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小助

見習い男性保育士の空理空論


小助は大学(法学部)を卒業後、小中高生の講師として2年子どもたちに学問を教え、 保育の仕事に就いて3年がたちました。 認可外保育施設で2年間働いてから、派遣社員として認可保育施設で勤務したのをからきりに、 正社員として横浜保育室という認定型保育施設(認可外保育施設)で働いたり、 またいくつかの認可保育園で自習や研修をしたりと、あちこちの保育施設を転転としては、 その日暮らしをしています。 今年で26歳。そろそろ落ちつきたいかなという思いもあるものの、 保育施設運営に携わるという夢に向けて、やれることを精一杯やっていこうと思っています。

Contents

■見習い男性保育士の空理空論
  1.男の生き方について
  2.身の保ち方について
  3.欠点を直すには
  4.上司との関係について
  5.決断と信念について
  6.刮目させるには
  7.人材の選ばれ方(人材採用)について
  8.向上するには
  9.人材の使われ方(適材適所)について
  10.窮境に陥ったときこそ真価が問われる
  11.つけ上がりには
 
■小助のみる現代における概念
  1.生きることとは…
  2.あなたはあなたでいることが 最もすばらしいことだ
  3.やりたくないなら やらなくていいよ
  4.優しさとは…
  5.保育とは…(1)
  6.保育とは…(2)
■保育のあれこれ
  1.認可と無認可の違いって何だろう(1)
  2.認可と無認可の違いって何だろう(2)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

1.男の生き方について
小助の日記 2005年06月15日 00:51 据えものの覚悟

今の職場は一度首を刎ねられてたどり着いたところ。 それでも前の職場の長を恨んではいない。 人としても保育士としても尊敬できる人ではなかったけど…w
もちろん今があるから、むしろ斬られてよかったってこともあるだろうけど、 それでも常に自分自身の価値を深く考える私としては、 必要とされているのか、それとも必要とされていないのか、 それもとても重要なことで、 必要とされていないならいつだって斬られたっていい、いや むしろ斬ってくれと思ってる。 まぁ、もちろん他にだってもっともっと考えてることはあるし、 行動だってもっと前向きさ…w
洋の東西を問わず、男ってもんは戦いで死ぬことこそが仕事だった。 つまり男は時代の消耗品。 日本でだって長い歴史のなかで、男の生き方は、 自分は使い捨てってことを自覚して、そのための修行をすることからはじまる。 家政は女に任せて、いざというときにお家のために死ぬ。 これこそが長い間の日本の男の生き方の基本だった。
現代がそんな時代ではなく、男だろうと女だろと生き方は人それぞれ。 男が外で働いて女は家のなかって古い考えだって私は好きじゃない。 でもそういう現代にあって、おまけに女性優位論を理想とする私が、 こんなことを心構えとして思っている。

2.身の保ち方について
小助の日記 2005年06月17日 12:28 明哲保身のすべ

『飛鳥尽きて良弓蔵る―狡兎死して走狗烹らる』

直訳すると、 よい弓だって獲る鳥がいなくなれば蔵にしまわれてしまうし、 すばやい兎も捕えられて殺されてしまうと、それを捕えるのに功のあった猟犬でも、 (狩る兎がいなくなれば)不用になって煮られて食べられてしまうってこと。 つまり現代語訳すると、 役割を終えて、不用になった人材はあっさり捨てられるってこと。
今の世の中じゃ、殺されることはないにしても(法治国家だしねw)、 会社じゃ左遷や窓際族へ追いやられたり、 体よくリストラされてしまうということはよくある。 今の自分の職場にもこういうことってかなりあって、 よく考えて行動しようと心がけてるつもり。 考えすぎって言われるけど、こういうことも考えてないとつまらないしねw
長というものは、下の反抗をとことん嫌う。 それに疑心暗鬼の固まりでもある。そういう意味でいえば、 偉くなればなるほど、人って度量が小さくなっていくもの。 もともと小さい人もいっぱいいるけどね…w 組織のなかの人間は、智仁勇だけではダメで、ボケてみせるなり何なり、 すでに狡兎が走りまわっているときから、いかに自分を韜晦できるかを工夫して、 それを実践していかなければならない。 よいか悪いかは別として、これができないと組織のなかで伸びていけない。 少なくとも終りをまっとうできない。
今の自分の職場でも、韜晦(本心を隠して身をくらますこと)を上手にしている人がいる。 人間的に大人だなぁって感じるし、尊敬もできる。 その人とは目的がかなり違うから自分は自分なりの韜晦をしていこうと思っているけど、 見習えるところもけっこうあるw
注意しなければいけないのは、下の人の不信や反抗が事実どうということではなくて、 上の人がそう思ったときに…という点で、 たんに長いこと働いた人間が隅へ追いやられてしまうという意味ではなく、 上に立つ人間、とりわけトップは、 不信や反抗にたいする疑心を業としてもっていて、 それにどう対応するかということを考えなければならない。 このトップの業ともいうべき、上司の疑心暗鬼に対応するためには、 忠実な部下でありつづけていることを示すお追従が必要になってくる。
そもそも上下関係(権力構造)って、上は下に疑心暗鬼を持っていて、 下も上に疑心暗鬼を持つ。 それぞれがお互いに気をつかいすぎるぐらいでやっと維持されている、 何とももろい側面を持っているもの。 気をつかわなくて済むのが合理的って風潮もあるけど…。 気をつかって浮かぶ瀬もあるのが組織人。
不平不満を言うばかりではなく、あまり望ましいことではないにしろ、 多少は気苦労も必要だと思うし、自分自身そうしていきたいとも思う。 口先だけでペラペラご機嫌とりをするのはあまりに見苦しい。 気づかいのパフォーマンスを楽しむような余裕と強かさを身につけていたいし、 このパフォーマンスの工夫と努力は、組織のなかで何かをしてやろうと志している人には、 不可欠だと思う。

3.欠点を直すには
小助の日記 2005年06月21日 01:49 欠点・短所を座右に置け!!

最近同僚や友人と飲みに行って話したり、友人の日記にコメントしながら、 日々私が考えてることがあったのでカキコしてみる…w
フランスのノーベル賞作家、ロマン・ロランがいうには、 英雄や大指導者といわれる人々は、その長所も大きいが、 それに比例して短所もまた大きい人物…らしい。 まともな指導者ならその点を自覚して直言居士を周りに配して、 その短所を諌めてもらって直していくということで、 自己矯正していこうとするもの。
日本人は反省好きの民族らしく、日々"反省"ということをよく口にする。 でも、実はこんなものは単なるスローガンで、 ちょっとうまくいくと傲慢になって、直言者を遠ざけるし、 直言者の方も地位保存のために、一見は直言者風でも、 実は阿諛迎合(相手に合わせて相手の気に入ることを言って機嫌をとることねw)になりやすい。
といっても、自分1人で深く内省なんかしてみても、 内省する自分と図にのってる自分がすぐ妥協をしてしまって、 元の木阿弥となることが目に見えてる。 禁煙なんかも、こっそり自分1人で決意してやるのは、 最初から破るつもりではじめるようなもので、禁煙なんて少しも難しくない、と言いつつ、 もうすでに何十回もやってるなんてことはよく聞く。
なので、真に自分の欠点や短所を直そうと思うならば、 その短所を何かしらのかたちで客観化して、それを自己の外部に対立させることで、 それと絶えず相対して、自分が罵られているようなかたちをつくるくらいの工夫が必要となる。
自らを人前で叩きのめすということを意図的にやらないと、 自分の欠点など簡単には克服できない。 普段から自分の周りに自分の欠点はこうであると、 広く言い知らせておいて、そのうんざりした顔をみて、 「だぁ、またやっちまったか…。」と自分で自分を矯正していく。 人間なんて弱いものだから、欠点を直すには、 やっぱり何か外側からそれを強制する手段をこうじなければ、 直るもんじゃないよw
徳川家康の肖像画で「しかみ像」ってのがある。 三方ヶ原合戦で、武田晴信にボコボコにやられて、 城へ逃げ帰るんだけど、恐怖のあまり馬上で脱糞してしまう。 こんな歳になってなんて情けない…と痛感して、 そのときの自分の姿を絵師に描かせて生涯それを手元から放さず、 自分の恥を部下にも見せて反省材料にしたといわれてる。
現代のサラリーマンもそうだと思うけど、上司なんてものは、 「自分は直言されても怒らないよ、それを喜んで受け入れてきたからこそ、今日があるんだ」ってご満悦、 自己陶酔に陥っている。
そんなもので人間の欠点なんて直るものじゃない。 反省による自己訓練はなかなか難しいし、 人間の本質的な性格というものは、そうやすやすとかわらない。
一切阿諛迎合に溺れず、自分の欠点を客観化して、 それを絶えず直面し苦い薬をなめつづける努力が、 真の人間形成のために不可欠なんじゃないかな…。
それができないかぎり、短所によって振回される情けない人生を送ることになる気がする。

