小助の部屋/滋野一党/望月滋野氏
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望月氏は、滋野氏が信濃へ入部してくる以前の、古代から中世にかけて信濃国望月地方を本拠に、 佐久郡のうち千曲川頭部一帯を支配していた豪族であり、 望月滋野氏は、先代の望月氏と血縁関係を深めていき、望月牧監に任命され望月を治めていくことにはじまったという。
滋野貞主
の一族が信濃の国司に任ぜられ信濃へ下向して以来、
滋野恒蔭
が貞観10年(868年)に信濃の介に任命され(『日本三大実録』により)、
滋野善言
が貞観12年(870年)に信濃守となっており、
滋野善言
は信濃からの貢馬の駒牽きのことを司る役人として名を残していることからも、 滋野氏は信濃の守や介をつとめる理由もあって、代代『馬寮』と深い関係を持つ役職をつとめるようになっていったと思われる。 このことは必然的に信濃の諸牧とも強い絆で結ばれることとなり、 諸牧の代表的な望月牧や新張牧などの管理者であった望月氏や祢津氏およびその中間にあたる海野の豪族と血縁関係までもつようになったとも思われる。
天暦4年(950年)に望月牧監に任命され海野へ下向した
滋野恒信
が
海野幸俊
と改名しており、
海野幸恒
の長男
海野幸明
、次男
祢津直家
、三男
望月重俊
らが滋野一族として海野、祢津、望月を統治したという。
望月重隆
*1170〜*1220年
望月国重
の次男。
『滋野系図』によれば、
滋野貞雄
(
滋野貞主
の弟)の後裔という
滋野為道
の次男
滋野則重
が信濃佐久郡望月邑に住み、
望月太郎
を称したことにはじまるというが、
滋野貞主
の長男
滋野善蔭
から
滋野恒蔭
、
滋野善言
、
滋野恒成
、
滋野恒信
とつづいており、 天暦4年(950年)に望月牧監に任命され海野へ下向した
滋野恒信
が
海野幸俊
と改名しており、
海野幸俊
には長男
海野幸恒
がおり、
海野幸恒
の長男
海野幸明
、次男
祢津直家
、三男
望月重俊
が それぞれ祢津や望月に移り住み統治したという。
望月重俊
には長男
望月重真
、次男
矢野清重
、三男
布施重則
、四男
望月某
がおり、
望月重真
から
望月重盛
、
望月為家
、
望月為廣(海野為廣)
とつづく。
望月為廣
は海野を称しており、
海野為廣
には長男
海野為通
がおり、
海野為通
には長男
海野則廣
、次男
望月則重
がいる。
この頃になぜ望月氏が海野氏を称していたのか、望月氏の家督がその間どういう受け継がれ方をしたのかが定かではないが、
望月則重
には長男
海野重通
、次男
祢津通直(祢津小二郎)
、三男
望月廣重
がおり、
望月廣重
の長男
望月国重
へと家督は継承されていく。
望月国重
には長男
望月行重
、次男
望月国親
、三男
塩川重長
、四男
川上重安
、五男
小田切国綱
、六男
根井行親
がいるとされる。
川上重安
には長男
川上重氏
がいる。
根井行親
には長男
根井行長
、次男
根井行直
、三男
楯親忠
、四男
八嶋行忠
がいる。
望月国親(望月太郎秀包)
は治承4年(1180年)、
木曽義仲
挙兵に際して、長男
望月重忠
、次男
望月重義
、三男
望月重隆
らとともに従軍している。 養和元年(1181年)、
木曽義仲
は白鳥河原にて挙兵し、越後の
城助茂
の大軍と横田河原で戦う。
望月国親(望月次郎秀包)
は
海野幸広
らとともに滋野一族を率いて
木曽義仲
に従い横田河原の戦いに大勝する。
木曽義仲
に従った者たちのなかには、
望月国親(望月秀包)
