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小助の部屋/滋野一党/真田滋野氏/姫

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[真田幸隆の妻]
羽尾殿河原殿海野殿    
[真田信綱の妻][真田昌輝の妻][真田昌幸の妻][真田信尹の妻][真田隆勝の妻]
於きた殿(於北殿)相木殿山之手殿(やまのて)馬場殿   
[真田信綱の娘][真田昌輝の娘]
某殿      
[真田昌幸の娘]
村松殿(むらまつ)加津野殿鎌原殿高遠殿宇田殿清光院殿於楽殿(おらく)
[真田信幸の妻/侍女]
小松殿(こまつ)右京殿お通殿    
[真田信幸の娘]
高力殿台殿某殿某殿   
[真田幸村の妻]
堀田殿采女殿竹林院殿隆清院殿   
[真田幸村の娘]
阿菊殿(すへ)於市殿(いち)阿梅殿阿栗殿(あぐり)御田殿(なほ)阿菖蒲殿(しょうふ)於金殿(おかね)
青木殿某殿     

河原殿1522〜1593年

河原氏、恭雲院ともいう。
海野氏重臣河原丹波守隆正の妹。真田幸隆に嫁ぐ。 天文10年(1541年)、海野氏没落のとき兄河原隆正武田晴信に降伏し仕えたとされるが、 身を隠していたともされる。 河原殿真田幸隆に嫁いでたので、真田幸隆の浪人生活を考えると、相当苦労したと思われる。 真田信綱真田昌輝真田昌幸真田信尹の四男を産んだ。 もう1人真田高勝がいるが、これは河原殿の出生かどうか不明である。 だが、いずれにせよ彼女は五人の男子を父に劣らぬ武将に育て上げた。 真田氏は、河原殿だけでなく正室たちがしっかりしている。 もし彼女たちが子どもたちの教育を誤っていれば、真田昌幸真田信幸真田幸村という名将は存在しなかったであろう。 河原殿の没年は天正20年(1592年)5月20日とも、翌文禄2年(1593年)8月1日ともいわれる。 長男真田信綱を16歳で産んだとされるため、享年は72歳になる。追号喜山理慶大姉。

海野殿1512〜*1570年

海野氏ともいう。
海野棟綱の娘。

於きた殿(於北殿)1536〜*1600年

中野箱山城主高梨摂津守政頼の娘。真田信綱に嫁ぐ。 信綱寺に華翁妙栄大姉とある。『小県郡御図帳』には、北さま(於北殿)知行として合計13筆80貫文がみえており、 真田昌幸に代替わりしてからも上田周辺で多くの知行を有していたことが明らかである。 『滋野世記』には「真田河内守信吉の母は真田源太左衛門(真田信綱)の娘」とあることからも真田信綱の娘は 真田信幸に嫁いだことが分かる。真田信綱於北殿との間には長男真田信興、次男真田信光らが生まれている。