4.上司との関係について
小助の日記 2005年06月22日 23:45 軽く見られて終るべからず

組織のなかに身を置く人間にとっては、上司との関係で苦労するのが宿命…と言えるでしょw 権力構造ってもんがこの世にできてから、 上司への恭順と反発との間で、みな智恵をしぼって、苦悩して、決断してきたわけで…。 組織のなかで生きる以上は、よほどのことがないかぎり、 上司に従う。つまり大勢に順応しなければならない。 でも従うとはいっても、ただひたすら頭を低くしてても、 かえって相手にされなくなってしまう。
同じ従うにしても、 自分を売り込みつつ恭順するという智恵ぐらいは身につけていたい。 「彼かなかなやるなぁ…」と感心させるぐらいの芸当ができたら上々。
これまで「俺は反骨精神の持ち主だ」なんて、 大した能力ももたない人間が妙に片意地を張っていても何とかやってこれた。 でもこれからはそんなもん、夢でしかなくなる…w ねぇ、兄貴。
もし反抗されたらちょっと手に負えないって思われるぐらいの 力をもった者が恭順してこそ、一目置かれるわけで、 長としても、そんな男が"自分にだけ恭順する"と思うことは、 かなりの快楽だろうしね。 力と恭順の2つをもっていないと、決して上の人から重んじられることはない。
私は、まず力を身につけていかなきゃ…w
上には恐怖を与えつつ恭順するというパフォーマンスの1回や2回はしてみえせないと、 ただ軽く見られて終ってしまう。 これまでは上から愛され、部下から慕われるだけで充分だった。 でも、今後は何が起こるか分からない。 必要なのは上から頼もしがられ、部下からも頼りにされるという 実戦場での不可欠な人材なはず。
私が今いる職場が企業である以上、 こういう考え抜いた策略と効果的な演出は必要なんだと常々思う。
この恐怖をってのは、人(上司)からの批判に対して拒絶することや、 批判をタブーにさせる権威をもつこととは全く違う。 そんな権威や厳しさは崩壊を招くだけだと思う。 それじゃ自分の成長につながらないもんね。

5.決断と信念について
小助の日記 2005年06月26日 04:09 目的に執着せよ

普段私が何かにつけても『意味』だの『目的』だのと言うと、 またそんなこと言ってるって馬鹿にされる(?)ことが多いですw 無駄なことが嫌いなわけじゃないですが…、 企業のなかで目的や目標、その意味などは考えさせられます。
『目標の達成』なんて言葉はどこの会社へ行っても、 1つぐらいは掲げられているものですが、 それらは確固たる経営哲学とか理念に基づいたものではなくて、 単に競争相手のよその会社に負けないようにといった『隣百姓』主義によるお題目にすぎない ものが多いでしょう。
会社の理念がしっかりしていても、実際の現場での長が『隣百姓』の場合もあります。 本来は目標の設定は深慮遠望(遠い未来のことまで深く考える)で、 自己の信念に基づく熟慮のすえに決断して、 一度設定した以上は、その目標を達成するために執念をもって 繰り返し繰り返し努力することが必要です。
考えに考え抜いて、目的を達成するためにはこれ以上にないと決断した場合は、 これでもかというくらいに執着することが必要。 『君主豹変す』なんて言葉もあるけど、 考え抜いた目標を立てた場合はあっさり豹変なんてしてはいけない。 最後に笑うためにはいつでも執念深くないとダメだと思う…。

『過ちを改むるにはばかることなかれ』

なんて言われることもあります。 私自身つねに『初心』なんて思って向上しようと日々すごしています。 周りがそう見えるかは別としてね…w ですが、小さなものごとに関しては臨機応変は必要としても、 組織の大きな戦略、戦術に携わる立場の人間にとっては、 一度決めたことをそうやすやすと覆すわけにはいかない。 その決断によほどの致命的な欠陥があったり、 事前には予期できなかった大きな変化が生じてしまったならば別ですが、 朝令暮改なんて戒めもあるように決断の内容がコロコロ変るようでは、 その組織はすでに末期的な状態だと言わなければならないでしょう。 後悔が先に立つような決断なら、しない方がマシ。 自分が熟慮断行したものは改めるべきじゃない。 特に噂や流言に惑わされて改めるなんて言語道断。
私の上司が熟慮しているかは疑問だらけですが、断行しようという姿勢は見ることができます。 熟慮がなければ断行したってついていけませんが…。 熟慮したすえでの断行なら、例えどんな結果が待っていようと、 最後まで忠義をもってついていきますよ。黙ってはいないと思いますがw
人は通常、流されて生きているだけで、本当に熟慮して、決断して断行するなんてことはやらない。 たまたまそれをやってみても、 自分のしたことがやりすぎじゃないかと不安がったり、後悔したりすることが多いでしょう。 みんなと一緒にやってれば、つまり流されているだけでは反響もなく、怖いものはない。 断行には毀誉褒貶がつきもの。 不安がってばかりいては、 人の噂が雑念(批判や文句の陰口があるのでは…)として自分の心に出現する。 それに脅えこんでしまうようでは人の上に立つ資格には欠ける。
風声鶴唳に脅えず、逆に面白がって笑ってみせられる、 自分の熟慮断行を貫くことが重要だと思う。
決断と信念…、貫くべきは自分の所業ですよ!! ってな感じで、来週もいってみよ〜♪

6.刮目させるには
小助の日記 2005年06月27日 23:20 智は知にあらず

『亡びんとして存するあたわず、危くしくて安んずるあたわずんば、智を貴しとするなし』

窮地に陥っても活路を発見しえてこそ、はじめて智なのであり、 それでこそ智は貴ばれることになる…って感じの意味。
昔から日本の有識人の知というのは『知識』の知で、 頭のなかに辞書がいっぱいつまっているようなもの。 後からことを説明するような後追いの知識はあっても、 知識を働かせて難局を打開して未来を指示するような…『智恵』の智が発揮されることは少ない…と思う。 自分にしたってそうで、 学んだことを紹介したり模倣することには長じていても、 自分で独創的な思考を展開させることにはいたってなかなか思うようにいかない。 戦国史にしたってデータの収集はやっても、その分類や分析止まり。 その知識を活かして先を予測することなんてできない。 自分の経験なり、先例がないとダメなんだ。
結局、私が講師時代に、東大生を「なんてバカなんだ…」と思っていたように、 日本人の間じゃ知に対する尊敬度はかなり低い。 知識をいくらふりかざしたとしても、危機や苦境に際しては何の問題の解決にもならない。 『知識』に基づいた創造的な『智恵』を働かせて、 それを実行する力がなければ問題の解決は難しい。 いざってときに智恵が出せないようではいくら知識があったってダメなんだ。
私が講師時代に知識人をバカにしていたように、 それとまた逆に、知識人も学問教養のない人間を軽蔑しやすい。 だから知識人は智恵のある人間の価値を見誤ることが多い。 無教養人を軽蔑するのは自由としても、それで能力を低評価するのは大間違い。 講師時代に同僚だった東大生は、採用試験で0点だった無教養な私のことを、 何でこんな頭の悪いやつが学問を教える講師してるんだ?ってバカにしていたかもしれないw 一流大学を出たってことを自負するのは結構だが、 そんなことで人を見る目が歪んで、自ら墓穴を掘る結果となるようでは、 悲劇ではなく喜劇になってしまうw
もっと知を重んじて、もっと自らの知識を積んで、 それを自在に活用する智をもつことが絶対に必要だと思う。 私が保育の現場で、知識も経験も力ももたないなか、 経験だけでなく、知識も力も身につけつつ、それを活かせる 智恵をもっていかなければダメなんだ。今のように分析どまりではいけない…。

