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小助の部屋/滋野一党/真田滋野氏

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真田は、山家郷と称する村里の一角にある。狭まった谷の奥には、霊峰四阿山が裾野を引いているのが望まれ、 その山を源流に、清冽な流れの神川が、山家郷を潤している。山家郷という雅な古名に表象されるような雰囲気が、この郷を包んでいる。
真田氏は、真田幸隆以前については確実な名が伝えられておらず、事績として伝わるものもない。真田氏が海野氏の嫡流と称したことにより、 本当の先祖の方が抹殺されてしまったためともいわれている。『寛政重修諸家譜』では真田幸隆が真田氏の祖としているが、 鎌倉中頃に海野氏から分かれたとされており、室町時代中期にも真田の名がいくつかの記録に残っているため、古くから真田に根づいていた一族であるという説が濃厚であり、真田幸隆が真田氏の祖であるという説は現在では否定されている。
真田郷は古代の官牧地域であり、経営には大伴氏があたっていたとされており、滋野氏が入部する前から根を張っていたという説もある。
享保16年(1731年)に江戸藩邸が類焼したとき、多くの記録や文書が焼失したこともあり、さらに他大名に比べて家史の編纂事業が大幅に遅れていたこともあって、 真田氏に関する史料はあまりにも貧弱であり、幕末にやっと家臣河原綱徳らが命により編纂した『真田家御事蹟稿』ができあがるが、『綱徳注記』によれば、すでに関連史料の多くが散逸してしまっていたという。 『真田家文書』『群馬県史』『信濃史料』『新編信濃史料叢書』など、近年真田氏の研究が進むにつれて、江戸期の編纂物に頼ってきた真田氏の歴史が見直されてきている。
[室町時代/結城合戦/大塔合戦]
真田源太郎真田源五郎真田源六郎   
[戦国時代]
真田右馬佐頼昌真田右馬助綱吉真田右馬亮綱重   
真田弾正忠幸隆真田源太左衛門信綱真田兵部丞昌輝真田安房守昌幸  
真田伊豆守信幸真田河内守信吉真田内記信政   
真田左衛門佐幸村糀町光明院真田大助幸昌真田大八守信真田左次郎幸信真田権左衛門之親
真田左馬助信勝真田内匠昌親    
真田隠岐守信尹真田宮内介高勝    
矢沢薩摩守頼綱矢沢但馬守頼康常田伊予守隆家常田山城守俊綱常田七郎右衛門綱富鎌原大和守幸定
[親族衆/家老衆/譜代衆]
真田甚三郎真田源八郎真田勘解由真田権太夫真田与左衛門 

真田源太郎*1390〜*1450年

永享10年(1438年)の結城合戦に、真田源太郎真田源五郎真田源六郎らの名が見られることから、真田氏は真田幸隆以前より真田の地に土着していたことが明らかとなった。 応永7年(1400年)の大塔合戦にも真田(実田)の名が見られる。

真田右馬佐頼昌1487〜1523年

真田幸綱の次男。
矢沢頼昌、右馬允、右馬助、真田道端大禅定門一翁宗心大居士ともいう。
海野幸棟娘婿。真田幸隆矢沢頼綱らの父。松尾古城主。大永3年(1523年)3月15日没。 真田氏の中興の祖といわれる。
真田幸綱の次男であり、矢沢氏を継いでいたが長男(名前は不明)が早世のため真田氏を継いだといわれる。 松代藩士山口直昌が寛政11年(1700年)に記した『信綱陽泰両寺記』や落合保考が寛文元年に記した『つちくれ鑑』などに 「真田道端公の古墳なりとて…」と真田頼昌の名がある。矢沢氏の菩提寺である良泉寺に伝わる系図にも、やはり真田頼昌の名が記されており、 真田頼昌から真田幸隆矢沢頼綱常田隆家らが生まれたとなっている。
真田頼昌には長男真田綱吉、次男真田幸隆、三男矢沢頼綱、四男常田隆家、 五男鎌原幸定、六男真田幸景、七男真田綱重がいるとされている。 真田綱重だけは現在は真田綱吉の長男とされており、真田頼昌の七男説は否定されている。
真田幸隆は真田氏を「滋野三家でも本家筋とされる海野氏の直系である」と自称している。 真田氏の苗字の地真田は、海野氏の本拠であった本海野ともほど近い。 真田幸隆は海野氏の直系として海野宗家を継いで後に、真田に居住したためその地名から真田姓としたことになったとする説もあるのだが、 この説は現在では否定されており、真田氏は海野氏の一分流にすぎなかったのだが、 真田幸隆は天文10年(1541年)の海野平合戦での宗家の没落をかえって逆用し、 海野氏の系譜をそっくり自分に結び付けてしまったものとみられるのである。 しかし、その真偽はともかくとして、真田幸隆、そして三男真田昌幸が活躍した戦国末期の争乱のなかで、 真田氏が大きく力を伸長していく上で、「真田氏海野嫡流説」は、単に家柄を飾る以上の重大な意味を持っていたものとみられる。
真田幸隆は天文15年(1546年)頃には武田晴信の家来として、その才能を認められ重用され、頭角を現していた。 この真田幸隆の活躍のなかでも特筆すべきことの1つに、上州吾妻郡の攻略があげられる。 吾妻郡は真田とは鳥居峠を境として接する地でもある。 真田幸隆は永禄6年(1563年)には同郡の中心拠点といえる岩櫃城を、ついで永禄8年(1565年)には獄山城を攻め落とし、 武田晴信より同地の経営を任されている。 この地での真田幸隆の活躍は、やがて真田幸隆の三男真田昌幸に受け継がれ、武田氏旗下でのこととはいえ、 吾妻郡、利根郡の両郡という北上州一帯が、真田氏の実質的な大領地となっていくこととなる。
吾妻郡には鎌倉時代以来、海野氏の一族が進出し、それぞれの地名をとって栄えていた。 真田幸隆真田昌幸の吾妻郡における活躍の間には、これらの内の多くの武士が真田氏の配下となり、 後の真田藩家臣団の中核が形成されていったわけでもある。 このような吾妻郡攻略作戦のなかで、真田氏を自称した同氏が海野氏の嫡流であるとする説は、我々の想像以上の力を発揮することになったのかもしれない。
戦国末期から近世にかけて、その武名を天下にとどろかせた真田氏であるが、 真田幸隆以前の真田氏については、ほとんど知られるところがない。 真田氏の名が見える最古の文献は、室町時代前期の応永7年(1400年)信濃守護小笠原氏と、 東信濃・北信濃の武士団との間に行われた大塔合戦について記した『大塔物語』である。 このなかに祢津遠光の配下として「実田横尾曲尾の人々」が見られる。 「実」にサナと振り仮名があることや、横尾・曲尾とも真田に隣接する同じ真田町内にある地名であるところよりみても、 この「実田」は真田であり、真田氏の祖先であろうとみられているわけである。 しかし、その後は真田幸隆武田晴信の家臣となって活躍をはじめるまで、 確かな史料には全くその名を見出すことができない。
この事実を裏返せば、真田幸隆の出現までの真田氏は、言わば名もない小土豪であったことになる。 真田区の北東方向にそびえる四阿山の頂上に祀られている白山権現の里宮である山家神社があるが、 そこには真田幸隆の長男真田信綱と三男真田昌幸が、それぞれ真田家の家督を相続するに際して発給した「四阿別当の儀」についての安堵状が伝わっている。 これらをはじめとする諸事実からみても、真田氏は古くから真田の地を本拠としていた土豪であったことについて、 疑問を狭む余地はない。 海野氏の正系を継ぐ真田幸隆が、初めて真田に移ってその地名に改名したなどどいう話は、 明らかに成立し得ないわけである。
真田頼昌は大永3年(1523年)3月15日に没す。真田道端大禅定門一翁宗心大居士。 なお、真田頼昌の妻(真田綱吉真田幸隆矢沢頼綱の母)は天文9年(1540年)4月26日に没したとされる。

