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小助の部屋/滋野一党/海野滋野氏

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神話によると、日本武尊が東国討伐の折、房総に渡る相模の海で、 妻弟橘姫が荒ぶる海の怒りを鎮めようと入水(自殺)するという悲しい物語があった。(『古事記』により) 妻を亡くした傷心の日本武尊はさらに討伐の旅をつづけ、諸賊を討ち平らげて上総より帰途の途中、 信濃との国境鳥居峠にて、遥か彼方の相模の方を眺めて、亡き妻を偲び「吾妻者邪」と三度叫んだ。 これが現在の吾妻郡嬬恋村の地名のいわれだという。 鳥居峠を下り、小県郡の小さな海(池か沼だともいわれている)を見て、また相模の海での妻の悲劇を思い出し、 すっかり海を嫌いになっていた日本武尊は、 「この海も野となれ」と念じた。これが地名「海野」の起こりと伝承されている。
天正11年(1583年)、真田昌幸が上田城築城の際、城下町を形成するため、かつての海野郷の住民を多数上田に呼び寄せて、 新たに海野町を開いている。以後、海野郷は本海野町すなわち本海野と称されるようになったという。 江戸時代初期に北国街道の開通とともに本海野は宿場として再生され、寛保2年(1742年)に洪水で田中宿が甚大な被害を受けてからは 本海野宿が本宿の役目を果たすようになっていく。 明治時代には国鉄信越線が開通。海野宿は田中駅と大屋駅の中間にあり、国道18号線が宿北方の段丘上を通ったことで取り残されるかたちとなり、 近代化の波に乗り遅れ宿町の景観をそのまま保つ結果となった。
海野幸俊*905〜*970年

海野左馬允、滋野恒信、小太郎、信濃介、左馬権介、正六位上ともいう。
滋野恒成の長男。望月牧監。海野氏初代。
天暦4年(950年)に望月牧監に任命され海野へ下向。 海野幸俊と改名し海野姓を家名とする。 海野幸俊(滋野恒信)が海野氏の祖とされている。
海野幸俊(滋野恒信)には長男海野幸恒(海野信濃介滋氏)がおり、 海野氏の二代目として天延元年(973年)に海野庄下司となっている。 海野幸恒には長男海野幸明、次男祢津直家、三男望月重俊がおり、 長男海野幸明(海野信濃守)が海野氏の三代目を継ぎ、次男と三男が分家し祢津氏の初代、望月氏の初代となっている。
海野、望月、祢津、これらを滋野三家といい、三家は緊密で、 出陣の次第によると海野自ら戦うときは海野幡中、左望月、右祢津となり、 望月自ら戦うときは、望月幡中、左海野、右祢津となり、 祢津自ら戦うときは、祢津幡中、左海野、右望月と、三家一体となって外敵に当たったという。 この頃の家紋は海野氏が洲浜や月輪七九曜、結び雁金で、望月氏は丸に七曜または九曜の紋、祢津氏は丸に月であったとされる。
海野幸俊から海野幸恒海野幸明海野幸真海野幸盛と継がれていく。
海野幸明には、長男海野幸真、次男矢島正忠がおり、矢島氏の祖とされている。 五代目海野氏当主海野幸盛には長男海野幸家、次男下屋幸房がおり、 海野幸家が六代目海野氏を継ぎ、次男は分家し下屋氏の初代となっている。 下屋幸房からは下屋勝房下屋則房下屋通房下屋廣房下屋直房下屋親房下屋氏房下屋高房下屋友房へとつづいている。
海野幸家*1010〜*1070年

海野信濃介、信濃守、平権太夫ともいう。
海野幸盛の長男。六代目海野氏当主。
康平5年(1062年)、陸奥国の衣川以北六郡を領していた安部氏が朝廷に反抗して貢税の義務も果たさず、 また俘囚長安部頼時の代には、衣川を越えて南進し領土を拡大してきたので、朝廷の派遣官、陸奥守藤原登任が鎮圧のため、 安倍頼時を攻めたが逆に敗れたので、朝廷は武門の棟梁源頼義を陸奥守に任じ鎮守府将軍も兼ねさせて、 安部氏討伐を命じた。源頼義は子の源義家などを伴い奥州に向かい、安部氏制圧に乗り出したが、 頑強な抵抗にあい、源頼義は出羽国北部の豪族清原氏に援兵を請い、勝敗を繰り返しながらも安部頼時を倒し、 子の安部貞任を討ち取り、弟の安部宗任を捕虜として、長かった戦乱を収束させた。 海野幸家は80騎の棟梁として源頼義に従い、弟下屋幸房とともに安部頼時討伐軍に加わっている。 この乱は、源頼義の奥州下向より終息するまでの11年間の長期の乱で、後世、 前九年の役と称された。
先の奥州の安部氏の反乱を鎮圧した以後の安部氏の領土は、味方した清原一族が功績により支配することになり、 旧領出羽を合わせて強大になり、その上当主清原武則が鎮守府将軍に任ぜられ、清原氏の勢力はますます拡大していた。 しかし孫の清原真衡の代になり一族の間に争いが起こり、領域は乱をはじめた。 永保3年(1083年)、陸奥守として赴任してきた源頼義の嫡男源義家はこの争いに介入し、 最初は清原真衡を応援し一応鎮定していた。しかし清原真衡が急死すると、今度は相手方の清原清衡清原家衡の間で争いが起こり、 源義家清原清衡方に加勢して、清原家衡を倒し、 寛治元年(1087年)9月、乱を平定した。 この乱を後三年の役と称し、この乱で海野幸勝が180騎の棟梁として源義家に従い陸奥の清原清衡と戦っている。 海野幸勝(海野信濃守)海野幸家の長男で七代目海野氏を継承している。
