鎌倉郡の郷 |
郷名 | 邑名 | 備考 |
土甘郷 | 藤沢邑 | |
西富邑 | |
大鋸邑 | |
鵠沼邑 | 高座郡鵠沼邑の一部。 |
辻堂邑 | 高座郡辻堂邑の一部。 |
藤沢郷 | 藤沢邑 | |
方瀬郷 | 方瀬邑 | |
江島邑 | 公的記録の初出は天平21年(749年) 方瀬郷の郷戸主大伴首麻呂が朝廷に貢進と残る。 |
鵠沼郷 | 鵠沼邑 | 高座郡辻堂邑の一部。 |
村岡郷 | 高谷邑 | |
小塚邑 | |
宮前邑 | |
弥勒寺邑 | |
柄沢邑 | |
城廻邑 | |
関谷邑 | |
植木邑 | 『正保国絵図』に「植木邑」の名が記されている。永正9年(1512年)10月に伊勢盛時が築城した玉縄城防衛のために樹木を多く植えたことに由来するという。植木邑は相模陣・山居(平戸山)・柳小路・六反目・八反目・申ヶ久保・峯下前・玉ノ前・割土腐・植木上町など小字をもつ。『北條家朱印状写』天正17年(1589年)12月晦日条に「一堰 植木新宿 内匠」と記され、豊臣秀吉の小田原攻めに対処するために内匠鍛冶屋に大筒一丁を7日内に鋳造し提出するよう命じている。暗殺された源実朝の首級をもって逃亡した7騎の侍にちなむ「七騎ヶ谷」の伝承も残っている。
曹洞宗陽谷山竜宝寺は玉縄北條氏の菩提寺で、永禄4年(1561年)に北條綱成が開基となり泰絮を開山として当初は大応寺として建立。浄土宗玉縄山貞宗寺が相模陣にあるほか、日蓮宗久成寺、真言宗円光寺などもある。 |
岡本邑 | 岡本郷岡本邑の一部。 |
渡内邑 | |
山谷新田邑 | |
上俣野邑 | 俣野郷上俣野邑の一部。 |
東俣野邑 | 俣野郷東俣野邑の一部。 |
汲沢邑 | 俣野郷汲沢邑の一部。 |
原宿邑 | 俣野郷原宿邑の一部。 |
深谷邑 | 俣野郷深谷邑の一部。 |
俣野郷 | 上俣野邑 | |
東俣野邑 | |
山野新田邑 | |
原宿邑 | |
深谷邑 | |
汲沢邑 | |
城廻邑 | 村岡郷城廻邑の一部。 |
津村郷 | 川名邑 | |
腰越邑 | 鎌倉の深沢邑の大きな湖に五頭竜がいて津邑の16人の子どもが1人残らず五頭竜の犠牲となり「子死越」が腰越の地名となったという。 |
津邑 | |
手広邑 | 梶原郷手広邑の一部。 |
笛田邑 | 梶原郷笛田邑の一部。 |
梶原郷 | 梶原邑 | 梶原郷は深沢邑(梶原・鎌倉山・上町屋・手広・寺分・常盤・笛田・山崎)の地域を示す。 |
常磐邑 | 常磐は常盤・常葉ともいう。
常盤一向堂は桔梗山の南方に位置する。親鸞開祖の浄土真宗である一向宗が鎌倉に存在したことを示す。『大谷遺跡録』延慶2年(1309年)2月常葉に草庵を構えていた僧唯善(弘雅)坊がひそかに如信上人の御彫刻・御真影・御骨をもって鎌倉にくだり念仏を弘通したことにより「常葉の真影」と称された。戦国時代に北條氏の政策により追放されたか定かではないが鎌倉から「真影」は散逸し、鎌倉郡長沼郷の正安寺に移安されたのち本山に遷されたという。 |
寺分邑 | |
上町屋邑 | |
手広邑 | |
笛田邑 | |
山崎邑 | 山崎郷山崎邑の一部。 |
山崎郷 | 山崎邑 | 山内荘園の一領。『風土記稿』には山崎邑に鉱泉が沸き出した阿多見(熱海)という小字があったという。山崎邑阿多見(熱海)は亨徳元年(1452年)12月に円覚寺黄梅院領として作成された『北深沢郷年貢算用状案』に地頭除分として「洲崎阿多見」と記されている。『所領役帳』に「東郡須崎あたみ」とあり戦国時代には川瀬左市郎が領したと記されている。 |
