小助の部屋/滋野一党/真田滋野氏/真田幸村(真田信繁)/大阪城の戦友

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伊木遠雄1567〜1615年

伊木七郎右衛門ともいう。
伊木忠次の長男。 真田幸村にとって慶長19年(1614年)大阪の陣での真田丸以来の盟友。 伊木遠雄は永禄10年(1567年)に伊木忠次の長男として生まれる。 はじめは豊臣秀吉の近習となり、天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦で戦功をあげ、 黄母衣衆に加えられる。他の武将に比べると出世が早くなく、豊臣秀吉の没後、 慶長4年(1599年)のことになるが、河内国で300石を与えられる程度であった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍に属して戦ったため、戦後は浪人の身となった。 浪人中は何処でどのような生活をしていたかは分からないが、慶長19年(1614年)、豊臣秀頼が 「関ヶ原浪人」を招いたときこれに応じて大阪城に入城した。 そこで初めて真田幸村とのつながりができてくるわけである。 真田幸村が大阪城の1番外側の部分、すなわち天王寺表に一郭を構えたときから関係が生まれている。 この一郭こそが真田丸であり、伊木遠雄豊臣秀頼から真田丸に軍監として派遣されていたのである。 残念ながら伊木遠雄が真田丸でどのような働きをしたかのか不明であるが、 真田幸村の最後の突撃隊に伊木遠雄も加わっていたことから類推するに、 真田幸村と間近に接するうちに、真田幸村に惹かれていくようになったのではなかろうか。 ただ伊木遠雄真田幸村の突撃隊に加わってはいるが、真田幸村と一緒には討死していない。 七手組頭の真野頼包と刺し違えて死んだとされている。
伊丹正俊*1575〜*1630年

伊丹周防守ともいう。
大阪冬の陣で真田丸に籠った寄騎衆。