『復呉下の阿蒙にあらず』『士、別れて三日なれば、すなわちまさに刮目して待つべし』

これは三国志(中国の三国時代)に、呉って国で、 呂蒙に対して、魯粛が言った言葉に対して、呂蒙がまた答えた言葉。 呂蒙は戦うことは得意だがバカだった。それを指摘されて、呂蒙は猛勉強。 何年も経ってから、魯粛が「もう以前のバカ蒙ちゃんじゃないね」と褒めた(?) そこで、「男たるもの、3日も会わなければ、目を見張るような成長があるもんさ」と 言ってのけたって話w
もちろん何年も経ってたわけだけど、3日って啖呵をきってみせたところがミソなんだw
人の成長なんて、なかなか周りには見えないもの。 毎日見ている自分の子どもの成長にはなかなか気づかないけど、 たまに会った知り合いの子どもの成長の速さには目を見張るなんてことはよく聞く。 子どもの成長の場合は、これは自然な成長での話だけど、 大人の付き合いだって同じで、同じ職場である程度長く働いていると、 できて当然って思われてくるし、その人の成長や、その人の本来の持ち味が霞んでくるもの。 ダメなところばかり目に見えてしまう。
だからダラダラやっててもダメで、 何かの機会をえて自分の成長や変化を一挙に表現して、 周辺や相手を刮目させるだけの努力と訓練は組織のなかでは必要。
人間の成長なんて徐々たるもので、 それを周囲に悟らせるのは大変に難しい。 そのためには成長をちびちび出していくのではなく、 機会をまって一気に表現して、周りを刮目させる方法は考えておかなければならない。
『人をして刮目される』ためには、 まず自分のひそやかな精進からはじめなければならない。 私もそしらぬ顔で「3日」って啖呵をきりたいものだw

7.人材の選ばれ方(人材採用)について
小助の日記 2005年06月30日 21:26 人物眼こそ教養なり

HARUKAさんやめっちさんとの会話のなかで、 知識や智恵、そして現代の学歴重視的思考の社会についてちょっと話しました。 そこでちょっと別の角度から教養について考えてみました。
今までの"みならい男性保育士の独り言"シリーズ(?)でも、 私が企業でのあり方ってものを強調してきました。 ここでは『人材採用』をとりあげますw ってこれ本当に保育士の日記なのかぁ…w
実業界でいちばん不安を抱くべきは人材の問題だと思います。
日本経済を支える実業界、そこで人を得るか否かの問題は、 日本を左右する重大事。 なので実業界で「人材、人材」と声高にさけばれるのは当然のこと。 小泉首相がどうしただのとニュースになるたびに、 経済もよくなったとか悪くなったとか、とり沙汰されるしね。 浮き沈みはあろうが、長期にわたることは確かなこの不景気を のりきれるかどうかは人材いかんにある。
しかしこんな状況下、不安に感じるのは現在の企業の 『人の選び方』、入社試験や面接などのやり方。 偏差値だけによる受験競争と、無責任な教育のおかげで、 日本の教育はけっこうヒドいことになっていると言われているが、 それでもまだまだ人材は存在している。 重要なのはその発見の仕方。 最近は受験者の学校の序列だとか先輩の推薦だとか偏差値だとかを下調べして、 人事部の部長辺りが面接して最後には人事担当の重役なり社長なりが面接、 それで決定するってパターンがわりとふつうらしく、 大卒を大量採用する大企業では、トップの決定なんて言っても、 トップは単に追認という形式的なことで終っているケースも多い。
しかしこんなことで適性までを含めて、人の『人物』ってものが 分かるものなのだろうか。 採用関係者や経営者はそんな素晴らしい人物眼をもっているのだろうか。
一応大学を出てて、まぁ陽気でハキハキしていて、 会社の体制に順応性をもってて、上司のいうことをよく聞きそうに 見える若者ってことにすぎないのではないのかな…。 こんなことでは人材判定にも個性発見にもならない。 下手な鉄砲も数打ちゃあたるとはいかない。 アメリカ式の安易なレイオフや中途採用は失敗のあとを追うだけのこと。 今の「採用」というものが将来の社の運命を左右するにもかかわらず、 今の企業の採用が安直にすぎると思う。
ヨーロッパにおけるエリート階層が、教養を積むってことは、 人物選定眼を養うためというのが根底だった。 人物が見抜けなければリーダーになる資格がない。 大学の教育ってものは、その教育だった。 だけど日本は、実用性を軽視して、高等教育とは純粋な学問を学ぶことで、 大学とは真理追究を旨として、それを教えるところと思い込んでしまい、 エリート教育からこの人物眼養成という側面がなくなってしまった。
あれこれと単なる面接マニュアルとか入社試験ってものを使って、 事務的にやっているにすぎない気がする。 自分の会社の運命を左右する人たちの採用なのだから、 採用担当者はもっともっと慎重に人物を見抜く地道な努力をすべき。 不景気…リストラ…とか(ちょっと単純な言葉だけど)さ、 どんな企業にしたって、絶えず興亡に直面しているって感じの、 本当の生き残り競争の時代だと思う。 実際私が働いてるとこだってそうなんだよね。
人材によってその会社の運命が決まるわけだから、 社の未来は幹部候補生とも言える新入社員が担うことになる。
日本全体の浮き沈みさえその選択の是非に関わっていると思うね。

8.向上するには
小助の日記 2005年07月03日 21:43 一期は夢よ、ただ狂え

私は"おかしい"とか、"絶対普通じゃない"とか、 よく言われる…。 そこで、こんなお話をしてみようと思う…w

『成功に溺れず、成功に懲りよ』

経済大国、人間小国と言われる日本は、 戦後の成功に溺れて、不景気といわれる今でも、裕福な生活を続けている。 しかしいつまでも今のような恵まれた生活ができるだろうか…。 もちろんこの生活を捨てず(痛みを受けず)に、 国(政治も経済も)を立直す道がないとは言い切れない…。 しかし将来を担う子どもたちが、大きな負を背負うようでは、大人として情けないよね…。
『失敗の経験に学ばず、戦功に溺れる』ことは、最悪のパターン。 失敗や欠陥を指摘されると逆に居直る人は多い。 「失敗に学ぶ」ってことに加えて、 「成功に懲りる」ってことになると、さらにそうできる人は少ない。 「成功に溺れず」もできないのに、 まして「懲りる」なんて想像することさえしない(できない)のだろう。 「必ずまた成功する」という夢想は失敗のもと。 『柳の下にどじょうは二匹いると思うなかれ、二兎追う者は一途をも得ず。』 とても簡単なことだと思うけど、 一度でも成功すると、自分が運で成しえたことに気づかない人が多い。 どうしてもまたこのやり方で成功すると確信してしまう。 『人事を尽くして天命を待つ』という言葉どおり、 全知全能を傾けて戦いに挑んで成功したと思っていても、 その戦いの勝敗の7割は運で、それもその戦略にのみ適合したいくつかの幸運が重なるという、 希有な状況にめぐまれることによってだろう。 そんな神風など到底毎回ふくものじゃないことに気づけば、 恐ろしくて以前の手など使えるはずはない…。
大成功をおさめた戦略をもう一度使いたいという誘惑は、 相当な人物でも克服できるものではないけど、 そういう成功体験をあっさり捨てて、二度と使わずに、 さらに新しいやり方に腐心する…。 私はこんな新戦法の創造を、自分の生き甲斐とするほど面白がって生きていたい。 そもそも人生は芝居。 しかも自分の生死をもかけた遊びだ。 乾坤一擲のときにも自分を突き放して見て、 その間に遊びの感覚を少しでも入れることができるようにするのが、 「成功に懲りる」ことができる訓練になるような気がする。
絶対普通じゃないけどね…w

9.人材の使われ方(適材適所)について
小助の日記 2005年07月09日 01:15 上司を見限る時と場合

mymixのまよさんが、以前私の日記『人物眼こそ教養なり』に、コメントしてくれて、 私もその話題についてもう少し別の角度からコメントします… って言っていたので、今回はこのお話。

>「いい人材」は各会社、各職業によって違うと思う。
>だから50社面接して落ちたからって消してその人が「悪い人材」になるわけでもない。
>強いて言うなら自己分析が甘いだけの人だろう。
>ただどこの会社に就いても必要なのは
>ある程度の常識と忍耐力、思考力ではないかと思う。
>これをうまく使える人は本当の「いい人材」だと私は思う。
>経歴が大切なんじゃなくて経歴を経て
>どれだけ自分にその常識、忍耐力、思考力がついたかが重要だと思います。

まよさんのコメントで私が思うことは、率直に言って、 「忍従を旨とした懸命の適応努力など、いまの若い人に求めるべくもない。」 って感じですw
どこの会社に就いても必要なのは、ある程度の常識と忍耐力、思考力…。 これは全くそのとおりだと思う。とっても共感できるね。 だけど↑でも言ったように、それを求めてもねぇ…とも思うし、 またそれがあっても…こんな場合は、という別の角度からのお話をします。
確かに常識や忍耐力などは必要でしょう。協調性も必要なのでしょう。 ただ『いい人材』となると、本人がどんなにこれらの力をもっていても、 もてる力を最大限に発揮できるとは限らないのです。 私も普段から大事なのは「自分自身を見失わないこと」と言っていますが、 かといって、自分だけがこのように考えていても、 組織のなかで自分の力を十二分に発揮できるかどうかは、 またもっと別の力も必要になってくる思います。 それは調略(謀略)できる力、つまり智力っ!! それと、使う側の力です。 とうことで、今回は別の角度からということなので、 使う側の力についてお話しましょう。