真田右馬助綱吉1510〜1570年

真田頼昌の長男。
真田綱義、右馬之亮、右馬允ともいう。 真田幸隆の兄で真田頼昌の長男。実在の明らかな人物だが素性は諸説ある。
武田家臣として「海野衆」の1人に名があがる。生島足島神社所蔵の武田将士起請文(重要文化財)の署名者のなかに 「真田右馬助綱吉」なる人物の名前が見られる。 この起請文は永禄10年(1567年)に武田晴信が、その配下の武将より徴したものであるが、 そのなかの「海野衆」の1人として、真田綱吉の名を見ることができるわけである。 真田頼昌とは通称(官途)までも一致している(頼昌は「佐」であるが佐と助はどちらも「スケ」)ことからも真田頼昌真田綱吉、 この二人は全くの他人ではあり得ないことは明らかというべきであろう。 その関係については未だに言及されたものを見ないものの、 真田頼昌が大永3年(1523年)没との年代からすると真田頼昌真田綱吉とは父子と見てよいだろう。 さらに、その「右馬佐」という通称を襲名している点からは、真田綱吉こそが真田頼昌の嫡男であったという事実を物語っている。 と考えるべきではないだろうか。 真田幸隆矢沢頼綱が兄弟との定説と、真田頼昌の嫡男が真田綱吉であろうとの推論をあわせてみれば、 真田頼昌の長男が真田綱吉で、次男が真田幸隆、三男が矢沢頼綱ということになる。 これは矢沢頼綱真田頼昌の三男としている『矢沢氏系図』(その兄二人の名は記していない)と偶然かどうか合致することにもなる。 だが、真田綱吉の系統は、真田氏系図にはもちろん、同家家臣団のなかにも全く見出すことができない。 弟真田幸隆武田晴信に引き立てられて活躍し、真田家興隆の基礎を築き、 さらにその三男真田昌幸が独立した大名へと目覚しい上昇を遂げてゆくなかで、真田家の枠の外へはじき出され、 さらにその存在した事実さえ消されてしまったのであろうか。
海野家重臣深井棟広の娘深井殿を妻としており、真田綱吉には長男真田綱重がいる。
法名は「壽泉院眞相勸喜大禪定門」という。これは東御市和(かのう)東深井の深井幸p氏のお宅の過去帳にあり、 また高野山蓮華定院にて正村金右衛門が供養しているという。

真田右馬亮綱重1535〜1620年

真田綱吉の長男。
深井綱重、深井右馬介、右馬助、右馬之亮、萩原綱重ともいう。深井院實譽宗眞居士。
母は海野家重臣深井棟広の娘。 沼田の市場備中守の娘を妻とし、松代藩士となった正村家から養子を迎えたとされる。 真田綱重は松代にて没している。 その後は松代藩となったころ48騎の脱藩で長野県小県郡深井村に帰農したとされ、真田家というよりも海野家意識が強かったようで、 家紋も六連銭ではあるものの「離れ六文」ではなく「くっつき六文」を使用したとされる。 松代藩の48騎浪人事件については、長野郷土史研究会の機関紙に寺島隆史先生の論文に詳しく載っており、 48騎は信濃史料叢書第4巻98項に所収されている。 このなかに「深井右馬介」が旧地深井村(東御市和)へ帰農したと記載されている。
真田綱重真田頼昌の七男という説もあるが、 年代が真田幸隆やその弟たちと近いことからいわれているのであろう。
真田頼昌はすでに大永3年(1523年)に没しているので、真田頼昌の七男という説は否定されている。
信濃史料叢書第23巻545項に真田氏が上田在城時代の深井村の知行史料(深井正氏所蔵)が掲載されていて、 それらの資料によれば「深井右馬助」が深井村知行地としていたことが書かれている。 このことからも真田綱重が深井氏を称していたことは明らかである。 萩原の姓であるが、真田綱重がなぜ萩原綱重と称したのかは不明で、今後の研究で明らかになることを期待している。

真田弾正忠幸隆1513〜1574年

真田頼昌の次男。
真田幸綱、蝮弾正、鬼弾正、二郎三郎、源太左衛門、一徳斎、海野小太郎ともいう。
真田頼昌の次男として永正10年(1513)に松尾古城で生れる。本名は真田幸綱真田幸隆の妻は海野棟綱の娘ともされているが、現在では否定されている。 一族羽尾氏の娘羽尾殿を妻としていたが早世してしまい、後に重臣河原隆正(河原丹波守)の妹河原殿を娶ったとされている。 妻河原殿は「松代長国寺」の過去帳に「喜山理慶大姉、文禄2年(1593年)8月11日卒、真田弾正忠幸隆入道之妻」とあるが、 天正8年(1580年)没説、天正20年(1592年)没説もあってはっきりしない。
天文10年(1541年)、村上義清武田信虎諏訪頼重ら連合勢に 尾ノ山、海野平、祢津を集中攻撃され、海野棟綱とともに信濃を追われ上野国箕輪城の長野氏を頼り身を寄せる。
天文11年(1542年)〜天文12年(1543年)頃には、武田晴信の東信濃攻略の道案内という役割を荷い、 武田傘下に加わる。 以後、怨敵村上義清の戸石城の攻略、上州吾妻郡の攻略など、信濃国内の調略に手腕を発揮した。 武田晴信の謀将として常に第一線で活躍し、武田家の勢力拡大に貢献した。 長尾景虎(上杉謙信)をして「我、弓を取らば真田に劣らぬが、知謀は7日後れあり。真田いる限り信濃をとること安からぬ」といわしめた。
天正2年(1574年)5月19日に没す。享年62歳。法名は一徳斎殿月峰良心庵主。長谷寺に葬られている。

