小助の部屋/鎌倉郡(玉の輪)をたずねて
 鎌倉といえば源氏と思われますが、意外にも五平氏と称された鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏らが勢力を誇っていた地域です。
 鎌倉郡は、現在の市域でいうと鎌倉市全域と藤沢市東部の一部、逗子市全域、横浜市南部・西部の一部(戸塚区・泉区・栄区の全域と瀬谷区・港南区・南区・金沢区の一部)にあたります。
柏尾川流域を中心にしていることもあって縦長の郡で、承平年間(931〜938年)に編集された『倭名類聚抄』には鎌倉郷・沼濱郷・埼立郷・荏草郷・梶原郷・尺度郷・大島郷の七郷がみられます。
鎌倉郡衙は御成(現在の鎌倉市役所・御成小学校一帯)で、かつては郡衙が今小路西という遺跡として存在していたといいます。

縄文時代の鎌倉地域の地形図
戦国時代の鎌倉地域の郷
戦国時代の鎌倉地域の荘園

鎌倉郡-縄文時代

鎌倉郡-戦国時代/郷

鎌倉郡-戦国時代/荘園

 縄文時代の相模湾は、現在と違って藤沢の大部分が水底しており、藤沢湾と鎌倉湾が深く遠くへと入り込み、 大庭入江・藤沢入江・粟船(大船)入江と呼ばれる入江が並んでいました。 なかでも粟船(大船)入江は幅こそ800mほどにすぎませんが、奥行は10kmを超える大きな入江で、笠間や田立などは島をなしていました。 粟船(大船)入江は現在の柏尾川や阿久和川へとつづいているわけですが、岡津や平戸辺りまで入江がつづいていたといいます。
藤沢入江からつづく境川にしても、高座(高倉)までは入江がつづき海水が入り込んでいたといいます。 これらの入江に流れ込む河川の流域は広い砂泥の沖積地をつくり、入江に沿った縁辺の台地に人々が暮らし、縄文文化は育まれてきました。
古墳や土師器などの出土については、山内本郷の鍛冶ヶ谷や富塚郷、瀬谷本郷に集中的に分布しており、山内本郷には本郷・公田・田所などの古名が残され、 水田地帯でもあり、鎌倉郡のなかでも中心地であったことがうかがえます。

 辻堂や鵠沼辺りを唐ヶ原(もろこしが原)と呼んでいたことが『更級日記』に残っており、唐沢という地名が残っていたり、大磯の高麗山、高座(高倉)が高句麗の訛といったように、 高句麗や唐の帰化人が移住し、農耕生活や桑をつくって養蚕をするなど定住生活していたという説もあります。

 奈良に都が移された和銅3年(710年)に唐の都長安京にならって平城京がつくられ、天平10年(738年)には国家鎮護の祈願所として国ごとに国分寺と国分尼寺が建てられました。 相模国の国府(相模国府中)は海老名におかれ、相模国の国分寺も国府のおかれた海老名に創建されています。 相模国には鎌倉郡以外にも、足上郡・足下郡・余綾郡・大住郡・高座郡・愛甲郡・御浦郡などがあり、国府の海老名に国司が在庁し、鎌倉郡も統治下におかれました。

