穴山安治(小助)が独断と偏見で選ぶ甲斐の虎百将
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小助の部屋/滋野一党/甲斐武田氏/小助が選ぶ武田二十四将/甲斐の虎
天文元年(1532年)小倉合戦で勝利した武田信虎はほぼ甲斐国を統一する。武田晴信は「甲斐の虎」と恐れられているわけだが、
武田信虎、そして武田晴信を支えた武将たちを私は「甲斐の虎」と呼んでいる。ここではそんな「甲斐の虎」たちを紹介。
不定期に更新していきます。「なぜあの武将がいないっ!?」などの情報があればどしどし掲示板へお願いいたします。
また選抜していますので、落選していく武将もいると思います。
明応3年
(1494年)1月6日、武田信虎が武田信縄の嫡男として甲斐川田館(甲府市川田町)で生まれる。 永正4年
(1507年)2月14日、武田信縄が死去。
武田信縄の嫡男武田信虎(このときはまだ武田信直と名のっていた)が14歳で家督を相続することになる。
武田信虎と、武田信縄の弟油川信恵とが家督を争い対立(油川氏の乱)。永正5年
(1508年)10月4日、油川信恵は長男油川信貞、次男油川信守、三男油川信友を引き連れ、弟岩手縄美とともに挙兵。
栗原信真、工藤氏、上條氏、そして小山田氏らが油川氏に加担し、武田信虎には武田惣領家の被官である曽根氏、甘利氏、駒井氏、小田切氏、さらに萩原氏、金丸氏、板垣氏、飫富(飯富)氏、浅利氏らの中小国人領主が味方していた。
武田一族で有力国人でもあった大井氏、穴山氏、今井氏らも武田信虎寄りの姿勢を示していた。
武田信虎は坊ヶ峰(笛吹市境川)で油川氏、岩手氏を破り(坊ヶ峰合戦)、滅亡に追い込むと、わずか14歳で家督を継承する。
この合戦で栗原信真の次男栗原昌種、油川信恵、油川信貞父子、岩手縄美、河村重家らが討死。
12月5日、油川信恵に加担した小山田弥太郎が国中に侵攻。武田信虎は小山田勢を迎撃し、さらに都留郡に進攻(境小山田合戦)。小山田弥太郎は敗死。
境小山田氏の小山田平三郎や工藤氏は伊豆へ逃亡し韮山城伊勢盛時に出仕。 永正6年
(1509年)武田信虎は都留郡へ進攻し河口宿へ放火し撤退。
10月23日、小尾弥十郎が今井信是と対立。小尾弥十郎は今井信是の本拠地、江草城を攻め陥落させる(江草城合戦)。
12月、武田信虎は再び都留郡へ侵攻し、小山田氏を攻める。
諏訪頼満が今井信是を攻めて今井勢を撃破(今井合戦)。今井信是の弟今井信隣、矢戸信守らが戦死。
永正7年
(1510年)武田信虎と小山田信有は和睦。 永正10年
(1513年)5月27日、穴山信縣が長男穴山信永に討たれる。 永正11年
(1514年)駿河国から今川氏親が甲斐国に侵入。
武田信虎が川田に居館を築く。永正12年
(1515年)10月17日(10月10日)、武田信虎は西郡(甲府盆地西部)で反旗を翻した大井信達を攻め、大井氏の居城上野椿城(中巨摩郡櫛形町上野)や富田城を包囲するが大敗(大井合戦/富田合戦)。
武田勢の今井信房、飫富道悦、飫富昌義らが討死。板垣氏、甘利氏、於曽氏、小山田氏ら諸将も多くが戦死。
大井氏を支援していた駿河今川氏親の軍勢が甲斐国へ侵入してきたため、 武田信虎は恵林寺に一時逃げるまでに窮地に立たされる。今川氏親は甲駿国境を封鎖。 永正13年
(1516年)武田信虎と、大井信達・今川氏親連合勢との抗争がつづき、他国(駿河国)への路次封鎖が解けないまま。