真田源太左衛門信綱1537〜1575年

真田幸隆の長男。
源太、源太左衛門尉、信利ともいう。
真田幸隆の嫡男として信州小県郡真田郷で生れる。高梨政頼の娘婿。井上清政の娘を側室としている。
母は河原殿(河原隆正の妹)。信濃先方衆を務める。武勇に優れていたという。 真田信綱の豪男ぶりは、103cmの陣刀(備中国住人/延文6年2月銘)を揮って敵を悩ませたところからも伺える。 真田幸隆からその軍略を余す所なく数え込まれ、真田幸隆や弟真田昌輝とともに武田二十四将に数えられる名将である。 天文20年(1551年)戸石城を攻略した戦いに参加して一番手柄を立てている。 華々しい初陣である。天文21年(1552年)には南安曇郡小岩岳城攻略の戦いでも出陣している。 永禄4年(1561年)、川中島合戦で先陣を春日虎綱、ニ陣として飫富虎昌馬場信房上原昌行(小山田備中守)甘利左衛門らとともに「きつつき戦法」隊に加わり、妻女山の背後から上杉陣に肉迫した。 永禄11年(1568年)2月、今川氏領土を狙う武田晴信は、徳川家康と駿遠分割の密約を結んでいる。 12月に駿河へ侵攻を開始する。 真田信綱真田昌輝兄弟は武田軍先鋒として、山縣昌景馬場信房らとともに富士川沿いに南下する。 真田信綱真田昌輝は信濃先方衆であるが、真田幸隆に代わって出陣したものであろう。 先陣を務めるのは部門の名誉であり、合戦巧者の武将が任命される慣わしでもあった。 伊豆韮山の戦い、三方ヶ原の戦いなどでも活躍。 天正2年(1574年)、真田幸隆が病没すると家督を継ぐ。 しかし、天正3年(1575年)5月21日、三河長篠の合戦で奮戦するも真田昌輝とともに戦死してしまう。 真田信綱の首は、徳川家の渡辺政綱という武将が挙げたという。
法名は信綱寺殿大室道也大居士。信綱禅寺に葬られている。
真田信綱の妻は中野箱山城主高梨摂津守政頼の娘於きた(於北)殿で、 『真田軍功記付記』に「女子あり、是は伊豆守信幸さまの室となり、早世せり」とある。信綱寺に華翁妙栄大姉とある。 『小県郡御図帳』には、北さま(於北殿)知行として合計13筆80貫文がみえており、真田昌幸に代替わりしてからも 上田周辺で多くの知行を有していたことが明らかである。 『滋野世記』には「真田河内守信吉の母は真田源太左衛門の娘」とあることからも真田信綱の娘は真田信幸に嫁いだことが分かる。
真田信綱には長男真田信興(真田宮内大輔)、次男真田信光(真田宮内助)がいたともいわれている。

真田兵部丞昌輝1543〜1575年

真田幸隆の次男。
徳太郎、兵部介、矢部丞、信輝ともいう。
真田幸隆の次男として天文12年(1543年)6月に岩尾城で生まれる。 上州箕輪城で生れたとも。母は河原殿(河原隆正の妹)。正室の子とも。 主に小県郡と吾妻郡の領知経営に参画したものとみられる。 はじめ武田晴信の小姓として日夜近侍し、武田晴信の仕草のなかから一軍の将としての在り方を学んだ。 長じては有力武将の子弟だけが厳選して任命される『武田のムカデ衆』に抜擢される。 背中の旗指し物に百足が描かれており、その任務はあるときは将校斥候として敵状偵察を行ったり、 また前線の各部隊へ総大将が発する重要指令を確実に伝達するという指令を帯びる役職に抜擢された。 今でいうエリートコースで、家門一族の名誉をかけ、その働きぶりは群を抜き、総師武田晴信をして 『兵部はわが両眼なり』と言わしめたという話は陣中の語り草となった。 後に兄真田信綱とともに50騎を預かる武田家の士隊将として緒戦に参加、大いに武名を高めるとともに兄を よく補佐し、信州先方衆の副将として信濃を守衛した。
永禄12年(1569年)9月10日、武田晴信北條氏邦の鉢形城を包囲した。 だが容易には抜けぬため南下して滝山城を囲んだ。 城将は北條氏照真田信綱真田昌輝兄弟は工藤祐長(内藤昌豊)と小田原筋を受け持った。 しかしこの城も防備堅固で降陥できず、武田晴信は小田原を目指した。 真田信綱真田昌輝兄弟は、山縣昌景隊、小幡隊とともに本隊の相模川渡河を警固し、 小田原までの殿軍をつとめる。 10月1日、小田原城外に到着した武田軍は村落を焼き、小田原城を攻囲した。しかし難攻を誇る小田原城はびくともせず、 10月4日朝、武田晴信は撤退命令を下す。 三増峠には本城を救わんと支城から急行してきた北條軍が武田軍を待ち構えていた。 真田信綱真田昌輝兄弟は遊軍として山縣隊、小幡隊とともに峠を西に進む。 馬場隊の検使武藤喜兵衛(真田昌幸)が一番槍をあわせるが、中央隊の戦いは熾烈をきわめ、 殿軍の浅利右馬助ら多くの兵が討死し、左右隊によって危機を脱していた。 この小田原城包囲戦で真田昌輝は、北条氏照勢を破るなどの軍功を上げている。 兄の補佐役として、また真田氏の副将として、父兄らと戦っていたと思われる。 天正3年(1575年)、長篠の戦いで兄真田信綱とともに戦死した。 法名は風山良薫大禅定門。信綱寺に葬られている。
真田昌輝には長男真田信正(真田淡路守幸明)がおり、 武田家滅亡後、徳川家康七男の松平上総介忠輝、さらに松平伊代守忠昌本多中務大輔忠国に仕えたとされる。 この関係から、福井県の西墓地に真田昌輝の供養墓が残る。 1632年に没している。