海野幸家には嫡子がいなかったのか、 望月為家の長男望月為廣海野幸家から家督を継承し海野氏の名跡を継いでいる。 海野為廣(望月為廣)海野為通(望月為通)とつづき、 海野為通(望月為通)には長男海野則廣、次男望月則重がおり、 海野則廣に嫡子がいなかったことから望月則重の長男海野重通が海野氏の名跡を継承。 次男祢津通直は祢津氏の名跡を、三男望月廣重が望月氏の名跡をそれぞれ継承している。 海野重通海野廣通海野幸通海野幸親へとつづく。 十三代目海野氏当主海野廣通には、長男海野幸通(海野左馬頭幸直)、次男海野幸親がおり、 海野幸通(海野幸直)が十四代目、そして弟海野幸親が十五代目海野氏当主となっている。
海野幸親1142〜1184年

海野幸直、信濃守、太郎、小次郎、左馬頭、左衛門尉ともいう。
海野幸通の次男。十五代目海野氏当主。
保元2年(1157年)に起こった保元の乱において、300騎の棟梁として源義朝に属し京に上り参戦。戦功をあげる。 弟祢津通直(祢津道直)望月廣重(望月広重)らも参戦している。 保元の乱は、保元元年(1156年)に起こった内乱で、皇室内部では後白河天皇崇徳上皇、 摂関家では藤原忠通藤原頼長の対立が激化し、後白河天皇藤原忠通側は平清盛源義朝を、 崇徳上皇藤原頼長側は源為義(源義朝の父)を主力として戦ったが、 崇徳上皇側は敗れ崇徳上皇は讃岐に流された。 この乱は武士の政界進出の大きな契機となったといわれている。
海野幸親は保元の乱で後白河天皇側として源義朝に従い、武功を立てている。 『保元物語』に出てくる「海野太郎(宇野太郎)」と「祢津甚平(祢津神兵)」は海野と祢津に本領を持った土豪の海野氏と祢津氏のことで、 海野氏の名前が史実に出た最初である。 治承5年(1181年)に木曽義仲が白鳥河原にて挙兵し、海野幸親は救援として出兵。横田河原の戦いに参戦し大勝したという。 海野幸親には、長男海野幸広、次男海野幸長(海野蔵人)、三男海野幸氏がいる。 寿永2年(1183年)備中水島合戦で大将軍海野幸広は戦死してしまっている。 海野幸親自身も、木曽義仲とともに寿永3年(1184年)1月21日、粟津口にて討死している。
次男海野幸長は出家して奈良興福寺で学ぶ。海野幸長は本名よりも出家名の大夫房覚明の方が有名である。 木曽義仲上洛の折には謀議に参加し、祐筆として都に慣れない木曽義仲と公家社会との間に立って接点の役目をしたが、 間もなく辞して比叡山にのぼる。海野幸長(海野大夫房覚明)の去った後の木曽義仲と公家社会との間は急に険悪となり、 木曽義仲の人気は急落する。 寿永3年(1184年)1月21日、粟津口にて討死した木曽義仲の菩提を弔うべく木曽に帰った 海野幸長(大夫房覚明)は柏原寺に木曽義仲公を祀り、寺名を日照山徳音寺と改めた。 木曽義仲の霊はここに眠っている。 文治6年(1190年)、海野幸長(大夫房覚明)は別所常楽寺を復旧する。
『吾妻鏡』によれば「(海野幸長は)源頼朝の依頼で甲斐源氏の一族一條忠頼の追善供養の際の導師を務めたり、 平治の乱(1159年)に源義朝(源頼朝の父)に殉じて死んだ鎌田正清の娘が、 旧主源義朝と父鎌田正清の菩提を弔った際の願文の原稿を書いた」と記している。 嘉禄元年(1225年)71代慈円上人の弟子となり、その後は源空(法然上人)の弟子を経て、 親鸞に従い、親鸞の行状記を記して、子の浄真に授ける。 文暦元年(1234年)、海野幸長(大夫房覚明)は白鳥庄に康楽寺を建設する。 海野幸長(大夫房覚明)は『平家物語』の語り手の一人ではないかと推測されている。 仁治2年(1241年)、75歳(85歳とも)で入寂した。
海野幸親の長男海野幸広討死後は、三男海野幸氏が家督を継承している。 海野幸長には、長男海野幸善がおり、海野幸善には長男善念寺浄賀、次男善敬寺浄蓮、三男康楽寺浄喜、 四男広敬寺浄宣、五男浄楽寺浄救、六男善念寺浄覧、七男極楽寺広専らがいる。 善念寺浄賀には長男善念寺浄耀、次男本覚寺浄玄、三男証蓮寺浄応がいる。 善念寺浄耀からは善念寺浄蓮善念寺浄明とつづき、十二世善念寺浄祐とつづく。 善念寺浄祐には長男浄専寺浄専、次男康楽寺浄教、三男専精寺尊祐、四男浄行寺祐海、五男正定寺祐円がいる。 浄楽寺浄救には長男浄楽寺浄楽がいる。
海野幸広1163〜1183年

海野幸廣、行広、行廣、弥平四郎ともいう。
海野幸親の長男。
治承4年(1180年)木曽義仲(源義仲)が白鳥河原に兵を集結挙兵した際、海野幸広はこれに応じ、 侍大将として、集結した滋野一族をはじめ1000、または2000騎といわれる東信濃、北信濃、南信濃、西上州の軍勢を指揮する(『平家物語』により)。 木曽義仲は年内には信濃を手中にして、上州にまで進出。 木曽義仲(源義仲)の父源義賢は清和源氏の嫡流であり、源為義の次男で、 武蔵の国比企郡大倉館に住んでいたが、兄源義朝の長男源義平に襲われ討死してしまう。 父源義賢を殺された木曽義仲(源義仲)は乳母の夫である信濃の土豪中原兼遠に匿われ、木曽山中に育った。 27歳の治承4年(1180年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曽山中に上げた。