『適材適所』という判定

これは長が部下に対する配置のことですが、部下に対して適材適所を選ぶには、 その人の才能や能力の優秀さを確実に認める力がなければならない。 適切な配置をしなければその組織はダメになってしまう。 部下をどう訓練するか(指導していくか)、 そしてこの適材適所にどう人をつけるか…ということは、 当然、長が求められる必要不可欠な力でしょう。
人員を適材適所に配置することが組織を活性化させるための不可欠の条件で、 組織の長に人を得るかどうかはその組織の死命を制するほどの重大事のはず。 だけど、社会全体での人事について考えてみると、 この才知と個性を見抜いた配置と活性法がうまくいっているとはちょっと思えない。 人材、人材などとやかましく言われているが、 人材を得てもその使い方がしっかりしていなければ全く意味がない。
配置転換だって何とも形式的で機械的。 どうも単なるローテーションで規則的に異動を行っているようで、それはどうかと思う。 単にエラい人の権力欲を満たすための人事いじくりなど論外。
日本人はゼネラリスト(部分的にではなく全てに適応できる人)好みで、 そういう人物をつくるためという名分をたてて、 ちょっと修行してこいとばかりに乱暴至極に人を送り出しているけど、 技術に多方面的に才能(適応性)はあっても、 人間関係や社会環境への対応におけるゼネラルなど成立しえない。
こんな『ゼネラリストづくり』は個性をつぶして、企業に損害を与える可能性が大きい。 個性に合わない人事、配置なんてものは、 本人のみならず、その家族、その会社までをも破滅に追い込むもの。 部下の個性を長所で見て、その長所に適合した仕事、任地を 与えることが可能になるための自己訓練こそが、 現在の経営者はもちろん、長(リーダー)たるべき人たちに必要なことだと私は思う。
ということで、話が別の方向へ行っていますが、題名にまでしていますのでw
部下が上司を見限るということは、簡単なようで実は難事。 優れた上司に惚れこむことはいいことでしょうが、 そのエラさを生涯通じて立派に持続させうる人などそうそういるものではない。 当人が自覚して引退するなら別だけど、それは希有なこと。 部下の方が上司の能力喪失という悲しい現実をいちはやく、 そして客観的に見定めないといけない"時"がある。 自分自身の力を最大限に発揮するためには、 冷静に見限ることが案外以上に必要なもの。
人間なんて、突然に呆けてしまうことがよくある。 平凡な社会ではうまくやっているように見える長(経営者)が、 危機には馬脚を現すことがある。 表面と本質ということではなくて、 同じ人間でも時と場合によっては、有能であったり無能であったりする。 家庭の変化や地位の変化、はたまた権力構造の変化や人事の処遇など、 私たち保育士を含めたサラリーマンの人生ってものは、元来移ろいやすいもの。 いかに立派な上司と思っていても、その人に溺れてはダメで、 常に一方では客観的にその人を見限る目を保っておかなければならない。 見限るって言っても、別に裏切るとか、陥れるということではない。 『容れざれば去る』っていう覚悟と、 その用意をしておくことが今どきの世には必要で、 それが現実ってもんだと思う。

10.窮境に陥ったときこそ真価が問われる
小助の日記 2005年07月11日 03:59 危機を好機と化す

危機を好機にかえると言っても、 『死中活を得る』みたいな差し迫った絶体絶命のピンチ からの突破ってわけではなくて、 『虎穴に入らずんば虎子を得ず』ってぐらいの瞬時に、 目的を一点に凝集突進して、それを達成してやろうって感じのこと。
いくら考えても近い将来に、十中八九は死しかない絶望的状況でも、 一ニの離脱できる可能性はある。それに賭けるしかない。 だからといって、それに成功した(生きて帰れた)だけではつまらない。 大きな土産をもって脱出するか、それをバネにして社会に飛躍してやろう。 そんなあつかましく、大胆に、とんでもない望みをもって、 努力して、首尾よく成功してやろうってことが、 日常のなかで(社会のなかで)できたら本当に最高。企業人冥利に尽きる!!
私は保育士だけど、会社の一員である以上、 企業理念や、このような発想はいつも考えてるわけでw ここで、例になるか分からないけど、歴史の人物で誰でも知ってる人が、 その危機を好機に化すってのをやってのけてるから紹介しよう。
古代ローマの英雄シーザー(ガイウス・ユリウス・カエサル)は、 ローマ本土から追放されて、家臣と奴隷を従えて海へ出たところ、 海賊に襲われて捕われてしまう。 海賊たちが、平然としている青年がシーザーだと知ると、 身代金としては10タレント(5〜60万円ぐらい)だろうと喜んだ。 ところがカエサルは、 「俺をそんな安物というのか、50タレントだっ!!」と怒って、 捕虜にもかかわらず当の本人が進んで自分の身代金を値上げする。 当時、身代金なんて払われないことが多く、 捕虜は打ち首か、奴隷に売り飛ばされるかが多かったから、前代未聞のこと。 つまりカエサルは身代金が上がれば上がるほど、 当然死んでもおかしい状況になっていくと分かっていたはず。 だが、身代金が払われてカエサルは自由になった。 カエサルはすぐさま軍兵を組織して海賊の砦へ戻り、 大金を持ち帰って有頂天に連日酒盛をしていた海賊を一辺に降伏させ、 大勢の捕虜と、海賊の首領を処刑し、自らの名声も上げたという。
実際は相当切羽詰った深刻残忍なできごとだったのに、 こんな危地に陥っても、持ち前の大胆不敵さ、自尊心、傍若無人を失わず、 無茶なようで深く細かい計画をゆとりもってたてていた。 逆遇と不安のなかで敵の内状を観察して、さぐりを入れていたのみか、 あわよくば大きな敵でさえ征服してしまう方策まで考える。 これぐらいの度胸放胆さは本当にすばらしい。
私の会社も、業界でNo1を目指している。 周りの保育園に圧迫されて危険なのが実状。 でも業界でのし上るには、周りの保育園をあわよくばのっとってやろう、 もしくはぶっつぶしてやろうって考えなきゃさ。 子どものことを第一に考えつつも、企業人ならこう考えねばならない。 保育士に限らずかもしれないけど、こういう考えには抵抗のある人は多く、 ついていけない人はどんどん辞めていくだろう…。 私も反感もたれるかなw 子どものことだけを考えてよい保育をしていこうって環境が、 本来は理想だと思うけどねぇ…w 幸か不幸か、私はそんな職場に身を置いてしまった…。

11.つけ上がりには
小助の日記 2005年07月22日 05:11 蟠踞する小人を抑えてこそ

久々に男性保育士の独り言w 今読んでる本はまだ全部読んでないので、ちょっと以前の話の 続きというか、また別の話をしてみようかなと。視点もちょっとかえてみました。

『女子と小人は養い難し 近づければすなわち不遜、遠ざければすなわち恨む』

こんな言葉がある。これは、女性と小人…つまり、 女性やおバカな人は、甘やかすとすぐにつけ上がって、本当に扱いにくいってこと。 近頃の若い人は、女性といわず、また小人といわず、 可愛がってやらなければついてこない。 叱ると逃げ出すか、陰で悪口を言いふらす。 だからといって、可愛がるとつけ上がる。 こんな難儀なやつは付き合わなければいい…というのは、もう大昔の話で、 現在は、新入社員を否応なく使っていかなければならないし、 組織のなかで、リーダーの立場にある人にとったら、 この「若手のつけ上がり」をいかに上手に抑えていくか…、これはかなり重要なこと。
でも、つけ上がった要求には必ずといっていいほど、不条理な側面をもっている。 腹を立ててしまうとその側面が見えなくなって、相手に乗じられてしまう。 より大きな視点から冷静に観察するとつけ上がりに伴う不条理が見える。 上司が上手く対処すれば、 つまり、不遜者(思い上がった態度の人)をその要求どおりの道を歩ませ、追い込んでいく。 そうすると要求に無理があるから自ら壁にぶつかっていく。 そこでその壁を盾にとって、最後にどんでん返しをする。
ん…ちょっと例えを入れないと難しいなぁ…。 シェイクスピアの『ベニスの商人』でいえば、 シャイロックへの判決がいい例になるかな。 「わかった、肉はやる、切りとれ、しかし血を一滴も流さば殺すぞ」 ってやり方はつけ上がりには有効だよね。
優しい上司、先輩はけっこうなことだけど、 肝心要のポイントで、ピリっとわさびを効かせられなければ、 若手の増長は抑えられない、と思うね。
このつけ上がりってのは自分のことでもあるんだけどねw