鎌倉郡の郷
郷名邑名備考
土甘郷藤沢邑 
西富邑 
大鋸邑 
鵠沼邑高座郡鵠沼邑の一部。
辻堂邑高座郡辻堂邑の一部。
藤沢郷藤沢邑 
方瀬郷方瀬邑 
江島邑公的記録の初出は天平21年(749年)
方瀬郷の郷戸主大伴首麻呂が朝廷に貢進と残る。
鵠沼郷鵠沼邑高座郡辻堂邑の一部。
村岡郷高谷邑 
小塚邑 
宮前邑 
弥勒寺邑 
柄沢邑 
城廻邑 
関谷邑 
植木邑『正保国絵図』に「植木邑」の名が記されている。永正9年(1512年)10月に伊勢盛時が築城した玉縄城防衛のために樹木を多く植えたことに由来するという。植木邑は相模陣・山居(平戸山)・柳小路・六反目・八反目・申ヶ久保・峯下前・玉ノ前・割土腐・植木上町など小字をもつ。『北條家朱印状写』天正17年(1589年)12月晦日条に「一堰 植木新宿 内匠」と記され、豊臣秀吉の小田原攻めに対処するために内匠鍛冶屋に大筒一丁を7日内に鋳造し提出するよう命じている。暗殺された源実朝の首級をもって逃亡した7騎の侍にちなむ「七騎ヶ谷」の伝承も残っている。 曹洞宗陽谷山竜宝寺は玉縄北條氏の菩提寺で、永禄4年(1561年)に北條綱成が開基となり泰絮を開山として当初は大応寺として建立。浄土宗玉縄山貞宗寺が相模陣にあるほか、日蓮宗久成寺、真言宗円光寺などもある。
岡本邑岡本郷岡本邑の一部。
渡内邑 
山谷新田邑 
上俣野邑俣野郷上俣野邑の一部。
東俣野邑俣野郷東俣野邑の一部。
汲沢邑俣野郷汲沢邑の一部。
原宿邑俣野郷原宿邑の一部。
深谷邑俣野郷深谷邑の一部。
俣野郷上俣野邑 
東俣野邑 
山野新田邑 
原宿邑 
深谷邑 
汲沢邑 
城廻邑村岡郷城廻邑の一部。
津村郷川名邑 
腰越邑鎌倉の深沢邑の大きな湖に五頭竜がいて津邑の16人の子どもが1人残らず五頭竜の犠牲となり「子死越」が腰越の地名となったという。
津邑 
手広邑梶原郷手広邑の一部。
笛田邑梶原郷笛田邑の一部。
梶原郷梶原邑梶原郷は深沢邑(梶原・鎌倉山・上町屋・手広・寺分・常盤・笛田・山崎)の地域を示す。
常磐邑常磐は常盤・常葉ともいう。
常盤一向堂は桔梗山の南方に位置する。親鸞開祖の浄土真宗である一向宗が鎌倉に存在したことを示す。『大谷遺跡録』延慶2年(1309年)2月常葉に草庵を構えていた僧唯善(弘雅)坊がひそかに如信上人の御彫刻・御真影・御骨をもって鎌倉にくだり念仏を弘通したことにより「常葉の真影」と称された。戦国時代に北條氏の政策により追放されたか定かではないが鎌倉から「真影」は散逸し、鎌倉郡長沼郷の正安寺に移安されたのち本山に遷されたという。
寺分邑 
上町屋邑 
手広邑 
笛田邑 
山崎邑山崎郷山崎邑の一部。
山崎郷山崎邑山内荘園の一領。『風土記稿』には山崎邑に鉱泉が沸き出した阿多見(熱海)という小字があったという。山崎邑阿多見(熱海)は亨徳元年(1452年)12月に円覚寺黄梅院領として作成された『北深沢郷年貢算用状案』に地頭除分として「洲崎阿多見」と記されている。『所領役帳』に「東郡須崎あたみ」とあり戦国時代には川瀬左市郎が領したと記されている。
洲崎郷山崎邑 
東郷台之邑 
深沢郷洲崎邑深沢邑(寺分・上町屋・常盤・梶原)や山崎邑地域を示す。
北深沢郷洲崎邑 
埼立郷橋立邑稲村ヶ崎から鎌倉郷にかけての地域を示す。
由比ヶ浜と七里ヶ浜を分けるように突出した岬があり、岬の東側を「霊山ヶ崎」、西側を「稲村ヶ崎」と呼んでいたという。『風土記稿』は岬の形が稲束を積み重ねた稲叢に似ていることから稲村ヶ崎としたという。『鎌倉志』では極楽寺切通へ通じる稲村ヶ崎つけ根辺りの村落を稲村と称したことに由来するともしている。 『源平盛衰記』治承4年(1180年)8月条に、伊豆国において源頼朝が挙兵したとき、三浦一族が源頼朝と合流するために通った経路のうちにみられ、極楽寺切通が開通する以前に鎌倉以西との往来には稲村ヶ崎の通行が必須だったことがうかがえる。 『鏡』建久2年(1191年)2月に源頼朝が二所詣に出発したとき稲村ヶ崎で行列を整えたと記されている。『海道記』には岬の周囲は伝い歩く以外手段がなく、かなりの難所であったことが記されている。元仁2年(1224年)12月に鎌倉で疫病が流行したときに北條泰時が鬼気祭を催している。鎌倉の西境がこのころには稲瀬川から稲村ヶ崎へと広がっていたことがわかる。 『太平記』元弘3年(1333年)5月条は、新田義貞が鎌倉攻めで要害の稲村ヶ崎を通過するのに手を焼いたため、黄金の太刀を海中へ投げ竜神に祈念したところ潮が二十余町も引き、易々と鎌倉に攻め入ることができたと記している。 この鎌倉攻めで新田義貞の一族大舘宗氏ら11人が極楽寺口で討死。文久2年(1862年)に十一人塚の碑が慰霊のために建てられている。
腰越邑津村郷腰越邑の一部。
長谷邑甘縄は海士縄ともいい、甘縄神明社(甘縄神明宮)を中心とした地域を示す。和銅3年(710年)に豪族染屋時忠(染谷太郎)が山頂に神明社を創建し、山麓に神輿山円徳寺を建立したという。鎌倉最古の神社。『鏡』治承4年(1180年)12月20日条で「藤九郎盛長甘縄之家」とあり、源頼朝の渡御の記事がこのころに散見できる。鎌倉時代に霜月騒動で滅亡した安達泰盛安達宗景父子ほのか、千葉氏など甘縄には多くの御家人が居住し、将軍家による甘縄神明社への参詣も度々行われ、『鏡』から長楽寺や万寿寺の諸寺院の建立や魚町という町屋があったことも確認でき、甘縄の地がいかに重要視されていたかがうかがえる。
長楽寺は、嘉禄元年(1225年)3月に源頼朝の妻北條政子によって、源頼朝の供養のため建立。七堂伽藍が建てられた。その後元弘三年(1333年)5月鎌倉幕府滅亡時に戦火で焼失。現在でも長楽寺という地名が残っている。
魚町は、「うおまち」「いよまち」ともいう。『鏡』文永2年(1265年)3月5日条に幕府が許可した町屋として名が残る。『朽木文書』嘉暦3年(1328年)6月11日「平宗度譲状」に「鎌倉甘縄魚町東頬地一円事」と記されており、場所は甘縄神明社付近とされる。
鎌倉大仏(長谷高徳院)の北側の大谷と笹目ヶ谷(佐々目ヶ谷)を源流として稲瀬川が流れる。江ノ島電鉄の長谷駅の東側を抜けて由比ヶ浜にそそぐ2.4kmの川で、水無瀬川・稲能瀬河(『皇国地誌』)ともいう。『万葉集』巻十四に「真愛しみ さ寝に吾は行く 鎌倉の美奈能瀬川に 潮満なむか」と詠まれ「美奈能瀬」が「稲瀬」に転訛したという。『源平盛衰記』治承4年(1180年)8月条に「畠山次郎は五百余騎にて、由比浜、稲瀬河の耳に陣をとり、赤旗天に輝ける」とあるのが所見。『鏡』治承4年(1180年)10月条は北條政子が鎌倉に入る際に稲瀬川の西の民家に止宿したと記されるほか、諸史料に散見され、鎌倉西境に稲瀬川が位置づけられてた。『本朝高僧伝』憲静伝に稲瀬川付近に安養院が建立されたと記している。河竹黙阿弥の歌舞伎「白波五人男」の終幕「稲瀬川勢揃いの場」はこの稲瀬川が舞台。
坂ノ下邑 
極楽寺邑 
乱橋材木座邑由比郡材木座邑の一部。
由比郷材木座邑現在の鎌倉市材木座周辺を示す。材木座邑新居は『鎌倉年中行事』享徳3年(1454年)条に「浜の新居閻魔堂円応寺と号す、応永大乱の亡魂を弔うため海蔵寺に施餓鬼を命じた」と記されている。『修造勧進状』建長2年(1250年)条に由比郷見越岩(長谷邑見越ヶ嶽)にあった閻魔堂を海辺の「荒居鯨海」に移したと記されている。元禄16年(1703年)の大地震で破損し建長寺向かいへ移り荒居山円応寺と称した。材木座旧地には「荒井閻魔堂跡碑」が残る。
材木座邑西浜飯嶋は「海中に突き出た岩に由来する」地名という。『鏡』寿永元年(1182年)11月10日条に源頼朝愛妾亀ノ前伏見広綱(伏見冠者)の飯嶋館に身を寄せていると知った北條政子は激怒して牧宗親伏見広綱宅を破却させたと記されている。承元3年(1209年)5月28日条には「西浜(飯島)辺騒動」と記されている。貞永元年(1232年)には鎌倉の港湾商業地域として和賀江嶋が造られた。『聖愚問答鈔』で日蓮は「飯嶋の津にて六浦の関米を取る極楽寺」を非難していることから、飯嶋が極楽寺の管轄下にあり飯嶋関所があったことを示す。 『円覚寺文書』暦応2年(1339年)12月9日条に円覚寺領の年貢米に対して関米を徴収しないよう飯嶋関所へ通達がされている。『極楽寺文書』貞和5年(1349年)2月11日条で船舶の関料徴収権と島の維持管理が依然極楽寺にあったことが示されている。
前浜邑由井里の前浜(由比ヶ浜)ともいう。『市川文書』元弘3年(1333年)6月14日「市村王石丸代後藤信明軍忠状」に5月18日の鎌倉合戦で「前浜一向堂の前」で激しい戦いがあったと記されている。