洲崎郷 | 山崎邑 | |
東郷 | 台之邑 | |
深沢郷 | 洲崎邑 | 深沢邑(寺分・上町屋・常盤・梶原)や山崎邑地域を示す。 |
北深沢郷 | 洲崎邑 | |
埼立郷 | 橋立邑 | 稲村ヶ崎から鎌倉郷にかけての地域を示す。
由比ヶ浜と七里ヶ浜を分けるように突出した岬があり、岬の東側を「霊山ヶ崎」、西側を「稲村ヶ崎」と呼んでいたという。『風土記稿』は岬の形が稲束を積み重ねた稲叢に似ていることから稲村ヶ崎としたという。『鎌倉志』では極楽寺切通へ通じる稲村ヶ崎つけ根辺りの村落を稲村と称したことに由来するともしている。
『源平盛衰記』治承4年(1180年)8月条に、伊豆国において源頼朝が挙兵したとき、三浦一族が源頼朝と合流するために通った経路のうちにみられ、極楽寺切通が開通する以前に鎌倉以西との往来には稲村ヶ崎の通行が必須だったことがうかがえる。
『鏡』建久2年(1191年)2月に源頼朝が二所詣に出発したとき稲村ヶ崎で行列を整えたと記されている。『海道記』には岬の周囲は伝い歩く以外手段がなく、かなりの難所であったことが記されている。元仁2年(1224年)12月に鎌倉で疫病が流行したときに北條泰時が鬼気祭を催している。鎌倉の西境がこのころには稲瀬川から稲村ヶ崎へと広がっていたことがわかる。
『太平記』元弘3年(1333年)5月条は、新田義貞が鎌倉攻めで要害の稲村ヶ崎を通過するのに手を焼いたため、黄金の太刀を海中へ投げ竜神に祈念したところ潮が二十余町も引き、易々と鎌倉に攻め入ることができたと記している。
この鎌倉攻めで新田義貞の一族大舘宗氏ら11人が極楽寺口で討死。文久2年(1862年)に十一人塚の碑が慰霊のために建てられている。 |
腰越邑 | 津村郷腰越邑の一部。 |
長谷邑 | 甘縄は海士縄ともいい、甘縄神明社(甘縄神明宮)を中心とした地域を示す。和銅3年(710年)に豪族染屋時忠(染谷太郎)が山頂に神明社を創建し、山麓に神輿山円徳寺を建立したという。鎌倉最古の神社。『鏡』治承4年(1180年)12月20日条で「藤九郎盛長甘縄之家」とあり、源頼朝の渡御の記事がこのころに散見できる。鎌倉時代に霜月騒動で滅亡した安達泰盛・安達宗景父子ほのか、千葉氏など甘縄には多くの御家人が居住し、将軍家による甘縄神明社への参詣も度々行われ、『鏡』から長楽寺や万寿寺の諸寺院の建立や魚町という町屋があったことも確認でき、甘縄の地がいかに重要視されていたかがうかがえる。
長楽寺は、嘉禄元年(1225年)3月に源頼朝の妻北條政子によって、源頼朝の供養のため建立。七堂伽藍が建てられた。その後元弘三年(1333年)5月鎌倉幕府滅亡時に戦火で焼失。現在でも長楽寺という地名が残っている。
魚町は、「うおまち」「いよまち」ともいう。『鏡』文永2年(1265年)3月5日条に幕府が許可した町屋として名が残る。『朽木文書』嘉暦3年(1328年)6月11日「平宗度譲状」に「鎌倉甘縄魚町東頬地一円事」と記されており、場所は甘縄神明社付近とされる。