以外にも、
根井行親(根ノ井幸親)
、
楯親忠(楯六郎)
、
矢嶋行忠(矢嶋四郎)
、
丸子秀資(丸子小忠太)
、
祢津泰平(祢津甚平)
、
桜井行晴(桜井太郎)
といった滋野一族が名を連ねている。
鎌倉時代初期における望月氏の勢力は、望月氏から海野氏を輩出していることからも分かるように、一族の海野氏や祢津氏をも圧倒するほどで、 佐久郡一帯と小県郡にまで勢力をおよぼし、軍備や経済ともに絶頂期であったという。
木曽義仲
が挙兵に際して滋野一族のなかでも、望月氏を丁重に迎え入れた最大の理由は、 望月氏が有する望月の牧の馬にあったともされており、1500頭の良馬を常時飼育放牧していたといわれている。 望月氏の有する良馬とその配下の動員力は、
木曽義仲
にとっては最大の魅力だったのだろう。
望月国親
の三男
望月重隆
は、寿永3年(1183年)に
木曽義仲
が鎌倉へ送った人質
木曽義高
に 随従してともに鎌倉へ赴いたという。
望月重隆
とともに
海野幸氏
も同行したとあり、
海野幸氏
は
木曽義仲
が没落し、 平氏も滅亡した後に、鎌倉幕府の御家人となっている。
木曽義仲
死後は望月氏も鎌倉に召しだされており、鎌倉御家人となって出仕し、本領安堵を全うしたという。
望月重隆
は文治4年(1188年)に、奥州の藤原征伐に望月一族を率いて出陣している。 『吾妻鏡』によれば、建久4年(1193年)4月には将軍
源頼朝
が下野国那須野や信濃国三原などに 狩倉、弓馬に達した狩猟の輩22人に、
望月重義(望月太郎)
や
藤沢清親(藤沢次郎)
らが選ばれたという。 武蔵国入間野における狩では
藤沢頼親
は百発百中で、まれにみる弓の名人と将軍
源頼朝
より賞言を賜ったという。 建久5年(1194年)には
安田義定
・
安田義資
父子が幕府に反したとき、鎌倉幕府の命により安田討伐に従軍している。 建保元年(1213年)に起こった和田の乱に際しても、望月一族を率いて和田軍と戦い、
和田義氏
の長男
和田義光(和田次郎太郎)
を討つ武功により 信濃国和田を恩賞として賜っている。
望月重隆
は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれ、弓の名手として武名をあげるなど、 鎌倉時代にあって望月氏を代表する人物として活躍し、『保元物語』『吾妻鏡』『平家物語』『源平盛衰記』『承久記』『相良文書』など、当時の望月氏関係者のうち、もっとも多く記録に残されている。
望月重隆
には長男
望月盛重
、次男
諸星義広
がいる。
望月盛重
には長男
望月宗重
、次男
布施助重
、三男
望月助義
がいる。
布施助重
には長男
布施幸重
がおり、
布施幸重
には長男
布施長重
、次男
布施貞綱
がいる。
望月宗重
には長男
望月重昌
、次男
望月春重
がいる。
望月重昌
には長男
望月家重
がいる。
望月春重
には長男
望月重国
がおり、
望月重国
には長男
望月重惟
がいる。
望月重惟
には長男
望月重信
がいる。
望月重信
*1300〜*1360年
望月重惟
の長男。
鎌倉幕府滅亡後の建武2年(1335年)には、
北條高時
の遺児
北條時行
が起こした中先代の乱において、 望月氏は
諏訪頼重
や
海野幸康
、祢津氏とともに北條方に与している。一時は信濃守護
小笠原貞宗
軍を打ち破るが、
小笠原貞宗
の討伐にあい、佐久郡の政治的、軍事的中心であった望月城は小笠原勢の攻撃にさらされている。
望月重行
、
望月重信
は防戦につとめたが大敗し、敗走している。望月城は落城し破壊されたというが、のちに