鎌倉郷小町邑現在の鎌倉中心部で鶴岡八幡宮から由比郷前浜邑にかけて。鎌倉郷鎌倉里(御成)が郡衙。
大町邑 
雪ノ下邑鶴岡八幡宮西側の馬場小路と丸山(聖天山・鶯谷山)との狭い谷間に鶯ヶ谷があり、鶯ヶ谷は鶴岡八幡宮神主の大伴氏などの屋敷が多く馬場町ともいう。『風土記稿』は「実朝、当社参詣のとき、此谷にて鶯の初音を聞しより、此名起れり」と記す。『風土記稿』神主大伴氏の宅地鎮守「飯山両社権現社銅鏡裏銘」嘉吉3年(1443年)6月条に「再葬鶯谷尼堂之庭上」と記されているのが所見。飯山権現社は「鶯谷内道場」とも称された。
西御門邑 
扇谷邑亀谷山寿福寺(壽福寺)は金剛寿福禅寺ともいい、源頼朝が没した翌正治2年(1200年)に北條政子が開基。開山は葉上房栄西(明庵栄西)
巽荒神社は延暦20年(801年)に蝦夷征伐に向う途中の坂上田村麻呂が葛原岡に勧請、永承4年(1049年)に源頼義が改築したという。寿福寺(壽福寺)の鎮守神として崇敬され、その位置が寿福寺(壽福寺)の巽(南東)の方にあたるので巽荒神と称された。
泉ヶ谷は泉谷山浄光明寺や鎌倉十井の「泉ノ井」などがあり、『鏡』建長4年(1252年)5月19日条などに「泉谷」「泉谷亭」と散見。文永2年(1265年)6月10日条には「亀谷井泉谷所々山崩」と記されている。南北朝時代の『浄光明寺敷地絵図』には「多宝寺」「東林寺」などが記されている。扇谷山多宝寺跡に妙傳寺(妙伝寺)が移転。『扇ヶ谷邑絵図』に「多宝寺ヶ谷」と記されている。
鎌倉十井の1つ「泉ノ井」は『風土記稿』では「和泉ノ井」と記す。扇ヶ谷浄光明寺の門前近くに位置する。「いづ(出)み(水)」と一般に清水が湧く瑞祥の名という。『鏡』建長4年(1252年)5月19日条に「亀谷泉谷右兵衛督教定朝臣亭」と記されているのが所見。『鎌倉日記』延宝2年(1674年)条に「泉井谷ノ辺ニ潔キ水湧出ル也」と記されている。
寿福寺の門前にある鎌倉十橋の1つ勝ノ橋から南行し、巽荒神社の前までを今小路という。『大日本地名辞書』には「扇ヶ谷の谷口より南に馳せ、裁許橋に至る旧街名で、今は寿福寺の門前の南をいう」と記される。『僧都記』天文8年(1539年)10月条に「扇ヶ谷今小路番匠主計助」とあり、主計助が巽荒神社を修理している。英勝寺の木造羅漢像に寛永20年(1643年)の胎内背面墨書銘に「鎌倉扇ヶ谷今小路」と記されている。
小林郷 鶴岡八幡宮周辺を示す。
大倉郷 大蔵郷ともいう。大倉幕府周辺を示す。
岩瀬郷岩瀬邑山内荘園の一領。岩は堤防・岩礁を示し、瀬は川の浅い場所や急流を意味する。 『風土記稿』は「土俗は伝て頼朝の時世奥州より岩瀬与一太郎という者捕はれ来り、後爰に居住せり」と記す。岩瀬郷岩瀬邑には滝ノ台・滝ノ谷・五郎ヶ谷・入ノ谷・ふりが谷・平島・上下土腐・北山などの小字をもつ。『証菩提寺文書』仁治元年(1240年)3月7日条「北條泰時下文写」には「山内新阿弥陀堂料所岩瀬郷」と記される。文保元年(1317年)12月、元弘3年(1333年)11月などに岩瀬郷の名が記されているほか、正平7年(1351年)正月10日に足利尊氏が勲功の賞として岩瀬郷を越前国の島津忠兼に与えている。 『明月院文書』によれば永徳3年(1383年)から明月院領となり、小田原北條氏の支配下にあった天正18年(1590年)7月まで明月院領としてつづいた。大永2年(1522年)には今泉邑が岩瀬郷内であったことも確認できる。『雲頂庵文書』永禄7年(1564年)9月条には2年前に岩瀬郷30貫文のうち1貫200文分の田二反を円覚寺塔頭富陽庵に寄進したと記され、文中で「ひかしこうり(東郡)ゆわせ(岩瀬)」と呼称されている。天正15年(1587年)7月晦日に北條氏が豊臣秀吉との決戦に備えて岩瀬郷から8人召集している。岩瀬郷は浄土宗大長寺領で、北條綱成開基の大長寺は成誉存貞を開山とし、亀鏡山護国院と号した。
荏草郷二階堂邑衣加夜郷・荏柄郷ともいう。二階堂(荏柄天神)周辺を示す。
二階堂稲葉越は杉本城の山形が「稲積の形」をしていることにちなみ、山を越える峠を示す。二階堂稲葉越は杉本寺や向小路の北、鎌倉宮の南東の谷戸で、二階堂川に「稲葉越橋」がかかりその名を残している。
浄明寺邑青砥には鎌倉時代に執権北條時頼に仕えた青砥藤綱の城館があった。『太平記』『弘長記』などに上総国青砥荘の青砥藤満の子青砥藤綱が二階堂氏の推薦で北條時頼に仕えたと記し、慈悲深い人柄として多くの逸話が残っている。南北朝時代の『結城文書』康永3年(1344年)3月21日条に奉行人として青砥左衛門尉の名が残るほか、浄明寺には現在でも青砥橋が滑川にかかりその名を残している。
犬懸には「犬懸ヶ谷」があり、狩りのときに犬が駆けまわったことに由来するとされ「犬駆ヶ谷」とも記される。『鎌倉名跡志』天明5年(1785年)条に「きぬかけが谷ともいう」と記され、谷の奥にある衣張山(絹張山・衣掛山)から絹掛ヶ谷(衣掛ヶ谷)とも称されたという。『源平盛衰記』治承4年(1180年)条は畠山氏と三浦氏が小坪で合戦となったとき、和田小次郎が「犬懸坂」を馳せ越して名越に出たと記している。 『鏡』寛元3年(1245年)3月16日条では将軍藤原頼経が精進のため「日光別当犬懸谷坊」に入御したと記されている。 関東管領にも任じた上杉四氏の1つ犬懸上杉氏もこの地に住み、現在も上杉朝宗上杉氏憲邸跡が残っている。上杉憲房上杉憲藤上杉朝宗上杉氏憲とつづく系統で、上杉憲藤足利尊氏の子千寿王の執事となって犬懸に在住し犬懸上杉氏の祖となった。犬懸上杉氏は一時期は上杉氏の惣領ともめされた名門であったが、上杉氏憲(上杉禅秀)の代に「上杉禅秀の乱」を起こし衰退。上杉氏憲の子上杉教朝上杉教朝の子上杉政憲らも堀越公方足利政知の関東執事となるなど犬懸上杉氏の血統は存続したが戦国時代には動静が確認できなくなる。
十二所邑明石には明石谷があり、谷間を滑川支流の明石川が流れ明石橋がかかっている。明石谷の背後に明石山・柏原山・羽黒山が連なり、『鎌倉志』によれば鎌倉郡と三浦郡逗子池子・久木地域を結ぶ往来道(稲荷坂)があるという。光触寺や源実朝建立の大慈寺の南に位置し、『社務職次第』元弘3年(1333年)9月4日条に「一心院明石本坊」と記されているほか、『供僧次第(乗蓮坊)』建武2年(1335年)11月28日条に「社務代明石本坊」と記されている。『鎌倉志』は光触寺の南方の柏原山の麓に一心院があると記し、『鎌倉年中行事』は一心院住持は足利氏一族と記している。『社務記録』文和2年(1353年)8月10日条に「明石谷より桜壺に移し植え」と記されている。天正3年(1575年)『桂林集』で「相州(相模国)三浦郡池子里にしるよしして行けるに、明石という所に十五夜の月のくもりければ、かき曇月も詠るかひそなきこよい明石のとまりなれども」と詠まれている。慶長5年(1600年)『建長寺寺領水帳』などに十二所耕作地として「あかし」「あかし口」と散見できる。
峠邑朝比奈は鎌倉郡の最東に位置し、相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡六浦荘とを結ぶ軍事・経済上の要路朝比奈切通を大小2つもつ。朝比奈切通は、朝夷奈切通、六浦道ともいうほか、『玉舟記』には峠坂、『金兼藁』には金沢切通と記されている。和田義盛の三男朝比奈義秀が一夜で切り拓いたという。仁治元年(1240年)11月に幕府の新道造営決定をうけ、翌仁治2年(1241年)4月に着工、5月に執権北條泰時自ら馬で土石を運んだという。六浦には良港・製塩地があったことから鎌倉北條氏がいかにこの道筋を重視したかがうかがえる。『鏡』建長2年(1250年)6月条に六浦道が土石で埋もれたため再度工事を実施したと記されている。『社務記録』建武4年(1337年)12月条には北畠顕家が切通を越え鎌倉へ侵攻したとき、杉本城で北畠軍と鎌倉防禦兵とが合戦をしたと記している。
小坂郷山内邑山内荘の中心地でもあり、山内荘は冨塚(現在の横浜市戸塚区)周辺まで広がっていた。
応永26年(1419年)に長尾忠政(長尾尾張入道)の助力を得て芳隠省菊は円覚寺瑞雲庵から200坪の地を拝領し、先師円覚寺102世大雅省音の塔院として法珎院を開創しています。長尾忠政を嗣いだ長尾忠景が改築し、さらに長尾忠景を嗣いだ長尾顕方、永正6年(1509年)11月に長尾顕忠の妻幸春尼が龍隠軒に寺領を寄進しています(『龍隠庵文書』)。明月院付近には北條時頼の墓がある。
