×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。


小助の部屋/滋野一党/望月滋野氏

小助官兵衛の部屋バナー
サイト内検索
(小助官兵衛の部屋のなかで検索します)

Powered by Google

望月氏は、滋野氏が信濃へ入部してくる以前の、古代から中世にかけて信濃国望月地方を本拠に、 佐久郡のうち千曲川頭部一帯を支配していた豪族であり、 望月滋野氏は、先代の望月氏と血縁関係を深めていき、望月牧監に任命され望月を治めていくことにはじまったという。
滋野貞主の一族が信濃の国司に任ぜられ信濃へ下向して以来、 滋野恒蔭が貞観10年(868年)に信濃の介に任命され(『日本三大実録』により)、 滋野善言が貞観12年(870年)に信濃守となっており、 滋野善言は信濃からの貢馬の駒牽きのことを司る役人として名を残していることからも、 滋野氏は信濃の守や介をつとめる理由もあって、代代『馬寮』と深い関係を持つ役職をつとめるようになっていったと思われる。 このことは必然的に信濃の諸牧とも強い絆で結ばれることとなり、 諸牧の代表的な望月牧や新張牧などの管理者であった望月氏や祢津氏およびその中間にあたる海野の豪族と血縁関係までもつようになったとも思われる。
天暦4年(950年)に望月牧監に任命され海野へ下向した滋野恒信海野幸俊と改名しており、 海野幸恒の長男海野幸明、次男祢津直家、三男望月重俊らが滋野一族として海野、祢津、望月を統治したという。
望月重隆*1170〜*1220年

望月国重の次男。
『滋野系図』によれば、滋野貞雄(滋野貞主の弟)の後裔という滋野為道の次男滋野則重が信濃佐久郡望月邑に住み、 望月太郎を称したことにはじまるというが、 滋野貞主の長男滋野善蔭から滋野恒蔭滋野善言滋野恒成滋野恒信とつづいており、 天暦4年(950年)に望月牧監に任命され海野へ下向した滋野恒信海野幸俊と改名しており、 海野幸俊には長男海野幸恒がおり、海野幸恒の長男海野幸明、次男祢津直家、三男望月重俊が それぞれ祢津や望月に移り住み統治したという。
望月重俊には長男望月重真、次男矢野清重、三男布施重則、四男望月某がおり、 望月重真から望月重盛望月為家望月為廣(海野為廣)とつづく。 望月為廣は海野を称しており、海野為廣には長男海野為通がおり、 海野為通には長男海野則廣、次男望月則重がいる。
この頃になぜ望月氏が海野氏を称していたのか、望月氏の家督がその間どういう受け継がれ方をしたのかが定かではないが、 望月則重には長男海野重通、次男祢津通直(祢津小二郎)、三男望月廣重がおり、 望月廣重の長男望月国重へと家督は継承されていく。 望月国重には長男望月行重、次男望月国親、三男塩川重長、四男川上重安、五男小田切国綱、六男根井行親がいるとされる。 川上重安には長男川上重氏がいる。 根井行親には長男根井行長、次男根井行直、三男楯親忠、四男八嶋行忠がいる。
望月国親(望月太郎秀包)は治承4年(1180年)、木曽義仲挙兵に際して、長男望月重忠、次男望月重義、三男望月重隆らとともに従軍している。 養和元年(1181年)、木曽義仲は白鳥河原にて挙兵し、越後の城助茂の大軍と横田河原で戦う。 望月国親(望月次郎秀包)海野幸広らとともに滋野一族を率いて木曽義仲に従い横田河原の戦いに大勝する。 木曽義仲に従った者たちのなかには、望月国親(望月秀包)以外にも、根井行親(根ノ井幸親)楯親忠(楯六郎)矢嶋行忠(矢嶋四郎)丸子秀資(丸子小忠太)祢津泰平(祢津甚平)桜井行晴(桜井太郎) といった滋野一族が名を連ねている。
鎌倉時代初期における望月氏の勢力は、望月氏から海野氏を輩出していることからも分かるように、一族の海野氏や祢津氏をも圧倒するほどで、 佐久郡一帯と小県郡にまで勢力をおよぼし、軍備や経済ともに絶頂期であったという。 木曽義仲が挙兵に際して滋野一族のなかでも、望月氏を丁重に迎え入れた最大の理由は、 望月氏が有する望月の牧の馬にあったともされており、1500頭の良馬を常時飼育放牧していたといわれている。 望月氏の有する良馬とその配下の動員力は、木曽義仲にとっては最大の魅力だったのだろう。
望月国親の三男望月重隆は、寿永3年(1183年)に木曽義仲が鎌倉へ送った人質木曽義高に 随従してともに鎌倉へ赴いたという。 望月重隆とともに海野幸氏も同行したとあり、海野幸氏木曽義仲が没落し、 平氏も滅亡した後に、鎌倉幕府の御家人となっている。 木曽義仲死後は望月氏も鎌倉に召しだされており、鎌倉御家人となって出仕し、本領安堵を全うしたという。 望月重隆は文治4年(1188年)に、奥州の藤原征伐に望月一族を率いて出陣している。 『吾妻鏡』によれば、建久4年(1193年)4月には将軍源頼朝が下野国那須野や信濃国三原などに 狩倉、弓馬に達した狩猟の輩22人に、望月重義(望月太郎)藤沢清親(藤沢次郎)らが選ばれたという。 武蔵国入間野における狩では藤沢頼親は百発百中で、まれにみる弓の名人と将軍源頼朝より賞言を賜ったという。 建久5年(1194年)には安田義定安田義資父子が幕府に反したとき、鎌倉幕府の命により安田討伐に従軍している。 建保元年(1213年)に起こった和田の乱に際しても、望月一族を率いて和田軍と戦い、和田義氏の長男和田義光(和田次郎太郎)を討つ武功により 信濃国和田を恩賞として賜っている。
望月重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれ、弓の名手として武名をあげるなど、 鎌倉時代にあって望月氏を代表する人物として活躍し、『保元物語』『吾妻鏡』『平家物語』『源平盛衰記』『承久記』『相良文書』など、当時の望月氏関係者のうち、もっとも多く記録に残されている。
望月重隆には長男望月盛重、次男諸星義広がいる。 望月盛重には長男望月宗重、次男布施助重、三男望月助義がいる。 布施助重には長男布施幸重がおり、布施幸重には長男布施長重、次男布施貞綱がいる。 望月宗重には長男望月重昌、次男望月春重がいる。 望月重昌には長男望月家重がいる。望月春重には長男望月重国がおり、望月重国には長男望月重惟がいる。 望月重惟には長男望月重信がいる。