望月重信
が回復して勢力を維持している。
延元元年(1336年)に
後醍醐天皇
が吉野に移って南北朝時代に入ると、北條残党や滋野一族は新田方に加勢。 佐久郡や小県郡の海野氏や望月氏、祢津氏、矢島氏は南朝方に与し、 大井氏や屋代氏は北朝方に与ししだいに争いが起こり、合戦がつづくようになっていった。
望月重行
、
望月重信
をはじめ滋野一族は南朝方に尽くしていたため、しだいに衰微を余儀なくされていく。
望月国親
の長男
望月重忠
から家督は
望月廣真
、
望月真隆
、
望月親重
、
望月盛重
、
望月重国
、
望月重行
とつづく。
望月重行
には長男
望月重国
、次男
望月重秀
、三男
望月房重
、四男
福島範重
がおり、
福島範重
には長男
福島季重
がいる。
望月重国
には長男
望月重長
、次男
望月重光
、三男
望月重次
、四男
西山重実
がいる。
西山重実
には長男
増田重俊
、次男
西山重澄
、三男
西山為重
、四男
西山真重
がおり、
西山真重
からは
西山之真
、
西山俊之
、
西山之政
とつづいている。
増田重俊
には長男
増田重吉
がおり、
増田重吉
には長男
増田重清
、次男
増田重賀
がいる。
増田重清
には長男
増田重忠
、次男
増田重村
がいる。
望月重長
には長男
望月元長
、次男
望月重貞
、三男
望月之重
、四男
望月重泰
がいる。
望月元長
からは
望月重政
、
望月光経
へとつづいていく。
望月光経
1392〜1471年
望月光恒、遠江守ともいう。
望月重政
の長男。
嘉吉元年(1441年)、南朝
尹良親王
の子
良王治良
が祖父
宗良親王
ゆかりの信濃国に入部。
望月光経
を頼り、日台の古館、王城に拠って大将軍と称した。 高呂城主
郷東寺盛寛
を管領として兵を募り、
海野幸義
、
海野持幸
父子らをはじめ、
祢津貞高
、
桃井直広
、
羽川広常
、
矢沢有光
、
茂田井経景
ら300余騎が応じ、王城を守備。 信濃国守護の小笠原氏は、関東の諸情勢が不穏だったこともあり軍を動かすことはせず、傍観するだけであった。
良王治良
は祖父
宗良親王
の遺志を継ぎ、南朝勢力の回復に虎視眈々たるものがあったが、 文安元年(1444年)7月、
良王治良
が没し、信濃の南朝勢力復活の夢は頓挫してしまう。
望月光経
は一貫して武家方に抵抗をつづけ、生涯を南朝に捧げながらも、 ついに報われることなく文明3年(1471年)に80歳で没している。
望月光経
には長男
望月盛世
、次男
望月光俊
がおり、
望月盛世
には長男
望月盛経
、次男
望月重世
がいる。
望月盛経
からは
望月光盛
、
望月光重
とつづく。 兵火で失われた諸社寺の復興に尽くしたことが、神社仏閣に残された当時の棟札からうかがうことができる。
応仁の乱、文明の乱をすぎて群雄割拠の戦国時代になると、信濃も例外になく、 最大勢力を誇った信濃守護の小笠原氏も相続争いから分裂し一族間で抗争が繰り広げられ、信濃は地域勢力が分立状態となっていった。 甲斐では
武田信虎
が一族間の相克や国人台頭を抑え、国内統一を遂げて戦国大名への道を大きく踏み出し、 強力な統一勢力のいない信濃へその矛先を向けていた。 永正16年(1519年)9月には
武田信虎
が佐久へ侵攻し平賀を攻めている。 海野氏を圧し、佐久地方まで侵出していた
村上顕国
、
村上義清
父子が佐久衆の求めに応じ出陣。
村上義清
の初陣とされ、村上勢は8000の兵を率いて小諸城に着陣。 小諸城主
小諸光政(大井伊賀守)
父子が城外に出て
村上顕国
、
村上義清