今泉邑泉が湧水する瑞祥を地名とし、弘法大師が止錫して水が湧き出したことに由来するという。戦国期の大永2年(1522年)3月7日北條氏綱制札写に「相州岩瀬郷之内今泉邑竹木之事」と記されている。今泉邑の『毘沙門堂棟札』享禄5年(1532年)9月27日条に「相州山之内庄今泉村」とあり、毘沙門堂・吉祥天などが修造再興されている。
岩瀬邑岩瀬郷岩瀬邑の一部。
台邑 
小袋谷邑昭和29年(1954年)に火山活動が活発な時期で富士や箱根の山が盛んに噴煙をあげていた後期旧石器時代の黒曜石片が採掘された。
粟船(大船)邑粟船郷粟船邑の一部。
尺度郷公田邑現在の横浜市栄区公田町を中心とする地域を示す。尺度郷として田所・柳ノ坪・中ノ坪・榎ノ坪などの名が残る。
岩瀬邑岩瀬郷岩瀬邑の一部。
粟船(大船)邑粟船郷粟船邑の一部。
鍛冶ヶ谷邑山内本郷鍛冶ヶ谷邑の一部。
笠間邑加佐萬邑ともいう。反町(曾利満千)・田立(多利宇)・岩井口などの地名をもつ。建武2年(1335年)3月に近藤清秀(近藤出羽次郎)が領していた。小田原北條氏の時代には松ヶ岡東慶寺が寺領としたほか、松田直秀(松田左馬助秀治)松田康定(松田筑前守)松田康吉(松田因幡守)松田尾張守らが伊勢盛時に与えられ領した。笠間には法安寺(笠間山智光院)がある。
㹨川は鼬川とも記す。八軒谷の奥(現在の横浜自然観察の森)や瀬上沢の奥(瀬上市民の森)を水源とし、庄戸・上郷・中野・桂・小菅ヶ谷・笠間をへて柏尾川(戸部川)に注ぐおよそ2.7qの水流。特別な霊力をもつとされる㹨の棲息に由来する。『鎌倉年中行事』享徳3年(1454年)条は「公方様(足利成氏)御発向、鎌倉御立あり、鼬川にて御休あり、御酒三献、御湯漬参る」と記し、足利成氏が武蔵国に出向するときにこの川辺で休息し、昼食をとるのを恒例としていたこともあって「出立(いでたち)川」の別称を残している。 『鏡』元仁元年(1224年)6月6日条の「㹨川」を所見とし、寛喜2年(1230年)11月13日条と嘉禎元年(1235年)12月27日条にいずれも「㹨川で霊所七瀬祓」が行われたことを記している。七瀬は由比ヶ浜・金洗沢池・固瀬河(片瀬川)・六浦・杜戸・江島竜穴・㹨の七ヶ所。寛喜2年(1230年)のときは江島竜穴にかわり逗子多古恵川(田越川)が選ばれている。 『兼好法師集』暦応3年(1340年)は「さかみの国いたち河といふところにて このところの名を句のかしらにすえて旅の心を いかに我立にし日より塵のいて風たに閨をはらはざる覧」と詠んでいる。『風土記稿』では「鼬川」と記し、「鎌倉古道のかかる所橋を架す、長六間、新橋と唱ふ」と現在の新橋付近で鎌倉街道の戸塚道(中ノ道)と弘明寺道(下ノ道)が合流し交通の要衝であったことをうかがわせている。
飯島邑長沼郷飯島邑の一部。
粟船郷粟船(大船)邑 
山内本郷小菅ヶ谷邑山内荘園の一領。
小菅谷邑猪鼻は『証菩提寺文書』建武2年(1335年)本郷証菩提寺新阿弥陀堂の供僧行弁と下部鏡法の料田として「猪鼻」がみられる。『風土記稿』にも江戸期の鎌倉郡小菅谷邑に「猪鼻」が確認できる。「猪鼻」は「い(高くそびえた)はな(先端)」という意で、猪の鼻のように細く突き出した地だったとされる。
鍛冶ヶ谷邑 
中野邑中之村ともいう。
上野邑上之村ともいう。
桂邑 
長尾郷長尾台邑山内荘園の一領。
金井邑金井郷金井邑の一部。
田谷邑田屋邑ともいう。
小雀邑 
金井郷金井邑 
岡本郷岡本邑岡本郷から長尾郷小雀邑周辺まで広がる。
長沼郷長沼邑奈我奴末邑ともいう。小田原北條氏の時代には安田大蔵丞が領した。長沼には正安寺(臨済宗円覚寺末長沼山)・長徳寺(醫王山)・金蔵寺(三瀧山長沼院)がある。
飯島邑『証菩提寺文書』建武2年(1335年)条「新阿弥陀堂供僧以下料田坪付注文」に山内荘内の「飯嶋」として見出されたのが所見。
倉田郷上倉田邑加美久良多邑ともいう。鑓ヶ谷・布施・外ヶ谷・松ヶ崎・堰場などの地名をもつ。上倉田には上倉田八幡宮・子之八幡宮・實方塚などがある。盛徳寺(長門国豊浦郡功山寺末福聚山養富院)・蔵田寺(浄土宗大町邑安養院澤泉山西向院)・林宗寺(浄土真宗東六條本願寺末天神山)などがある。山内荘園の一領。仁治元年(1240年)3月に執権北條泰時が宛行したことが『事證菩薩寺文書』に残っている。文和年間(1352〜1355年)には島津忠兼(島津周防守)が領した。文和3年(1354年)6月に飯田七郎左衛門尉が乱入して島津忠兼の代官池田右衛門尉を殺害し、足利尊氏の命令で鎮められた。永禄年間(1558〜1570年)には北條家臣の富島氏・肥田氏・吉原氏らが領した。堀内誘引之助は北條氏に与した。
下倉田邑志茂久良多邑ともいう。河内という地名をもつ。下倉田八幡宮がある。下倉田には永勝寺(浄土真宗東六條本願寺末龍臥山祥瑞院)・萬松寺(南江山臨済宗鎌倉円覚寺末)・栄覚寺などがある。
富塚郷富塚邑戸塚郷ともいう。山内荘園の一領。応仁元年(1467年)のころには円覚寺雲頂庵の所領があり、沢辺森忠(沢辺孫太郎)沢辺善阿弥(沢辺小太郎入道)が年貢を毎年8貫200文と米9斗を納入する証状を出しています(『9月1日付雲頂庵文書』)。
沢辺信連足利義明に従い天文7年(1538年)10月5日に国府台合戦で討死しています。沢辺信連の子沢辺宣友太田資頼の母知楽院のはからいにより富塚郷の郷長に復帰しています(『沢辺系譜』)。
沢辺宣友は冨塚郷の実力者で、芳林中恩の弟子雲因周泰を招いて海蔵院を中興しています。沢辺一門からは古帆周信精巌周勤ら僧を出しています。 古帆周信は禅宗黄梅派の大立物で、円覚寺に新しい法流を導入し、宗旨の体質改善につとめています。円覚寺は山内郷山内邑にありますが、山内荘が富塚郷にまで広がっていたことで勢力がおよんでいたことが分かります。 永禄年間(1558〜1570年)には北條家臣の山角刑部左衛門が領した。元亀3年(1572年)には内田政元(内田兵庫)の名が残る。
矢部郷矢部邑 
上矢部邑 
吉田郷吉田邑山内荘園の一領。
秋庭郷秋庭邑秋葉郷ともいう。山内荘園の一領。
品濃邑 
前山田邑 
後山田邑 
那瀬邑名瀬邑ともいう。
前岡郷前岡邑舞岡郷ともいう。東慶寺の寺領。山内荘園の一領。
柏尾郷上柏尾邑樫尾郷ともいう。
下柏尾邑 
永谷郷永谷邑 
平戸邑 
上野庭邑 
下野庭邑 
野庭郷野庭邑 
瀬谷郷瀬谷邑世野郷ともいう。伊勢盛時の家臣山田経光(山田伊賀入道)が郷主であった瀬谷郷の妙光寺と万年寺の梵鐘にまつわる伝承が残っています。
二橋邑 
宮沢邑 
大島郷新橋邑 
岡津邑岡津郷岡津邑の一部。
矢部邑矢部郷矢部邑の一部。
富塚邑富塚郷富塚邑の一部。
岡津郷岡津邑 
阿久和郷阿久和邑浄土宗の高僧藤田称念(三蓮社縁誉/吟応)を排出した郷(江戸出身ともいわれている)。中丸定昭(中丸左衛門尉)の子藤田称念は捨世派という一派を開き、京都知恩院の南隣に一心院を建て、全国に47寺を建て、戦乱の最中に全国から資材を集め、知恩院御影堂の屋根を瓦葺に改築。
阿久和郷の水田はすべて、宝徳2年(1450年)に足利成氏の発布した徳政令で鶴岡八幡宮の領土に還ったというが、財政の乏しくなった鶴岡八幡宮が寺領を落合式部入道に売り渡していたという。
和泉郷和泉邑泉郷ともいう。西部を和泉川が南流。「いずみ」は湧き出る水を示し、古代村落や駅屋・駅路と関係する古い地名であり、池の水が美酒にかわったという伝説にちなむ地名ともいわれている。『鏡』建保元年(1213年)条に源頼家の遺児を奉じて北條氏打倒を謀った泉親衡(泉小次郎)の城館があった記されている。『所領役帳』で戦国時代には東郡和泉郷として笠原氏の所領と記されている。神社として八幡宮・鯖神社、寺院として臨済宗長福寺・浄土宗宝心寺などがある。
中田邑 
飯田郷上飯田邑 
下飯田邑高座郡涓堤郷下飯田邑の一部。
上和田邑高座郡涓堤郷上和田邑の一部。
今田邑高座郡涓堤郷今田邑の一部。
高座郷中和田邑 
深見郷深見邑伊勢盛時の家臣山田経光(山田伊賀入道)が深見一関城を築城。牢場・馬場屋敷・中屋敷・鬼門除八幡などは遺構の名残と伝えられている。
沼浜郷沼間邑沼濱郷ともいう。逗子市沼間周辺を示す。
池子邑もとは鎌倉郡。三浦郡池子邑となる。田越川支流の池子川途上の「大池」にちなむ。池の子(北)に位置するという語源。『所領役帳』永禄2年(1559年)条に「泰平寺(太平寺)殿 拾貫文 三浦池子」と記されているのが所見。『桂林集』天正3年(1575年)条に「相州三浦郡池子里にしるよしして行けるに」と記されている。久木奥の大林をへて鎌倉郡明石谷に出る峠道(稲荷坂)は池子邑と英勝寺との往来道でもあった。
葉山郷 小坪から三浦郡にかけての地域を示す。三浦郡葉山郷となる。
長柄邑 