井上殿1540〜*1610年

井上次郎座衛門の娘。真田信綱に嫁ぐ。

某殿1567〜*1620年

真田信綱の長女として生まれる。真田信幸の側室として嫁ぐ。
真田信幸とは従兄妹にあたる。真田信幸との間に長男真田信吉を産んだとされている。

相木殿1545〜*1600年

相木昌朝の娘。真田昌輝に嫁ぐ。真田昌輝相木殿の間には長男真田信正が生まれている。

山之手殿(やまのて)1546〜1613年

寒松院ともいう。 武田晴信の養女として真田昌幸に嫁ぐ。真田信幸真田幸村らの母。 出自については諸説あり、未詳のままになっているのだが、 松代藩の重臣河原綱徳は『寒松院殿御事蹟稿』において、各説を上げている。
@菊亭晴季の娘。 『滋野世紀』『真武内伝』などの一説。
A正親町実彦の娘。 菊亭晴季の養女として真田昌幸に嫁ぐ。 『滋野世紀』の一説。『取捨録』『樋口系図』など。
B宇田頼忠の娘。 『諸家高名記』などや『真武内伝』の一説。
C宇田頼次の娘。 『真武秘伝記』など。
D遠山右馬亮の娘。 『沼田記』『続武家閑談』など。
E正親町氏の娘。 武田晴信の養女として真田昌幸に嫁ぐ。 『綱徳家記』。
遠山右馬亮は武田家の足軽大将の1人として『甲陽軍鑑』に名が見える甲州の武士である。 『滋野世紀』によれば、真田幸隆の娘つまり真田昌幸の妹の1人が、その妻になっており、 また、『真田軍功家伝記』では、真田昌幸の弟真田信尹の娘がその妻になったともある。 いずれにしてもこの説は、真田氏の娘の1人が遠山氏に縁付いたことにより誤伝、とみてよかろう。 菊亭晴季真田昌幸より8歳年上(1539年〜1617年)である。 真田昌幸山之手殿の間に永禄9年(1566年)には真田信幸が生れているので、 まず菊亭晴季の娘という説はかなり無理がある。 正親町実彦は天文17年(1548年)の生れで真田昌幸より1歳年下であり、 山之手殿正親町実彦の娘とする説はまず無理である。 宇田頼忠の娘説も石田三成が関わってくる分、有力視されてきたが、現在では否定されている。 @〜Dの説を消してくると、Eの説が残る。
真田昌幸は7歳の時から甲府にあって、武田晴信に小姓として仕えた。 真田昌幸は特に有能であったため、武田晴信に引き取られ、成人後は旗本となり、 常に武田晴信の側近にあって活躍したという。 そして、武田家ゆかりの甲斐の名門武藤の姓を与えられ、武藤喜兵衛昌幸とも称していた。 武田晴信の妹婿が菊亭晴季であり、その菊亭家と正親町家とは同じく西園寺家の分かれ、という近い間柄にあった。 このことからも多少身分が違い過ぎるきらいはなしとしないが、 真田昌幸の妻は公家正親町氏の出であるとする説も、あながち荒唐無稽だとばかりは言い切れなくなる。 幼少時代より可愛がった側近の家臣の嫁捜しにあたり、 武田晴信がその妹婿菊亭晴季に候補者の推薦を頼み、菊亭家の親威であった正親町家の娘が 紹介され、その娘が武田晴信の養女という形で真田昌幸と結婚したという可能性は、十分にあり得るのではなかろうか。 菊亭晴季自身も、武田晴信に招かれて2度甲府を訪れているという。 とすれば、@の菊亭晴季の娘婿説も、この辺の事情から生じた誤伝とみられるわけである。
真田昌幸は武田家滅亡後も「信玄様御菩提所造立致すべく候の間…」などと表明している。 また文禄から慶長にかけて、一時期を除き、終生武田晴信と大変よく似た花押を用いてもいる。 このような事実は、真田昌幸武田晴信との縁を、生涯にわたって強く意識していた様子を物語っている、 と受け取れるものである。
その出自が公家であったか否かはともかくとしても、 山之手殿武田晴信の養女という形で、京都より真田昌幸のもとへ嫁いできたことに、 まず間違いはあるまい。 これは真田昌幸が、武田晴信にそれほどに目をかけられていた証左、と言うこともできよう。
慶長5年関ヶ原合戦に先立ち、真田昌幸がはじめ徳川方として上杉景勝討伐に向っていたため、 大阪城の人質となるが、河原右京綱家に救出されている。 慶長18年(1613年)6月3日に没した。追号寒松院殿宝月妙鑑大姉。上田大輪寺に葬られている。

