小助の部屋/滋野一党/海野滋野氏
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神話によると、
日本武尊
が東国討伐の折、房総に渡る相模の海で、 妻
弟橘姫
が荒ぶる海の怒りを鎮めようと入水(自殺)するという悲しい物語があった。(『古事記』により) 妻を亡くした傷心の
日本武尊
はさらに討伐の旅をつづけ、諸賊を討ち平らげて上総より帰途の途中、 信濃との国境鳥居峠にて、遥か彼方の相模の方を眺めて、亡き妻を偲び「吾妻者邪」と三度叫んだ。 これが現在の吾妻郡嬬恋村の地名のいわれだという。 鳥居峠を下り、小県郡の小さな海(池か沼だともいわれている)を見て、また相模の海での妻の悲劇を思い出し、 すっかり海を嫌いになっていた
日本武尊
は、 「この海も野となれ」と念じた。これが地名「海野」の起こりと伝承されている。
天正11年(1583年)、
真田昌幸
が上田城築城の際、城下町を形成するため、かつての海野郷の住民を多数上田に呼び寄せて、 新たに海野町を開いている。以後、海野郷は本海野町すなわち本海野と称されるようになったという。 江戸時代初期に北国街道の開通とともに本海野は宿場として再生され、寛保2年(1742年)に洪水で田中宿が甚大な被害を受けてからは 本海野宿が本宿の役目を果たすようになっていく。 明治時代には国鉄信越線が開通。海野宿は田中駅と大屋駅の中間にあり、国道18号線が宿北方の段丘上を通ったことで取り残されるかたちとなり、 近代化の波に乗り遅れ宿町の景観をそのまま保つ結果となった。
海野幸俊
*905〜*970年
海野左馬允、滋野恒信、小太郎、信濃介、左馬権介、正六位上ともいう。
滋野恒成
の長男。望月牧監。海野氏初代。
天暦4年(950年)に望月牧監に任命され海野へ下向。
海野幸俊
と改名し海野姓を家名とする。
海野幸俊(滋野恒信)
が海野氏の祖とされている。
海野幸俊(滋野恒信)
には長男
海野幸恒(海野信濃介滋氏)
がおり、 海野氏の二代目として天延元年(973年)に海野庄下司となっている。
海野幸恒
には長男
海野幸明
、次男
祢津直家
、三男
望月重俊
がおり、 長男
海野幸明(海野信濃守)
が海野氏の三代目を継ぎ、次男と三男が分家し祢津氏の初代、望月氏の初代となっている。
海野、望月、祢津、これらを滋野三家といい、三家は緊密で、 出陣の次第によると海野自ら戦うときは海野幡中、左望月、右祢津となり、 望月自ら戦うときは、望月幡中、左海野、右祢津となり、 祢津自ら戦うときは、祢津幡中、左海野、右望月と、三家一体となって外敵に当たったという。 この頃の家紋は海野氏が洲浜や月輪七九曜、結び雁金で、望月氏は丸に七曜または九曜の紋、祢津氏は丸に月であったとされる。
海野幸俊
から
海野幸恒
、
海野幸明
、
海野幸真
、
海野幸盛
と継がれていく。
海野幸明
には、長男
海野幸真
、次男
矢島正忠
がおり、矢島氏の祖とされている。 五代目海野氏当主
海野幸盛
には長男
海野幸家
、次男
下屋幸房
がおり、
海野幸家
が六代目海野氏を継ぎ、次男は分家し下屋氏の初代となっている。
下屋幸房
からは
下屋勝房
、
下屋則房
、
下屋通房
、
下屋廣房
、
下屋直房
、
下屋親房
、
下屋氏房
、
下屋高房
、
下屋友房
へとつづいている。
海野幸家
*1010〜*1070年
海野信濃介、信濃守、平権太夫ともいう。
海野幸盛
の長男。六代目海野氏当主。
康平5年(1062年)、陸奥国の衣川以北六郡を領していた安部氏が朝廷に反抗して貢税の義務も果たさず、 また俘囚長
安部頼時
の代には、衣川を越えて南進し領土を拡大してきたので、朝廷の派遣官、陸奥守
藤原登任
が鎮圧のため、
安倍頼時
を攻めたが逆に敗れたので、朝廷は武門の棟梁
源頼義
を陸奥守に任じ鎮守府将軍も兼ねさせて、 安部氏討伐を命じた。
源頼義
は子の
源義家
などを伴い奥州に向かい、安部氏制圧に乗り出したが、 頑強な抵抗にあい、
源頼義
は出羽国北部の豪族清原氏に援兵を請い、勝敗を繰り返しながらも
安部頼時
を倒し、 子の
安部貞任
を討ち取り、弟の
安部宗任
を捕虜として、長かった戦乱を収束させた。
海野幸家
は80騎の棟梁として
源頼義
に従い、弟
下屋幸房
とともに
安部頼時
討伐軍に加わっている。 この乱は、
源頼義
の奥州下向より終息するまでの11年間の長期の乱で、後世、 前九年の役と称された。
先の奥州の安部氏の反乱を鎮圧した以後の安部氏の領土は、味方した清原一族が功績により支配することになり、 旧領出羽を合わせて強大になり、その上当主
清原武則
が鎮守府将軍に任ぜられ、清原氏の勢力はますます拡大していた。 しかし孫の
清原真衡
の代になり一族の間に争いが起こり、領域は乱をはじめた。 永保3年(1083年)、陸奥守として赴任してきた
源頼義
の嫡男
源義家
はこの争いに介入し、 最初は
清原真衡
を応援し一応鎮定していた。しかし
清原真衡
が急死すると、今度は相手方の
清原清衡
と
清原家衡
の間で争いが起こり、
源義家
は
清原清衡
方に加勢して、
清原家衡
を倒し、 寛治元年(1087年)9月、乱を平定した。 この乱を後三年の役と称し、この乱で
海野幸勝
が180騎の棟梁として
源義家
に従い陸奥の
清原清衡
と戦っている。
海野幸勝(海野信濃守)
は
海野幸家
の長男で七代目海野氏を継承している。
海野幸家
には嫡子がいなかったのか、
望月為家
の長男
望月為廣
が
海野幸家
から家督を継承し海野氏の名跡を継いでいる。
海野為廣(望月為廣)
、