鎌倉大仏(長谷高徳院)の北側の大谷と笹目ヶ谷(佐々目ヶ谷)を源流として稲瀬川が流れる。江ノ島電鉄の長谷駅の東側を抜けて由比ヶ浜にそそぐ2.4kmの川で、水無瀬川・稲能瀬河(『皇国地誌』)ともいう。『万葉集』巻十四に「真愛しみ さ寝に吾は行く 鎌倉の美奈能瀬川に 潮満なむか」と詠まれ「美奈能瀬」が「稲瀬」に転訛したという。『源平盛衰記』治承4年(1180年)8月条に「畠山次郎は五百余騎にて、由比浜、稲瀬河の耳に陣をとり、赤旗天に輝ける」とあるのが所見。『鏡』治承4年(1180年)10月条は北條政子が鎌倉に入る際に稲瀬川の西の民家に止宿したと記されるほか、諸史料に散見され、鎌倉西境に稲瀬川が位置づけられてた。『本朝高僧伝』憲静伝に稲瀬川付近に安養院が建立されたと記している。河竹黙阿弥の歌舞伎「白波五人男」の終幕「稲瀬川勢揃いの場」はこの稲瀬川が舞台。 |
坂ノ下邑 | |
極楽寺邑 | |
乱橋材木座邑 | 由比郡材木座邑の一部。 |
由比郷 | 材木座邑 | 現在の鎌倉市材木座周辺を示す。材木座邑新居は『鎌倉年中行事』享徳3年(1454年)条に「浜の新居閻魔堂円応寺と号す、応永大乱の亡魂を弔うため海蔵寺に施餓鬼を命じた」と記されている。『修造勧進状』建長2年(1250年)条に由比郷見越岩(長谷邑見越ヶ嶽)にあった閻魔堂を海辺の「荒居鯨海」に移したと記されている。元禄16年(1703年)の大地震で破損し建長寺向かいへ移り荒居山円応寺と称した。材木座旧地には「荒井閻魔堂跡碑」が残る。
材木座邑西浜飯嶋は「海中に突き出た岩に由来する」地名という。『鏡』寿永元年(1182年)11月10日条に源頼朝愛妾亀ノ前が伏見広綱(伏見冠者)の飯嶋館に身を寄せていると知った北條政子は激怒して牧宗親に伏見広綱宅を破却させたと記されている。承元3年(1209年)5月28日条には「西浜(飯島)辺騒動」と記されている。貞永元年(1232年)には鎌倉の港湾商業地域として和賀江嶋が造られた。『聖愚問答鈔』で日蓮は「飯嶋の津にて六浦の関米を取る極楽寺」を非難していることから、飯嶋が極楽寺の管轄下にあり飯嶋関所があったことを示す。
『円覚寺文書』暦応2年(1339年)12月9日条に円覚寺領の年貢米に対して関米を徴収しないよう飯嶋関所へ通達がされている。『極楽寺文書』貞和5年(1349年)2月11日条で船舶の関料徴収権と島の維持管理が依然極楽寺にあったことが示されている。 |
前浜邑 | 由井里の前浜(由比ヶ浜)ともいう。『市川文書』元弘3年(1333年)6月14日「市村王石丸代後藤信明軍忠状」に5月18日の鎌倉合戦で「前浜一向堂の前」で激しい戦いがあったと記されている。 |
鎌倉郷 | 小町邑 | 現在の鎌倉中心部で鶴岡八幡宮から由比郷前浜邑にかけて。鎌倉郷鎌倉里(御成)が郡衙。 |
大町邑 | |
雪ノ下邑 | 鶴岡八幡宮西側の馬場小路と丸山(聖天山・鶯谷山)との狭い谷間に鶯ヶ谷があり、鶯ヶ谷は鶴岡八幡宮神主の大伴氏などの屋敷が多く馬場町ともいう。『風土記稿』は「実朝、当社参詣のとき、此谷にて鶯の初音を聞しより、此名起れり」と記す。『風土記稿』神主大伴氏の宅地鎮守「飯山両社権現社銅鏡裏銘」嘉吉3年(1443年)6月条に「再葬鶯谷尼堂之庭上」と記されているのが所見。飯山権現社は「鶯谷内道場」とも称された。 |
西御門邑 | |
扇谷邑 | 亀谷山寿福寺(壽福寺)は金剛寿福禅寺ともいい、源頼朝が没した翌正治2年(1200年)に北條政子が開基。開山は葉上房栄西(明庵栄西)。 巽荒神社は延暦20年(801年)に蝦夷征伐に向う途中の坂上田村麻呂が葛原岡に勧請、永承4年(1049年)に源頼義が改築したという。寿福寺(壽福寺)の鎮守神として崇敬され、その位置が寿福寺(壽福寺)の巽(南東)の方にあたるので巽荒神と称された。