治承5年から養和元年(1181年)、木曽義仲は白鳥河原にて挙兵し、越後の城助茂の大軍と横田河原で戦う。 木曽義仲海野幸広の援兵は横田河原の戦いに大勝する。 海野幸広は滋野一族を指揮して各地を転戦、京に攻め上った。 『真武内伝』によれば、木曽義仲に従い、都へ攻めのぼった海野幸広は、権勢を誇った平家一門を福原(神戸)へと追いやる。 寿永2年(1183年)5月には、侵攻してきた平維盛の大軍を倶利加羅峠で破り、 7月には都落ちした平家を追って上洛を果たす。 後白河法皇は直ちに木曽義仲に従五位下左馬頭兼越後守の官位を与えたが、樋口兼光のような豪勇な部下は いたものの元来山家育ちのため、公家社会のしきたりになじめず、また、 海野幸広の弟海野幸長(大夫房覚明)以外に有能な顧門がいなかったこともあって政治力の欠如によって次第に木曽義仲の評価は下がり、 しかも海野幸長木曽義仲の許を離れることによって決定的になる。 京の都を手中にした木曽義仲は、寿永2年(1183年)閏10月1日、 後白河院の命により平家追討の院宣を受け、平家追討のためにさらに西進した。 10月、備中水島(倉敷市水島)において平家軍と対峙。 この軍の侍隊将が矢田義清海野幸広で、その陣中において海野幸広は「海中穏やかにして浪の紋渦巻きて銭連なるごとく見え、 これ吉祥なりとて、州浜紋なりしてを引替え陣幕を六連銭紋とする」としたと記されており、 この頃から六連銭が使用されたといわれている。室町時代中期に記された『長倉追罰記』のなかでも海野氏が六連銭を家紋としていると記されているので、鎌倉時代から室町時代にかけて、海野氏が六連銭を使用していたことは間違いないようだ。 また、海野氏の家紋は月輪七九曜であったともされている。
備中国に出陣した海野幸広矢田義清に率いられた軍勢5000の木曽義仲軍は、 船500艘に兵7000を乗せて反撃してきた平重衡を大将とする平家軍と水島にて海上戦となる。 木曽義仲軍は海戦に慣れていなかったため、水島にて散々打ち負かされ大敗北を喫し京都へ逃げ帰った。 総大将海野幸広の軍も馴れない船戦のため利あらずして大敗。 この備中国の水島の戦いで木曽義仲が平家に敗北し撤退していたとき、討死の憂き目にあっている。 『源平盛衰記』には「海野幸広刀を抜きて、平盛房が起き上がらんとするを踏まえて、鎧の草摺りを引き上げて刺す、 平景家これを見て、海野幸広が兜を引仰ぎて首を掻てけり…(中略)…源氏には矢田、高梨、海野を始めとして、 1200人が首懸けたり」と記されている。
木曽義仲はクーデターで院の近臣を追放して独裁政治を敷き、 寿永3年(1184年)正月には征夷大将軍となり「旭将軍」と称せられた。しかし、それもつかの間で、 源頼朝の代官として京に進撃してきた源範頼源義経の軍に敗れ、北陸へ落ちる途中、 1月20日琵琶湖畔粟津で討死した。木曽義仲は享年31歳だった。 水島合戦の結果が木曽義仲滅亡の主原因となった。
木曽義仲に従った者たちは、 木曽豊方木曽義元木曽義昌根井幸親(根ノ井幸親)樋口兼光(樋口次郎)海野幸広(海野弥平四郎行平)矢田義清(矢田判官代)今井兼平(今井四郎)楯親忠(楯六郎)手塚光盛(手塚太郎)足利義房依田二郎多胡家包(多胡次郎)山本義弘小諸義兼(小諸太郎)岡田親義(岡田冠者)仁科盛直(仁科太郎)高梨忠直(高梨兵衛)落合兼行(落合五郎)海野幸長(海野大夫坊覚明)井上光基(井上九郎)栗田範覚(栗田寺範覚)大室直光(大諸太郎)小林真光(小林二郎)池田親忠(池田二郎)茅野光弘(茅野太郎)長瀬義数(長瀬重綱)志賀七郎新庄則高(新庄次郎左衛門)矢嶋行忠(矢嶋四郎)諏訪豊平(諏訪太郎)村山義直(村山七郎)望月秀包(望月太郎)藤山兼助(藤山左衛門尉)河上太郎祢津泰平(祢津甚平)三河頼重(三河次郎)山田重弘(山田次郎)平賀盛義(平賀冠者)中村忠直(中村太郎)藤原中貞(藤原太郎左衛門)富部家俊(富部三郎)丸子秀資(丸子小忠太)佐竹秀義(佐竹太郎)進親直(進次郎)保科権八(保科太郎)更級清澄(更級源吾)村上信国(村上太郎)津田三郎高山重遠(高山三郎)入江親貞(入江小次郎)那和弘澄(名和太郎)林光平(林太郎)松本忠光(松本次郎)金田茂吉(金田次郎)桜井行晴(桜井太郎)高楯光延(高楯次郎)津波田三郎吉田四郎稲問三郎泉重満(泉三郎)東十郎野尻太郎平原景能(平原次郎)小沢景俊(小沢左平衛)稲津親忠(稲津新助)富樫家通(富樫太郎)太田次郎らがいる。
弟には後の大夫房覚明(出家名の方が有名)となる海野幸長海野幸氏らがいる。 家督は海野幸氏が継承しているが、海野幸広には長男海野幸房がいる。 海野幸房海野幸友下屋幸兼とつづく。下屋幸兼下屋友房から名跡を嗣いでいる。 下屋幸兼には次男鎌原重友がおり、鎌原友成鎌原幸成鎌原幸信とつづく。 また下屋氏から西窪氏や大厩氏などが分家している。海野幸房には、長男海野幸友のほかに、次男湯本幸雅がおり、 湯本氏の祖とされている。
海野幸氏1172〜1260年

海野左衛門尉、小太郎、左衛門尉、従五位下ともいう。
海野幸親の三男。鎌倉初期の御家人で、弓の名手として知られる。
