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小助の部屋/滋野一党/祢津滋野氏

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祢津氏は、祢津城を拠点として勢威を張っていた豪族。 海野氏、望月氏、祢津氏の三家は滋野三家と呼ばれ、東信地方では真っ先に指を折られる名門だった。 滋野三家は血統のよさにあこがれた各地の豪族と結びつくことによって、信州から上州にまで支族、分流をひろげた。 「海野平で禰津見れば 禰津は信濃の京じゃもの」という里謡がうたわれたのは、一門の繁栄と、 豪華な生活を語るものであろう。 滋野一族は、雅やかな遊びごとなどで日をすごす人たちではなく、それぞれ武門の誉れを尊んだ。 曽我兄弟の仇討ちで源頼朝の富士裾野の巻狩りには滋野三家もこぞって参加したし、 朝廷と北條幕府との間に起こった承久の乱や、南朝再興に信越の野で奮闘した宗良親王の陣にも進んで加わった。 ことに祢津氏は鷹匠の技を伝えて、多くの武家に珍重がられた。
天文14年(1545年)正月、祢津信直(祢津美濃守)のときに、武田氏に降伏し、 後に徳川家康に仕え、長野県碓氷郡豊岡にて1万石の大名となった。 寛永2年(1625年)、祢津忠直(祢津甚平)のとき、嫡男がなく断絶、分流が各大名に仕えることで血筋は保たれている。
祢津通直*1102〜*1160年

祢津道直、根津道直、禰津道直、直道、小二郎、小次郎ともいう。
望月則重(海野則重)の次男。
滋野三家といわれる海野氏、祢津氏、望月氏のなかで、祢津氏がいつはじまったのかについては、 海野幸恒の次男祢津直家(祢津小次郎真宗)からはじまるというのが通説とされてきている。 祢津直家祢津直真祢津直盛祢津直長祢津直勝祢津直則祢津直廣とつづくというが、 定かではない。 祢津氏の系図としては、『信州滋野氏三家系図』『海野氏系図』『滋野朝臣姓』などがある。 これらの系図からは、海野則重(望月太郎)の孫が祢津を称しており、祢津道直(祢津小次郎)と名のったという。 望月則重の次男が祢津通直であり、祢津通直から祢津氏がはじまったともされている。 『諏訪大明神画詞』によれば、祢津道直の長男祢津貞直が諏訪の大祝貞光の猶子となることで縁戚を結び、神氏となっており、 祢津神平と称したとも記されている。 また、神氏となったことにより、諏訪郡内に一庄を領有し、保元の乱や平治の乱に出陣したともされている。 このように祢津氏は古くから神氏を名のっており、神氏を名のる氏人が交代で勤仕するという神使御頭を、祢津氏が勤仕した記録が応永4年(1397年)のものとして残っている。
天文10年(1541年)に武田信虎村上義清諏訪頼重が小県郡に攻め込んだときに、 滋野三家の本家ともいえる海野氏が滅亡しているなかで、 祢津氏が諏訪氏の縁戚(神氏)ということで許されていることが、『諏訪大明神画詞』からもうなづける。