泉ヶ谷は泉谷山浄光明寺や鎌倉十井の「泉ノ井」などがあり、『鏡』建長4年(1252年)5月19日条などに「泉谷」「泉谷亭」と散見。文永2年(1265年)6月10日条には「亀谷井泉谷所々山崩」と記されている。南北朝時代の『浄光明寺敷地絵図』には「多宝寺」「東林寺」などが記されている。扇谷山多宝寺跡に妙傳寺(妙伝寺)が移転。『扇ヶ谷邑絵図』に「多宝寺ヶ谷」と記されている。
鎌倉十井の1つ「泉ノ井」は『風土記稿』では「和泉ノ井」と記す。扇ヶ谷浄光明寺の門前近くに位置する。「いづ(出)み(水)」と一般に清水が湧く瑞祥の名という。『鏡』建長4年(1252年)5月19日条に「亀谷泉谷右兵衛督教定朝臣亭」と記されているのが所見。『鎌倉日記』延宝2年(1674年)条に「泉井谷ノ辺ニ潔キ水湧出ル也」と記されている。
寿福寺の門前にある鎌倉十橋の1つ勝ノ橋から南行し、巽荒神社の前までを今小路という。『大日本地名辞書』には「扇ヶ谷の谷口より南に馳せ、裁許橋に至る旧街名で、今は寿福寺の門前の南をいう」と記される。『僧都記』天文8年(1539年)10月条に「扇ヶ谷今小路番匠主計助」とあり、主計助が巽荒神社を修理している。英勝寺の木造羅漢像に寛永20年(1643年)の胎内背面墨書銘に「鎌倉扇ヶ谷今小路」と記されている。 |
小林郷 | | 鶴岡八幡宮周辺を示す。 |
大倉郷 | | 大蔵郷ともいう。大倉幕府周辺を示す。 |
岩瀬郷 | 岩瀬邑 | 山内荘園の一領。岩は堤防・岩礁を示し、瀬は川の浅い場所や急流を意味する。
『風土記稿』は「土俗は伝て頼朝の時世奥州より岩瀬与一太郎という者捕はれ来り、後爰に居住せり」と記す。岩瀬郷岩瀬邑には滝ノ台・滝ノ谷・五郎ヶ谷・入ノ谷・ふりが谷・平島・上下土腐・北山などの小字をもつ。『証菩提寺文書』仁治元年(1240年)3月7日条「北條泰時下文写」には「山内新阿弥陀堂料所岩瀬郷」と記される。文保元年(1317年)12月、元弘3年(1333年)11月などに岩瀬郷の名が記されているほか、正平7年(1351年)正月10日に足利尊氏が勲功の賞として岩瀬郷を越前国の島津忠兼に与えている。
『明月院文書』によれば永徳3年(1383年)から明月院領となり、小田原北條氏の支配下にあった天正18年(1590年)7月まで明月院領としてつづいた。大永2年(1522年)には今泉邑が岩瀬郷内であったことも確認できる。『雲頂庵文書』永禄7年(1564年)9月条には2年前に岩瀬郷30貫文のうち1貫200文分の田二反を円覚寺塔頭富陽庵に寄進したと記され、文中で「ひかしこうり(東郡)ゆわせ(岩瀬)」と呼称されている。天正15年(1587年)7月晦日に北條氏が豊臣秀吉との決戦に備えて岩瀬郷から8人召集している。岩瀬郷は浄土宗大長寺領で、北條綱成開基の大長寺は成誉存貞を開山とし、亀鏡山護国院と号した。 |
荏草郷 | 二階堂邑 | 衣加夜郷・荏柄郷ともいう。二階堂(荏柄天神)周辺を示す。
二階堂稲葉越は杉本城の山形が「稲積の形」をしていることにちなみ、山を越える峠を示す。二階堂稲葉越は杉本寺や向小路の北、鎌倉宮の南東の谷戸で、二階堂川に「稲葉越橋」がかかりその名を残している。 |