村松殿(むらまつ)1565〜1630年

宝寿院ともいう。
永禄8年(1565年)、真田昌幸の長女として躑躅ヶ崎の館で生れる。 家臣小山田壱岐守茂誠の妻。真田幸村の姉。
小山田茂誠は甲斐の小山田昌行(上原昌行)の三男で、天正10年(1582年)、父小山田昌行(上原昌行)が高遠城で戦死してのち、 真田氏の重臣となった。後松代藩家老にまでになる。 この村松殿は小県郡村松で領地を与えられたので、村松殿と呼ばれた。 真田信幸真田幸村(真田信繁)も、この姉を長姉として敬重し、 真田幸村が大阪城中からこの姉に送った手紙も多数現存する。 寛永7年(1630年)6月20日に没する。行年は66歳。宝寿院殿残窓庭夢大姉と謚号され、松代長国寺に葬られたという。

加津野殿1569〜1657年

真田昌幸の次女。加津野幸政の妻。
加津野幸政の父は加津野信尹(真田信尹)であり、加津野信尹(真田信尹)真田昌幸の弟。 よって、加津野殿加津野幸政は従姉弟同士の結婚である。2人の間には嫡男真田幸信が生れている。 明暦3年(1657年)4月28日に没し、江戸渋谷の大安寺に葬られたという。一説には明暦2年没ともいわれる。

鎌原殿1570〜1619年

真田昌幸の三女。鎌原重春の妻。
母は綿内兵庫頭の娘(綿内殿)。鎌原重春の父は鎌原重澄鎌原重春との間に鎌原重宗が生れている。 母は綿内兵庫頭の娘(綿内殿)なので山之手殿の子真田信幸真田幸村とは異母兄妹にあたる。 元和5年(1619年)8月3日に没した。

高遠殿1571〜1610年

真田昌幸の四女。保科正光の妻。
保科弾生忠正光の父は保科弾生忠正直保科正直は槍弾正といわれた勇将で、高遠城将であったが、武田氏滅亡後は、徳川家康に属し、慶長5年、再び高遠城を与えられた。 保科正直の後妻は徳川家康の同母異父の妹の久松殿だった。 保科正直久松殿は天正12年(1584年)に結婚している。 このように、保科氏は徳川と姻戚であったため、保科正直の後を嗣いだ保科正光は、将軍徳川家忠の 隠し子保科正之を押し付けられた。 徳川家忠は夫人浅井殿(淀君の妹)のほか、側室がなく、保科正之は唯一の隠し子であったが、 浅井殿に配慮してか、 夫人の生前は、父子の名乗りをあげることもできなかったようだ。
保科正光は夫人高遠殿との間に子がなかったらしく、保科正光の末弟にあたる保科正貞(母は久松殿保科正光の義弟、徳川家康の甥)を養子とした。 保科の正系は保科正之に受け継がれ、松平姓となり、会津に移ったが、保科正貞の系は、代々弾生忠を名乗り、 下総飯野1万7000石を領した。 高遠殿は慶長15年(1610年)10月20日に没した。葬地は高遠満光寺。

宇田殿1573〜1666年

真田昌幸の五女。宇田河内守頼次の妻。宇田頼次死後は滝川一積の妻となる。
宇田頼次の父は宇田頼忠であり、宇田頼忠の娘が石田三成に嫁いでいるので、 石田三成宇田頼次は義兄弟である。 宇田頼次石田三成の父石田為成の養子となり「石田刑部少輔」とも名乗っていた。 名目の上でも石田三成宇田頼次は兄弟になっていたのである。
宇田頼忠宇田頼次父子が石田三成に従い、関ヶ原の合戦で討死した後は、 『石田系図』『滝川十次郎家記』によると、真田氏の諸系図にもあるとおり、滝川三九郎一積の妻となっている。 滝川一積滝川一忠の子で、滝川一忠織田信長家臣の滝川一益の子である。 滝川一積は徳川家旗本1000石を知行したが、真田幸村の娘を養女として蒲生忠知の家臣蒲生郷喜に嫁がせた罪で改易となり、後に松代に住む。
滝川一積との間に生まれた子滝川一明は旗本小普請で300俵、妻は真田幸道の叔母という。 滝川一明の養子滝川一重は真田氏家臣鎌原外記重俊の子で、その母は真田信政の娘である。 また石田頼次の娘も滝川一積が養女として家臣小山田主膳之知に嫁がせている。
寛文6年(1666年)5月13日に没した。葬地は京都妙心寺。

