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小助の部屋/滋野一党/真田滋野氏/真田幸村/真田十勇士/七人の影武者

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日本人に最も人気のある英雄は、豊臣秀吉だと聞いたことがある(逆に中国や韓国から最も嫌われているのも豊臣秀吉だとかw)。 他の天下人や英雄たちからは感じられない底抜けの明るさと、人を引きつける陽気な個性、そして一介の農民から身を起こして天下をとった壮大な一代記が見る者の心を惹きつけて止まない。 その生涯があまりに華麗だったため、後を継いだ豊臣秀頼の悲運もまた、一層の光芒を放っているようだ。 その豊臣秀吉が築いた栄華の後を受け、豊臣秀頼の最期に殉じるかたちで花を添えた悲劇の名将真田左衛門佐幸村も、日本人が好む英雄の1人だろう。 真田幸村に似たタイプの英雄には、源平合戦に名を残す天才源義経と、南北朝時代に劣性の南朝に殉じた楠木正成がいる。 特に源義経真田幸村を比較していくと、彼らがもつ、もう1つの共通点に突き当たる。 ともに不正規戦を得意とし、超人的な家来を連れている点だ。 源義経に付き従った武蔵坊弁慶常陸坊海尊といった超人に対し、真田幸村は10人の人間離れした家来を抱えている。 大阪の陣に奮戦し、徳川家康を苦しめた真田幸村に従った超人的な部下の物語は、明治44年(1911年)に創刊された立川文庫を嚆矢とする。 また、それは徳川時代に成立した『真田三代記』を下敷きに、痛快な勇士の活躍を描いている。 当時は、テレビも映画もない。英雄豪傑が活躍し、時の権力者に一泡吹かせる痛快な娯楽を楽しむメディアは、講談があるのみだった。 立川文庫は、寄席に行かなければ聞けない講談を文章に置き換えた、いわば「書き講談」とも呼ぶべき形を確立して、それまでの英雄像とは一風かわった明朗闊達なヒーローを創造し、 様々な階層の子どもたちや奉公人、女性に至るまで、大きな人気を勝ち得ることに成功した。大衆文学直系の先祖ともいえるシリーズだった。 真田十勇士ものの第1弾は、大正2年(1913年)に刊行された『猿飛佐助』。軽妙な語り言葉と奇抜な擬音語、明朗な主人公と強力な敵方の息もつかせぬ忍術合戦を中心に波乱万丈の物語が繰り広げられる。 さらに、後に味方となる好敵手との出会い、危機に陥り、智恵を絞っての脱出など、読者をあきさせない。 立川文庫では、真田幸村猿飛佐助の前に、6人の勇士を従えている。 猿飛佐助は7人目の勇士となるわけだが、印を結んで忍術を使い、猿を友とする変幻自在の体術で徳川方を翻弄する活躍は大きな人気を呼び、 当初は猿飛佐助三好清海入道霧隠才蔵の3人のみが主人公だったものが、物語中で出会いと盟友の契りを繰り返し、ついに十勇士が揃うに至った。 逆境にある豊臣家を応援し、徳川家康を散々翻弄する十勇士は、当時の庶民にとって理想のスーパーヒーローだった。 その活躍は、時代を経るに従って厚みを増し、様々なメディアによって実在性を増しながら、現在に至っている。
海野六郎兵衛利一望月六郎兵衛幸忠祢津甚八郎貞盛山田舎人正友宗
木村助五郎公守筧十蔵伊藤団右衛門継基三浦新兵衛国英
鵤幸右衛門祐貞林源次郎寛高穴山小助安治鷲塚佐助幸吉(猿飛佐助)
霧隠才蔵深谷新左衛門(三好清海)深谷総兵衛(三好伊三)由利鎌之助基幸

海野六郎兵衛利一1571〜1615年

海野六郎、六右衛門、三左衛門、小平太、呉羽自然坊ともいう。
真田十勇士の一人。父親は羽尾能登守輝幸(海野喜兵衛)とされる。 羽尾輝幸(海野輝幸)の三男として元亀2年(1571年)に生れる。 そのことから海野六郎兵衛は羽尾海野家の出とされる。鎌倉時代頃から海野支族は各地に分布していた。 父とされる羽尾輝幸羽尾幸世の三男であり、羽尾家もまた海野家の支族である。 海野嫡流は海野棟綱の孫海野業吉(海野幸義の嫡男)であり、海野嫡流筋で当時の当主であった海野棟綱が海野平合戦以降羽尾家を頼った際、 海野棟綱から海野姓を許され、海野輝幸と名乗ったとされる。
海野輝幸真田幸隆の代から真田家に仕えており、特に真田昌幸の侍大将として活躍し、大きな信頼を勝ち得ていた。 さらにその嫡男海野幸貞(羽尾幸貞)矢沢頼綱の娘婿として真田家の重臣としてその地位を確立していく。 弟の海野六郎兵衛もまた、幼少時代から逸早く真田幸村の児小姓として仕えていたのである。 しかし、父海野輝幸と兄海野幸貞(矢沢頼綱の娘婿)は天正9年(1581年)に謀反の疑いにより自害している。 海野六郎兵衛が10歳のことであり、連座を免れ真田昌幸に引きとられる。 海野六郎兵衛真田幸村にとっては、その郎党の第1号であり、喧嘩っ早いところは玉に傷だが、気位も高く頭脳も明晰であったこともあって、常に参謀格という位置に自らを置いていた。 小野忠明が舌を巻くほどの剣の達人だったともいわれる。
天正12年(1584年)真田幸村に従い賤ヶ岳合戦に参戦。僅か14歳で初陣を遂げる。
天正13年(1585年)真田幸村が人質として春日山城、海津城に赴く際、それに小姓として従う。
天正17年(1589年)真田幸村の隊将として小田原攻めに参戦。このときわずか19歳。
天正18年(1590年)真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに小姓として従う。その後も真田幸村とは行動を供にする。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。
関ヶ原合戦のときに30歳であり、すでに長男海野三左衛門も10歳となっていた。 関ヶ原合戦での敗戦後は、一時は九度山に赴くが、祢津甚八郎とともに諸国の情勢を探るために旅に出る。主に奥州を巡り天下の情勢を探っている。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村のもとに馳せ参じる。海野六郎兵衛43歳、長男海野三左衛門23歳である。
元和元年(1615年)徳川家康軍の先鋒部隊である分部左京大夫の陣へ300騎で押し寄せている。『真田三代記』では真田幸村とともに薩摩へ脱出しているとされる。 だが、真田幸村が壮絶な戦死を遂げて、穴山小助祢津甚八郎望月六郎真田幸村の影武者として討死した面々や、 三好伊三三好清海らも討死したことを考えれば、海野六郎兵衛も主君とともに討死していることが常識的であり、海野六郎兵衛自身にとっても本望なのではないだろうか。
海野六郎兵衛真田幸村の家臣として帷幕にあって家中を差配した古参の参謀として名高い。『真田三代記』には真田幸隆の家臣として海野六郎なる人物が登場しており、 その海野六郎の指図で岩尾城を通りかかった山本勘助を生け捕りにして拷問にかけようとして騒ぎが起こり、真田幸隆が止めに入り粗略に扱わないよう窘められたという。 また『真田三代記』には海野六郎兵衛という名も真田昌幸真田幸村の家臣としても見られる。このことからも海野六郎は複数登場していることが分かる。 真田幸村の家臣として大阪の陣で戦い活躍したのは後者の海野六郎兵衛である。 また、薩摩へ脱出した面々に長男海野三左衛門の名前がある。