海野為通(望月為通)
とつづき、
海野為通(望月為通)
には長男
海野則廣
、次男
望月則重
がおり、
海野則廣
に嫡子がいなかったことから
望月則重
の長男
海野重通
が海野氏の名跡を継承。 次男
祢津通直
は祢津氏の名跡を、三男
望月廣重
が望月氏の名跡をそれぞれ継承している。
海野重通
、
海野廣通
、
海野幸通
、
海野幸親
へとつづく。 十三代目海野氏当主
海野廣通
には、長男
海野幸通(海野左馬頭幸直)
、次男
海野幸親
がおり、
海野幸通(海野幸直)
が十四代目、そして弟
海野幸親
が十五代目海野氏当主となっている。
海野幸親
1142〜1184年
海野幸直、信濃守、太郎、小次郎、左馬頭、左衛門尉ともいう。
海野幸通
の次男。十五代目海野氏当主。
保元2年(1157年)に起こった保元の乱において、300騎の棟梁として
源義朝
に属し京に上り参戦。戦功をあげる。 弟
祢津通直(祢津道直)
、
望月廣重(望月広重)
らも参戦している。 保元の乱は、保元元年(1156年)に起こった内乱で、皇室内部では
後白河天皇
と
崇徳上皇
、 摂関家では
藤原忠通
と
藤原頼長
の対立が激化し、
後白河天皇
・
藤原忠通
側は
平清盛
・
源義朝
を、
崇徳上皇
・
藤原頼長
側は
源為義
(
源義朝
の父)を主力として戦ったが、
崇徳上皇
側は敗れ
崇徳上皇
は讃岐に流された。 この乱は武士の政界進出の大きな契機となったといわれている。
海野幸親
は保元の乱で
後白河天皇
側として
源義朝
に従い、武功を立てている。 『保元物語』に出てくる「
海野太郎(宇野太郎)
」と「
祢津甚平(祢津神兵)
」は海野と祢津に本領を持った土豪の海野氏と祢津氏のことで、 海野氏の名前が史実に出た最初である。 治承5年(1181年)に
木曽義仲
が白鳥河原にて挙兵し、
海野幸親
は救援として出兵。横田河原の戦いに参戦し大勝したという。
海野幸親
には、長男
海野幸広
、次男
海野幸長(海野蔵人)
、三男
海野幸氏
がいる。 寿永2年(1183年)備中水島合戦で大将軍
海野幸広
は戦死してしまっている。
海野幸親
自身も、
木曽義仲
とともに寿永3年(1184年)1月21日、粟津口にて討死している。
次男
海野幸長
は出家して奈良興福寺で学ぶ。
海野幸長
は本名よりも出家名の
大夫房覚明
の方が有名である。
木曽義仲
上洛の折には謀議に参加し、祐筆として都に慣れない
木曽義仲
と公家社会との間に立って接点の役目をしたが、 間もなく辞して比叡山にのぼる。
海野幸長(海野大夫房覚明)
の去った後の
木曽義仲
と公家社会との間は急に険悪となり、
木曽義仲
の人気は急落する。 寿永3年(1184年)1月21日、粟津口にて討死した
木曽義仲
の菩提を弔うべく木曽に帰った
海野幸長(大夫房覚明)
は柏原寺に
木曽義仲
公を祀り、寺名を日照山徳音寺と改めた。
木曽義仲
の霊はここに眠っている。 文治6年(1190年)、
海野幸長(大夫房覚明)
は別所常楽寺を復旧する。
『吾妻鏡』によれば「(
海野幸長
は)
源頼朝
の依頼で甲斐源氏の一族
一條忠頼
の追善供養の際の導師を務めたり、 平治の乱(1159年)に
源義朝
(
源頼朝
の父)に殉じて死んだ
鎌田正清
の娘が、 旧主
源義朝
と父
鎌田正清
の菩提を弔った際の願文の原稿を書いた」と記している。 嘉禄元年(1225年)71代
慈円
上人の弟子となり、その後は
源空
(
法然
上人)の弟子を経て、
親鸞
に従い、
親鸞
の行状記を記して、子の
浄真
に授ける。 文暦元年(1234年)、
海野幸長(大夫房覚明)
は白鳥庄に康楽寺を建設する。
海野幸長(大夫房覚明)
は『平家物語』の語り手の一人ではないかと推測されている。 仁治2年(1241年)、75歳(85歳とも)で入寂した。
海野幸親
の長男
海野幸広
討死後は、三男
海野幸氏
が家督を継承している。
海野幸長
には、長男
海野幸善
がおり、
海野幸善
には長男
善念寺浄賀
、次男
善敬寺浄蓮
、三男
康楽寺浄喜
、 四男
広敬寺浄宣
、五男
浄楽寺浄救
、六男
善念寺浄覧
、七男
極楽寺広専
らがいる。
善念寺浄賀
には長男
善念寺浄耀
、次男
本覚寺浄玄
、三男
証蓮寺浄応
がいる。
善念寺浄耀
からは
善念寺浄蓮
、
善念寺浄明
とつづき、十二世
善念寺浄祐
とつづく。
善念寺浄祐
には長男
浄専寺浄専
、次男
康楽寺浄教
、三男
専精寺尊祐
、四男
浄行寺祐海
、五男
正定寺祐円
がいる。
浄楽寺浄救
には長男
浄楽寺浄楽
がいる。
海野幸広
1163〜1183年
海野幸廣、行広、行廣、弥平四郎ともいう。
海野幸親
の長男。
治承4年(1180年)
木曽義仲(源義仲)
が白鳥河原に兵を集結挙兵した際、
海野幸広
はこれに応じ、 侍大将として、集結した滋野一族をはじめ1000、または2000騎といわれる東信濃、北信濃、南信濃、西上州の軍勢を指揮する(『平家物語』により)。
木曽義仲
は年内には信濃を手中にして、上州にまで進出。
木曽義仲(源義仲)
の父
源義賢
は清和源氏の嫡流であり、
源為義
の次男で、 武蔵の国比企郡大倉館に住んでいたが、兄
源義朝
の長男
源義平
に襲われ討死してしまう。 父
源義賢
を殺された
木曽義仲(源義仲)
は乳母の夫である信濃の土豪
中原兼遠
に匿われ、木曽山中に育った。 27歳の治承4年(1180年)、
以仁王
の令旨を受け、
源頼朝
挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曽山中に上げた。