海野幸氏は兄海野幸広が討死したことにより家督を相続。 寿永2年(1183年)、木曽義仲源頼朝と不和になったことにより、和睦の印として木曽義仲の嫡男清水冠者木曽義高源頼朝の人質となったとき、 随行して鎌倉に住んだ。元暦元年(1184年)、木曽義仲が滅亡した後、木曽義高の死罪処分が決定する。 海野幸氏木曽義高の身に危険が迫ったのでいち早く欺き、木曽義高を逃して身代わりとなった。 程なく木曽義高は討手に捕えられて殺されてしまった。 幸い、海野幸氏は、その忠義を源頼朝に褒められて許され、鎌倉御家人に加えられた。
これより海野幸氏源頼朝の側近として仕えることになり、弓の名手として後年名を上げることになる。 文治6年(1190年)、 白鳥神社を太平寺より現在地へ移動させ、居城を古城から太平寺(白鳥台団地)に移す。 源頼朝の射手として弓始めに参加している。 『吾妻鏡』によれば、建久4年(1193年)、海野幸氏曽我十郎祐成曽我五郎時致曽我兄弟仇討ち(富士の巻き狩り)の取り鎮めに源頼朝警護役として出兵するが、 曽根五郎と渡り合い負傷してしまう。 建仁2年(1202年)、海野幸氏は越後鳥坂城にて城資盛と戦い打ち破る。 建保元年(1213年)、和田義盛が背いたため、海野幸氏ら滋野一族は討伐へ出兵。和田義盛と戦い討ちとっている。 承久3年(1221年)、執権北條泰時の幕府方の将として承久の乱において、美濃大井戸へ出陣している。 このとき海野幸氏は49〜50歳。幕府重臣として重要な事項の謀議に参加している。 海野幸氏源頼朝より庄を与えられていて、上野国、三国の庄(長野県町・嬬恋村)の地頭であったので、 滋野姓海野氏は上野国吾妻郡にまで広がっていたといえる。
海野氏の直轄領は海野郷を中心とした小地域であったが、600年の歴史の流れのなかで各地に分布した庶流(分家)も多く、 海野郷の周辺はもとより、遠くは西上州(吾妻郡)、東は小諸、東南は佐久地方、西は四賀村(東筑摩郡)付近まで広がり、 分布した諸氏は海野氏の被官となり、海野氏を盟主とした連合体を組んでいた。一大豪族として繁栄を誇り最盛期を迎えていた。 縁者の土豪には下屋氏、鎌原氏、羽尾氏(羽根尾氏)、大厩氏、西窪氏、赤羽氏(赤羽根氏)、会田氏(芦田氏)、塔原氏、田沢氏、苅屋原氏、光氏などの諸氏が数えられる。 真田氏も真田を住まいした海野氏の庶流。
海野幸氏源頼朝に重用され、上野国の三原荘(群馬県吾妻郡嬬恋村三原)内を領有していたが、 仁治2年(1241年)、甲斐守護武田信光とのあいだで三原荘と信濃国長倉保(軽井沢付近)との境界争いを起こしており、 この訴訟は鎌倉幕府の裁定で海野幸氏側が勝訴したことが幕府の公式記録『吾妻鏡』に記されている。 海野幸氏の活躍は『吾妻鏡』に多く記録され、特に幕府恒例の弓始の儀式には、 1番手または2番手の射手としての活躍が数多く記録されている。 また嘉禎3年(1237年)、北條泰時の嫡男北條時頼に流鏑馬の故実を指南したことも記されている。 海野幸氏木曽義高の従者として鎌倉に赴いたのは寿永2年(1183年)で、 年齢11歳といわれているので、北條時頼に流鏑馬の故実を指南した時の年齢は65歳となる。
この時期の支配地域は、江戸時代の石高に換算すると5〜7万石ほどと推察されている(信濃全域で55万石から換算して)。
海野幸氏には長男海野長氏(海野左衛門尉)、次男海野茂氏(海野左衛門太郎)、三男海野資氏がいる。 家督は海野長氏死後に海野茂氏が継承。海野長氏の名は建保4年(1216年)に幕府御家人として見られる。 海野長氏には長男海野幸直、次男海野頼幸がおり、家督は海野頼幸が継承。 海野頼幸には長男海野幸継、次男万法寺賢信、三男真成寺乗念、四男小田切尭元、五男安倍助氏がいる。 安倍助氏が駿河安倍氏の祖とされている。 海野幸氏から、海野茂氏海野長氏海野幸直海野頼幸海野幸継とつづき、 海野幸継が二十一代目海野氏当主となって弘安4年(1281年)に塩田氏に従い弘安の役に出陣している。
海野幸継1237〜*1300年

海野小太郎、信濃守ともいう。
海野頼幸の次男。
弘安4年(1281年)、海野幸継は、塩田氏に従い弘安の役に出陣する。
文永の役・弘安の役は、中国が元の時代で、日本に2回に渡って侵略してきた事件である。 元の皇帝フビライは日本に朝貢を求めて使者を送ってきたが、執権北條時宗は拒否して九州沿岸の防備を固めた。 フビライは文永11年(1274年)、中国(蒙古)、高麗の兵28000を送り、壱岐・対馬を侵略の後10月20日には 九州博多湾西部の今津付近に上陸した。将兵よく防戦して勝敗がつかぬため攻撃軍は一旦沖の船に引き上げた。 その晩台風に遭いそのために多くの船が沈み、多数の将士を失う。残る兵力は戦意を失い敗退していった。 この文永の役以後も、フビライは日本侵略の夢は消えず、降伏勧告の使者を日本に送ったが、執権北條時宗は従わず、 使者を鎌倉竜ノ口にて斬り、覚悟の程を示し九州を主体として沿岸の防備をますます堅固にした。 フビライは日本侵略の兵力を金方慶を主将とする蒙古・漢・高麗合流軍40000の東路軍と、 笵文虎の率いる旧南宋軍100000の江南軍を編成して日本に向けた。 弘安4年(1281年)6月6日、東路軍は志賀の島に襲来。待ち受けていた幕府軍と激戦になり勇敢な将士の反撃に侵略軍は上陸を果たせず退き、 江南軍の到着を待った。東路軍は遅れた江南軍と平戸付近で合流し、一挙に博多湾に押し入るべく鷹島付近に移動。 これを察知した日本軍は小舟にて猛攻をかける。激戦の最中、7月30日から暴風雨が吹き荒れ、 翌閏7月1日には来襲軍の船はほとんど壊滅し、笵文虎は士卒を置き去りにして本国へ逃げ帰り、 残された将兵は殺害または捕虜となり、日本軍の大勝利のうちに終わった。 万法寺賢信真成寺乗念(海野三郎直敏)小田切尭元(小田切次郎尭元)安倍助氏(海野矢四郎)ら弟たちも出陣していると考えられる。