『吾妻鏡』によれば、建久元年(1190年)から建久6年(1195年)にかけて、祢津貞直の長男祢津宗直祢津宗直の長男祢津宗道の名を散見することができる。 祢津氏の所領については、『御符札之古書』から室町中期の所領を確認することができる。 『御符札之古書』によれば、祢津氏の直轄領を祢津氏の居館から別府、新張、田中郷にかけてと記されている。 祢津田中、祢津小田中、大石、桜井、芝生田の五つの郷を祢津氏の被官が領していることが分かる。 祢津田中、祢津小田中、大石、桜井、芝生田の五郷は浦野氏、金屋氏(出浦氏)、岡村氏、桜井氏、芝生田氏ら代官が領してる。 また群馬県吾妻郡嬬恋村には祢津氏被官の浦野氏や金屋氏、岡村氏なども散見でき、祢津から地蔵峠からつづいていることからも、 祢津氏の所領は、西は三分川上流部から田中郷にかけて、南は千曲川まで、東は深沢の渓谷まで、北は地蔵峠を越えて 群馬県吾妻郡嬬恋村までの広範囲であったことが予想できる。 この当時は、海野氏にしても、望月氏にしても、そしてまた祢津氏にしても相当広範囲の領土を支配していたことが分かる。
祢津宗直には長男祢津宗道、次男大塩盛貞、三男浦野貞信、四男春日貞親、五男祢津貞行がいる。 祢津貞行は横田河原合戦で木曾義仲に従い戦っている。 治承4年(1185年)、以仁王の令旨を受け、源頼朝挙兵の約1ヶ月後に平氏討伐の旗を木曾山中で上げた木曾義仲には祢津氏をはじめ滋野一族の多くが従っていた。 祢津貞行の流れから香坂氏も別れており、信濃香坂氏の祖とされる香坂宗清から香坂宗敦香坂宗実香坂宗義香坂宗義香坂宗重とつづき、 香坂宗重の次男香坂宗邦から長男香坂高宗香坂宗久へとつづいている。香坂宗久が伊那香坂氏の祖とされている。 香坂宗邦の次男香坂高行からは香坂宗継香坂宗種香坂有宗香坂忠宗香坂宗利香坂宗重香坂宗親香坂宗直香坂宗政へとつづいている。 祢津宗道には長男祢津敦宗、次男祢津宗俊、三男祢津重能がいる。 祢津敦宗には長男祢津宗光がおり、祢津宗光には長男祢津光長、次男祢津盛宗がいる。 祢津光長には長男祢津重総、次男祢津光義、三男祢津助義、四男祢津助長、五男祢津長重がいる。
家督は祢津光義から祢津光義の長男祢津重綱祢津重綱の長男祢津光頼へとつづく。 祢津重綱には長男祢津光頼以外に、次男祢津頼直、三男祢津助頼がおり、 祢津頼直の長男祢津行貞に家督は継承されている。 祢津頼直には長男祢津行貞、次男祢津宗直、三男祢津時直、四男祢津長泰がいる。 家督は祢津長泰の長男祢津泰綱へとつづく。祢津泰綱には長男祢津氏直、次男祢津貞幸、三男祢津宗直、四男祢津貞信がいる。 祢津氏直には長男祢津貞高、次男祢津遠光がいる。祢津遠光には長男祢津遠貞がいる。 家督は祢津氏直から祢津貞高へつづき、祢津貞高からは祢津時貞祢津信貞祢津光直祢津覚直へとつづいている。 祢津光直には長男祢津覚直、次男祢津貞政がおり、祢津貞政の流れは祢津貞政祢津政行祢津貞弘祢津貞長へとつづいている。 家督は祢津覚直から長男祢津親直へとつづいている。
祢津遠光1375〜*1430年

禰津遠光、祢津越後守、越後入道ともいう。「大文字一揆」の盟主。
祢津氏直の次男。
鎌倉時代以降、祢津氏の史料は見当たらなくなるのだが、南北朝時代にいたると、祢津氏の活躍は史料上で確認されるようになる。 信濃国は、鎌倉時代のほぼ全期間を通じて北條氏が守護職を独占しており、鎌倉時代が終焉を告げた後も「中先代の乱」に信濃の御家人が主戦力となるなど、 北條氏の勢力が強い地域であった。 そんな中にあって、もともとは甲斐の加賀美氏から分かれ信濃各所に勢力を保持していた小笠原氏は、 早くから足利氏に加勢し、建武2年(1335年)に小笠原貞宗が信濃国守護に任命されている。 しかし「中先代の乱」により信濃の管理は幕府に移されてしまっていた。 延元3年/暦応元年(1338年)の頃になると、 新田義貞新田義重に属して越前国を中心に北陸路で祢津助頼(祢津掃部助)祢津時直(祢津越中守)らの活躍が見れる。 観応元年(1350年)、観応の掾乱では、祢津行貞(祢津小次郎)祢津宗直(祢津孫次郎)足利直義に与して戦い、 のちに足利義詮に出仕している。