父子を出迎え、武田軍に対抗している。 多勢の出現を知り
武田信虎
は平賀周辺に火を放って帰国したという。 大永2年(1522年)や大永7年(1527年)にも佐久郡を舞台に、
武田信虎
と
村上義清
の戦いが繰り広げられている。 大永2年(1522年)には
望月昌頼
は
村上義清
に従い甲州へ攻め込んでいるが、若神子の戦いで、 武田軍の
馬場虎貞
に敗れ、逃げ帰っている。
望月光重
には長男
望月昌頼
、次男
望月昌棟
、三男
望月昌義
、四男
望月行昌
、五男
望月盛時
がいる。
望月昌棟
には長男
望月昌盛
、次男
望月重知
、三男
望月隆広
、四男
豊田重国
がいる。
望月重知
には長男
望月重寛
がおり、
望月重寛
には長男
望月為政
、次男
望月尚政
、三男
望月幸忠
がいる。
望月幸忠
には長男
望月重家
がいる。
豊田重国
には長男
豊田茂重
がおり、
豊田茂重
には長男
望月重慶
、次男
望月重直
がいる。
望月昌頼
には長男
望月盛昌
、次男
望月昌純
がいる。
望月盛昌
1512〜1543年
望月昌頼
の長男。
天文5年(1536年)には、
武田信虎
が大軍を率いて佐久郡へ侵攻。
武田晴信
の初陣とされており、海ノ口城を守備していた村上方の
平賀源心斎(大井成頼)
は討死している。
天文9年(1540年)2月、
村上義清
麾下の清野氏、高梨氏、井上氏、隅田氏らが2500余の軍勢で佐久郡から 甲信国境を越えて侵入し、八ヶ岳山麓の小荒間まで進攻し、近郷に放火するなど乱暴を働き、 甲州八ヶ岳山麓の小荒間(北巨摩郡長坂町小泉)で武田軍と合戦(小荒間合戦)がおこっている。
望月盛昌
も
村上義清
に従い甲斐へ攻め込んでいる。 しかし
多田満頼
がみごとな夜襲戦の采配をふるい、計略によって村上軍は迎撃されている。 4月以降は
武田信虎
の佐久郡侵攻は激化し、かつて勢力をもっていた大井氏も望月氏も弱体化したこともあり、 自己勢力の伸展のなかった佐久郡は
武田信虎
と
村上義清
の勢力拡張の渦に巻き込まれ、 草刈り場となっていった。 天文10年(1541年)に
武田信虎
が追放され
武田晴信
が武田の家督を継承すると、 佐久郡には一時的に平穏が訪れる。 しかし天文11年(1542年)には諏訪の
諏訪頼重
が滅ぼされ、南信濃を信濃進出の拠点とした
武田晴信
は 天文12年(1543年)には佐久郡や伊那地方面への侵攻を展開し、 天文12年(1543年)9月、
武田晴信
は大軍を率いて佐久郡へ侵攻。諸城を次次と降し、 9月17日、
武田晴信
が大井氏の長窪城を攻略すると、 9月19日には
大井貞隆
を匿った望月城に武田の大軍が殺到。 9月20日には望月一族は存亡をかけて奮戦するが、ついに武田の軍門に降り開城する。 『高白斎記』によれば、「天文12年(1543年)9月20日、望月一族為生害」と記されており(これまでの説によれば望月氏の主だった者は自害という憂目をみたというが)、
望月盛昌
は多くの部下の命を救うために武田の軍門に降り、
望月盛昌
の娘を
武田信繁
に嫁がせている。
武田晴信
も
望月盛昌
を寛容な態度で出迎えたという。 しかし、 望月一族全てが
武田晴信
に従ったわけではなく、佐久郡では大井一族をはじめ、望月一族も
上杉憲政
や
村上義清
の支援を頼りに
武田晴信
に対抗するものも少なくなかった。 天文14年(1545年)4月には、
武田晴信
は小諸城にあって、
真田幸隆
を使者として六ヶ城に籠っていた
望月盛時(望月遠江守)
を調略させている。
武田晴信
も、武威を高めていた
望月盛時
の降伏を喜び、