海野幸継には、長男海野幸春、次男会田幸持、三男塔原幸次、四男田沢幸国、五男苅屋原光之、六男光幸元らがいる。 海野幸春には長男海野幸定、次男海野幸重がおり、海野幸重には長男海野幸康、次男真田幸秀がいる。 家督は海野幸康が継承し、第二十五代海野氏当主となっている。真田幸秀は真田氏の祖とされており、真田幸秀真田幸守真田満幸真田則幸真田善幸とつづいていく。
海野幸康1300〜1352年

海野信濃守、弾正忠ともいう。
海野幸重の長男。
元弘3年(1333年)5月に、新田義貞が鎌倉へ出兵。 上野国生品明神で挙兵した新田義貞は、鎌倉を攻めるため武蔵国へ入る。 それを迎え討つため幕府軍は金沢貞将桜田貞国らを下河辺・入間川へ派遣するが、 入間川に向かって北上中の幕府軍が小手指ヶ原に到着したしたときは、すでに新田義貞軍が前面に布陣をしており、対峙。 5月11日、ここで両軍が衝突。 5月12日、武蔵国久米川(東京都東村山市諏訪町)において、桜田貞国率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる 反幕府勢との間で久米川合戦が行われている。 5月15日、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(東京都府中市)において、北條泰家率いる鎌倉幕府勢と 新田義貞率いる幕府勢との間で分倍河原合戦が行われている。 一進一退の攻防が5日間におよび、ついに新田義貞は北條軍を破り怒濤のごとく鎌倉に攻め入った。 これら久米川合戦と分倍河原合戦を総称して小手指ヶ原合戦(小手差原合戦)と呼んでいる。
信濃の諏訪頼重に匿われていた鎌倉幕府執権北條高時の遺児北條時行が鎌倉幕府の再興を期し、 建武2年(1335年)7月、海野幸康諏訪頼重とともに、北條時行を擁して兵を挙げ、鎌倉を攻略する。 足利直義は敗走。建武政府に対して起こしたこの乱を中先代の乱という。 これは鎌倉執権の北條氏を先代、室町幕府の足利氏を当代と呼んだので、その中間に起きた乱のため後世の職者は中先代の乱と称したという。 乱は京都公家西園寺公宗諏訪頼重とが通じて建武政府打倒を計画するも、途中にて計画が露見して誅殺されたため、 建武2年(1335年)、諏訪頼重海野幸康を中心とする滋野一族を味方にして北條時行を奉じて挙兵したのである。 戦いの手始めに守護小笠原貞宗の軍を破り、続いて武蔵国小手指ヶ原にて足利軍を破り足利直義が守る鎌倉を攻め落とした。 足利直義は鎌倉逃亡に際して監禁していた後醍醐天皇の皇子護良親王を殺害した。 敗走した足利直義軍は7月27日、駿河国の手越河原(静岡市手越)に陣を敷いた。しかし破竹の勢いで東海道を攻めあがってきた北條時行軍の勢いを止めることはできず、 三河へ敗走した。 危機を感じた足利一族の棟梁足利尊氏は、後醍醐天皇の裁可を得ぬまま、救援のため兵を率いて東下、 三河国の矢萩(岡崎市)にて足利直義軍と合流し、8月9日に進撃してきた北條時行軍と橋本(静岡県浜名郡)にて合戦、 足利尊氏軍はこれを破り、敗走する北條時行軍を追って、途中小夜の中山(掛川市)でさらに破り、 14日には府中(静岡市)の合戦に勝利した。北條時行軍は続いて高橋縄手、清見ヶ関(清水市)と息つく間もなく攻め立てられ、 防戦の甲斐もなく敗走する。17日には箱根山、18日には北條時行軍の最後の陣地相模川にて合戦、ここを最後の場所としてよく防ぐも敵わず、 足利尊氏は19日には鎌倉を奪還している。諏訪頼重は自害し、北條時行による鎌倉奪還はわずか20日間の夢に終わった。 足利尊氏はその後、後醍醐天皇の上洛命令を聞かず鎌倉に居座り、 征夷大将軍を自称して公然と建武政権に反旗を翻したのである。このことが南北朝時代の契機となる。 言い換えれば、諏訪氏および海野氏を含む滋野一党が起こした中先代の挙兵が南北朝内乱の動機になり、 海野氏は南北朝争乱の幕開けの主要メンバーになったことになる。 敗走した北條時行軍の海野氏の一部は安部奥に逃れ安部城の狩野貞長に従ったと考えられる。
中先代の乱を鎮圧し鎌倉を奪還した足利尊氏は度重なる朝廷の帰還命令にも従わず、鎌倉にとどまっていたので、 朝廷は足利尊氏を朝敵とみなして、新田義貞を総大将とする討伐軍を派遣。 しかし新田義貞は大敗し、勢いに乗じた足利尊氏は京都へ攻めのぼり、いったんは京都を陥落させる。 朝廷軍の反撃で足利尊氏は九州へ撤退したがまた再び勢力を盛り返し入京。 建武3年(1336年)、後醍醐天皇は吉野に逃れ、足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁立。 一方後醍醐天皇は吉野にて朝廷を開設。 世人はこれを評して、吉野朝廷を南朝、京都朝廷を北朝と称し、南北朝時代といい、以後、元中9年(1392年)までつづき、 足利義満が武家勢力の統合を背景にして事実上の南朝解消に成功して南北朝時代が終わる。