その後、長くつづいた南北朝の争いでは、小笠原氏は北朝方として戦い、足利将軍家から信濃守護家として遇されることとなり、 応永6年(1399年)には念願の信濃守護に再び補任されている。 応永7年(1400年)7月3日、京都を発した小笠原長秀は北信の中心である善光寺に入り、 信濃の国人領主たちを召集し対面。このときの対面は、相当に高圧的なものだったと伝えられている。 そしてちょうど収穫の時期となっていた近隣の川中島で、小笠原長秀は守護の支配地と称して独断で年貢の徴収を開始する。 川中島は地元の有力国人領主村上氏の支配地であり、守護の一存で所領が左右されることは国人領主にとっては許しがたいこと。 多くの国人領主たちを反小笠原に決定づけることとなった。 こうして応永7年(1400年)、更級郡篠ノ井西方で信濃守護小笠原長秀と東北信の連合軍(大文字一揆)が戦うこととなる。 守護小笠原長秀に反旗を翻したのは、村上氏のほかに中信濃の仁科氏、東信濃の海野氏や祢津氏をはじめとする滋野一族、 北信濃の高梨氏や井上氏など大半の国人衆で、 小笠原氏に加勢したのは一族以外では元々地盤としていた南信地方を中心とした一部の諸氏だけだったとされている。 また小笠原一族内でも、小笠原長秀の高圧的な態度に反発して参陣しなかった者が続出したとされている。 のちに仲介役となる大井光矩など、ほぼ半数が加勢しなかったとされている。 上田市立博物館所蔵の『大塔物語』『信州大塔軍記』『市河文書』『上田小県誌(歴史編上(昭和55年上田小県教育委員会発行))』によれば、 小笠原長秀のもとに集まった小笠原勢は市河頼房をはじめ800騎余り(市河頼房が将軍から受けた「足利義満感状」「市河興仙軍忠状」など参照)で、 対する国人衆(大文字一揆)は、篠ノ井の岡に500余騎(村上氏)、篠ノ井塩崎上島に700余騎(佐久地方の国人衆)、 篠ノ井山王堂に300余騎(海野氏)、篠ノ井二ッ柳に500余騎(高梨氏、井上氏など須坂や中野地方の国人衆)、 方田ヶ先石川に800余騎(仁科氏、祢津氏など大文字一揆衆)が布陣したとの記載がある。 『大塔物語』では、大文字一揆衆の大将の一人として祢津遠光(祢津越中守)の名が見られ、 祢津美濃入道祢津宮内少輔祢津貞幸(祢津淡路守)祢津宗直(祢津右京亮)祢津貞信(祢津上総守)らの名が記されている。 海野氏は、会田氏、岩下氏、大葦(大井)氏、飛賀留(光)氏、田沢氏、塔原氏、深井氏、土肥氏、矢島氏らの氏族連合を率い、 祢津氏は、三村氏(三村種貞)、桜井氏、別府氏、浦野氏、実田(真田)氏、横尾氏、曲尾氏らを率いていたという(「大文字一揆注進状」など参照。)。
実数は4000弱の小笠原勢に対して国人衆は1万以上の兵力だったと推定されている。 この状況に横田城では防ぎきれないと判断した小笠原長秀は、一族の赤沢氏の居城である塩崎城への脱出を目指す。 9月24日に四ノ宮河原や大塔で戦いが起こり、 塩崎城に辿り着けたのは小笠原長秀以下わずか150騎のみで、300騎余りが途中の大塔の古砦に取り残されることになる。 しかし、食料をはじめ何も準備していない古砦(廃城)では籠城するすべもなく、 大塔の古砦に逃げ込んだ小笠原勢は全員討死している。 更に小笠原長秀が逃げ込んだ塩崎城も攻撃を受け大敗。 同族で守護代の大井光矩が仲介の手をさしのべ、大井光矩の和睦斡旋もあったことで辛くも窮地を脱し、小笠原長秀は京都へ逃れている。 諏訪の神氏は直接には参戦していないが有賀氏、上原氏、矢崎氏、古田氏らが代理として参戦している。