 平安時代には荘園があり、鎌倉郡には山内荘(山内首藤氏)、吉田荘(渋谷氏)、俣野荘(俣野氏)、梶原荘(梶原氏)などが荘園としての性格をもっていたといいます。 源義家の家人で山内首藤氏を称していた藤原俊通が山内にて山内荘を立てたといいます。 藤原俊通の先祖は藤原秀郷の流れをくむ藤原助清が主馬首であったことから首藤氏を称してきました。

山内荘は、山内邑を含む小坂郷、山内本郷といわれた小菅ヶ谷邑や鍛冶ヶ谷邑などが中心地であり、 さらに秋庭郷信濃邑(秋葉)、前岡郷(舞岡)、吉田郷、岩瀬郷、倉田郷など柏尾川流域も山内荘に属していたことが『円覚寺文書』『静岡大右寺文書』『島津文書』『証菩提寺文書』などから分かります。

 山内荘にもみえた吉田郷ですが、『相模風土記』『戸塚郷戸誌』『荘園史料』などによると、吉田郷は吉田荘として渋谷氏が荘司として管理していました。 吉田下荘という表現をすることからも吉田郷の一部を吉田荘としていたのかもしれません。 『入来文書』『吾妻鏡』などによれば、源頼朝が建久3年(1192年)12月に渋谷氏を吉田荘の請所にしたといいます。 吉田荘は渋谷荘という別名がありました。 渋谷氏の本拠地は藤沢長後といわれ、河崎重家(河崎平三太夫)の子渋谷重国が長後渋谷城を居館としました。
渋谷重国の子には渋谷光重(渋谷太郎)早川高重(早川次郎)吉岡重保(吉岡三郎)大谷重諸(大谷四郎)曾司定心(曾司五郎)落合重貞(落合六郎)らがいます。 渋谷一族が高座郡の中部に占拠していたことがうかがえます。 『法華堂文書』に「相模国渋谷荘西飯田郷内」と記されていることから、渋谷荘の中心地は高座郷であり、飯田郷や吉田郷にまで広がっていたことが分かります。

 梶原荘は鎌倉景正(鎌倉権五郎)を祖とする梶原氏が荘司として管理してきました。 村岡に祭祀された鎌倉景正の御霊社には分社があり、川名・玉縄・長尾・田谷・原宿・深谷(三島社)・茱萸沢(汲沢)・葛之(葛野)などに鎮座されています。 中田の御霊社は葛野から移されたものといいます。川名から北へいたり葛野への帯状の地域が梶原荘であり、西に俣野氏が管理している俣野荘があります。

 俣野荘から俣野川(境川)を隔てて西に大庭御厨があり、大庭氏の領土です。 鎌倉景正の子大庭景経大庭景経の子大庭景宗大庭景宗には長男大庭景義、次男俣野景久がいます。
 このように、鎌倉郡は山内首藤氏(藤原氏)を除いて、すべて平氏の一門が所領としていたことが分かります。