真田安房守昌幸1547〜1611年

真田幸隆の三男。
武藤喜兵衛尉、喜兵衛、源五郎、与三郎ともいう。表裏比興の者と称される。
徳川家康に二度までも苦杯を喫せしめた謀将。
真田幸隆の三男として天文16年(1547年)に生れる(天文14年(1545年)生まれ説もある)。 真田幸隆36歳の時の子であり、弟には真田信尹真田高勝、さらに二人の妹がいる。 側室の子という説もある。真田信綱真田昌輝ら兄たちの戦死で家督を継ぐ。
希代の謀将で、徳川家の攻撃を再三撃退した。 慶長16年(1611年)6月4日、配流先の九度山真田庵で没した。 法名は長国寺殿一翁千雪大居士。廟所は真田幸隆とともに本領真田の長谷寺である。 その晩年は失意のうちに寂しく暮らすこととなったが、しかし配流といっても旧臣を伴ったものであり、 かつ嫡男は10万石格の大名であったことから、一般の流人とはかけ離れた待遇のものであった。 激動期を生き抜いてきた武将の最期としては、むしろ平穏な晩年を過ごしたと言えないこともない。 『長国寺殿御事蹟稿』によれば、死去後に付き添いの河野清右衛門らが火葬し、 翌慶長17年(1612年)8月に分骨を上田へ運び、真田の長谷寺に納骨したという。
九度山の蟄居先にも真田幸村によって法塔が造立され、 後にその地に善名称院という尼寺が開かれて、菩提を弔うことになった。 挿話を紹介しておくと、豊臣秀吉のもとに伺候して碁を打ちながらの物語として、豊臣秀吉真田昌幸を評して 武田晴信と同じく身構えばかりする人と言ったことに対して、 真田昌幸武田晴信は敵を攻めて多くの城を取ったが、合戦に手を取ることなくして勝を取ったもので、 敵に押しつけをしたことは一度もないと答えて、豊臣秀吉をたしなめたという。 この挿話は真田昌幸が旧主であった武田晴信を範としていたことを示すものであり、 幼少の頃よりその側近として武田晴信の全盛期を目の当たりにしてきた真田昌幸の資質が現れたものであろう。 武田晴信に関しては、天正13年(1585年)12月に荒廃していた武田晴信墓所を自領である真田郷内に再興しようとした動きがある。 これなども滅びた旧主への変わらぬ忠誠心を示すものであって、天正10年(1582年)3月の武田勝頼による武田家滅亡の際の 真田昌幸の行動もそうした忠誠心の延長線で考えるべき問題と思われる。 後に豊臣秀吉およびその側近から「表裏比興の者」と評されたことも、 政権の過渡期に弱小大名の生き残る道としてこの時期の小領主層の誰もが歩んだ過程であって、 この評は真田昌幸の外交交渉策の卓越性を評価する以外の何ものでもないと思われる。 事実として豊臣政権下の大名としてその立場が確立した後の真田昌幸の行動は一貫しており、 それは関ヶ原の戦いでの西軍帰属によって貫かれている。その背景には関東で圧倒的な支配力を有していた相模北條氏、 そして徳川氏に対抗して自らの領主制を切り開いていく過程で豊臣秀吉の強力な恩顧を得たことがあり、 その端的な現われが天正17年(1589年)に展開された豊臣秀吉の沼田領裁定問題であった。 関ヶ原の戦いでは徳川軍として会津の上杉氏攻撃軍に出陣しながら、最後の局面で帰陣して反徳川氏の立場を鮮明にしたのも、 その原動力は豊臣秀吉への恩顧に対する忠誠心からであったと思われる。

真田伊豆守信幸1566〜1658年

真田昌幸の長男。
真田信之、源三郎、一当斎ともいう。
真田昌幸の嫡男として永禄9年(1566年)に生れる。松代藩祖。 天正14年(1586年)頃に本多忠勝の娘を娶る。 父真田昌幸、弟真田幸村と訣別して徳川に仕え、真田の家名を保った。 元和8年(1622年)徳川幕府の命により、父祖の地上田を離れて、信濃松代へ移封。 この時長男真田信吉を沼田藩主に、次男真田信政を松代分封藩主に抜擢している。 明暦2年(1656年)に松代藩主の家督を真田信政に譲る。 万治元年(1658年)10月17日、93歳で死去。法名大鋒院殿徹巌大居士。大鋒寺に葬られた。長国寺も菩提寺となる。
真田信幸には長男真田信吉、次男真田信政、三男真田信重(真田隼人正)らがいる。

真田河内守信吉1593〜1634年

真田信幸の長男。
孫六郎、六郎ともいう。真田信幸(信之)の長男として生れる。沼田藩2代藩主。
元和元年(1615年)大阪の陣では、父真田信之の名代として真田藩士を率いて参陣した。 和睦成立後のある夜、叔父真田幸村真田信吉の陣を訪れた。 23歳の若年であったが真田信吉は真田家の総領、真田幸村は長らしく浪人していたことだから、 どんな容儀だろうかと家臣たちが見守っていると、いかにも真田信吉の叔父という貫禄で座上になおり 「御辺4歳の時、対面してのち、今夜初めての対面であるが、思いの外の成人、器量・骨柄、人に優れて立派なものだ。 伊豆守どのが年寄られても心配なかろう」と言ったという。 真田幸村は関ヶ原合戦の直前、関東の徳川の陣から父とともに抜け出して上田へ帰る途中、沼田城でまだ幼児だった真田信吉に会っている。 真田信吉は「城から離れた出丸を御構えになり、御苦労なさったのでしょう。御扱いにならなかったら危ないところでした。」と言うと、 真田幸村は、「おっしゃるとおり、天下の大軍で攻められれば、どうして敵おう。しかし、そう簡単にはやられません。」と答えたという。 やがて盃が出ると、老臣の矢沢但馬守木村土佐守半田筑後守大熊伯耆守の4人を呼び出し、 「久しぶりだなあ」と懐かしがり、一緒に酒を飲んで城中へ帰ったという。
寛永11年11月28日、江戸で没した。享年は42歳。幕府老中をつとめた上野厩橋藩主酒井雅楽頭忠世の娘松仙院殿を妻としている。 松仙院殿の母は聖興院殿松仙院は法号。 松仙院殿は寛文3年(1663年)4月15日に没している。 夫真田信吉の死後は実家で過ごしていたらしく、麻布曹渓寺の母の墓碑の傍らに葬られた。 ここには真田信幸の見事な供養塔がある。建立者は松仙院殿ともいわれるが、真田信幸次女の見樹院殿ともいわれる。