永享2年(1440年)の結城合戦では祢津遠江守が参加したと記されており、『結城戦場別記』には祢津伊豆守の功名が記されている。
『御符札之古書』などからは祢津信貞などの動向を見ることができ、 宝徳元年(1449年)には祢津信貞(祢津上総介)が宝徳院を開創している。 長禄2年(1458年)には祢津光直(祢津宮内少輔)の名が、 寛正元年(1460年)には祢津光直(祢津宮内少弼)の名が、 文明3年(1471年)には祢津光直(祢津宮内大輔)の名が記されている。 長享元年(1487年)には祢津覚直の名が記されている。 神御使頭として延徳元年(1489年)や享禄3年(1530年)、天文6年(1537年)、天文12年(1543年)に勤めたと記されている。

祢津元直1495〜1575年

禰津元直、根津元直、祢津常安斎、宮内大輔、宮内太輔、甚平、甚兵衛、神平、神兵ともいう。
祢津親直の長男。
天文10年(1541年)、祢津元直武田信虎に攻められ軍門に降ったという説があるが、 諏訪頼重と縁戚関係にあったことから攻められなかったという説もある。 いずれにしても、諏訪頼重と縁戚関係にあったことから祢津元直矢沢頼綱はともに許され、 領土を安堵されている。 祢津元直には長男祢津勝直、次男祢津政直(祢津宮内少輔)、三男祢津信忠がいたとされているが、 父祢津親直や長男祢津勝直は天文10年(1541年)の海野平合戦で討死したもされている。 いずれにしても祢津勝直が早世しているため、次男祢津政直が家督を継承している。 海野平合戦のとき祢津政直は25歳で、真田幸隆とともに上州へ逃れたという説もあるが、 祢津元直が許され軍門に降っているので信じがたい。 祢津元直の娘(妹とも)祢津殿武田晴信の側室となっており、武田信清を生んでいる。 このことからも、祢津氏は滋野一族のなかでもいち早く武田氏に仕え、祢津殿武田晴信の側室にすることで、 親族衆として地位も上昇していったものと思われる。
天文14年(1545年)正月には祢津氏は武田晴信の麾下に加わり、諏訪攻めにも出陣したという。 諏訪氏の縁戚として天文10年(1541年)に諏訪氏に与していたとしたら、 天文11年(1542年)に諏訪頼重武田晴信に攻められたことにより武田氏に反旗を翻し、一時的に独立し、 徐徐に圧力が強まるなかで耐えきれず天文14年(1545年)に臣従したということも考えられる。
祢津親直には長男祢津元直、次男祢津是広がいる。 祢津元直には長男祢津勝直、次男祢津政直、三男祢津信忠がいる。 祢津信忠には長男祢津信光(祢津昌綱)、次男祢津信政、三男祢津幸直(祢津助衛門尉)がおり、 祢津信光(祢津昌綱)には長男祢津信秀、次男祢津貞盛がいる。 祢津信秀には長男祢津信重、次男祢津直次、三男祢津直方がいる。 祢津信政には長男祢津政次、次男祢津信直がいる。 祢津幸直には長男祢津幸豊、次男祢津直方がいる。祢津幸直矢沢頼康の娘婿。 祢津幸直は真田氏の親族衆として矢沢頼綱と行動をともにしている。 天正10年(1582年)以降徳川氏についた真田氏は、北條氏邦の大軍により沼田領の諸城を次々と攻められており、 これに対して城代矢沢頼綱ほか、矢沢頼康の娘婿祢津幸直北能登守金子綱重恩田能定らの沼田衆が善戦し、 3日にわたる激戦の後に、北條勢は兵を引いている。 天正17年(1589年)11月、真田昌幸家臣団の知行宛行いで、岩下郷と田沢郷50貫とある。 祢津幸直の長男祢津幸豊は沼田真田家臣として名が残り、祢津幸直の次男祢津直方は松代真田家臣として名が残っている。