 保元元年(1156年)に起きた保元の乱では相模国から大庭景義大庭景親兄弟、山内首藤俊通首藤俊綱海老名季定波多野延景荻野志義らが参戦しました。 3年後の平治の乱でも彼らは源氏方として参戦しています。
平治の乱で勝利した平清盛を中心とする平氏の一族は藤原氏にかわって政治の実権を握り全盛時代を迎えますが、 全国の源氏が一斉に立ち上がり、治承4年(1180年)8月に源頼朝が兵をあげ、伊豆国へ進軍し山木兼隆を討ち、 勢いそのままに相模国へ進むと石橋山で合戦となりました。
俣野景久(俣野五郎)梶原景時、山内首藤氏らは平氏方につき、源頼朝軍を撃破しました。 梶原景時源頼朝を見逃し、源頼朝は安房国へ逃れ、千葉氏の後ろ盾を得ると鎌倉へ再度進軍を開始しました。
俣野景久や山内首藤経俊らは所領を召し上げられ、源頼朝方についていた大庭景義に俣野郷が与えられ、 山内荘は土肥実平に与えられました。

 源頼朝は建久元年(1190年)に権大納言右近衛大将に、建久3年(1192年)7月に征夷大将軍となり、 公文所を政所として大江広元を京都から招き別当としたことで鎌倉幕府は成立しました。
相模国の初代守護に三浦氏がなったといいます。

 鎌倉時代の鎌倉郡は、文永7年(1270年)に岡津郷の地頭として甲斐為成(甲斐三郎左衛門尉)の名が『相承院文書』に、 延応元年(1239年)に飯田郷を幕府から返還された飯田能信(飯田三郎)の名が『我覚院文書』に、 正安3年(1301年)に長尾郷の地頭として加世長親(加世孫太郎)の名が『相承院文書』に残っています。 治承4年(1180年)に大庭景親に従い源頼朝方について戦った飯田家能(飯田五郎家義)や建久元年(1190年)に源頼朝が上洛するときに従兵した加世次郎らの名がみえることから、 戦後に功として所領を安堵されたものと思われます。
また、和泉郷の地頭として泉親平(泉小次郎)、柏尾郷の地頭として樫尾景方(樫尾三郎)、長沼郷の地頭として長沼宗政(長沼五郎)、 谷部郷(矢部郷)に矢部為行(谷部太郎)、秋庭郷に矢部為行の弟矢部義光、前岡郷(舞岡郷)に舞岡兵衛が所領としていました。
山内荘は山内首藤氏が領土を没収された後に土肥実平に与えられていましたが、和田義盛の手に移っていたといいます。

 貞永元年(1232年)に御成敗式目がつくられた頃、嘉禎元年(1235年)に北條泰時の娘小菅谷殿が山内荘(山内本郷)小菅ヶ谷邑で新阿弥陀堂を設えています。
仁治元年(1240年)3月に倉田郷が供米用として新阿弥陀堂に寄進されたにも関わらず、供米が滞り納入されないとして岩瀬郷が替地として寄進されました。 ところが『証菩提寺文書』によれば、正和2年(1313年)に岩瀬郷の給主矢田盛忠が供米を納めないと証菩提寺から幕府に訴えがあり、同じような問題が再発していることが分かります。 矢田盛忠は抗弁しましたが、幕府は認めず納入を再び命じています。

 この頃、三浦義村の子三浦泰村が謀反を企てているという流言が流れましたが、執権北條時頼は三浦氏を信じ、当初はとりあいませんでした。 ところが安達景盛の意を受けて孫の安達泰盛三浦泰村を攻めて、宝治元年(1247年)5月に宝治合戦が起こりました。 結局、北條時頼は、一族北條時定らに三浦泰村を攻めさせ、三浦泰村三浦光村兄弟は討死しました。
三浦泰村に与した矢部郷の地頭で矢部堀之内城主の矢部義行(矢部太郎)は上矢部邑篠塚の九日谷で戦死しました。矢部郷は鶴岡八幡宮に寄進されています。
弘安7年(1284年)に「山内荘秋庭郷内信濃邑」と鎌倉名越の長福寺領となり、『法華堂文書』によれば弘安8年(1285年)に幕府が「渋谷荘西飯田郷内田壱」を鎌倉法華堂に寄進しています。 嘉元4年(1306年)に北條貞時は「山内荘吉田郷内田壱」を円覚寺に寄進しています。 『静岡大石寺文書』によれば、延慶2年(1309年)2月に南條時光は嫡男南條時忠に山内荘舞岡郷を与えています。

鎌倉郡の荘園
荘園名郷名備考
玉縄荘村岡郡 
山内荘小坂郷 
山内本郷 
岩瀬郷 
秋庭郷 
倉田郷 
吉田郷 
前岡郷 
富塚郷 
山崎郷 
長尾郷 
梶原荘  
西見荘村岡郷関谷邑
植木邑
北深沢荘津村郷腰越邑
梶原郷手広邑
俣野荘  
大庭荘大庭郷高座郡に属す
鵠沼郷 
香川郷 
懐島郷 
渋谷荘 吉田荘ともいう
衣笠荘御浦郡長柄邑
六浦荘金沢郷 
釜利谷郷 
六浦本郷 


正安元年(1299年)に長尾郷田屋(田谷)を領していた加世長親(加世孫太郎)が年貢を納めず、奉行をつとめる三浦政連土屋宗実が使者として要求したが従わなかったため、 加世氏は供田をとりあげられたとされます。 ただ加世氏は地頭としてそのまま在地しており、正和3年(1314年)にも田屋(田谷)・金井の年貢をめぐって地頭である加世氏と供僧の争いが起こっています。 田谷の隣長尾郷小雀邑でも年貢米のことで地頭佐々木千手丸が納めないとして鶴岡八幡宮供僧良尋が永仁3年(1295年)に訴えたことで問題となっています。

 時代は室町時代に入り、観応2年(1351年)に足利尊氏が吉田郷を鶴岡八幡宮に寄進したことが記録に残っています。 観応の騒乱が起こり、足利尊氏が弟足利直義を倒した時期になります。
また応永元年(1393年)には上杉能俊(上杉道高)が秋庭郷内の那瀬邑を寄進し、父上杉重兼や母、上杉重能(上杉道宏)らを追善しています。

足利尊氏から岩瀬郷を与えられた島津忠兼池田右衛門尉を代官として岩瀬郷を支配させていましたが、 文和3年(1354年)に飯田郷の飯田七郎左衛門尉が岩瀬郷に乱入し池田右衛門尉を殺害しました。 島津忠兼の訴えから足利尊氏は次男で関東管領をつとめる足利基氏江戸直重に処置を命じました。 しだいに関東管領が鎌倉郡で勢威をふるうようになりました。  その関東管領足利氏を支えていた執事職をつとめていたのが上杉氏で、上杉氏は扇谷上杉氏・詫間上杉氏・犬懸上杉氏・山内上杉氏の四家に分かれていました。
 山内上杉氏の権力が高まる一方で、対抗意識をもって対立していたのが犬懸上杉朝宗と子の上杉氏憲でした。 応永18年(1411年)2月に山内上杉憲定にかわって犬懸上杉氏憲(上杉禅秀)が執事職につくとますます対立は激しくなり、 応永22年(1415年)に関東管領足利持氏によって執事職の犬懸上杉氏憲は辞任し、山内上杉憲基が新たに任命されました。 足利持氏上杉氏憲の対立となり、応永23年(1416年)に室町幕府は駿河国守護今川範政や越後国守護山内房方に出兵を命じ、越後国に逃れていた上杉氏憲と戦いとなりました。 当初犬懸上杉氏憲についていた武蔵国の豊島氏や江戸氏が裏切り幕府側につき、上杉氏憲は世谷ヶ原合戦(瀬谷)で敗れ鎌倉へ敗走しました。 上杉氏憲に与していた足利満隆足利持仲らとともに自刃し、足利持氏の勝利で上杉禅秀の乱は終わりました。