真田内記信政1597〜1658年

真田信幸の次男。
仙千代ともいう。真田信幸の次男として生まれる。松代分封、沼田藩両藩主を経て、松代藩2代藩主となる。
母は小松殿。慶長2年(1597年)沼田城で出生。 幼少期に江戸の徳川家康の許へ人質として赴く。 慶長末年の大阪の陣では兄真田信吉とともに名代として参陣した。 元和8年(1622年)、父から1万石を分知されて信濃松代分封藩初代藩主となったが、 寛永15年(1638年)に甥で沼田藩3代藩主真田熊之助が早世したため、 翌年、沼田藩4代藩主に抜擢され、松代分封藩主の座は弟真田信重に譲った。 明暦2年(1656年)8月、父真田信幸の隠居に伴い、松代藩2代藩主に転任。 このとき、真田信政に扈従して沼田藩士の多くが松代へ移住。 沼田藩主の座は甥の真田信利(真田信吉の次男)に譲った。 結果として、松代分封(1万石)→沼田(3万石)→松代(10万石)と、真田家関係の三藩主を歴任したことになる。 先に沼田藩主時代に新田開発等に着手し、その非凡な手腕の片鱗を窮わせていたから、 松代藩主への抜擢もそういった面の手腕をかわれたものであろう。しかし、期待されながら、 藩主在職僅か半年後の万治元年2月5日に父に先立って急死。享年は62歳。 葬地は松代の長国寺。高野山の蓮華定院にも分骨された。 真田信政の正室は稲垣重綱の娘。側室は小野宗鑑尼松寿院永寿院自照院などがあり、 六男六女の子女は全て側室の子のようである。 長男真田信就宗鑑尼が産んでおり、真田信就の七男真田信弘は叔父真田幸道の養嗣子となって松代藩4代藩主に就任している。
真田信政には六男真田幸通(真田幸道)がいる。

真田左衛門佐幸村1567〜1615年

真田昌幸の次男。
弁丸、源次郎、源二郎、与三郎、信仍、好白、信濃屋市兵衛、本名は真田信繁、豊臣姓を許され豊臣左衛門佐ともいう。
真田昌幸の次男として生れる。母は山之手殿。大阪の冬の陣・夏の陣における真田幸村の活躍はめざましい。 しばしの和睦の間に真田幸村が郷里の人々に送ったいくつかの手紙は今も読む人の心を打つ。 そこには、死を決した人間の清々しさがある。「我ら、籠城の上は、必死に相極め申し候」「我らのことなどは、浮世にあるものとは思召し候まじく候」 といいきり、その言葉どおり、華々しい最期を遂げた。
真田幸村は何のために死んだのだろうか。世間一般には、故太閤豊臣秀吉の恩に報ずるためだとか、 豊臣秀頼への忠義のためだとか言われる。しかし、これは江戸時代的な考えで、 真田幸村は豊臣家とはさほど深い関係はなかった。大阪城における真田幸村は傭兵隊長にすぎなかった。 最後の戦いに嫡子真田大助豊臣秀頼のもとに送ったのは、人質の意味であった。 豊臣氏にとっては、真田幸村は人質を取らねば信用できぬ程度の新参にすぎなかったのである。 真田幸村には、豊臣家のために死なねばならぬ義理はなかった。 戦国武士が、自分自身のため、またその家のため、必死の努力をしたことはよく知られている。 全ての努力は自分の出世のため、あるいはその家を盛んにするためである。 武田晴信はその父を追い、その長男を殺し、なお名将と謳われている。 徳川家康も、その家を保つために、妻と長男を殺している。真田幸村が大阪城に籠ったのは、出世するためだったか、 またその家を保つためだったか、いずれも否である。
真田幸村はただ、「必死に相極め」て入城したのである。忠義のためでもなく、出世のためでもなく、 その家を盛んにするためでもないとすれば、真田幸村はいったい何のために籠城し、何のために死んだのだろうか。 真田幸村は死に場所を得るために大阪に入城したとしか考えられない。 九度山で浪人のまま窮死するより、大阪城の将として華やかに討死する道を選んだのである。 日本の武士道には潔い討死を武士の本懐とする教えがある。しかしその教えは、いわば概念にすぎず、 それを実際にやってみせた人は少ない。真田幸村は利害得失を離れ、死ぬためのみに籠城した。 ことに冬の陣以後は、討死の決意がその書いたもののなかにはっきりと見える。死が真田幸村自身の利になるはずはなく、 まして上田真田家の人たちから「奇怪とも思召され」る行為、つまり真田家に迷惑を及ぼす行為である。 妻や子も無事ではすまない。しかし、なおも真田幸村は死を選んだ。
真田幸村は誠に古き武士道の体現者であった。最近ではこのような武士道を賛美するのははやらない。 「武士道とは死ぬこととみつけたり」などという言葉は気違いじみた血迷いごとと片付けられる傾向がある。 しかし、真田幸村のような生き方、真田幸村のような死に方も、武士の1つの典型的な生き方だった。 そういう生き方に共感した人は当時にも多かったし、現在でも少なくない。 真田幸村の奮戦を讃えたのは、皮肉にも徳川方に属した武将であった。 細川忠興島津家久(いずれも外様の大藩)の書状・報告には、徳川家康の旗本のだらしなさに対する嘲笑と、 真田幸村の奮戦に対する最大級の賞讃がみられる。もちろん正面から徳川幕府の大権力に反抗することはできぬが、 敗れた敵将の奮闘に心からの賞讃を送り、それと反対の家康の本陣の混乱と旗本のだらしなさを喝采している。 かつての三河武士の精鋭も、攻なり名をとげていて、夏の陣などではほとんど戦意がなかった。 その戦意のない旗本大部隊が決死の真田隊の馬蹄に蹂躙されるのを、外様の大名たちはむしろ快感をもって傍観していたのだろう。 真田幸村の最後の決戦は大軍勢の見守るなかで行われた。 真田幸村徳川家康の本陣を突き崩し、徳川家康を危地に陥れる奮戦ののち玉砕したが、 その奮戦は敵方からも「日本一」と賞讃され、またヤソ会宣教師によって遠くローマの本部にまで報ぜられた。 大阪冬の陣における真田丸の好守も都にまで大評判になり、公卿の日記にも記されているから、当然、天皇の耳にも入っていただろう。 真田幸村は天下の耳目を集める地にいて活躍を得たのである。天下の耳目を集めた中心地で、最も華々しく玉砕したのであるから、 武人としては本望であったろう。
葬地は不明であるが、墓所は京都の竜安寺や長野県の長国寺にあり、大光院殿月山伝心大居士、大光院殿日道光白大居士などの戒名が伝わっている。
また、真田信繁の名は幕府に嫌われ、芝居や軍記物語等で信繁の名を使うことは許されなかった。そのため「幸村」という名に据え変えられて現在に伝わっている。