清光院殿1579〜1670年

清光院ともいう。真田昌幸の六女。
母は平原彦次郎の娘。妻木彦右衛門頼照の妻。 妻木頼照妻木頼熊(頼能)が正しく、妻木重直とも称した。 徳川家旗本3000石。勘定奉行など勤めた。 その次男妻木幸頼真田長兵衛幸政の子真田幸吉の養子となっている。 なお、妻木頼照妻の詳細については『高野山見聞記』に 「長野村平原彦次郎娘昌幸公御部屋に入られ候よし、清光院様腹の出生にて妻木彦右衛門様へ被嫁候」 とある。
寛文10年(1670年)7月に没した。

於楽殿(おらく)1581〜*1630年

お楽、於らくともいう。真田昌幸の七女。
陸奥伊達家の家中の妻となったとされる。

馬場殿1555〜*1620年

馬場氏勝の娘。真田信尹に嫁ぐ。真田信尹馬場殿の間には長男真田幸政、 次男真田政信、三男真田信辰が生まれている。

小松殿(こまつ)1573〜1620年

大蓮院ともいう。本多忠勝の娘として生れる。
徳川家康の養女として真田信幸に嫁ぐ。小松殿は長女、次女、次男、三男を産んだとされる。 長男真田信吉真田信綱の娘(真田信幸の従兄妹)との間に生まれた子であるとされている。 関ヶ原合戦の直前、西軍についた真田信幸の父真田昌幸が「孫の顔を見たい」と沼田城を訪れたが、 彼女は頑として入城を拒んだという。 真田氏は、上田から松代へ移封されたものの、真田信幸の系統が、同じく信州の大名として明治維新まで存続した。 そして、真田氏は終始一貫「滋野」を本姓としていた。 松代藩祖でもある真田信之(真田信幸)は、上田在城時代の元和6年(1620年)2月24日に、 妻小松殿(大連院)を亡くしたが、その一周忌に真田信之が常福寺(上田市諏訪部のちの芳泉寺)に建てた小松殿の墓塔の銘文には、 「真田伊豆守滋野朝臣信之妻女」とある。 これを今に伝わる確かな記録の始めとして代々の真田氏当主は、全て「滋野○○」と名乗っていたものであった。 武蔵鴻巣で没したとされ、同地の勝願寺には同じくこの地で没した三男真田信重の墓と並んで小松殿の墓がある。 上田の芳泉寺、沼田の正覚寺、松代の大英寺にも供養塔がある。 追号大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。享年48歳。

右京殿1580〜1660年

お京、お亀ともいう。 玉川伊予守秀政の養女。玉川秀政は松代城代を務めたとされる。 右京殿は京の町人の娘で、お京とも、お亀ともいわれるが、初めは安芸広島藩主福島正則の側室となっていたとされる。 福島正則は元和5年に広島城の無断修築を理由に除封となり、信濃へ配流となっている。 右京殿真田信之(真田信幸)に仕えたのは福島正則の除封後である。 その後、玉川秀政の養女として真田信之の身の回りの世話をするようになり、さっそく真田信之に気に入られたらしく、 女中頭という地位を手に入れる。正室小松殿の家老山野井大内蔵右京殿とが激しく対立したという。 怒声を連発する山野井大内蔵、たまらず号泣する右京殿、宥めに入る真田信之、この出来事はとりもなおさず、 真田信之をめぐる小松殿右京殿の女の争いを如実に現しており、正室と女中頭という身分では右京殿に到底勝ち目はないものの、 既に右京殿真田信之の心を据えており、寵愛を一身に受けていたことが窺える逸話といえよう。 真田信政が藩主就任後、僅か半年で急死した為、真田信政六男真田幸道と沼田藩主真田信利との間に相続争いが惹起したが、 右京殿真田幸道を次期藩主に据えるべく、隠居していた初代真田信幸に働きかけを行ったとされる。 後半生の真田信之を実際に支えた大切な存在の女性であったのには違いない。 真田信之没後、京で没した。墓は松代梅翁院にある。