9月28日、武田軍と今川軍のあいだで、万力で合戦が起こる(万力合戦)。 武田信虎は扇山(塩山)で敗北し、恵林寺に逃げ込む。国中が今川軍に放火される。八幡普賢寺や松本大蔵経寺、七覚山円楽寺が焼失する。今川軍は曽根に布陣し、勝山城を再興。
12月26日、都留郡の西海右近進、西海平八郎ら三兄弟、大石与五郎らが今川軍との戦いで討死。
12月29日、小林昌喜が出陣し、吉田山城の今川軍と激突。民は戦火を避けて河口湖の鵜島に逃れて越年。勝山城に籠城していた今川軍はしだいに孤立しはじめる。 永正14年
(1517年)1月1日、都留郡小林道光、小林昌喜父子が新倉(富士吉田市)へ出陣。
1月2日、小林道光は吉田山城を攻撃(吉田山城合戦)。
1月12日、吉田山城の今川軍は撤退をはじめる。
1月22日、今川氏親が連歌師柴屋軒宗長に、武田信虎との和睦斡旋を依頼。
1月27日、武田信虎の家臣小林道光が吉田城を落し、今川軍の退路を断つ。
1月28日、和睦交渉を依頼された柴屋軒宗長が甲府の知音の屋敷に到着し武田信虎と交渉。和睦を成功させる。今川軍は駿河国へ撤兵。
大井信達も今川氏が撤退した以上は反抗をつづけられないとし、武田信虎に降伏し娘を武田信虎に正室として差し出した。武田信虎は川田へ帰陣。
3月2日、和睦により勝山城に籠城していた今川軍2000余人が駿河国へ帰国。
3月9日、武田信虎は中山広厳院とその末寺に禁制を与える。
4月3日、武田信虎は一蓮寺領を安堵する。永正15年
(1518年)山吹城主金刺昌春は諏訪頼満に敗れ、山吹城は落城(山吹城合戦)。
武田信虎は諏訪下社(金刺諏訪大祝家)金刺一党に与す。
武田信虎は中郡今井郷(甲府市上今井町)の今井信是の反乱の鎮圧に向かう。
小幡日浄(小幡盛次)が戦死(今井合戦)。
5月、都留郡の小山田氏など郡内勢と駿河今川氏が和睦。永正16年
(1519年)今川氏を甲斐国から退け、大井氏(大井信達)を講和(降伏)させたこともあって、武田信虎は今井信是との戦いがつづく。
4月、武田信虎は今井信是との和睦をもはたす。
8月15日、武田信虎は積翠寺郷の南躑躅ヶ崎で新府中の鍬立ての儀を行う。
9月、武田信虎は信濃国佐久郡平賀城を攻める。村上顕国、村上義清父子が佐久衆の求めに応じ出陣。
村上義清の初陣とされ、村上勢は8000の兵を率いて小諸城に着陣。小諸城主小諸光政父子が城外に出て村上顕国、村上義清父子を出迎える。
多勢の出現を知り武田信虎は平賀周辺に火を放って帰国。
10月6日、武田信虎は新府中の見分を実施。武田信虎は甲斐国衆を甲府に集住させることにする。
12月20日、武田信虎は笛吹川沿いにあった石和の川田館を引き払い、府中の躑躅ヶ崎へ居を移す。大井殿も武田信虎のあとにつづいて甲府に引っ越す。
躑躅ヶ崎館は国人衆を周囲に集住させて支配強化をねらったことで、国人衆の反感を買い、再び栗原氏、今井氏、大井氏らの反乱を招く。永正17年
(1520年)5月、栗原信真、栗原信友父子らが武田信虎に背き府中を退去。
栗原信友を大将として今井信是、大井信達らが同調し、武田信虎に謀反を起こす。
武田信虎は、板垣信方、曽根出羽守、曽根三河守らに出陣を命じる。
6月1日、武田信虎は詰城を築城するために積翠寺丸山に登る。
6月8日、東郡都塚(笛吹市八代町)で戦う(都塚合戦)。武田信虎は栗原信友軍を撃破し、栗原氏の居館を包囲。
6月10日、西郡今諏訪(南アルプス市)において、武田信虎は逸見氏(今井氏)と大井氏と戦い(今諏訪合戦)撃破する。
曽根大学助が戦死。栗原信友は武蔵国秩父へ逃亡し、武田信虎は大井氏や今井氏と和睦する。のちに栗原信友は許されて帰参。