望月盛時
には太刀や馬を贈っている。 こうして望月一族が
武田晴信
に降ったことにより、佐久郡の諸将も武田氏に降り、自己の安堵をはかっていく。 天文18年(1549年)3月には、
真田幸隆
により
望月昌盛
や
望月行元(望月源三郎幸元)
、
望月行松(望月新六郎)
兄弟が武田氏に降伏している。
望月昌盛
は
真田幸隆
の扱いによって武田氏に臣従し、700貫文の知行を受けている。 5月には
望月盛時
の長男
望月信雅(望月左衛門佐信昌)
が武田氏に擁立されている。
望月盛時
は永禄4年(1561年)の川中島合戦にも出陣している。乱戦のなかで、
望月盛時
は
荒川伊豆守
の軍勢と戦いとなり、
望月盛時
一族の
郷東寺今国
が迎撃し
荒川伊豆守
を討ちとったという。
郷東寺今国
は荒川勢との戦いで全身に数ヶ所の傷を負い、永禄5年(1562年)に傷がもとで没している。
望月盛時
は上杉軍の
簗田外記
と戦い、奮戦するも討死している。享年58歳という。
望月盛時
には長男
望月信雅(望月左衛門佐信昌)
、次男
望月重氏
、三男
望月信元
がおり、
望月信元
には長男
望月信常
がいる。
望月盛昌
は
武田信繁
の長男
武田信頼
を養子にしている。
武田信繁
に嫁いだ娘の子であったことからも、望月氏の血縁であった
武田信頼
が望月氏の家督は継承したとみられ、
望月信雅
は後見役として
武田信頼
についたと考えられる。 しかし、
武田信頼
は父
武田信繁
とともに永禄4年(1561年)の川中島合戦で戦死しており、
武田信繁
の三男
武田信永
が
武田信頼
のあとを受けて望月氏を継承している。
長篠合戦では、
武田信永
、
望月信雅
、
望月重氏
兄弟も出陣している。
望月将監
、
小平左京亮
、
常田次郎
、
篠沢伊賀守
らも望月隊につづいて進軍しているが織田軍と徳川軍の鉄砲隊によって過半が討ちとられてしまっている。
武田信永
も鉄砲に撃ち抜かれ落馬し討死。24歳だったという。
長篠合戦後には小諸城主となった
武田信豊
が望月領も支配し、再び
望月信雅(望月左衛門佐信昌)
が望月城を預かったという。 天正10年(1582年)3月、武田氏討伐のために
織田信長
が大門峠から信濃小県郡へ侵入してくると、 若くして家督を継承した
望月昌頼
は
真田昌幸
や
海野寛義
、
祢津吉時
らと衆議一決し、
織田信長
に従う。 しかし6月に本能寺の変で
織田信長
が横死すると、
望月昌頼
は信濃へ侵攻してきた北條氏と戦い、
保科正直
が和睦の使者となって和議が結ばれ、望月氏は北條氏に従うことになる。
芦田信蕃
を小諸城から追い、真田氏や祢津氏を北條氏に引き入れるなど活躍する。 9月には、
徳川家康
が信濃へ侵攻。
大久保忠世
を大将とした徳川軍が佐久郡へ侵攻し、 北條氏に与していた望月氏は芦田城や望月城に籠り1ヶ月奮戦する。 しかし10月には落城し、
望月昌頼
は
真田昌幸
を頼り上田へ向かう途中に、土民の蜂起に阻まれ、18歳で自刃したという。
望月昌頼
自刃後には、
望月信雅
が領主として復帰し、 天正11年(1583年)11月、
徳川家康
に従って佐久郡を領した
依田信蕃
に臣従している。 この時期には
真田昌幸
とは対立する立場に度々あったが、その支流には真田氏に仕えたものも多い。 明暦3年(1657年)の信濃松代藩分限帳にも「800石祢津喜平治」や「650石海野源左衛門」など、祢津姓、海野姓、望月姓の藩士が見え、
真田昌幸
や
真田信幸(真田信之)