浄明寺邑 | 青砥には鎌倉時代に執権北條時頼に仕えた青砥藤綱の城館があった。『太平記』『弘長記』などに上総国青砥荘の青砥藤満の子青砥藤綱が二階堂氏の推薦で北條時頼に仕えたと記し、慈悲深い人柄として多くの逸話が残っている。南北朝時代の『結城文書』康永3年(1344年)3月21日条に奉行人として青砥左衛門尉の名が残るほか、浄明寺には現在でも青砥橋が滑川にかかりその名を残している。
犬懸には「犬懸ヶ谷」があり、狩りのときに犬が駆けまわったことに由来するとされ「犬駆ヶ谷」とも記される。『鎌倉名跡志』天明5年(1785年)条に「きぬかけが谷ともいう」と記され、谷の奥にある衣張山(絹張山・衣掛山)から絹掛ヶ谷(衣掛ヶ谷)とも称されたという。『源平盛衰記』治承4年(1180年)条は畠山氏と三浦氏が小坪で合戦となったとき、和田小次郎が「犬懸坂」を馳せ越して名越に出たと記している。
『鏡』寛元3年(1245年)3月16日条では将軍藤原頼経が精進のため「日光別当犬懸谷坊」に入御したと記されている。
関東管領にも任じた上杉四氏の1つ犬懸上杉氏もこの地に住み、現在も上杉朝宗・上杉氏憲邸跡が残っている。上杉憲房・上杉憲藤・上杉朝宗・上杉氏憲とつづく系統で、上杉憲藤が足利尊氏の子千寿王の執事となって犬懸に在住し犬懸上杉氏の祖となった。犬懸上杉氏は一時期は上杉氏の惣領ともめされた名門であったが、上杉氏憲(上杉禅秀)の代に「上杉禅秀の乱」を起こし衰退。上杉氏憲の子上杉教朝、上杉教朝の子上杉政憲らも堀越公方足利政知の関東執事となるなど犬懸上杉氏の血統は存続したが戦国時代には動静が確認できなくなる。 |
十二所邑 | 明石には明石谷があり、谷間を滑川支流の明石川が流れ明石橋がかかっている。明石谷の背後に明石山・柏原山・羽黒山が連なり、『鎌倉志』によれば鎌倉郡と三浦郡逗子池子・久木地域を結ぶ往来道(稲荷坂)があるという。光触寺や源実朝建立の大慈寺の南に位置し、『社務職次第』元弘3年(1333年)9月4日条に「一心院明石本坊」と記されているほか、『供僧次第(乗蓮坊)』建武2年(1335年)11月28日条に「社務代明石本坊」と記されている。『鎌倉志』は光触寺の南方の柏原山の麓に一心院があると記し、『鎌倉年中行事』は一心院住持は足利氏一族と記している。『社務記録』文和2年(1353年)8月10日条に「明石谷より桜壺に移し植え」と記されている。天正3年(1575年)『桂林集』で「相州(相模国)三浦郡池子里にしるよしして行けるに、明石という所に十五夜の月のくもりければ、かき曇月も詠るかひそなきこよい明石のとまりなれども」と詠まれている。慶長5年(1600年)『建長寺寺領水帳』などに十二所耕作地として「あかし」「あかし口」と散見できる。 |
峠邑 | 朝比奈は鎌倉郡の最東に位置し、相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡六浦荘とを結ぶ軍事・経済上の要路朝比奈切通を大小2つもつ。朝比奈切通は、朝夷奈切通、六浦道ともいうほか、『玉舟記』には峠坂、『金兼藁』には金沢切通と記されている。和田義盛の三男朝比奈義秀が一夜で切り拓いたという。仁治元年(1240年)11月に幕府の新道造営決定をうけ、翌仁治2年(1241年)4月に着工、5月に執権北條泰時自ら馬で土石を運んだという。六浦には良港・製塩地があったことから鎌倉北條氏がいかにこの道筋を重視したかがうかがえる。『鏡』建長2年(1250年)6月条に六浦道が土石で埋もれたため再度工事を実施したと記されている。『社務記録』建武4年(1337年)12月条には北畠顕家が切通を越え鎌倉へ侵攻したとき、杉本城で北畠軍と鎌倉防禦兵とが合戦をしたと記している。 |