望月六郎兵衛幸忠1572〜1615年

望月六郎、主水、卯左衛門、宇右衛門、六右衛門、善太夫、六郎次、高野小天狗ともいう。 後に村雄(むらかつ)と改めたとされる。
真田十勇士の一人。望月家は日本を二分する忍びの大流、伊賀と甲賀の一方の雄、甲賀流の上忍53家の1つに名を連ねている。 伊賀流が大陸から渡ってきた手妻師、軽業師が源流となっているとの説が正しければ、甲賀流は日本の忍術の宗家とも呼べる存在なのだ。 元々、望月家は海野家や祢津家といった、滋野氏に通じる巫祝集団で、飯道山を中心とした修験者を統括する神人の集団だった。 近江国の住人諏訪三郎こと甲賀三郎兼家が、33年の間、地底をさまよい、蛇体となって諏訪に現れた後に諏訪に定着し、望月氏の祖となったという。 修験者を情報網の中心に据えた望月氏は、武田晴信の家臣望月盛時の奥方で、後に甲斐、信濃の巫女頭となった望月千代が組織した女性謀報集団に見るように、 一方で武田家の情報網の一翼を担っていたらしい。
望月六郎兵衛は、海野六郎兵衛穴山小助らと同じく、真田家正規の家臣という家格を保ちながらも、 鷲塚佐助霧隠才蔵のような忍びの顔も併せて持っていたのである。 望月六郎兵衛望月太郎左衛門の長男として元亀3年(1572年)に生まれたとされ、 望月太郎左衛門真田幸隆の代からの譜代の重臣として各地で名を馳せている。 望月六郎兵衛海野六郎兵衛と同じく、幼少時代から逸早く真田幸村の児小姓として仕えていた。 望月六郎兵衛は特に火薬、爆薬など火術に才能を持ち、大筒や地雷火などを製造している。 望月六郎兵衛の特徴はというと謀報と火術に長け、真田幸村を補佐した好漢といったところだろう。
天正12年(1584年)僅か13歳ながら真田幸村に従い賤ヶ岳合戦に参戦。海野六郎兵衛と行動をともにし、主に謀報活動を行う。
天正13年(1585年)真田幸村が人質として春日山城、海津城に赴く際、それに小姓として従う。
天正14年(1586年)真田幸村の対北條攻めに従軍。謀報活動や大筒、地雷火などで敵軍を翻弄する。僅か15歳。
天正17年(1589年)真田幸村の小田原攻めに従軍。このとき18歳。
天正18年(1590年)真田幸村が人質として大阪へ赴く際、真田幸村とは別行動となる。主に謀報活動を行う。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。
関ヶ原合戦のときに29歳となっていた。関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸真田幸村父子に伴い九度山へ従った275人のうちの1人であり、 青柳清庵高梨内記らとともに最後まで九度山に残った数少ない武将といわれる。真田大助が生まれたとき、真田幸村から真田大助の傅役を命じられたともされており、 真田幸村の補佐役と真田大助の傅役と両役を担ったことからも真田幸村からの信頼の厚さがうかがえる。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村とともに大阪城へ入城する。 望月六郎兵衛43歳、長男望月宇右衛門23歳である。 神崎川の戦いで真田大助を守り、関東勢を尼ヶ崎まで敗走させたという。
元和元年(1615年)『真田三代記』では、井楼に乗った徳川家康を一貫目筒で砲撃する場面があるが、これも望月六郎兵衛が作ったものであろう。 真田幸村の補佐役に徹した好漢は、影武者の1人として突撃し、壮絶な最期を遂げている。 またこの最後の戦いで、24歳になっていた長男望月宇右衛門真田幸村の影武者を務め徳川方の西尾久作に討たれたという。