天文20年(1551年)、祢津元直祢津信忠らは真田幸隆に従い、戸石城攻略において戦功をあげている。 祢津元直真田幸隆とともに永禄6年(1563年)には岩櫃城攻めにも従軍し活躍。 1500石を加増されたという史料もある。 永禄10年(1567年)には上州の箕輪城の在番をつとめ、武田晴信から上州小鼻の郷地を賜っている。 永禄10年(1567年)8月、祢津元直武田晴信に下之郷起請文を提出している。起請文は生島足島神社に貯蔵されている。 天正3年(1575年)、祢津信忠祢津政直の長男祢津月直は長篠合戦で討死してしまう。 そのため信濃国の本領を祢津元直の三男祢津信忠が継ぎ、祢津信忠の長男祢津信光(祢津昌綱)が譲り受けている。 祢津元直は隠居している(一説には祢津元直は長篠の合戦で討死)。 その後、どういうわけか祢津氏は真田氏と不仲になるが、真田昌幸の代には真田氏に屈して、 真田氏は小県郡を平定し、小領ながら独立を果たしていく。 家督を甥に譲った祢津政直は庄内(更科郡)に1000貫文を拝領したという。 父祢津元直戦死後(長篠合戦後)に出家し、入道して祢津松鶴軒と号したといわれている。 武田晴信への起請文のほか、永禄10年(1567年)11月には、 上野箕輪在城の賞として武田晴信から知行を受けている。 さらに元亀3年(1573年)7月晦日づけの武田氏竜朱印状による小県郡内での分国追放人の捕縛命令状の宛名人の1人としてもみられており、 本領祢津にあって真田氏と同じく武田氏の西上野侵攻の先兵を勤めていた。 一旦出家していたが、弟祢津信忠の次男祢津信政の後見人となり、 天正11年(1583年)9月28日に、同日づけで分家祢津信光(祢津昌綱)とは別に徳川家康から知行宛行状を与えられており、 この祢津信政の系統が上野国富岡藩主になっている。祢津信政真田幸隆の娘婿であり、真田氏にいち早く属すようになる。
天正10年(1582年)の織田信長による甲斐侵攻に際しては、飯山城守将として織田軍に対抗。 越後国の上杉景勝に援軍を求めている。 武田氏が滅亡すると徳川家康に従い、 天正11年(1583年)9月には徳川家康から甲斐国黒沢、駿河国厚原にあわせて350石の知行地を賜っている。 天正17年(1589年)の吾妻合戦に出陣。徳川家康に近侍し、上野国豊岡の地を拝領している。 祢津元直の娘祢津殿が生んだ武田信清は、武田氏滅亡のときには姉婿の上杉景勝の庇護を受け、 上杉氏が越後国から陸奥国の会津へ、さらに米沢へと移封されるのに従い、子孫は代代存続し現代にいたっている。 武田信清は越後国のときには3000石、会津では3300石、米沢では1000石を知行している。 慶長6年(1601年)には上杉景勝の命により武田氏を再興し、武田家代代の名称である大膳大夫を少子、諸役御免の高家として侍臣の上位に遇されたという。
家督は祢津信忠の長男祢津信光(祢津昌綱)が継承していたが、上州豊岡の地は祢津信忠の次男祢津信政が継承している。 慶長7年(1602年)には5000石の加増があり、あわせて1万石となり大名に列している。 祢津信政の長男祢津政次は大阪の陣に出陣。祢津政次には嫡男がいなかったため、祢津信政の次男祢津信直(祢津一無斎)がその跡を継承。 小田原北條氏との戦に名が見える。関ヶ原合戦にも従軍していたとされるが確かではない。 寛永3年(1626年)に祢津信直も嫡男がないまま死去し、豊岡1万石祢津氏は断絶してしまう。