糀町光明院1597〜1703年

真田幸村の長男。
真田幸村の落胤といわれる。 真田の忍者であるともいう。真田の子なので武家になれなくて僧になったといわれている。 『甲陽軍鑑』には疑いありとて用いられることはなかったという。 光明院は大阪陣の時19歳だったが、108歳まで長生きして、藤堂勢が長宗我部隊に追われて竹薮を押し倒して逃げた話などを子孫に話したという。

真田大助幸昌1600〜1615年

真田幸村の次男。
幸正、信昌、幸綱、治幸、信濃屋長兵衛、長左衛門ともいう。
真田幸村の嫡男として生れる。 慶長7年(1602年)に紀伊九度山で生れたともいわれる。 真田大助の長男に真田平右衛門元直がいたともいう。母は大谷吉継の娘(竹林院殿)である。 父真田幸村とともに大阪城に入り、真田丸で奮戦した。 元和元年(1615年)5月7日の茶臼山の戦いでは前線に赴いており、父真田幸村とともに討死することを望んだが、 父の厳命により大阪城へ戻り、淀殿豊臣秀頼の身辺にあった。慶長20年(1615年)5月8日、 豊臣秀頼ら主従が山里曲輪に追い込まれた際、豊臣秀頼の側近毛利勝永(毛利吉政)から脱出を勧められたが肯んぜず、 結局大阪落城のとき、豊臣秀頼に殉じ自刃。享年は13歳とも15歳ともいわれる。 大阪落城後は落ち延び、泉州堺に住んだともいう。

真田大八守信1612〜1671年

真田幸村の三男。
沖之丞、久米之介、片倉守信ともいう。真田幸村の三男として生れる。
母は大谷吉継の娘(竹林院殿)である。慶長17年(1612年)に九度山で生れた。 子供のとき京都で印地打ちで寛永10年(1633年)5月5日に没したと記録されているが、 実は姉の阿梅殿の嫁ぎ先の片倉氏に引き取られ、片倉久米之介守信と名乗って360万石を知行された。 真田守信は59歳で没したが、真田守信より8代目の真田幸歓より真田姓に復した。 なお、真田幸村の娘6人は、石合十蔵片倉小十郎蒲生源左衛門石川備前守らの室になっている。

真田左次郎幸信1615〜1667年

真田幸村の四男。
三好左馬之介ともいう。真田幸村の四男として生れる。
母は三好秀次の娘(隆清院殿)。元和元年(1615年)7月京都で生れた。 父真田幸村は5月に戦死している。 当時、隆清院殿と娘御田殿は大阪の陣に伴い残党狩りを避けて、故三好秀次の母(瑞龍院)の許に身を寄せていたというから、 真田幸信は曾祖母の居所で分娩されたのであろうか。 姉の御田殿の嫁ぎ先の岩城氏の許に引き取られ、三好左馬之介幸信と称した。 380石を給せられた。寛文7年(1667年)に没した。亀田の妙慶寺に位牌や墓がある。 母は三好秀次の娘(隆清院)、一説には三好清海(女であるとの説から)という。同じく御田殿(なほ)も母は三好秀次の娘である。

真田権左衛門之親1615〜1670年

真田幸村の五男。
真田幸村の五男として生れる。大阪落城後細川国広を頼る。 真田之親には一女あり、細川国広孫の細川太夫真田之親の娘を娶ったという。 真田之親の長男真田義国から、真田春行真田利康真田康春真田斉弘真田康国真田弘篤真田弘包真田弘括真田長八郎真田義光真田義博真田英太郎へ継がれる。

真田左馬助信勝1575〜1609年

真田昌幸の三男。
弥十郎、左馬介、左馬之助ともいう。真田昌幸の三男として生れる。
妻は牧野康成の娘。 関ヶ原敗戦後、真田昌幸真田幸村父子に伴い紀州へ従った。 兄二人とは母も異なり、年齢も相当離れている。 幕臣となっている点からみて、九度山から戻ってからは長兄真田信幸の引き立てがあったものと思われる。 後に旗本となり、慶長10年2月、将軍徳川秀忠上洛のとき大御番組として供奉した。 慶長14年9月、江戸において戸田半之丞氏勝(戸田興勝)と喧嘩して殺された。 また一説には徳川秀忠に従って大番組として京都滞在中6月19日に戸田氏勝と論争し斬殺されたともいう。

真田内匠昌親1577〜1632年

真田昌幸の四男。
昌勝、弥太郎、主計介ともいう。真田昌幸の四男として生れる。
真田信勝が四男で、真田昌親が三男の説もある。 内村郷平井村に住む。平井村は現在の丸子町。関ヶ原敗戦後、真田昌幸真田幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人。 寛永9年に死去。墓は松代大林寺と善光寺にある。 真田昌親の長男真田蔵人と次男真田多聞の墓も善光寺境内にあるという。なお、真田昌幸の娘七人は、真田長兵衛保科弾正宇田頼次妻木彦右衛門らの室になっている。 真田昌親の三男真田孫七郎信親は、2000石を分与されたが、養子真田信弘が、藩主真田幸道の養子となり、宗家を継いだため断絶。

真田隠岐守信尹1547〜1632年

真田幸隆の四男。
信忠、信春、源次郎、市右衛門、加津野(数野、和野、鹿野、鹿角)信昌、昌君ともいう。
真田幸隆の四男として天文16年(1547年)に生れる。武田氏の家臣加津野氏の養子に入り、加津野氏を継ぐ。 加津野氏は武田一門の勝沼氏につながる名門である。武田晴信は名のある家柄の存続には細心の心配りを行い、 不幸にして合戦などで跡継ぎを失った場合は、必ず有力家臣の家から養子を入れて家名を存続させた。 真田信尹の兄真田昌幸武田晴信母方の大井氏につながる武藤氏へ入ったのが好例である。 真田信尹は『甲陽軍鑑』では、御槍奉行、騎馬15騎、足軽10人を預かる中堅クラスの武将としている。 永禄12年(1569年)の駿河深沢城攻めでは北条左衛門大夫綱成の黄八幡の旗指物を奪い、名を馳せたという。 その後は真田幸隆とともに行動し、兄真田昌幸の上州攻略の陣立てでは先陣を務めた。 武田氏滅亡後は池田輝政蒲生氏郷徳川家康に仕え、 甲斐国巨摩郡のうちで3000石を領し、御使番を勤めた。 天正10年(1582年)本能寺の変後、真田信尹は早くから徳川家康に属していて、 依田信蕃らとともに佐久方面の経略に当った。 このとき姓を加津野から真田に復する。織田家から上杉家や北條家に属していた真田家に働きかけ、 兄真田昌幸は北條家を離れて徳川家康に属す決心をする。 この兄真田昌幸徳川家康の陣営に誘い入れた功により50両を賜る。 後に使い番に抜擢され、巨摩郡内に3000石、大蔵村に屋敷を構えた。 大阪の陣では、徳川家康真田信尹に命じて「信濃一国を与える」と言って真田幸村を誘ったが、 真田幸村が応じなかったという話は有名である。大阪夏の陣の軍功により、1000石を加増されて御旗奉行に出世。 寛永9年5月4日、86歳で没した。法名は徳盛院殿真田無済居士。墓は山梨県長坂町上條村の徳雲山竜岩寺(龍眼寺)にある。 真田信尹夫婦以下三世の墓塔がある。
真田信尹の妻は馬場美濃守信房の娘。長男の真田長兵衛幸政の妻は真田昌幸の娘である。 子孫は旗本として続いている。
真田信尹には長男真田長兵衛幸政(真田信政)、次男真田内蔵助政信(真田信勝)、三男真田信辰がいる。 真田幸政は3000石御鉄砲頭。真田昌幸の次女を妻とする。 後徳川家康旗本3000石。真田幸政の妻は明暦3年(1657年)4月28日に没し、 江戸渋谷の大安寺に葬られたという。真田幸政の長男真田左兵衛幸信、次男真田幸吉がおり、母は真田昌幸の次女。長男真田幸信には子がいなかったため正系は絶えている。 次男真田政信の長男真田信利から、真田信貴真田信紀真田信積真田信育真田信緜真田信和真田信敬真田紋蔵真田興三郎真田忠三へ代々継がれていく。