武田信虎は再び反旗を翻した栗原氏、今井氏、大井氏らをわずか半年で一掃。
躑躅ヶ崎館の北方の積翠寺丸山に築城を決め普請をはじめる。要害山城(石水寺城/積翠寺城)を後詰めの城として築城する。
8月、西郡大井信達が武田信虎に臣従。これにより武田信虎の甲斐国統一がほぼ完了。
勝沼信友や都留郡領主小山田信有らが、岩殿山円通寺七社権現の再建を行う。大永元年
(1521年)1月27日、武田信虎は駒井高白斎に知行宛行の判形を与える。
2月18日、武田信虎は都留郡大原庄船津の小林昌喜の屋敷を訪問。
2月19日、武田信虎は中津森館の小山田信有を訪問。
2月28日(2月27日)、駿河今川軍が河内に侵入する。
4月13日、武田信虎は従五位下に叙任される。
4月19日、武田信虎は左京大夫に叙任される。名前も武田信直から信虎にこのときに改めている。
7月15日、穴山信友が武田信虎の許しを得て駿河より甲斐へ帰国。
8月10日、駒井高白斎が積翠寺要害山城(丸山城)の城代を命じられる。
8月28日、武田信虎は河内を総攻撃。今川方の富士勢を撃破し、富士勢は敗退。
9月6日、武田軍と今川軍が大島で激突(大島合戦)。武田方は敗北。
9月16日、今川氏親軍、富田城を陥落させる。大井殿が要害山城(丸山城)へ避難。
10月16日、今川氏親の重臣で遠江土方城城主福島正成が1万5000の大軍を率いて駿河から甲斐へ乱入。穴山信綱も今川氏に属し武田信虎と対立。
荻原昌勝による奇略や、原虎胤の活躍により荒川飯田河原で福島正成勢を撃破(飯田河原合戦)し敗走させる。
今川氏に与していた穴山信綱が討死。穴山信風は武田信虎に服従した。
11月3日、武田晴信が甲斐要害山城(石水寺城/積翠寺城)で生まれる。幼名太郎。母は大井殿。
蟇目役は曽根縄長が勤めている。板垣信方、金丸虎嗣が傅役に抜擢される。
11月10日、今川氏親軍が勝山城に移る。
11月23日、荒川上條河原で2500余の兵を率いた武田信虎と福島正成は戦い(上條河原合戦)、 武田信虎はここでも福島勢を迎撃する。
福島氏らは4000余人が戦死。敗走した今川軍の残兵は富田城に退去し年を越している。
11月27日、要害山城(丸山城)で誕生した武田晴信が甲府に移る。大永2年
(1522年)1月3日、武田信虎は国中に棟別銭を賊課する。
1月14日、富田城の今川氏親軍が開城し、甲斐から駿河へ撤退する。
2月8日、武田信虎の家臣河村縄興が、伊勢神宮御師幸福大夫に書状を送り、国内の安定化を報じ、甲斐への訪問を促している。
4月、武田信虎の側室逸見殿が永昌院住持菊隠瑞譚に受戒し、春英理芳と称す。 逸見殿は今井信是の娘。
8月17日、武田信虎は富士山に登り、駿河須山浅間社に立願して太刀一腰ほかを奉納する。
8月、武田信虎が佐久郡に侵攻し大井城を攻撃。 村上義清は大井城主大井忠重の要請を受けて出陣。大井原で戦い(大井原合戦)、武田信虎は250余の首級を討ちとられ、敗走。
10月、村上義清は勢いにのって平賀源心斎(大井成頼)の求めに応じ逆に甲斐若神子へ出兵。しかしこのときは武田信虎の重臣馬場虎貞が撃退している。
11月2日、武田信虎が大檀那として遷宮を行った山梨郡天神社の新社造宮が成る。大永3年
(1523年)4月24日、武田信虎は湯村山城の普請をはじめる。
6月10日、武田信虎は信濃善光寺に参詣する。
12月3日、武田晴信の御袴着がなされる。大永4年
(1524年)1月、武田信虎は武田軍の陣立初めを行う。
2月7日、武田信虎は都留郡猿橋へ出陣。