治承5年から養和元年(1181年)、
木曽義仲
は白鳥河原にて挙兵し、越後の
城助茂
の大軍と横田河原で戦う。
木曽義仲
と
海野幸広
の援兵は横田河原の戦いに大勝する。
海野幸広
は滋野一族を指揮して各地を転戦、京に攻め上った。 『真武内伝』によれば、
木曽義仲
に従い、都へ攻めのぼった
海野幸広
は、権勢を誇った平家一門を福原(神戸)へと追いやる。 寿永2年(1183年)5月には、侵攻してきた
平維盛
の大軍を倶利加羅峠で破り、 7月には都落ちした平家を追って上洛を果たす。
後白河法皇
は直ちに
木曽義仲
に従五位下左馬頭兼越後守の官位を与えたが、
樋口兼光
のような豪勇な部下は いたものの元来山家育ちのため、公家社会のしきたりになじめず、また、
海野幸広
の弟
海野幸長(大夫房覚明)
以外に有能な顧門がいなかったこともあって政治力の欠如によって次第に
木曽義仲
の評価は下がり、 しかも
海野幸長
が
木曽義仲
の許を離れることによって決定的になる。 京の都を手中にした
木曽義仲
は、寿永2年(1183年)閏10月1日、 後白河院の命により平家追討の院宣を受け、平家追討のためにさらに西進した。 10月、備中水島(倉敷市水島)において平家軍と対峙。 この軍の侍隊将が
矢田義清
と
海野幸広
で、その陣中において
海野幸広
は「海中穏やかにして浪の紋渦巻きて銭連なるごとく見え、 これ吉祥なりとて、州浜紋なりしてを引替え陣幕を六連銭紋とする」としたと記されており、 この頃から六連銭が使用されたといわれている。室町時代中期に記された『長倉追罰記』のなかでも海野氏が六連銭を家紋としていると記されているので、鎌倉時代から室町時代にかけて、海野氏が六連銭を使用していたことは間違いないようだ。 また、海野氏の家紋は月輪七九曜であったともされている。
備中国に出陣した
海野幸広
、
矢田義清
に率いられた軍勢5000の
木曽義仲
軍は、 船500艘に兵7000を乗せて反撃してきた
平重衡
を大将とする平家軍と水島にて海上戦となる。
木曽義仲
軍は海戦に慣れていなかったため、水島にて散々打ち負かされ大敗北を喫し京都へ逃げ帰った。 総大将
海野幸広
の軍も馴れない船戦のため利あらずして大敗。 この備中国の水島の戦いで
木曽義仲
が平家に敗北し撤退していたとき、討死の憂き目にあっている。 『源平盛衰記』には「
海野幸広
刀を抜きて、
平盛房
が起き上がらんとするを踏まえて、鎧の草摺りを引き上げて刺す、
平景家
これを見て、
海野幸広
が兜を引仰ぎて首を掻てけり…(中略)…源氏には矢田、高梨、海野を始めとして、 1200人が首懸けたり」と記されている。
木曽義仲
はクーデターで院の近臣を追放して独裁政治を敷き、 寿永3年(1184年)正月には征夷大将軍となり「旭将軍」と称せられた。しかし、それもつかの間で、
源頼朝
の代官として京に進撃してきた
源範頼
・
源義経
の軍に敗れ、北陸へ落ちる途中、 1月20日琵琶湖畔粟津で討死した。
木曽義仲
は享年31歳だった。 水島合戦の結果が
木曽義仲
滅亡の主原因となった。
木曽義仲
に従った者たちは、
木曽豊方
、
木曽義元
、
木曽義昌
、
根井幸親(根ノ井幸親)
、
樋口兼光(樋口次郎)
、
海野幸広(海野弥平四郎行平)
、
矢田義清(矢田判官代)
、
今井兼平(今井四郎)
、
楯親忠(楯六郎)
、
手塚光盛(手塚太郎)
、
足利義房
、
依田二郎
、
多胡家包(多胡次郎)
、
山本義弘
、
小諸義兼(小諸太郎)
、
岡田親義(岡田冠者)
、
仁科盛直(仁科太郎)
、
高梨忠直(高梨兵衛)
、
落合兼行(落合五郎)
、
海野幸長(海野大夫坊覚明)
、
井上光基(井上九郎)
、
栗田範覚(栗田寺範覚)
、
大室直光(大諸太郎)
、
小林真光(小林二郎)
、
池田親忠(池田二郎)
、
茅野光弘(茅野太郎)
、
長瀬義数(長瀬重綱)
、
志賀七郎
、
新庄則高(新庄次郎左衛門)
、
矢嶋行忠(矢嶋四郎)
、
諏訪豊平(諏訪太郎)
、
村山義直(村山七郎)
、
望月秀包(望月太郎)
、
藤山兼助(藤山左衛門尉)
、
河上太郎
、
祢津泰平(祢津甚平)
、
三河頼重(三河次郎)
、
山田重弘(山田次郎)
、
平賀盛義(平賀冠者)
、
中村忠直(中村太郎)
、
藤原中貞(藤原太郎左衛門)
、
富部家俊(富部三郎)
、
丸子秀資(丸子小忠太)
、
佐竹秀義(佐竹太郎)
、
進親直(進次郎)
、
保科権八(保科太郎)
、
更級清澄(更級源吾)
、
村上信国(村上太郎)
、
津田三郎
、
高山重遠(高山三郎)
、
入江親貞(入江小次郎)
、
那和弘澄(名和太郎)
、
林光平(林太郎)
、
松本忠光(松本次郎)
、
金田茂吉(金田次郎)
、
桜井行晴(桜井太郎)
、
高楯光延(高楯次郎)
、
津波田三郎
、
吉田四郎
、
稲問三郎
、
泉重満(泉三郎)
、
東十郎
、
野尻太郎
、
平原景能(平原次郎)
、
小沢景俊(小沢左平衛)
、
稲津親忠(稲津新助)
、
富樫家通(富樫太郎)
、
太田次郎
らがいる。
弟には後の
大夫房覚明
(出家名の方が有名)となる
海野幸長
や
海野幸氏
らがいる。 家督は
海野幸氏
が継承しているが、
海野幸広
には長男
海野幸房
がいる。
海野幸房
、
海野幸友
、
下屋幸兼
とつづく。
下屋幸兼
が
下屋友房
から名跡を嗣いでいる。
下屋幸兼
には次男
鎌原重友
がおり、
鎌原友成
、
鎌原幸成
、
鎌原幸信
とつづく。 また下屋氏から西窪氏や大厩氏などが分家している。
海野幸房
には、長男
海野幸友
のほかに、次男
湯本幸雅
