづき、
楢原磯貝
の弟
楢原伊加支
から
楢原長吉古
、
楢原押根
、
楢原田狭
、
楢原夜布多
、
楢原道足
、
楢原鷲取
、
楢原東人
とつづく。
楢原東人(滋野東人)
には長男
楢原綿麿(楢原綿麻呂)
がいる。
楢原綿麿
には長男
滋野家譯
、次男
楢原船白
がいる。
滋野家譯
767〜*830年
滋野宿祢、滋野家訳、従五位上、従五位下、尾張守ともいう。
楢原綿麿
の長男。
神護景雲元年(767年)に生まれる。
氷上川継
の謀反の際、勅令としてこれを鎮める。 延暦17年(798年)に宿祢を賜る。弘仁14年(823年)に朝臣を賜る。
滋野家譯
には長男
滋野貞主
、次男
滋野貞道
、三男
滋野貞雄
、四男
滋野貞秀
がいる。
滋野貞雄
には長男
滋野良幹
、次男
滋野良材
、三男
滋野良親
がいる。
滋野貞主
785〜852年
滋野宿祢、朝臣、貞王、大外記、名草宿祢、安成、相模守、参議正四位下、正四位宮内卿ともいう。
滋野家譯
の長男。
滋野貞主
は、一世を風靡した研学者で、慶雲4年(707年)より天長4年(827年)の間に諸人がつくった 詩作178、人賦17首、誌917首、序51首、対策38首を編して20巻として『経国集』と名づけて朝廷に献上した。 さらに当代一の学者であり、さらに文章が巧みであったことから天皇の命を受け、 多くの進歩的儒教者や学者を総動員し、天長8年(831年)に秘府の図書を基にして、類別を編纂した『秘府略』1000巻を献上。 『秘府略』とは、現代でいう百科事典で、当時の中国にも例を見ない空前の大著で、ときの学問の水準の高さがわかる。 一部が国宝として今に残る。多くの学者を統率して完成させた裏には
滋野貞主
の高潔な人格が窺い知れる。 『経国集』とは、平安前期の漢詩文集であり、
滋野貞主
以外には
菅原清公
らがともに編纂している。
滋野貞主
は朝廷との結びつきが強く、娘二人を宮中に入れている。 長女
縄(縄子)
は
仁明天皇
の女御(妃)として
本康親王
を産み、 次女
奥(奥子)
は
文徳天皇
の中宮(皇后)となり
惟彦親王
を産んでいる。 朝廷との密接な関係を築くことで滋野氏は大いに繁栄し、権勢を誇っていたという。
滋野貞主
の推薦で一族の者が信濃の国司に任ぜられ信濃へ下向したといわれている。 仁寿2年(852年)には朝臣を賜るが、同年2月に没している。享年は68歳。
滋野貞主
には
縄
と
奥
の娘二人以外に、長男
滋野善蔭
、次男
滋野善法
、
滋野善根
がいたという。
滋野善蔭
には長男
滋野恒蔭(滋野大外記)
がおり、『日本三大実録』によれば貞観10年(868年)に信濃の介となっている。
滋野恒蔭
の長男と思われる
滋野善言(滋野大外記)
が貞観12年(870年)に信濃守となっている。 おそらく
滋野恒蔭
が死去し、長男
滋野善言
が大外記と信濃介を引き継いだのだと思われる。
滋野善言
は信濃からの貢馬の駒牽きのことを司る役人として名を残しており、 滋野氏は信濃の守や介をつとめる理由もあって、代代『馬寮』と深い関係を持つ役職をつとめるようになっていったと思われる。 このことは必然的に信濃の諸牧とも強い絆で結ばれることとなり、 諸牧の代表的な望月牧や新張牧などの管理者であった望月氏や祢津氏および その中間にあたる海野の豪族と血縁関係までもつようになったとも思われる。 白山比売神社(上田市山口)に延喜4年(904年)の宝物として
海野幸明
の再建札があるが年代的に符合せず、 天延元年(973年)の頃のものか、もしくは
海野幸明
のものではないのかと諸説ある。 天暦4年(950年)に
滋野恒信
が望月牧監となり海野へ下向。
海野幸俊
と改名したことにより海野氏がはじまったという。
滋野恒成
には長男
滋野恒信
のほか、次男
依田敦重
がおり、依田氏の祖とされる。
滋野恒成
880〜910年
滋野善淵、因幡介、善淵王ともいう。
滋野善言
の長男。
天慶元年(938年)、
平将門
に圧迫された
平良兼
の子
平貞盛
は、この事情を京の朝廷に訴えようと東山道より京に向かう。 それを知った
平将門
は1000余の兵を率いて直ちに追撃に向かった。
平貞盛
は危険を察して海野城(海野古城)へ逃げ込み旧知の
善淵王(滋野恒成)
に助けを求めた。
平将門
は、
平貞盛
が海野城に隠れているのを知り、先回りして国分寺付近に陣を取り、 神川を挟んで衝突する。いわゆる千曲川合戦である。小県の滋野の一族は
平貞盛
に加勢して、
平将門
と千曲川にて合戦した。 滋野一族は奮戦したが、戦は
平将門
側が勝利を収め、
平貞盛
は付近の山中に逃れ危機を脱したといわれる。 なお、この戦いで、信濃国分寺が焼失したという。
天慶2年(939年)、桓武平氏の分流として関東に土着していた私営田領主の平氏一族の
平将門
と、 伯父
平国香
や叔父
平良兼
などを加えた一族の内輪同士の私闘は、種種の行き違いから乱は大きくなり、 紆余曲折の後に、
平将門
側の勝利に終わっている。勢いにのった
平将門
は新皇と称して、 関東の独立をはかったものの、まもなくこの反乱も鎮圧される。この事件は天慶の乱といわれている。
善淵王(滋野恒成)
は天慶4年(941年)に海善寺の開基となっている。
滋野恒成
には長男
滋野恒信
、次男
依田敦重
がおり、
滋野恒信
は天暦4年(950年)に 望月牧監となり海野へ下向し、
海野幸俊
と改名し海野姓を家名としたという。
滋野恒信
が海野氏の祖とされている。
海野幸俊(滋野恒信)
には長男
海野幸恒(海野信濃介滋氏)
がおり、天延元年(973年)に海野庄下司となっている。
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