お通殿1567〜1631年

小野お通ともいう。
昭和期に『真田勘解由家文書』が分析された結果、お通の実在が確認され、従来喧伝されていた説に誤りが多かった点が判明した。 美濃北方の小野氏の出身で、森蘭丸長定の同僚で本能寺の変で討死した塩川伯耆守に嫁いでいたというのが実際の前半生のようである。 その後、渡瀬羽林家に再婚。この間一女を産んでいる。のちの小野宗鑑尼である。 上田藩主であった真田信之(真田信幸)と親交を結ぶが、一説には豊臣秀吉真田信之(真田信幸)の側室と据える説もある。 元和8年(1622年)松代転封を命じられた真田信之お通に送った書状が残る。 晩年は真田信政の側室となった長女を頼り、松代へ住んで寛永8年10月にこの地で没したという。 享年64歳。お通が永禄2年(1559年)に出生し、元和2年(1616年)3月5日に没したとする説もある。

お伏殿1587〜1679年

小野宗鑑尼、お犬、国子、円子。二代小野お通とも呼ばれる。小野お通の一人娘。
母同様、箏曲の演奏、書道などに秀でていたとされる。やがて、真田信之の次男真田信政の側室となり、 長男真田信就を産んだ。 松代へ住み、八橋流箏曲を同地へ伝えた功績もある。延宝7年(1679年)12月18日に没したとされる。 墓所は江戸下谷の広徳寺桂徳寺。なお、真田信就の七男真田信弘が松代藩4代藩主に就任しており、 お通の血は松代藩主から真田家の歴代に流れていることになる。

高力殿1587〜*1650年

真田信幸の長女として生まれる。母は小松殿とされる。高力忠房に嫁ぐ。

台殿1593〜1673年

二の丸殿、柴殿、西之台殿、見樹院ともいう。 真田信幸の次女として生まれる。母は小松殿とされる。佐久間盛次の妻。
文禄2年(1593年)に出生したとされるが、文禄4年(1595年)とも言われる。 真田信吉と同年(天正18年(1590年))の出生であるがという説もある。 信濃飯山藩主であった佐久間民部少輔盛次(佐久間勝次)に嫁ぐが、 元和2年(1616年)3月夫の死により生家へ移った。 東京の高輪広岳院は佐久間氏の開墓で、寺号は佐久間盛次の法名広岳院殿に因む。 台殿(見樹院)は上田城時代は西之台に住み、台殿と呼ばれた。 松代時代は二の丸に住み二の丸殿、父の隠居後は父とともに城北柴村に住み柴殿と呼ばれたとされる。 『真田軍功家伝記』は、台殿(見樹院)のことを「大慈悲者なり」と記す。 父真田信幸台殿(見樹院)に送った書状が現存している。 彼女は父真田信幸の死を看取り、 寛文13年(延宝元年(1673))に79歳で没した。追号見樹院殿貞誉英庵大禅定尼。

某殿1595〜*1650年

真田信幸の三女として生まれる。
名前など一切分かっていない。

某殿1598〜*1650年

真田信幸の四女として生まれる。
名前など一切分かっていない。

堀田殿1564〜1620年

真田家の家臣堀田五兵衛の娘。真田幸村に嫁ぐ。真田幸村の長女阿菊殿(すへ)の母。 真田幸村の側室だが、最初の本妻という見方もある。真田幸村の長女阿菊殿(すへ)を産んでいる。 堀田殿のその後は明らかとされていない。 真田幸村の娘阿菊殿(すへ)は信州上田で出生しているが、叔父堀田興重(堀田作兵衛)の養女として育つ。