2月11日、武田信虎は1万8000の兵を率いて都留郡猿橋に着陣し、北條氏綱と対陣(猿橋合戦)する。奥三方へ侵攻。しばしば野戦となる。小猿橋で武田軍と北條軍はしばしば戦い、土屋信遠が戦死。
3月30日(2月11日)、武田信虎は武蔵秩父に出陣し、関東管領上杉憲房と対陣(秩父合戦)する。
6月16日、甲府一條小山砦の普請をはじめる。
6月20日(7月20日)、武田信虎は武蔵国岩槻城を攻める。武田信虎は扇谷上杉氏上杉朝興救援のために武蔵岩槻に出陣し、関東管領上杉憲房と対陣(岩槻合戦)する。
11月23日、武田信虎は北條氏綱と講和するが、北條氏綱は武田信虎のことを信用できないと越後の長尾為景に報じる。大永5年
(1525年)3月、和睦により、北條氏綱から甲府へ銭千貫文が贈られる。
3月10日、越後長尾為景が北條氏綱に鷹三羽を贈るために甲斐国通行を要請するが、武田信虎は要請を断り、鷹を抑留し一羽のみを北條氏綱のもとへ届ける。
武田氏と北條氏の和睦は間もなく破れ、武田信虎は北條氏綱と再び対決し、津久井城を攻城(津久井城合戦)する。しかし陥落させることはできなかった。
4月1日、武田信虎は諏訪頼満に追われた諏訪大社下社大祝の金刺盛昌、金刺昌春らを匿う。金刺昌春らに甲府に屋敷を与えている。
8月2日、武田信虎は塩山向嶽寺(向岳寺)に禁制を与える。「信虎」朱印の初見とされている。
今川氏親とも戦う。北條氏綱と和睦し、関東管領上杉憲房とも和睦する。大永6年
(1526年)武田信虎と北條氏綱との和睦が何度も試みられるが、合意に至らなかった。
3月27日、一條小山砦の普請のために、一條一蓮寺を一條小山から小山原へ移転させる。
6月19日、武田信虎は足利義晴に上洛を促される。武田信虎が上洛するのではないかと噂が流れる。
6月23日、武田信虎の好敵手だった駿河守護今川氏親が死去。
7月24日、武田信虎が山中に在陣。
7月30日、武田信虎は富士北麓(籠坂峠麓)加古坂の梨ノ木平に出陣し、北條氏綱と戦い(梨木平合戦)大勝する。北條氏綱軍は、須走氏、高田氏、黒石入道、葛山氏、御宿氏らが戦死し敗走。
9月8日、武田信虎が塩山向嶽寺の門前敷地に対する権利を安堵。
10月18日、武田信虎は大蔵峯(北杜市)に出陣。大永7年
(1527年)1月25日、武田信虎は上條の地蔵堂(国母地蔵)を甲府に移転させるための普請をはじめる。
4月27日、足利義晴は武田信虎の音問を謝し、忠節を励ます。上洛を促す。
足利義晴は諏訪社大祝、木曽義元らに武田信虎との協力を命じている。
6月3日、佐久の諸豪とそりがあわなくなって身の危険を感じた伴野貞慶は、武田信虎に頼み込んで出兵を仰いだりしている。武田信虎は伴野貞慶を救援するため信濃佐久へ出陣。
大井氏らと対陣し、和睦を成立させると善光寺に参詣して帰還した。伴野氏から所領の進上があったが、武田信虎は辞退。
武田信虎は今川氏輝と和睦。早馬(走馬)で甲斐国内に通達。
7月8日、武田信虎が信濃国善光寺に参詣。7月19日、上條の地蔵を甲府へ移す。亨禄元年
(1528年)武田信虎は信濃諏訪郡富士見に兵を進め、先達城を修築し入城。
これに対して諏訪頼満も兵を率いて出陣。
8月20日、武田信虎は諏訪頼満、諏訪頼隆父子と甲信国境の朝方の神戸で戦い(神戸合戦)、諏訪勢を撃破。
8月22日、武田信虎は金刺昌春を擁して諏訪へ侵攻。
8月26日、武田信虎は諏訪頼満、諏訪頼隆父子と青柳で対陣する。
8月30日、境川での戦い(境川合戦)では武田信虎は敗れ、萩原昌重らが討死し、200騎が討とられた。