ら真田家の歴代当主が祢津・望月の各氏を順次、家臣団に加えていったものと思われる。 松代藩主の重臣家臣にもこれらの姓が多いことが分かる。
望月幸忠
1572〜1615年
望月六郎、六郎兵衛、主水、卯左衛門、宇右衛門、六右衛門、善太夫、六郎次、高野小天狗、重則ともいう。後に村雄(むらかつ)と改める。
望月重寛
の長男。
真田十勇士の一人。望月家は日本を二分する忍びの大流、伊賀と甲賀の一方の雄、甲賀流の上忍53家の1つに名を連ねている。 伊賀流が大陸から渡ってきた手妻師、軽業師が源流となっているとの説が正しければ、甲賀流は日本の忍術の宗家とも呼べる存在なのだ。 元々、望月家は海野家や祢津家といった、滋野氏に通じる巫祝集団で、飯道山を中心とした修験者を統括する神人の集団だった。 近江国の住人
諏訪三郎
こと
甲賀三郎兼家
が、33年の間、地底をさまよい、蛇体となって諏訪に現れた後に諏訪に定着し、 望月氏の祖となったという。修験者を情報網の中心に据えた望月氏は、
武田晴信
の家臣、
望月盛時
の奥方で、 後に甲斐、信濃の巫女頭となった
千代殿
が組織した女性謀報集団に見るように、一方で武田家の情報網の一翼を担っていたらしい。
望月六郎兵衛(望月幸忠)
は、
海野六郎兵衛
や
穴山小助
らと同じく、真田家正規の家臣という家格を保ちながらも、
鷲塚佐助
や
霧隠才蔵
のような忍びの顔も併せて持っていたのである。
望月六郎兵衛(望月幸忠)
は
望月重寛(望月太郎左衛門)
の三男として生まれたとされ、
望月重寛
は
真田幸隆
の代からの真田氏譜代の重臣として各地で名を馳せている。
望月六郎兵衛(望月幸忠)
は
海野六郎兵衛
と同じく、幼少時代から逸早く
真田幸村
の児小姓として仕えていた。
望月六郎兵衛(望月幸忠)
は特に火薬、爆薬など火術に才能を持ち、大筒や地雷火などを製造している。
望月六郎兵衛(望月幸忠)
の特徴はというと
謀報と火術に長け、幸村を補佐した好漢
といったところだろう。
天正12年(1584年)、僅か13歳ながら
真田幸村
に従い賤ヶ岳合戦に参戦。
海野六郎兵衛
と行動をともにし、主に謀報活動を行う。
天正13年(1585年)、
真田幸村
が人質として春日山城、海津城に赴く際、それに小姓として従う。
天正14年(1586年)、
真田幸村
の対北條攻めに従軍。謀報活動や大筒、地雷火などで敵軍を翻弄する。
天正17年(1589年)、
真田幸村
の小田原攻めに従軍。
天正18年(1590年)、
真田幸村
が人質として大阪へ赴く際、
真田幸村
とは別行動となる。主に謀報活動を行う。
慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦の際は、
真田幸村
とともに西軍につき、上田城に籠る。 関ヶ原合戦での敗戦後は、
真田昌幸
・
真田幸村
父子に伴い九度山へ従った275人のうちの1人であり、
青柳清庵
や
高梨内記
らとともに最後まで九度山に残った数少ない武将といわれる。
慶長19年(1614年)、大阪の陣では
真田幸村
とともに大阪城へ入城する。
望月六郎兵衛(望月幸忠)
42歳である。 神崎川の戦いで
真田大助
を守り、関東勢を尼ヶ崎まで敗走させたという。
元和元年(1615年)、『真田三代記』では、井楼に乗った
徳川家康
を一貫目筒で砲撃する場面があるが、 これも
望月六郎兵衛(望月幸忠)
が作ったものであろう。
真田幸村
の補佐役に徹した好漢は、影武者の1人として突撃し、壮絶な最期を遂げている。
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