祢津甚八郎貞盛1569〜1615年

祢津甚八、禰津甚八、根津甚八、小六、小六郎ともいう。
祢津信光(祢津帯刀左衛門昌綱)の次男。父親は大和絵師だったともいわれる。 真田十勇士の一人。祢津という姓から見ても、海野六郎兵衛望月六郎兵衛と同じく、 真田家の源流に属する一族である。 真田家には北條家との紛争の折、国境見極めの任を託された祢津幸直(祢津助衛門尉)のような重臣があった。 祢津信光の次男である祢津甚八郎自身、紛れもなく真田家譜代であり、信州の豪族、 祢津元直の親族である。祢津家は真田家とともに武田家臣として信州先方衆の一翼を担っていた。 武田晴信に娘を嫁がせるなど、滋野一党の中でも武田家臣としては割と格式も高い。 しかし、真田家が対村上家や上野侵攻に目覚しい活躍を見せる中、祢津家は忽ち真田家に遅れをとってしまう。 結局祢津家は真田家に従い、上野侵攻に加わることになる。祢津政直も真田家の重臣として上野侵攻で活躍を見せる。 祢津政直から家督を継承した祢津信光の次男祢津甚八郎は幼少時代から真田家と深い親交を交わしていたが、 この時期にはまだ祢津氏の方が真田氏より格式も高く、真田幸村の小姓として…というわけではなかったようだ。 長篠合戦後、祢津政直は出家している。幼かった祢津甚八郎もともに出家したともいわれているが、実は祢津甚八郎は真田家臣として真田昌幸に仕えたようである。 祢津甚八郎が父とともに旅に出て海賊になった話はここから始まったのだろう。武田氏が滅亡し、父祢津信光は真田氏と不和になっていたのだが、 祢津甚八郎真田昌幸に従っている。
天正10年(1582年)真田昌幸に従い上野国で北條家と戦う。14歳で初陣となる。
天正11年(1583年)真田昌幸に従い埴科郡虚空蔵山城にて上杉景勝軍と戦う。 祢津甚八郎はこれを打破るなど、大いに活躍し戦功をたてる。僅か15歳ながら祢津甚八郎は野戦では群を抜く豪勇を誇っていた。
天正13年(1585年)矢沢頼綱に従い上野国で北條家と戦い、上野国沼田城を守る。
天正14年(1586年)徳川家と北條家との和議により、祢津幸直らは知行を信濃国内に切り換えられる。 祢津甚八郎も信濃国へ赴くことになる。真田家譜代の家臣でありながら、真田幸村とは全く別の行動をとってきたわけだが、 この頃より真田幸村の小姓たちと行動をともにし、郎党の仲間入りを果たす。 特に海野六郎兵衛と行動をともにすることが多くなる。
天正17年(1589年)真田幸村の小田原攻めに従軍。このとき21歳。
天正18年(1590年)真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに小姓らとともに従う。その後も真田幸村とは行動を供にする。 上杉景勝への人質でありながら、豊臣秀吉にも眼をかけられて豊臣信繁という名や左衛門佐の官位まで与えられた真田幸村が、 豊臣秀吉に九鬼水軍の情報を探ることを命じられて熊野灘に赴いた折、 祢津甚八郎自身が海賊の群に身を投じてその首領にまでのし上がったという。真田幸村の命で海賊に潜り込み調略を謀っていたともいわれているが、 いずれにせよ、海賊の出となれば、十勇士でただ1人の海の専門家である。祢津甚八郎は根来衆を率いることとなり、吹き矢を得意とした戦術で潮の中を縦横無尽に回ったという。 正規の海賊ではないが不正規戦の名手となった祢津甚八郎の存在は、強大な水軍を持つ徳川家康に対するには力強い味方となっただろう。 『真田三代記』では、九鬼水軍の動静を探りに出かけた真田幸村と出会い、 その器量に惚れ込んだ真田幸村祢津甚八郎を家臣に取り立てたとなっている。 野戦では群を抜く豪勇を誇り、海賊の首領までのし上がった勇猛な好漢というのが、人々の心をうったのではないだろうか。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。
関ヶ原合戦のとき32歳。関ヶ原敗戦後は、九度山から帰った海野六郎兵衛と連れだって奥州を探索する。 由利鎌之助とは喧嘩友達で、由利鎌之助に劣らず勇猛な好漢である。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村とともに大阪城へ入城する。祢津甚八郎45歳である。
元和元年(1615年)『真田三代記』によると、大阪夏の陣では穴山小助が総指揮を執る7人の影武者に加わり、 「火龍軍」と名づけた突撃隊を編成。穴山小助を筆頭に、伊藤団右衛門三浦新兵衛鵤幸右衛門林源次郎山田舎人木村助五郎望月六郎兵衛ら他の7人とともに波状攻撃を続けた後に、 最期の1人として奮戦した。自ら「真田左衛門佐幸村、ここに討死いたす」と呼ばわって徳川勢を蹴散らし、 加賀前田家の家臣本多安房守に討たれたという。壮絶な最期を遂げている。

山田舎人正友宗1570〜1615年

山田舎人助、山田舎人頭、山田舎人監ともいう。
父は上野国の土豪で山田城主、山田与惣兵衛直安とされる。
山田舎人山田与惣兵衛の長男として元亀元年(1570年)に生まれる。山田与惣兵衛真田幸隆の上野侵攻の際に武田方に属す。 父山田与惣兵衛はその後、真田幸隆配下吾妻衆として上野国で越後上杉家や相模北條家と転戦。 長篠の合戦にも従軍している。武田家滅亡後は真田昌幸の上州攻略に従い、 天正8年(1580年)の沼田攻略の陣立てでは使番及び足軽隊を務めた。 山田与惣兵衛は天正18年(1590年)には岩櫃城留守部隊の大将も務めている。 山田舎人は吾妻衆として父山田与惣兵衛に従い上野国を転戦する。 望月六郎兵衛と同じように、吾妻衆として鷲塚佐助霧隠才蔵のような忍びの顔も併せて持っていた。 吾妻忍者として影で真田家を支えた頼れる情報伝達のプロの1人だったわけである。
天正13年(1585年)矢沢頼綱に従い上野国で北條家と戦い、上野国岩櫃城を守る。
天正14年(1586年)徳川家と北條家との和議により、沼田城周辺の知行は信濃国へ切り換えられる。 山田舎人は父山田与惣兵衛とともに吾妻岩櫃城や吾妻一帯の防備を固める。
天正17年(1589年)矢沢頼綱に従い上野国で北條家と戦い、上野国岩櫃城を留守部隊として守る。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに信濃へ赴き、西軍として上田城に籠る。
関ヶ原合戦のとき31歳。山田舎人は上野国で防備もしくは謀報活動をしていた可能性も大いにある。 関ヶ原合戦敗戦後、父山田与惣兵衛は、吾妻山田城下へ帰農。 山田舎人は謀報活動をつづけ、海野六郎兵衛望月六郎兵衛らと連絡を取り合う。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村大阪城入城の報を聞き馳せ参じる。山田舎人44歳である。
元和元年(1615年)大阪夏の陣では穴山小助が総指揮を執る7人の影武者の一翼を担う。 『真田三代記』にもその名前が窺える。自ら「真田左衛門佐幸村、ここに討死いたす」と呼ばわって徳川勢を蹴散らし、壮絶な最期を遂げている。