諏訪勢では千野孫四郎らが討死。武田信虎は徳政令を出す。永正10年
(1513年)5月27日、穴山信縣が長男穴山信永に討たれる。
武田信虎 1494〜1574
明応3年(1494年)1月6日生まれ。武田信縄の嫡男。母は岩下殿。
武田信直、左京太夫、五郎、陸奥守、左京、無人斎、道有、道因ともいう。「甲斐に猛虎・武田入道あり」と恐れられた。
永正4年(1507年)2月14日に父武田信縄が没すると、叔父油川信恵との家督争いに勇猛果敢に戦い、
永正5年(1508年)10月4日に坊ヶ峯合戦で油川信恵を討って、わずか14歳で家督を相続。
彼の生涯は戦いの連続であったが、その結果、分裂状態だった国内状況を克服して領国支配を成し遂げ、
武田氏を戦国大名にまでのし上げた。また、本拠を石和館から甲斐の中心である府中へ移したのも功績であった。
戦闘には勇敢で常に陣頭に立って戦ったが、独断専行も多かったという。
しかも連年にわたる戦闘は無理を重ねたもので、その代償は大きかった。
戦闘回数が増えればそれだけ家臣や領民に負担を強いることとなり、いつしか人々の心が武田信虎から離れてしまい、
天文10年(1541年)6月14日、息子武田晴信と一部の重臣たちが仕組んだ無血のクーデターにより、
娘婿の今川義元のもとに追放される。
これ以後武田信虎は30余年放浪するが、二度と甲斐の地を踏むことはなかったという。
この間、不敗の名将に成長した武田晴信を、どんな気持ちで見ていたのだろうか。
だが、武田信虎が人望を失ってたことで、武田晴信は父追放という汚名をかぶることなく覇業に踏み出せた。
皮肉にも、これで武田家は益々発展していく。
荻原昌勝 1461〜1535
寛正2年(1461年)生まれ。荻原慶忠の長男。妻は飫富殿(飫富道悦の娘)。
荻原政勝、忠明、常陸守、常陸介ともいう。
武田信虎の軍師。山梨郡荻原村(山梨県三富町上荻原)を領する。荻原氏は今井信景の四男荻原慶忠が甲武国境の荻原郷に拠って氏姓を起こしたことにはじまる。
今井信景は武田信満の五男。
飫富道悦の娘を娶っていることから、飫富虎昌の叔父(叔母婿)にあたる。武田信昌から一字「昌」を拝領。
武田信昌、武田信縄、武田信虎と三代にわたって仕え、武田信虎の傅役をつとめ、弓矢の指南役もつとめる。
若き武田信虎に合戦を教授。「相図の小旗」「相図の物見」などの戦法を創始。「智略の師」と武田信虎をふくめ多くの家臣たちに尊敬されていた。
武田信虎の軍師として、甲斐国統一への緒戦に従軍し数数の戦功をあげている。
武田晴信の将来性を見抜き、晩年は幼い武田晴信にも多くの合戦を語った。武田晴信にとっても荻原昌勝は武力の師。
天文4年(1535年)、75歳で死去。軍師は加藤虎景に受け継がれた。
荻原昌勝の長男荻原昌忠は若くして亡くなっていたため、荻原昌忠の長男荻原昌明が家督を継承。
荻原昌忠の妻は板垣信方の異腹妹にあたる。長男荻原昌明のほか、次男荻原昌信、三男荻原信基ら兄弟は荻原昌勝死後は、叔父板垣信方の配下に属し戦地を転戦した。
駒井高白斎 1481〜1561
文明13年(1481年)生まれ。岩崎政時の次男。妻は石和に恵法寺を開山した恵月院日真尼。
岩崎政武、駒井政武、駒井政頼、駒井昌頼ともいう。
武田信虎の軍師、側近、祐筆。要害山城(積水寺城)主。武田信虎、武田晴信の参謀として代代仕える。
駒井高白斎は明応7年(1498年)から天文22年(1553年)までの55年間の武田氏を中心とした記録『高白斎記(甲陽日記)』を記す。