真田宮内介高勝1549〜1606年

真田幸隆の五男。
隆勝、信春、清鏡、金井高勝ともいう。真田幸隆の五男として生まれる。 金井姓を名乗る。 『一徳斎殿御事蹟稿』のなかで、金井氏系図に真田高勝が金井氏を継承したことが紹介されている。 真田信尹が五男で、真田高勝(真田信春)が四男という説もあるが、いずれも真田昌幸の弟である。 小県郡丸子町生田の古刹、龍顔寺に真田高勝の墓がある。 龍顔寺はかつて高勝寺といったが、寛永年間(1624年〜1644年)に改めたという。 真田高勝は宮内介を称した。慶長11年(1606年)7月7日に没した。 法名を「高勝寺殿龍顔宗白大居士」という。 真田幸隆の五男でありながら、事績はほとんど伝えられていない。 ただ、龍顔寺の西片に二重の堀跡を残す居館跡という場所があり、拝殿を構えた石祠、宮内介の霊を祀る「真田宮内大神」が鎮座し、 地元の人に宮内宮とか宮内様と呼ばれている。真田高勝は後年帰農し、金井と改姓したが、 その年代は不詳。慶長12年6月26日付、高勝寺宛、真田信幸(真田信之)寄進状によれば、 真田信之真田高勝が没した翌年、叔父真田高勝の冥福を念じて、菩提寺の高勝寺に寺領3貫文を寄進している。 このとき真田信之は43歳、父真田昌幸の遺領上田と沼田領を合わせ持つ9万5000石の大名で、沼田城を居城としていた。 真田信之にとって真田高勝は、帰農したとはいえ真田昌幸真田幸村同様、 忘れ難い武将であったのであろう。

矢沢薩摩守頼綱1518〜1597年

真田頼昌の三男。
真田頼綱、源之助、右馬助、綱頼、頼満、頼幸ともいう。
真田頼昌の三男として生れる。根井豊前守清雲の娘婿。真田幸隆の弟。真田家家老。
一族の重鎮として真田昌幸を補佐した。 『真武内伝』によると、矢沢家は諏訪家の分かれであるという。真田頼綱は幼い頃に真田氏を出家して鞍馬の僧になったが生まれつき武事を好み、 学問には身が入らなかったらしい。寺を追い出されて故郷に帰った。 この履歴は武蔵坊弁慶を思わせる。故郷に帰ると間もなく、地取り合いに巻き込まれた。 地取り合いというのは、狭い土地での闘争のことであるが、真田頼綱は白小袖のまま、甲冑もつけず、大長刀を振りまわして武者たちのなかを駆け入り、 散々に追い散らしたという。その後、矢沢の家を継いで矢沢郷に住した。 当時の矢沢家当主は矢沢頼昌(真田頼昌)であったと思われる。 矢沢氏は滋野一党が散り散りになった後、諏訪氏の後ろ盾で武田氏に属した。 その後は信州先方衆として真田氏の兄真田幸隆に従ったものと思われる。 そのなかでも沼田城攻略に大いに活躍した。矢沢頼綱は真田氏のなかでは特に武勇に優れた武将であり、 真田軍の中核、副将として常に真田幸隆を助けて戦場を往来した。 矢沢頼綱は中之条の林昌寺を創建している。天正13年(1585年)に沼田城を北條氏邦に攻められたとき、 矢沢頼綱は死守している。その後、岩櫃城代を務めた。 神川合戦では沼田城代としてその守りを固めている。上野沼田城代であった天正10年(1582年)、北条氏邦の侵攻を受けたが、 真田昌幸上杉景勝の支援を得て守り通した。 慶長2年5月、80年間生きた矢沢頼綱は天寿を全うして死去した。法名は剣光殿釆宗良泉居士。良泉寺に葬られている。 矢沢頼綱は六文銭の家紋を使用していたとされるが、矢沢氏の家紋は鳥居であったといわれる。
矢沢頼綱には長男矢沢頼康、次男矢沢頼邦がいる。