家督を継承し信濃国祢津の本領を領していた祢津信光(祢津昌綱)は、不和となっていた真田氏に仕えるようになり、 祢津信光の長男祢津信秀真田信幸に仕え、3500石の知行を受けたことが系図に記されており、 大阪夏の陣には信州上田勢の右備をつとめ出陣している。 なぜ真田氏と不和になっていたのかは、 武田氏滅亡後にいち早く徳川家康に従っていた。真田氏が北條氏を見限り徳川氏に属す頃には、 祢津信光(祢津昌綱)は逆に徳川氏を離脱し、北條氏に臣従している。 こうして当然徳川氏に与した真田氏は北條氏に与した祢津氏と戦っており、真田昌幸依田信蕃らとともに碓氷峠に出陣し、 甲斐若神子在陣中の北條勢の補給路を抑え、徳川勢を支援している。 祢津信光(祢津昌綱)は北條勢として真田氏と戦うが、結局、真田昌幸に攻められて徳川氏に再び属している。 真田氏はのちに徳川氏を離反し上杉氏につく。真田氏が第一次上田合戦で徳川軍を迎撃した天正13年(1585年)には、 祢津信光(祢津昌綱)は真田氏に臣従している。 すでに豊岡を継承していた弟の祢津信政は真田氏に従っていたので、 祢津信光(祢津昌綱)の祢津氏もようやく真田氏の家臣になったということになる。 真田氏がころころと鞍替えを繰り返していたことで、祢津氏も振り回されていたのだろうか。 祢津氏はこの時期、真田氏とほぼ同じような動きをしており、本領祢津では領主であり武田一族でもありながら、 真田氏のような際立った軍功がなかったため、相当な遅れをとり、最後は真田氏に臣従せざるを得ない状況にいたったといえる。 祢津信光(祢津昌綱)は第一次上田合戦のとき真田昌幸と碁を打っていた人物として諸書に登場する。
祢津信秀の長男祢津信重は、真田信幸から本領の3分の1の知行状を得て真田氏の家臣となっている。 祢津信秀の次男祢津直次は500石、三男祢津直方は200石を賜り、それぞれ真田家臣として子孫を残している。
『寛政系譜』によると、寛政年間には祢津光長(祢津定之進)祢津光利(祢津六郎右衛門)祢津光貞(祢津六左衛門)らの名が記されている。 家紋は丸に違鷹羽や花菱と伝えられており、祢津滋野氏との系譜的関係は定かではない。
祢津甚八郎貞盛1569〜1615年

祢津甚八、禰津甚八、根津甚八、小六、小六郎ともいう。
祢津信光(祢津帯刀左衛門昌綱)の次男。父親は大和絵師だったともいわれる。 真田十勇士の一人。祢津という姓から見ても、海野六郎兵衛望月六郎兵衛と同じく、 真田家の源流に属する一族である。 真田家には北條家との紛争の折、国境見極めの任を託された祢津幸直(祢津助衛門尉)のような重臣があった。 祢津信光の次男である祢津甚八郎自身、紛れもなく真田家譜代であり、信州の豪族、 祢津元直の親族である。祢津家は真田家とともに武田家臣として信州先方衆の一翼を担っていた。 武田晴信に娘を嫁がせるなど、滋野一党の中でも武田家臣としては割と格式も高い。 しかし、真田家が対村上家や上野侵攻に目覚しい活躍を見せる中、祢津家は忽ち真田家に遅れをとってしまう。 結局祢津家は真田家に従い、上野侵攻に加わることになる。祢津政直も真田家の重臣として上野侵攻で活躍を見せる。 祢津政直から家督を継承した祢津信光の次男祢津甚八郎は幼少時代から真田家と深い親交を交わしていたが、 この時期にはまだ祢津氏の方が真田氏より格式も高く、真田幸村の小姓として…というわけではなかったようだ。 長篠合戦後、祢津政直は出家している。幼かった祢津甚八郎もともに出家したともいわれているが、実は祢津甚八郎は真田家臣として真田昌幸に仕えたようである。 祢津甚八郎が父とともに旅に出て海賊になった話はここから始まったのだろう。武田氏が滅亡し、父祢津信光は真田氏と不和になっていたのだが、 祢津甚八郎真田昌幸に従っている。