小坂郷 | 山内邑 | 山内荘の中心地でもあり、山内荘は冨塚(現在の横浜市戸塚区)周辺まで広がっていた。
応永26年(1419年)に長尾忠政(長尾尾張入道)の助力を得て芳隠省菊は円覚寺瑞雲庵から200坪の地を拝領し、先師円覚寺102世大雅省音の塔院として法珎院を開創しています。長尾忠政を嗣いだ長尾忠景が改築し、さらに長尾忠景を嗣いだ長尾顕方、永正6年(1509年)11月に長尾顕忠の妻幸春尼が龍隠軒に寺領を寄進しています(『龍隠庵文書』)。明月院付近には北條時頼の墓がある。 |
今泉邑 | 泉が湧水する瑞祥を地名とし、弘法大師が止錫して水が湧き出したことに由来するという。戦国期の大永2年(1522年)3月7日北條氏綱制札写に「相州岩瀬郷之内今泉邑竹木之事」と記されている。今泉邑の『毘沙門堂棟札』享禄5年(1532年)9月27日条に「相州山之内庄今泉村」とあり、毘沙門堂・吉祥天などが修造再興されている。 |
岩瀬邑 | 岩瀬郷岩瀬邑の一部。 |
台邑 | |
小袋谷邑 | 昭和29年(1954年)に火山活動が活発な時期で富士や箱根の山が盛んに噴煙をあげていた後期旧石器時代の黒曜石片が採掘された。 |
粟船(大船)邑 | 粟船郷粟船邑の一部。 |
尺度郷 | 公田邑 | 現在の横浜市栄区公田町を中心とする地域を示す。尺度郷として田所・柳ノ坪・中ノ坪・榎ノ坪などの名が残る。 |
岩瀬邑 | 岩瀬郷岩瀬邑の一部。 |
粟船(大船)邑 | 粟船郷粟船邑の一部。 |
鍛冶ヶ谷邑 | 山内本郷鍛冶ヶ谷邑の一部。 |
笠間邑 | 加佐萬邑ともいう。反町(曾利満千)・田立(多利宇)・岩井口などの地名をもつ。建武2年(1335年)3月に近藤清秀(近藤出羽次郎)が領していた。小田原北條氏の時代には松ヶ岡東慶寺が寺領としたほか、松田直秀(松田左馬助秀治)、松田康定(松田筑前守)、松田康吉(松田因幡守)、松田尾張守らが伊勢盛時に与えられ領した。笠間には法安寺(笠間山智光院)がある。
㹨川は鼬川とも記す。八軒谷の奥(現在の横浜自然観察の森)や瀬上沢の奥(瀬上市民の森)を水源とし、庄戸・上郷・中野・桂・小菅ヶ谷・笠間をへて柏尾川(戸部川)に注ぐおよそ2.7qの水流。特別な霊力をもつとされる㹨の棲息に由来する。『鎌倉年中行事』享徳3年(1454年)条は「公方様(足利成氏)御発向、鎌倉御立あり、鼬川にて御休あり、御酒三献、御湯漬参る」と記し、足利成氏が武蔵国に出向するときにこの川辺で休息し、昼食をとるのを恒例としていたこともあって「出立(いでたち)川」の別称を残している。
『鏡』元仁元年(1224年)6月6日条の「㹨川」を所見とし、寛喜2年(1230年)11月13日条と嘉禎元年(1235年)12月27日条にいずれも「㹨川で霊所七瀬祓」が行われたことを記している。七瀬は由比ヶ浜・金洗沢池・固瀬河(片瀬川)・六浦・杜戸・江島竜穴・㹨の七ヶ所。寛喜2年(1230年)のときは江島竜穴にかわり逗子多古恵川(田越川)が選ばれている。
『兼好法師集』暦応3年(1340年)は「さかみの国いたち河といふところにて このところの名を句のかしらにすえて旅の心を いかに我立にし日より塵のいて風たに閨をはらはざる覧」と詠んでいる。『風土記稿』では「鼬川」と記し、「鎌倉古道のかかる所橋を架す、長六間、新橋と唱ふ」と現在の新橋付近で鎌倉街道の戸塚道(中ノ道)と弘明寺道(下ノ道)が合流し交通の要衝であったことをうかがわせている。 |