正平6年(1351年)、観応の擾乱により北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂し、激しい戦いを繰り返していた。 足利尊氏は南朝と和睦し、鎌倉の足利直義を攻撃する。 翌正平7年(1352年)、足利尊氏足利直義を降伏させ、鎌倉に入った。 足利直義は2月に急死したが、『太平記』によれば足利尊氏による毒殺であると記している。 南朝方の北畠親房は、北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる。 閏2月、新田義貞の遺児新田義興新田義宗は、鎌倉奪還を目指し、 従兄弟の脇屋義治や南朝に降伏していた北條時行らとともに、上野国で挙兵。 また同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で挙兵。 神家と記されている諏訪氏、高梨氏、仁科氏、伴野氏(友野氏)、祢津行貞(祢津小二郎)滋野八郎(繁野八郎)尾沢八郎(矢沢八郎)らが宗良親王の味方をしている(『信濃勤王史』により)。 南朝方には諏訪氏、金刺氏、香坂氏、知久氏、仁科氏、藤沢氏、西牧氏、海野氏、祢津氏、望月氏、保科氏などの諸族が与し、 北朝方には小笠原氏、村上氏、大井氏、伴野氏、高梨氏、中野氏、市河氏らが与しています。 高梨氏や伴野氏は北朝方に与していた豪族ですが宗良親王に味方し、市河氏も後に南朝方に与しています。 滋野一族は結束して南朝方であることがわかります。 閏2月15日、足利尊氏ら北朝方の軍勢と、新田義興新田義宗ら南朝方の軍勢との間で武蔵野合戦が行われた。 双方とも相当の損害を出したといわれているが、足利尊氏は鎌倉を出て武蔵国石浜(東京都台東区)に撤退し、勢力の回復をはかり、 武蔵国狩野川に布陣し、南朝勢を迎え撃つかまえを見せた。 海野幸康は、宗良親王に従って碓氷峠を通り笛吹峠(埼玉県嵐山町-鳩山村の境界峠)に布陣(『群書類従』では海野善幸)。 新田義興ら南朝勢は、鎌倉街道を南下。南朝勢には、足利尊氏に反発する足利直義派の武将も多く参加したといわれる。 南朝勢は閏2月18日にいったん鎌倉を占領。 新田義宗は笛吹峠(埼玉県嵐山町)に陣を敷き、宗良親王ら信濃勢や、足利直義派であった上杉憲顕と合流。 足利尊氏宗良親王軍と新田義興軍とを分断する作戦をとり、 閏2月20日、金井原(東京都小金井市)および人見原(東京都府中市)にて足利尊氏勢は新田義興軍と合戦を行い新田軍を撃破。 新田義宗は越後方面へ敗走。足利尊氏は兵力を整え、 閏2月28日、高麗原(埼玉県日高市)・入間河原(埼玉県狭山市)・小手指ヶ原(埼玉県所沢市)で合戦となったが、 足利尊氏勢が勝利し、笛吹峠に布陣していた宗良親王は信濃方面に落ち延び、香坂高宗に庇護され大河原城に滞在している。 海野幸康足利尊氏軍と戦い(笛吹峠合戦で)、大敗して戦死。 『太平記』では祢津小二郎(祢津小次郎)の剛勇ぶりが記されている。 一方、南方に脱出していた新田義興脇屋義治北條時行は三浦氏の支援を受けて鎌倉に入るが、 持ち堪えられないと判断したため3月2日、鎌倉を脱出し、相模国河村城(神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もった。 3月12日、足利尊氏は鎌倉を奪還している。
海野幸康には長男海野幸遠がおり、海野幸遠海野幸永海野幸昌海野幸信とつづき、 海野幸信が二十九代海野氏当主となっている。 海野幸信には長男海野幸則(海野左近将監則幸)、次男海野幸義(海野兵庫頭善幸)、三男岩下幸忠(岩下豊後守)がいる。 岩下幸忠には長男岩下幸久、次男金井貞幸がおり、金井貞幸が金井氏の祖とされている。 岩下氏から横尾氏などが分家している。
応永7年(1400年)、足利氏に頼んで宿願の信濃守護を拝命した小笠原長秀であったが、衆目を驚かすばかりの都風のきらびやかな行列を整え、 伊那勢200余騎を従えて川中島を練り歩き、守護所のあった善光寺に入る。 信濃の武士たちが進物を捧げて伺うも、小笠原長秀は尊大でろくな挨拶も返さず、腹に据えかねた各地の豪族たちは、 早速協議のうえ、北信濃の村上氏を旗頭に、高梨氏、島津氏、井上氏、海野氏、祢津氏、仁科氏、香坂氏、諏訪氏、その他の豪族を加えた大連合を組織して、 善光寺から討って出た小笠原長秀勢と横田河原で戦い勝利する。 更埴地域で強大化しつつあった村上満信の当知行地に対する守護小笠原氏の圧力への反発が発端ともいわれている。
つづいて大塔城(長野市篠ノ井)を攻め落とし、小笠原長秀はほうほうの体で京都へ逃げ帰った(『東部町歴史年表』により)。 これを大塔合戦といい、海野幸永海野幸昌父子は祢津遠光を大将として、 会田氏、岩下氏、大井氏、光氏、田沢氏、塔原氏、深井氏、土肥氏、矢島氏らを率いて村上満信に与し、 守護小笠原長秀に反乱し、勝利している。 『大塔物語』には祢津遠光の配下として、桜井氏、別府氏、小田中氏、横尾氏、曲尾氏、実田氏などの武士たちの名も記されており、 「実田」は真田氏のことで、この当時の真田氏は、横尾氏や曲尾氏らと並ぶ山間の小土豪にすぎなかったことが分かる。