木村助五郎公守1574〜1615年


筧十蔵1573〜1615年

金六郎、掛飛十蔵、政右衛門ともいう。
真田家臣の筧十兵衛虎秀の長男として生まれる。父筧虎秀は敵の包囲を潜り抜け城門を丸太で突き破るという大胆不敵な戦功により、 一介の足軽から家来持ちの武将に出世したという。筧虎秀真田幸隆真田昌幸父子に仕え重臣であった。 長男の筧十蔵は種子島銃を所持し、その腕前はかなりなものであったという。 筧十蔵海野六郎兵衛望月六郎兵衛らのように真田幸村に仕えた荒小姓であり、 最古参の1人である。真田幸村からの信頼も厚く、地味ながらも篤実な人柄の狙撃隊長として、十勇士の一翼を担っている。
天正13年(1585年)真田幸村が人質として春日山城、海津城に赴く際、それに小姓として従う。
天正14年(1586年)真田幸村の対北條攻めに従軍。僅か14歳にして初陣、鉄砲隊を率いて敵軍を迎撃する。
天正17年(1589年)真田幸村の小田原攻めに従軍。
天正18年(1590年)真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに小姓として従う。その後も真田幸村とは行動を供にする。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。 真田家の鉄砲隊将として徳川軍撃退に大きく貢献し、戦功をあげている。 関ヶ原合戦での敗戦後は、一時は九度山に赴くが、由利鎌之助とともに諸国の情勢を探るために旅に出る。主に西国を遍歴して、情報収集に携わった。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村のもとに馳せ参じる。筧十蔵41歳である。真田丸の攻防戦では、筧十蔵の鉄砲隊と望月六郎兵衛の大砲が大いに活躍し、徳川軍を翻弄した。
元和元年(1615年)大坂夏の陣では、銃弾を撃ち尽くし、祢津甚八郎らとともに壮絶な討死をしている。
『真田三代記』では、豊臣秀頼真田幸村の薩摩落ちに従っている。 立川文庫では真田幸村真田大助を守ってともに薩摩に向かい、生き延びている。 だが、これも海野六郎兵衛らと一緒で、主君とともに討死していることが筧十蔵自身にとっても本望なのではないだろうか。 銃という飛び道具の名手で腕前はかなりのものというのだから十勇士のなかでは珍しい。 麾下に30名もの鉄砲の名手を揃えた猟師組を持ち、百発百中の狙撃隊として活躍する。 『水滸伝』でいう弓の名手小李広花栄の役割を担う人物といえるだろう。 筧家については真田譜代の家臣ではなく、元々は豊臣恩顧の大名蜂須賀家の家臣だったとも、筒井順慶の家臣筧孫兵衛の長男とも、豊後国富来2万石の城主の嫡男ともいわれ、様々な説がある。

伊藤団右衛門継基1565〜1615年

真田幸村の重臣。「我こそは幸村なり」と影武者として討死。 伊藤継基は剣と乗馬の達人として名高い。真田幸村より2歳年上である。 7人の影武者として名が残るが初めから7人だったわけではなく、たまたま7人で影武者隊を編成したことに始まる。 その影武者隊の中心人物であったことは確かである。 真田十勇士に取り上げられる真田幸村の重臣たちの中でも、海野六郎兵衛望月六郎兵衛穴山小助筧十蔵祢津甚八郎、 さらには山田舎人林源次郎木村助五郎鵤幸右衛門三浦新兵衛らと並ぶ古参の臣である。
天正8年(1580年)真田昌幸に従い小川城と名胡桃城攻略に参戦。16歳にして華々しい初陣を遂げる。 その後は護衛として三浦新兵衛らとともに真田幸村に従い、上野国吾妻一帯を転戦する。
天正13年(1585年)真田昌幸上杉景勝真田幸村を人質として海津城に送り援軍を要請した際、上田に残る。 このとき真田信幸が、鵤(鳩)、吉沢ら乗馬衆5名と、林、坂本らの足軽衆12名を矢沢頼康の配下につけ、 真田幸村を守らせたという。 上田合戦では伊藤継基は騎馬隊を率いて徳川軍を迎撃、戦功をあげる。 以後は真田幸村と行動を供にする。
天正17年(1589年)真田幸村の騎馬隊将として小田原攻めに従軍。このとき25歳。
天正18年(1590年)真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに従う。 その後も真田幸村とは行動を供にする。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。 真田幸村の騎馬隊将として徳川軍撃退に大きく貢献し、戦功をあげる。 関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸真田幸村父子に伴い一時は九度山に赴くが、上田に戻る。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村のもとに馳せ参じる。伊藤継基49歳である。
元和元年(1615年)大阪夏の陣では、真田幸村の影武者として徳川家康の本陣に斬り込み、 本陣を突き崩す働きを示した後、真田幸村に成りすまして奮戦したが討死する。 大阪の陣における真田幸村は、徳川の大軍のただ中を突破し、本陣へと攻め入る。 彼はまた、敵を欺き撹乱するために、多くの影武者を戦闘に投入している。 元和元年(1615年)5月3日、大阪攻め東軍集結のため道明寺へと向う徳川家康徳川秀忠軍の前に、 左右七ヶ所から突然五十目筒の轟音が響き、真田勢7隊が六文銭の旗を翻し現れ、 「我こそは真田左衛門佐幸村」と口々に名乗り、突き進む。 「浅野周防守内通露顕の事并7人の真田討死の事」の一場面である。 影武者は「六文銭の甲冑を着せ同じ出立ちに仕立て、五十目の鉄砲を十挺ずつと人数200騎ずつ」を授かった。 多勢を相手によく戦い、伊藤継基徳川秀忠の床机の許まで迫るが果たせず、 7人は「もはやこれまで、真田左衛門佐幸村、腹かき切って冥土にまいる」と鎧を脱いで切腹した。 大阪城中で7人は真田幸村に集められて「そこもとたちの命をこの幸村にくれぬか。わしは秀頼公を守るという命より大事な仕事があるからまだ死ねぬわ。いずれ、後から参るが、わしの身代わりの影武者になってもらいたい」 と言われたのだった。真田幸村からこう直接言われていることは相当の信頼関係があったことが窺える。 そこで伊藤継基は「おやすいこと、どうせ死ななきゃならないのだから、一時でも名前を名乗ることができるのは死に花を咲かせることになり申す」と言い、 真田幸村はこの信頼に涙をこぼしたという。 伊藤継基は幼い頃からの主君への忠義は全くかわることなく、影武者として最期まで忠義を貫いた大剣豪といえよう。