矢沢但馬守頼康1553〜1620年

矢沢頼綱の長男。
矢沢頼幸、三十郎、三拾郎、幸貞ともいう。矢沢頼綱の長男として生れる。真田昌幸の従弟。真田信幸重臣。 沼田城代として真田昌幸から恩賞として海野領のうち房山などの地をもらっている。矢沢頼康真田昌幸の覚えもよく、 天正期にはすでに矢沢頼綱とともに沼田城にあって、城代として政務を司っていたことが窺える。 1585年6月に真田昌幸上杉景勝真田幸村を人質として海津城に送り、援軍を要請した。 真田幸村に随行したのが矢沢頼康だった。このとき真田信幸が、鵤(鳩)、吉沢、ら乗馬衆5名と、林、坂本らの足軽衆12名を矢沢頼康の配下につけ、 真田幸村を守らせたという。 また、上杉景勝は援軍要請に応じて矢沢頼康を帰らせているから、矢沢頼康は居城矢沢城にあって徳川軍と戦ったと見られる。 第一次上田合戦(神川合戦)防戦において奮戦し、徳川軍の侵攻を阻むばかりか神川で散々に破る。 徳川の世になってから、大久保甚右衛門が上田藩の真田信之にこんな話をしたという。 「神川合戦のとき、殿のそれがしを追いかけられたのが真田さまでしたか。あのときは大長刀を振りまわす風音がすぐ耳元に迫って身もすくむ思いでした。それがしの乗馬は日頃から実に速い馬ですが、あのときばかりは、それがしと一緒に躍り上るようで……苦労しましたよ。」だが、 真田信之は「それなら、わが家来の矢沢但馬という者だ。わしは元々、逃げる者を追うのは下手なのじゃ。」とかえしたという。 この話は『真武内伝』によるもので、神川合戦当時、矢沢頼康真田幸村とともに上杉景勝のもとへ人質に預けられて、 海津城にいた可能性も高い。個人的には真田幸村矢沢三十郎が上田に加勢に駆けつけた説が好きなので、この話は信じたい。 関ヶ原の合戦後は、真田信幸が当主になるとこれを補佐した。大阪の陣では真田信之(真田信幸)に属して東軍として参加し、真田信吉真田信政を補佐した。 真田信幸は出陣に際し矢沢頼康に「何事も油断なく、間に入って頼み入り候」と、子供たちへの力添えを書き送っている。 矢沢家は矢沢頼康のあとを次弟矢沢頼邦が継ぎ、松代藩筆頭家老職を世襲し、多くの名品を今日に伝えている。
矢沢頼康の弟矢沢頼邦は、矢沢氏を相続。 矢沢頼邦には長男矢沢八左衛門頼貞がおり、真田家老で、200石もらっていたらしい。 矢沢頼貞には長男矢沢頼永、次男矢沢頼次、三男矢沢頼誠の三人がいて、 矢沢頼永の跡を受けて矢沢頼次が家督を継承。 矢沢頼次の長男矢沢頼豊が家督を継ぐが、嗣子がなかったため、矢沢頼誠の長男矢沢頼重が従兄矢沢頼誠から家督を継ぐ。 矢沢頼重から矢沢誠重矢沢頼寛と継がれていき、 8代経過し、現在当主は矢沢頼忠という。

常田伊予守隆家1520〜1572年

真田頼昌の四男。
出羽守、新六郎、七左衛門、隆永、幸真、道堯、綱富、俊綱ともいう。 真田頼昌の四男として生れる。常田右衛門綱旨(つなむね)嗣。
小県郡上田の常田に移住して以降、常田を家名とした。上田一帯は、中世の頃常田庄と呼ばれ、 八条院領であった。 真田昌幸が上田城を築城した当時、城域には小領主化した豪族常田氏代々の居館があり、 この頃既に常田隆家が常田氏の養子となり、当主であったとされる。 常田隆家は兄真田幸隆矢沢頼綱のように、信濃先方衆として武田家に仕えていたわけだが、 次第に真田家の重臣となっていく。 真田幸隆に従って各地を転戦する。上野長野原城主となり、真田幸隆の上野攻略に大きく貢献した。 しかし永禄6年(1563年)9月には嫡男常田俊綱を上杉軍との長野原合戦でうしなっている。 常田隆家は、元亀3(1572年)年7月8日に没したといわれる。 上田市月窓寺に常田隆家の墓碑がある。法号を「月窓寺殿前羽州公伝叟一天大居士」と刻銘されている。享年は52歳。
常田隆家には長男常田俊綱、次男常田綱富、三男常田棟吉がいたという。

常田山城守俊綱1540〜1563年

常田隆家の長男。
永則、永憲、新六郎ともいう。常田隆家の長男として生れる。
永禄6年(1563年)9月下旬に上杉勢に攻められ、吾妻郡長野原合戦で長野原砦を死守しようと討ち死にしたという。 この戦いは、武田晴信真田幸隆に上杉方の岩櫃城攻略を命じ、その第三次総攻撃を前にしたときの話になる。 長野原城は岩櫃城攻撃の拠点で、父常田隆家が城将として守っていた。 丁度秋の収穫のときで、農兵の多くは城から離れ家にあった。そこへ、岩櫃城方の将兵が押し寄せた。 真田軍は守りきれずに撤退。父真田隆家も撤退した。 常田俊綱は殿軍として須川橋と琴橋の両橋を切り落とし防いだが、岩櫃城方は周囲の山から大木を伐り出し、須川に渡しなだれ込んできたのである。 常田俊綱はついに支え切れず、討死を遂げたという。享年は23歳。

常田七郎右衛門綱富1547〜*1620年

常田隆家の次男。
図書、七郎、七左衛門ともいう。常田隆家の次男として生れる。
常田俊綱が長野原合戦で討死してしまったため、父常田隆家亡き後家督を継ぐ。 武田家臣海野衆として永禄起請文にその名が窺える。 武田家滅亡後は、真田家に仕える。重臣として真田信幸に仕えたとされる。

鎌原大和守幸定1521〜*1600年

真田頼昌の五男。
真田幸隆の弟。鎌原幸政養子。 鎌原氏に養子として出されているが、鎌原氏には同年代の鎌原幸重とその嫡子鎌原重澄がいることから、 鎌原幸定が家督を継いだとは思えない。 鎌原氏は元々滋野一党であるし、真田氏と鎌原氏との間には同盟関係があったものと思われる。 その時の人質であろうか。であるならば、真田氏が武田氏に仕えたときに交わされた同盟かもしれない。

真田甚三郎*1585〜*1640年

関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人の1人ともいわれる。

真田源八郎*1585〜*1640年

慶長20年(1615年)5月6日の夜、真田幸村は従士を呼び 「私は亡き父の遺言を守り、一国の主ともなり、各々へも加恩すべきところ、天運すでにつき、討ち死に決まった。 各々方は私のため二心なく尽くしてくれて誠にありがたいが、皆信州に妻子のある身である。帰国して妻子を育てよ。 私は秀頼に頼まれ、武門の義理、死を決めている。これが今生の名残りだ。」と諭した。 従士たちは同音に答えた。 「我々は御先祖より御厚恩にあずかっている者です。今日お暇を賜わるとならば、一同切腹します。」そこで一同は盃を傾けて明日の奮闘を誓った。 真田幸村真田源八郎を呼び、形見の自筆の一巻を持たせ、強いて上田へ帰らせた。 この真田源八郎は播州姫路城主池田備後守利隆に仕えて80歳まで長命し、この物語をした。

真田勘解由*1550〜*1620年

真田勘々由ともいう。譜代衆。

真田権太夫*1550〜*1620年

譜代衆。

真田与左衛門*1580〜*1615年

譜代衆。大阪の陣で討死。