なお、大塔合戦では村上満信が国人衆の指導的な役割を果たし、以後大いに勢力を振るい北信濃一帯を制覇したところを見ると、 当時村上氏がいかに強力な名門土豪であったかが窺い知れる。
海野幸義には長男海野幸数、次男海野持幸がいる。
かつてから室町幕府の将軍足利義教と不和であった関東公方足利持氏は幕府に反抗を企てていた。 しかもこれを諌めた関東管領上杉憲実を討とうとしていたため、永享10年(1438年)に足利義教足利持氏討伐を決行。 足利持氏を追い詰め鎌倉の永安寺にて自害させている。 これを永享の乱といい、足利持氏側に味方した結城氏朝(結城七郎)足利持氏の遺児二人を引き取り養育し、 やがて遺児を擁立して名城といわれる結城城に籠り、幕府に反旗を翻す。 永享12年(1440年)、幕府は上杉憲実らを派遣し諸国の軍勢を徴収して結城氏朝を攻め、結城氏朝はよく防戦するが、城を枕に討死。 擁立された足利持氏の遺児たちも捕らえられ美濃国において斬首されている(『東部町歴史年表』により)。 これを結城合戦といい、海野幸数は結城合戦にて守護小笠原氏の指揮下で、結城氏朝と戦い勝利している。 信濃の雄である村上頼清に従って出陣した武将の中には、 真田源太郎真田源五郎真田源六郎の名が記されている(『結城陣番帳』により)。
海野持幸1425〜1467年

海野信濃守ともいう。
海野幸義の次男。
宝徳元年(1449年)には海野持幸が鎌倉で元服し足利持氏より一字「持」を賜っている。 『諏訪上社御符礼之古書(新編信濃史料叢書)』によれば、海野持幸は宝徳元年(1449年)に海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。 応仁元年(1467年)、海野持幸村上政清と戦い戦死している。
応仁元年(1467年)の村上政清との境界争いが原因で合戦となり、海野持幸が戦死し大敗北して以来、 塩田平までも村上氏に制圧され、村上氏は戸石城を築城し海野氏を牽制。 村上氏に圧迫され海野氏はしだいに衰亡していき、 西上州の国人衆も海野氏の支配下を離れ、関東管領上杉氏勢力下の箕輪城主長野氏の支配を受けるようになっていった。 海野氏の勢力圏はしだいに狭められ衰亡期といっても過言ではない。 この時期、海野氏の支配圏は海野郷を中心にして、 西は芳田や深井周辺、東は祢津の東側一帯の別府氏支配地域まで。北は鳥居峠付近の西上州境界付近の祢津氏所領まで。 南は千曲川付近の小田中氏所領までとされている。 この範囲内での海野氏支配の規模を江戸時代の石高に換算すると、1〜2万石と考えられている。 被官の国人衆の領地を除いた海野氏の直轄領地は、延徳元年(1489年)の諏訪上社御符札の古書によれば、 東は東上田・海善寺・海野本郷、西は樋の沢・房山・踏入、北は小井田・林、南は千曲川までとされている。 庶子である海善寺氏や太平寺氏の一族を代官として従え、さらに深井氏、小宮山氏、今井氏、平原氏、岩下氏らを被官として これらの地域を支配していたという。
天正10年(1582年)10月に北條氏直祢津昌綱に宛てた文書(『禰津文書』)には、 徳川氏から北條氏へ寝返れば、海野氏の旧領4000貫を宛て行うと申し送っていることが明らかとなっている。 この文書からも海野氏の領地の規模が推測でき、4000貫を石高に換算すると(一貫二石四斗七升)、1〜2万石と予測できる。
海野持幸には長男海野氏幸、次男春原幸貞がいる。春原幸貞は春原氏の祖とされている。 海野氏幸は父海野持幸が応仁元年(1467年)に戦死してから家督を継承して 延徳元年(1489年)まで海野本郷の諏訪社頭役を勤仕している。
海野氏幸には長男海野幸棟、次男羽尾景幸がおり、羽尾景幸が羽尾氏の祖とされている。 羽尾景幸には長男羽尾幸世がいる。 羽尾幸世には長男羽尾幸全、次男羽尾幸光、三男羽尾輝幸、四男羽尾幸昌がいる。 羽尾幸全には長男羽尾幸次、次男羽尾仲次がおり、 羽尾幸次には長男羽尾景次羽尾仲次には長男羽尾仲正、次男羽尾昌重がいる。 羽尾幸光には長男羽尾重光、次男羽尾重照がいる。 羽尾輝幸には長男羽尾幸貞がおり、羽尾幸貞には長男羽尾幸勝がいる。 羽尾幸昌には長男羽尾昌元がおり、羽尾昌元には長男羽尾昌富がいる。
海野幸棟海野幸氏から家督を継承。 文亀3年(1503年)に夫人禅量大禅尼が没したため、永正元年(1504年)、夫人のため興善寺の開基となる。 海野幸棟は大永4年(1524年)に没している。戸石要台寺(陽泰寺)に墓所がある。
海野棟綱1492〜1563年

海野信濃守ともいう。
海野幸棟の長男。
大永4年(1524年)に父海野幸棟が死去したため家督を継承。三十六代海野氏当主となる。 大永4年(1524年)7月16日付けの高野山蓮華定院宛ての宿坊定書に署判している。 また、大永7年(1527年)4月20日付けの海野棟綱の宿坊定書と、 天文10年(1541年)の海野棟綱家老深井棟広の書状が残っている。