生きることとは いかにして死ぬかということだ
小助の日記 2007年03月1日

とうとう3月になりましたね。 年度末でどのお仕事も忙しい時期かと思います。 はやいものですねぇ…。失業していた1ヶ月があっという間でした。 こんなに仕事をしなかったのは17歳のとき以来ですから、 もう8年もずっと仕事に明け暮れてたんだなぁ…としみじみ。 さぁ、来週からはいよいよ仕事です。 2月の日記では、55件のコメントをいただきました。 コメントをくれた方に感謝です。 今日はボランティアに行ってきました。 いや〜楽しかった。みんな活き活きしてたなぁ…w これぞ福祉の真髄…そんなものを見たような気がしました。 例え障害を持っていても、決して社会のお荷物なんかじゃない。 援助を受けなければ生きていけないわけじゃない。 自分の力で、社会に貢献していくことが誰だってできる。 人はそれぞれに固有の価値があって、 比べることそのものが無意味なんだ。 誰だって、生きる価値は必ずあって、必ず役に立てる。 それは障害を持っていようが持っていなかろうが、全く関係ない。 そんなの頭のなかではとっくの昔から分かりきったことだったけど、 現実に目の当りにして、生きることの意味をまた知った気がした。 私は障害をもっている。だからそんなことを思うのだろうか。 健常者といわれる人たちはそんなこと思いもしないのだろうか。 職員との話で、近年の日本の自殺率の話題が出た。 私は幼い頃からずっと「お前は生きる価値のない人間だ」と罵られ、 暴力と孤独のなかで育った。 生きる価値をずっと見つけられずにいたのに、結果的に生きてきた。 常に死と隣り合わせの生き方をしてきた私にとって、 人間なんていつ死ぬか分からない。明日死ぬかもしれない。だから今を。 とにかく今を精一杯生きなければならない。 そう悟って生きはじめたとき、人間いつ死ぬか分からないんだから、明日死ぬかもしれないのに、今死のうなんてなんて無意味なことだろうか。そのときがきたなら、勝手に燃え尽きるだろう…。 誰しも、自分の死を遠いものと思い込んでいる。 本当はいつ来るか分からないのに。だから生き方を大事にせずに無駄に時間を浪費したりするし、だから自殺してしまうのではないだろうか。 自分で終えなくても、勝手に終るのに…。 どう生きるかは、どうやって死ぬかということ。 だとしたら自殺も1つの死に方。それを美学としている人がいるなら、 それは否定できないのかもしれない。 ただ私はこう死にたいと思ったとき、こう死ぬために、 こう生きなければならないと、ただ前を向いただけなのかもしれない。 生きるということは、いかにして死ぬかということ。 人は、生まれたときから死へのカウントダウンがはじまる。 死を見つめたとき、生き方が見える。

あなたはあなたでいることが 最もすばらしいことだ
小助の日記 2007年03月2日

昨日は『生』の話だったけど、今日もその『生き方』についてだらだらと語ってみたい。 ボランティアで施設に行って、年輩の方が信じられないと話していたのが、自分の子どもに一番大事なものは何かと聞いたときに、「お金が一番大事」と答えたことだ…という。 私はそれを聞いて驚きもしなかったが、言うまでもなく、私自身の人生でお金なんて大して大事なものではない。 その人との話のなかで、1つの結論が出た。
『生き方』についてしっかりと考えている人が少ない。ということ。 結果的に、 流行に流され、自分自身というものを持っている人は少ない。 いやいや自分は…という人もいるかもしれないけれど、 人からどう思われるか…気になって仕方がない。 人から嫌われたくない…どうしても自分の本音を話せない。 人と違ったらどうしよう…自分もみんなと同じでいたい。 あの人がこうだから私も…輪の中にいないと自分を維持できない。 なんて人ばかりのような気がしてならない。 私からすると、どいつもこいつも同じ顔をしている。 あなたはいったい誰なんだ…? お金や地位や名誉、建前などに強く固執する人はやはり多い。 ふと思えば、 保育園で働いていても、そんな社会の現状に、頷ける。 「みんな食べてるでしょ。だから食べなさい。」 「みんなお絵描きしてるでしょ。だからやりなさい。」 そんな怒鳴り声がよく聞こえる…。 『しつけ』の意味を分からない大人たちばかりなのに、 どうして子どもたちは『生きる意味』を感じていけるだろうか…。 そんな自我同一を果たせない子どもたちの辿る末路は目に見える。 私はといえば、あまりにもアイデンティティが強すぎる。 アイデンティティとは、自我同一という意味で、 私は、『自分は自分』というのをしっかりと強く持っている。 それがときとして人に大きな影響を与えたりする。 その影響がよいものばかりであればいいが、 人を故意にではないにしても、深く傷つけてしまうことも多い。 それでも、私は私を否定しない。 私は私でいなければならない。それでなければ私は私ではなくなってしまう。 「あなたは普通じゃない」とよく言われる。それが私にとっては一番の褒め言葉かもしれない。だって、だからこそ私は私なんだもの。 人と同じ格好をするのも嫌(全く流行に流されない)だし、 人に媚びるのも嫌(グループなどにはいっさい属さない)だし、 常に、自分だけの発想を自分に求めている。 『生きる価値』にとらわれた屈折した私の生き方なのかもしれない。 ただ、アイデンティティがなければ、自分を大切にできないし、自分を大切にせずに、自分を否定してしまえば、人の人格さえも否定してしまう。 愛さない人は愛されない。 自分を肯定できない人は、他人さえも肯定できない。 自分の『生き方』に誇りをもっていなければ、どうやって人を導いていけのだろうか…。 私たちが子どもたちに育んでいける『生きる力』とはいったい何だろうか…。ちょっとのことで傷つき自殺していく子どもたちが悪いのか?それともいじめる人間が悪いのか? 私たちは社会を育てることが仕事だ。 私たちが最後の砦なのだとしたら、子どもたちを決してひとりぼっちにして、後戻りさせてはいけない。 あなたはあなたでいればいい。私は、あなたが好き。 例えどんなことがあろうと、私はあなたの味方だ。

やりたくないなら やらなくていいよ
小助の日記 2007年03月5日

「先生、何で勉強しなきゃいけないの?」 私が講師をしていたとき、子どもから幾度となく聞かれた質問だ。 私は教育者の端くれとして、もしかしたら失格だったのかもしれない。 「勉強なんて、やらなきゃいけないことはない。嫌なら無理にやる必要はないんだよ。」それがいつもの私の授業だった。 私の授業では、勉強することの必要性を否定し、勉強をすることの意味を説く。 私は、中学生までほとんど勉強をしたおぼえがない。 高校受験のときには担任から「行ける高校はありません」と言われていたほど…。実際に高校受験で私立や公立に合格すると、担任は涙を流していた…。よっぽど信じられなかったんだろうなぁ…本人はのんきに受けてたんだけど。 そんな私が講師をやろうっていう発想がおかしな話だが、 そんな私が講師をやっていたのだ。 それも面白い話で、 私は就職活動といえるような活動らしい活動はほとんどしたことがなくて、 大学を卒業してから講師を含めて保育の仕事もいくつか変っているけど、 履歴書を大きな武器として、面接でほぼ合格している。 面接での合格率は100%を誇る。 それを象徴しているのがこの講師になった経緯。 私は採用試験で0点だったのに、「履歴書がよかったから」という 理由だけで雇われた。小中学生。たまに高校生まで。 ほぼ全ての科目を教えていたのだが、 採用試験で0点だっただけでなく、 私は中学生まで勉強をしていなかったのだから知識も何もない。 そんな私が本来、勉強を教えられるわけがないのだ。 にもかかわらず、生徒が講師を選ぶ『指名』なるものがあって、 一時期この『指名』が多くて自分を苦しめたほどだった。 そこには、おそらく私には大きな武器があったからだと思う。 「できない子の気持ちを分かってあげられる」こと。 そして、高校を首席で卒業した「やればできる」という自信。 講師として子どもと向き合える時間は、1週間のうちたったの1時間程度。 だとしたらその1時間以外の全ての時間を子どもたちは自分の力で やっていなかければならない。 どんなに高度な教え方をしたって、一時的に覚えさせたり理解させたりしても、子どもたち自身に自分でやっていこうとする『前向きさ』がなければ、決して伸びてはいかない。 私の授業は、例え「英語」の授業でも、ただ子どもと『生き方』について話すだけの「道徳」の授業…というかただの説教だった。 私は一流大学出の超エリートではないのだから、学力で他の講師と争ったって仕方がない。私には私なりの役割があると信じていた。 子どもたちを前向きにさせながらも同時に勉強もしっかりと教えられる講師もたくさんいるだろう。 親の期待や成績といった、結果が求められる業界では、私は講師失格だったかもしれない。 だけど、それが私の精一杯の授業だった。 保育をしていて、子どもたちの好き嫌いがヒドい保育所に勤めたとき、 保育士は子どもたちを威しながら、泣かせながら食べさせていた。 私は、いつも「食べたくないなら食べなくていいよ」というスタンスを崩さなかった。だけど、結果的には全て食べさせる。それが私のやり方。 いかにして『前向きに』させて、発想を転換させてやるか…。 よく考えてみれば、講師のときと同じ。 口に入れて不味くて吐き出すようなものなら食べなくていい。だけど食わず嫌いは別で、子どもの好き嫌いは、食わず嫌いが大部分を占めている。克服するには、いかにして口に入れるかが勝負。だけど無理強いはしない。 どんな食べ物だって、食べなかったからといって死にゃしない。 けど、食べるということには意味がある。 必要性は否定しても、意味だけは説く。 どうしてやりたくないのか考えてみよう。 これをすることに何の意味があるのか考えてみよう。 それを分かったとき、やるかやらないかを判断するのは、あなただ。 さぁ、やりたくないなら、やらなくていい。