天正10年(1582年)真田昌幸に従い上野国で北條家と戦う。14歳で初陣となる。
天正11年(1583年)真田昌幸に従い埴科郡虚空蔵山城にて上杉景勝軍と戦う。 祢津甚八郎はこれを打破るなど、大いに活躍し戦功をたてる。僅か15歳ながら祢津甚八郎は野戦では群を抜く豪勇を誇っていた。
天正13年(1585年)矢沢頼綱に従い上野国で北條家と戦い、上野国沼田城を守る。
天正14年(1586年)徳川家と北條家との和議により、祢津幸直らは知行を信濃国内に切り換えられる。 祢津甚八郎も信濃国へ赴くことになる。真田家譜代の家臣でありながら、真田幸村とは全く別の行動をとってきたわけだが、 この頃より真田幸村の小姓たちと行動をともにし、郎党の仲間入りを果たす。 特に海野六郎兵衛と行動をともにすることが多くなる。
天正17年(1589年)真田幸村の小田原攻めに従軍。このとき21歳。
天正18年(1590年)真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに小姓らとともに従う。その後も真田幸村とは行動を供にする。 上杉景勝への人質でありながら、豊臣秀吉にも眼をかけられて豊臣信繁という名や左衛門佐の官位まで与えられた真田幸村が、 豊臣秀吉に九鬼水軍の情報を探ることを命じられて熊野灘に赴いた折、 祢津甚八郎自身が海賊の群に身を投じてその首領にまでのし上がったという。真田幸村の命で海賊に潜り込み調略を謀っていたともいわれているが、 いずれにせよ、海賊の出となれば、十勇士でただ1人の海の専門家である。祢津甚八郎は根来衆を率いることとなり、吹き矢を得意とした戦術で潮の中を縦横無尽に回ったという。 正規の海賊ではないが不正規戦の名手となった祢津甚八郎の存在は、強大な水軍を持つ徳川家康に対するには力強い味方となっただろう。 『真田三代記』では、九鬼水軍の動静を探りに出かけた真田幸村と出会い、 その器量に惚れ込んだ真田幸村祢津甚八郎を家臣に取り立てたとなっている。 野戦では群を抜く豪勇を誇り、海賊の首領までのし上がった勇猛な好漢というのが、人々の心をうったのではないだろうか。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。
関ヶ原合戦のとき32歳。関ヶ原敗戦後は、九度山から帰った海野六郎兵衛と連れだって奥州を探索する。 由利鎌之助とは喧嘩友達で、由利鎌之助に劣らず勇猛な好漢である。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村とともに大阪城へ入城する。祢津甚八郎45歳である。
元和元年(1615年)『真田三代記』によると、大阪夏の陣では穴山小助が総指揮を執る7人の影武者に加わり、 「火龍軍」と名づけた突撃隊を編成。穴山小助を筆頭に、伊藤団右衛門三浦新兵衛鵤幸右衛門林源次郎山田舎人木村助五郎望月六郎兵衛ら他の7人とともに波状攻撃を続けた後に、 最期の1人として奮戦した。自ら「真田左衛門佐幸村、ここに討死いたす」と呼ばわって徳川勢を蹴散らし、 加賀前田家の家臣本多安房守に討たれたという。壮絶な最期を遂げている。