望月重信*1300〜*1360年

望月重惟の長男。
鎌倉幕府滅亡後の建武2年(1335年)には、北條高時の遺児北條時行が起こした中先代の乱において、 望月氏は諏訪頼重海野幸康、祢津氏とともに北條方に与している。一時は信濃守護小笠原貞宗軍を打ち破るが、 小笠原貞宗の討伐にあい、佐久郡の政治的、軍事的中心であった望月城は小笠原勢の攻撃にさらされている。 望月重行望月重信は防戦につとめたが大敗し、敗走している。望月城は落城し破壊されたというが、のちに望月重信が回復して勢力を維持している。
延元元年(1336年)に後醍醐天皇が吉野に移って南北朝時代に入ると、北條残党や滋野一族は新田方に加勢。 佐久郡や小県郡の海野氏や望月氏、祢津氏、矢島氏は南朝方に与し、 大井氏や屋代氏は北朝方に与ししだいに争いが起こり、合戦がつづくようになっていった。 望月重行望月重信をはじめ滋野一族は南朝方に尽くしていたため、しだいに衰微を余儀なくされていく。 望月国親の長男望月重忠から家督は望月廣真望月真隆望月親重望月盛重望月重国望月重行とつづく。 望月重行には長男望月重国、次男望月重秀、三男望月房重、四男福島範重がおり、 福島範重には長男福島季重がいる。 望月重国には長男望月重長、次男望月重光、三男望月重次、四男西山重実がいる。 西山重実には長男増田重俊、次男西山重澄、三男西山為重、四男西山真重がおり、 西山真重からは西山之真西山俊之西山之政とつづいている。 増田重俊には長男増田重吉がおり、増田重吉には長男増田重清、次男増田重賀がいる。 増田重清には長男増田重忠、次男増田重村がいる。
望月重長には長男望月元長、次男望月重貞、三男望月之重、四男望月重泰がいる。 望月元長からは望月重政望月光経へとつづいていく。
望月光経1392〜1471年