積翠寺郷を領し(巨摩郡駒井郷(山梨県韮崎市)を本拠とする)、大永元年(1521年)8月10日、積翠寺要害山城の城代を命じられた。
武田信虎に重く用いられ、武田晴信の代になり、天文16年(1547年)には、甲州法度次第の起草を行い武田晴信に提出。
天文19年(1550年)には深志城の鍬立て(築城工事)を着工するなど、政治に長けた家臣として武田家を支えた。
また外交の多くを担い、天文19年(1550年)には今川義元との同盟協議の使者として駿河へ派遣される。
内政や外交だけにとどまらず、気象予報などにも精通。信濃進攻戦においても、諏訪方面への進軍では大将を務め、伊那福与城、藤沢城攻めなどでは寄騎秋山信友に一番乗りの戦功を挙げさせるなど活躍。
天文17年(1548年)、諏訪上原城代(留守居役)を務めていた駒井高白斎のもとへ上田原合戦の敗報が届き、負傷した武田晴信を心配し、
今井相模守と相談の上、戦場を去るよう説得してもらうために大井殿に事情を話した。
駒井高白斎の娘は原昌俊に嫁いだ。
駒井高白斎の長男駒井昌直は伊豆深沢城将をつとめていたが、武田勝頼死後は徳川家康配下の榊原康政に出仕。
萩原虎重 1490〜1550
延徳2年(1490年)生まれ。萩原昌重の長男。
萩原備中守、市左衛門、宗左衛門ともいう。
武田信虎の重臣。萩原備中守昌重の長男として延徳2年(1490年)に生まれる。
萩原氏は村上源氏を祖とし、甲斐国萩原に居住し萩原を姓とした。
荻原昌勝の荻原氏と混合されることも多いが、荻原氏も萩原氏も秩父と甲斐の国境にあたる雁坂峠を警護したり、
武蔵と甲斐の国境を警護し、黒川金山など守備する役割を担ったという。
永正5年(1508年)に武田信虎と油川信恵の家督争いが起こったときには、萩原氏は一貫して武田信虎に味方し、
坊ヶ峰合戦や境小山田合戦でも萩原氏は武田信虎の勝利に貢献している。
亨禄元年(1528年)8月30日に、諏訪頼満、諏訪頼隆父子と甲信国境の神戸・境川で戦い、
武田氏が大敗したときに父荻原昌重は討死。
武田虎重も武田信虎に仕え、武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
萩原虎重には長男萩原市左衛門興重がいる。
萩原興重から萩原宗左衛門重次、萩原市左衛門無重、萩原瀬兵衛重正、萩原十兵衛重成へと継がれていく。
武田氏滅亡後は徳川家康に仕えた。
原虎胤 1497〜1564
明応6年(1497年)生まれ。原友胤の長男。
美濃守、信知、虎種、美濃入道、鬼美濃、清岩ともいう。
千葉一族の上総原氏の一族。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。甲陽五名臣にかぞえられる。
永正14年(1517年)、小弓城落城により下総をはなれ、20歳のときに甲斐へ父原友胤とやってきて武田信虎に仕える。
「金の半月」の旗差し物を背に合戦に臨み、はじめは飫富虎昌の相備えとして活躍。大永元年(1521年)、甲斐飯田河原合戦では福島正成を討ち活躍。
城攻めを得意とし、それも破壊的な攻撃法ではなく、奪取したあとであまり補修をせずに利用できるように、いかにそのまま奪うことができるかという「裏口攻略法」という城攻め戦術を得意とした。
「鬼美濃」という異名が示すように、38度の合戦で全身に受けた疵は53ヶ所を数えたという猛将。
だが残忍な猪武者ではなく、傷ついた敵将を敵陣まで送り届けて労るなど、情けも持ち合わせていた。