 永享10年(1438年)6月に足利持氏が長男足利賢王丸を元服させ足利義久と命名しようとしていたときに、 執事職の山内上杉憲実との関係がこじれ、足利持氏上杉憲実を攻め、上野国へ追いました。
関東管領足利持氏の勢威に危険を感じた室町幕府は足利持氏討伐にふみきり、犬懸上杉氏憲の子上杉持房を先鋒とする大軍を鎌倉へ送りました。 上野国から山内上杉憲実も武蔵国の分陪河原に出陣し、関東諸氏の多くが上杉憲実方に与しました。
足利持氏についていた三浦時高も裏切り、足利持氏は長尾郷の長尾氏に捕えられました。この一連の争いを永享の乱といいます。以後、山内上杉氏と犬懸上杉氏が威勢をはりました。 幕府とのつながりを強くもつこととなった上杉氏が関東管領となり、実権を握っていたのは山内上杉氏の家宰長尾景仲、扇谷上杉氏の太田資清です。
長尾景仲の孫長尾景春の代には武蔵国・相模国の土豪たちから支持を受け、越後国守護代の長尾為景や古河公方足利氏も長尾景春を支持したことで長尾氏の勢力は拡大していきました。

 嘉吉3年(1443年)にわずか9歳で将軍となった足利義政をとりまく人たちは身の保全と出世に終始し、 三魔と呼ばれた足利義政の愛妾今参局足利義政の母の従姉弟にあたる大納言烏丸資任有馬持家のほか、 正妻の日野富子、黒幕として幕府を動かしていた管領細川勝元、四職山名持豊(山名宗全)らが政界で勢力をのばそうとしていました。
 応仁元年(1467年)に、足利義視足利義尚の家督争いでは細川氏と山名氏のほかに畠山氏や斯波氏がからみ、 細川勝元斯波義敏畠山政長らの東軍と、山名持豊斯波義廉畠山義就らの西軍が京都で激突しました。

 応仁元年(1467年)の頃に富塚郷では円覚寺雲頂庵の所領があったといいます。円覚寺雲頂庵は長尾忠景芳隠省菊によって再興されています。 沢辺森忠(沢辺孫太郎)沢辺善阿弥(沢辺小太郎入道)らが年貢を納めるとの記録が『雲頂庵文書』に残っています。

鎌倉街道
戦国時代の鎌倉郡の城郭郡

小助の鎌倉街道


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小助の鎌倉郡周辺城郭郡



 戦国時代になると、伊勢盛時が駿河国富士郡の興国寺城から関東へ侵攻しています。
 伊勢氏は備中国を本拠にしていた有力豪族です。伊勢盛時が妹婿の今川義忠に招かれるかたちで駿河国を警護するようになったのですが、今川義忠が文明8年(1476年)に戦死した後に起こった家督相続争いにおいて、 相続争いをまとめた功によって、伊勢盛時は駿河国の興国寺城主に迎えられ、今川氏の幼い君主今川氏親をよく援けていきました。 駿河国から相模国へと勢力を広げていくにしたがって、はじめは今川氏に従属していた伊勢氏も次第に独立性を高めていきました。

 伊豆堀越御所で公方足利政知が亡くなると、子の足利政綱(足利茶々丸)は継母(円満院)と弟(足利潤童子)を殺害し、老臣も殺すという堀越公方の内紛は目にあまるものがありました。 この内紛を利用し、延徳3年(1491年)に伊勢盛時は駿河国今川氏を後ろ盾に伊豆国へ進軍し、足利政綱を討ち、韮山城に入城し相模国への足がかりとしました。

 明応3年(1494年)8月には小田原城主大森氏頼が亡くなり、子の大森藤頼が跡を継ぎ、9月には三浦義同(三浦導寸)が義父三浦時高を殺し自立しました。 三浦義同三浦時高の養子ですが、三浦時高に実子ができてからは疎まれ、母の実家小田原城主大森氏の援助を得て新井城を攻め三浦時高を殺し、新井城に子の三浦義意を配置し、三浦義同自身は岡崎城に入りました。
このように内乱が勃発してた相模国に伊勢盛時が攻め込んみ小田原城を制圧したのは明応4年(1495年)でした。

 相模国で力を有していたのは小田原の大森氏と三浦氏だけではありません。扇谷上杉氏が隠然たる勢力を誇っていました。
扇谷上杉氏と山内上杉氏の争いが起こっていたため、伊勢盛時は当初は扇谷上杉定正を援け、山内上杉顕定との戦いを支援していました。 ところがそのままでは当然伊勢盛時の相模国侵攻を許すだけだと、扇谷上杉氏と山内上杉氏が手を結んだのは永正2年(1505年)でした。
伊勢盛時にとって上杉氏の和睦は、東国平定の大きな壁となります。 しかも古河公方にまで手を握られてはさらに困難となります。 そこで伊勢盛時は反上杉派の足利高基を誘い内乱を起こさせました。伊勢盛時の謀略は効を奏し、 古河公方足利政氏と子の足利高基の内乱では、足利政氏方に山内上杉顕実がつき、足利高基方に山内上杉憲房や扇谷上杉朝定らがつくなど関東諸豪族が二分する戦いとなり、 公方足利氏と執権上杉氏の分裂が促進され、伊勢盛時の相模国侵攻が進む結果となりました。

 鎌倉郡では、長尾郷の長尾顕忠と婿養子長尾顕方伊勢盛時への対応を迫られていました。 長尾顕忠の弟長尾景致の子長尾顕方長尾顕忠の娘婿です。長尾顕方の子には長尾景秀がいます。 長尾顕方の妻華渓幸春尼らは永正6年(1509年)11月に伯貞を龍隠軒の再興のために迎え所領を寄進するなど、所領の安堵のためにあらゆる手を尽くしていることが分かります(『長尾顕忠後家幸春寺領寄進状』)。
 永正9年(1512)10月には伊勢盛時三浦義同と一戦を交える覚悟をし、三浦半島の頸部ともいうべき地点となる玉縄城を築きました。
永正16年(1519年)8月に伊勢盛時が亡くなり、 大永元年(1521年)2月に伊勢氏綱は娘を古河公方足利高基の子足利晴氏に嫁がせ、武蔵国に進出するきっかけをつくりました。
大永3年(1523年)6月、伊勢盛時の長男伊勢氏綱の代で北條氏を称しています。 伊勢氏から北條氏への改姓は、鎌倉幕府を支配した執権北條氏の影響力を利用しようとしたためで、 北條氏綱が称した官途である名左京大夫や、北條氏康から称した受領名の相模守も、 鎌倉北條氏で歴代の執権が称してきたものを踏襲したものでした。 鎌倉北條氏では当主が左京大夫を、隠居した際に相模守を称するのが通例でした。 北條氏綱は京都との接触を最低限にとどめ、関東管領職の継承と関東公方を君主とした関東独立国家を最大の目的としていたのです。