望月光恒、遠江守ともいう。
望月重政の長男。
嘉吉元年(1441年)、南朝尹良親王の子良王治良が祖父宗良親王ゆかりの信濃国に入部。 望月光経を頼り、日台の古館、王城に拠って大将軍と称した。 高呂城主郷東寺盛寛を管領として兵を募り、海野幸義海野持幸父子らをはじめ、 祢津貞高桃井直広羽川広常矢沢有光茂田井経景ら300余騎が応じ、王城を守備。 信濃国守護の小笠原氏は、関東の諸情勢が不穏だったこともあり軍を動かすことはせず、傍観するだけであった。 良王治良は祖父宗良親王の遺志を継ぎ、南朝勢力の回復に虎視眈々たるものがあったが、 文安元年(1444年)7月、良王治良が没し、信濃の南朝勢力復活の夢は頓挫してしまう。
望月光経は一貫して武家方に抵抗をつづけ、生涯を南朝に捧げながらも、 ついに報われることなく文明3年(1471年)に80歳で没している。
望月光経には長男望月盛世、次男望月光俊がおり、 望月盛世には長男望月盛経、次男望月重世がいる。 望月盛経からは望月光盛望月光重とつづく。 兵火で失われた諸社寺の復興に尽くしたことが、神社仏閣に残された当時の棟札からうかがうことができる。
応仁の乱、文明の乱をすぎて群雄割拠の戦国時代になると、信濃も例外になく、 最大勢力を誇った信濃守護の小笠原氏も相続争いから分裂し一族間で抗争が繰り広げられ、信濃は地域勢力が分立状態となっていった。 甲斐では武田信虎が一族間の相克や国人台頭を抑え、国内統一を遂げて戦国大名への道を大きく踏み出し、 強力な統一勢力のいない信濃へその矛先を向けていた。 永正16年(1519年)9月には武田信虎が佐久へ侵攻し平賀を攻めている。 海野氏を圧し、佐久地方まで侵出していた村上顕国村上義清父子が佐久衆の求めに応じ出陣。 村上義清の初陣とされ、村上勢は8000の兵を率いて小諸城に着陣。 小諸城主小諸光政(大井伊賀守)父子が城外に出て村上顕国村上義清父子を出迎え、武田軍に対抗している。 多勢の出現を知り武田信虎は平賀周辺に火を放って帰国したという。 大永2年(1522年)や大永7年(1527年)にも佐久郡を舞台に、武田信虎村上義清の戦いが繰り広げられている。 大永2年(1522年)には望月昌頼村上義清に従い甲州へ攻め込んでいるが、若神子の戦いで、 武田軍の馬場虎貞に敗れ、逃げ帰っている。
望月光重には長男望月昌頼、次男望月昌棟、三男望月昌義、四男望月行昌、五男望月盛時がいる。 望月昌棟には長男望月昌盛、次男望月重知、三男望月隆広、四男豊田重国がいる。 望月重知には長男望月重寛がおり、望月重寛には長男望月為政、次男望月尚政、三男望月幸忠がいる。 望月幸忠には長男望月重家がいる。 豊田重国には長男豊田茂重がおり、豊田茂重には長男望月重慶、次男望月重直がいる。
望月昌頼には長男望月盛昌、次男望月昌純がいる。
望月盛昌1512〜1543年