天文22年(1553年)には浄土宗と日蓮宗の論争に巻き込まれ家法を犯したとして国外追放され、小田原の北條氏康に仕えたが、まもなく許されて帰参。北條氏康は「渡辺の綱(源頼光四天王)に勝る」と四隣に聞こえた「武田の鬼虎」を大歓迎した。
永禄2年(1559年)9月、信越国境の要害割ヶ岳城の攻略を果たすが鉄砲弾を受けて負傷し、回復することはなく、永禄7年(1564年)に病没。
武田晴信は「原虎胤は幾多の合戦で限りなき武功をあらわした真の剛の者なり。世人、原虎胤を畏敬して鬼美濃と恐れしわが忠臣なり。当家、原虎胤のほかに美濃を称する者とてなし」とその死を惜しんで嘆息した。
工藤虎豊 1495〜1537
明応4年(1495年)生まれ。工藤祐包の長男。
工藤祐英ともいう。
武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
工藤氏は鎌倉時代から甲斐の名族であり、甲斐国巨摩郡と西郡から信濃国伊那郡の一部に及ぶ大草郷を支配する地頭であったという。
『吾妻鑑』には治承4年(1160年)8月25日、平家の将俣野景久と駿河目代橘遠茂を富士裾野で迎え撃った甲斐武田勢があったと記し
「安田義定、工藤景光、工藤行光、市川行房ら甲州より発向云云」とある。これにより、大草郷の地頭が工藤景光であったことが明らかとなっている。
工藤守岡、工藤光長父子が武田信昌に仕えており、工藤光長の長男工藤祐包、次男工藤昌祐も武田信昌、武田信縄に重く用いられた。
工藤祐包の長男工藤虎豊は武田信虎の重臣として、名を馳せた。
また武田信縄の近侍として工藤昌祐や工藤祐久の名が『一蓮寺過去帳』に記されている。
しかし、工藤虎豊は『武田三代記』によれば天文6年(1537年)に武田信虎の駿河出兵について直諫したことで、内藤虎資とともに誅殺されたという。
武田家中で重臣として仕えてきた工藤氏は、甲斐を出奔し名跡が跡絶える。
永正4年(1507年)から起こった武田信虎と油川信恵の家督争い(油川氏の乱)では、工藤氏は一貫して油川氏に味方しており、
永正5年(1508年)10月に笛吹市境川で行われた坊ヶ峰合戦や12月に都留郡で行われた境小山田合戦などで相次いで敗れた工藤氏は、
小山田氏とともに伊豆へ逃亡し韮山城の伊勢盛時に出仕した者もいたという。
跡絶えていた工藤氏であったが、武田晴信の代になって天文15年(1546年)には、工藤祐元や工藤祐長(内藤昌豊)兄弟は甲斐へ呼び戻され、工藤氏再興がはたされた。
小林昌喜 1490〜1550
延徳2年(1490年)生まれ。小林道光の長男。
小林宮内丞、尾張守、正喜、政喜、和泉守ともいう。
都留郡大原庄船津を領す。藤原利仁の流れをくむ加藤氏一族加藤吉信を祖とする。小山田氏に仕える。
小山田信有の重臣。
永正12年(1515年)に今川氏親の支援をえた大井信達と戦い大敗した武田信虎は恵林寺に一時逃げるまでに窮地に立たされて、
今川勢が甲斐を侵攻していた。
永正13年(1516年)12月には小林昌喜が出陣し、吉田山城の今川軍と激突。
永正14年(1517年)正月、小林道光、小林昌喜父子が吉田城を落したことで、今川軍の退路を断ち、さらに駿河でも問題を抱えていた今川氏は撤退を余儀なくされる。
和睦を提案された武田信虎も応じ、今川軍は駿河へ撤兵。大井信達も今川氏が撤退した以上は反抗をつづけられないとし降伏する。
今川氏を撤退させる突破口を開いた小林道光、小林昌喜父子の功績は大きい。
小林昌喜には長男小林貞親がおり、天文10年(1541年)7月に北條氏綱が死去したことで、それまで争いの絶えなかった北條氏との関係改善のため、