がおり、 湯本氏の祖とされている。
海野幸氏
1172〜1260年
海野左衛門尉、小太郎、左衛門尉、従五位下ともいう。
海野幸親
の三男。鎌倉初期の御家人で、弓の名手として知られる。
海野幸氏
は兄
海野幸広
が討死したことにより家督を相続。 寿永2年(1183年)、
木曽義仲
が
源頼朝
と不和になったことにより、和睦の印として
木曽義仲
の嫡男清水冠者
木曽義高
が
源頼朝
の人質となったとき、 随行して鎌倉に住んだ。元暦元年(1184年)、
木曽義仲
が滅亡した後、
木曽義高
の死罪処分が決定する。
海野幸氏
は
木曽義高
の身に危険が迫ったのでいち早く欺き、
木曽義高
を逃して身代わりとなった。 程なく
木曽義高
は討手に捕えられて殺されてしまった。 幸い、
海野幸氏
は、その忠義を
源頼朝
に褒められて許され、鎌倉御家人に加えられた。
これより
海野幸氏
は
源頼朝
の側近として仕えることになり、弓の名手として後年名を上げることになる。 文治6年(1190年)、 白鳥神社を太平寺より現在地へ移動させ、居城を古城から太平寺(白鳥台団地)に移す。
源頼朝
の射手として弓始めに参加している。 『吾妻鏡』によれば、建久4年(1193年)、
海野幸氏
は
曽我十郎祐成
と
曽我五郎時致
曽我兄弟仇討ち(富士の巻き狩り)の取り鎮めに
源頼朝
警護役として出兵するが、
曽根五郎
と渡り合い負傷してしまう。 建仁2年(1202年)、
海野幸氏
は越後鳥坂城にて
城資盛
と戦い打ち破る。 建保元年(1213年)、
和田義盛
が背いたため、
海野幸氏
ら滋野一族は討伐へ出兵。
和田義盛
と戦い討ちとっている。 承久3年(1221年)、執権
北條泰時
の幕府方の将として承久の乱において、美濃大井戸へ出陣している。 このとき
海野幸氏
は49〜50歳。幕府重臣として重要な事項の謀議に参加している。
海野幸氏
は
源頼朝
より庄を与えられていて、上野国、三国の庄(長野県町・嬬恋村)の地頭であったので、 滋野姓海野氏は上野国吾妻郡にまで広がっていたといえる。
海野氏の直轄領は海野郷を中心とした小地域であったが、600年の歴史の流れのなかで各地に分布した庶流(分家)も多く、 海野郷の周辺はもとより、遠くは西上州(吾妻郡)、東は小諸、東南は佐久地方、西は四賀村(東筑摩郡)付近まで広がり、 分布した諸氏は海野氏の被官となり、海野氏を盟主とした連合体を組んでいた。一大豪族として繁栄を誇り最盛期を迎えていた。 縁者の土豪には下屋氏、鎌原氏、羽尾氏(羽根尾氏)、大厩氏、西窪氏、赤羽氏(赤羽根氏)、会田氏(芦田氏)、塔原氏、田沢氏、苅屋原氏、光氏などの諸氏が数えられる。 真田氏も真田を住まいした海野氏の庶流。
海野幸氏
は
源頼朝
に重用され、上野国の三原荘(群馬県吾妻郡嬬恋村三原)内を領有していたが、 仁治2年(1241年)、甲斐守護
武田信光
とのあいだで三原荘と信濃国長倉保(軽井沢付近)との境界争いを起こしており、 この訴訟は鎌倉幕府の裁定で
海野幸氏
側が勝訴したことが幕府の公式記録『吾妻鏡』に記されている。
海野幸氏
の活躍は『吾妻鏡』に多く記録され、特に幕府恒例の弓始の儀式には、 1番手または2番手の射手としての活躍が数多く記録されている。 また嘉禎3年(1237年)、
北條泰時
の嫡男
北條時頼
に流鏑馬の故実を指南したことも記されている。
海野幸氏
が
木曽義高
の従者として鎌倉に赴いたのは寿永2年(1183年)で、 年齢11歳といわれているので、
北條時頼
に流鏑馬の故実を指南した時の年齢は65歳となる。
この時期の支配地域は、江戸時代の石高に換算すると5〜7万石ほどと推察されている(信濃全域で55万石から換算して)。
海野幸氏
には長男
海野長氏(海野左衛門尉)
、次男
海野茂氏(海野左衛門太郎)
、三男
海野資氏
がいる。 家督は
海野長氏
死後に
海野茂氏
が継承。
海野長氏
の名は建保4年(1216年)に幕府御家人として見られる。
海野長氏
には長男
海野幸直
、次男
海野頼幸
がおり、家督は
海野頼幸
が継承。
海野頼幸
には長男
海野幸継
、次男
万法寺賢信
、三男
真成寺乗念
、四男
小田切尭元
、五男
安倍助氏
がいる。
安倍助氏
が駿河安倍氏の祖とされている。
海野幸氏
から、
海野茂氏
、
海野長氏
、
海野幸直
、
海野頼幸
、
海野幸継
とつづき、
海野幸継
が二十一代目海野氏当主となって弘安4年(1281年)に塩田氏に従い弘安の役に出陣している。
海野幸継
1237〜*1300年
海野小太郎、信濃守ともいう。
海野頼幸
の次男。
弘安4年(1281年)、
海野幸継
は、塩田氏に従い弘安の役に出陣する。
文永の役・弘安の役は、中国が元の時代で、日本に2回に渡って侵略してきた事件である。 元の皇帝
フビライ
は日本に朝貢を求めて使者を送ってきたが、執権
北條時宗
は拒否して九州沿岸の防備を固めた。
フビライ
は文永11年(1274年)、中国(蒙古)、高麗の兵28000を送り、壱岐・対馬を侵略の後10月20日には 九州博多湾西部の今津付近に上陸した。将兵よく防戦して勝敗がつかぬため攻撃軍は一旦沖の船に引き上げた。 その晩台風に遭いそのために多くの船が沈み、多数の将士を失う。残る兵力は戦意を失い敗退していった。 この文永の役以後も、
フビライ
は日本侵略の夢は消えず、降伏勧告の使者を日本に送ったが、執権
北條時宗
は従わず、 使者を鎌倉竜ノ口にて斬り、覚悟の程を示し九州を主体として沿岸の防備をますます堅固にした。
フビライ
は日本侵略の兵力を
金方慶
を主将とする蒙古・漢・高麗合流軍40000の東路軍と、