望月昌頼の長男。
天文5年(1536年)には、武田信虎が大軍を率いて佐久郡へ侵攻。 武田晴信の初陣とされており、海ノ口城を守備していた村上方の平賀源心斎(大井成頼)は討死している。
天文9年(1540年)2月、村上義清麾下の清野氏、高梨氏、井上氏、隅田氏らが2500余の軍勢で佐久郡から 甲信国境を越えて侵入し、八ヶ岳山麓の小荒間まで進攻し、近郷に放火するなど乱暴を働き、 甲州八ヶ岳山麓の小荒間(北巨摩郡長坂町小泉)で武田軍と合戦(小荒間合戦)がおこっている。 望月盛昌村上義清に従い甲斐へ攻め込んでいる。 しかし多田満頼がみごとな夜襲戦の采配をふるい、計略によって村上軍は迎撃されている。 4月以降は武田信虎の佐久郡侵攻は激化し、かつて勢力をもっていた大井氏も望月氏も弱体化したこともあり、 自己勢力の伸展のなかった佐久郡は武田信虎村上義清の勢力拡張の渦に巻き込まれ、 草刈り場となっていった。 天文10年(1541年)に武田信虎が追放され武田晴信が武田の家督を継承すると、 佐久郡には一時的に平穏が訪れる。 しかし天文11年(1542年)には諏訪の諏訪頼重が滅ぼされ、南信濃を信濃進出の拠点とした武田晴信は 天文12年(1543年)には佐久郡や伊那地方面への侵攻を展開し、 天文12年(1543年)9月、武田晴信は大軍を率いて佐久郡へ侵攻。諸城を次次と降し、 9月17日、武田晴信が大井氏の長窪城を攻略すると、 9月19日には大井貞隆を匿った望月城に武田の大軍が殺到。 9月20日には望月一族は存亡をかけて奮戦するが、ついに武田の軍門に降り開城する。 『高白斎記』によれば、「天文12年(1543年)9月20日、望月一族為生害」と記されており(これまでの説によれば望月氏の主だった者は自害という憂目をみたというが)、 望月盛昌は多くの部下の命を救うために武田の軍門に降り、 望月盛昌の娘を武田信繁に嫁がせている。武田晴信望月盛昌を寛容な態度で出迎えたという。 しかし、 望月一族全てが武田晴信に従ったわけではなく、佐久郡では大井一族をはじめ、望月一族も上杉憲政村上義清の支援を頼りに 武田晴信に対抗するものも少なくなかった。 天文14年(1545年)4月には、武田晴信は小諸城にあって、真田幸隆を使者として六ヶ城に籠っていた 望月盛時(望月遠江守)を調略させている。武田晴信も、武威を高めていた望月盛時の降伏を喜び、望月盛時には太刀や馬を贈っている。 こうして望月一族が武田晴信に降ったことにより、佐久郡の諸将も武田氏に降り、自己の安堵をはかっていく。 天文18年(1549年)3月には、真田幸隆により望月昌盛望月行元(望月源三郎幸元)望月行松(望月新六郎)兄弟が武田氏に降伏している。 望月昌盛真田幸隆の扱いによって武田氏に臣従し、700貫文の知行を受けている。 5月には望月盛時の長男望月信雅(望月左衛門佐信昌)が武田氏に擁立されている。
望月盛時は永禄4年(1561年)の川中島合戦にも出陣している。乱戦のなかで、望月盛時荒川伊豆守の軍勢と戦いとなり、 望月盛時一族の郷東寺今国が迎撃し荒川伊豆守を討ちとったという。 郷東寺今国は荒川勢との戦いで全身に数ヶ所の傷を負い、永禄5年(1562年)に傷がもとで没している。 望月盛時は上杉軍の簗田外記と戦い、奮戦するも討死している。享年58歳という。
望月盛時には長男望月信雅(望月左衛門佐信昌)、次男望月重氏、三男望月信元がおり、 望月信元には長男望月信常がいる。 望月盛昌武田信繁の長男武田信頼を養子にしている。 武田信繁に嫁いだ娘の子であったことからも、望月氏の血縁であった武田信頼が望月氏の家督は継承したとみられ、 望月信雅は後見役として武田信頼についたと考えられる。 しかし、武田信頼は父武田信繁とともに永禄4年(1561年)の川中島合戦で戦死しており、 武田信繁の三男武田信永武田信頼のあとを受けて望月氏を継承している。
長篠合戦では、武田信永望月信雅望月重氏兄弟も出陣している。 望月将監小平左京亮常田次郎篠沢伊賀守らも望月隊につづいて進軍しているが織田軍と徳川軍の鉄砲隊によって過半が討ちとられてしまっている。 武田信永も鉄砲に撃ち抜かれ落馬し討死。24歳だったという。
長篠合戦後には小諸城主となった武田信豊が望月領も支配し、再び望月信雅(望月左衛門佐信昌)が望月城を預かったという。 天正10年(1582年)3月、武田氏討伐のために織田信長が大門峠から信濃小県郡へ侵入してくると、 若くして家督を継承した望月昌頼真田昌幸海野寛義祢津吉時らと衆議一決し、 織田信長に従う。 しかし6月に本能寺の変で織田信長が横死すると、望月昌頼は信濃へ侵攻してきた北條氏と戦い、 保科正直が和睦の使者となって和議が結ばれ、望月氏は北條氏に従うことになる。 芦田信蕃を小諸城から追い、真田氏や祢津氏を北條氏に引き入れるなど活躍する。 9月には、徳川家康が信濃へ侵攻。大久保忠世を大将とした徳川軍が佐久郡へ侵攻し、 北條氏に与していた望月氏は芦田城や望月城に籠り1ヶ月奮戦する。 しかし10月には落城し、望月昌頼真田昌幸を頼り上田へ向かう途中に、土民の蜂起に阻まれ、18歳で自刃したという。 望月昌頼自刃後には、望月信雅が領主として復帰し、 天正11年(1583年)11月、徳川家康に従って佐久郡を領した依田信蕃に臣従している。 この時期には真田昌幸とは対立する立場に度々あったが、その支流には真田氏に仕えたものも多い。 明暦3年(1657年)の信濃松代藩分限帳にも「800石祢津喜平治」や「650石海野源左衛門」など、祢津姓、海野姓、望月姓の藩士が見え、 真田昌幸真田信幸(真田信之)ら真田家の歴代当主が祢津・望月の各氏を順次、家臣団に加えていったものと思われる。 松代藩主の重臣家臣にもこれらの姓が多いことが分かる。
望月幸忠1572〜1615年