采女殿1570〜1620年

真田家の家臣高梨内記の娘。真田幸村に嫁ぐ。『真武内伝』等には高梨内記の娘が采女殿の母と記されている。 つまり高梨内記の孫が実は采女殿と称されていたという説もある。 真田幸村の次女於市殿、三女阿梅殿を産んだとされる。 高梨内記真田昌幸真田幸村父子の紀伊九度山への配流に扈従し、 大阪の陣でも真田幸村に属して討死を遂げた。

竹林院殿1579〜1649年

小石、徳、小屋ともいう。大谷刑部吉継の娘。真田幸村に嫁ぐ。 真田幸村とは12歳の年の差があったとされる。 大谷吉継の実娘ではなく、親戚の娘を養女として真田幸村に嫁がせたという説もある。 この為か、竹林院殿の実母については史料が一切残っていないし、実母の墓所等も不明である。 『鶴亀文懸鏡』の銘に、「願主、同(大谷)東、小石、徳、小屋-文禄2年9月吉日-」と見えているという。 「東」とあるのは大谷吉継の実母であるから、他の3名はおそらく大谷吉継の娘たちであろう、という説がある。 しかし、文禄2年(1593年)といえば真田幸村に嫁いだ後であることや、大谷吉継の妻の存在もあることなどから、 この3人の女性たちが単純に大谷吉継の娘であると断定することは難しい。 真田昌幸真田幸村父子が高野山麓九度山村に配流されると彼女も子どもたちと従った。 だが慶長19年(1614年)10月9日、冬の陣に先立ち九度山を引き払ったとされるが、真田幸村とともに 大阪城に入城したとも。 竹林院殿が大阪城へ入城したかどうかは分からないが、真田幸村は高野山蓮華定院行永と入魂で、 内証どとも相談していたというから、そのつてで隠れ家を用意していたとも考えられる。 嫡男真田大助の言葉や彼女が捕らえられたとき黄金や来国俊をもっていたことを思うと入城していたのかもしれない。 彼女は大阪城落城12日後の元和元年(1615年)5月20日に捕らえられている。 山狩りをして紀州伊都郡に潜んでいた彼女を逮捕した浅野長晟は、 所持していた黄金57枚と来国俊の脇差で真田幸村の妻と知る。 いずれも冬の陣に先立ち豊臣秀頼真田幸村に遣わしたものであった。 生命は助けられて、七女於金殿(かね)夫婦と暮らし、慶安2年5月18日(7日)に没する。 恐らく幼い末娘2人を伴い潜んでいたのであろう。六女阿菖蒲殿は母や妹と京にいたが、 三女阿梅殿に引き取られた。法号竹林院梅渓永春清大姉。 大阪の陣から34年も生き延びたというのだから、戦国時代の女性哀話が多い中で、珍しい運命の人である。

隆清院殿1584〜1640年

深谷六郎の娘。豊臣秀次の娘という説が定説。真田幸村に嫁ぐ。
出羽亀田藩関係の史料で法号隆清院とされており、妙慶寺には隆清院殿の位牌がある。 真田幸村の側室となり、五女御田殿、三男真田幸信を産んだという。 周知の通り、豊臣秀次は文禄4年(1595年)に豊臣秀吉によって自刃を強いられ、その妻妾、 若君なども同年8月2日に京三条河原で斬られている。 真田幸村の側室となったというこの女性は女児であったことからこの惨劇を潜り抜けて成長していたのであろうか。 ともあれ、大阪の陣の際、御田殿とその母隆清院豊臣秀次の母(豊臣秀吉の妹)瑞龍院殿(智殿)の許に身を寄せ、 難を逃れたという。その後の豊臣秀次の娘隆清院殿の行動は不詳だが、 妙慶寺に位牌があるところを見ると、亀田に身を寄せた可能性もある。
詳細は、深谷新左衛門(三好清海)の項に記述。