笵文虎
の率いる旧南宋軍100000の江南軍を編成して日本に向けた。 弘安4年(1281年)6月6日、東路軍は志賀の島に襲来。待ち受けていた幕府軍と激戦になり勇敢な将士の反撃に侵略軍は上陸を果たせず退き、 江南軍の到着を待った。東路軍は遅れた江南軍と平戸付近で合流し、一挙に博多湾に押し入るべく鷹島付近に移動。 これを察知した日本軍は小舟にて猛攻をかける。激戦の最中、7月30日から暴風雨が吹き荒れ、 翌閏7月1日には来襲軍の船はほとんど壊滅し、
笵文虎
は士卒を置き去りにして本国へ逃げ帰り、 残された将兵は殺害または捕虜となり、日本軍の大勝利のうちに終わった。
万法寺賢信
、
真成寺乗念(海野三郎直敏)
、
小田切尭元(小田切次郎尭元)
、
安倍助氏(海野矢四郎)
ら弟たちも出陣していると考えられる。
海野幸継
には、長男
海野幸春
、次男
会田幸持
、三男
塔原幸次
、四男
田沢幸国
、五男
苅屋原光之
、六男
光幸元
らがいる。
海野幸春
には長男
海野幸定
、次男
海野幸重
がおり、
海野幸重
には長男
海野幸康
、次男
真田幸秀
がいる。 家督は
海野幸康
が継承し、第二十五代海野氏当主となっている。
真田幸秀
は真田氏の祖とされており、
真田幸秀
、
真田幸守
、
真田満幸
、
真田則幸
、
真田善幸
とつづいていく。
海野幸康
1300〜1352年
海野信濃守、弾正忠ともいう。
海野幸重
の長男。
元弘3年(1333年)5月に、
新田義貞
が鎌倉へ出兵。 上野国生品明神で挙兵した
新田義貞
は、鎌倉を攻めるため武蔵国へ入る。 それを迎え討つため幕府軍は
金沢貞将
、
桜田貞国
らを下河辺・入間川へ派遣するが、 入間川に向かって北上中の幕府軍が小手指ヶ原に到着したしたときは、すでに
新田義貞
軍が前面に布陣をしており、対峙。 5月11日、ここで両軍が衝突。 5月12日、武蔵国久米川(東京都東村山市諏訪町)において、
桜田貞国
率いる鎌倉幕府勢と
新田義貞
率いる 反幕府勢との間で久米川合戦が行われている。 5月15日、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(東京都府中市)において、
北條泰家
率いる鎌倉幕府勢と
新田義貞
率いる幕府勢との間で分倍河原合戦が行われている。 一進一退の攻防が5日間におよび、ついに
新田義貞
は北條軍を破り怒濤のごとく鎌倉に攻め入った。 これら久米川合戦と分倍河原合戦を総称して小手指ヶ原合戦(小手差原合戦)と呼んでいる。
信濃の
諏訪頼重
に匿われていた鎌倉幕府執権
北條高時
の遺児
北條時行
が鎌倉幕府の再興を期し、 建武2年(1335年)7月、
海野幸康
は
諏訪頼重
とともに、
北條時行
を擁して兵を挙げ、鎌倉を攻略する。
足利直義
は敗走。建武政府に対して起こしたこの乱を中先代の乱という。 これは鎌倉執権の北條氏を先代、室町幕府の足利氏を当代と呼んだので、その中間に起きた乱のため後世の職者は中先代の乱と称したという。 乱は京都公家
西園寺公宗
と
諏訪頼重
とが通じて建武政府打倒を計画するも、途中にて計画が露見して誅殺されたため、 建武2年(1335年)、
諏訪頼重
は
海野幸康
を中心とする滋野一族を味方にして
北條時行
を奉じて挙兵したのである。 戦いの手始めに守護
小笠原貞宗
の軍を破り、続いて武蔵国小手指ヶ原にて足利軍を破り
足利直義
が守る鎌倉を攻め落とした。
足利直義
は鎌倉逃亡に際して監禁していた
後醍醐天皇
の皇子
護良親王
を殺害した。 敗走した
足利直義
軍は7月27日、駿河国の手越河原(静岡市手越)に陣を敷いた。しかし破竹の勢いで東海道を攻めあがってきた
北條時行
軍の勢いを止めることはできず、 三河へ敗走した。 危機を感じた足利一族の棟梁
足利尊氏
は、
後醍醐天皇
の裁可を得ぬまま、救援のため兵を率いて東下、 三河国の矢萩(岡崎市)にて
足利直義
軍と合流し、8月9日に進撃してきた
北條時行
軍と橋本(静岡県浜名郡)にて合戦、
足利尊氏
軍はこれを破り、敗走する
北條時行
軍を追って、途中小夜の中山(掛川市)でさらに破り、 14日には府中(静岡市)の合戦に勝利した。
北條時行
軍は続いて高橋縄手、清見ヶ関(清水市)と息つく間もなく攻め立てられ、 防戦の甲斐もなく敗走する。17日には箱根山、18日には
北條時行
軍の最後の陣地相模川にて合戦、ここを最後の場所としてよく防ぐも敵わず、
足利尊氏
は19日には鎌倉を奪還している。
諏訪頼重
は自害し、
北條時行
による鎌倉奪還はわずか20日間の夢に終わった。
足利尊氏
はその後、
後醍醐天皇
の上洛命令を聞かず鎌倉に居座り、 征夷大将軍を自称して公然と建武政権に反旗を翻したのである。このことが南北朝時代の契機となる。 言い換えれば、諏訪氏および海野氏を含む滋野一党が起こした中先代の挙兵が南北朝内乱の動機になり、 海野氏は南北朝争乱の幕開けの主要メンバーになったことになる。 敗走した
北條時行
軍の海野氏の一部は安部奥に逃れ安部城の
狩野貞長
に従ったと考えられる。
中先代の乱を鎮圧し鎌倉を奪還した
足利尊氏
は度重なる朝廷の帰還命令にも従わず、鎌倉にとどまっていたので、 朝廷は
足利尊氏
を朝敵とみなして、
新田義貞
を総大将とする討伐軍を派遣。 しかし
新田義貞
は大敗し、勢いに乗じた
足利尊氏
は京都へ攻めのぼり、いったんは京都を陥落させる。 朝廷軍の反撃で
足利尊氏
は九州へ撤退したがまた再び勢力を盛り返し入京。 建武3年(1336年)、後醍醐天皇は吉野に逃れ、