坂城の村上義清が次第に勢力を広げ、さらに甲斐の武田信虎が国内統一を遂げて、 信濃の佐久へ侵略をはじめるにいたって、滋野一党の前途に翳りが見えはじめていた。 天文10年(1541年)、海野一族が武田信虎諏訪頼重村上義清の連合軍に攻撃された海野平合戦で敗北し、 嫡男海野幸義は神川で奮戦するも戦死してしまい、海野棟綱は上州へ逃亡、関東管領上杉憲政に救援を求めている。 祢津氏は滋野一族でありながら諏訪氏とも親戚となっており、降伏を許されている。 また、矢沢氏も諏訪氏の一族であるという理由で許され、辞を低くしてその命に従いようやく滅亡を免れている。 上州へ逃亡した海野棟綱長野業政麾下となっていた滋野一族の羽尾家に厄介になっている。 海野棟綱のここまでの動きは確認できるのだが、その後の消息は全く途絶えてしまう。 羽尾幸光とその弟羽尾輝幸が海野姓を許されたことが海野棟綱に何だかの関係があるとされている。 羽尾幸光海野輝幸兄弟や宗家正統とされる海野業吉真田幸隆に従い上州で活動していることが鍵となるかもしれないが、 海野宗家は完全に没落し去ってしまったともいえるだろう。
天文10年(1541年)に高野山蓮華定院に深井棟広(深井右衛門尉)名義で「…(上略)…御書中のごとく、不慮の儀をもって当国上州へ 海野棟綱罷り除かれ、山内上杉憲政殿様へ本意の儀頼み奉り候間、急度還住いたさるべき由存ずるはかりに候…(下略)…」と書簡を送っている。 おそらく海野棟綱上杉憲政の力ですぐに領土を取り戻し帰還できると確信していたのだろう。 しかし依頼に応じて上杉憲政は信濃へ出兵したが、すでに武田信虎村上義清も引きあげており、 長窪まで出陣するが諏訪頼重としばらく対陣したのち、諏訪頼重の巧妙な交渉で和議となり、 なすこともなく上野国へ退きあげている。 このため海野棟綱の還住の望みは断ち切られてしまった。 永禄6年(1563年)に長野原合戦で武田方と戦い討死したという説や、箕輪城で傷心のうちに病没した説などもあるのだが定かではない。
法名は瑞泉院殿器山道天居士。小県郡海野興禅寺に葬られている。 高野山の一心院谷にある蓮華定院は、古来より小県郡や佐久郡を檀郡とした寺院で、海野氏が宿坊としている。 真田氏も厚誼を深めており、海野氏関係の往復文書などを多く蔵している。 真田昌幸が関ヶ原合戦の咎めにより高野山山麓の九度山の地に流刑に処せられたのも、海野氏の蓮華定院との交誼と無縁ではないと考えられる。
海野棟綱には長男海野幸義(海野左京太夫)、次男海野幸貞(海野三河守)、三男海野幸直がいる。 海野幸義は天文10年(1541年)に武田信虎諏訪頼重村上義清の連合軍に攻撃された海野平合戦で敗北し、 戦死している。享年32歳。上田の市街地を抜けて、国道18号線を東京方面に向かうと、やがて神川を渡る。 橋際に蒼久保という信号機があり、丁字路になっていて、角には段丘につづく崖がある。崖は高い樹木に覆われているが、 その林のなかには海野幸義戦死の遺跡が残っている。碑には海野幸善とあるが一般的には海野幸義と称されている。
海野幸義には長男海野業吉(海野左馬允)がいたとされている。 天文10年(1541年)に海野一族が滅亡すると祖父海野棟綱とともに上州上杉憲政を頼みにしていたが、 真田幸隆が海野一族の名のもとに小県の旧領を回復すると、真田幸隆を頼って武田家に臣従。 海野家正統ともされているが、以後真田家に従って上州へ参戦している。岩櫃城攻略に大きく貢献したという。
白鳥神社系の『海野系図』で海野幸義の弟として海野幸貞(海野貞幸)海野幸貞の長男海野幸直(海野小太郎)が記されている。 永禄10年(1567年)8月、武田領の家臣団が武田晴信に提出した起請文には海野氏関係として、 海野幸貞(海野三河守)の単独のもの、海野直幸(海野信濃守)海野幸忠(海野伊勢守)海野信盛(海野平八郎)の連名のもの、さらに「海野被官」として桑名氏、塔原氏ほか5名連記のものと、 「海野衆」として真田綱吉(真田幸隆の兄)、神尾房友ほか12名連記のものがある。 海野衆の中には海野幸義嫡男海野業吉(海野左馬允)の名も見えている。 こうした衆で提出したものは他にもいくつかあり、その実態は地縁によって結合していた地侍集団とされている。 つまり海野業吉にしても、この段階では単独で提出するような状況にはなく、 真田綱吉常田綱富(常田隆家次男)、金井房次下屋棟吉(常田隆家三男)、神尾房友ほかの一族や 奈良本氏、石井氏、桜井氏などの地縁関係のものと同列でしかなかった。 ついで海野幸貞単独のものと「海野被官」5名連記のものであるが、その宛名はともに跡部勝資であって、 これは上野国の海野氏とみる研究もあるが、 永禄12年(1569年)10月12日付けの武田信親(武田龍宝)朱印状による軍役定書の宛名は海野衆である 海野幸忠(海野伊勢守)海野幸貞(海野三河守)の連記となっており、 小県郡の海野氏とみる従来の見解でよいと思われる。 残る海野幸忠海野信盛については、海野幸貞の次男と三男とされているが、確かではない。 海野幸貞と連記されている点からみても有力な海野一族と思われる。 傍系かも知れないが、なお数家の海野氏が存続していたことを示すものであろう。
また、海野棟綱の三男海野幸直に関しては定かではない。