三浦新兵衛国英1561〜1615年

三浦国秀ともいう。
真田幸村の重臣。「我こそは幸村なり」と影武者として討死。
天正4年(1576年)矢沢頼綱に従い沼田城攻めに参戦。16歳にして初陣をかざる。
天正7年(1579年)矢沢頼綱に従い中山城と尻高城攻略に参戦。
天正8年(1580年)真田昌幸に従い小川城と名胡桃城攻略に参戦。
その後は護衛として伊藤継基らとともに真田幸村に従い、上野国吾妻一帯を転戦する。
天正13年(1585年)真田昌幸上杉景勝真田幸村を人質として海津城に送り援軍を要請した際、上田に残る。 このとき真田信幸が、鵤(鳩)、吉沢ら乗馬衆5名と、林、坂本らの足軽衆12名を矢沢頼康の配下につけ、 真田幸村を守らせたという。
天正17年(1589年)真田幸村の小田原攻めに従軍。このとき29歳。
天正18年(1590年)真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに従う。 その後も真田幸村とは行動を供にする。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。 関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸真田幸村父子に伴い一時は九度山に赴くが、上田に戻る。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村のもとに馳せ参じる。三浦新兵衛54歳である。
元和元年(1615年)大阪夏の陣では、真田幸村の影武者として真田幸村に成りすまして奮戦したが討死する。

鵤幸右衛門祐貞1559〜1615年

鳩幸右衛門、斑鳩幸右衛門ともいう。
真田幸村の重臣。「我こそは幸村なり」と影武者として討死。
天正3年(1575年)真田昌輝に従い長篠合戦に参戦。17歳にして初陣をかざる。
天正4年(1576年)矢沢頼綱に従い沼田城攻めに参戦。
天正7年(1579年)矢沢頼綱に従い中山城と尻高城攻略に参戦。
天正8年(1580年)真田昌幸に従い小川城と名胡桃城攻略に参戦。
天正13年(1585年)真田昌幸上杉景勝真田幸村を人質として海津城に送り援軍を要請した際、 真田信幸の命により、鵤幸右衛門は、吉沢、林、坂本らとともに矢沢頼康の配下に加わり、 真田幸村の護衛を務めた。
天正17年(1589年)真田幸村伊藤継基とともに騎馬隊将を務め小田原攻めに従軍。このとき31歳。
天正18年(1590年)真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに従う。 その後も真田幸村とは行動を供にする。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。 関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸真田幸村父子に伴い一時は九度山に赴くが、上田に戻る。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村のもとに馳せ参じる。鵤幸右衛門56歳である。
元和元年(1615年)大阪夏の陣では、真田幸村の影武者として真田幸村に成りすまして奮戦したが討死する。

林源次郎寛高1563〜1615年

林弾左衛門ともいう。
林太郎左衛門の長男。父林太郎左衛門真田幸隆の代から真田家に仕え、 足軽頭として主に吾妻一帯を守衛したとされる。 林寛高は、幼少時代より父とともに真田幸隆真田昌輝に仕え、 上野国を転戦。 林寛高三好伊三に劣らないぐらい大きな体で、ものすごい力持ちであったという。 そんなことが目に留まったかは分からないが、天正3年(1575年)以降は真田信幸真田幸村らの郎党に加わり、護衛を務めた。 いわゆるボディーガードのような存在だったのだろうか。 騎馬に跨り、刀を振り回す豪傑として名高い。
天正6年(1578年)真田昌幸の上州攻略の陣立てで父林太郎左衛門に従い参戦。殿を務める。林寛高にとっては初陣となる。
天正7年(1579年)矢沢頼綱に従い中山城と尻高城攻略に大きく貢献。戦功を立てる。
天正8年(1580年)真田昌幸に従い小川城と名胡桃城攻略に参戦。 その後は真田信幸に従い、上野国で転戦する。
天正13年(1585年)真田昌幸上杉景勝真田幸村を人質として海津城に送り援軍を要請した際、 矢沢頼康の配下として真田幸村に随行する。 このとき真田信幸が、鵤幸右衛門、吉沢ら乗馬衆5名と、林寛高、坂本らの足軽衆12名を矢沢頼康の配下につけ、 真田幸村を守らせたという。
矢沢頼康とともに上田に戻り、上田合戦に参戦し、戦功をあげる。以後は真田幸村と行動を供にする。
天正17年(1589年)真田幸村の足軽隊将として小田原攻めに従軍。
天正18年(1590年)真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに従う。 その後も真田幸村とは行動を供にする。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。 真田家の足軽隊将として徳川軍撃退に大きく貢献し、戦功をあげる。 関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸真田幸村父子に伴い一時は九度山に赴くが、上田に戻り帰農する。 慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村のもとに馳せ参じる。林寛高51歳である。
元和元年(1615年)大阪夏の陣では、真田幸村の影武者として徳川家康の本陣に斬り込み、 本陣を突き崩す働きを示した後、真田幸村に成りすまして奮戦したが討死する。