足利尊氏
は持明院統の
光明天皇
を擁立。 一方
後醍醐天皇
は吉野にて朝廷を開設。 世人はこれを評して、吉野朝廷を南朝、京都朝廷を北朝と称し、南北朝時代といい、以後、元中9年(1392年)までつづき、
足利義満
が武家勢力の統合を背景にして事実上の南朝解消に成功して南北朝時代が終わる。
正平6年(1351年)、観応の擾乱により北朝は
足利尊氏
派と
足利直義
派に分裂し、激しい戦いを繰り返していた。
足利尊氏
は南朝と和睦し、鎌倉の
足利直義
を攻撃する。 翌正平7年(1352年)、
足利尊氏
は
足利直義
を降伏させ、鎌倉に入った。
足利直義
は2月に急死したが、『太平記』によれば
足利尊氏
による毒殺であると記している。 南朝方の
北畠親房
は、北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる。 閏2月、
新田義貞
の遺児
新田義興
と
新田義宗
は、鎌倉奪還を目指し、 従兄弟の
脇屋義治
や南朝に降伏していた
北條時行
らとともに、上野国で挙兵。 また同時に征夷大将軍に任じられた
宗良親王
も信濃国で挙兵。 神家と記されている諏訪氏、高梨氏、仁科氏、伴野氏(友野氏)、
祢津行貞(祢津小二郎)
、
滋野八郎(繁野八郎)
、
尾沢八郎(矢沢八郎)
らが
宗良親王
の味方をしている(『信濃勤王史』により)。 南朝方には諏訪氏、金刺氏、香坂氏、知久氏、仁科氏、藤沢氏、西牧氏、海野氏、祢津氏、望月氏、保科氏などの諸族が与し、 北朝方には小笠原氏、村上氏、大井氏、伴野氏、高梨氏、中野氏、市河氏らが与しています。 高梨氏や伴野氏は北朝方に与していた豪族ですが
宗良親王
に味方し、市河氏も後に南朝方に与しています。 滋野一族は結束して南朝方であることがわかります。 閏2月15日、
足利尊氏
ら北朝方の軍勢と、
新田義興
・
新田義宗
ら南朝方の軍勢との間で武蔵野合戦が行われた。 双方とも相当の損害を出したといわれているが、
足利尊氏
は鎌倉を出て武蔵国石浜(東京都台東区)に撤退し、勢力の回復をはかり、 武蔵国狩野川に布陣し、南朝勢を迎え撃つかまえを見せた。
海野幸康
は、
宗良親王
に従って碓氷峠を通り笛吹峠(埼玉県嵐山町-鳩山村の境界峠)に布陣(『群書類従』では
海野善幸
)。
新田義興
ら南朝勢は、鎌倉街道を南下。南朝勢には、
足利尊氏
に反発する
足利直義
派の武将も多く参加したといわれる。 南朝勢は閏2月18日にいったん鎌倉を占領。
新田義宗
は笛吹峠(埼玉県嵐山町)に陣を敷き、
宗良親王
ら信濃勢や、
足利直義
派であった
上杉憲顕
と合流。
足利尊氏
は
宗良親王
軍と
新田義興
軍とを分断する作戦をとり、 閏2月20日、金井原(東京都小金井市)および人見原(東京都府中市)にて
足利尊氏
勢は
新田義興
軍と合戦を行い新田軍を撃破。
新田義宗
は越後方面へ敗走。
足利尊氏
は兵力を整え、 閏2月28日、高麗原(埼玉県日高市)・入間河原(埼玉県狭山市)・小手指ヶ原(埼玉県所沢市)で合戦となったが、
足利尊氏
勢が勝利し、笛吹峠に布陣していた
宗良親王
は信濃方面に落ち延び、
香坂高宗
に庇護され大河原城に滞在している。
海野幸康
は
足利尊氏
軍と戦い(笛吹峠合戦で)、大敗して戦死。 『太平記』では
祢津小二郎(祢津小次郎)
の剛勇ぶりが記されている。 一方、南方に脱出していた
新田義興
・
脇屋義治
・
北條時行
は三浦氏の支援を受けて鎌倉に入るが、 持ち堪えられないと判断したため3月2日、鎌倉を脱出し、相模国河村城(神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もった。 3月12日、
足利尊氏
は鎌倉を奪還している。
海野幸康
には長男
海野幸遠
がおり、
海野幸遠
、
海野幸永
、
海野幸昌
、
海野幸信
とつづき、
海野幸信
が二十九代海野氏当主となっている。
海野幸信
には長男
海野幸則(海野左近将監則幸)
、次男
海野幸義(海野兵庫頭善幸)
、三男
岩下幸忠(岩下豊後守)
がいる。
岩下幸忠
には長男
岩下幸久
、次男
金井貞幸
がおり、
金井貞幸
が金井氏の祖とされている。 岩下氏から横尾氏などが分家している。
応永7年(1400年)、足利氏に頼んで宿願の信濃守護を拝命した
小笠原長秀
であったが、衆目を驚かすばかりの都風のきらびやかな行列を整え、 伊那勢200余騎を従えて川中島を練り歩き、守護所のあった善光寺に入る。 信濃の武士たちが進物を捧げて伺うも、
小笠原長秀
は尊大でろくな挨拶も返さず、腹に据えかねた各地の豪族たちは、 早速協議のうえ、北信濃の村上氏を旗頭に、高梨氏、島津氏、井上氏、海野氏、祢津氏、仁科氏、香坂氏、諏訪氏、その他の豪族を加えた大連合を組織して、 善光寺から討って出た
小笠原長秀
勢と横田河原で戦い勝利する。 更埴地域で強大化しつつあった
村上満信
の当知行地に対する守護小笠原氏の圧力への反発が発端ともいわれている。
つづいて大塔城(長野市篠ノ井)を攻め落とし、
小笠原長秀
はほうほうの体で京都へ逃げ帰った(『東部町歴史年表』により)。 これを大塔合戦といい、
海野幸永
、
海野幸昌
父子は
祢津遠光
を大将として、 会田氏、岩下氏、大井氏、光氏、田沢氏、塔原氏、深井氏、土肥氏、矢島氏らを率いて
村上満信
に与し、 守護
小笠原長秀
に反乱し、勝利している。 『大塔物語』には
祢津遠光
の配下として、桜井氏、別府氏、小田中氏、横尾氏、曲尾氏、実田氏などの武士たちの名も記されており、 「実田」は真田氏のことで、この当時の真田氏は、横尾氏や曲尾氏らと並ぶ山間の小土豪にすぎなかったことが分かる。