阿菊殿(すへ)1584〜1642年

石合道定の妻。
真田幸村の長女として生れる。小県郡長窪の郷土石合十蔵道定に嫁ぐ。 真田幸村の娘で、母は真田家臣堀田五兵衛の娘。 信州上田で出生しているが、叔父堀田興重(堀田作兵衛)の養女として育つ。 寛永19年(1642年)に死去した。享年59歳。その墓は長安寺にある。また長門町西蓮寺にもある。

於市殿(いち)1587〜1610年

高梨殿ともいう。 真田幸村の次女。
母は真田家臣高梨内記の娘。上田で生まれ、配所の九度山で病死した。

阿梅殿1594〜1681年

泰陽院、泰陽院殿ともいう。
真田幸村の三女。片倉重長の側室(のちに正室)。
母は真田家臣高梨内記の娘。信州上田で生まれる。 母は大谷吉継の娘(竹林院殿)という説もある。 出生については五女の御田殿と同年(慶長9年)ともされている。父真田幸村とともに大阪城に入る。 落城のとき仙台城主の伊達政宗の家臣片倉重長に生け捕りにされる。片倉重長の側室となる。 大阪の陣で片倉重綱の陣に投降したときは22歳(12歳とも)であった。 元和6年(1620年)27歳で片倉重綱の後室となり、 寛永3年(1626年)正室針生殿の死去に伴い正室の地位についた。33歳(23歳とも)のときである。 慶安元年(1648年)には真田幸村の菩提を弔うため月心院を建立した。 阿梅殿は片倉家の行く末を見守り続け、88歳(78歳)の元和元年(1681年)に死去した。 菩提寺の当信寺の紋は、真田の六連銭である。 片倉家は仙台藩の重臣で、片倉重長は武名が高く、鬼小十郎と言われ、白石城1万7000石を与えられ、 子孫は明治に至り男爵を与えられた。 この阿梅殿滝川三九郎一積の養女になっており、大阪の役後、 滝川家から片倉家へ嫁がせたともいう(『古前島助之進覚書』『滝川家記』)。 滝川一積の妻は真田昌幸の娘で、義兄真田幸村の娘、つまり姪を養女にしていたのである。 また一説には大阪の陣のとき、片倉重長(片倉小十郎)が乱取、つまり強奪したのだという(『白川家留書』)。 どちらもありうることである。
後日談であるが、松代藩第三代藩主真田幸道が伊達家を訪れたところ、 家臣に六文銭の紋をつけている者があったので、不思議に思って尋ねてみると、片倉沖之進という者で、 先祖片倉重長(片倉小十郎)真田幸村の娘阿梅殿を妻にしていることが分かった。 そこで真田幸道から懇ろな言葉を与えられたので、片倉家は真田家の江戸屋敷へお礼に来たという。

阿栗殿(あぐり)1598〜*1650年

あくりともいう。真田幸村の四女。母は正妻の大谷吉継の娘(竹林院殿)。
坂郷明(蒲生郷明)の妻。 阿栗殿滝川三九郎一積の養女として蒲生飛騨守氏郷の重臣坂郷喜(蒲生源左衛門)の長男坂郷明(蒲生郷明)に嫁ぐ。 坂郷喜は父についで陸奥三春3万石を領した。その後、坂郷喜は浪人となり、寛永12年(1635年)に近江大津で没した。 寛永10年(1633年)主家蒲生家が断絶、坂郷明阿栗殿は日向延岡に移る。