穴山小助安治1568〜1615年

岩千代、雲洞軒ともいう。
穴山玄蕃信光の長男。真田軍の守り神と賞された。
3歳で母親と死別し、父親の手一つで育てられた出で立ちからは、武田晴信の重臣として勇名を馳せた穴山信君の甥であるという触れ込みは信じ難い。 真田家は、武田家の家臣であり、武田勝頼滅亡の際、真田昌幸が自分の居城上野岩櫃城への亡命を進言したことでも、 衰運の武田家における真田家の存在の大きさが窺われる。 それ故、武田家滅亡後に徳川の禄を拒み、真田家に仕えた武田の遺臣たちは確かに大勢いるのだ。 穴山小助は、父穴山玄蕃信光が武田家滅亡後に、巻物にした系図を懐に入れ、戦場を渡り歩いて何がしかの報酬を得て世過ぎをするという風変わりな子連れ武者だったことが幸いし、 やがて真田幸村の児小姓の1人に加えられて真田家の家臣となる…とされている。 父親の後ろから槍を構えて戦場に臨む姿は、痛ましいというよりは、むしろ微笑ましいものを味方の兵士たちに覚えさせ、 不思議に勝運にも恵まれて「小助は我が軍勢の守り神じゃ」という噂を生み、それが真田幸村に見出される奇縁となって郎党の1人に加えられる。 武田家滅亡時の穴山小助は14歳であるから、武田家が滅亡したときに真田家を頼ったとする説は信じ難く、 真田家とともに武田家に仕えていた穴山信光真田昌幸と行動をともにし、やがて武田家滅亡と時を同じくして、 長男穴山小助真田幸村に見出され郎党の1人に加えられたという方がしっくりくるのではないだろうか。 事実、真田幸隆の家臣には穴山源覚という人物がいたとされている。『真田三代記』には、 やたら「穴山」という武将が真田家臣に多いことからも、穴山信光が本当に甲斐穴山家の出身かは定かではないのだ。 いずれにしても、穴山小助は幼少時代から真田幸村の小姓として仕え、海野六郎兵衛望月六郎兵衛、さらには筧十蔵祢津甚八郎らとともに郎党として、 活躍の機会も多かった。穴山小助真田幸村と容姿が酷似していたという。 性格は誠実で、与えられた役目をよく果たす。 真田幸村の身辺に仕え、その神算鬼謀をよく理解して家中をまとめ、真田幸村の重臣としての役目を果たした男といえよう。
天正4年(1576年)父穴山信光に従い武田方として上野国を転戦。「小助は我が軍勢の守り神じゃ」という噂を生む。穴山小助僅か9歳で初陣を遂げる。 6歳ともいわれる。真田幸村に見出され小姓となる。
天正7年(1579年)父穴山信光に従い武田方として上野国吾妻周辺を転戦。穴山小助12歳である。
天正10年(1582年)父穴山信光に従い真田方として越後上杉家や相模北條家との戦いに従軍。 武田勝頼が天目山で自害したとき、援軍で駆けつけていた真田隊が引き返す際、部隊長を務め北條氏を混乱させる。
天正11年(1583年)父穴山信光に従い埴科郡虚空蔵山城にて上杉景勝軍と戦い、これを打破る。大いに活躍し戦功をたてる。穴山小助は槍の名手として名を馳せる。穴山小助16歳のことである。
天正12年(1584年)真田幸村に従い賤ヶ岳合戦に参戦。戦功をあげる。
天正13年(1585年)真田幸村が人質として春日山城、海津城に赴く際、それに従う。 真田幸村とはすぐに別行動となる。上田原合戦では上田城で奮戦。穴山小助18歳である。 その後は真田幸村と再び行動をともにする。
天正17年(1589年)真田幸村の槍部隊将として小田原攻めに参戦。
天正18年(1590年)真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに小姓らとともに従う。 その後も真田幸村とは行動を供にする。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。 真田幸村の槍部隊将として徳川軍撃退に大きく貢献し、戦功をあげる。 関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸真田幸村父子に伴い一時は九度山に赴くが、諸国の情勢を探るために旅に出る。 道中では、博打で生計をたてていたとされる。 槍の名手でありながら、博打の名手としても名高い。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村のもとに馳せ参じる。穴山小助46歳、長男穴山新兵衛26歳である。
元和元年(1615年)大阪夏の陣では、真田幸村の影武者の1人として、7人の影武者の先頭に立ち、 徳川家康の本陣に斬り込み、本陣を突き崩す働きを示した後、真田幸村に成りすまして奮戦。 真田幸村の顔を見知っていた元武田家家臣原隼人と渡り合って壮烈な戦死を遂げたとされている。 真田軍勢の守り神は、真田幸村の影武者となり壮絶な死を遂げた重臣であり、 家臣団をまとめ上げた偉大な平凡人であったといえるのである。 『真田三代記』によりば、5月7日の決戦に、城方が破れて城内へ退却し、徳川家康が天王寺に本陣を進めたところ、 庚申堂から六文銭の旗を押し立て、300騎ばかりが徳川家康の本陣へ切りかかった。 真田幸村自身が鑓を取って奮戦したが、従士も大方討たれ、万代ヶ池の岸で、太刀をくわえ、 泥の中へまっさかさまに落ちて死んだ。 引き上げて調べて見ると、真田幸村の影武者穴山小助であった。 また西尾久作の取った首は影武者2人の1人望月宇右衛門だったという。こうして真田幸村薩摩落延び伝説が生まれたのである。

鷲塚佐助幸吉1572〜????年

猿飛佐助、鷲尾佐助ともいう。
甲賀流忍術の使い手。信州鳥居峠の麓に住む郷士鷲塚佐太夫の長男という。 武田勝頼の遺児ともいわれる。 山中で猿を遊び相手に育ち、峠の奥に住む甲賀流忍術の名人戸沢白雲斎に見出される。 甲賀忍者戸沢白雲斎の教えを受けた鷲塚佐助は免許皆伝の域に達したとされている。 火遁、水遁、金遁、土遁を全て習得したという。 たまたま、鳥居峠に猪狩に訪れていた真田幸村とめぐり合い、その技を披露して郎党に加えられたのが、 そもそも真田との因縁だったという。 以後鷲塚佐助は、まさに神出鬼没の大活躍で、各地を廻って謀報活動をした。 真田幸村が九度山に配流になると、鷲塚佐助は天下の情勢を探るために、諸国漫遊の旅に出る。 三好伊三入道らとの珍道中は、物語、漫画などでもおなじみのものである。 志を持ちながら世に入れられない英雄豪傑と邂逅して、後の大阪の陣に向け、人材を集めて回る。 この辺りのモチーフは、権力に刃向かう好漢の活躍を描いた中国の奇書『水滸伝』を彷彿とさせるものがある。 陽気で豪放な、十勇士のリーダーとして活躍する鷲塚佐助は、徳川家を向こうに回し、真田幸村を支えた忍者集団の象徴として、 日本人の多くに愛される永遠の英雄に昇華した。 真田軍団にとってはなくてはならない存在であった。

霧隠才蔵1571〜????年

鹿右衛門、宗蓮、宗連ともいう。
伊賀流忍術の使い手。鷲塚佐助と並ぶ忍術の名人であり、甲賀の好敵手ともいえる忍者の名流伊賀流の出身である。 元は浅井長政に仕える侍大将霧隠弾正左衛門の長男として生まれる。 父の討死後に伊賀の名人百地三太夫に忍術を学び、皆伝を受けたという。 伊賀名張の百地三太夫を師として忍法を修め、名だたる大盗賊石川五右衛門とも同胞だったとされる。 主家の再興を志して、軍資金集めのために山賊として暮らすうち、鷲塚佐助と出会って、 術比べを繰り広げた。そして鷲塚佐助優勢のうちに引き分けた霧隠才蔵は義兄弟の契りを結び、 鷲塚佐助の引き合わせで、真田幸村に仕官した。 霧隠という姓からか、霧隠才蔵には鷲塚佐助と対照的な、闇の雰囲気が濃厚である。 一般的にも陽気で積極的な鷲塚佐助に対し、物静かで慎重な霧隠才蔵というイメージが強いように思われる。 真田の兵法は、平地での正規戦より、山岳地域でのゲリラ戦に真価を発揮する。 おそらく霧隠才蔵は、山のかわりやすい気候を利用しての不正規戦に、練達の技を発揮したのだろう。 霧隠という姓からは、霧や森といった遮蔽物を利用した、少人数での戦闘を得意とする名人の気風が窺える。 映画や漫画などでは冷徹な美形が多い。冷静沈着、闇の雰囲気漂う美貌の忍びというのがイメージなのだろう。 豪放な鷲塚佐助に対して、冷静な美貌に描かれる。影の忍者霧隠才蔵は、華やかな十勇士にあって、 ひときわ異彩を放っている。望月六郎兵衛と協力し合い「地雷火」という爆弾をつくり徳川軍を迎撃、 また祢津甚八郎とは「銅連火」という大砲をつくり徳川軍を苦しめたとされている。