優しさとは 勇気と努力を培う強さにほかならない それを愛情ともいうのだ
小助の日記 2007年03月7日

昨日の夕方はジムデビューしました。 仕事からの帰りにジム(トレーニングルーム)へ寄って、様様な機具の使い方を教えてもらって一通りやってみました。 3時間で300円なので使い方しだいでは決して高くはない。初回はとりあえず1時間やりました。最初の30分は機具を順順に使ってみて楽しみました。 ただ目的だった「汗をかくこと」は叶わず、最後に残りの30分(実際には20分間)走りました。20分間で3.02km走り、少しは汗をかけたのでよかったです。高校のときには20分で6km(自己ベストは6km20分14)走っていたので、7年のうちに、体力は半分になっていたわけです…w 高校のときにあった胸囲100cmも、今では90cmほど。ちなみにウエストは54cmでしたが今では60cm越え(肥え)ましたwもともとは筋肉質ですが、それでも贅肉が気になるので、これからちょくちょく行こうと思います。 さて、3月5日から働きはじめた保育園のことですが、 なかなか面白いですw何が面白いって、やっぱり認可外保育施設での勤務がはじめてだったことと、もともと法学部出で制度などに強い関心があることからでしょうか、まず気になるのは保育内容以外のこと。 書類選考があったはずなのに、面接のときもそうでしたが、聞かれることは全て履歴書に書いたことばかり…w読んでねぇのかよ、いくらなんでもそりゃちょっと失礼じゃないかな…。なのでいつも「履歴書にも書きましたが…」という答え方をしていますwとはいえ理事長とは初日以来会えてもいません。 理事長に会えていないのもあって、もう3日経ちますが、未だに契約が正式に交されていない。休憩時間一時間きっちり給料から引かれるようなのですが、誰も一時間とっていませんね。やっと自分の仕事ができるとばかりに忙しそうです。保育園はどこもそうだからなんてことは理由にならない。法に違反(人権侵害)してまでしてそれが誇れる職種と言えるのでしょうか。社会において、重要な職業であるならば、それ相応の恥かしくない労働者であるべきです。 本も出ている保育園なので、保護者や地域社会とのつながりも強く、それなりに有名な保育園なのですが、やり方には賛否両論あるものの、よくも悪くもその大きな評価とは裏腹に、労働条件、労働環境の劣悪さは、今までの保育園のなかでも一流ですw 『やりがい』がずば抜けている分、保育士の表情はとっても活き活きしているのがこの保育園のすごさでもあると思いますが…w 5歳児クラスの担任が怪我で休んでいるとのことで、3月いっぱいは5歳児クラスに入ることになったのですが、それもはっきりとした指示ではなく、新人研修などあるはずもなく、右も左も分からないのに、ただひたすら子どもたちと関わっています。 全くの新人ではないにしても、突然ふと「今何すべきなんだ?」という瞬間があるのです。そんなときに近くに誰もいない。一日中全く何の指示もない。近くにいた職員に聞いても応えそのものが曖昧で分からない。いったいこの組織における私の役割は何なんだ…? その企業(保育園)に新しく所属することになった職員にたいして、 その組織の方針やルールであったり、仕事においての役割などを研修するなど、企業において最低限使える人材として、子どもたちの前に送り出す作業、最低限の教育が必要だと思うのです。 労働者をバカにしているとしか思えない…そんな保育園。 それが3日経った私の評価です。 ただ子どもたちとの関係は実に楽しい。知的障害の子を含めてなかなかユニークな子が揃っています。担任がかわったということもあってかワイワイガヤガヤと一日中慌しく、落ちつきがありません。当然私のような新人には子どもたちからの冷たい洗礼があるのですが、それでこそ私の力が発揮される。3日目にしてちょっと手応えを感じています。だって、心にさえ訴えかけられれば、必ず分かってくれる子たちですから。強く、優しく、正面からぶつかっていますw 認可外保育施設で働いていた頃、5〜6歳の子たちに言われたことがありました。「先生は、すっごく優しいけど、すっごく厳しいよ。」と。私にとっては、それはこの上ない褒め言葉。 『優しさ』と『甘さ』は全く違う。そして『甘やかす』と『甘えさせる』も全く違う。私は、優しい。だけど決して甘くない(甘やかさない)。それはときに厳しく、強く、子どもたちの心を動かす。そして甘えさせるときにはとことん甘えさせる。それはまた、子どもたちの心を動かす。 信頼は、成長は、安心感の上だけに花を開かせる。 だから私は強くあらねばならないのだ。

保育とは 社会を育むことにほかならない(1)
小助の日記 2007年03月13日

やっと一週間が終りました。新しい環境(認可保育園での勤務)も、持ち前のハートで、子どもたちの心をつかんで、なじんできていると思います。 ものすごい慌しい5歳児クラスですが、大人(保育士)がたまに私一人になるので、そのときとばかりに力を発揮して、子どもたちを統率していますwすると、クラスに帰ってくる担任(代理の担任ですが)が「あれ…何だかおりこうさんになってるね…(苦笑)」と驚いています。私はあくまで保育補助士なので、普段は担任(代理)の側で掃除したりテーブル運んだり、障害児の側についていたりと、どんなに慌しい状況になっていても、担任の方針(?)に任せています。子どもたちはいつも大人の言うことなんて聞かずに暴れまわっています。その保育園では大人(保育士)を「先生」と呼ばせないという方針で、大人は子どもより偉くないから上に見させるようなことはしないらしいということらしいです。大人(保育士)でも、○○くん、○○ちゃんって感じです。子どもたちは大人だけに限らず、学年が上の先輩に対しても全く気兼ねなく、子どもだからってこともありますが、年上の人に対する敬意なんてものは全くありません。それはいいとしても、秩序は全くないと言ってもいいと思います。確かに、いまどき流行りの自然に囲まれて自由奔放でのびのびって感じの保育園ではあります。私も子どもたちがやりたくないことを無理強いしてやらせるようなことはしないですが、そんな私から見ても、どうも『自由』ではなく『放任』のように感じます。ずっと座ったまま子どもたちを眺めているだけで、子どもたちが自主的に気づいてやり始めるのを待つか、結局最後まで暴れさせておくか…。 確かに、先生だからってだけで偉そうにしているのはおかしい。だけど、やっぱり先生は先生であるべきなんじゃないかと思う。子どもたちに伝えていけること、教えていけること、それは私たち自身。私たちが生きてきたなかで、学んできたことを、身をもって伝えていくことができる。『先』に『生』まれただけなんだけど、だからこそ伝えていける。それが『先生』なんだと思う。先生と呼ばせないということではなく、先生と呼ばせても何が大切なことなのかをしっかりとそれぞれの先生が分かっていればいいのではないだろうか。