 大永4年(1524年)に北條氏綱上杉朝興と高輪原合戦で一戦を交えて江戸城を獲得しました。 大永5年(1525年)には岩槻城を攻め落としています。

鎌倉郡の寺院/神社
寺院/神社
所在地
備考
円光寺村岡郷植木邑圓光寺ともいう、真言宗大覚寺派
久成寺日蓮宗
貞宗寺浄土宗
龍宝寺龍寶寺ともいう、曹洞宗
大船観音寺岡本邑曹洞宗
玉泉寺玉縄荘玉縄邑真言宗大覚寺派
等覚寺梶原郷梶原邑高野山真言宗
円久寺常盤邑圓久寺ともいう、日蓮宗
東光寺寺分邑高野山真言宗
大慶寺臨済宗円覚寺派
泉光院上町屋邑真言宗大覚寺派
青蓮寺手広邑高野山真言宗
薬王寺宝積院、青蓮寺塔頭
仏行寺笛田邑日蓮宗
妙法寺山崎郷山崎邑日蓮宗
昌清院臨済宗円覚寺派、円覚寺塔頭
勧行寺埼立郷腰越邑日蓮宗
浄泉寺真言宗大覚寺派
東漸寺 
法源寺日蓮宗
本成寺日蓮宗
宝善院真言宗大覚寺派
本龍寺日蓮宗
満福寺真言宗大覚寺派
妙典寺日蓮宗
霊光寺七里ヶ浜邑日蓮宗
光則寺埼立郷長谷邑日蓮宗
高徳院浄土宗、鎌倉大仏がある
収玄寺日蓮宗
長谷寺浄土宗単立
虚空蔵堂坂ノ下邑成就院にある
極楽寺極楽寺邑真言律宗
成就院真言宗大覚寺派
聖福寺稲村ヶ崎邑 
延命寺由比郷材木座邑浄土宗
九品寺 
啓運寺日蓮宗、山号は松光山、開山は啓運日澄、元は妙法寺
向福寺時宗
光明寺浄土宗、浄土宗関東総本山
実相寺實相寺ともいう、日蓮宗、山号は弘延山、開山は大成弁日昭工藤祐経が城館とした。
千手院浄土宗
長勝寺日蓮宗
補陀洛寺真言宗大覚寺派
妙長寺日蓮宗
来迎寺時宗
蓮乗院浄土宗
大巧寺鎌倉郷小町邑日蓮宗系単立
東勝寺 
宝戒寺天台宗
本覚寺日蓮宗
妙隆寺日蓮宗
安国論寺大町邑日蓮宗
安養院浄土宗
教恩寺時宗
常栄寺日蓮宗
上行寺日蓮宗
善導寺 
大宝寺大寶寺ともいう、日蓮宗
田代寺 
辻ノ薬師堂 
別願寺時宗
本興寺日蓮宗
妙法寺日蓮宗
妙本寺日蓮宗
勝長寿院雪ノ下邑 
太平寺西御門邑 
来迎寺時宗
高松寺 
法華堂 
英勝寺扇谷邑浄土宗
海蔵寺臨済宗建長寺派、岩船地蔵堂がある
護国寺 
寿福寺壽福寺ともいう、臨済宗建長寺派
浄光明寺真言宗泉涌寺派
妙伝寺日蓮宗
薬王寺日蓮宗
新清涼寺 
新清水寺 
多宝寺真言律宗
東林寺真言律宗
法泉寺臨済宗建長寺派
鶴岡神宮寺小林郷  
永福寺荏草郷二階堂邑 
覚園寺真言宗泉涌寺派
瑞泉寺臨済宗円覚寺派
杉本寺天台宗
東光寺 
理智光寺 
浄明寺浄明寺邑臨済宗建長寺派
浄妙寺臨済宗建長寺派、山号は稲荷山、本尊は釈迦如来、創建は1188年、開基は足利義兼、開山は退耕行勇
報国寺臨済宗建長寺派
光触寺十二所邑時宗
明王院真言宗御室派
大慈寺 
西念寺岩瀬郷岩瀬邑浄土宗
大長寺浄土宗
円覚寺小坂郷山内邑臨済宗、円覚寺派大本山
雲頂庵円覚寺塔頭
黄梅院円覚寺塔頭
臥龍庵円覚寺塔頭
帰源庵円覚寺塔頭
桂昌庵円覚寺塔頭
済蔭庵円覚寺塔頭
寿徳庵円覚寺塔頭
正続庵円覚寺塔頭
正伝庵円覚寺塔頭
松嶺庵円覚寺塔頭
蔵六庵円覚寺塔頭
続燈庵円覚寺塔頭
伝宗庵円覚寺塔頭
如意庵円覚寺塔頭
白雲庵円覚寺塔頭
仏日庵円覚寺塔頭
富陽庵円覚寺塔頭
龍隠庵円覚寺塔頭
円応寺 
建長寺臨済宗、建長寺派大本山
回春院建長寺塔頭
華蔵院建長寺塔頭
正統院建長寺塔頭
禅居院建長寺塔頭
天源院建長寺塔頭
同契院建長寺塔頭
宝珠院建長寺塔頭
妙高院建長寺塔頭
龍峰院建長寺塔頭
圓鷹寺臨済宗建長寺派
光照寺時宗
浄智寺臨済宗円覚寺派
長寿寺臨済宗建長寺派
東慶寺臨済宗円覚寺派
明月院臨済宗建長寺派
今泉寺今泉邑 
称名寺稱名寺ともいう、浄土宗
成福寺小袋谷邑浄土真宗
常楽寺粟船邑臨済宗建長寺派
多聞院真言宗大覚寺派
黙仙寺曹洞宗
正覚寺沼浜郷沼間邑浄土宗
法性寺日蓮宗
燈明寺長尾郷小雀邑円覚寺領、龍隠軒、室町時代初期の開創
玉泉寺金井郷金井邑円覚寺領、龍隠軒、室町時代初期の開創
蔵田寺倉田郷倉田邑浄土宗、山号は沢泉山、元亀元年(1570年)の創建、鎌倉郡三十三ヶ所第二十一番札所の一つ観音堂(誘引堂)の本尊千手観音がある、寺裏の西見谷の山道にある實方塚には藤原実方一族の供養塔があり「かくとだにえやはいぶきのさしもぐささ志もしらじなもゆる思ひを」と碑に刻まれている
子之八幡社 
下倉田八幡社不動明王を祀る祠の付近に紅葉滝と呼ばれる滝があり、かつてたびたび氾濫を起こし上倉田邑と下倉田邑との間で争いを招いていた滝堀川という河川が流れていた
長沼八幡社長沼郷長沼邑 
東慶寺前岡郷前岡邑松ヶ岡東慶寺が寺領として前岡郷を領していた
東福寺永谷郷平戸邑円覚寺領、龍隠軒、室町時代初期の開創
長福寺和泉郷和泉邑円覚寺領、雲頂庵末寺、大雅省音が開山、室町時代初期の開創

このページのタイトルにもある玉の輪というのは、玉輪荘(玉縄荘)のことで、戦国時代には鎌倉郡の中心となった地です。 縄文時代の生活のあとや勾玉が出土したことから、玉の輪と呼ばれるようになった地を中心に大庭荘(大庭御厨)や俣野荘と隣接する大きな荘園となりました。 西は境川まで広がり、境川を挟んでさらに西が大庭荘です。 北は俣野荘ですが、玉縄荘は関谷から影取や俣野方面まで広がっていたといいます。