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小助の部屋/滋野一党/真田滋野氏/親族

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河原丹波守隆正1509〜1578年

妹は真田幸隆に嫁ぐ。真田幸隆の義兄。
河原隆正真田幸隆に嫁いだ河原殿の兄。 従って真田幸隆の義兄にあたる。 河原氏は小県海野氏において大官衆に位置する家系であったとされる。
河原隆正には長男河原宮内助、次男は名前が不明だが、三男河原右京亮綱家がいる。
河原綱家は右京介、右京助、又次郎、綱隆ともいう。 河原隆正の三男として生れ、真田昌幸の従兄にあたる。 2人(3人とも)の兄が長篠の合戦で討ち死にしたため家督を継ぎ、真田昌幸の家老となって活躍した。 河原綱家の「綱」の字は真田信綱から一字を与えられたものだという。 いかに河原氏が真田家中で重臣として仕えていたかが窺える。真田昌幸の家臣団については、 その基本は真田幸隆真田信綱から引き継いだ譜代家臣団層であって、その構成は 矢沢氏、常田氏、鎌原氏らの一族衆と河原氏、春原氏、宮下氏、深井氏、矢野氏、丸山氏らの真田譜代衆が中心であった。 これに真田昌幸の代になって帰属した旧武田給人の大熊氏、浦野氏、海野氏、池田氏らが外様として加わって家臣団の中核となっていた。 永禄6年(1563年)9月の上野吾妻郡の岩櫃城攻略を契機として真田氏の寄騎衆として預けられていた 湯本氏、折田氏、唐沢氏、一場氏らの吾妻衆も、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後には真田昌幸に帰属し、 同じく外様衆となっている。さらに天正8年5月の沼田城攻略後に帰属した沼田衆の一部には、中沢氏、森下氏、田村氏のように直接 真田昌幸から知行宛行いを受けているものもあり、これらは武田氏滅亡以前からの沼田領での直属家臣団である。 併せて沼田城攻略に際して真田昌幸に預けられて寄騎衆となった氏族も多く、その筆頭が藤田信吉であり、 金子氏、恩田氏、渡辺氏、発知氏らの沼田衆も武田滅亡後には外様衆になっている。
ついで天正10年以降、真田昌幸の小県郡統一の過程で家臣化した領主層も多く、その代表が祢津氏、望月氏、室賀氏、出浦氏、丸子氏らである。 次に天正10年以降の真田氏領国制下での在地支配の様相をその発給文書によって見ておくと、 御料所の比率が高かったように推定されるが、その直轄領には代官が任命され、年貢収納他の役務を負っていた。 そうした代官役に任ぜられたのは、同郷内に本領を有していた有力給人や隣接地に大規模な知行地を有していた小領主であったと思われる。 上丸子郷で300貫文の知行を宛行われた丸子三右衛門尉(海野三右衛門尉)の場合とか、天正15年(1587年)8月25日に吾妻領内の 唐沢山の年貢収納に関して、山手銭の徴収を譜代重臣であった河原綱家が、遠隔地の直轄地支配に当った代官に任ぜられているごとくである。 とりわけ慶長6年以降の真田信幸治世下では代官任命例が多く見られ、一部については大代官、肝煎の称をもって広域に及ぶ郡奉行のような職務も置かれていたことが明らかにされているが、 真田昌幸の代では確認できない。
河原綱家には長男河原左京(河原左衛門尉)がおり、天正8年(1580年)8月、 真田昌幸の上州攻略の陣立てで馬廻を務めた。19歳での初陣となる。
幕末には河原綱徳が『真田家御事蹟稿』を編纂している。 真田氏三代の中で、最も基幹的な役割を果たした真田昌幸に焦点を合わせた単著は皆無であり、 特に真田昌幸の大名化の過程については戦略や戦法の卓越性のみを強調したものが多く、 領主および大名としての政策や経営の展開にまで言及したものは少ない。確かに調べてみると、この期の真田氏に関しては、 後世の編纂物である戦記物や軍記類の記述は豊富であるが、古文書や信頼のおける記録類は意外と少ない。 子孫が近世大名として存続したことからみれば、その初期に関してもっと多くの一次史料があっても良いと思われるが、 藩政史料の豊富さに比べていかにも貧弱である。その原因はいくつか考えられるが、一つには真田昌幸および藩祖となったその嫡男 真田信幸との間に政治的な断絶があったことであり、 慶長5年(1600年)9月の関ヶ原合戦の結果として真田信幸が上田領を併合した際、それ以前のものを確実に継承していないと思われる節が大きい。 それは現存する『真田家文書』のあり様から言えることであり、併せて、享保16年(1731年)に江戸藩邸が類焼した際、 多くの記録、文書を焼失したことも原因であろう。さらに言えば、他大名に比べて家史の編纂事業が大幅に遅れたことである。本格的なものは、 やっと幕末になって家臣河原綱徳ほかに命じて編纂した『真田家御事蹟稿』であって、既にこの段階では関連史料の多くが散逸していたことが、 同書の『綱徳注記』によって明らかである。
堀田五兵衛1530〜1612年

作兵衛ともいう。娘は真田幸村の侍女。 長男は堀田興重(堀田作兵衛)真田昌幸が次男真田幸村の世話役として選んだ人物とされる。 また、天正12年(1584年)頃、堀田五兵衛の娘と真田幸村の間には長女阿菊(すへ)殿が産まれている。 信州上田で出生しているが、長男堀田興重の養女として育てられる。 その後阿菊(すへ)殿は小県郡長窪の郷土石合十蔵道定に嫁いだ。 石合家はのちに中仙道長窪宿の本陣となった。堀田興重は大阪の陣で真田幸村に従い討死した。 阿菊殿は寛永19年(1642年)に死去した。その墓は長安寺にある。
堀田興重の長男堀田又兵衛は幼名を源内といい、父堀田興重が大阪の陣で討死してから 堀田又兵衛は石合家に厄介になる。父堀田興重真田幸村の娘阿菊(すへ)殿を養女にし、 阿菊(すへ)殿石合道定に嫁いでいた関係による。