保育とは 社会を育むことにほかならない(2)
小助の日記 2007年03月14日

やっと雇用契約書を交すことになり、時給も決まり、働きはじめてまだ一週間ですが、早くも3月末に初給料。 しかし難点は、休憩時間にばっちり1時間分の給料が引かれているにもかかわらず業務を託されること。卒園式間近で忙しいからと思い断らずにいましたがどうやら違うようです。 人を相手にしている仕事だからってこともありますが、かなりの保育園じゃそんな状況でしょう。もちろんそんなことは分かっています。しかし私はそんな状況に甘んじない。理事長に直談判する予定です。 なぜ私がそんなことにまで固執するのか。きっと3年前までなら休憩なんて必要ない、と仕事を喜んでしていたでしょう。 それは給料がもらえるからとかもらえないからとかでもないし、仕事が好きだからとか嫌いだからということでもない。 今の保育園で5歳児クラスに代理で担任している主任保育士がこんなことを言いました。「保育士は人を育てる重要な職業なんだからもっと社会に認められてしかるべきだ。」と。 確かに社会的に重要な仕事であることは誰も異存はないでしょう。福祉という分野であることから、特に国からの補助が(税金から)支給されている認可保育施設は営利目的ではないため、どんなに重要な仕事だとしてもそれと比して給料が高くなるなんてことはない。 認可外保育施設などは、保育だけのみならず様様にサービスが多様化し、サービス業の要素を多くもつようになり、その給料も高いところは高い。 それにしても全体的にはやはり保育士というのは低賃金労働です。 しかし、 主任保育士が放ったその一言が、全てを物語っているように感じます。主任保育士が言った内容は、まるで他人事のようで、なぜ自分で認められるような動き(働きかけ)をしないのだろうか。長年保育士をしてきたんだろうけど、認められないのは、あんたの責任だろ…と私は思いました。 それは、この業界が未だに『女性の職場』といわれることに大きなつながりがあるとも思います。 産業革命以降の歴史のなかで、労働者は雇用者と戦い、ときには団結し組合などをつくり、労働者としての権利、人権を獲得してきました。 働き手がストライキでも起こせばその企業は大きな痛手を受ける。そんな戦いで労働者が勝ち取ってきた『当然の扱い』も、まだまだ保育士という職業では改善されていないことも多く『不当な扱い』が多い。 かつては不当労働なんてどこにでもあったのだろうが、どうして未だに保育士はこんな状態なのであろうか。 そこには、保育士、かつて保母といわれていた頃、保育が『女性の仕事』だったからなのではないか、と私は思います。女性は、結婚して子どもを産む。それが最も幸せな生き方。とされていた時代があった。その風潮が完全に消えたわけではありませんが…。そんな時代の保母(保育士)は、当然、『使い捨て』だったのです。 今でこそ、男性が徐徐に保育士として就くようになったり、価値観も多様化し、結婚や出産が当たり前の世の中ではなくなりつつあり、女性も様様な生き方を選ぶことができるようになってきました。例え結婚したり子どもを産んでも、保育士として長く続ける人も増えてきています。 しかしかつて『使い捨て』だったことが未だに尾を引いています。「結婚すれば辞める」や「子どもが産まれれば辞める」などの考えが強かった頃、労働者が労働者としての権利を主張しようと強く働きかけることができなかったのでしょう。いや、する必要がなかったのでしょう。例え給料が低くても、不当な扱いがあったとしても、「結婚すればどうせ辞めるし…。」となっていたのではないでしょうか。毎年毎年、短大や専門学校や大学を卒業した若い人材が大勢保育施設に就職し、当然、その数だけ入れ替るわけだから、辞めていく人も大勢います。 辞めていくのも、給料が低いから…という理由も多いでしょうが、それは自ら甘んじてきた労働者の責任であり、それこそが「未だに社会的に認められない」職業であり、時代がかわっても、『不当な扱い』が当然のように罷り通っているのです。 休憩時間に仕事をすることを保育園側が容認、あるいは強要しているのだとしたら、それは立派な人権の侵害です。 人を相手にしていて、忙しい職業…なんて保育士だけじゃありません。だけど、子どもたちの人権を守ろう!!なんて言っている私たちが、私たち自身の人権を侵害していては、何を子どもたちに伝えていけるのでしょうか。 この仕事は、社会を育むこと。だとしたら、私は戦わなければならない。

認可と無認可の違いって何だろう(1)
小助の日記 2007年04月13日

認可と無認可ってどう違うんだろう…?保育士になろうと勉強している人や、 子どもが生まれて保育園を探している人なんかには、そういう疑問に直面した人も きっと少なくないのではないだろうか。
認可保育園というのは、正式には認可保育施設といって、簡単に言えば国に認められている保育所、保育することを許可されている保育所ということになる(正確には、児童福祉法第35条第3項に基づき区市町村が設置を届け出た、または同条第4項に基づき、民間事業者等が都道府県知事の認可を受け設置した児童福祉施設)。 児童福祉法第35条に基づく児童福祉施設で、保護者等の就労や疾病などにより保育できない児童を保育することとし、入所を希望する場合、保護者の居住する区市町村に申し込みをする。 つまり認可保育施設というのは、事情があって保護者が保育しきれない子ども、つまり保育に欠ける子どもを、区市町村(役所)に申し込んで、OKが出れば預けられるというわけだ。
一方、無認可保育園は、正式には認可外保育施設という。とはいっても認可外という言葉はあまり広く知られていない。 しかも保育園そのものの名前は、○○ベビーホテル、○○ルーム、○○クラブ、○○保育室、○○保育所など様様だ。 児童福祉法に基づく認可を受けていない施設で、保育に欠ける事由の有無に関係なく、保育を希望する保護者は施設に直接申し込む。 つまり、預ける特別な事情や理由がなくても、直接保育施設に行って申し込んで、OKが出れば預けられる。最近では英会話や体操など、教育に力を入れた乳幼児のための保育施設もあり、保育施設とはいっても認可外保育施設の場合には塾や習い事を思わせるものも少なくない。
認可保育施設に預けるためには、保育に欠ける特別な事情がなければならないわけだから、家庭の状況(母子家庭か父子家庭か、または家族がどれだけいるのかなど)、家庭の収入(稼ぎはどのぐらいなのか)、それによって生活がどれだけ困っているのか、 など、ある程度の審査があって、それを考慮された上で認可保育施設への通園を許可される。 認可保育施設の定員を越えた入園の申し込みがあった区市町村では、当然、待機児が出るわけで、 稼ぎが多い家庭や、特別な事情がない家庭では、子どもを預けることができない場合も出てくる。 認可外保育施設の場合には、定員を越えていなければ基本的には即預けることができる。審査などもないわけだから何日も何ヶ月も審査結果を待つという必要もなく、 契約を交せばすぐに利用することができるわけだ。
では具体的にはどういった違いがあるのだろうか。 違いの一つは、預けられる時間や曜日。認可保育施設では特に公立の場合、勤めている保育士は公務員なわけで、土日はもちろん休みだし、 働く時間もきっちり決まっている。すると早朝や夕方はパートで何とかやりくりするわけだ。 私立の認可保育施設だって、やはり延長保育や一時保育などのサービスは、規定に従って運営されるわけだから、 個個のニーズには応えきれない面がある。 認可外保育施設は、逆に土日もやっていたり、早朝から夜遅くまで、または深夜から朝まで24時間やっているところもあって、 サービスという面では個個のニーズにより応えられるようになっている。
大きな違いは保育料。
認可保育施設は私立も公立も応益負担。つまり家庭の収入(稼ぎ)によって保育料が決まる。 認可保育施設はだいたい2〜4万円と考えていいと思うが、応益負担なので家庭の経済状況によっては一銭も払わない(払えない)場合もあるだろう。 大幅な公的資金補助があるために、保育料は比較的安いというわけだ。 そして公的な資金補助があるのだから、認可保育施設というのは、特に公立は、経済的には安定している。 認可保育施設に子どもを預けたいという理由の一つには、こうした保育料の安さもあるし、また、保育士が公立の保育園に勤めたい(つまり公務員になりたい)というのも、 公的補助(税金)によって運営されているわけだから給料も安定しているからということが言える。
では、認可外保育施設、いわゆる無認可保育園ではどのぐらいの保育料になるのだろうか。 認可外保育施設は応益負担ではないので家庭の収入(稼ぎがどのぐらいか)は一切関係ない。 保育料の設定は各保育施設が独自に行う。 公的補助はほとんどないので、認可保育施設と同じように利用した場合を考えると、5〜7万円ぐらいはするだろう。 東京都の認可外保育施設の保育料の平均が6万5千円と調査での結果があったが、 東京都では月額10〜15万円程度の保育料になることも充分考えられる。 企業や官庁、または大学などが運営している認可外保育施設では、 機関の補助によって保育料を抑えている場合もあれば、受益者負担になっている場合もあるが、 いずれにしても、詳しいことは各保育施設にお問い合わせみなければ全く分からないというわけだ。
こうしてみたとき、 認可保育施設に預けるには何かと面倒だし、 東京都などの大都市では設置が困難だったり、また0歳児保育を行わない保育施設があるなど、 都民の保育施設にかかるニーズには必ずしも応えられなかったり、 また、神奈川県横浜市などでは待機児の全国順位で毎年上位にランクインするなどの問題があった。 そこで、 東京都では認証保育施設、横浜市では認定保育施設(いわゆる横浜保育室)など、独自の基準を設定し、 東京都認証保育施設では都と区が補助し、横浜保育室では市が補助する保育施設ができた。 認証保育施設では、原則13時間以上開所していて、認可保育施設が11時間なのに比べてやや長い時間預けることができる。 0歳から入所できることも特徴だ。横浜保育室も0〜2歳を対象とした小規模の保育施設で、 認可保育施設に入れなかった待機児を預かる受け皿として大きな役割を果たした。 保育料の設定は各認証保育所が行うのだが、補助金が出ていることもあって上限があり、 ある程度は認可外保育施設よりは安くなっている。だいたい横浜保育室で月額4〜6万。東京都認証保育施設で月額7〜8万円程度だろう。
認証保育施設は、厳密にいえば認可外保育施設なのだが、 公的補助がなされている点では認可保育施設に近い(補助対象施設は東京都認証保育施設や横浜保育室以外にも、家庭福祉員などもある)。 しかし認可保育施設の保育料が応益負担なのに比べて、認証保育施設もしくは認定保育施設の保育料は各保育施設が上限の範囲内で独自に決めている点では認可外保育施設に近いといえよう。 東京都の認可保育施設と認証保育施設の違いについてより詳しい情報はこちらで紹介されているので参考までに。
http://www.fukunavi.or.jp/fukunavi/contents/tokushu/ninsyo/ninsyo_02.html