深谷新左衛門1569〜1615年

三好清海、青海、御清、隆清院、三好清海入道ともいう。
真田十勇士の一人。 出羽国亀田城主深谷六郎の長男として永禄12年(1569年)に生まれる。
石川五右衛門の子であるとも、武田晴信に滅ぼされた伊那高遠家の猛将三好勘解由の遺児で上田城と戸石城の中間にある来福寺で弟三好伊三とともに育ったともいわれる。 母は真田昌幸の側室の妹であり、真田昌幸の甥にあたる。 真田幸村にとっては血のつながりはないが、従兄弟にあたる。
深谷新左衛門深谷総兵衛兄弟(三好兄弟)は、出羽国亀田城を追われた後、 縁故のいる真田家を頼ったとされている。 鷲塚佐助とともに諸国を廻り、戦場を縦横無尽に駆け回ったという。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村とともに大阪城に入城。 深谷新左衛門(三好清海入道)は43歳である。 元和元年(1615年)には、弟深谷総兵衛(三好伊三入道)とともに徳川秀忠を待ち伏せたが果たせず、 鎧を脱ぎ馬上で腹を切るとその刀で自ら首を切り落としたという。
深谷新左衛門三好清海という名で有名であるが、実はこの三好清海という名から、ある説がとなえられている。 女性という説である。 個人的に好きであり、この説も想定してみると、いくつか面白い話につながる。 それは三好清海隆清殿なのではないかという説だ。 出羽国亀田城落城により、縁故の真田家を頼った隆清殿は、 上杉謙信の人質となって春日山城にいた真田幸村の女中として仕える。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦敗戦後は九度山にともに赴き、 真田幸村の側室となり、慶長9年(1604年)には五女御田殿を、 元和元年(1615年)三男真田幸信を産んだとされている。従来は、隆清殿豊臣秀次の娘とされてきたが、身分の違いからしても豊臣秀次の娘が真田幸村に嫁ぐのは、しかも側室というのがさらに信じ難いし、 周知のとおり、豊臣秀次は文禄4年(1595年)に豊臣秀吉によって自刃を強いられ、 その妻妾、若君なども文禄4年(1595年)8月2日に京三条河原で斬られている。 真田幸村の側室となったというこの女性(隆清院殿)が仮に豊臣秀次(三好秀次)の娘であったならば、 女児であったことからこの惨劇を潜り抜けて成長していたということになるのだが、 やはり先述のとおり身分のこともあって信じ難い。 ただ、真田幸村豊臣秀吉から豊臣姓を与えられていたほどの人物であったわけで、 身分を考えても完全に否定することはできないのだ。ただ、 豊臣秀次は永禄11年(1568年)の生れであるので、真田幸村と同い年かもしくは年下ということになる。 この時代の婚姻にこれだけの年の差は珍しくもないし、 御田殿が生まれているのも慶長9年(1604年)なので豊臣秀次の娘という可能性もなくはない。 さらに、 大阪の陣の際、御田殿とその母(隆清院殿)は豊臣秀次の母(豊臣秀吉の妹)瑞龍院殿(智殿)の許に身を寄せ、 難を逃れたというのだから何かしらの関係があると見てよいだろう。 その後の隆清院殿の行動は不詳だが、妙慶寺に位牌があるところを見ると、御田殿とともに亀田に身を寄せた可能性もある。 出羽亀田藩関係の史料で法号隆清院とされており、妙慶寺には隆清院の位牌がある。 江戸時代において亀田城主岩城宣隆に嫁いだ御田殿と、その母隆清院殿が、大阪の陣のときに 豊臣秀次(三好秀次)の母(豊臣秀吉の妹)瑞龍院殿(智殿)の許に身を寄せていたことと、 御田殿の弟真田幸信三好左馬之介と名のっていたことと何かしら関係があると思われるが、 こうした事実から隆清院殿豊臣秀次の娘であるという説に結びついているだけであって、 隆清院殿豊臣秀次の娘とするのは無理がある。
実際は出羽国亀田城落城により、縁故の真田家を頼った深谷六郎の娘と考えるのが自然であろう。 隆清院殿にとってみれば、娘御田殿の婚姻もあって、故郷亀田へ郷ることとなったわけである。