天文13年(1544年)12月、武田晴信は小山田氏の重臣小林貞親を相模北條氏の小田原城へ遣わせた。
公式の和平使節としての訪問である。これにより三国は和平の成立に大きく進み、天文23年(1554年)の三国同盟への確かな伏線の役割をはたす。
諏訪頼満 1480〜1539
諏訪政満次男。諏訪氏中興の祖といわれる。
諏訪安芸守、諏訪碧雲斎ともいう。
文明16年(1484年)に大祝となり、諏訪氏総領家当主となった。甲斐の武田信虎と対立し、
享禄元年(1528年)8月20日には甲信国境の朝方神戸で戦い(神戸合戦)、大敗。8月30日の境川での戦い(境川合戦)ではそれぞれ有力な家臣の戦死者を出しながらも、
諏訪頼満は勝利した。
亨禄4年(1531年)4月には飫富虎昌、栗原信真、大井信業、今井信是、今井信元らの求めに応じ、武田信虎と塩川河原で戦うが、
1000人近い死傷者を出して大敗。
天文4年(1535年)9月には武田信虎と和睦をし、長年の敵であった信濃守護小笠原氏との戦いに専念する。
天文6年(1537年)2月には諏訪頼満と孫諏訪頼重は小笠原長時と戦い、塩尻を攻略し松本まで侵攻した。
天文8年(1539年)6月に和睦するまで足掛け3年、小笠原氏と戦いつづけた。天文8年(1539年)12月にが病没。
諏訪頼隆 1497〜1531
諏訪頼満の長男。
諏訪頼高、諏訪刑部大輔ともいう。
亨禄4年(1531年)4月に急死。諏訪頼隆の長男諏訪頼俊も若くして亡くなったため、
諏訪頼満は孫諏訪頼重の後見人として育てた。
天文8年(1539年)12月には諏訪頼満が病没したため、諏訪頼重は24歳で家督を相続する。
諏訪頼隆には長男諏訪頼俊、次男諏訪頼重、三男諏訪頼高がいる。
諏訪頼高の嫡男諏訪頼忠が諏訪満隣の後見をえて大祝となっていたが、武田氏滅亡後に、徳川家康の軍門に降り、諏訪頼忠の嫡男諏訪頼水が諏訪藩初代藩主となり、
諏訪家の再興をはたし、子孫は幕末までつづいた。
今川氏輝 1513〜1536
今川氏親嫡男。
14歳のときに父今川氏親が没し家督を継承。母寿桂尼が「女戦国大名」として今川氏輝を補佐。
今川氏輝が16歳になるまでは寿桂尼が公的文書を発給し武田氏や北條氏と渡り合っていた。
鉱山開発や検地の実施、「今川仮名目録」の制定など父今川氏親が敷いた大名領国制を推進し、家臣団編成ではじめて「馬廻衆」を創設。
領国支配を軌道に乗せるといよいよ駿河から三河、尾張へ対外進出をめざした。
その矢先の天文5年(1536年)3月に今川氏輝は謎の死をとげる。24歳という若さであった。
今川氏輝の死は今川家中に混乱を引き起こし、今川良真と今川義元ら二人の弟による家督争い、いわゆる「花倉の乱」が勃発してしまう。
今川良真 1517〜1536
今川氏親の三男。
玄広恵探、花蔵殿、花倉殿ともいう。
永正14年(1517年)に生まれる。母は今川氏の重臣福島左衛門の娘。
今川氏親の側室の子として生まれたため、早くに出家して花倉の遍照光寺(静岡県藤枝市)の住持となる。
天文5年(1536年)、今川氏当主今川氏輝と弟今川彦五郎が相次いで急死したため、
今川氏輝の母寿桂尼は出家していた我が子の梅岳承芳を還俗させて今川義元と名乗らせ、
家督を継がせようとした。これに反対して、今川氏真(玄広恵探)は福島氏に擁されて挙兵し花倉城に拠るが、
梅岳承芳派に攻められて自害。これが世にいう花倉の乱である。
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