飯島邑 | 長沼郷飯島邑の一部。 |
粟船郷 | 粟船(大船)邑 | |
山内本郷 | 小菅ヶ谷邑 | 山内荘園の一領。 小菅谷邑猪鼻は『証菩提寺文書』建武2年(1335年)本郷証菩提寺新阿弥陀堂の供僧行弁と下部鏡法の料田として「猪鼻」がみられる。『風土記稿』にも江戸期の鎌倉郡小菅谷邑に「猪鼻」が確認できる。「猪鼻」は「い(高くそびえた)はな(先端)」という意で、猪の鼻のように細く突き出した地だったとされる。 |
鍛冶ヶ谷邑 | |
中野邑 | 中之村ともいう。 |
上野邑 | 上之村ともいう。 |
桂邑 | |
長尾郷 | 長尾台邑 | 山内荘園の一領。 |
金井邑 | 金井郷金井邑の一部。 |
田谷邑 | 田屋邑ともいう。 |
小雀邑 | |
金井郷 | 金井邑 | |
岡本郷 | 岡本邑 | 岡本郷から長尾郷小雀邑周辺まで広がる。 |
長沼郷 | 長沼邑 | 奈我奴末邑ともいう。小田原北條氏の時代には安田大蔵丞が領した。長沼には正安寺(臨済宗円覚寺末長沼山)・長徳寺(醫王山)・金蔵寺(三瀧山長沼院)がある。 |
飯島邑 | 『証菩提寺文書』建武2年(1335年)条「新阿弥陀堂供僧以下料田坪付注文」に山内荘内の「飯嶋」として見出されたのが所見。 |
倉田郷 | 上倉田邑 | 加美久良多邑ともいう。鑓ヶ谷・布施・外ヶ谷・松ヶ崎・堰場などの地名をもつ。上倉田には上倉田八幡宮・子之八幡宮・實方塚などがある。盛徳寺(長門国豊浦郡功山寺末福聚山養富院)・蔵田寺(浄土宗大町邑安養院澤泉山西向院)・林宗寺(浄土真宗東六條本願寺末天神山)などがある。山内荘園の一領。仁治元年(1240年)3月に執権北條泰時が宛行したことが『事證菩薩寺文書』に残っている。文和年間(1352〜1355年)には島津忠兼(島津周防守)が領した。文和3年(1354年)6月に飯田七郎左衛門尉が乱入して島津忠兼の代官池田右衛門尉を殺害し、足利尊氏の命令で鎮められた。永禄年間(1558〜1570年)には北條家臣の富島氏・肥田氏・吉原氏らが領した。堀内誘引之助は北條氏に与した。 |
下倉田邑 | 志茂久良多邑ともいう。河内という地名をもつ。下倉田八幡宮がある。下倉田には永勝寺(浄土真宗東六條本願寺末龍臥山祥瑞院)・萬松寺(南江山臨済宗鎌倉円覚寺末)・栄覚寺などがある。 |
富塚郷 | 富塚邑 | 戸塚郷ともいう。山内荘園の一領。応仁元年(1467年)のころには円覚寺雲頂庵の所領があり、沢辺森忠(沢辺孫太郎)と沢辺善阿弥(沢辺小太郎入道)が年貢を毎年8貫200文と米9斗を納入する証状を出しています(『9月1日付雲頂庵文書』)。
沢辺信連は足利義明に従い天文7年(1538年)10月5日に国府台合戦で討死しています。沢辺信連の子沢辺宣友は太田資頼の母知楽院のはからいにより富塚郷の郷長に復帰しています(『沢辺系譜』)。
沢辺宣友は冨塚郷の実力者で、芳林中恩の弟子雲因周泰を招いて海蔵院を中興しています。沢辺一門からは古帆周信や精巌周勤ら僧を出しています。
古帆周信は禅宗黄梅派の大立物で、円覚寺に新しい法流を導入し、宗旨の体質改善につとめています。円覚寺は山内郷山内邑にありますが、山内荘が富塚郷にまで広がっていたことで勢力がおよんでいたことが分かります。