深谷総兵衛1570〜1615年

三好伊三、為三、伊三入道、三好総兵衛ともいう。
真田十勇士の一人。深谷新左衛門(三好清海)の弟。 超人的怪力と豪放な性格が魅力の偉丈夫であり、気概溢れる辞世の句を残し自決した名脇役。 関ヶ原合戦敗戦後、鷲塚佐助とコンビを組み、諸国漫遊の旅に出る大入道。 陽気で豪快、一本気な好漢で、50人力と称する怪力を持ち、重さ18貫の鉄棒を縦横無尽に振るう豪傑。 もとは歴とした武士で、しかも出羽国亀田城主深谷六郎の長男(次男)として生まれている。 母は真田昌幸の側室の妹であり、真田昌幸の甥にあたる。 亀田城落城後に深谷新左衛門(三好清海)とともに真田昌幸を頼り家臣となったというが、 初めは信濃へ赴いただけで家臣の由利鎌之助と組み、鈴鹿山中で山賊をやっていたという。 そこで深谷新左衛門(三好清海)に促され真田幸村の郎党に加わる。 『真田三代記』に名を連ね、真田家臣の古株として活躍している。武器は鉄棒と鉄筋を打った樫の棒。 深谷総兵衛(三好伊三入道)の魅力は、その豪放な性格と、人間離れした怪力にある。 大岩を傍らにでんと据え、ちぎっては投げ、ちぎっては投げすれば、徳川の大軍も手の出しようがなく逃げ惑うばかり。 鉄棒を振るっての活躍の末に、太鼓腹を揺すってカラカラと高笑う姿は、鷲塚佐助霧隠才蔵にはない親しみが窺える。
天正12年(1584年)真田幸村に従い賤ヶ岳合戦に参戦。
天正13年(1585年)真田幸村が人質として春日山城、海津城に赴く際、真田幸村とは別行動となる。 上田原合戦では上田城で僧兵衆を率いて奮戦。深谷総兵衛(三好伊三)16歳である。 その後は真田幸村と再び行動をともにする。
天正17年(1589年)真田幸村とともに小田原攻めに参戦。
天正18年(1590年)真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに小姓らとともに従う。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。
関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸真田幸村父子に伴い一時は九度山に赴くが、諸国の情勢を探るために鷲尾佐助らとともに旅に出る。 慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村のもとに馳せ参じる。深谷総兵衛(三好伊三)44歳である。
元和元年(1615年)大阪落城時、徳川家康徳川秀忠を待ち伏せして討ちとろうと、大阪城から15貫匁入りの火薬を2袋持ち出し、 徳川家康徳川秀忠の通過を待った。 この火薬を使い徳川秀忠を追い詰めたが討つことは適わず、腹を切ることに。 「落ちゆけば地獄の釜を踏み破り、あほう羅刹に事を欠さん」と好漢深谷総兵衛(三好伊三)の面目躍如、豪快な深谷総兵衛(三好伊三入道)に相応しい気概溢れる狂歌を、 深谷新左衛門(三好清海)と詠じながら自刃した。 十勇士中最も年長で、大阪の陣では90歳という高齢で奮戦したともされるが、これではどう計算しても真田昌幸の甥とは言えない。 実の享年は45歳である。 真田十勇士には中国の奇書『水滸伝』の影が窺える。『水滸伝』に登場する全身を彫り物で飾った怪力の大坊主、花和尚魯地深深谷総兵衛(三好伊三入道)に近い。 武術の達人でありながら、いつも失敗ばかりで騒ぎを引き起こす花和尚魯地深には、他の好漢とは違った魅力がある。また、同じ中国の『西遊記』で、大食いの怪力といえば猪八戒。 『真田幸村漫遊記』では、鷲塚佐助が孫悟空、三好清海が猪八戒の役を振られている。三好伊三は、庶民が夢を託したヒーローの、身辺な部分を仮託されたといっていいだろう。

由利鎌之助基幸1573〜1615年

由利春房ともいう。
真田十勇士の一人。『真田三代記』に登場する。日本第二の槍の名手。 出羽の国由利村の生まれ。越前戦国大名の朝倉義景の一族とも、三河野田城主菅沼新八郎の家臣とも、大谷吉継の隠し子とも、また深谷新左衛門(三好清海)深谷総兵衛(三好伊三)兄弟の父親が城主を務めていた出羽亀田城近くの百姓の子とも、 深谷家臣ともいわれる。農民であった由利鎌之助は多彩な武器を使い、出身地である由利を姓にしたともされている。 気が荒く、自身が武術の達人であると同時に、兵を率いての猛将振りを発揮する。 天下無双の鎖鎌の使い手とも、剣の使い手ともいわれる。また、太閤豊臣秀吉の御前で槍試合が催されたとき、 当時名人と呼ばれた亀井新十郎を破ったものの、後藤又兵衛との決勝戦で善戦をしたが惜敗して天下一とはならなかったという。 槍の名手としても名高い。これが由利鎌之助のふれ込みである。得意が槍というならともかく、鎖鎌では、彼もまた武士の表芸とはいえない。 農民出身の武芸者ならば、不正規戦の名手としての経歴にも納得できる。
天正8年(1580年)深谷総兵衛(三好伊三)が親族の真田家を頼って信濃へ赴くと、深谷家重臣として父とともに信濃へ赴く。 そこで主君深谷兄弟の深谷総兵衛(三好伊三)と力比べをした上で意気投合する。深谷総兵衛(三好伊三)の重臣として気に入られていく。
天正9年(1581年)深谷新左衛門(三好清海)が真田家に仕えてからも深谷総兵衛(三好伊三)由利鎌之助は行動をともにして鈴鹿山中に残る。 このことは深谷総兵衛(三好伊三)が深谷家の跡取りであったプライドから、 真田家に仕えることをよしとせずに山中で暴れていたからだという。
天正10年(1582年)深谷総兵衛(三好伊三)深谷新左衛門(三好清海)に促され真田家に仕えた後も、 鈴鹿峠にほど近い山中に籠って父とともに山賊気取りのゲリラ稼業を続けていた。由利鎌之助10歳のことである。
天正11年(1583年)由利鎌之助は父とともに、丹波の豪族の総領で、織田信長に攻め滅ぼされた朝倉家の残党と称し上京する。 大和柳生の地で剣の修行をしたともいわれている。
天正12年(1584年)賤ヶ岳合戦で父とともに柴田勝家に味方し、豊臣秀吉に味方する真田幸村の隊を急襲して苦戦させた。 その采配を見た真田幸村が、穴山小助に命じて生け捕らせ、元君主深谷総兵衛(三好伊三)に口説かれ家臣に加えられたという。 深谷総兵衛(三好伊三)と鈴鹿山中で山賊稼業に精を出し、後に賤ヶ岳合戦で真田家に生け捕られ家臣に加わったという経緯から考えれば、舞い戻ったというべきかも知れない。いずれにせよ真田幸村の郎党になったのも、深谷総兵衛(三好伊三)と手を携えていたから…というわけである。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では真田幸村に従い上田城に籠る。 猛将振りを発揮した天下無双の槍の使い手として大活躍。徳川軍を迎撃する。 真田幸村が九度山に配所の身であるとき、喧嘩友達だった祢津甚八郎と諜報活動をしたという。 祢津甚八郎とは仲が悪かったが、海野六郎兵衛を慕っていたという。 また、槍を活かして江戸で道場を開き、徳川家康の動静を探っている。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村のもとに馳せ参じる。由利鎌之助42歳である。
元和元年(1615年)大阪落城時に真田幸村豊臣秀頼とともに薩摩落ちを遂げたとされるが、 やはりこれも海野六郎兵衛らと一緒で、主君とともに討死していることが由利鎌之助自身にとっても本望なのではないだろうか。