御田殿(なほ)1604〜1635年

あくり、顕性院ともいう。真田幸村の五女。岩城宜隆の妻。
母は三好秀次の娘(隆清院殿)。 母三好秀次の娘(隆清院殿)は、一説には三好清海(女であるとの説から)という。 三好中納言秀次の娘(隆清院)と真田幸村の間に、慶長9年(1604年)九度山で生れた。 御田殿とその母(隆清院殿)は、大阪落城を前にして、京都に住む豊臣秀吉の姉の瑞龍院日秀尼の許へ避難している。 日秀尼三好法印一露の妻で三好秀次の母である。従って御田殿の曾祖母にあたる。 御田殿は成人して岩城但馬守宜隆に嫁いだ。
岩城氏は慶長5年の上杉討伐に出兵しなかったために所領を没収されていたが、元和2年8月信州川中島で1万石で復帰した。 元和9年(1623年)に岩城吉隆の時代に1万石を加増され、由利郡亀田に移封された。 佐竹常陸介義重の四男佐竹宜隆岩城吉隆の跡を継いだ。
御田殿は長男岩城伊予守重隆、さらには長女、次男岩城隆房を生む。 寛永12年(1635年)、江戸にて32歳で没した。法号は顕性院。江戸下谷の宗延寺で葬儀が行われ、後に供養のため、 亀田城下に妙慶寺が建立された。 なお、長男岩城重隆など、同藩の歴代藩主には御田殿の血を引く男子が就任している。 妙慶寺には御田殿や、母隆清院殿、姉を頼ってこの地に来た真田幸村三男真田幸信の位牌、太刀がある。 余談ながら、『真田十勇士』の中に出羽亀田城主の末裔という三好清海入道三好伊三入道の兄弟があるのは、 『立川文庫』の著者が御田殿が出羽亀田に嫁したのを伝え聞いたからともいう。

阿菖蒲殿(しょうふ)1605〜1635年

しよふ、石森殿ともいう。真田幸村の六女。
母は正妻の大谷吉継の娘。九度山で生れる。 姉の阿梅殿に引き取られ、伊達政宗の家臣田村定広(片倉定広)に嫁ぐ。 この田村家は田村定顕を祖とし、登米郡石森村を知行する平士300石だが、田村定広片倉重長(片倉小十郎)の異父姉(伊達政宗乳母)の養子であり、片倉重長と相婿となった関係から、 伊達政宗正室の命で片倉姓に改正した。 阿菖蒲殿は寛永12年(1635年)に没した。子孫は昭和期に石森村長をつとめている。

於金殿(おかね)1608〜1657年

御兼殿、御金殿ともいう。真田幸村の七女。石川重正の妻。
母は正妻の大谷吉継の娘。母は正妻の大谷吉継の娘(竹林院殿)。九度山で生れる。 石川貞清(石川宗休)という茶人の長男石川藤右衛門重正に嫁いでいる。 大阪夏の陣後に奥州白石で養育される。於金殿の婿石川重正石川宗雲と称し、京都に居住したという。 於金殿は明暦3年(1657年)に死去。 石川貞清(石川宗休)はもと尾張犬山城主1万2000石で、石川備前守貞清(石河光吉)として関ヶ原合戦にも参戦。 関ヶ原合戦後に浪人し、京都で石川宗休と称したとされる。 石川貞清(石川宗休)は京都大珠院に真田幸村夫婦の墓を建てている。 真田幸村の墓は数ヶ所にある。1つが京都市右京区竜安寺塔頭大珠院にある五輪塔で、真田幸村の娘 於金殿が白川家と関係の深いこの寺へ墓を建てたのだという。 「大光院殿日道光白大居士」という法号を刻してあるというが、今ははっきりしない。竜安寺は石庭で有名であるが、 真田幸村の墓は訪れる者も稀である。 高野山の麓九度山の善名称院(真田屋敷跡)にも「真田幸村公碑」と刻んだ墓があり、 「慶長20年乙卯5年8日 頤神院殿直入全孝大居士」と刻んである。 この碑は大正3年に建てられたものである。

青木殿1610〜*1660年

しよふともいう。真田幸村の八女。母は大谷吉継の娘(竹林院殿)。 紀伊国の領民の娘ともいう。青木次郎右衛門に嫁したというが、その他は不詳。

某殿1612〜*1660年

真田幸村の九女として生まれる。
早世したという。名も母も分からない。