永禄年間(1558〜1570年)には北條家臣の山角刑部左衛門が領した。元亀3年(1572年)には内田政元(内田兵庫)の名が残る。 |
矢部郷 | 矢部邑 | |
上矢部邑 | |
吉田郷 | 吉田邑 | 山内荘園の一領。 |
秋庭郷 | 秋庭邑 | 秋葉郷ともいう。山内荘園の一領。 |
品濃邑 | |
前山田邑 | |
後山田邑 | |
那瀬邑 | 名瀬邑ともいう。 |
前岡郷 | 前岡邑 | 舞岡郷ともいう。東慶寺の寺領。山内荘園の一領。 |
柏尾郷 | 上柏尾邑 | 樫尾郷ともいう。 |
下柏尾邑 | |
永谷郷 | 永谷邑 | |
平戸邑 | |
上野庭邑 | |
下野庭邑 | |
野庭郷 | 野庭邑 | |
瀬谷郷 | 瀬谷邑 | 世野郷ともいう。伊勢盛時の家臣山田経光(山田伊賀入道)が郷主であった瀬谷郷の妙光寺と万年寺の梵鐘にまつわる伝承が残っています。 |
二橋邑 | |
宮沢邑 | |
大島郷 | 新橋邑 | |
岡津邑 | 岡津郷岡津邑の一部。 |
矢部邑 | 矢部郷矢部邑の一部。 |
富塚邑 | 富塚郷富塚邑の一部。 |
岡津郷 | 岡津邑 | |
阿久和郷 | 阿久和邑 | 浄土宗の高僧藤田称念(三蓮社縁誉/吟応)を排出した郷(江戸出身ともいわれている)。中丸定昭(中丸左衛門尉)の子藤田称念は捨世派という一派を開き、京都知恩院の南隣に一心院を建て、全国に47寺を建て、戦乱の最中に全国から資材を集め、知恩院御影堂の屋根を瓦葺に改築。
阿久和郷の水田はすべて、宝徳2年(1450年)に足利成氏の発布した徳政令で鶴岡八幡宮の領土に還ったというが、財政の乏しくなった鶴岡八幡宮が寺領を落合式部入道に売り渡していたという。 |
和泉郷 | 和泉邑 | 泉郷ともいう。西部を和泉川が南流。「いずみ」は湧き出る水を示し、古代村落や駅屋・駅路と関係する古い地名であり、池の水が美酒にかわったという伝説にちなむ地名ともいわれている。『鏡』建保元年(1213年)条に源頼家の遺児を奉じて北條氏打倒を謀った泉親衡(泉小次郎)の城館があった記されている。『所領役帳』で戦国時代には東郡和泉郷として笠原氏の所領と記されている。神社として八幡宮・鯖神社、寺院として臨済宗長福寺・浄土宗宝心寺などがある。 |
中田邑 | |
飯田郷 | 上飯田邑 | |
下飯田邑 | 高座郡涓堤郷下飯田邑の一部。 |
上和田邑 | 高座郡涓堤郷上和田邑の一部。 |
今田邑 | 高座郡涓堤郷今田邑の一部。 |
高座郷 | 中和田邑 | |
深見郷 | 深見邑 | 伊勢盛時の家臣山田経光(山田伊賀入道)が深見一関城を築城。牢場・馬場屋敷・中屋敷・鬼門除八幡などは遺構の名残と伝えられている。 |
沼浜郷 | 沼間邑 | 沼濱郷ともいう。逗子市沼間周辺を示す。 |
池子邑 | もとは鎌倉郡。三浦郡池子邑となる。田越川支流の池子川途上の「大池」にちなむ。池の子(北)に位置するという語源。『所領役帳』永禄2年(1559年)条に「泰平寺(太平寺)殿 拾貫文 三浦池子」と記されているのが所見。『桂林集』天正3年(1575年)条に「相州三浦郡池子里にしるよしして行けるに」と記されている。久木奥の大林をへて鎌倉郡明石谷に出る峠道(稲荷坂)は池子邑と英勝寺との往来道でもあった。 |
葉山郷 | | 小坪から三浦郡にかけての地域を示す。三浦郡葉山郷となる。 |
長柄邑 | |