なお、大塔合戦では
村上満信
が国人衆の指導的な役割を果たし、以後大いに勢力を振るい北信濃一帯を制覇したところを見ると、 当時村上氏がいかに強力な名門土豪であったかが窺い知れる。
海野幸義
には長男
海野幸数
、次男
海野持幸
がいる。
かつてから室町幕府の将軍
足利義教
と不和であった関東公方
足利持氏
は幕府に反抗を企てていた。 しかもこれを諌めた関東管領
上杉憲実
を討とうとしていたため、永享10年(1438年)に
足利義教
は
足利持氏
討伐を決行。
足利持氏
を追い詰め鎌倉の永安寺にて自害させている。 これを永享の乱といい、
足利持氏
側に味方した
結城氏朝(結城七郎)
は
足利持氏
の遺児二人を引き取り養育し、 やがて遺児を擁立して名城といわれる結城城に籠り、幕府に反旗を翻す。 永享12年(1440年)、幕府は
上杉憲実
らを派遣し諸国の軍勢を徴収して
結城氏朝
を攻め、
結城氏朝
はよく防戦するが、城を枕に討死。 擁立された
足利持氏
の遺児たちも捕らえられ美濃国において斬首されている(『東部町歴史年表』により)。 これを結城合戦といい、
海野幸数
は結城合戦にて守護小笠原氏の指揮下で、
結城氏朝
と戦い勝利している。 信濃の雄である
村上頼清
に従って出陣した武将の中には、
真田源太郎
、
真田源五郎
、
真田源六郎
の名が記されている(『結城陣番帳』により)。
海野持幸
1425〜1467年
海野信濃守ともいう。
海野幸義
の次男。
宝徳元年(1449年)には
海野持幸
が鎌倉で元服し
足利持氏
より一字「持」を賜っている。 『諏訪上社御符礼之古書(新編信濃史料叢書)』によれば、
海野持幸
は宝徳元年(1449年)に海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。 応仁元年(1467年)、
海野持幸
は
村上政清
と戦い戦死している。
応仁元年(1467年)の
村上政清
との境界争いが原因で合戦となり、
海野持幸
が戦死し大敗北して以来、 塩田平までも村上氏に制圧され、村上氏は戸石城を築城し海野氏を牽制。 村上氏に圧迫され海野氏はしだいに衰亡していき、 西上州の国人衆も海野氏の支配下を離れ、関東管領上杉氏勢力下の箕輪城主長野氏の支配を受けるようになっていった。 海野氏の勢力圏はしだいに狭められ衰亡期といっても過言ではない。 この時期、海野氏の支配圏は海野郷を中心にして、 西は芳田や深井周辺、東は祢津の東側一帯の別府氏支配地域まで。北は鳥居峠付近の西上州境界付近の祢津氏所領まで。 南は千曲川付近の小田中氏所領までとされている。 この範囲内での海野氏支配の規模を江戸時代の石高に換算すると、1〜2万石と考えられている。 被官の国人衆の領地を除いた海野氏の直轄領地は、延徳元年(1489年)の諏訪上社御符札の古書によれば、 東は東上田・海善寺・海野本郷、西は樋の沢・房山・踏入、北は小井田・林、南は千曲川までとされている。 庶子である海善寺氏や太平寺氏の一族を代官として従え、さらに深井氏、小宮山氏、今井氏、平原氏、岩下氏らを被官として これらの地域を支配していたという。
天正10年(1582年)10月に
北條氏直
が
祢津昌綱
に宛てた文書(『禰津文書』)には、 徳川氏から北條氏へ寝返れば、海野氏の旧領4000貫を宛て行うと申し送っていることが明らかとなっている。 この文書からも海野氏の領地の規模が推測でき、4000貫を石高に換算すると(一貫二石四斗七升)、1〜2万石と予測できる。
海野持幸
には長男
海野氏幸
、次男
春原幸貞
がいる。
春原幸貞
は春原氏の祖とされている。
海野氏幸
は父
海野持幸
が応仁元年(1467年)に戦死してから家督を継承して 延徳元年(1489年)まで海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。
海野氏幸
には長男
海野幸棟
、次男
羽尾景幸
がおり、
羽尾景幸
が羽尾氏の祖とされている。
羽尾景幸
には長男
羽尾幸世
がいる。
羽尾幸世
には長男
羽尾幸全
、次男
羽尾幸光
、三男
羽尾輝幸
、四男
羽尾幸昌
がいる。
羽尾幸全
には長男
羽尾幸次
、次男
羽尾仲次
がおり、
羽尾幸次
には長男
羽尾景次
、
羽尾仲次
には長男
羽尾仲正
、次男
羽尾昌重
がいる。
羽尾幸光
には長男
羽尾重光
、次男
羽尾重照
がいる。
羽尾輝幸
には長男
羽尾幸貞
がおり、
羽尾幸貞
には長男
羽尾幸勝
がいる。
羽尾幸昌
には長男
羽尾昌元
がおり、
羽尾昌元
には長男
羽尾昌富
がいる。
海野幸棟
は
海野幸氏
から家督を継承。 文亀3年(1503年)に夫人
禅量大禅尼
が没したため、永正元年(1504年)、夫人のため興善寺の開基となる。
海野幸棟
は大永4年(1524年)に没している。戸石要台寺(陽泰寺)に墓所がある。
海野棟綱
1492〜1563年
海野信濃守ともいう。
海野幸棟
の長男。
大永4年(1524年)に父
海野幸棟
が死去したため家督を継承。三十六代海野氏当主となる。 大永4年(1524年)7月16日付けの高野山蓮華定院宛ての宿坊定書に署判している。 また、大永7年(1527年)4月20日付けの
海野棟綱
の宿坊定書と、 天文10年(1541年)の
海野棟綱
家老
深井棟広
の書状が残っている。
坂城の
村上義清
が次第に勢力を広げ、さらに甲斐の
武田信虎