認可保育施設認可外保育施設認証/認定保育施設
児童福祉法第35条に基づく
児童福祉施設
児童福祉法に基づく認可を
受けていない施設
児童福祉法に基づく認可を
受けていない施設
都道府県知事に許可された保育施設国および都(都道府県)または市の認可または認証(認定)を受けていない保育施設都(都道府県)または市の
認証(認定)を受けた保育施設
施設の目的
申込の条項
保護者等の就労や疾病などにより保育できない児童を保育すること目的は様様で設置者が自由に設置。条項は基本的にはない都(都道府県)または市の認可保育施設の抱える問題を解消するため
申込の方法保護者の居住する区市町村(役所)に申し込む
申込者が定員を上回る場合は区市町村が選考
各保育施設に直接申し込み直接契約を結ぶ各保育施設に直接申し込み直接契約を結ぶ
※保育料応益負担(2〜4万円)
0円の場合もある
5〜7万円
東京都だと10〜15万円の場合も
4〜6万円
東京都だと7〜8万円
※開所時間9〜17時
11時間
7〜22時
12〜24時間
7〜21時
13時間以上
※保育料、開所時間に関しては、認可外保育施設の場合は、だいたいの目安でしかないので、実際には各保育施設に問い合わせてみなければ確かな料金や時間は分かりません。

認可と無認可の違いって何だろう(2)
小助の日記 2007年04月18日

認可と無認可だったらどっちに預ければいいのだろうか。 ほとんどの方が、子どもを保育園に預けようかなと考えたとき、まず思い浮かべるのは認可保育施設だろう。 認可と無認可の違いって何だろう(1)でも延べたとおり、そもそも認可外保育施設は児童福祉施設ではないため、正確には保育園ではない。 おそらく「認可は保育園。無認可は託児所かな。」というぐらいの印象だろう。 では実態はどうなのだろうか。
認可保育施設は先に述べたとおり、国に保育をすることを許可された児童福祉施設。 目的は、保育に欠ける子どもを預かり、子育ての第一義的な責任は親にあるとしてあくまでその補完的立場で保育を提供している。
ところが認可外保育施設は、設置の目的は様様で、乳幼児もしくは少年(小学生)を預かるのだが、英語やら体操やら、保育のみならず提供するサービスに特色をもたせているところも少なくない。 逆に、四畳半の部屋からでもはじめることができるので、ただ預かっているだけという(定義の上では保育とはいえない)託児所もたくさんある。 認可外保育施設は託児所という印象が強いのも否めないし、 一時期痛ましい事件が認可外保育施設で度重なったため、認可外保育施設、いわゆる無認可保育園は危ない。という固定観念もいまだに根強い。 ところが、現代にあっては、認可外保育施設は様様なだけに、認可保育施設よりよっぽど保育園らしかい場合もあったり、 また家庭のニーズにより応えられるという売りを持っているところも多いので、 あえて認可外保育施設を選ぶ家庭もある。 多様化する価値観、保育園にかかるニーズの多様化に、いかに応えていけるのか、 サービスの質は高まり、人気を呼んでいる場合もある。 ところがサービス化されることにより、子育ての第一義的な責任は親にあるということへの親(保護者)の自覚は低下し、 何でもかんでも保育園に頼り、何かあれば当然のように保育園を非難するようになっているという懸念もある。 もちろんそうした保護者への対応は、なにも認可外保育施設だけが抱える問題ではなく、 様様な価値観の多様化により、認可保育施設でもその時代の転換期に振り回されているといわざるをえない。
保育園に預けるときに一番ネックになってくるのは、当然保育料だろう。 認可保育施設は応益負担(家庭の収入)によるわけだから、場合によっては無料だ。 貧困や孤児を養護または教育することからはじまった福祉施設なのだから、 こうした経済的に苦しい家庭において、子どもを預かってほしいというのは切実な願いであり、 またそうした子どもを預かってこそ福祉施設といえよう。 しかし、現代にあって、貧困に苦しんでいるから子どもを預けたいというケースは割合的には少ない。 少子化は進行しているにもかかわらず、待機児童(待機児)数は高まっている。 地域の稀薄化、核家族化などの家族家庭の変化、価値観の多様化、これら様様な要因により、 かつては当たり前とされていた生き方への価値観や普遍的な秩序は崩壊し、 『福祉』というものの捉え方も、幅広くなっていった。 「働きたいから」という理由で充分保育園に預けることができる世の中になったわけだ。 だとすると、預けるときにそこまで経済的なことを気にせず、 いかに自らのニーズを満たしてくれるかで決める方も少なくない。 例えば夜21時まで開いているとか、朝は7時から開いているとか、24時間やっているとか、 それなりに保育料を支払っても、自分になるべく負担のかからない方を選ぶことも今の時代ならではだろう。 それに認可保育施設とはいってもちょっと昔の託児所とはまるで違って、 まるで習い事のような様様な特色を付けて、いかに選ばれる保育園であるかということに力を入れ、 親も将来を考えてわざわざそうした認可外保育施設に入園さえる場合もある。 認可と無認可の違いって何だろう(1)でも記述したとおり、 認可保育施設への入園にはそれなりに審査があるわけだが、認可外保育施設なら定員にさえ達していなければ、 基本的には審査はなくその場で直接契約を結ぶことができることも利点の一つだろう。 認可外保育施設は、良くも悪くも、本当に様様だ。 認可保育施設に子どもを通わせることが一番とはかぎらない。認可外保育施設だからってどこもが危険なわけではなく、 むしろ逆に認可保育施設よりもはるかに質の高い保育を提供していたりもする。 しかし、どこを選ぶかは、結局は親の判断に委ねられる。 じっくりと、子どものことを最大限に考えて、決めてほしい。
よい保育施設の選び方十か条はこちらで紹介されている。参考までに。
http://www1.mhlw.go.jp/topics/hoiku/tp1212-1_18.html

認可と無認可の違いって何だろう(3)
小助の日記 2007年04月18日

認可と無認可だったらどっちで働こうか。
認可と無認可の違いって何だろう(4)
小助の日記 2007年04月18日

認可と無認可だったらどっちが必要か。

お清の日記
3月10日(水)
今日はよく寝た。


☆ミルクのつくり方
使う物は、蓋、乳首、乳首の蓋、ビン、挟む、粉ミルク。
乳首を蓋にはめて引っ張る→この作業では、なるべく触らない。
@ビンに粉ミルクを入れる。
A熱湯を入れる。
Bくるくる振る。
C湯冷ましをする。
D温度の確認。

☆あげ方
自分がまず胡座(あげやすい格好)をする。
赤ちゃんにタオルをかける。
首の下に腕を置いて抱える。
待たせずに咥えさせる(早く欲しくて泣くからね)。
空気を飲まないように傾ける。→飲んだ量の確認。

☆ゲップ(排気)
@首が座っていないとき。
自分の首にハンカチを置き、抱えて肩で赤ちゃんの首を支えてあげて下から上へぽんぽん叩く。
A座っているとき。
膝に座らせて、下から上へぽんぽん叩く。
缶の中身は使い途中で、缶の中が少なくなってもそれを新しい缶に入れない。

☆おしめを変えよう
おしめかえ用の布があると便利。
ジーっとしてくれないからおもちゃ等で気を引く。
しゃっくりをしている時は、しているときが多い。
泣かなくてもしているので常に確認。手を入れてね。

☆布のオムツ
3ヶ月ぐらいは1枚でも厚くたたんでOK。いっぱい出るようになったらば、2枚重ねで。


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