望月六郎、六郎兵衛、主水、卯左衛門、宇右衛門、六右衛門、善太夫、六郎次、高野小天狗、重則ともいう。後に村雄(むらかつ)と改める。
望月重寛の長男。
真田十勇士の一人。望月家は日本を二分する忍びの大流、伊賀と甲賀の一方の雄、甲賀流の上忍53家の1つに名を連ねている。 伊賀流が大陸から渡ってきた手妻師、軽業師が源流となっているとの説が正しければ、甲賀流は日本の忍術の宗家とも呼べる存在なのだ。 元々、望月家は海野家や祢津家といった、滋野氏に通じる巫祝集団で、飯道山を中心とした修験者を統括する神人の集団だった。 近江国の住人諏訪三郎こと甲賀三郎兼家が、33年の間、地底をさまよい、蛇体となって諏訪に現れた後に諏訪に定着し、 望月氏の祖となったという。修験者を情報網の中心に据えた望月氏は、武田晴信の家臣、望月盛時の奥方で、 後に甲斐、信濃の巫女頭となった千代殿が組織した女性謀報集団に見るように、一方で武田家の情報網の一翼を担っていたらしい。
望月六郎兵衛(望月幸忠)は、海野六郎兵衛穴山小助らと同じく、真田家正規の家臣という家格を保ちながらも、 鷲塚佐助霧隠才蔵のような忍びの顔も併せて持っていたのである。
望月六郎兵衛(望月幸忠)望月重寛(望月太郎左衛門)の三男として生まれたとされ、 望月重寛真田幸隆の代からの真田氏譜代の重臣として各地で名を馳せている。 望月六郎兵衛(望月幸忠)海野六郎兵衛と同じく、幼少時代から逸早く真田幸村の児小姓として仕えていた。 望月六郎兵衛(望月幸忠)は特に火薬、爆薬など火術に才能を持ち、大筒や地雷火などを製造している。 望月六郎兵衛(望月幸忠)の特徴はというと謀報と火術に長け、幸村を補佐した好漢といったところだろう。
天正12年(1584年)、僅か13歳ながら真田幸村に従い賤ヶ岳合戦に参戦。海野六郎兵衛と行動をともにし、主に謀報活動を行う。
天正13年(1585年)、真田幸村が人質として春日山城、海津城に赴く際、それに小姓として従う。
天正14年(1586年)、真田幸村の対北條攻めに従軍。謀報活動や大筒、地雷火などで敵軍を翻弄する。
天正17年(1589年)、真田幸村の小田原攻めに従軍。
天正18年(1590年)、真田幸村が人質として大阪へ赴く際、真田幸村とは別行動となる。主に謀報活動を行う。
慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。 関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸真田幸村父子に伴い九度山へ従った275人のうちの1人であり、 青柳清庵高梨内記らとともに最後まで九度山に残った数少ない武将といわれる。
慶長19年(1614年)、大阪の陣では真田幸村とともに大阪城へ入城する。望月六郎兵衛(望月幸忠)42歳である。 神崎川の戦いで真田大助を守り、関東勢を尼ヶ崎まで敗走させたという。
元和元年(1615年)、『真田三代記』では、井楼に乗った徳川家康を一貫目筒で砲撃する場面があるが、 これも望月六郎兵衛(望月幸忠)が作ったものであろう。 真田幸村の補佐役に徹した好漢は、影武者の1人として突撃し、壮絶な最期を遂げている。