が国内統一を遂げて、 信濃の佐久へ侵略をはじめるにいたって、滋野一党の前途に翳りが見えはじめていた。 天文10年(1541年)、海野一族が
武田信虎
・
諏訪頼重
・
村上義清
の連合軍に攻撃された海野平合戦で敗北し、 嫡男
海野幸義
は神川で奮戦するも戦死してしまい、
海野棟綱
は上州へ逃亡、関東管領
上杉憲政
に救援を求めている。 祢津氏は滋野一族でありながら諏訪氏とも親戚となっており、降伏を許されている。 また、矢沢氏も諏訪氏の一族であるという理由で許され、辞を低くしてその命に従いようやく滅亡を免れている。 上州へ逃亡した
海野棟綱
は
長野業政
麾下となっていた滋野一族の羽尾家に厄介になっている。
海野棟綱
のここまでの動きは確認できるのだが、その後の消息は全く途絶えてしまう。
羽尾幸光
とその弟
羽尾輝幸
が海野姓を許されたことが
海野棟綱
に何だかの関係があるとされている。
羽尾幸光
、
海野輝幸
兄弟や宗家正統とされる
海野業吉
が
真田幸隆
に従い上州で活動していることが鍵となるかもしれないが、 海野宗家は完全に没落し去ってしまったともいえるだろう。
天文10年(1541年)に高野山蓮華定院に
深井棟広(深井右衛門尉)
名義で「…(上略)…御書中のごとく、不慮の儀をもって当国上州へ
海野棟綱
罷り除かれ、山内
上杉憲政
殿様へ本意の儀頼み奉り候間、急度還住いたさるべき由存ずるはかりに候…(下略)…」と書簡を送っている。 おそらく
海野棟綱
は
上杉憲政
の力ですぐに領土を取り戻し帰還できると確信していたのだろう。 しかし依頼に応じて
上杉憲政
は信濃へ出兵したが、すでに
武田信虎
も
村上義清
も引きあげており、 長窪まで出陣するが
諏訪頼重
としばらく対陣したのち、
諏訪頼重
の巧妙な交渉で和議となり、 なすこともなく上野国へ退きあげている。 このため
海野棟綱
の還住の望みは断ち切られてしまった。 永禄6年(1563年)に長野原合戦で武田方と戦い討死したという説や、箕輪城で傷心のうちに病没した説などもあるのだが定かではない。
法名は瑞泉院殿器山道天居士。小県郡海野興禅寺に葬られている。 高野山の一心院谷にある蓮華定院は、古来より小県郡や佐久郡を檀郡とした寺院で、海野氏が宿坊としている。 真田氏も厚誼を深めており、海野氏関係の往復文書などを多く蔵している。
真田昌幸
が関ヶ原合戦の咎めにより高野山山麓の九度山の地に流刑に処せられたのも、海野氏の蓮華定院との交誼と無縁ではないと考えられる。
海野棟綱
には長男
海野幸義(海野左京太夫)
、次男
海野幸貞(海野三河守)
、三男
海野幸直
がいる。
海野幸義
は天文10年(1541年)に
武田信虎
・
諏訪頼重
・
村上義清
の連合軍に攻撃された海野平合戦で敗北し、 戦死している。享年32歳。上田の市街地を抜けて、国道18号線を東京方面に向かうと、やがて神川を渡る。 橋際に蒼久保という信号機があり、丁字路になっていて、角には段丘につづく崖がある。崖は高い樹木に覆われているが、 その林のなかには
海野幸義
戦死の遺跡が残っている。碑には
海野幸善
とあるが一般的には
海野幸義
と称されている。
海野幸義
には長男
海野業吉(海野左馬允)
がいたとされている。 天文10年(1541年)に海野一族が滅亡すると祖父
海野棟綱
とともに上州
上杉憲政
を頼みにしていたが、
真田幸隆
が海野一族の名のもとに小県の旧領を回復すると、
真田幸隆
を頼って武田家に臣従。 海野家正統ともされているが、以後真田家に従って上州へ参戦している。岩櫃城攻略に大きく貢献したという。
白鳥神社系の『海野系図』で
海野幸義
の弟として
海野幸貞(海野貞幸)
、
海野幸貞
の長男
海野幸直(海野小太郎)
が記されている。 永禄10年(1567年)8月、武田領の家臣団が
武田晴信
に提出した起請文には海野氏関係として、
海野幸貞(海野三河守)
の単独のもの、
海野直幸(海野信濃守)
、
海野幸忠(海野伊勢守)
、
海野信盛(海野平八郎)
の連名のもの、さらに「海野被官」として桑名氏、塔原氏ほか5名連記のものと、 「海野衆」として
真田綱吉
(
真田幸隆
の兄)、
神尾房友
ほか12名連記のものがある。 海野衆の中には
海野幸義
嫡男
海野業吉(海野左馬允)
の名も見えている。 こうした衆で提出したものは他にもいくつかあり、その実態は地縁によって結合していた地侍集団とされている。 つまり
海野業吉
にしても、この段階では単独で提出するような状況にはなく、
真田綱吉
、
常田綱富
(
常田隆家
次男)、
金井房次
、
下屋棟吉
(
常田隆家
三男)、
神尾房友
ほかの一族や 奈良本氏、石井氏、桜井氏などの地縁関係のものと同列でしかなかった。 ついで
海野幸貞
単独のものと「海野被官」5名連記のものであるが、その宛名はともに
跡部勝資
であって、 これは上野国の海野氏とみる研究もあるが、 永禄12年(1569年)10月12日付けの
武田信親(武田龍宝)
朱印状による軍役定書の宛名は海野衆である
海野幸忠(海野伊勢守)
、
海野幸貞(海野三河守)
の連記となっており、 小県郡の海野氏とみる従来の見解でよいと思われる。 残る
海野幸忠
と
海野信盛
については、
海野幸貞
の次男と三男とされているが、確かではない。
海野幸貞
と連記されている点からみても有力な海野一族と思われる。 傍系かも知れないが、なお数家の海野氏が存続していたことを示すものであろう。
また、
海野棟綱
の三男
海野幸直
に関しては定かではない。
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